「博物館のいっぴん 」展

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 足立区立郷土博物館の「博物館のいっぴん 」展にいってきました。

 「いっぴん」って、どんな物が展示されているのか・・・「博物館では歴史・民俗資料をたくさん収集保管しています。めずらしいもの、貴重なもの、面白いもの、博物館資料のなかから、ちょっと楽しいコレが「すごい!」を紹介します。」(案内文)といった内容。

 要は、収蔵品の中からふだんの展示企画ではあまり出番のない珍品を選んでみましたってことです。 言葉は悪いですが、ガラクタとの線引きが難しいものも含まれている。

 この企画を知ったとき、江戸時代後期に変な物(奇物)・本(珍書)を集めてきては批評し合っていた「耽奇会」、また昭和のはじめにそれを再現した「新耽奇会」とつながる匂いというかオーラを感じ、見にいかなきゃという思いになりました。

 展示されているのは主に足立区内に関係した物品がですが、このあたりは昔から「東郊」(江戸・東京の東の郊外)という文化圏で括られるので、そのエリアともいえる。大まかに足立区、葛飾区、江戸川区に広がる地域です。

 企画展は、主に明治以降に作られた珍品の類いと、江戸時代から幕末の布告、高札、算額などの二部構成になっている。ここでは前者の珍品の方を紹介します。併せて常設展示品の中で面白いなと思ったものも選びました(そうでした、今月の8日までの開催期間ですでに終了していますが、常設展はやっています)。

 以下の説明文は、会場の解説文を要約したものと、そのままの引用、それに私見が入り混じっています。横道に逸れているのはだいたい私見です。

 

 上・左の写真「張り子心臓模型」

 医学教育用の教材の心臓模型、思いっきりキュートな彩色に目を見張る。外側を取り外すと、心臓の内部が見え、精緻に作られている。動脈、静脈が色分けされきれいに塗られている。

 見た目、これが一番インパクトがあり、「すごい!」ということで会場の入り口に展示されているのだと思いました。この企画のポスターにもこれが載っている。

 いつ頃のものか解説はないですが、状態からして昭和の戦後に作られたものだと思いました。

 この模型は、人形のダルマさんと同じ張り子の作り方で製作されています。工程としては、型にすき返し紙をはって重ねて、それから型を抜く。そして、上に和紙を貼り、切り口には板を貼って、上塗り、彩色とまさに職人技です。 

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 左・「木製の洗濯器」 

 大正11年に実用新案登録された手動の安倍式洗濯器。中は見えないので仕組みは分かりませんが、洗濯板を用いていると解説にありました。

 昔、洗濯物は手でゴシゴシ洗っていた。大正時代に洗濯板が普及し、昭和30年代に電気洗濯機が登場するまで、一般家庭では盥(たらい)に洗濯板を置いて洗濯していました。

 当時、家電の白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器と呼ばれていました。考えてみると、そんなに大昔のことではないのですね。

 右・「栓抜器」 

 ビンのコルク栓を抜くための道具。てこの原理で栓を抜く、現代でいえばワインオープナー明治41年に実用新案登録されている。洗濯器にしても栓抜器にしても街の発明家が作ったもので、全国各地にこういう発明家がたくさんいた。農村部にも新しい脱穀器や種まき器など農機具を作った発明家がいて、一部は各地の資料館などに保存されています。

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左・「人体解剖模型」 

 こちらも和紙を貼って作られている。こういった人体模型は、江戸時代の終わりころから作られはじめ、その後、技巧がさらに巧みになり、戦後は海外輸出もされていたという。プラスチックなど新素材が登場することで、時代遅れになり廃れていった。

 解剖模型や骨格模型、それに鯉のぼりや大凧など、区内には和紙、張り子の職人さんたちが大勢いたようです。そういえば、幕末・明治期の見世物に生人形がありました。不気味なほど妙にリアルな造形で、職人さんたちの間につながりがあったんでしょうか?

右・「骨格標本のパーツ」 

 展示には全身の骨格標本(模型)もありました。でも、見るからにガイコツ(あたり前か)、なんかホラー的な感じがして、その写真はパス。総じてホラー的なものは、映画でも小説でもどうも嘘っぽくて面白味がないように感じるのですが。

 ふと、戦前、戦後にかけて「衛生博覧会」と呼ばれた興行があったのを思い出した。昭和のはじめ「エログロナンセンス」ブームがありましたが、その中でグロをメインにした見世物ともいえる。そういう場所での展示にも使われていたのではないか?

 写真は、背骨と足の指の骨の未完成品。古紙で形を作り、加工、彩色して完成させます。いっしょに右側に写っているのは和装マネキンのボデイで、これも古紙で作られている。

 そういえば、去年、区内の空き家で500人分の人骨(インドから持ち運んできたもの)が見つかってニュースになりました。骨格標本を製作していた会社のストックだとか。ダンボール箱に長年放置されたままになっていて、一部、箱が破けて庭先に骨が転がっていた。

 骨格標本の場合は、状態の良し悪しが問われるので、本物よりも模型の方が適しているように思われるのですが。

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左・「名物看板だった下駄」

 千住4丁目の旧日光街道沿いにあった下駄屋さんの店先に飾られていた大きな桐下駄。ふつうの下駄の50倍の重さとか。長さ40センチぐらいか(?)。幕末、下駄の産地の会津で作られたものだそうです。

 この下駄は、店の看板になっていて、あまりの大きさと派手な赤い鼻緒にみんなビックリ、街道を通る人々の目印になっていたという。いま郷土博物館に収まっているのですから、往時の千住で知らない人はいない存在だったのだと思う。昭和39年ごろ店先に飾ってあるモノクロ写真も展示されていた。何代かにわたり100年は店先にあったことになる。

 ところで、明治後期に見つかった安藤昌益(1703〜1762)の『自然真営道』の稿本(手書きの清書を冊子にしたもの)は、この下駄屋さんの近くの穀物問屋に約150年間秘蔵されていたんですね。江戸時代、本の内容が公になれば首が飛ぶようなことが書かれていたので隠されていたわけです。

 昌益は秋田の大館で生まれ、青森の八戸で町医者をしていたこと、大館で没したことは分かっているが、それ以外のことはほとんど不明、肖像画のようなものも残っていない。

 時代は、赤穂浪士の討ち入りがあったころ。武士道を説いた『葉隠』が書かれたころ。それと同時代に階級、身分を否定した万民平等の世の中を構想していたというのは驚きです。

 昌益はどんなことを考えていたのか? それを「農本的無政府共産主義」と評した人がいた(石川三四郎)。全ての人が土を耕し農業で食を得て、幕府や藩とか代官とかの権力機関の存在しない世の中、だいたいそんな感じです。

 当時、千住には昌益の話を聞く非公然の集まりがあった。千住の宿は江戸市中の郊外だったので幕府の目につきずらかったことがある。その集まりのメンバーが本を保管し、そのまま時代が移り変わりタイムカプセルみたいになっていた。

