大理国の小皿

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 日曜日、早起きして京王線高幡不動の骨董市にいってきました。水曜日、法華経寺の骨董市で下総の古寺の雰囲気が心地よかったので、今度は、武蔵の寺にといった気持ちになってのこと。

 真っ青な青空、駅前の商店街を少し歩くと多摩丘陵の紅葉した山と赤い五重塔が見えてくる。昔の絵葉書にこんな景色あったような、でも、なんか全体的に真新しい。由緒書きではずいぶん古いお寺のようですが、あまり抹香臭さがない。

 五重塔をはじめ大きな伽藍は、1975 年以降に建立されたということを後に知りました。

 境内は多勢の人、七五三の家族連れや紅葉を撮りにきたカメラマニアが目につく。土方歳蔵の銅像がありました。 身構えた姿は映画のワンシーンのよう。ここは日野市で土方歳蔵の故郷なので、ヒーロー像といった感じです。近藤勇の生家は、近くの調布です。

 武蔵(江戸、東京)の地面を掘ると、土の色は黒ではなく赤茶、関東ローム層の火山灰で、赤土と呼んでいる。武蔵は、原野の開拓地、ふつう使っているような意味での伝統とは切れている土地です。

 強いてこの地の伝統といえば、常にスクラップアンドビルド(新陳代謝)を繰り返していることでしょうか。武蔵の古寺でそんなことを考えました。

 一方、人がやってくる前の原野の名残りがこの地にはまだあります。都内でもいろんな所に、すごい巨樹や樹齢700、800年レベルの古木がけっこうあって、それは原野の時代が今も絶えていない証ですから。そんな木を眺めるのは好きです。

 

 そうそう、骨董市の話しでした。境内の参道沿いに骨董の露店が並んでいます。 最初の一区画をすぎたあたりで、向こうで手を振っている人がいるのに気づく。先日の馴染みの業者さんでした。法華経寺のときと同じパターン! あれからまだ4 日。

 結局、今度は五代十国時代雲南の小皿を持って帰ることに。焼き物に深入りするつもりはないのですが、つい手が出てしまいました。今回は、やっぱり、物としてのたたずまいということでしょうか。

 ちょうど立冬の朝陽がピンポイントであたっているところにこの小皿がありました。 口径に比して背が高く椀のようにも見える。同じ出自の別の小皿と壷、全部で3点、それぞれプラス、マイナスのポイントがあるのですが、すぐにこれだと思いました。

 

 五代十国といえば、唐と宋の間の時代( 907〜960 )でしたが、その頃の雲南は中国の域外で、大理国という国があった。大理石は、この地から産出される石ということですね。

 13世紀、モンゴル軍は、対立していた南宋を上(北)と下(南つまり大理国)から挟み撃ちにする戦略をたて、中原の西を迂回するコースから大理国に侵攻しました(反時計回り)。・・・この発想のスケールは、名将として知られるハンニバルやナポレオンなんかを遥かに超えている。

 ちなみに毛沢東の長征は、モンゴルとは逆のルート、中原を時計回りに迂回して延安に落ち延びました。長征の記録を読むと、延々、険しい山脈や密林、大河、大草原、湿原の沼を徒歩で行軍して行くのですが、今だと冒険ルートといっても過言ではない。

 長征は20世紀のことですが、その700年も前にモンゴル軍はよく踏破したと驚くばかりです。

 中国の地勢を大きなスケールで見ると、真ん中が中原で、東は海、西は砂漠とヒマラヤの壁に囲まれている。魏、蜀、呉の三国志の世界を一回りも二回りもスケールアップして作戦を立てたモンゴル軍の地政学的戦略は凄いと思う。大理国はモンゴル軍に降伏し、その後、南宋は滅び元の時代になります。

 そのとき大理国の遺民が南に逃れ、タイの建国に至るという歴史がありました。そういえば、皿の口縁に付いている二本の黒い線、どこか彼の地の少数民族の描く模様に似ています。

 これも今から7年前に持ってきたという発掘品で、前回と同じく広州経由。このあたりのやりとりは、「南宋青磁の小皿」に書きましたので省きます。

  業者さん曰く、最近は、向こう(中国)でも値段が上がって商売にならなくなってしまったとのこと。7年前、2010年は、中国がGDPで日本を追い越した年、上海万博のあった年でした。

 前回、今回の2点、共に大したものではないですが、少なくとも真贋(本物、偽物)は、はっきりしているので、自分のような素人には、よかったのではないかと思っている。中国陶磁器の真贋の問題は複雑で、正直、自信がありません。

 

 ところで、よくバーゲンなんかで「掘り出し物」 と言ったりしてますが、それって元を質せば発掘品のことですよね。

 さらに、発掘品を商いにした始まりについて考えてみました。それは、ピラミッドとか古墳とか、中国では明器といって副葬品がありましたが、そこから掘り出した物を売りさばいた、つまり墓荒らしというか、墓泥棒だったのではないか? 

 ついでに・・・一昔前の本を読んでいると、古い窯跡を探して、埋まった陶器を掘り出しコレクターや骨董屋に売る発掘屋という職業(?)の話しが出てきます。昭和のはじめ、車や機械などない時代、自転車で現場に向かい、スコップで穴を掘っていた。

 伝説的な人がいて、大晦日に大雪の中、山に入って穴を掘っていたとか、発掘に夢中になりすぎ奥さんに逃げられ、三歳になる子供をリュックに入れて背負いながら穴掘りしてたという。つげ義春の世界を十倍濃縮したようなディープさ、つい横道に逸れてしまいました。

 

 胴に釉薬の滴が這っていて、もともと大雑把に作られた雑器で、その上、(今のわたしたちから見ると)場違いな感じの模様が目立つ、土が膜のように表面にくっついている。一言でいって野暮ったい。

 でも、自分の目には、そんなところは気にならず、いいところ(と、思い込んでるところ)に惹かれてる。人と人の間でも、そんなことあるのではないでしょうか。あばたもえくぼ現象みたいな。

 言葉や文字でうまく表現できなくてもどかしいのですが、こぶりの椀ほどの密なスケール感、すくっとしたたたずまいの存在感。外に向かって広がっていくような目を引く存在感ではなく、内に収束していくような存在感です。そして、見込みにガス星雲状の藍色ーー菫青石のような色が広がっていて、逆さまにし下から見上げるとプラネタリウムのよう。・・・こういったすべてが合わさって、何か特別なものに見えた、そういうことなんだと思います。

