手塚治虫さんの3つの夢

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 近くの公園、一本だけ満開の桜。タカトウコヒガンという名の伊那盆地、高遠の彼岸桜でした。少し離れたところから見ると、小振りの淡い桜色をした花が枝を覆っている様は、まるで大きな綿飴のよう。

 杏(アンズ)と木瓜(ボケ)の花は、ほころびかけている。ボケの深い赤、クリムゾンレッドは、ガーネットの色でした。それにしても目が痒くて痒くて、今年の花粉は酷です。

 前回の「竜涎香の香り」は、まだ途中ですが、ちょっと別の話題になります。よくいく浅草の喫茶店、ピーターの壁に吊るされてた「手塚治虫カレンダー」の話しです。 

 月毎に一枚めくると、手塚さんの言葉が載っている。

 月はじめ、カレンダーの言葉が新しくなり、なんとなく目に入ったけど、特に印象もなくその場で忘れてしまった。

 次の週、カレンダーを見て、なんか変わったこと書いてあったっけと思い出した。

 三週目、改めて見直し、けっこういいこと書いてあると気づく。この言葉は、人の純粋さの極致だと思いました。

 月末の四週目、カレンダーを切り取ってもらってきた。こんなことが書かれている。

 

「昔から人間は3つの夢を持っている

 ひとつは空を飛ぶこと

 ふたつめは変身すること

 もうひとつは動物と対話すること」

 

 この3つの夢は、当然、手塚さん自身の夢であるとともに、全ての人間にとっての夢だと(手塚さんは)思ってたはず。

 この夢って、要は自由のことですよね? だって、空を飛ぶのは重力からの自由、変身は自分(自己同一性)からの自由、動物と話すのは人間世(人間界)からの自由ってことでしょ。老荘の道、仙術に近い。

 自分からの自由って分かりにくいかもしれませんが、要は、荘子の至人に己なしのことです。

 

 大人になると、夢といっても社会的な成功とかお金、ステータス、名誉みたいな、現実的な夢になるんでしょうか。不老不死とか、宇宙人に会いたい、タイムマシーンで未来にいきたい、その手の夢、当分は無理(?)っぽそうですし。

 この3つは、そういう大人の夢とは違って、社会性の芽生える前の成長段階、幼年期の夢ということかもしれない。

 手塚治虫という人は、幼な子の魂のまま大人になった、しかもマンガ家で生活できたのでそのまま一生を終えた稀有な人のようです・・・人の純粋さの極致だと思ったのは、そんなことからでした。

 

 空を飛ぶことが昔からの人間の夢だということについて、最近、気づいたことがあります。オリンピックで新たに加わる競技は、どれも空を飛ぶことの代償行為だと思うのですが。

 来年の東京オリンピックには5つの新競技が加わります。その5つの競技の中で2024年のパリでも採用候補に入ってるのはスケートボード、スポーツクライミング、サーフィンの3競技。パリではブレークダンスを加えた4競技が候補に上がっている。

 この4つの競技は、実際には空を飛べない人間が、斜面を下る加速や波の力で僅かの時間浮遊したり、高い所に登ったり、体を回転させたりと、どれも空を飛んでる状態の一部分を模したものです。

 20世紀のオリンピックは、時間や距離の記録を競ったり、球技の点数を競ったりする競技がメインでしたが、ここにきて、21世紀もそれなりに経過してきたので、前世紀とは異なるトレンドが見えてきた。

 

 そういえば、3つの夢と同じことが、ネイティブアメリカンやアボリジーニといった先住民の人々の言葉を集めた本に出てくるのを思い出しました。

 先住民のシャーマン、例えば、昔、読んだドン・ファンの教えとか、ペルーのパブロ・アマリンゴさんの回想などの中に、空を飛んだり、変身したり、動物と話す話しが出てきました。

 ところで、シャーマンの目的は知恵を得ることで、飛ぶ、変身、動物と話すのは、その途中にいろいろ出てくるエピソードというかメタファーみたいなもので、いわば副産物です。

 

 また、空を飛んだり、変身したり、動物と話すのは、どれも能力に属することです。能力と言っても人間の能力では不可能なことができるのですから超能力ですね。 

 仏や菩薩は6つの超能力を持っているとされ、それを六神通と言います。手塚さんの3つの夢は、六神通の中の二つ、神足通、他心通に当てはまる。とはいえ、六神通のような超能力は、覚者の徴(しるし)、証明であって、それを獲得することが目的ではなかった。やはり副産物でした。

 

 副産物とニ度書いてますが、手塚さんの夢を貶めたくはありません。幼な子の魂と覚者の悟りを比べて、どっちが上かなんて言い出したら、もうかなりおかしいですから。

 薬の作用と副作用と別々に呼んでいるのも、人体にいろいろな作用が起きるのを人間の都合で区分けして呼んでるだけでした。シャーマンとか仏教とか、そういう枠組みから自由になれば、目的も副産物も区分けなくなる・・・なるほど、神仙ヨガ界ってこんな世界なのかもしれない。

