誰も拾わないようなもの

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 先日、浅草の工事現場で凌雲閣、通称、浅草十二階と呼ばれた塔の遺構が見つかった。六区からひさご通りに入って、左手の角地、以前は台東医院があった所です。

 十二階は明治時代、当時としては雲をも凌ぐ超高層の建築物で浅草随一の名所でした。しかし、設計の経緯からしてなんか変で、というのは水道の給水塔を上下引き伸ばしたものだったとか。このあたりのいかがわしさ、実に浅草っぽい。

 と、書いていて、考えてみると、そもそも「塔」って、なんかいかがわしい存在だと思う。建築物といっても、用途は、上に昇ってみるとか、遠くから眺めるとか、要は、特殊な見世物なのではないか。

 そして、浅草にはいつも塔があった。空襲で焼失した浅草寺五重塔はもちろんですが、こちらは由緒正しい文化財で、六区的ないかがわしさが欠けていて、それゆえ俎上に載ることは少ない。

 塔といえば、今は、スカイツリーだし、戦後の仁丹塔もそれ自体は単なる広告塔だったのですが、郷愁をもって語り継がれている。他にも、地下鉄ビルの尖塔、新世界ビルの五重塔花やしきの「Beeタワー」(旧・人工衛星塔)と挙げられる。

 十二階は、それらの元祖、伝説的存在で、今もファンがいてネットで検索すると情報が溢れています。今回、遺構が見つかった話しは新聞記事にもなりました。

 1923年9月1日の関東大震災で十二階の8階から上が倒壊し、残骸は全て撤去され更地になり、その後、約一世紀の間、何度も別の新しい建物を建てては壊してを繰り返してきた。また今度、新しい建物を造るため地面を掘っていたら十二階の遺構が現れたわけです。 敷地の広さから塔の基礎部分の一部ですが。

 この区域にはいろんな逸話があって、戦後の闇市の時代には、アジール治外法権地区になっていたし、今の常識ではありえないような話しを聞くことがあります。

 見つかったのは、塔の基礎部分とレンガ壁の一部ですが、浅草に愛着のある自分としては、とにかく塔の一部には違いないのだから、レンガの欠片でも垂涎の的です。

 なんとかレンガの一片を手にいれました。それが上の写真。

 底の方にコンクリートがくっついている。ただのレンガの欠片のように見える。事実、そうなんですが。う〜ん、道端に落ちていても誰も拾わないでしょうね。

 元来、なんかのコレクターだったこともないし、収集癖のようなものはないと思ってるんですが、このレンガの場合は、自分と十二階がつながっているような気持ちになれるというところが大きい。

 こういう心性は、よく呪術的思考といわれている。人が合理的思考をするようになる前の時代、新石器時代ぐらいまでの人類は、こんな思考パターンをしていたのではないか。

 日本では、いまも形見分けのような風習が残っているので、こういう心性、人間の中から完全に消えたわけではないと思います。

 それと写真とか、あるいは展示物をガラス越しに見るのと(つまり視覚情報と)、直に指で触ったり撫でたり、持ってみたり、臭いをかいでみたりするのではリアリティが違うこともあります。 縄文土器なんかを手にしてもそんな想いに耽ることがある。                   現代は、物を知るということを、物にまつわる情報を知ることと勘違いしているように思えるのですが。情報、データは、文字・数字・画像・動画など、その大部分は視覚を通して伝えられています。

 しかし、太古の人間にとって物を知るということは、触覚や嗅覚で知るということでもあった。

 

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 ついでに、もうひとつ。青函トンネル工事で、両側から掘ったトンネルが貫通した地点の岩。手で持つとずっしりと重い。

 改めて調べると、トンネルの工事、1963年に着工して完成したのが87年と、24年もかかっている。たいへんな難工事だったようです。

 収集癖はないと言ってて、こんなものがあるなんておかしいですが、これは何年か前のボロ市で見つけたもの。貫通石といって、安産や学業成就のお守りということは知っていたので、つい物珍しさから持って帰ってきてしまった。

 ただの石のように見える。事実、そうなんですが。津軽海峡の海底下約100mの石・・・やはり道端に落ちていても誰も拾わないでしょうね。そんなものを買ってるというのも変な話しですが。

 そういえばこんな意見もありました。引用してみます。「CURIO (骨董品)の原義は『珍物』ですし、往古の王侯のコレクションや最初の頃の博物学の対象は、この『珍物』にあったわけですから、案外この辺が古美術、古陶磁蒐集の正統といえるかも知れません。」(出川直樹『やきもの蒐集入門』)。

 なんか勇気ずけられる指摘。珍物ってところがいいと自己満足している。

 日焼けして茶色くなった小さな紙が貼ってあって、「火山礫凝灰岩 青函トンネル先進導抗」と書いてある。ロットリングで書いたかと思うのですが、驚くほど小さな字なのには感心しました。製図のプロが書いていると思うのですが、今もこういう職人的な技を持っている人、いるんだろうか。

 写真を撮ったついでに、テーブルの上にレンガと石を並べて置くと、いやがおうにもどっしりした存在感が倍増し、なんて言えばいいか、始末に困るというか、結局、これどうしたらいいんでしょうか?