 南宋の皿のときとは、全く関係ないこと言ってます。あのときは、物に具現している完全さ、普遍性、そんなこと書きました。今度は、物としてのたたずまい。

 物と出合って、自分の内に湧いてくる情感を探っていくのは、謎解きのようでもあり、内観のようでもあり、けっこう面白い。

 朝、日の光で見るのと、夜、スタンドの光で見るのでは違います。また、手で持ってみて、指で触って厚みを感じたり、見込みを摩ったり、地肌をルーペで観察したり、ひっくり返して高台を斜めから眺めてみたり、指で軽く弾いて音色を聴いてみたり、手のひらで包んで重さを感じてみたりと、そんなふうにいじってると、なんとなく全体的に掴めてくるように感じます。

 そういえば、「陶酔」という言葉、陶磁器に惚け、愛玩するあまり、酔ったようになってる人がいたということに由来してるのではないでしょうか? ふと、そんな気がしました。

 

   会場を一回りして、まだ時間は早いけど、小山の中腹にいい日なたの場所を見つけ休憩。道路を隔てた向いのおまんじゅう屋さんで買ってきた高幡まんじゅうの包みを開ける。蒸してあって温かい。             

 そうか、最後も同じパターンで写真を撮ろうとシャッターを切りました。  

 

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南宋青磁の小皿

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 京成線中山駅にある法華経寺で年二回、春秋に開催される骨董市にいってきました。      駅から続くなだらかな上り坂に沿って門前町があります。寺は、起伏のある地形の一角、まわりは小山でその底面にあたる敷地に境内が広がっていて、山門、五重塔や大仏、いくつもお堂が建っている。

 上野、浅草や鎌倉なども広い敷地に寺社が幾つも建っている所がありますが、観光客が多く、ここのような静かで鄙びた感じはない。木立に囲まれた境内は、日が陰ると山の中のよう。

 近世、開拓地の風土ということなんでしょうが、 関東にある社寺は、樹木が多いのと、武家文化の影響でシンプル(質実)な感じですね。以前、大阪の生駒山石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)にいったとき、呪術的なコテコテさ、派手さにびっくりしたのを想い出します(正直言うと、西の方が面白い)。

 参道にある茶屋は、昭和 30〜40年代のレトロな雰囲気です。ここに来ている本当の目的は、こんな雰囲気にひたるためだったような気がします。

 

   そうでした、骨董の話しです。これは!というようなものはなかったですが、素見しているうちに、南宋青磁の小皿と出合いました。南宋青磁といっても、大仰なものではなく、わけありの発掘品が巡り巡って、行き着いた先が自分のところだった、そんな話しです。

 なんだか行き当たりばったりっぽいですが、別にひとつの分野、ひとつのテーマを追っかけてるのではないので、70 万年前のホモエレクトスの石器から仏像でも書画でも古今東西、ピンと来たものなら何でもいいといったわけなので・・・。

 

 初日の朝でした。会場を歩きはじめてすぐ、向こうで馴染みの業者さんが手を振っている。こちらは、軒を連ねている店の陳列台に並ぶ品々に気をとられ下ばっかり見ているのですが、その業者さんは、少し高くなっている敷石の上に立って来場者の中に顧客はいないかチェックしてるので、すぐに分かってしまうのですね。

 いろいろ話しがあちこち飛んだ末のことで、細かい経緯は省きますが、上の小皿を持って帰ることに。 2010 年に中国の福建省の古窯を発掘して出てきたものだとか。その手の発掘品は、だいたい広州に集まっていたので、そこで仕入れてきたといった話しでした。

 こういう発掘では、焼き物がたくさん出てくるのだけど、その中で、特にいいものは、写真に撮り図録に載せ、展示のために保管する。あと、そんなではないものを、労賃として分配してるのだとか。

 現場で穴を掘ったり、運んだりする人にお金は支払われず、代わりに発掘品を現物支給し、働いた人は、それを換金してお金を得るのだという話しでした。たしか日本の漁村でも地引き網漁で、網縄を引っぱる人たちが、網元から労賃代わりに、獲った魚を分けてもらうといった話しがあったのと似ている。

 ああ、もしかしたら現実は、もっと複雑怪奇かもしれない。というのは、昭和7年、 今から80年以上前ですが、魯山人が日本の古窯を発掘したときの話しが思い浮かびました。そのことを書いている本の一節を引用します。

 「・・・発掘中に、完器もしくはそれに近いものはみんな持ち出され、売りに出されていたという評判は度々耳にした。発掘した出資人の愛好者魯山人の手もとには、屑の破片が送られて来ただけだったかとも見受けられた。」(秦秀雄『やきものの鑑賞』)

 察するに、人の世の常として、近年行なわれている中国の古窯の発掘も、現場ではこんなことになっているのではないか。 優品の中でもだんとつのものは、公にならないまま流出し、図録にも載らず、展示もされず、どこかに収まっているのかも。

 

 青磁といっても、青っぽくない青磁。微妙な色で、光によりベージュにもアイボリーにも黄褐色にも見える。クヌギの落ち葉の色のみたい。南宋青磁について調べていると、釉薬焼成の具合により、黄褐色に焼き上がったものがあり、それを稲穂の色に見立てて米色青磁というそうですが、そんな系譜になるのでしょうか。

 表面は、透明感のあるガラス質で、発掘品によくあるカセはほとんどない。伝世品ではないので、表面のスレやいわゆる「育った」(人の手元にあっことによる経年変化)感じもない。

 一方、目立った傷はないものの、胴についたへらで圧したような筋や、見込みにニキビのような小さなでっぱりがあったり、口縁の一部にちょっとカセている部分があると、粗も見え、まあ、そんなものなのでといったところでしょうか。

 

・・・実は、胴についたへらで圧したような筋ですが、これは作られたとき誤ってついてしまった傷とばかり思ってましたが、中国青磁と日本の茶の湯の歴史を書いた本を読んでいたら、珠光青磁と呼ばれ、侘(わ)びの美の原点に位置づけられている南宋青磁の特徴だということを知りました。

 民窯で作られた雑器で、青さのない、青磁としての魅力に乏しい色、胴についた筋、こういったそれまでの青磁の基準からすればマイナス評価のものに、室町時代村田珠光という茶人が、侘びの美を見いだしました。この新しい流れを後に完成させたのが利休ということになっています。

 観念の世界のことなので、無から有が作れるわけですね。誰かが、なんのへんてつもない雑器の茶碗を見て、これが侘びだと言えば、その瞬間から、それまでこの世になかった侘びという観念が現れる。

 その誰かは、ほんとうは誰でもいいのですが、とりあえずカリスマ性のある人か、あるいはカリスマ性があるように演じられる人でないと按排が悪い。

 これは価値観の逆転なのですが、例えばヨーロッパのニーチェマルクスニュートンアインシュタインピカソみたいな全力投球型の力技ではなく、直観的な、機転を利かした、あるいは即興の手品みたいな技で、そういうのが日本文化の特異なところなのかもしれない。付け足しですが、こういう技は『無門関』のような公案禅とは相性がいい。・・・横道に逸れました。