 人間の意識の世界を図表化したスゴロクみたいな表があるのですが(金井南龍という古神道の行者の人が描いたものです)、神界や霊界、仏界といった割とメジャーなエリアとは別に神仙ヨガ界というエリアが独立峰のようにありました。

  日本的霊性の目からすれば、インドのヨガと中国の道教・仙術は、同類として一括り見てたわけです。要は、人間のミュータント化と見ていたはず。

 長い間、折にふれそのスゴロクみたいな表を見直しては、あれこれ解釈したりしてきたのですが、いまいち腑に落ちなかったエリアでした。ジグゾーパズルでどうもうまく嵌らない一片みたいでした。

 「スゴロクみたいな表」といわれても意味不明かと思います。端折って、始まりが人間界で、上がりが神界というスゴロクだと思ってください。人間界からスタートして最初に生と死の2つに別れ、仏界とか霊界とか、またそこからも先に繋がっていたり、一方通行だったりするルートが伸びている、そんな表です。

 神仙ヨガ界はマニアックな感じのエリアで、変人、奇人の寄り集まりと言えなくもないのですが、手塚さんの夢を糸口にして見えてきました。

 

 手塚さんの理想とした地球は、国家も社会も存在しない世界連邦のような調整機構と、男と女、大人と子供の区分けのない人間個人がいる世界のように思えます。人種、民族、宗教の区分けもなくなっているか、あったとしても空無化した地球人の世界。

 こういう言い方は、奇異に聞こえるかもしれませんが、手塚さんの考えは個人主義アナーキズムだったのではないでしょうか。

  さらに、手塚さんの心の内では、人間と動物の区分けもないような世界までいってたんじゃないか。このあたりは、いまの世界では理解されないだろうと表に出すのを自制していたのだと思う。

 いまの地球の現状からすれば、手塚さんの理想は、夢物語りですが、人間は紆余曲折を経ながらも長期的スパンでは、幼子の魂の導く方向に引きつけられていくのではないか、そんな気もする。意識的に目指すというよりは、無意識に惹きつけられていくように思える。

 1000年ぐらい先でしょうか、31世紀の世界はそうなってるのかも。それまでの間に人間が滅びているかもしれなくて、けっこうその可能性あるんじゃないかと思ってるのですが、とりあえず人間はまだ存続しているとして。

 古代の発掘品を集めていて感じるのですが、千年、二千年ぐらいはすぐ経ってしまうんですね。

 

 四国八十八箇所のお遍路さんとか、あるいは、深田久弥の日本100名山を全座登りたいとやってる人いますが、いえ200名山、300名山まで目指してる人もいる。

 ・・・昨日のニュース。「オリンピックおじさん」亡くなられたのですね。14大会連続でオリンピックの応援に出かけていた人。4年x14回=56年! すごい。この方、若い頃、あの阿部定と遭っていて「あんたね、男は人生一代だよ」と言われたとか。御冥福をお祈りします。

 

 手塚さんの夢の方は3つなので、88や100、200、300よりずっと楽(?)。夢の実現、簡単には出来ないでしょうが、「人生一代だよ」の心意気でやれば可能かも(?)。

 トライしてみる人、いるでしょうか。自分は毎日、犬と対話しています。ああ、正しくは、対話しようとしていますですが。

 

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竜涎香の香り(1)

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 上の写真は竜涎香(アンバーグリス)。竜涎香はマッコウクジラの体内で生じた結石様の塊を乾燥させたものです。その塊は通常ヤシの実ほどの大きさで、写真は、それを小分けしたもの。

 香りを確かめたくて、4カ所から集めました。サンプルが一種類だと、こういう香りだと言い切るには不十分に思え、伝を頼って探してきました。(左から以下の4つ)

1.理科実験の試料を扱っている日本の業者さんから購入したもの。僅かに粘性のある黒茶色の粒。

2.ドバイの香の店のもの。素焼き粘土のような灰色の塊。

3.マスカットの香の店のもの。脆い砂岩のような灰茶色の粒。

4.カタールの香の店のもの。発掘した陶片のような灰黒色の塊。

 

 ドバイ(アラブ首長国連邦)、マスカット(オマーン)、カタールは、アラビア半島ペルシャ湾オマーン湾に面した一角にある国々、いわゆるアラビアです。

 アラビアは日本とはかなり違う風土、ヨーロッパやアフリカ、南北アメリカよりも違うのではないでしょうか。半島といっても面積が日本の約7倍と巨大(半島全体の面積の80%が石油で知られるサウジアラビア)で、大部分は砂漠。そこにイスラム教の国が5つある。

 7~8世紀、海岸に打ち上げられた漂流物(竜涎香)が美香を発することを発見したのがアラビア人でした。以来、現在に至るまでアラビアは竜涎香の主要な消費地というだけでなく、アラビアンナイトの物語に登場しているように、伝統文化の一部になっています。

 伝統文化と書きましたが、オマーンでは乳香に関連した旧跡や交易路、乳香木の群生地などが世界遺産になっているほどで、アラビアは世界で最も香の文化の栄えた地域でした。また、今日でも盛んです。

