キエフ公国の十字架

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 この夏の開眼・・・ちょっと大げさかもしれませんが。

 8月はじめの日曜日の朝、骨董市に出かけました。真夏日、地下鉄の出口から会場まで歩く途中でもう汗が流れ落ちます。この日のお目当てはウクライナで出土した11 〜 12 世紀の十字架、少し前、別の骨董市の会場でちらりと見かけ気になっていた。

 会場に着いてお店はすぐに見つかりました。店主さんに声をかけると、箱の中からビニールの袋を取り出して、中に入っていた小さな十字架を十数点、テーブルに並べてくれました。

 発掘品の青銅の十字架で表面は青錆に覆われていますが、長い年月、地中にあったにもかかわらず形状は崩れていない。

 

 見た瞬間、目に入ってきたのが上の写真の十字架。今、振り返ると自分でも不思議なぐらいコンマ1 秒もないぐらいの瞬間。 いきなり直球勝負でした。十数点を見比べたのではなく、即、これ!と、最初から決まっていたみたいな感じでした。

 それは、構成要素の部分、部分を観察したり、見比べるような分析的思考ではなく、瞬間的に全体を感じる統合的思考つまり直観ってことだったように思います。

 炎天下の強い日差しで、視覚の彩度感知力が異常にアップしてたのでしょうか、4 センチほどの小さな十字架ですが、光沢のある青い玉が5つちりばめられ、四方に金色の帯が光っている。 室内で撮った写真は、背景が真っ白ということもあり、どうも感じが違って見えてしまうのが残念。

 発掘品で土が付いているので、室内照明の下だとこういった色彩、見過ごしてしまうかもしれません。

 十字形の装飾された形状と、ガラス質のヌルっとした青、古色の鈍い金色。フォルムと色が一体になった存在、何て言えばいいのでしょうか、直観的に他のものとは別格の完璧な存在に感じられました。

 

  アンティークの十字架のコレクターがいるのは知っています。しかし、わたしには、あまり関心がありませんでした。

 2 年ほど前から、世界各地の古代の遺物を集めはじめ、そんな流れで骨董の店や市を覗いたりしていた。アンティークって、だいたい100年ぐらい経ったもののことを言うのですが、わたしが夢中になったのは、千年、二千年から新石器時代ぐらい前のもので、フランスやヨーロッパ各地のアンティークの十字架を見かけても、なんか新しすぎて(?)食手が動かなかった。

 でも、この十字架は、そういう目とはまた違った、直観的に惹かれる何かがありました。

 

  この十字架の上の方には、ペンダントを吊るすためのような輪がついている。調べると、当時、キリスト教文化圏では、エンコルピア(エンコルピオン)と呼ばれる、小さな十字架を鎖につないでネックレスのように吊るす様式が流行していたことが分かりました。

 青色と黄色はエナメル細工で、ビザンチン美術の宝飾品に用いられた様式です。

 ウクライナキエフは、中世のキエフ・ルーシー(キエフ公国)の首都で、東ヨーロッパ有数の世界都市として繁栄していました。ロシアという名は、キエフ・ルーシーのルーシーに由来しているそうで、歴史的には、現在のウクライナから枝分かれして出来た分家の国家がロシアということになっています。

 10 〜13 世紀頃、キエフ・ルーシーの職人たちは、その頃のヨーロッパでトップクラスの装身具製造技術を誇っていたとか。

 

   犬も歩けば棒にあたるというか、もともと質素な生活をしている自分のような者でも、好奇心の持ち方次第で、いろんなものと出会えるんですね。

 そうでした、開眼の話し・・・上に書いたような最初の直観、あたかも対象物(十字架)が向こうから自分の心というか魂に飛び込んできたように感じたあのときのインパクト、その感覚のことを別の言い方をすると開眼といえるのではないか、そんなふうに思っています。(この話しは続きます)

 

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江戸の石仏、見て歩き

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 以前、浅草を中心に向島、上野、千住、谷中界隈をよく歩きました。

 東京の下町を歩き回って感じたことですが、思っていたほどには昔の建物がありません。調べると、1923 年の関東大震災と1945年3 月10日の大空襲の二つの大惨事、さらに戦後の高度成長とバブル期を経て、江戸時代から明治、大正、昭和はじめの街並は大方、なくなっていることが分かりました。

 それでも、あちこち散策していると、古い時代の名残、雰囲気の残っている一角も僅かにあって、そんな神社仏閣を見つけると、なにかとても貴重な新発見したような気持ちになった。