 

 この皿にピンと来たのはデザインがシンプルでモダンな感じ・・・ありきたりな話しに聞こえるかもしれませんが、そんなデザインにプラス、見た目、ピカピカ、ツルツルで、街の雑貨や100均の店で売っている新品みたい、約800年前の南宋の時代に作られたものとは思えない、そんなところに惹かれたわけです。

 中国の焼き物の歴史を俯瞰すると、ざっくり言って宋の時代と清の時代の二つのピーク(黄金時代)があったといわれている。二つのピークを精神的な面で唐から宋の時代、技術的な面で明から清の時代という理解をしてもいい。

 焼き物の本を読むと、どの本もそんな歴史観になっていて、それが業界(骨董というか古美術の業界ですが)の定説になっている。

 焼き物に限らず中国文化全体の歴史を見ていくと、「唐詩宋詞」といわれるように、唐から宋の時代が最盛期だったように思えます。

 宋詞といえば蘇東坡。この人は現代にも通じる隠者でした。老荘は人気はあっても、現代とは時代が離れすぎていて、リアリティという面では通じえないのではないかと思っている。

 疲れた晩、蘇東坡詩選のページをめくっていると、人間の生の営みを 21 世紀の現代人と同じところまで見つめ書いているのを感じ、その普遍性に引き込まれ、安堵する。

 

 

 宋の時代の陶磁器については、 高い精神性とか気品に満ちといった記述を目にするのですが、それがある物(陶磁器)を評する核心的な指摘だと思いつつも、それだけでは観念的、抽象的で、よく分からないまま、そーなんだと納得しているのが実情ではないでしょうか。

 でも、小皿を見てて、ふと、こんなことを感じました。過去に人間が作ってきた物を、その機能とデザイン(彩色)という二つの異なる要素を両立させながら、それぞれの要素を突き詰めた物として、そのバランス、完成度を具現している物を探す、万物をそんな基準の篩にかけてチェックしてみたら・・・そんな目で見て、これはいいと感じられる物を指して「高い精神性」と言ってるのではないか、こんなふうに解釈してみた。

 精神性といっても、例えば、神道キリスト教のような宗教的な境地と解するのではなく、あるいは芸術作品や工芸品、また白樺派的な民芸の目線なんかともちょっと異なって、その時代の実用品として作られた物の中に具現している完全さ、普遍性を言っているのではないかと思うわけです。

  800年前に作られたもので、いまごく普通に、違和感なく日常の生活に使われるものに混じっていても気づかないぐらい普通な物ということは、それが物として完全な域に達してるということではないか。 これ以上、新しくなることのない物。いつまでも古くならない物。

 帰ってから、この皿、どこで買ってきたか分かる?と聞いたら、ニトリでしょ、同じような皿、あそこで売ってたと言われました。その答えは、ある意味、いま書いてることの裏付けともいえる。それは時間を超越してるということなのですから。

 その物の形状、デザインが現代的で、かつ古色がついてない物。いつの時代でも、その時代に生きている人の目に現代的なフォルムの、新品に見えるような物です。

 いま身のまわりにあるもので、服、椅子やテーブル、グラス、カバン、靴、携帯、財布、工具、鍵と何でもいいですが、 それをタイムカプセルに入れ、800年後に取り出し、未来の人間にまったく気づかれずに、その時代の普通の物として紛れ込んでしまうような物、あるでしょうか。

 

 上の写真は、境内の茶屋の向かいの土手を上って林の中で一休みしたときの一枚。もらった温泉饅頭(まんじゅう)をのせてみた。

 まんじゅうの包みを開けると、栞が落ちてきた。なにげなく読むと、群馬の伊香保温泉の和菓子屋さんで、伊香保温泉の茶褐色の湯の色をイメージして明治43年に発案したと書いてありました。これが温泉まんじゅうの発祥だとか。

 倒木に腰かけ、崖下の茶屋で買ってきた温かいお茶を飲み、まんじゅうを食べる。

 

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猫つながり

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 昨日の朝、 松陰神社駅で電車を待っていると、対向側に猫の顔を描いた電車がやってきた。

 車体正面の人相ならぬ猫相、それに白目のところが黄色ってことから、沿線の豪徳寺の招き猫を模したペイントのよう。後で調べると、路線の開通 110 周年の記念でやってるとか。ついでに、「地域活性化」という名分も唱われてます。

 路面電車で渋谷までつながってた頃は、みんな玉電と呼んでたんで、これは猫電。ひとり胸の内で「猫電」「猫電」と反芻し悦に入ってた。

 この電車は、三軒茶屋が終点(というか始発)で、田園都市線に乗り換えるのですが、そっちの路線にはクレヨンしんちゃん電車が走ってました。自分が知らないだけで、全国いたるところで、こんなラッピング電車が走ってるでしょうね。

 ほんとうはどうでもいいことなんじゃないかと思うのですが、ラッピング電車の話しは、世間の、世の中の話題にはなるようで、事実、わたしが、こんなこと書いてるのも話題にしてるわけですから。

 じゃあ、元来、へそ曲りの自分が、なんで世間の話題に迎合(?)してるかってことですが、それはまた別のモチベーションがあるからでして、そのことは文末に書きますので。

 

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 渋谷から副都心線新宿三丁目駅丸ノ内線に乗り換え西新宿駅で降りる。用事をすましてから、ちょうど近くのビルでやっていた催しをのぞく。

 会場内で、ふと、あるテーブルの端に、眼を引くものが・・・場違いな感じで、文字らしきものの彫られた石板が置いてある。何かピンときた。往往にして、こういうとき面白いものと出くわすことがある。

 インド人の業者に聞くと、何だか分からないけど、ハッダから出たものだという。ハッダといえばアフガニスタン東部のクシャン朝時代の仏教遺跡のある地で、近年、盗掘品が市場に出回っている。たぶん、これもそのひとつじゃないかと思う。

 そういえば、昨年、上野の東京芸大の美術館で、アフガニスタンの流出文化財の展示会がありました。これは日本国内で発見されたアフガニスタンで盗掘された壁画や仏像などを集めた展示で、この後、アフガニスタンに戻されるとのことでした。

 仏像と彫像の数は38 点で、全てがハッダ、あるいはアフガニスタン東部から出たものでした。自分の見聞から察するに、推定その十倍以上(もしかしたら数十倍)の数の、同じ出自の仏像、彫像が国内のコレクターや古美術商のもとに収まっているんじゃないでしょうか。