 竜涎香は、中国、そして日本にも伝わりましたが、いろいろな種類の香の中で、それほど大きな存在ではなかった。よく知られているように、東アジアでは香の中でも沈香が抜きん出た位置を占めてきました。

 竜涎香の香りは、アラビアの人々にとって、この上なく相性が良かったのだと思います。ある香と相性のいい民族、それほどではない民族というような関係があるのではないでしょうか。

 その相性は、土地の気候、風土や住んでいる人々の体質、感性、嗜好などが関わっているのかもしれない。・・・と、思いつつも、そういう理由付けは、後解釈で辻褄を合わせているだけかも、という気もする。

 日本で沈香が香の中心になったのは宋の文化の影響でしょ、後に成立する茶道や華道や香道など始まりはみんなそう。鎌倉時代以前の貴族文化のころの香を調べてみると、けっこう竜涎香の香りと相性合っいそうなので。

 

 4つを、固形状態(乾燥させただけの破片)のままの常温での匂い、それと電気香炉の低温(60~70度)で熱したときの匂いを比べてみました。あまり細かい話になってもしょうがないので、大まかにまとめた香りの印象を書いてみます。

 

 常温のもとでも、どれも香りが分かります。動物性の香の麝香や霊猫香は、常温でははっきりしない曖昧な香りなのに比べ、竜涎香は、共通した香りの個性があるのが分かる。

 分かるとはいえ、そのままでは弱い香りです。でも、一週間ぐらい、日に何度か繰り返し嗅いでいると、最初のころは曖昧だった香りがだんだんはっきり分かるようになってきました。

 後に思いついたことですが、竜涎香それ自体の香りを堪能するには、常温のままクンクンしてるのがいいのかもしれません。・・・これでは香ではなく匂いフェチですが。

  

 ところで、いざ香りを言葉で表現しようとすると、なかなか難しい。

 竜涎香について調べていたとき参考になったのは山田憲太郎という人の本でした。この人は、香料会社に勤めた後、学者になり、語学、歴史、文学方面にも造詣が深く、世界の香料史を終生のテーマとし何冊も本を書いています。 

 山田憲太郎さんは、竜涎香の香りについて、こんなふうに述べています。

 

 「精力的で粘っこく、はなはだ甘美でなまめかしく、強くはげしいようでしとやかに、いついつまでも匂いのただようのがアンバル(竜涎香)である。」(山田憲太郎『香談 東と西』)

 

 魅惑的な香りのイメージ、雰囲気が伝わってくる文章で、初めてこの本を読んだとき、この一節で自分も竜涎香に惹かれてしまいました。その一方、抽象的な表現なので、一体どんな香りなのか、つかみようがないところもあります。

 そこで、自分としては、具体的に特定の香りを引き合いに出して、竜涎香の香りのイメージを描いてみました。

 4つそれぞれ、香りに若干の強弱があり、また甘みを感じられるもの、より薬っぽさを感じるものなど細かくは違いがありますが、共通しているところ(香りの最大公約数とでもいえばいいのでしょうか)を言葉にすると、シンプルにこんな香りです。

 

 仁丹や龍角散の匂いといえば連想できると思います、あの一種の清涼感のあるクールな生薬っぽい匂い・・・それにプラスして沈丁花の芳香、この二つを「生薬っぽさ6~8」対「沈丁花っぽさ2~4」ぐらいの比率でミックスした香りを頭の中でイメージすると竜涎香に近いと思います。連想できるでしょうか?

 

 補足しますと、多くの人が知っている芳香植物として、沈丁花クチナシ金木犀があります。それぞれ香気が異なるので比較対象として分かりやすいのであげてみました。その中で、竜涎香と似ているといえば、一も二もなくはっきりしていて沈丁花です。ちょうどいまが開花期ですね。

 近世のヨーロッパ人は、竜涎香をコスメティック(化粧品)の匂いとして賞美したそうですが(山田憲太郎さんの本からの知識)、竜涎香の中に沈丁花のような香りを感じると、ああ、この香気を香水やオーデコロンに転用したかったのだな、と納得できます。

 そうでした、樹脂系の香、ラブダヌムの匂いはかなり似ています。予想外によく似ていました・・・これは、今回、びっくりしたことの一つです。

 アラビアでは、歴史的にラブダヌムの方が古くから知られていて、竜涎香はラブダヌムに似た香りだったので関心を集めたという経緯があったのですが(これも山田さんの本から)、もっともだと思いました。

 

 少し横道に逸れます。平成に入ってから顕著になってきたトレンドですが、公園や公共施設、緑道、マンションの敷地、道路脇の植込みなど至る所に沈丁花クチナシ金木犀が植えられています。

 昭和の頃も民家の庭木としてそれぞれ植えられてはいたけど、公共空間にこれほど画一的に植えられてはいなかった。温帯の樹木で、花の香気が強い植物といえば、この三つぐらいだからでしょうか。

 でも、沈丁花クチナシ金木犀は、昔からの日本の自然にある香気とは異質な香りですし、どんどん植えられているので、開花期になると、どこでも同じ香りが漂ってきて、自分には、なんかワザとっぽく、不粋に感じられるのですが。