 

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目光と金色に光る観音様

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 今朝、いつもの道を歩いていて、冬の間、建物の合間からくっきりと見えていた奥多摩の山々が春霞で見えない。少し前、寒波、寒波と言ってたのが、暦は雨水になってるのですね。

 そろそろ近所の鮮魚の店に、さよりが出ていないか気もそぞろで、見にいきました。早春になるとまず、さよりの刺身、桜が散るとトビウオと、昔、見よう見まねで包丁捌きを覚えたころインプットされた旬の季節感が染み着いている。

 横道に逸れますが、初鰹は毎年1月から出ているし、6 月になると名札がトロ鰹と書き替わるだけ、秋以降はもどり鰹に書き替わってと、要は、一年中出てるのでこんなワクワク感は少ない。

 と、店に入ってすぐ、 一見、ハゼかハタハタかといった見慣れぬ魚が皿に一山盛られているのが目についた。脇の札に黒いマジックで「目光」と書いてある。

 晩ご飯のおかずにと、これを持って帰ることに。さよりはまだ出ていませんでしたが、それはそれで満足。小振りですが量が多いので半分は刺身、それから唐揚げにしました。

 ネットで調べると、メヒカリは、関東以北では冬から春が旬の魚とある。昔は、二束三文にもならなった魚、大衆魚と書かれてます。底引網で獲ってかまぼこなど加工用に廻されるので鮮魚としての流通はそんなに多くないとか。

 海の深いところにいる魚で、目が大きく、反射光で黄緑色に光って見えるとも書いてある。

 最初に見たときから気づいていました、目が宇宙人みたいに光っているのを。発光しているように見えるので怪しい光といった雰囲気。

 半透明、宝石の中にこんな色のものはない。フローライト(蛍石)に似たような色のものがあったな、と想い出す。そう、葡萄のマスカットの粒を小さくしたような感じ。魚の目の美しさに見とれたのは、はじめてでした。

 

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   谷中の全生庵にある観音様、夕日に眩く輝きます。特に、晴天の真っ青な空と金色に輝く観音様のコントラストは絶妙です。

  全生庵は、谷中の三崎坂沿い、上野台地のゆるい斜面にあるお寺で、毎年8 月、所蔵している幽霊画を公開していることでもよく知られている。

 境内に大きな桜の木があって、これから花見のシーズンに観音様の見物、お勧めします。

 

 はじめて観音様を見たのは、近くの脇道を歩いていたときでした。このあたり一帯は寺町で、お寺と民家が軒を連ねている。壁の向こう、家と家の間に、金色に輝くウルトラマンみたいなのが立っている!

 けっこう大きい、特撮のセット? なんなのかよく分からない。仏像かなとも思いはしたのですが、それにしては、真新しい、ピカピカでメタリックな輝き、人体っぽい姿などが不釣合いに感じられた。

 この観音様が作られたのは平成3年(1991年)と、まだ 27年しか経っていない。高さ6.6 メートル。境内の盛り土した台座に鎮座しているので、10 メートルはあるように思う。離れたところからも見えるわけです。

 ネットを検索すると北村西望の作とある。長崎の「平和祈念像」を作った有名な彫刻家で、1987年、104 歳で亡くなられている。この観音様の起工が1990 年なので、その前のよう、生前に原型を作っていたのでしょうか、もしかして北村氏の以前からあった作品を拡大コピーしたものかも?

 この観音様、近くに寄って見ると、造りがわりと大まかなことに気づきます。また、鍍金ではなく金色の塗料で、ごく普通に塗っている。もともと数十センチ〜 1メートルぐらいの観音像を10 倍ぐらいに大きくしたものだとすると辻褄があいますが、どうなんでしょうか?

 ・・・と書きましたが、日本各地に北村氏作の同じ観音様(聖観世音菩薩、原型はやはりコンパクトなサイズでした)は建立されているようで、全生庵もその一つということでした。

 なるほど、よく目にする観音様は、明の時代に造られたふくよかな女性の姿をした仏像が基になっていて、江戸時代に仏師の造った観音様もその姿を踏襲しているのですが、こちらは近代彫刻としての観音像なんですね。

 はじめて家の合間から横向きの姿を目にしたときの第一印象が、ウルトラマンみたい、人体っぽいと感じたわけが分かりました。

 

 境内から見上げるようにして拝観するのが一般的ですが、それ以外に、二つほどビューポイントを書いておきます。

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 一つは、近くの「谷中防災広場 初音の森」からの景観。

 上野台地の山の斜面に、 タヌキの住んでいる照葉樹林の林と芝生の広場があります。 ここから見る観音様は、斜め後ろからの姿になりますが、それもまた木々の中からヌッと立ち上がったみたいで、妙にリアルな趣があります。

 写真にありますように、桜の季節がお勧め。一休みするには絶好の場所です。

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 二つ目は、全生庵の上の脇道に入ったところからの景観。

 写真は、空気の澄んだ日の日没の少し前。こんな感じもまたいいです。ここは脇道の路上から眺めることになります。

 

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冬至の朝の光

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 12 月の大雪から2 月の立春ぐらいまでの朝の光が好きです。あけぼのといえば、春となるでしょうが、旭光ならば、この時期を推します。一年を通し最も極まった光と言った感じでしょうか。空気中の湿気が少なくなり、普段、見ているものがよりクリアーになるのもいい。

  真っ青な空の朝、低い角度から射し込む白光に、いろんなものをかざしたり、テーブルの上に透明、半透明なもの、キラキラしたものを置いて見ている。グラス入れた水を見てるだけでもいい。

 

 上の写真、冬至の朝の光と鍔(つば)。骨董市で埃をかぶっていた道具類の中に錆びた金具のようなものが混じっていた。最初は、何かの留め金か蓋かと思いましたが、形が刀の鍔、帰ってから磨いてみると小さな蝸牛が現れた。超ミニサイズなうえ、錆に覆われ、誰も気づかなかったのではないか。