 そのインド人、ウン十万と言ってきた。なるほどね、当然、それは向こうの言い値で、交渉で落ち着く値段、だいたい見当がつきます。

 面白いとは思いつつ、触手は動かなかった。おそらく本物、でも、こういうのに片っ端に手を出していたら、すぐに破産してしまう。ものには優先順位ってことがあります。彫像で状態のいいもの、なにより、それが美しいと感じたものならまだしも。

 

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 それから新宿駅に。東口地下改札口のすぐ隣りにあるベルクで一休み。エッセンゲルクというランチプレートを注文。

 いろんなものが、ちょこちょこと載ってました。ドイツ風なんですが、ちまちましてて、どこか日本っぽい。カウンターテーブルで立ち食い。

 最近、新宿にいくと、よくここに立ち寄る。この店の雰囲気、1970年代の新宿や池袋とか、お茶の水、吉祥寺とか、いろんな街にあった喫茶店とつながる何かを感じます。

 「ベルク通信」という無料のミニコミ新聞が店先に置いてあって、それに目を通しながらコーヒーを飲んでいると、なんかホッとした気持ちになる。

  長い間、浅草や野毛の街がそうであるような場末美の方に傾倒してたので、ベルクのような普通の人で混んでいながら、互いに干渉しない心遣いと、さっぱりしていて、そして親しみのある雰囲気の店って、すっかり忘れてました。

 忘れていた記憶には、サーッと体を吹き抜ける薫風のような爽やかさがありました。

 振り返ると、 70 年代からバブルの前ぐらいまでの間、喫茶店文化みたいなものがあったように思います。当時は、日常のごく自然な光景でしたし、例えば骨董品みたいに物として残ってるわけではないし、今は誰もそういう記憶、口にしないので、そのうち何もなかったかのように消えてしまうんでしょうか。

 現代は、コンビニやコーヒーのチェーン店が典型ですが、店の人とお客の関係がマニュアル化しています。

 ベルクは、マニュアル化する以前の世界にあった店とお客の関係を再現しようとしているように思えました。要は、人と人との関係性の作り方ということで、結局、それが店の雰囲気として現れるんですね。

 

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 山手線で渋谷に。ここで、一件、用事をすませてから帰ることになってて、スクランブル交差点に向かい歩いてると、向こうのハチ公のまわりに人垣が出来ている。

 ハチ公の像といえば、昔は、待ち合わせ場所だったけど、近年、海外からの旅行者が記念撮影する観光名所になっている。いつも人が多いところですが、この日はいつに増して多い。根が野次馬なので、見にいく。

 近づくと、人垣からタイ語インドネシア語が聞こえる。アジアや欧米の家族連れが次々、銅像の横に立って記念撮影をしている。順番待ちもできている。

 ハチ公の銅像の足の下で猫が寝てました。いつもより人が多いのは、この猫の存在でした。

 誰かが、当然、近くにいてここを見ているはずの誰かが、愉快犯的なノリで猫をそこに置いてるんでしょうか(?)。あんな場所で猫が動かずにずっと眠り続けてるのも妙な気がしました。

 朝の猫電車に続いてハチ公猫、と猫つながり!・・・自分の内ではこれはもうシンクロニシティになっちゃっている。だから何? と問われても言葉に詰まりますが、とにかくその勢いで書いたわけです。

 

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逝きし世の浅草の絵

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 「浅草スケッチ 昭和十三年」と裏の板に書かれている絵、一目でどこか分かった。中央の石橋は、浅草寺の本堂の西側の池にかかっている「神橋」。都内最古の石橋といわれてます。

 橋の上に着物に髷を結った女性が二人、下の池に白い鯉が泳いでいる。 後ろに浅草寺の本堂が見えます。この本堂は、昭和 20 年3 月 10 日の空襲で燃えてしまう。橋と建物の位置関係などは、今とそれほど変わっていません。

 なんでこの絵を選んだかというと、やっぱり大好きだった浅草、それも戦前の浅草を描いてるからでした。昭和13年(1938 年)の浅草の時間が、その時点で止まったままキャンバス上に絵具で固着されている。

 

 作者は、近藤晴彦という北海道出身の洋画家で、戦前、東京の風景を好んで描いていたということぐらいしか分からない。詩人の西脇順三郎と親しかったとか。

 ときどき、絵を購入している。昭和の戦前、戦後に活動し、すでに故人になっている画家の中には、ほとんど顧みられることもなくなっている人も多く、そんな画家の絵です。

 はじめの頃は、シュールレアリズムの絵に目が向いてましたが、そういう絵は観るのが疲れてきて、自然に風景画を選ぶようになっていった。水辺の景色が多い。

 

 浅草寺は、7 世紀の中頃に創建されました。でも古い建造物はほとんど残っていない。戦前、国宝に指定されていた五重塔と本堂、それに仁王門(宝蔵門)、どれも木造で空襲により焼失しています。戦後、それぞれ再建されましたけど、みんな鉄筋コンクリートの建造物になっている。

 いま残っている建造物で最も古いのは、江戸時代初期の元和4年(1618) に作られた神橋、二天門、六角堂の三つ。二天門は、補修工事によって見た目は新築ピカピカ、古い姿を留めているのは神橋と六角堂ぐらいです。

 

 少し脇道に逸れますが、浅草寺の仏像について、なんか腑に落ちないことがあります。

 いま浅草寺の境内にある仏像は、古いものでも江戸時代に入ってから、17 世紀に作られたものです。飛鳥時代に創建されたという寺なのに近世以降の仏像しかないのは、どうしてなんだろうか? 常々、疑問に思ってました。

 秘仏の本尊(観音様 7 世紀)、それに木彫りの前立本尊(9 世紀)という仏像があるということになっていますが、その話しは、茫洋としてどこか眉唾物っぽい。

 まず本尊は、絶対秘仏、つまり絶対公開されない仏像ということで、本当に存在してるのかどうか分かりません。

 前立本尊の方は、年に一度、開帳されている。とはいえ、拝観者からは離れた距離にある厨子の奥、扉に挟まれた仏像を拝むという形なので、あまりはっきりとは見えない。

 望遠レンズで前立本尊の仏像を写した写真がありますが、骨董の世界をちょっぴりかじってる自分の目から見て、木像の古色(材質の経年劣化)の具合は、平安時代に作られたものといえるのか悩ましいところです。比較的新しい江戸時代以降に作られたものだとしたら納得できます。

 ・・・もしかして、こういうこと寺の関係者の間では、みんな真相を知ってて、野暮な話しなので口外しないだけなのかも。

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   (現在の神橋。だいたい上の絵と同じアングルです)

 石橋の話しに戻ります。神橋は、今は渡ることができず、眺めるだけですが、以前から、その特異な存在感に見蕩れてました。

 特異な存在感とは、どういうことでしょうか? そのひとつは、建造物のスケール感です。先ほど、橋と建物の位置関係などは、今とそれほど変わっていないと書きました。しかし、江戸時代の世界と現在を比較すると、物(建造物)のスケール感は異なっています。