 

 竜涎香という名称が半ば伝説化している上、希少な存在なので、類い稀な美香かと思いきや・・・。いろいろな香を聞き分けてきた、香りに関心のある人でなければ、別になんということもない香りといった印象かもしれません。

 今の日本人だったら、子供の頃から多様な合成香料で香りずけされたお菓子や飲料、芳香剤、石鹸、洗剤、フレグランス・・・と接しているので、そういう香りを知らなかった、香りにうぶな昔の人たちが竜涎香の香りと出会ったときの印象とはずいぶん違うはずです。

 アラビア以外の地では、クジラから採れるといった突飛な由来や媚薬的な香料でもあったとか、最近では海岸で拾った塊が法外な値段で売れたとか、そんな夢物語ふうの逸話の数々がプラセボ効果を生んでいるようです。

 しかし、現実には供給量が極めて少ないので体験者がほとんどいない。体験者のいないプラセボ効果って変な現象ですが、結局、都市伝説に転化していくということですよね? 愚直というか野暮なこと書きました。

 ここまでは、常温のときの匂いでしたが、加熱すると、趣が変わってきます。

 次回は、加熱したときの香りについて書きます。

 

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かわいい古代 インダス文明の宇宙人?

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 2月は今日でお終い。今朝、住宅街の一角に沈丁花の香りが漂っていました。暖かな日には、香気の発散が増して香りが強くなる。毎年、この香りを聞くと、冬の終わりを感じます。

 かわいい古代、ついでにもう一つ。パキスタンアフガニスタン国境沿いのクエッタ近郊の発掘品。この辺りは古代インダス文明圏です。

 同じサプライヤーから彩文土器やコブウシの土偶なんかも一緒に入手している。

 動物のような怪獣のような・・・人ではないし、牛や馬、ヤギ、羊、犬、猫でもない妙な動物。材質は粘土を素焼きしたテラコッタです。

 めくれ上がったクチバシみたいなヘンテコな鼻、下顎は平べったく小さい。トカゲ、竜? 猪、豚の類? アヒルとか鳥ではないし、こんな動物、いるんだろうか。

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 同じ州のメヘルガルからは、宇宙服を着たエイリアンみたいな小さい土偶も発掘されていて、まさかこれも宇宙人? 顔つきからするとレプテイリアン(ヒト型爬虫類)か?

 なるほど、それなら変な顔してるのも納得できます。でも、かわいくて、そして、なんか抜けてる感じ。高度な知性とか、あるいは攻撃性とか、そういう雰囲気はありません。こんな宇宙人、いるんでしょうか。

 面長でまん丸の目、マンガっぽい鼻、見た人は、思わずブッと、笑います。 ひょっとこみたいと言った人もいました。そういえば、ひょっとこのお面、あれってレプテイリアンじゃなの?

 古代の発掘品といっても、現代人の目には、ふざけ半分で作ったみたいに見え、ふつうイメージしている古代っぽくはないんですね。

 そんなところが、「かわいい」にプラスして現代っぽい「ポップカルチャー」的なものとしてあげてみた理由でした。

 

 南太平洋で発見された鼻で歩く特異な動物の話、『鼻行類ーー新しく発見された哺乳類の構造と生活』って本がありました。鼻で歩くというアイデア、かなりの奇想です。

 耳で空を飛ぶダンボよりも、奇想さ、変さ加減では上いってるように感じる。

 鼻を使って歩くって・・・なんなのでしょうか、この澱(おり)のような情感。

 ブリューゲルの絵なんかと通じる何か得体の知れない情感。画家は、人が目に見える形で表現するのですが、文章は読み手が頭の中で著者のイメージを再現する形をとるので、より抽象的でその分、気味が悪い。

 不思議とか、神秘とか、そういう系統の情感とはちょっと違う。

 あえて言葉にすると、現象世界のいちばん表面にありながら、これまで誰も思いつかないイマジネーションがあることに気づいたとき、3次元世界の現実に死角があるなんて思ってもみなかったこと、そんな比喩になるでしょうか。

 

 怪異な相貌ということでは、古代中国の玉の彫り物、漢代やそれ以前のものによくあります。あるいは古代エジプトギリシャ、ローマ時代の発掘品をはじめ世界各地で発掘された神像には、現実の人や動物ではありえないような相貌をしたものがたくさんある。

 でも、自分の知ってる限りでは、顔の造形でデフォルメされているのは、主に目と口で、それに比べると鼻や耳は影が薄い。耳は外縁部の側面についているので、存在感が薄いのはもっともかもしれませんが、鼻はまさにど真ん中にありながら影が薄い。

 頭の中の思考、空想、想像、妄想ならなんでも考えられる、過去や未来だって考えられる、人間の究極的な自由は思考だと語っていた人がいた。『死霊』という小説の作者の最晩年の言葉で、以前はこの人の文体や評論の雰囲気に呑まれてて、そうだ、そうだと思ってましたが、どうなんでしょうか?