 長い眠りから覚め世に出てきた『自然真営道』は、その後、当時の東京帝国大学附属図書館が購入するのですが、関東大震災で大部分(約9割)が焼失してしまった。本を秘蔵していた穀物問屋さんの家屋と蔵も1945年3月10日の東京大空襲で焼失。

 昌益の思想については、いろいろ考えてきたことがあるのですが、それはまた別の機会にということで一言だけ、この人は「すごい!」ですね。

 もう一言。深沢七郎も昌益と同じことを言っているのに気づいた。『生きているのはひまつぶし』というエッセーなんかは、それがよく分かる。超堅物の昌益と遊び人の深沢七郎、生活態度は真反対ですが、奇しくも同じことを書いていることに気づいたのは一つの発見でした。

 ふたりの共通点は、イデオロギーから生まれた思想ではなく、その人、個人の気質から生まれた思想のように思える。どこまでも正直さを極めていく両者の考え方は、論理ではなく気質に関わっているように感じる。

 ・・・あまり関係ない話ですが、築地の場外市場で、店先にヤマネコの剥製を置いていた乾物屋さんがありましたが、あれはどうなってるんでしょうか。

 ヤマネコといっても豹、ピューマぐらいの大きさで猛獣といった感じ。市場の路地の角にあって目印になっていた。ああいうのも名物看板(店のシンボル)。また、看板娘って言葉もありました。笠森お仙、柳家お藤、蔦屋およしから始まって、今だとアイドル、だから人間でもいいんですね。

 たぶん全国いたる所に、この手の人の目を引く名物看板があるのではないか。

右・「紙製の鯉のぼり」

 長さ4メートルとけっこう大きい。和紙は丈夫で色もつけやすい手ごろな材料だったので、昭和の中頃までは和紙の鯉のぼりが作られていたという。江戸時代の鯉のぼりは黒い色で、錦鯉の赤が作られるようになったのは明治以降のことだそうです。

 鯉のぼりの胴体が風に膨らんだ姿を想像して思ったのですが、戦時中のアメリカ本土攻撃用の秘密兵器、風船爆弾も和紙で作られていた。爆弾を付けて太平洋を横断するぐらい丈夫にできている。その製作には、こういう職人さんたちの技がベースになっていたのではないか。

 風船爆弾の材料は和紙(コウゾ、ミツマタの繊維)とコンニャク糊、それに麻紐でしょ、そして細菌兵器を搭載する案もあった。察するに、風まかせの兵器なので、最初から爆弾や焼夷弾ではたいした効果がないことは分かっていたはずで、生物兵器の搭載を想定して開発されていたはず。素材がみんな草食系というか、地下資源に乏しいことから省エネ・エコロジー兵器(?)みたいな方向に進化していった(いくしかなかった)ことが分かる。このあたり日本的だなと思う。 

右の奥・「大凧」

「足立区梅田界隈では、昭和時代の初めころ和紙をはりあわせて大きな凧をあげることが行われていました。」(解説文)。和紙をはりあわせて大きな一枚の紙にしたもので作られている。凧は、大正時代、千住の名産品の一つだったそうです。

 当時、凧揚げは大人の遊びで、大風が吹くと一日中凧揚げをしていたとか。・・・バリ島が毎日、そんな感じでした。クタの空にはいつもたくさんの凧が見えていた。郊外を歩いていたら車ぐらいの大きな凧が路地に不時着していて、通行できなくなったりもしていたのを思い出しました。

 補足として、文末にバリ島の凧揚げの写真を付けました。

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千住大橋を描いた欄間」

 地元のお大尽の家にあった欄間だそうで、横幅3.6メートル、「大正14年5月 貞卜作」という銘が記されている。「木材の木目や節を川の流れに見立てて背景とし、そこに橋脚、筏をあやつる船頭、船を木、貝、鉄などをはめ込む象嵌の技術を使って表しています。」(解説文)。

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左・「輸出用セルロイド製品」

ここからは常設展示品の中から面白そうなものをピックアップしてみました。「アジア風俗を表現したミニュチアの置物のセットと帆船、象牙風、鼈甲風に色づけされており、セルロイドの加工しやすく、着色しやすい特徴がよく生かされた製品である。」(解説文)

右・「松本昌久作 手彫り花札牌」

「通常使われるものではないが職人が腕試しで彫った花札牌。花札の細かな絵柄が、麻雀牌と同様の彩色を使いながら見事に表現されている。」(解説文)

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左・「文化フライ」

 地元のソウルフードですね。一見、ハムカツに似ているが、ハムの入っていないハムカツといったところ。文化フライも次のポッタもどこか戦後のヤミ市の雰囲気がある。自分の勝手な造語ですが、テキ屋料理っていうのがあり、それに含まれます。

 「ガムシロップを入れて練った小麦粉にパン粉をつけてあげたものです。梅田の長谷川商店が発案したもので、西新井大師をはじめ下町の縁日で長年販売されたため、懐かしい味として思い出す多くのファンがいます。」(解説文)

右・「 ボッタ」

 こちらも地元のソウルフード。「足立区周辺では水で溶いた小麦粉を焼いた「もんじゃ」をボッタと呼び、子供たちに人気があり駄菓子屋の鉄板で焼きました。値段が安く、具はほとんどなく、鉄板にボタボタと落とすことからついた名前といわれています。」(解説文)

 これは以前、駄菓子屋さんで食べたことがある。 地元の人に車で店まで案内されて行ったので場所ははっきりしない。舎人ライナーの高架が近くに見えた所でした。あれが開通したのは2008年なのでそんなに昔しというほどでもない。

 味はよく覚えていませんが、ランドセルをしょった小学生たちが下校中、寄り道して食べていたのを覚えている。

 

補足・・・今年、世界的なコロナ騒動で、バリ島では観光店の閉店が相次ぐ一方、空は凧だらけといったテレビニュースがありました。仕事がなくなり暇になった人たちが凧揚げをしている衝撃的光景といった感じで報道されている。でも、上記のようにもともと凧揚げが盛んで、空には凧がたくさん見えてたんですが。

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ブルートパーズは「いい!」

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(ブルートパーズの原石 、どうも写真は実物のイメージと違っている。とりあえずこんな物体、ということで。全体の形は丸っこくて、タマゴぐらいの大きさの結晶。)

 

 気分がクサクサしてるときはブルートパーズ(原石)を見る。ブルーと言っても青というよりは透明な水色っぽい結晶。テーブルの上にゴロンと置き、ただ眺めてるだけ。

 朝の光が斜めから射し込んだ結晶は極美。見ていると、しばし時を忘れ、その間、思考が止まってクサクサした雑念が消えている。忘我と言ってもいい。

 結晶の一面は、艶やかでツルンとした真っ平らな平面、無機的な光沢のテリ、氷や水晶よりも硬質な透明感・・・見ていると微妙に意識が変容している。

 忘我という言葉は、本来はスーフィーやインド由来の流れをくむ宗教的な体験の中で語られているのですが、そういう文脈とは場違いの状況でも同じ意識状態になることがある。

 別に、それでクサクサしている根っ子が解消されるわけでもなく、一時的な気休めにすぎないのですが、それで気分がリセットされるので、十分癒される。一応、社会生活をしているので、一日中、ボーッと眺めてるわけではないです。そう、これは疲れたときにもいいです。