 一例をあげれば、浅草寺の一角にある被官稲荷、幕末に建てられた社殿に足を踏み入れると、最初、何か妙な感じがするはずです。浅草寺の境内にある浅草神社(三社様)の裏にあるこじんまりした社が被官稲荷ですので、今度、行ってみてください。

 妙な感じというのは、柱や鴨居、間取り、屋根、天井など全てが縮小したサイズで出来ていて、小人の国に迷い込んだかのような気分になるからです。

 江戸時代の平均身長は男性155 〜157センチ、女性は143〜145センチで、昭和初期までだいたい変わらなかったようです。

 神橋を実測した数字を見ると、とても小さいんですね。欄干も低く、絵では人のお腹ぐらいの高さがあるように見えますが、現代人だと膝の上・・・は大げさにしても、腰までないぐらではないかと思う。

  ふと、枕草子の〈なにもなにも、小さきものはみなうつくし〉と書いている一節を想い出しました。

 

 もうひとつ、なんだかよく分からない、言葉にならない何かを感じてたのですが、改めて、よく考えているうちに、ふと気づいたことがあります。

 それは、長い年月、雨風に晒された石の醸し出す印象でした。この場合、少し変わっているのは、それが野山にある自然状態の石ではなく、常に大切に扱われながら付いた古色、独特の味だというところです。たぶん、それに感応してたんじゃないか。

 敷石の色は、微妙に緑の入った灰黒色で、緻密で光沢のある石質。察するに、こういった特徴から、使われたのは江戸時代に真鶴から運ばれた小松石だと思います。安山岩で昔から石材として有名な石です。

 ぶ厚い敷石は、真ん中が凹んだ形で滑らかに湾曲している。これは、およそ300年の間、人々が草鞋や下駄を履いてこの上を歩き、磨り減った痕跡です。堅牢な石がこんなに窪むほど、同じ石の上を10 世代以上、信じられないぐらい多くの人が通っていたなんて想像すると、センス・オブ・ワンダーの感覚になる。

 現在も小松石は建材として用いられており、クオリティによって4 つに区分けされているようで、最も秀でたものは通称、大トロと呼ばれているとか。この呼び名、神橋の敷石を見ていて、なるほど!とつながりました。

 神橋を見るとき、季節の移り変わりの中で、いちばんいいなと思っているセッティングは、梅雨や秋霖(しゅうりん)の日の眺めです。

 というのは、長い年月、擦り磨かれ、ねっとりとした石肌が雨に濡れると、緑の黒髪ような色に深まるからですーー質感と色感の共感覚というと大げさかもしれませんがーーたぶん、自分はこれに感応してるのではないかと思います。

 なんだか古硯鑑賞、書の硯を水に浸して眺める、中国の宋の時代に生まれた一種フェチ的な趣向ですが、それに通じるように思います。そういえば、昔から玉(ぎょく)の名品を脂玉といったり、骨董の業者の口上で木工の品をトロトロといったり(刀の鍔まで、そんなふうに言ってる人がいる)、硯だけでなく、そういった感触の美(?)を尊ぶのは、いにしえの中国に由来しているのかも。

  話しが右往左往してますが、神橋の敷石の話しでした。このねっとり感、大トロとは、巧いこと言うなと思った次第です。  

 

 昭和13 年というと、前年に日中戦争がはじまっていて、 3 年後に日米開戦になる。その年の3 月ドイツのオーストリア併合、 4 月国家総動員法公布と国家的には準戦時体制に入っていた時代。

 その頃、ものの本によると、すでに息苦しい世の中になっていたとありますが、浅草の周りの時間は、そういう世間の時間とは少しずれていたのではないか。希望的観測も交えてそんなふうに思ってる。

  昭和 13 年は換算すると、明治 71 年に当たる。その時代、父親や母親が江戸時代の人という世代がいました。江戸時代の人たちの生活、暮らしや気風、風俗を書き残した文筆家として有名な三田村鳶魚岡本綺堂といった人たちが、明治の初めに生まれているというのも、まだ江戸の記憶が人々の間に残っていたということが大きい。

 特に、浅草は、大局としての文明開化の時代にあっても、前時代の江戸の遺風が残っている土地でした。自分なりにそんな実感を感じていることなのですが、それについては、別の機会に書いてみたいと思います。

 

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インドの匂い・ほんの少し前の世界

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  上の写真・・・南インドの山の周りを一周、毎晩、歩いてたときのこと。手前が豚で、後ろに犬。昼間は暑くて歩くのが難儀なので、夕方寝て真夜中に起き出発、朝、戻ってくる(そういえば、東京オリンピックのマラソンでは、夕刻スタートの提案がありますね)。途中、道端を牛、豚、犬が徘徊してました。

 

 はじめてインドに行ったとき、びっくりすることだらけだった。いちばん最初は匂い、もう、ずいぶん前のことなので、「昔のインドの空港の匂い」なのですが。

 乗っていたパキスタン航空機が遅れ、デリーの空港に着いたのは夜遅くでした。機体から出てタラップに立ったとき外は曇天で真っ暗闇。当時、インドは電力事情が悪く、停電が日常茶飯事、どこも照明は薄暗かった。向こうに殺風景な倉庫みたいな空港ビルが見える。

 と、そのときムワ〜ッと熱く乾いた空気に混じった未体験のデイープな匂い・・・何か近くに匂いを発している物があったのではなく、空気そのものの匂い。

 この匂い、何か一つの匂いではなく、いろんな匂いが混じったものでした。仮にイメージするとしたら、インド料理に使われるバターの一種ギーの匂い、タイヤを燃やした煤の匂い、アセチレンガスの匂い、 牛糞の燃料の匂い、 ビディというインドタバコの煙の匂い、消毒液の匂い、ジャスミンスイカズラの花輪の匂い、クミンやカルダモンなどスパイスの匂い、廃屋の匂い・・・これら雑多な匂いがカラカラに乾燥した熱帯夜の空気に溶け込んだ、そんな匂いーー頭の中でイメージできるでしょうか?