 案外、人類のイマジネーションって類型化されているのかも。ユングはそれを元型と言ってました。

 そういえば、現代のマンガ、アニメでも、人の鼻はあるような、ないようなぐらいに描かれてる。まあ、二次元なので凹凸はしょうがないのか。

 

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かわいい古代 ルリスタンの発掘品

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 「かわいい古代」の続きです。昨日と同じように古代の発掘品の中から、「かわいい」にプラスして現代っぽい「ポップカルチャー」的なものを選んでみた。条件が、かわいいだけなら、それなりにあるのですが、二つの条件になると、あまり多くはないんですね。

 上の写真、妙に能天気でヘンテコな感じ。イランのルリスタン青銅器の山羊や馬と一緒に入手したもので、同じ時代、地域の発掘品だと思っています。

 見た目、表面は錆びた青銅のようですが、案外、軽く、ひっくり返して内部をよく見ると、材質はガラスでした。陶磁器ではない。作られた当時としては、かなりの技術だったはずです。

 

 ルリスタン青銅器について端折って引用しときます。

1920年代末から、イラン南西部のルリスタン地方で出土した特殊な青銅器をいう。住民の盗掘によって市場に出現したものがほとんどで、学術的な調査を経たものはない。・・・その動物意匠から騎馬民族のものであると考えられる。・・・青銅器の大部分は紀元前8~前7世紀にかけてのものと推定される」(小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』)。

 

 地図を見るとルリスタンは、イランの西部、イラクとの国境に近いザクロス山脈あたりです。・・・横道に逸れますが、書いていてザクロス山脈のイラク側の山の中を延々、移動していたことを想い出しました。

 三日月型や台形と奇怪な形をした山々、断崖絶壁、硫黄のような異臭ガスのたちこめる谷、草木の生えていない土漠、政府軍の支配地区、地雷原や不発弾の合間・鉄条網の塹壕をぬってひたすら南に進む。山脈がバグダットに近ずくところに目的地がありました。

 そこは、四方が険しい岩山に囲まれた自然の要害。いたる所に泉が湧いていて、大きなイチジクの木や野生のブドウが生えているオアシスでした。

 見渡す限り岩の広大な空間の中で野営し寝起きしていると、聴覚の感覚が変わっているのに気づいたし、遠近感の錯覚で、10キロ、20キロ先の岩がすぐ近くにあるように見えたりと不思議な場所でした。

 このとき人生でいちばんたくさんイチジクを食べた。木は幹も枝も太く横に伸びているので、梯子のように登りやすく、いくらでも捥いで採れました。日本のイチジクよりも大振りで甘くクリーミー、泉で冷やし食べた味が忘れられない。

 そういえば、ここのイチジクは葉も大きかった。このあたりはメソポタミア文明のあったところで、創世記のアダムとイブのいた場所も近くだったと言われています。イチジクの葉っぱで体を隠すというのも、あれぐらいの大きさでないと用をなさないのですね。  

 クルドの人々は純情な人が多かった。また、人情の厚さには、本当に驚きました。

  このままずっとここにいたらいいんじゃないかとよく言われた。でも、浦島太郎みたいな話になりそうでやめました。

 無政府状態でお金はいらないし、そこにいたときのことを想い出すと、国家、国境、行政機関、法律、貨幣・・・そういうもののない天地に人がいるだけという感覚が蘇ってくる。

 あそこを解放区とか、アジールとか、客観的な呼び方はいろいろあるかと思いますが、自分は主観的な呼び方で、青天井というのがぴったりくる。

 いくらお金をかけてもそこにいけないけど、そこにいくのも、そこにいるのもお金のかからない場所、青天井って、そういうところだった。

 ザクロス山脈一帯は、イラク側、イラン側ともに山岳民族といわれていたクルド人の人たちが住んでいる土地で、地元では事実上、国境はなく、自由に行き来してました。 金髪、青い目の子供たちがいたり、また、モンゴロイド系の日本人みたいな顔つきの人もいて、いろいろな人種が混じり合っている。

 クルド人の中には、かってルリスタン青銅器を作った人たちの末裔(の一部)もいるはずです。

 

 話を戻します。ある古美術収集家の方のブログを見ていたら、イランのテヘランにある国立博物館に上の写真と同じようなものが展示されてるのを知りました。

 両者ともに、顔だけ人間のような造形です。とはいえ、ぴったり同じというわけではなく、博物館にある方は、真面目というか玄妙な顔つきをしてますが、こちらは口を開けてヘラヘラ笑ってる能天気な顔つき。

 顔だけ人間ということでは、妖怪のつるべ落としとか、たんたん坊、大かむろなんかもそうでした。そういう妖怪は、水木しげるさんの絵のイメージが刷り込まれていて、モンゴロイド系の顔つきをしている。

 一方、こちらの方は、ルリスタンにいた人々の顔つきがそうだったのだと思いますが、鼻が尖ったように高く、そして小鼻の幅が狭い。

 また、目が大きくて、というか大きすぎてマンガ的、目がグルグル回ってるように見えてしまう。そんなところがポップカルチャー的だなと思ったポイントでした。

 

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かわいい古代 メキシコの土偶

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 上の写真、両手を腰にあてたスーパーマンのパワーポーズ、ベテイちゃん(?)みたいな頭、最初は、発掘品とは思えなかった。

 かなり偶然っぽく入手したものですが、目と上瞼、下瞼の造形の特徴から、地域は中南米、コリマの土偶かなと見当がつきながらも、本物か、お土産品の人形か迷ってました。ざっと調べたところでは、似た感じの発掘品は見当たらず、全体的な雰囲気が現代的すぎる感じがしていた。

 キュートすぎるというか、本当に古代の人々がこんな感じのものを作ったのだろうか?