 

 トパーズ( Al2(F,OH)2SiO4)は、鉱物学ではケイ酸塩鉱物というグループに分類されている。そのグループの代表的な鉱物といえば水晶(=石英)、化学式は二酸化ケイ素(SiO2)、地球にある最もベーシックな元素を組み合わせた鉱物です。

 トパーズはケイ素、酸素にアルミニウム ( Al )と水酸基( OH )、フッ素( F )が組み合わされた組成で、アルミニウムの化合物はルビーやサファイアなどコランダム( =鋼玉、Al2 O3、酸化アルミニウム)のようにとても硬くなる。トパーズはケイ酸塩鉱物の中では最も硬い。上の写真のトパーズは、ずっしりとした重量感がある。

 実際に、見た目(輝き、光沢)と手で触った感触(質感)や、ずっしり感(比重)で分かりますが、トパーズは、比較すると水晶とコランダムのちょうど中間といった感じです。

 トパーズは、サファイア、ルビーのようなコランダムやエメラルドなどよりも大きな結晶が採掘されている・・・透明度のある結晶の話しです。不透明の結晶ならば、見るからにデカイという感じのコランダムやエメラルドもありますが、いくら大きくても不透明だとやはり岩石の標本みたいでちょっと・・・。

 大きくて透明な結晶は、それだけでインパクトがある。小さな結晶にはない物体としての存在感があります。言葉にならない透明な非現実感というか、それがトパーズの魅力だと思っている。ついでにコランダムよりずっと安い。

 日本でもトパーズは採れる。和名は黄玉、明治時代にはヨーロッパにジュエリーとして輸出されていた。日本のトパーズは無色透明で、黄玉と呼ぶのはおかしいのですが、18世紀にドイツで淡黄色の結晶が採掘され、当時、それを加工したアクセサリーがヨーロッパでもてはやされていたことから、同じ鉱物なので黄玉ということになった。

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(日本のトパーズ。以前、岐阜県の山で採ってきたもの。それなりのサイズの原石は、過去に取り尽くされている。小さくて、これなら水晶の粒と見間違ってもおかしくない)

 それまで日本では水晶と黄玉の区別がはっきりしていなかった。確かに透明な水晶と透明なトパーズは一見、よく似ている。でも、よく見ると、トパーズは水晶よりも屈折率が高く、比重も重いので、水晶よりキラキラしていて、手に持つと重くどっしりしている。水晶は結晶の断面が六角形ですが、トパーズは平行四辺形という違いがある。しかし、明治になるまで、そういう違いは、見逃されていた。

 

 トパーズといえば、先日、石好きの女性Aさんからこんな話を聞いた。ふだんは会社で経理の仕事をしているAさんは、その日に限り、やむ終えない用事で早退けすることになった。帰りの地下鉄の車内でのことです。

 隣に立っている女性のつけているブレスレットが普通じゃないことに気づいた。石のギラギラ感にクラッとした。車内の照明の下でも眩しいぐらい、それもブルーに輝いている。

 Aさんは、気づかれないようブレスレットをちらちら見てるうちに目が離せられなくなった。水晶の屈折率1.54~1.55に対し、トパーズは1.66~1.67で、水晶よりも輝きが強い。   

 石のはっきりとした明晰なブルーの色感、それに光を最も効果的に反射するカットを施し研磨しているのだから、やりすぎ(そこまでいくと毒気というか)ぐらいに出来ている。

 その女性が下車すると、Aさんは衝動的に後をついていった。それって尾行でしょ。やむ終えない用事は、どこかにいっちゃてる。夢遊病者のようにとか、催眠術にかかったようにとか、比喩ではなく現実にそういうことあるんですね。

 Aさんは、以前から透明でキラキラしている原石に魅せられる性分だと自認していました。そういう性分のことをなんと言えばいいのか、 能力(「物事を成し遂げることのできる力」大辞泉)というのとは違うし、認識力・知覚力に近いが、 広い意味で審美眼というか、生まれつきこういう感受性が鋭い人っているようです。

 

 以前にもふれたと思いますが、さくらももこさん(ちびまる子ちゃんの作者)は宝石が大好きだった。本の中で、どうして宝石に夢中になったのか、その理由を「星が自分の中にあるようなものだからね。星に似てる物なんて宝石しかないよ、この世には。」と説明していました。

 この一節、本心を語ってるなと思いました。そして、なんか普通ではない気配を感じました。これは、ふつうにキレイだから好きと言ってるのとはちょっと違う。それが極絶対的な世界と接するところまで極まっている人の言葉のような気がした。

 そういえば、さくらさんの好きな石の一つに、色のついたトパーズ、よくインペリアルトパーズと呼ばれている黄色から橙色、赤系中間色のトパーズをあげていました。シェリー酒やウイスキーのような色のものもある。

 ・・・書いていて、以前、ウイスキー色をしたトパーズの小さな結晶を見て動けなくなってしまった女性がいたのを思い出しました。 Bさんとしておきます。石を見て、ここまで感動する人は稀で、よく覚えている。

 Bさんは初めてこの色のトパーズを目にしたそうで、表情や目つきからリアルに感動してる様子が分かりました。トパーズを見つめたまま棒立ち、言葉が出てこない。

 察するに、Bさん自身、どうして自分がこれほど魅せられているのか分からなかったのではないか。

 直感は、統合的な「感覚」なので、分析的な言葉では言い表せられないということがある。部分、部分を、例えば色や形、模様、表面の質感、内包物、屈折率や分散と分けていっても、それはデータにはなっても核心には迫れない。人はそれらが一つになった全体的イメージで感じているのですから。

 Aさんにしても、Bさんにしても、たぶん、さくらさんも、同じタイプの人なのではないかと思う。なんとなく直感は性別と関係していて、どうも女性の方が直感能力(?)が高いように思える。

 蘭の花の中には女性にしか香りが分からない品種がありました。男にはその香りが認識できない。おそらく女性ホルモンが感知能力に影響しているはずで、そういう方面のことはまだ未知の領域なんじゃないでしょうか。

 

 話しを戻します。Aさんは、改札口を出てからしばらく女性の後をついて行った末、話しかけてブレスレットの石について尋ねた。相手の人、びっくりしたかと思います。

 そして、クラッとした石は、ブルートパーズだということが分かった。

 アクセサリーに用いられるブルートパーズは、ほぼ全て放射線の照射と加熱処理によって青い色にしたものです。先ほど「 やりすぎ(そこまでいくと毒気というか)」と書きましが、自然ではありえない濃さの青、その派手な輝きに俗っぽさを感じ引いてしまう人もいる。