 朝陽にあたると、蝸牛の糸のように細い胴体が金色に輝き、一条の光が目に飛び込んできた。繊細な象嵌細工に、昔の職人技の凄さを感じました。

 

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 透明な結晶、4種類の鉱物。大きいのがアポフィライトの両錐結晶、変わった形をした結晶のタンビュライト、それから「ハーキマーダイヤモンド」と呼ばれている両錐水晶(結晶の中に見える黒いものはオイル、パキスタンで採れたものなのでカッコ付きにしています)、そして中津川のトパーズ3つ。明治時代、トパーズは日本で採れる宝石として輸出されていたとか。

 どれがどれかは、すぐに分かるかと思います。

 

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 近所の鮮魚の店に久しぶりにイトヨリダイが出ていました。ハモと同じように関西の方で人気があって、こっちではあまり並ばない。 今が旬の魚で、刺身にしようと買ってきましたが、 鮮やかな黄色いラインに目が釘付けになりました。 キラキラした青っぽい紫の遊色の斑点も見える。

 陽光の下で写真を撮ってみました。スリムな体型をしていて、黄色のラインがよく見えるように一部分をアップ するとなんか面妖な感じ。一体、何なのかよく分からない。・・・アダムを誘惑した美しい蛇の絵、たしかアメリカの新宗教の聖書物語の挿画だったかと思いますが、どこか似てるのを想い出しました。

 それはさておき、肝心なのは眩(まばゆ)い輝き、いくぶんかでも捉えているでしょうか。

 

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 ムクロジの実、中の黒い種が透かして見える。蝋細工、あるいはガレのガラスを彷彿とさせる半透明の色感、質感に魅せられる。

 鉱物だともっと硬質な感じで、こういうヌルンというかトロリというか、そんな感覚はない。いくぶん色が似ているということでは、アンバー(琥珀)やミルラ(没薬)といった樹脂ーー前者は樹脂の化石、後者は樹脂の香ですーーが思い浮かびますが、やはりムクロジの実のような生っぽさは欠けている。

 果肉の部分、乾燥して硬くなるのですが、コーヒーミルなどで粉にすると、天然の石鹼になります。インドやネパールでは、石鹼として使われています。そんなわけで、いま手洗いのときなど、使っている。

 泡立ちは市販の製品ほどではないですが、香料の癖がなく、ないより手がすべすべになります。

 

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大理国の小皿

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 日曜日、早起きして京王線高幡不動の骨董市にいってきました。水曜日、法華経寺の骨董市で下総の古寺の雰囲気が心地よかったので、今度は、武蔵の寺にといった気持ちになってのこと。

 真っ青な青空、駅前の商店街を少し歩くと多摩丘陵の紅葉した山と赤い五重塔が見えてくる。昔の絵葉書にこんな景色あったような、でも、なんか全体的に真新しい。由緒書きではずいぶん古いお寺のようですが、あまり抹香臭さがない。

 五重塔をはじめ大きな伽藍は、1975 年以降に建立されたということを後に知りました。

 境内は多勢の人、七五三の家族連れや紅葉を撮りにきたカメラマニアが目につく。土方歳蔵の銅像がありました。 身構えた姿は映画のワンシーンのよう。ここは日野市で土方歳蔵の故郷なので、ヒーロー像といった感じです。近藤勇の生家は、近くの調布です。

 武蔵(江戸、東京)の地面を掘ると、土の色は黒ではなく赤茶、関東ローム層の火山灰で、赤土と呼んでいる。武蔵は、原野の開拓地、ふつう使っているような意味での伝統とは切れている土地です。

 強いてこの地の伝統といえば、常にスクラップアンドビルド(新陳代謝)を繰り返していることでしょうか。武蔵の古寺でそんなことを考えました。

 一方、人がやってくる前の原野の名残りがこの地にはまだあります。都内でもいろんな所に、すごい巨樹や樹齢700、800年レベルの古木がけっこうあって、それは原野の時代が今も絶えていない証ですから。そんな木を眺めるのは好きです。

 

 そうそう、骨董市の話しでした。境内の参道沿いに骨董の露店が並んでいます。 最初の一区画をすぎたあたりで、向こうで手を振っている人がいるのに気づく。先日の馴染みの業者さんでした。法華経寺のときと同じパターン! あれからまだ4 日。

 結局、今度は五代十国時代雲南の小皿を持って帰ることに。焼き物に深入りするつもりはないのですが、つい手が出てしまいました。今回は、やっぱり、物としてのたたずまいということでしょうか。

 ちょうど立冬の朝陽がピンポイントであたっているところにこの小皿がありました。 口径に比して背が高く椀のようにも見える。同じ出自の別の小皿と壷、全部で3点、それぞれプラス、マイナスのポイントがあるのですが、すぐにこれだと思いました。

 

 五代十国といえば、唐と宋の間の時代( 907〜960 )でしたが、その頃の雲南は中国の域外で、大理国という国があった。大理石は、この地から産出される石ということですね。

 13世紀、モンゴル軍は、対立していた南宋を上(北)と下(南つまり大理国)から挟み撃ちにする戦略をたて、中原の西を迂回するコースから大理国に侵攻しました(反時計回り)。・・・この発想のスケールは、名将として知られるハンニバルやナポレオンなんかを遥かに超えている。

 ちなみに毛沢東の長征は、モンゴルとは逆のルート、中原を時計回りに迂回して延安に落ち延びました。長征の記録を読むと、延々、険しい山脈や密林、大河、大草原、湿原の沼を徒歩で行軍して行くのですが、今だと冒険ルートといっても過言ではない。