 あるとき、中南米の発掘品を専門に扱っているお店を訪ねて聞いてみました。結果は本物でした。メキシコの中央部、太平洋側のナヤリー州、コリマ州ハリスコ州にかけて似た文化が栄えていた、そこから出たもののようです。

 調べると、いまから約3500年から3300年前にその地で栄えたエル=オペーニュ文化の流れをくんでいるようです。そこからは、紀元後、5世紀ぐらいの土偶も発掘されている。

 

 新聞の夕刊に「かわいい古代」という連載が載っていました。一昨年だったでしょうか。弥生時代の発掘品の中から、見た目、かわいらしいものをピックアップした小さなコラムで、毎回、見ていました。

 世界各地の古代の発掘品の中には、同じように、これってかわいいなと思うようなものがけっこうあります。あげていくと切りがないほど。

 ここで、ふと、じゃあ、かわいいにプラスして現代的なセンスのポップカルチャーふうものを選んでみたら、そんなことを思いついて、上の写真をアップしてみました。

 

 ところで、現在、縄文の発掘品の中で国宝になってるものは6点あります。そのうち5点が土偶です。その5点のうち1点、ポップカルチャーふうのものがありました。 

 縄文の女神と呼ばれている山形県舟形町西ノ前遺跡の8頭身の土偶、これは約4500年前に作られたものとは思えないような現代的、別の言い方をすれば20~21世紀のセンスで作られていると思いました。

 洗練を極めた末、余計なものがなく、かと言って単純でもない、スキッとしている。

 下の写真、山形県舟形町の発行した観光案内の小冊子「ふなたび」から見開きページを撮りました。左ページの地図に示されてますが、東北の真ん中にこういう造形感覚を持った古代文化があったって、すごいなと思います。

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 ああ、メキシコの土偶にしても、縄文の女神にしても、偶然、まぐれで現代のポップカルチャーと合致してるのかも・・・そんな解釈もあります。いまは、そんなふうには感じられず見過ごされている発掘品の中に、300年後になって、(その時点での)ポップカルチャーの感性としか思えないというような物があるかもしれない。

 

 発掘品の中に「オーパーツ」と命名されているものがある。学術的な裏ずけのある言葉ではないのですが、「out-of-place artifacts」略して「OOPARTS」と呼ばれるもので、それが作られた時代の科学技術の水準では、製作できないような物だったり、その時代にはありえないような情報が含まれている物のことです。

 オーパーツは、人に知られていない超古代文明があった証拠とか、大昔に宇宙人が地球を訪れた証拠とか、言ってる人もいる。ネットを検索すると、そんな発掘品がいろいろ紹介されています。

 世界の七不思議をはじめ、そういう話は昔からあって、それはそれでロマンがあっていいのですが、ちょっと半端な感じがしていました。オーパーツもそうですが、なんで科学技術の物差し=知性を基準にしてしか物を見ていないんでしょうか。

 古代から現代に至る過程で、人間の知性が発達してきたのは、誰もが認めてますが、意識や感覚や感性も時代によって変化してるわけでしょ、でも、そっちの方に目を向けてる人が少ないのはアンバランスに思えるのですが。

 

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インドネシアの昆虫、すごくいい

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 昨年の後半は、イエローサファイアがいい、いや、火星の大接近もいい、と鉱物と星のどっちがいいか迷ってるうち、晩秋になって昆虫もいいんじゃないかと思いはじめ、決着はつかないまま、というか、別に順位を決めるような話でもないので、今に至っています。

 

 上の写真は、インドネシア、ケイ島の昆虫。地図を見るとケイ島は、ニューギニアやオーストラリアに近いところにあるようですね。昆虫について詳しくないですが、自分が目にした世界各地の昆虫の中では、これが一番きれいでした。

 ベトナムや東南アジアのタマムシもなかなかですが、こちらの方が抜きん出ている。

 見た瞬間、意識が引き込まれ、視界からまわりのものが消えて、しばらく見惚れる。久々に極美!なものと出逢ったと思いました。

 『世界一うつくしい昆虫図鑑』という本によれば、キンカメムシの仲間らしい。

  サイズは小さいながらも、ファンタジックな構造色が絶妙で、部分的には、これに似てるものがないわけではないけど、例えば、オパールの色感、アンモライトの光沢、ヘリトリアワビの貝殻の遊色なんかが思い浮かびますが、トータルにこんな模様、配色の鉱物や貝はない。

 

 インドネシアの虫を見ていてふと思ったことがあり、そのことを書きます。そういえば、イエローサファイアスリランカ、ヘリトリアワビはニュージーランドの海で採れたものだった。どれも南の地の産物です。