 天然のブルートパーズ は、青の色が薄くて小さくカットすると、見た目、無色に近くなってしまうし、また、そんなにたくさんは採れないのでアクセサリーに用いられることはほとんどない。

 だからと言って貶めてるわけではないです。というのは、昔から、確か1000年以上も前からコランダムやジルコンなどの宝石は、熱して色を変えているので、人の手を加えることは、この世界ではノーマルなことだったからです。

 

 結局、ルースになると自然石もそれに手を加えた半自然石も、あるいは人工石もキレイという基準では優劣がない。天然ダイヤモンドと変わらない人工ダイヤモンド、あるいは天然ダイヤモンドよりもキレイな人工のダイヤモンド・サイミュラントとか、それがコランダムでも同じことですが、本物よりもキレイな偽物ということもある。

 話が飛びますが、昔から書画、骨董、刀剣の中には、本物より上の偽物、真作より秀でた贋作も混じっていると言われてました。

 書は、ほとんど知りませんが、昔の高名な書家の作品で、本人よりも弟子が代筆した書の方が上だといういう話しもある。刀剣の世界で「無名に偽物なし」と言ってた人がいました。当たり前のことを言っているようであり、でも改めて考えるとけっこう奥深い言葉でもある。

 平成の時代、一世を風靡した交響曲の作曲家の作品が、実は代作者が作っていたと分かり騒ぎになったこともありました。

 思うに、それが本物か偽物かという区別(鑑定の眼と言ってもいいですが)と、それがストレートな言い方で「いい!」ものか、素晴らしい、美しい・・・言い方に困りますが、そういうものかの見きわめは、異なる次元のことのようです。

 

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エノキとムクの実はおいしい/縄文文明と木の実

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 8月下旬、公園のエノキ(榎)の木の下に小さな赤い実が落ちていた。まん丸の球形で、小豆色やオレンジ色に近いものなど地面にたくさん転がっている(上の写真、左がエノキの実。右はムクの実)

 前から鳥がよく集まってくる木だなと思っていた。 枝先の実をヒヨドリオナガメジロがついばんでいる。 本には人も食べれると書いてあったけど口にしたことはない。気になり、拾って何粒か食べてみた。

 仄かに甘みのあるアンコのような味。木の実なのに、お饅頭やたい焼きのアンコと同じ味がするのがなんとも不思議。果肉に水気がなく粉っぽい。そんなところもアンコに似ている。これは案外、いけるんじゃないか。

 きれいに洗った実を人にも食べてもらったところ、白あんのような味、確かにアンコっぽいと好評でした。

 しかし、小さくて食べたという気がしない。測ってみたところ直径6ミリ、中に硬い種が一つ入っていて果肉層は薄い。それならということで20粒ほど口に入れた。でも、種が気になり食べづらい。

 たくさん集めてペースト状にしてみようか。パンやお餅につけたらいいかも。乾燥させればこな汁粉もできる。しかし、いざやってみると、100粒ぐらいでも僅かしかできない。果肉の量が少ないので手間がかかる。

 ということで、どうも食材にするのは難しい。9月の中旬になると、実が硬くなってきて食べるのには適さなくなる。来年、もっと効率的な方法を試みようと、今回はここまででした。

 

 エノキと次に取り上げるムクは一見、似た樹木です。エノキもムクも里山や郊外でよく見かける木で、見分け方として葉の形が違うので分かる。特に、葉の表面を指で触るとザラザラしているのがムク、ここを覚えておくといい。

 しかし、ともに高木で葉を採るのが大変なときもある。そんなときは、幹を見ても分かる。人の身長の目線の位置なので楽です。

 エノキの大木の幹は白灰色から褐色で、象の足を太く長くして、それがすくっと直立したように見える。根元から幹の先を見上げると聳え立っている。幹の根元を見るとタコの足のような根が地面に伸びている。・・・う~ん、書いていて、エノキとムクの幹の違いを文字や写真で説明するのは難しいかも。それぞれ個体差があるし、樹齢によっても変わってくるので。

 でも、幹をたくさん見ていると、違いのパターンも自然に分かってきて、それぞれの特徴を集合的に掴めてくる。何度も繰り返し見ていると分かってくる。

 そうしていると、特徴に当てはまらない部分があっても、全体的な判断として、こっちだと分かるようになる。このあたり、中国の陶磁器を見るのと似てるなと思う。

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 写真の左は、根元から見上げたエノキの幹。雨上がり、緑色の苔に覆われた幹が目に映える。右は、ムクの幹。地面にヒダのように広がる板根は迫力がある。

 写真でも分かりますが、エノキもムクもシイ(椎)の木に囲まれている。共に鳥が他所からシイの林の中に種を運んできて芽を出し成長したものです。

 いろんな木の幹を見比べるのも面白い。理想的には手つかずの原生林の木であればいいのですが、公園に植えられる木は定期的にきれいに剪定されているので、それはこの辺りでは無理っぽそう・・・。

 同じ種類の木でも一本、一本異なる個性がある。古木の太い幹は、そこに長い時間が蓄積されている分、個性がより強く現れているように感じる。

 幹の膨らみや節くれ、瘤や洞、筋のおうとつ、樹皮の色模様、地肌についた苔や寄生木、虫食いや腐朽の跡も、根元から出てきた「ひこばえ」(新たな芽)も、見ているとけっこう味わいがあります。

 そうでした・・・この公園は、昔は長州藩の関係の霊廟だった敷地で、戦前、まだ公園になる前、クロマツ(黒松)とシイが植林されている。二種類の木を東と西の二つのブロックに配置し、それが現在は林になっている。

 いつだったか、朝、シイの林を歩いていたとき、妙にメンタル的に鎮まっていることに気づいた。照葉樹林なので下は光が抑えられ陰の気の空間。自然に魂と魄が鎮まり、いわば軽い鎮魂の状態に入っている。また、クロマツの針葉樹林は空が明るくすっきり清涼、陽の気の空間。こちらは心身が清められる。

 つまり陰(西側のシイの林)と陽(東側のクロマツの林)の空間になっている。

 ここでメンタル的にと言っているのは、内臓系の心(三木成夫氏の言葉だと腸管系・血管系・腎管系の植物性臓器が司っている心)のこと、別の言い方をすると魂魄のうちの「魄」の方のことです。

 そういえば、朝、気功をしている人を見かけるのですが、申し合わせたようにクロマツの林の方でしている。別にそこじゃないといけない理由があるのではなく、何となく自然にそっちでやっている。自分は理屈であれこれ言ってますが、感覚的に気功をするのに適した場所が分かるんでしょうね。

 この二つの空間は当時、木々が人にメンタルな作用を及ぼすことを知っていた造園家(?)が、意図的に計画して作ったのではないか? 