 

  境内の片隅に江戸時代の石仏やお地蔵さんが並んでいる寺もあり、なんとなく気になっていた。多くは、目立たない場所に、忘れ去られたように置かれている。

 気になったというのは、素朴な作りの石仏がとても柔和な、清らかな表情をしているのに惹かれたわけです。

 写真は、ともに如意輪観音といわれる石仏で、「 半跏 」といって右脚を立て、右手を頬にあてたポーズ(これを「思惟」といってます)をしていることから半跏思惟像と呼ばれています。これらの石仏は、江戸時代の享保の頃、だいたい300 年ぐらい前に作られている。

 美術史の本を読むと、日本の仏像で高く評価されているのは、主に木造(木彫り)です。また、仏像の歴史を通観すると秀でた仏像は平安、鎌倉時代までで、江戸期は、すでに全盛期をすぎていて、型にはまった生命力の弱いものが多いといわれています。

 公(おおやけ)の評価は、こんな感じですが、こちらは門外漢ですし、我流の目からそれとは別の見方をしています。

 

 如意輪観音という石仏は、江戸時代も中頃になって、経済的な力をつけてきた町人の、特に女性の墓標として当時流行したそうです。そのあたり、野仏とは趣が異なります。

 名のある仏師がひとつひとつ作ったものではなく、無名の石工(職人)さんたちがたくさんの石仏を量産している。

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 この石仏のお顔は、よく観音様といってイメージする仏とはだいぶ違います。面長のうりざね顔、切れ長の目・・・浮世絵や錦絵の美人画を彷彿とさせる。

 そういえば、喜多川歌麿の「寛政三美人」の中のひとり、当時、江戸で一番人気だったおきたさんに鼻、眉、口元などよく似ています(上の写真は、「寛政三美人」に描かれたおきたさん。実在の女性です)。

 察するに、そんな容姿は、注文主の意向というか、好みを反映していたのかも。注文主は、貴族や武家、僧侶ではなく町民、いわば庶民でした。武士や僧侶は、身分、家柄、伝統や格式みたいなものに縛られて、そんなに自由な発想を持てなかったと思う。庶民だからこそ素直に自分たちの好みを選べたのではないでしょうか。

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  こういった背景を考えると、石仏といっても、仏教や宗教の世界からの目とはまた違った目で見ることもできるように思えます。

 石仏は、季節、季節、違った表情を見せてくれます。梅雨のころ、石仏を覆った苔が雨に濡れ深緑色に染まった姿も、真夏の夕暮れ、雑草に覆われ葉の隙間から垣間見る姿も、大寒の早朝、朝日の射した姿を拝するのも、春夏秋冬それぞれ違った姿を見せてくれます。

 博物館で鑑賞するのとは違い、気兼ねなく一人だけで間近に見れる。

 わたしは、木漏れ日の射した如意輪観音の横顔が好きです。木や銅で作られた仏像に日が当たるのとは違った、石の彫り、石の肌ならではの、沈思黙考の鎮まりに惹かれます。

 触ることもできる。彫刻って感触で感じるということもありなんですね。木陰で腰を下ろしながら眺めたりすることもできる。そんな自由さも気に入っています。

 

 ◎(最初の2枚)谷中の玉林寺・・・地下鉄「根津」駅から言問通りの坂を上る途中にある。本堂の裏手の傾斜地に樹齢700年のスダジイの古木があります。この裏手の一角は、そんなに広くはない敷地ですが、東京の中心部としては奇跡的に鬱蒼とした森が残っていました。

 石仏は、本堂裏手の傾斜地の階段に沿って並んでいます。ここに行く通路、時により閉まっていることもあり、そのときはお寺に声をかけてみてください。

 

 ◎(後の2枚)茗荷谷深光寺・・・地下鉄「茗荷谷」駅から歩いて3〜4分ほど。駅から坂を下った、ちょうど拓殖大学の正門の真向かいにあるお寺。この寺には、江戸時代のキリシタン燈籠が遺っていました。そういえばキリシタン屋敷跡もこの近く、なにか関係してたんでしょうか?。

 石仏は、寺の入り口の階段から脇に逸れた傾斜地に並んでいます。そのあたり薮(やぶ)になっていて、落ち葉や雑草の生えている土の地面で歩きづらいかもしれません。

 

 ここでとりあげた二カ所のお寺以外にも、石仏のある寺はたくさんあるので、散策してみると楽しいです。

 

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