 長征は20世紀のことですが、その700年も前にモンゴル軍はよく踏破したと驚くばかりです。

 中国の地勢を大きなスケールで見ると、真ん中が中原で、東は海、西は砂漠とヒマラヤの壁に囲まれている。魏、蜀、呉の三国志の世界を一回りも二回りもスケールアップして作戦を立てたモンゴル軍の地政学的戦略は凄いと思う。大理国はモンゴル軍に降伏し、その後、南宋は滅び元の時代になります。

 そのとき大理国の遺民が南に逃れ、タイの建国に至るという歴史がありました。そういえば、皿の口縁に付いている二本の黒い線、どこか彼の地の少数民族の描く模様に似ています。

 これも今から7年前に持ってきたという発掘品で、前回と同じく広州経由。このあたりのやりとりは、「南宋青磁の小皿」に書きましたので省きます。

  業者さん曰く、最近は、向こう(中国)でも値段が上がって商売にならなくなってしまったとのこと。7年前、2010年は、中国がGDPで日本を追い越した年、上海万博のあった年でした。

 前回、今回の2点、共に大したものではないですが、少なくとも真贋(本物、偽物)は、はっきりしているので、自分のような素人には、よかったのではないかと思っている。中国陶磁器の真贋の問題は複雑で、正直、自信がありません。

 

 ところで、よくバーゲンなんかで「掘り出し物」 と言ったりしてますが、それって元を質せば発掘品のことですよね。

 さらに、発掘品を商いにした始まりについて考えてみました。それは、ピラミッドとか古墳とか、中国では明器といって副葬品がありましたが、そこから掘り出した物を売りさばいた、つまり墓荒らしというか、墓泥棒だったのではないか? 

 ついでに・・・一昔前の本を読んでいると、古い窯跡を探して、埋まった陶器を掘り出しコレクターや骨董屋に売る発掘屋という職業(?)の話しが出てきます。昭和のはじめ、車や機械などない時代、自転車で現場に向かい、スコップで穴を掘っていた。

 伝説的な人がいて、大晦日に大雪の中、山に入って穴を掘っていたとか、発掘に夢中になりすぎ奥さんに逃げられ、三歳になる子供をリュックに入れて背負いながら穴掘りしてたという。つげ義春の世界を十倍濃縮したようなディープさ、つい横道に逸れてしまいました。

 

 胴に釉薬の滴が這っていて、もともと大雑把に作られた雑器で、その上、(今のわたしたちから見ると)場違いな感じの模様が目立つ、土が膜のように表面にくっついている。一言でいって野暮ったい。

 でも、自分の目には、そんなところは気にならず、いいところ(と、思い込んでるところ)に惹かれてる。人と人の間でも、そんなことあるのではないでしょうか。あばたもえくぼ現象みたいな。

 言葉や文字でうまく表現できなくてもどかしいのですが、こぶりの椀ほどの密なスケール感、すくっとしたたたずまいの存在感。外に向かって広がっていくような目を引く存在感ではなく、内に収束していくような存在感です。そして、見込みにガス星雲状の藍色ーー菫青石のような色が広がっていて、逆さまにし下から見上げるとプラネタリウムのよう。・・・こういったすべてが合わさって、何か特別なものに見えた、そういうことなんだと思います。

 南宋の皿のときとは、全く関係ないこと言ってます。あのときは、物に具現している完全さ、普遍性、そんなこと書きました。今度は、物としてのたたずまい。

 物と出合って、自分の内に湧いてくる情感を探っていくのは、謎解きのようでもあり、内観のようでもあり、けっこう面白い。

 朝、日の光で見るのと、夜、スタンドの光で見るのでは違います。また、手で持ってみて、指で触って厚みを感じたり、見込みを摩ったり、地肌をルーペで観察したり、ひっくり返して高台を斜めから眺めてみたり、指で軽く弾いて音色を聴いてみたり、手のひらで包んで重さを感じてみたりと、そんなふうにいじってると、なんとなく全体的に掴めてくるように感じます。

 そういえば、「陶酔」という言葉、陶磁器に惚け、愛玩するあまり、酔ったようになってる人がいたということに由来してるのではないでしょうか? ふと、そんな気がしました。

 

   会場を一回りして、まだ時間は早いけど、小山の中腹にいい日なたの場所を見つけ休憩。道路を隔てた向いのおまんじゅう屋さんで買ってきた高幡まんじゅうの包みを開ける。蒸してあって温かい。             

 そうか、最後も同じパターンで写真を撮ろうとシャッターを切りました。  

 

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南宋青磁の小皿

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 京成線中山駅にある法華経寺で年二回、春秋に開催される骨董市にいってきました。      駅から続くなだらかな上り坂に沿って門前町があります。寺は、起伏のある地形の一角、まわりは小山でその底面にあたる敷地に境内が広がっていて、山門、五重塔や大仏、いくつもお堂が建っている。

 上野、浅草や鎌倉なども広い敷地に寺社が幾つも建っている所がありますが、観光客が多く、ここのような静かで鄙びた感じはない。木立に囲まれた境内は、日が陰ると山の中のよう。

 近世、開拓地の風土ということなんでしょうが、 関東にある社寺は、樹木が多いのと、武家文化の影響でシンプル(質実)な感じですね。以前、大阪の生駒山石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)にいったとき、呪術的なコテコテさ、派手さにびっくりしたのを想い出します(正直言うと、西の方が面白い)。

 参道にある茶屋は、昭和 30〜40年代のレトロな雰囲気です。ここに来ている本当の目的は、こんな雰囲気にひたるためだったような気がします。

 

   そうでした、骨董の話しです。これは!というようなものはなかったですが、素見しているうちに、南宋青磁の小皿と出合いました。南宋青磁といっても、大仰なものではなく、わけありの発掘品が巡り巡って、行き着いた先が自分のところだった、そんな話しです。