 ということで、原生林ではなく、人の作為が入っている林ですが、それはそれで面白い。

 

 9月に入るとムク(椋)の実が落ちはじめた。ムクの大樹の下にたくさん落ちている。ムクやクスノキ(楠)は成長が早く、樹齢80〜90年でけっこう大木になる。苔に覆われ、樹皮が剥がれて樹齢何百年かという古木の風格を漂わせていても、意外に若かったりする。樹齢150年ぐらいのケヤキ(欅)に匹敵するというか。

 ムクの大樹は「板根」と言って、幹の下が張り出したヒダ状になる。こんな大樹が一本あると、その周りの空間が亜熱帯のジャングルのような雰囲気になります。宮崎駿のアニメで描かれる森にもこんな木が出てきた。夕方、日が陰ると、魑魅魍魎の気配が醸し出され、なんかワクワク感がある。

 ムクの実は、エノキの実より少し大きい(直径約8ミリ)。エノキの実より僅か2ミリほど大きいだけですが、見た目も違いを感じる。

 8月下旬、緑色の実が落ちているのに気づいた。でも、緑色の実は、まだ硬く味もない。熟してくると黒く萎んだ実になり、それが食べごろ。

 口にすると、甘酸っぱいブルーベリーのような味。これはジャムにもなる。こちらもなかなかいけるんじゃないか。

 しかし、熟した実は地面に落ちてきた時点で、潰れた状態のものが多いというか、薄い外皮が裂け果肉に土がついて食べるのには抵抗ある人も多いかも。枝についている実を採ればと思われるかもしれませんが、ムクもエノキもけっこうな高木で、細い枝先についている小さな実を一つ一つ採るのは大変で、難しいのではないか。

 結局、木の周りに落ちてきたものを集めるしかないようです。

 ・・・ところで、日本は野生の果実が豊富だという話がありました。ほんと? そういう指摘、初めて耳にしました。その中でもエノキとムクノキの実は「かなりおいしい果実」だと言われている。以下、引用してみます。

 

「日本の植物相には、野生の果物が非常に豊富である。キイチゴ類は、世界一種類が多く、日本全土にわたって分布しており、主に二次林クヌギーコナラ林やアカマツ林のなかでみられる。・・・

 日本の北半分には、ヤマブドウ類やサルナシなどの優れた果樹が野生しているが、これも野生利用にとどまった。

 また、日本の南半分にはエノキ、ムクノキのような大木がどこにでも野生しており、小さいがかなりおいしい果実がなる。エノキは「餌の木」から名付けられたの説もあり、食用として有用である。しかし、このふたつとも今日では見捨てられている。日本原生の果樹で発達したのは、ただひとつ日本梨だけで、ほかにはナッツの栗があるだけである。」(杉田直儀「週刊朝日百科 世界の食べもの 日本編 24 野菜・果実」)

 

 エノキ、ムクノキがおいしい果実というのはもちろん同感、一方、食用にするには実が小さく量が足らないし、採取が大変なので見捨てられているのもしょうがないとも思う。

 引用文の文末で栗(クリ)を挙げている。クリは種実類と言って硬い殻や皮に包まれた木の実、いわゆるナッツ・・・ナッツという言葉からは、アーモンドとかカシューナッツとかピスタチオなどスナック、お菓子を思い浮かべるのですが、クリもナッツなんですね。

 

 縄文時代の日本人(?)は動植物、魚貝類などいろんなものを食べていたが、主食は、クリ、クルミ、トチノミ、ドングリなどナッツでした。栄養的にクリ、トチノミ、ドングリはデンプン質で穀物の代用になった。

 今回、エノキ、ムクの実がなんとも小さいとボヤいてましたが、ドングリはそれに比べると一粒が大きいし、一本の木からそれこそうじゃうじゃ採れる。木の下に歩く場所がないぐらい実が落ちてくる。クリやトチノミは、うじゃうじゃとまではいかないですが、一粒がずっと大きい。

 縄文時代の中期から後期にかけて人口と集落数、建造物や土偶、土器、漆器の製作などの文化は、地域的に東日本に偏っている。青森県三内丸山遺跡のような数百人規模の砦というか村落もあった。最大時は500人が定住していたというから狩猟採集社会のイメージとはずいぶん違う。

 縄文人の暮らしは、現代人の感覚だと自然の中でサバイバル生活をしているのと同じで、それにしてはよくそんな規模の村を作れたものだとびっくりする。遭難してなんとか生き延びるというのではなく、持続的な共同体を築くのですから。

 サバイバル生活の必須条件は、水、食べ物、火、雨風をしのぐ寝ぐら(住居)があることの四つ。その四つが確保できれば、なんとか生き延びられる。

 サバイバル生活を体験する海外の動画がネットにアップされている。熱帯のジャングル、砂漠、北極圏、山奥、無人島などでその四つを確保するため知恵を絞り工夫するシーンを撮っている。毒ヘビやワニ、クマなんかに遭遇する場面もあるのですが、終始、能天気なノリで次はどうなるかとつい観てしまう。

 水と火と住居の三つは日本の風土ならばどこでも確保できたでしょうが、食べ物、それも安定的に人口をまかなう量が採れるという条件はどこでも満たされた訳ではなかった。

  日本の森の植生は、東西の二つに大別される。本州の中部から東、北海度の半分ぐらいまでは温帯落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)、西は中国、四国、九州と暖温帯常緑林帯(照葉樹林帯)に分けられる(佐々木高明氏の説による)。

 クリ、クルミ、トチノミ、ドングリは、東のナラ林帯で育つ木の実なので、中期以降の縄文人の生活圏が東日本に偏っているのは、結局、植物の植生によって決まってきた。

 

  縄文中期は、世界で最も高度に発展した石器文明だったのではないか。人類の文明の趨勢が農耕・牧畜から都市が生まれ、文字や金属を作る世界に移行しつつあった時期に、石器文明をベースにしたまま木や草、鉱物、土=セラミックスを素材にして発展していくのって奇妙な感じですが・・・ああ、後のマヤ文明もそうでした。

 縄文人はそういう生活を一万年も続けていたなんてその長さ、まさに悠久って言うのでしょうか、こういう文明のパターンもあるんだとすれば、凄いなというか、他人事みたいなこと言ってますが、日本人はその末裔なんですね。

  ついでに、別コースの発展パターンということでは江戸時代の和算も似ていたなと思う。他の文明と比較すると、縄文文明は、生産力の技術よりも土偶や土器のデザインや装飾性に見られるように美的な感性を極めていく方向に進化していったようにも感じる。

 

 一方、21世紀の現在も、少数ながら石器時代と同じような生活を続けている人々がアマゾン奥地やベンガル湾北センチネル島ですか(あるいは他にもいるかもしれませんが)いるので、人間世とは、そんなものなのかもという気もする。