 匂いにこだわっているのは、 目に見えない、音のしない出来事の体験でありながら、今も忘れられないぐらいインパクトが大きかったからです。 あたかも物の怪に遭遇したような感じ。

 この時点では、まだインドの地面を踏んでない、息をしてるだけなのに、こりゃあすごいところだ。 空気に圧倒される! これが最初のインド体験でした。

 

  アグラに行ったときのこと。 タージ・マハルーー大理石の宮殿みたいな霊廟、インドを代表する観光名所のひとつーーがあるところです。

 駅からリキシャ(自転車で引く人力車)でタージ・マハルに向かう途中、市街地の路地で凄いものを見た。  路地の横にある廃屋の空き地、インドの場末によくあるような場所で、崩れた壁のレンガ、古新聞の包み紙、果物の皮などが散乱したゴミ捨て場みたいな所でした。

 空き地の一角に土煙が上がっている。見ると、大きな動物、野獣?と野犬の死闘。野獣に見えたのは泥まみれの巨大な豚。

 豚が猛スピードで犬に突進する。吹き飛ばされる犬。ガオーと咆哮(ほうこう)って言葉、こういう声なんだと思いました。犬は牙を剥き出しにして豚に噛みつき血飛沫が。凄い迫力に圧倒されました・・・アグラで一番印象に残ったのは、このバトルの光景で、肝心のタージ・マハルは記憶に薄い。でも、こういう予想外の展開がインドなんですね。

 

 コルタカ(カルカッタ)の公園 でのこと。街の中心にある大きな公園で見た大道芸、いえ芸というよりもっと手前のプリミティブな段階の、要は素人の見世物なんですが、それにもびっくりした。一時期、大道芸とか見世物小屋、日本でもよく見にいってたけど、こんなのはありえない、そんな見世物でした。

 歩いていると一人の子供に、これから何かやるから見てろと呼び止められた。身振り手振りで、お金を出すようにといってる。半ズボンをはいた小学生ぐらいの年で、木の棒で地面に 20 〜30センチぐらいの穴を掘っている。

 足をとめると、子供は唐突に逆立ちをした。そのまま頭からすっぽり穴の中に入り、地面に顔を埋め、器用に両手で土を被せた。見た目、地面から人の体が逆さまに植わってる。

 えーっ、自分で自分を地面に埋めるなんて、間違ったら自殺と同じになってしまう。見世物で、こういうことするの? 

 そんなに長い間してたのではないので、呼吸とか大丈夫だと思うのですが、予想外のエキセントリックさに圧倒されました。そういえば、ヨガの苦行やスーフィの修行者もああいうのをやっていたので、その辺りに由来してるのかも。

 また、ちょっと視点を変えてみます。江戸時代の風俗を書き残した岡本綺堂の本に乞食の芸の話しが出てくるのですが、インドの少年の芸は、それとも似ているように思いました(ここでは乞食の芸について、具体的にどんな芸だったのか列挙していくと長くなるので省きます)。

 ただ哀願的に銭を乞うのではなく、とにかく何か人と変わったことをして銭を得ていいたというところに着目します。なぜなら、それは小沢昭一さんの説いていた芸能のはじまりのキーポイントだからです。

 芸能の始源を世阿弥に求めるのか、乞食芸人に求めるのか、それぞれ全く異なる芸能史が見えてくる。・・・横道に逸れました。

 

 その近く、200メールも離れてない所に、今度は夫婦らしき男女がいて、やはり見世物をしてるらしい。というのは、二人の周りに人垣ができてたからです。

 なにが始まるのか、とまた足が止まる。白いワイシャツにグレーのズボンの男と赤ちゃんを抱いた白いサリーの女性。芝生の上にシーツが一枚。

 やはり唐突に、ささーっと赤ん坊をシーツの真ん中に載せるやいなや、二人でシーツの両端を持ち、勢いよく引っぱる。あーっ、と思ったとき、赤ん坊は空中に飛び出した。

 二階ぐらいの高さに上がり、宙を落ちてくる。と、下で亭主らしき男が赤ん坊を両手でキヤッチ。凄い!  でも、これ、失敗したら死んじゃいます。こんなことしていいの?

 ドストエフスキーの『カマラーゾフの兄弟』の中に、戦争の渦中、赤ん坊を放り投げて殺してしまう話が出てきて、神は人にそういう行為を行う自由を与えているか、といった神学問答がありました。これって、究極的には西欧文明とインド文明の違いってこと?

 インドは(もしかしたら今はもう違ってるかもしれないので)、あの頃のインドは、日本で生まれ育った自分の内の常識や価値観、あるいは人倫までも、そういうものが溶解していくようなところでした。

 生来、自我の殻の堅かった自分にとって、それは解放感のような、自由の感覚ともいえました。一方、あまりに箍(たが)が外れすぎても、人生、塩梅のよくないことが多いかも。それに気づいたのは後年のことで、後の祭りでしたが。

 

 インドは、本当に予想外の国でした。事前に調べてた話し、想像していたインドと、インドで体験する現実は、全然違いました。たぶん、バックパッカー(まだそういう言葉はなかったですが)のような旅でインドにいった日本人は、みんなそうだったんじゃないかと思う。

 それを面白いと感じるか、酷いと感じるか、そのあたりがインドを好きになるか、嫌いになるかの分水嶺になっていた。

 

 ここで書いてるのは、1ドルが 300円、アルバイトの時給が180円ぐらいの時代でした。 日給 5ドルではインドに行くにも経済的に大変で、タイまではなんとか飛行機代を工面し、タイからインドへは貨物船に乗せてもらう、そんな計画をしていた。その頃、パキスタン航空の格安チケットが出回るようになり飛びついた。

 パキスタンからアフガニスタン、イランと、まだ気ままな旅ができた。ネパールからシルクロードをヨーロッパまでいくヒッピーのバスがあった・・・今の政治状況からは夢のようですが、自分の内では、ついこないだのような気がしてる。

 思うに、 現実って、全く自明の、盤石の存在のようでありながら、過ぎ去るとうたかたの夢のようなものかも。

 振り返ると、1979 年のイランのイスラム革命ソ連のアフガン侵攻を境に、そんな牧歌的な世界は消えていった。あの地域の今の状況を見ると、どうも自分が生きてる間には、ああいった旅は出来ないのかな、と思うようになっている。

 

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近所の神社をハクビシンが歩いてました

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 上の写真、千葉県関宿の江戸川の河川敷にいたタヌキ。 1メートルぐらいか、大きくて胴回りも太い。図鑑ではホンドタヌキの胴長は 50 〜60センチとのこと。タヌキってこんなに大きくなるんでしょうか?