 なんだか行き当たりばったりっぽいですが、別にひとつの分野、ひとつのテーマを追っかけてるのではないので、70 万年前のホモエレクトスの石器から仏像でも書画でも古今東西、ピンと来たものなら何でもいいといったわけなので・・・。

 

 初日の朝でした。会場を歩きはじめてすぐ、向こうで馴染みの業者さんが手を振っている。こちらは、軒を連ねている店の陳列台に並ぶ品々に気をとられ下ばっかり見ているのですが、その業者さんは、少し高くなっている敷石の上に立って来場者の中に顧客はいないかチェックしてるので、すぐに分かってしまうのですね。

 いろいろ話しがあちこち飛んだ末のことで、細かい経緯は省きますが、上の小皿を持って帰ることに。 2010 年に中国の福建省の古窯を発掘して出てきたものだとか。その手の発掘品は、だいたい広州に集まっていたので、そこで仕入れてきたといった話しでした。

 こういう発掘では、焼き物がたくさん出てくるのだけど、その中で、特にいいものは、写真に撮り図録に載せ、展示のために保管する。あと、そんなではないものを、労賃として分配してるのだとか。

 現場で穴を掘ったり、運んだりする人にお金は支払われず、代わりに発掘品を現物支給し、働いた人は、それを換金してお金を得るのだという話しでした。たしか日本の漁村でも地引き網漁で、網縄を引っぱる人たちが、網元から労賃代わりに、獲った魚を分けてもらうといった話しがあったのと似ている。

 ああ、もしかしたら現実は、もっと複雑怪奇かもしれない。というのは、昭和7年、 今から80年以上前ですが、魯山人が日本の古窯を発掘したときの話しが思い浮かびました。そのことを書いている本の一節を引用します。

 「・・・発掘中に、完器もしくはそれに近いものはみんな持ち出され、売りに出されていたという評判は度々耳にした。発掘した出資人の愛好者魯山人の手もとには、屑の破片が送られて来ただけだったかとも見受けられた。」(秦秀雄『やきものの鑑賞』)

 察するに、人の世の常として、近年行なわれている中国の古窯の発掘も、現場ではこんなことになっているのではないか。 優品の中でもだんとつのものは、公にならないまま流出し、図録にも載らず、展示もされず、どこかに収まっているのかも。

 

 青磁といっても、青っぽくない青磁。微妙な色で、光によりベージュにもアイボリーにも黄褐色にも見える。クヌギの落ち葉の色のみたい。南宋青磁について調べていると、釉薬焼成の具合により、黄褐色に焼き上がったものがあり、それを稲穂の色に見立てて米色青磁というそうですが、そんな系譜になるのでしょうか。

 表面は、透明感のあるガラス質で、発掘品によくあるカセはほとんどない。伝世品ではないので、表面のスレやいわゆる「育った」(人の手元にあっことによる経年変化)感じもない。

 一方、目立った傷はないものの、胴についたへらで圧したような筋や、見込みにニキビのような小さなでっぱりがあったり、口縁の一部にちょっとカセている部分があると、粗も見え、まあ、そんなものなのでといったところでしょうか。

 

・・・実は、胴についたへらで圧したような筋ですが、これは作られたとき誤ってついてしまった傷とばかり思ってましたが、中国青磁と日本の茶の湯の歴史を書いた本を読んでいたら、珠光青磁と呼ばれ、侘(わ)びの美の原点に位置づけられている南宋青磁の特徴だということを知りました。

 民窯で作られた雑器で、青さのない、青磁としての魅力に乏しい色、胴についた筋、こういったそれまでの青磁の基準からすればマイナス評価のものに、室町時代村田珠光という茶人が、侘びの美を見いだしました。この新しい流れを後に完成させたのが利休ということになっています。

 観念の世界のことなので、無から有が作れるわけですね。誰かが、なんのへんてつもない雑器の茶碗を見て、これが侘びだと言えば、その瞬間から、それまでこの世になかった侘びという観念が現れる。

 その誰かは、ほんとうは誰でもいいのですが、とりあえずカリスマ性のある人か、あるいはカリスマ性があるように演じられる人でないと按排が悪い。

 これは価値観の逆転なのですが、例えばヨーロッパのニーチェマルクスニュートンアインシュタインピカソみたいな全力投球型の力技ではなく、直観的な、機転を利かした、あるいは即興の手品みたいな技で、そういうのが日本文化の特異なところなのかもしれない。付け足しですが、こういう技は『無門関』のような公案禅とは相性がいい。・・・横道に逸れました。

 

 この皿にピンと来たのはデザインがシンプルでモダンな感じ・・・ありきたりな話しに聞こえるかもしれませんが、そんなデザインにプラス、見た目、ピカピカ、ツルツルで、街の雑貨や100均の店で売っている新品みたい、約800年前の南宋の時代に作られたものとは思えない、そんなところに惹かれたわけです。

 中国の焼き物の歴史を俯瞰すると、ざっくり言って宋の時代と清の時代の二つのピーク(黄金時代)があったといわれている。二つのピークを精神的な面で唐から宋の時代、技術的な面で明から清の時代という理解をしてもいい。

 焼き物の本を読むと、どの本もそんな歴史観になっていて、それが業界(骨董というか古美術の業界ですが)の定説になっている。

 焼き物に限らず中国文化全体の歴史を見ていくと、「唐詩宋詞」といわれるように、唐から宋の時代が最盛期だったように思えます。

 宋詞といえば蘇東坡。この人は現代にも通じる隠者でした。老荘は人気はあっても、現代とは時代が離れすぎていて、リアリティという面では通じえないのではないかと思っている。