 そんなものってのは、人間世はこの数千年間は前に進むだけだったので、そのパターンでこれからもそうだと思っているけど、全てを疑えじゃないですが、本当は前に進むのも、止まるのも、後ろに進む(後退する)のも、潜在的可能性として全てありなのではないか。

 アメリカの遺伝学者、ジェラルド・クラブトリーという人が、人類の知性は狩猟採取時代の2000~6000年前にピーク達し、その後、知的、感情的な能力は徐々に衰えているという仮説を発表していました。言われてみれば、そんな気がしないでもない。

 2000~6000年前(0.2〜0.6万年)というと、文字を使いはじめた時期、そのあたりが人類の能力のピークで、それから現在までいわばその惰性でやってきたということになる。

 人間世の起点をどこにするかで変わってくるのですが、道具(石器)を作った時点とするとおおよそ300万年ぐらい前、火を使いはじめた時点とするとこれは諸説あってはっきりしないが一声おおよそ50万年ぐらい前、はじめに言葉ありき(言語)とすると5万年〜10万年ぐらい前。   

 0.2〜0.6万年は、全体としては比較的短い時間なので、渦中にいる自分たちには、まだトレンドがはっきり見えないのかも。直近の0.02万年前に産業革命が起きたので、それで勘違いしてるなんてことないでしょうか?

 ふと、夢想するのですが、1万年後は、現在とあまり変わっていない、あるいは縄文文明やマヤ文明みたいな世界になってるとか、そんなパターンもあるのかも。「猿の惑星」は後退する方のパターンの未来でした。猿の代役がAIだとしても同じことになるですが。

 

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雪男、イエティの古い絵・・・UMA実在の証拠?

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 宝飾品の展示会に行ったときのこと。ずいぶん前のことです。会場はとても広く、ブースもすごい数、とても一店、一店見てる時間はない。そんな訳で目当てのブース以外は通り抜けるのですが、途中、海外の業者さんのブースが並んでいるエリアで何か引っかかるものが目に入った。

 横のブースの隅に場違いなものがある。キラキラしたアクセサリーを入れたガラスケースの上に、古文書のような、薄汚れた絵(?)みたいな厚紙が束になって置いてある。

 引き寄せられるように近づくとチベット密教のタンカだった。絵葉書より少し大きなサイズで、岩絵の具で描かれており鮮明な色彩。煤や裏面の埃やシミの付き具合、紙の劣化状態から古い寺院にあったものに違いない。

 50~60枚ぐらいの束をササッと見てくと、どれもチベット密教の伝統的な様式の図柄で、この場で売っているとのこと。気にいった何枚か抜き出し、さらに残りを見ていく。

 

 束の下の方に、一枚だけ変な動物が描かれているのが混じっていた。草原を二足歩行で歩いている動物の後姿。全身が毛に覆われ、太い尻尾がついている。これ、一体何だろう? 

 正面、あるいは横からならば、見当がつくのに・・・後姿なのは、逃げ去る姿を遠くから目撃したのを拡大して描いたからなのではないか。見た目、なんかトボけたというか、間の抜けた感じ。

 このブースはシンガポールの業者さんで、聞けば、中国の四川省の寺院にあったものだという。寺の場所や名前は分からない。扱っているメインは、宝飾品なのでタンカの束はついでにこんなものもあるんですが、といった感じで端っこに置かれている。場違いなものなので、足を止めるお客さんもいない。

 紙の状態からこの40~50年のものではない。100年以上は経っている。清朝は1644年から1912年まで、大まかに江戸時代と同じぐらいの期間、江戸時代より少し遅れて始まり明治末まで続いている。

 ところで、日清戦争は清の滅亡に大きな影響を与えていたし、文禄・慶長の役は明の滅亡に影響を与えていた。共に、王朝が傾いていたってこともあるのですが、建国71年の中華人民共和国はどうなるんでしょうか。

 紙の状態から清朝後期のもののようです。日本で明治時代のものといえば、そんなに古いってわけでもないですが。清朝は、チベット密教に対して融和的な対応をしていた。また、現在の四川省の西部は、そのころは東チベットと呼ばれていた。

 中国共産党チベットを併合したとき、チベット自治区と分けてチベットの東側を四川省に組み入れた。万が一、併合が頓挫しても、東側は確保しておくって考えてたってことでしょうか。・・・そういえば、現在のモンゴルという国は、昔のモンゴルの北部地域で、南部は中国に併合されて内モンゴル自治区になっているのも同じですね。

 当然、四川省にはチベット密教の寺院がたくさんあったはずで、現代の中国ではそういう寺に収められていた古い文物は、売り払われているようです。 そんな流出物の一つがどんな経緯を経てか、行き着いたのがここだったわけです。でも、ここでは、売ってる人も、お客さんも誰も関心を持っていない・・・。

 こんな経緯で4点ほど持ち帰ってきた。

 

 最初、描かれている動物は、ヒマラヤの雪男、 イエティかと思った。でも、最近はそういう話し、どうも分が悪い。

 近年、イエティの毛、歯、毛皮、排泄物と言われてきた遺物をDNA分析した結果、イエティの正体はヒグマかヒマラヤクマ(ツキノワグマ)だということになってきた。ちょっと夢が萎むような話ですが、まあ、そうなんでしょう。

 しかし、この絵の動物の太い尻尾はどう考えたらいいのか? ヒグマやヒマラヤクマにはこんな尻尾ないですから。

 

 世界のいろんな動物、すでに絶滅した動物も含めて似た動物が存在していないか探してみた。

 いました! メガテリウム、約1万年前ぐらいまで南アメリカに生息していた巨大なナマケモノの近縁族。成獣は全長6~8メートル、体重3トンになったという。一見、クマにも似ているし、太い尻尾が付いている。

 ヒグマは重いもので600キロぐらいとか。3トンというと、アジアゾウに近い。とんでもなく大きい。そうか、オオナマケモノ(和名)なら、なんかトボけたというか、ノロノロしてそうな感じってのももっともかも。

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 上は化石の骨格を基に描かれた想像図。大英博物館には全身の骨格標本があリます。 

 こういう古生物学に基づいて描かれた絵をパレオアートと言っている。想像図が異なっているのは、実物の体毛や色までは分からないので、その辺りは推測で描いているためです。

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 南米コロンビアのアマゾン川流域の岩窟遺跡で発見された壁画。 約1万1800~1万2600年前に描かれたと推定されている。 その壁画の中に絶滅した巨大動物が描かれていたのですが、研究者がオオナマケモノメガテリウム)と認定しているのが上の絵。壁画にはマストドンラクダ、ウマ、正体不明の哺乳類などもある。

 骨格標本から描かれた想像図と似ているでしょうか。確かに顔、口はそんな感じですが、 尻尾は、はしょって描いているのか? 壁画の方がリアルに現物に近く、パレオアートの方がずれているのかもしれないので。

  ナマケモノは異節類という南アメリカで進化した哺乳類のグループで、清朝後期、18~19世紀にヒマラヤで生息していたというのはちょっと苦しいのですが・・・。ということでは、 メガテリウムとは違うまだ知られていない動物(UMA)かも。