 

  真夏の蒸し暑い夜、 いつも歩いている天祖神社の境内でのこと。 ここは世田谷線の上町駅のそばにある小さな神社。境内を抜けると世田谷通りに出られる近道になっていて、朝晩、ここをよく通る。子供の遊び場やベンチがあり一休みしたりもする。 冬のボロ市のときは、ここに代官餅や植木を売る露店が並ぶ。

 ケヤキの大樹の近くのベンチに座って、暈のかかった月をぼーっと眺めてました。深夜なので、境内の人通りは途絶えてる。

 唐突に、目の前の地べたを細長い動物がスルスルと歩いていく! 歩くというよりはモノレールが滑っていくような感じ。ケヤキの幹の脇、 4 メートルほどの距離。そのまま植え込みの暗がりに姿を消した。すぐハクビシンだと分かりました。 5〜6 年前から近所の野生動物探しがマイブームになってて、判別には自信がある。

 ネコよりも大きく、犬よりも胴長で重心の低い体型、体の大きさに比べると小顔、顔の真ん中の白い縦のライン(漢字では「白鼻芯」と書く)、長いしっぽ、以前、上野動物園に見にいって、ハクビシン特徴をつかんでたので間違いない。

 翌日、この話しを知り合いにすると、野生動物が人間の存在に気づかず歩いていくなんて・・・それほど人の気配が消えてたとは、忘我というか、そこまでぼーっとしてる人 滅多にいないよ、と妙な感心をされた。

 忘我ねー・・・忍者が姿を消す隠れ身の術とか、ヨガの行で透明人間になる話しも、同じ理屈じゃないかと思う。  我が身を振り返ると、心身の最も心地よい状態は、ぼーっとしてるとき。どこかに行くとか、何かする、よりも今、ここでぼーっとしてる方がいい・・・ Be Here Now のような、いや、怠惰なだけ。

 

   ちょっと調べると、都内ではハクビシンの数が増えているようで、察するにタヌキより多いと思う。

 ハクビシンは、日本に生息している唯一のジャコウネコ科の動物、椰子ジャコウネコとも呼ばれる・・・ということは臭腺の分泌物を集めれば、霊猫香(シベット)みたいになるかも。その官能的な香りは、麝香(ムスク)、竜涎香(アンバーグリス)と並び称されている。

 事実、害獣としてハクビシンを捕獲している業者さんの HP を見ると、独特の匂いを発すると書かかれてる。とはいえ分泌物の臭いを直に嗅いでも不快な匂いなので、アルコールで希釈した香りが香になるのですが。

 ハクビシンは、在来種か外来種かについて議論されてきた。江戸時代に雷獣(らいじゅう)と呼ばれた妖怪というか UMA(未確認生物) はハクビシンだっという話しはよく知られている。もし雷獣=ハクビシンだったら在来種説の裏付けになるのだが、アナグマとかイタチとか他の動物だったという説もあってよく分からない。

 ところで、明治初めに生まれた岡本綺堂は雷獣について、こんな話しを書き残してました。

 「日光なんぞの山のなかに棲んでいるのは当たりまえでしょうが、江戸時代には町中へも雷獣があらわれて、それをつかまえたという話しはたびたびありました。明治になってからも、下谷に雷が落ちたときに雷獣を見つけて捉まえたということを聞きました。」( 『江戸についての話し』岸井良衛編)

 いろんな本を調べると、ハクビシンが初めて捕獲されたのは、そんなに昔のことではなく、1943 年(静岡県湖西市)という記録が残っている。また1967年の時点で、生息が確認されていたのは、全国で高知県静岡県だけだったとか。どうも在来種とは考えにくいようです。

 

 タヌキは木に登れない。 ネコも木に登りますが、ハクビシンは、もともと樹上生活をしていて木登りはネコよりも格段に上手。ネコは、木から降りるようなときの動きがぎこちなく、途中で飛び降りたりしているが、ハクビシンは幹の上から下にもスルスル自由自在に動ける。電線を綱割りするような動きもできる。このあたり動物園で木登りしている姿を見れば納得してもらえると思います。

 タヌキの活動は平面、いわば二次元の世界、当然ながら都市の中で住処になる空いている土地は少ない。一方、ハクビシンの活動は、三次元的で、木の洞、都市の人家や物置、倉庫、配管の隙間、廃屋の床下、天井、屋根裏などを住処にしている。

 ・・・そういえば、先の都議選のとき、世田谷区には5万軒の空き家があると候補者がマイクで言ってたのを思い出す。確かに、住宅街で人の住んでいない一軒家をよく目にする。

 結局、ハクビシンは、平面+高さ、三次元的に活動できるところがタヌキにない強みで、数が増えている。

  世田谷線の線路脇にタヌキがいるというポイントが2カ所あった。ポイントの一つ、松陰神社駅と若林駅の間の林では最近もタヌキを見たという人の話しを聞いた。しかしもうひとつのポイントの近況は分からない。また、ここで書いている天祖神社から世田谷通りを渡り、500 メートルほど先、豪徳寺近くの空き地にもタヌキが棲んでいたが、2年前、マンションが建てられ姿を消してしまった。

 一方、ハクビシンについて、近辺の人に聞いていくと、桜新町の米屋さんの裏あたり、弦巻のお寺、実相院の近くと同じく弦巻に残っている畑のあたりで見たという人がいました。直径1キロちょっと円の中に生息地が4カ所はある。

 ・・・最近は、あちこち歩いてるとき、地元の人に「このあたりにタヌキはいませんか」とか「ハクビシン見かけませんでしたか」と聞き回っている。唐突に、初対面の人に聞くので、怪訝な顔されるかと思ってたのですが、案外、丁寧に教えてくれる。

 昨日も中野区の上高田の落合公園で散歩していた団地のおじさんに聞いてみたら、近くにある二カ所の神社にタヌキがいると話してくれました。西武線の向こう側、川の高台の神社の裏には、タヌキの穴があるとも。けっこう詳しい。

 谷中から根津に歩く途中、住宅街でガレージセールをしてた女性になにげなく聞いてみたのですが、即、この道を夜、タヌキがあるいてると教えてくれました。

 また、別のときですが、 JR の四谷駅のホームから崖にタヌキがいるのを見たと教えてくれた人もいた。ホームから餌をあげてる人もいるようで、そのあたりにはパンのかけらが落ちてるとか。

 というようなことで、調べはじめる前に思ってたよりも、タヌキはいるようです。

 

 昨年末、九州ではアライグマが急増しているという新聞記事を目にした。アライグマは、特定外来種生物です。長崎、佐賀、福岡の3県のアライグマの捕獲数がこの10 年で 30 倍になったとか。

 それとは別の記事ですが、原発事故で避難指示が出され人がいなくなった福島県浪江町の生態系調査で、大型の哺乳類、特にイノシシが増えていることが分かった。

 都会の住宅地ではハクビシン、地方ではアライグマ、無住化したところではイノシシが増えている・・・これは近未来の日本列島の自然を暗示しているのかも。

 「平成狸合戦ぽんぽこ」や「もののけ姫」は、20 世紀後半の日本列島をモチーフにしてました。高度成長から日本列島改造論の時代です。

 一方、 21 世紀後半の日本列島は、どんな感じになるんでしょうか。

 国土交通省の予測では、現在、日本で人が住んでいる地域のうち面積にして 2 割が、2050 年までに無住居化するという。人口減少は、自然にとってはプラスになるはず。     それは山なりのグラフでピークを越えた後、過去の目盛りに戻っていくような、江戸時代みたいな自然のイメージだろうか。