 疲れた晩、蘇東坡詩選のページをめくっていると、人間の生の営みを 21 世紀の現代人と同じところまで見つめ書いているのを感じ、その普遍性に引き込まれ、安堵する。

 

 

 宋の時代の陶磁器については、 高い精神性とか気品に満ちといった記述を目にするのですが、それがある物(陶磁器)を評する核心的な指摘だと思いつつも、それだけでは観念的、抽象的で、よく分からないまま、そーなんだと納得しているのが実情ではないでしょうか。

 でも、小皿を見てて、ふと、こんなことを感じました。過去に人間が作ってきた物を、その機能とデザイン(彩色)という二つの異なる要素を両立させながら、それぞれの要素を突き詰めた物として、そのバランス、完成度を具現している物を探す、万物をそんな基準の篩にかけてチェックしてみたら・・・そんな目で見て、これはいいと感じられる物を指して「高い精神性」と言ってるのではないか、こんなふうに解釈してみた。

 精神性といっても、例えば、神道キリスト教のような宗教的な境地と解するのではなく、あるいは芸術作品や工芸品、また白樺派的な民芸の目線なんかともちょっと異なって、その時代の実用品として作られた物の中に具現している完全さ、普遍性を言っているのではないかと思うわけです。

  800年前に作られたもので、いまごく普通に、違和感なく日常の生活に使われるものに混じっていても気づかないぐらい普通な物ということは、それが物として完全な域に達してるということではないか。 これ以上、新しくなることのない物。いつまでも古くならない物。

 帰ってから、この皿、どこで買ってきたか分かる?と聞いたら、ニトリでしょ、同じような皿、あそこで売ってたと言われました。その答えは、ある意味、いま書いてることの裏付けともいえる。それは時間を超越してるということなのですから。

 その物の形状、デザインが現代的で、かつ古色がついてない物。いつの時代でも、その時代に生きている人の目に現代的なフォルムの、新品に見えるような物です。

 いま身のまわりにあるもので、服、椅子やテーブル、グラス、カバン、靴、携帯、財布、工具、鍵と何でもいいですが、 それをタイムカプセルに入れ、800年後に取り出し、未来の人間にまったく気づかれずに、その時代の普通の物として紛れ込んでしまうような物、あるでしょうか。

 

 上の写真は、境内の茶屋の向かいの土手を上って林の中で一休みしたときの一枚。もらった温泉饅頭(まんじゅう)をのせてみた。

 まんじゅうの包みを開けると、栞が落ちてきた。なにげなく読むと、群馬の伊香保温泉の和菓子屋さんで、伊香保温泉の茶褐色の湯の色をイメージして明治43年に発案したと書いてありました。これが温泉まんじゅうの発祥だとか。

 倒木に腰かけ、崖下の茶屋で買ってきた温かいお茶を飲み、まんじゅうを食べる。

 

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猫つながり

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 昨日の朝、 松陰神社駅で電車を待っていると、対向側に猫の顔を描いた電車がやってきた。

 車体正面の人相ならぬ猫相、それに白目のところが黄色ってことから、沿線の豪徳寺の招き猫を模したペイントのよう。後で調べると、路線の開通 110 周年の記念でやってるとか。ついでに、「地域活性化」という名分も唱われてます。

 路面電車で渋谷までつながってた頃は、みんな玉電と呼んでたんで、これは猫電。ひとり胸の内で「猫電」「猫電」と反芻し悦に入ってた。

 この電車は、三軒茶屋が終点(というか始発)で、田園都市線に乗り換えるのですが、そっちの路線にはクレヨンしんちゃん電車が走ってました。自分が知らないだけで、全国いたるところで、こんなラッピング電車が走ってるでしょうね。

 ほんとうはどうでもいいことなんじゃないかと思うのですが、ラッピング電車の話しは、世間の、世の中の話題にはなるようで、事実、わたしが、こんなこと書いてるのも話題にしてるわけですから。

 じゃあ、元来、へそ曲りの自分が、なんで世間の話題に迎合(?)してるかってことですが、それはまた別のモチベーションがあるからでして、そのことは文末に書きますので。

 

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 渋谷から副都心線新宿三丁目駅丸ノ内線に乗り換え西新宿駅で降りる。用事をすましてから、ちょうど近くのビルでやっていた催しをのぞく。

 会場内で、ふと、あるテーブルの端に、眼を引くものが・・・場違いな感じで、文字らしきものの彫られた石板が置いてある。何かピンときた。往往にして、こういうとき面白いものと出くわすことがある。

 インド人の業者に聞くと、何だか分からないけど、ハッダから出たものだという。ハッダといえばアフガニスタン東部のクシャン朝時代の仏教遺跡のある地で、近年、盗掘品が市場に出回っている。たぶん、これもそのひとつじゃないかと思う。

 そういえば、昨年、上野の東京芸大の美術館で、アフガニスタンの流出文化財の展示会がありました。これは日本国内で発見されたアフガニスタンで盗掘された壁画や仏像などを集めた展示で、この後、アフガニスタンに戻されるとのことでした。

 仏像と彫像の数は38 点で、全てがハッダ、あるいはアフガニスタン東部から出たものでした。自分の見聞から察するに、推定その十倍以上(もしかしたら数十倍)の数の、同じ出自の仏像、彫像が国内のコレクターや古美術商のもとに収まっているんじゃないでしょうか。