 

 古代の発掘品に限らず、近世でもよく分からない動物のテラコッタ、陶磁器、石像など骨董の世界で見かけることがある。神話や伝説をモチーフにしたものばかりでなく、その時代、その地域にいた生き物に違いないというものもある。

 最近、ベトナムなどインドシナのジャングルで新種の哺乳類が発見されてニュースになっている。あの地域の古い陶磁器の発掘品には、象とか牛とか動物のものも多い。顔の部分の破片で、羊、鹿、馬のような、でもどれにも当てはまらない動物のものもある。

 ああいう発掘品の中には、現在は絶滅しているけど、2~3世紀前ぐらいまではいた動物もあるんじゃないでしょうか。

 

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ボデイランゲージだけの会話

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 写真は棗(ナツメ)の実。このところ目に見えて大きくなってきた。実のサイズは長さ2センチを越えるぐらい。そのままでも食べれる。リンゴのような食感、でも甘みはないし水気もない平板な味。不味くはないですが、美味しくもなく、微妙なところ。

 美味しいといえば、榎(エノキ )  の実でいま木から落ちていて食べごろ。ほんのり甘く、アンコのような味ーー本当の話し。しかし、この実は小さくて10粒、20粒では食べた気がしないし(直径約6ミリ)、たくさん集めるのも手間がかかるしと、こちらも同じく微妙なところです。

 

 近くの商店街でビルの解体工事をしている。昭和の頃は蕎麦屋だった一角に平成のはじめビルが建ち、もんじゃ焼きの店が入り、それから店が変わり、いまビルを壊している。現場で作業しているのは4人、容貌と口髭から中東系の人たちのよう。

 毎朝、犬のJ(名前)と現場の前を通る。何日か目、どこの国から来ているのか聞いた。

 トルコからで、さらに聞くとディヤルバクル出身とのこと。じゃあ、クルド人か。イラクやイランのクルドの人たちにはずいぶんお世話になった。ディヤルバクルはトルコの南東部、シリア、イラクの国境と近い地域にある都市で住民の多くはクルド人です。

 街(旧市街)の周りを囲んでいるローマ時代に造られた城壁、ナスやトマト、ピーマン、豆を使った凝った野菜料理、強烈な日差しと土漠を思い出す。あのあたりから南は、夜になっても部屋に日中の熱気がこもっていて、建物の屋上にマットを敷いて寝ていた。湿気がないので案外、心地いい。

 

 ということで、毎朝、一言二言、言葉を交わすようになった。その中の一人、くたびれた感じのおじさんがいる。なんとなく人懐こそうな、そう、共感性の高い人のように感じた。

 おじさんは日本語も英語も通じない。こちらはトルコ語は挨拶ぐらいで喋れない。

 おじさんの知ってる日本語は、いくつかの地名、いま住んでいる「〇〇(北関東の街)」、乗り換え駅の「赤羽」、「新宿」ぐらい。「ありがとう」「さようなら」は知っているはずなのですが、喋れないのか、喋らないのかよく分からない。

 仲間にグレープフルーツを持っていったとき、おじさんは腕を曲げて胸のあたりに当てて、首をうな垂れた。「ありがとう」の意思表示なのはすぐに分かった。

 

 こちらから何か意思を伝える手はないか? 手振りであれこれやってるうちに、自然とジェスチャーでコミュニケーションをとるような形になっていった。

 可笑しいのは、おじさんの方も暗黙の了解で、自分の意思をジェスチャーで表現しはじめた。阿吽の呼吸というか、いつの間にか互いにジェスチャーに移行していくのが、なんか変だなーと思うのですが、もしかしたら共感性みたいなものが関係しているのかも。

 手話やホームサインは、互いに手指の動作の意味を知っているもの同士の間で成立している。しかし、ここでは、そういう事前学習はないので、もっと原初的というか、色物の芸の中に形態模写ってのがありますが(浅草の東洋館でやっている)、あれに近い。

 

 例えば、こんな様子です。現場の道端に座っていたおじさん、こちらに気づくや、顔を横に傾けて、握りこぶしを頬に当てた。・・・歯痛なんだなとすぐに分かった。

 自分を指差してから、両手でハンドルを握る動作をする。次に、角に見える一向通行の道路標識を指差しながら頭を振って目をつむる。・・・なるほど、トルコでは運転手をしていたが、日本では交通ルールが分からず車の運転ができないってことだな。

 連日、酷暑が続いていたが、この日は曇りで暑さも一息。おじさんは、空を指差し、シャツを指で摘んで困った顔をする。次に、ペットボトルを飲むしぐさ。それから、通りの向こうのコンビニを指差した。・・・この日は、まだ過ごしやすいのは互いに了解済みで、そのうえで、昨日までは汗だくになって何度もコンビニに飲み物を買いに行ってたってことだな。

 ふと、思ったのですが、このおじさんは、全く言葉の通じない異国で働いていて、ボディランゲージで自分の意思を伝える術(すべ)を身につけていたのかも。そうじゃなければ、こんなに臨機応変ジェスチャーができないだろうし、それに顔の表情を組み合わせるなんて即興でできたとは思えない。

 おじさんに比べると、自分の方は、ジェスチャーの表現力が全くないことがすぐに分かった。あらかじめ伝えたい内容がジェスチャーで表せるだろうかと頭の中で反芻してからやりはじめるので間延びしているし、本来、伝えたいと思っていることの中から表現が難しいことはあらかじめ捨象しているので、舌ったらずで不全感が募る。

 ジェスチャーで疑問形は難しい、過去形・未来形も難しい、 抽象的な内容も難しい、 と削っていくと、畢竟、Be Here Nowだけの自己完結した世界になってしまい、それはそれで拈華微笑みたいな以心伝心でいいのですが、巷の雑談、お喋りにはそぐわない。

 

 ・・・とはいえ、おじさんのジェスチャーを見ていると、前後の状況からこれは過去のことだな、あるいは、これからすること(未来)だなという見当がつく。また、「わたし」とか「あなた」、「道路標識」「コンビニ」などは指差しでなんとかなっている。

 また、相手の表情から、好ましいことなのか、困っているのかの見当がつくので、それで疑問形で聞くような内容のかなりは分かるということもある。

 この場合、読み取れるかどうかは、こちらの解釈力(?)に関わってくるのですが。こちらから発信する表現力に乏しいということもあり聞き手にまわることが多い。

 この何日か、ボディランゲージで話しているのですが、なんか妙な感じで、というのは最初から最後まで互いにほとんど無言なんですね。

 