 人間は長い歴史で、膨大な数のアートを作り出してきた。しかし、それぞれの分野を極めているエリアがあるように思うのです。どういうことかというと、北半球の西から東に、絵画はヨーロッパ、建築は中東、石の彫像はインド、陶磁器は中国というような感じです。大胆というか、大雑把な分け方ですが。

 

 日本はといえば、職人技の工芸になるでしょうか。手仕事の生活用具も含めて、雑多で小品が多くチマチマしてるので、気遅れしそうになりますが、いや、文化相対主義の目というか、これが日本なんだと言っていいのではないか。

 例えば、根付は手のひらに載るぐらい小さいけど、だからしょぼいってわけではないですよね。

 一昨年だったか、上野で台湾の故宮博物院の展覧会があって、話題になってた翡翠の白菜を見にいきました。長い列に並んでやっと見れました。あのとき、会場には清朝乾隆帝の愛蔵品も展示されてました。

 多宝格というケースに収められた宝物がたくさん並んでいました。どれも皇帝専属の工房で作られたもので、いろんな細工が施されている。

 でも、日本の庶民(町人や農民のお金持ちぐらい)の持ってた根付や櫛、それに七宝や牙彫、自在置物などと技巧性のレベル、別の言い方をすれば細やかさ、繊細さに比し、それほどのものではないように思いました。

 それは、皇帝の美を平民、町人の美が凌駕してたってことですよね。

 小泉八雲が初めて日本に来て、横浜の外人居留地から街に出たときのことを『日本の面影』に書いている。 いま読み直すと、ヨーロッパのオリエンタリズムを感じないでもないですが、それはそれとして。

 街の様子、家屋、看板、商店、歩いている人々の服装、「何でもかでも言うに言われぬほど楽しく目新しい」と感動しているのですが、特に、普通の店に並んでいる手細工品に目を見張り、「日本風のものはなんでも、すべて繊細で、巧緻で、かつ驚嘆すべきもの」と驚いている。

 具体的に挙げてみると、木の箸や、つまようじや手拭、それを入れた紙袋、包み紙の類で、当時、どこにでもあった雑多な品々でした。

 

 枕草子では、「うつくしいもの」と「かわいらしいもの」は同じ意味の言葉として使われています。「小さいものはみなかわいらしい」とも書かれている。

 つまり、小さいものはみんなうつくしい、それが平安時代中期、9世紀のはじめの日本人の感覚のようで、それは小泉八雲が感動した美と通じるものがあるように思っています。

 16世紀、桃山文化の利休や侘び・寂びは、中国文明に対する意識過剰(対抗心)が生み出した倒錯的な美ですよね? 当時は、それが斬新で画期的だったので、それなりの意味があったと思いますが、以来、そっちの方ばっかりもてはやされ、枕草子のような美は顧みられることがないのはなんか面白くない。 

 『陶庵夢憶』という本があります。明から清にかけての時代を生きた張岱(ちょうたい)という人の随筆で、岩波文庫に収められている。ときどき寝る前に読む。1ページも進まないうちに寝てしまいますが。

 この本には、随所に骨董品の話が出てきます。ある人の収集品リストの話を読んでいると、日本の漆器がありました。秦の銅器、漢の玉器、宣徳の香炉、唐の琴などと並んで、国外の物品では唯一、挙げられている。江戸時代のはじめ頃、中国では日本の漆器が珍重されていたのですね。

 英語で、陶磁器は“china”、漆器は“japan” と辞書にありますが、そこで言っている漆器とは、蒔絵や螺鈿などの細工が含まれていて、要は巧みな工芸といった意味だったと思います。

 近年、北斎の世界的評価が高いですが、これなんかも浮世絵=版画という工芸じゃないですか。周作人は、浮世絵は中国にはない日本独自の文化だと言ってました。

 

 北半球の西から東の文明圏のアートは、人が作ってきたものですが、一方、南の地には、自然が作った美しいものがたくさんある。海のシルクロードは、ユーラシア大陸を南下するルートになるので、そこでいろんな物と出会うことになる。

 先ほどは、南の地の宝石や貝殻、昆虫をあげましたが、極彩色の鳥や熱帯魚、ついでに人を惑わすぐらいに惹きつけるものとして、ヨーロッパの人々を虜にしたスパイス(香辛料)にインセンス(香)、茶、コーヒー、アメリカ大陸のタバコ、ココアなんかもそうでした。

 

 南インドのラマナ・マハルシのアシュラムにいたとき・・・そう、ここの食堂は美味しいと有名でした。ときどき、南インドのカレーを無性に食べたくなる・・・庭をクジャクが歩いていました。

 何羽もいて、その辺の地面の虫をついばんでいる。庭には、猿と犬も徘徊していて、クジャクがキジなら桃太郎の話と同じです。毎日、飽きることなくクジャクを眺めてました。

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 お堂にはラマナ・マハルシがクジャクに乗ってるいかにもインド的といった感じの絵が掛かってました。聖人の後ろには光輪が見え、クジャクは聖なる鳥なのが分かります。

 

 昔は、中世ぐらいまででしょうか、あるものを美しいと感じることと、あるものに聖性を感じることは、全く同じ感覚だったのだと思う。現代の人間は、その感覚、もう分からなくてなっている。

 美と聖性、それと畏れ・・・恐れでもいいのですが、たぶん死と結びついた、例えばロシアンルーレットをする時の心理状態をリアルに想像すると感じる心理状態。この三つは、普通の意識のときはそれぞれ別のものに感じられるけど、炭素を超高圧にするとダイヤができるように極限まで見極めると、畢竟、同一の何かですよね?