 そのインド人、ウン十万と言ってきた。なるほどね、当然、それは向こうの言い値で、交渉で落ち着く値段、だいたい見当がつきます。

 面白いとは思いつつ、触手は動かなかった。おそらく本物、でも、こういうのに片っ端に手を出していたら、すぐに破産してしまう。ものには優先順位ってことがあります。彫像で状態のいいもの、なにより、それが美しいと感じたものならまだしも。

 

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 それから新宿駅に。東口地下改札口のすぐ隣りにあるベルクで一休み。エッセンゲルクというランチプレートを注文。

 いろんなものが、ちょこちょこと載ってました。ドイツ風なんですが、ちまちましてて、どこか日本っぽい。カウンターテーブルで立ち食い。

 最近、新宿にいくと、よくここに立ち寄る。この店の雰囲気、1970年代の新宿や池袋とか、お茶の水、吉祥寺とか、いろんな街にあった喫茶店とつながる何かを感じます。

 「ベルク通信」という無料のミニコミ新聞が店先に置いてあって、それに目を通しながらコーヒーを飲んでいると、なんかホッとした気持ちになる。

  長い間、浅草や野毛の街がそうであるような場末美の方に傾倒してたので、ベルクのような普通の人で混んでいながら、互いに干渉しない心遣いと、さっぱりしていて、そして親しみのある雰囲気の店って、すっかり忘れてました。

 忘れていた記憶には、サーッと体を吹き抜ける薫風のような爽やかさがありました。

 振り返ると、 70 年代からバブルの前ぐらいまでの間、喫茶店文化みたいなものがあったように思います。当時は、日常のごく自然な光景でしたし、例えば骨董品みたいに物として残ってるわけではないし、今は誰もそういう記憶、口にしないので、そのうち何もなかったかのように消えてしまうんでしょうか。

 現代は、コンビニやコーヒーのチェーン店が典型ですが、店の人とお客の関係がマニュアル化しています。

 ベルクは、マニュアル化する以前の世界にあった店とお客の関係を再現しようとしているように思えました。要は、人と人との関係性の作り方ということで、結局、それが店の雰囲気として現れるんですね。

 

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 山手線で渋谷に。ここで、一件、用事をすませてから帰ることになってて、スクランブル交差点に向かい歩いてると、向こうのハチ公のまわりに人垣が出来ている。

 ハチ公の像といえば、昔は、待ち合わせ場所だったけど、近年、海外からの旅行者が記念撮影する観光名所になっている。いつも人が多いところですが、この日はいつに増して多い。根が野次馬なので、見にいく。

 近づくと、人垣からタイ語インドネシア語が聞こえる。アジアや欧米の家族連れが次々、銅像の横に立って記念撮影をしている。順番待ちもできている。

 ハチ公の銅像の足の下で猫が寝てました。いつもより人が多いのは、この猫の存在でした。

 誰かが、当然、近くにいてここを見ているはずの誰かが、愉快犯的なノリで猫をそこに置いてるんでしょうか(?)。あんな場所で猫が動かずにずっと眠り続けてるのも妙な気がしました。

 朝の猫電車に続いてハチ公猫、と猫つながり!・・・自分の内ではこれはもうシンクロニシティになっちゃっている。だから何? と問われても言葉に詰まりますが、とにかくその勢いで書いたわけです。

 

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逝きし世の浅草の絵

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 「浅草スケッチ 昭和十三年」と裏の板に書かれている絵、一目でどこか分かった。中央の石橋は、浅草寺の本堂の西側の池にかかっている「神橋」。都内最古の石橋といわれてます。

 橋の上に着物に髷を結った女性が二人、下の池に白い鯉が泳いでいる。 後ろに浅草寺の本堂が見えます。この本堂は、昭和 20 年3 月 10 日の空襲で燃えてしまう。橋と建物の位置関係などは、今とそれほど変わっていません。

 なんでこの絵を選んだかというと、やっぱり大好きだった浅草、それも戦前の浅草を描いてるからでした。昭和13年(1938 年)の浅草の時間が、その時点で止まったままキャンバス上に絵具で固着されている。

 

 作者は、近藤晴彦という北海道出身の洋画家で、戦前、東京の風景を好んで描いていたということぐらいしか分からない。詩人の西脇順三郎と親しかったとか。

 ときどき、絵を購入している。昭和の戦前、戦後に活動し、すでに故人になっている画家の中には、ほとんど顧みられることもなくなっている人も多く、そんな画家の絵です。

 はじめの頃は、シュールレアリズムの絵に目が向いてましたが、そういう絵は観るのが疲れてきて、自然に風景画を選ぶようになっていった。水辺の景色が多い。

 

 浅草寺は、7 世紀の中頃に創建されました。でも古い建造物はほとんど残っていない。戦前、国宝に指定されていた五重塔と本堂、それに仁王門(宝蔵門)、どれも木造で空襲により焼失しています。戦後、それぞれ再建されましたけど、みんな鉄筋コンクリートの建造物になっている。

 いま残っている建造物で最も古いのは、江戸時代初期の元和4年(1618) に作られた神橋、二天門、六角堂の三つ。二天門は、補修工事によって見た目は新築ピカピカ、古い姿を留めているのは神橋と六角堂ぐらいです。

 

 少し脇道に逸れますが、浅草寺の仏像について、なんか腑に落ちないことがあります。

 いま浅草寺の境内にある仏像は、古いものでも江戸時代に入ってから、17 世紀に作られたものです。飛鳥時代に創建されたという寺なのに近世以降の仏像しかないのは、どうしてなんだろうか? 常々、疑問に思ってました。