 思うに、そのあたりは過去とは異なった自然、在来種のクマやイノシシ、タヌキ、キツネなどと、外来種ハクビシン、アライグマとかハリネズミキョンヌートリアマングース、ミンクなんかが混在し(すでにこんな状態なのではないか?)、さらに、かって湘南ぐらいまでだったクマンゼミの北限が最近、東京まで伸びてきたように新たに南方系の動物が現れるんじゃないか。

 なんかごちゃごちゃしてますが、古来、日本は「とよあしはらみずほのくに」(豊葦原瑞穂国)と言ってたように高温多湿で魑魅魍魎が跋扈してた風土だったので、そんなに違和感ないように思うのですが。

 

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 上の絵は、幕末、外国人の描いた富士山。バリのアグン山を彷彿させるトロピカルな情景。子供の頃、自分の想い描いてたユートピアは亜熱帯の世界だったので、ある意味、夢の実現なのかも。  

 

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ど〜ん、としてる

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 最近、見つけてきたものをお皿に盛ってみました(上の写真)。

 街を歩いてて、なんか妙なもの、面白いもの、変わったもの、早い話し、その時々、気になったものを集めてました。過去形なのは、そのまま続けていたらゴミ屋敷になってしまう恐れがあり止めています。

 ところが先週、地元の商店街の店先で、サツマイモやパイナップル、ミカンなどを炭にして段ボール箱に置いてあるのを目にしてしまった。たぶん趣味で作っている人がいるんだと思う。

 ふと、覗くと真っ黒い球形のものが目に入る。炭化したグレープフルーツ、要はグレープフルーツの炭ですね。しっとりとして、光を吸い込むような沈んだ黒の色感に惹かれる。

 というわけで、ひとつ持ち帰る。それがこれですと、写真を撮ろうとしたのですが、ひとつだけだと寂しいな、と何か一緒に並べてみることに。

 

 真ん中の黒玉がそのグレープフルーツの炭。球形っぽい。じゃあ、次に丸つながりで何かないか?と思い巡らす。ダチョウのタマゴは、白くて丸っこかったっけ。並べると、やけに大きい。長さ14 センチ、現存する地球上の生き物の卵では最大のサイズだとか。

 二つだけででは物足りないかな、と似たようなサイズの諸々・・・カカオの実とか氷河で拾ってきた水晶の塊、漁船の網の浮玉とか並べてみたが、どんどん支離滅裂に、訳の分からない感じになっていく。

 スッキリした感じの方がいいかな・・・と、シンプルにしたのが上の写真。棒状のも砂漠の薔薇(ばら)という鉱物。結晶の形が薔薇の花に似てるのでそんな名前がついている。

   これはオーナメントかもというか、ただ並べただけなんですが。飾り物(オーナメント)と言えなくもない。 まあ、オーナメントもオブジェもアートも呼び方が違うだけで、たいして変わらないようにも思える。

 それにしても、ど〜んとしてる。他に言葉がない。ど〜んとしてるって、大きさの迫力と言えば、そういえなくもないのですが、並んでる物体の妙なスケール感が醸し出す雰囲気の印象が大きい。

 大味の大盛りカレーというか、そういえば東京の西側から田園都市線の沿線、大和、厚木から見える大山もど〜んとした感じ。神奈川の丹沢山系にある大山は、裾野がなだらかで広く、遠目にど〜んと横たわって見える。

  ・・・先日、西荻窪駅のホームから大山が見えたのですが、ここは、ど〜んとした感じがよくつかめるビューポイントです。ここより南に位置する田園都市線の沿線からだと、丹沢の他の山が接して見えるので、ここまでど〜んとはしていない。

 ついでに、関東平野を北にいくと、どこからでも筑波山が見えます。ど〜んとしてるけど形は地味な大山と違って、筑波山はラクダのコブみたいなユニークな山容です。   関西で通天閣の展望台から見た二上山もそうでした。筑波山と似たラクダのコブみたいな形、奈良、葛城にある低い山ですがすぐに見つけられる。

 昔の人は、こんなふうな特徴のある形の山を方角の目印にしてたんでしょうね・・・と、話しがずいぶん脱線しました。   

 

 枕草子には「ちひさきものはみなうつくし」とあります。平安時代の「うつくし」という言葉は、現代のかわいらしいといった意味らしいのですが、そういった感性は、現代も途切れていないようで、古物蒐集でも、根付がその最たるものですが、日本人の中には小さなものが好きな人が多いように感じる。

 我が身を振り返ると、知らず知らずに小さなものが増えている。 話しがさらに飛んでますが、世界各地の古代文明の遺物を集めたいと思ってはじめた蒐集の話しです。

 気づくといつの間にか 5〜10センチぐらいの土偶や石・木を彫った女神、青銅の半獣半人がテーブルの上に何列も並んでる。蒐集をはじめた頃は、博物館や美術館の展示みたいなイメージを描いてました。ところが現実は、小人や半獣半人のデモ隊が押し寄せてきたって世界が現出しちゃってる。

 

 「小さく小さく小さくなぁれ・・・」って幼児の体操の歌詞が思い浮かんできて、このまま小さいものがどんどん増えてくのも、どうなんだろうかと気分一新、今度は、大きなものを探しはじめました。

 ところで、骨董、古美術のメインアイテムといえば、日本では焼き物、陶磁器。そこでは暗黙の前提になっているサイズの基準があって、だいたい30 センチぐらいまでの大きさといわれています。 30センチってのは、元々は、茶道の花生けのサイズに由来してるとか。

 日本では、利休にはじまる茶道、数奇の流れが骨董や古美術の世界の母体になっているという経緯があり、そんなサイズの基準が生まれたようです。 昔の長さの単位の「一尺」は、約30センチなので、それがサイズ感覚を培う上で基本になったのでしょうか。あと、日本の住宅事情なんかもあるかもしれません。

 こういった文化的な伝統があるので、鑑賞対象として自然に感じられるサイズが自ずと決まってきたようです。

 大きなもので目をつけたのは、インドの仏像や仏頭、中国古代の青銅像など、50センチ前後からそれより大きいものでした。改めて大きいってことは、それだけでインパクトがあるなと実感する。当たり前のことを書いてて、気恥ずかしくもあるんですが、小さいものがいっぱいってのとは存在感が違います。

 一方、大きなものになるとかさばる。なにより重いのには難儀します。石や金属の塊なので当然なんですが。手で持ち上げられない重さのもの、さらに一人では動かすこともできないものが部屋を占拠するようになってきました。今後、どうなるんでしょうか。

 

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