 

 思うに、南の地では、まわりを探せば、そのままで美しいものがあるのだから、北半球の文明のように人為の美を極めようとする意欲、精神の衝動みたいなものが醸成されなかったのではないか。

 

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 上の写真は、新宿ベルグのスパイスショコラケーキ。美味しかったです。

 

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大寒の朝の光とカラーストーン

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 年明けから冬晴れの日が続いています。大寒に入って、朝のひと時、テーブルの上に白い紙を敷き、小さなカラーストーンの原石をザーッと転がして見ています。

 低い角度から差し込んだ陽の光が透明や半透明の石にあたると透き通って赤やオレンジ、緑、青、グリーンの光の影が伸びている。

 

 しばらく見ていると、気持ちが自然と弾んできて、目から元気のエネルギーを充電してるみたい。そんな訳で、これは自分にとっては魂振りの呪術みたいなもんだなと思ってる。

 ちょっと付け足すと、「たましい」のことを魂魄と言いますが、それは、「たましい」は「魂」と「魄」の二つで成り立っているということです。神道の魂振りは、「魄」の方の活性化ということですね。

 「魂」は大脳に宿っている心のこと、「魄」は内臓に宿っている心という分け方をしてもいい。内臓の心と言われても戸惑うかもしれませんが、胆力とか、胸が痛む、腹が座る、肝を冷やすといった言葉で表される心のことです。

 セロトニンという神経伝達物質があって、それが人の幸福感や鬱(うつ)に関係しているといわれましたが、セロトニンが主に内臓で分泌されているのは、内臓の心のメッセージということかと思うのですが。

 そういえば、シンシンというパプアニューギニアのお祭りがありましたが、ああいう極彩色の色彩感覚って、なにか人間の本源的なところと直につながっているのではないでしょうか。本源的なということを、いま書いてきた文脈の言葉でいえば、魄になります。

 ところで、今日の新聞を読んでましたら、アメリカの経営学の大家、ドラッカーが生前、収集していた日本の水墨画や禅画、文人画が千葉市美術館に寄託されることになったという記事がありました。

 ドラッカーは、日本の侘び、寂び風の渋い画風を好んでいたという。なるほど、と思う。経済学ならば、数字データや統計を分析が中心でしょうが、経営学になると、プラスして人間性への洞察が不可欠になってきて、それは結局のところ「魂」、究極的には霊の問題になるのではないでしょうか。

 察するに、ドラッカーにとって、水墨画などの鑑賞は、思考を鎮める、深めるための内観をしていたというふうに見ています。

 

 聖書の中にはいろんな貴石や香が出てきます。ヨハネの黙示録には12の石が挙げられている。現代の鉱物名との同定は、はっきりしないものもあって深入りしませんが一見してメノウの類が多い(メノウはいろんな呼び名があります)。メノウは石英、つまり地殻の中で最も一般的な原子のケイ素の酸化物なので、どこからでも産する鉱物ということから当然かと思いますが。

 横道に入りそうで・・・要は、当時の人々にとって、美しい石は聖性と結びつく貴いものという観念があったので列挙したのだと思うわけです。端折って言えば、聖性自体は、言葉で口にしても、文字で書いても人々にイメージが伝わりずらいのを承知していたので、鉱物や香料を、つまり視覚、嗅覚で感じられる小道具を挙げたのではないでしょうか。

 王冠に宝石が嵌ってたのもそう。現代の人間は、値段が価値の基準ですが、あの頃は、聖性が価値の基準でした。

 キリストが生まれたときのプレゼントが乳香(フランキンセンス)と没薬(ミルラ)と金だったのは暗示的です。

 

 上の写真は、ルビー、サファイア、スピネル、ジルコン、ガーネット、トルマリン、トパーズ、ユークレース、アイオライト、クンツアイト、タンザナイト、フルオロアパタイト、ペリドット、アキシナイト、アウイナイト、エメラルド・・・はみ出て写ってないものもあるかも。みんな小さな原石で商品的価値は低いものばかり。

 でも原石は一つ一つに個性があっていいです。結局、エンハンスメント(加工)、研磨、カットされ完成したジュエリーになると見た目、人工石と大差なくなってしまう。

 クラックがあったり、欠けていたり、不純物が入っていても、それはそれでいいと思っています。骨董の方の世界だったら、陶磁器でも仏像でも古色を、つまり経年変化=劣化してるのを本物の証として尊んでるのですから・・・ああ、あんまり説得力のない比喩でしたね。

 

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