 秘仏の本尊(観音様 7 世紀)、それに木彫りの前立本尊(9 世紀)という仏像があるということになっていますが、その話しは、茫洋としてどこか眉唾物っぽい。

 まず本尊は、絶対秘仏、つまり絶対公開されない仏像ということで、本当に存在してるのかどうか分かりません。

 前立本尊の方は、年に一度、開帳されている。とはいえ、拝観者からは離れた距離にある厨子の奥、扉に挟まれた仏像を拝むという形なので、あまりはっきりとは見えない。

 望遠レンズで前立本尊の仏像を写した写真がありますが、骨董の世界をちょっぴりかじってる自分の目から見て、木像の古色(材質の経年劣化)の具合は、平安時代に作られたものといえるのか悩ましいところです。比較的新しい江戸時代以降に作られたものだとしたら納得できます。

 ・・・もしかして、こういうこと寺の関係者の間では、みんな真相を知ってて、野暮な話しなので口外しないだけなのかも。

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   (現在の神橋。だいたい上の絵と同じアングルです)

 石橋の話しに戻ります。神橋は、今は渡ることができず、眺めるだけですが、以前から、その特異な存在感に見蕩れてました。

 特異な存在感とは、どういうことでしょうか? そのひとつは、建造物のスケール感です。先ほど、橋と建物の位置関係などは、今とそれほど変わっていないと書きました。しかし、江戸時代の世界と現在を比較すると、物(建造物)のスケール感は異なっています。

 一例をあげれば、浅草寺の一角にある被官稲荷、幕末に建てられた社殿に足を踏み入れると、最初、何か妙な感じがするはずです。浅草寺の境内にある浅草神社(三社様)の裏にあるこじんまりした社が被官稲荷ですので、今度、行ってみてください。

 妙な感じというのは、柱や鴨居、間取り、屋根、天井など全てが縮小したサイズで出来ていて、小人の国に迷い込んだかのような気分になるからです。

 江戸時代の平均身長は男性155 〜157センチ、女性は143〜145センチで、昭和初期までだいたい変わらなかったようです。

 神橋を実測した数字を見ると、とても小さいんですね。欄干も低く、絵では人のお腹ぐらいの高さがあるように見えますが、現代人だと膝の上・・・は大げさにしても、腰までないぐらではないかと思う。

  ふと、枕草子の〈なにもなにも、小さきものはみなうつくし〉と書いている一節を想い出しました。

 

 もうひとつ、なんだかよく分からない、言葉にならない何かを感じてたのですが、改めて、よく考えているうちに、ふと気づいたことがあります。

 それは、長い年月、雨風に晒された石の醸し出す印象でした。この場合、少し変わっているのは、それが野山にある自然状態の石ではなく、常に大切に扱われながら付いた古色、独特の味だというところです。たぶん、それに感応してたんじゃないか。

 敷石の色は、微妙に緑の入った灰黒色で、緻密で光沢のある石質。察するに、こういった特徴から、使われたのは江戸時代に真鶴から運ばれた小松石だと思います。安山岩で昔から石材として有名な石です。

 ぶ厚い敷石は、真ん中が凹んだ形で滑らかに湾曲している。これは、およそ300年の間、人々が草鞋や下駄を履いてこの上を歩き、磨り減った痕跡です。堅牢な石がこんなに窪むほど、同じ石の上を10 世代以上、信じられないぐらい多くの人が通っていたなんて想像すると、センス・オブ・ワンダーの感覚になる。

 現在も小松石は建材として用いられており、クオリティによって4 つに区分けされているようで、最も秀でたものは通称、大トロと呼ばれているとか。この呼び名、神橋の敷石を見ていて、なるほど!とつながりました。

 神橋を見るとき、季節の移り変わりの中で、いちばんいいなと思っているセッティングは、梅雨や秋霖(しゅうりん)の日の眺めです。

 というのは、長い年月、擦り磨かれ、ねっとりとした石肌が雨に濡れると、緑の黒髪ような色に深まるからですーー質感と色感の共感覚というと大げさかもしれませんがーーたぶん、自分はこれに感応してるのではないかと思います。

 なんだか古硯鑑賞、書の硯を水に浸して眺める、中国の宋の時代に生まれた一種フェチ的な趣向ですが、それに通じるように思います。そういえば、昔から玉(ぎょく)の名品を脂玉といったり、骨董の業者の口上で木工の品をトロトロといったり(刀の鍔まで、そんなふうに言ってる人がいる)、硯だけでなく、そういった感触の美(?)を尊ぶのは、いにしえの中国に由来しているのかも。

  話しが右往左往してますが、神橋の敷石の話しでした。このねっとり感、大トロとは、巧いこと言うなと思った次第です。  

 

 昭和13 年というと、前年に日中戦争がはじまっていて、 3 年後に日米開戦になる。その年の3 月ドイツのオーストリア併合、 4 月国家総動員法公布と国家的には準戦時体制に入っていた時代。

 その頃、ものの本によると、すでに息苦しい世の中になっていたとありますが、浅草の周りの時間は、そういう世間の時間とは少しずれていたのではないか。希望的観測も交えてそんなふうに思ってる。

  昭和 13 年は換算すると、明治 71 年に当たる。その時代、父親や母親が江戸時代の人という世代がいました。江戸時代の人たちの生活、暮らしや気風、風俗を書き残した文筆家として有名な三田村鳶魚岡本綺堂といった人たちが、明治の初めに生まれているというのも、まだ江戸の記憶が人々の間に残っていたということが大きい。

 特に、浅草は、大局としての文明開化の時代にあっても、前時代の江戸の遺風が残っている土地でした。自分なりにそんな実感を感じていることなのですが、それについては、別の機会に書いてみたいと思います。

 

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