 追記・・・上の文をアップした翌々日、新聞の書評で『言語の起源』(ダニエル・L・エヴェレット著、松浦俊輔訳)という本が紹介されていた。

 著者は、南米アマゾンの先住民ピダハンの言語を調査してきた言語人類学者。この本は、現在も狩猟採取生活をしているピダハンの言語から太古の人類の言語を類推することで、言語の起源について新しい仮説を提起している。その仮説は、ソシュールとかチョムスキーとか、これまで言語学が築き上げてきた文法の構造や論理を研究して導き出された結論とは大きく異なっている。

 そのポイントを端折って書くと、言語の発生は、シンボル(象徴)、ジェスチャー(身振り)、語順、イントネーション、文法などの要素が相互に作用して生まれたと言っている。

 言語は、口から音声を発して話す(喋る)ことですが、5万年〜10万年前に人間が言語を生み出したころ、突然、話せるようになったのではなく、前段階として上にあげたような要素を組み合わせているうちにその相互作用によって言語が生まれたという。

 これはとても興味深い話しでした。というのは、クルド人のおじさんとの「会話」と似てたからです。自然発生的に相互作用が起きていたのは、実感としてよく分かっていた。阿吽の呼吸とか、自分でも変だなーと思ったのはそのことでした。

 別に意識的にやろうとしてはじめた訳ではないのですが、結果的に、言語の起源の実験をしていたんじゃないか。

 

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宝蔵門と浅草メリーさん

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今年4月、夕暮れの宝蔵門。コロナ騒動で境内に人がいません。奥に観音堂(本堂)、左に五重塔。宝蔵門の屋根につき出して見えるのは「花やしき」の乗り物スペースショットの柱。

 

 前回、浅草寺の仁王門(現、宝蔵門)の話しを書いていて、ある人のことを思い出した・・・宝蔵門の軒下で出遭ったメリーさんです。

  もう10数年前になる。7月のはじめ、朝6時に本堂でやっている観音経の読経を聴き、それから境内を仲見世に向かって歩く。吾妻橋の交差点にあった助六、ビルの壁に「うまい、早い、安い」と大書していた立ち食いそば屋に行くため。いま店はなくなりましたが、壁の文字だけ残っている。

 そのころ早朝の観音経をよく聴いていた。 観音経は、観音菩薩を讃える経、「音」を観する経なんですね。オーソドックスに経文を読んで意味を理解する経、真言のような呪文を唱える経、いろんな経がある中で、観音教は聴くことでダイレクトに伝わってくる、そんな経だと思っている。・・・知ってる経は僅かですが、物語としていちばん面白いのは維摩経でした。

 観音経は、浅草のような伝統的に芸能=歌踊音曲を地場産業とする地にふさわしい、地元に密着した、また、しっかり現生利益をアピールしていて、なんかその辺り方便というか、ちょっといかがわしくもあるのですが、なんと言っても勢いがあるところがいい。

 真冬、暗い中、観音教を聴いていたら意識をもっていかれたことがあった。それがある意味、心地よく心に残り、足を運んでいた。読経が後半のクライマックスになってゆくに従い、読経の合唱(?)と太鼓、鉦の音がどんどん昂まってゆき、つられて意識がもっていかれる。これは絶妙に構成されているな、レイヴでDJが会場にいる人々の意識を高みにもっていくのとも似ているな、と思った。

 ・・・出だしから横道に逸れている。このまま書いてくと、全く別の話になりそう。話を戻し、境内を歩きはじめたところから。

 

 その日は、梅雨が開けたばかり、快晴の爽やかな夏の朝だった。 明け方まで雨が降っていてところどころに水溜りがあり、鏡のように夏の青空を映してる。

 早朝の境内は人もまばら。五重塔とおみくじの舎の間を歩き、宝蔵門まで来ると、門の軒下にブルーシートを敷いてぺったり座っている人がいる。上の写真だと、門の左側、ちょうど裏になる。

 目の前まで近づくと、黒のドレスで濃いメイクが雨と汗で落ちかけているけっこうな歳の女性でした。ブルーシートの上に櫛や化粧品、ポーチ、靴が散乱している。バングラデシュアフガニスタンイラクにいた難民の人たちを思い出す。

 しかし、難民にしてはケバい雰囲気、それがなんともアンバランスで鮮烈な印象でした。

 一言二言、立ち話しをした。ここで一晩、雨宿りをしていたそうで、街娼をしてるとか。いたって普通な感じのふっくらとしたおばちゃんで、言葉に品がある。それもまたアンバランスな感じ、これがメリーさんとの出逢いでした。

 

 何日か後、ひさご通りを歩いていたとき、メリーさんが立っていた。ああ、こんにちはと、それから顔を合わすと自然に挨拶するようになった。

 ここは、六区から言問通りまでの歩行者専用の商店街の通りで、その先は山谷や吉原に延びている。昔は街娼の人がよく立っていた。通りの入り口に街娼を締め出そうといったスローガンが書かれた古看板があった。しかし、時代も街も変わリ、その頃には、ほとんどいなくなっていた。 

 メリーさんはこの界隈の古参ではなく、そのころ遠くから流れてきた人だった。

 当時の浅草、特に盛り場は、長期にわたって衰退し続けた大底、その最後の時期でした(それから後、反転し国際的な観光地、それまでとは別の新しい浅草に変貌していく)。

 だから場末どころか、それがさらに寂れ果てた末、街娼も商売にならなくなり姿を消していた。夕暮れになると六区の通りはひと気がなくなり、ホームレスの人たちがダンボールで作った棺桶(?)みたいな「家」で寝ている。賑やかだった昔を知っている人は「浅草は死んだ街だ」と呟いていました。

 花やしき通りは、夜になると廃墟の暗闇というか、インドのオールド・デリーを彷彿させる既視感があった。蔦に覆われた観音温泉のビルはまるでホラー映画に出てくる古城のよう。

 ・・・こんなふうに書いてますが、自分が浅草を知ったのはそんな大底の陰の陰のころ。でもそれはそれで、そんな時代だからこそ出会えたことがあって面白かった。そこは人の行く裏に道あり花の山でした。

 

 ひさご通りのまん中にメリーさん一人、どうしたって目立つ。商店街の人たちは、高齢で体もよくないメリーさんを追い払うのは気の毒で黙認していたとか、そんな話が耳に入ってきた。そういえば、いろんな人たちが、口を揃えて浅草はよそ者に優しい街だと言ってます。

 メリーさんもそういったこと知ってたようで、ひさご通りだけに長居せず、ちょくちょく移動していた。それがまた神出鬼没で、まさかここにといった所にいたりして可笑しかった。

 通りに立っていると書いてますが、正確には、足がよくないのでいつも三脚のイスに座っていた。そして横に服や荷物を詰めたカートを置いている。要はホームレスなわけです。

 街娼でホームレスというと、野生人みたいになっちゃってる人がいる。しかし、メリーさんはいつも身なりには気を使っていたし、壊れた人という感じは全くなく、荒んでもいなかった。

 ここまでメリーさんと書いてきましたが、自分の中でそう呼んでいるだけの名前です。映画や芝居にもなって有名な娼婦の横浜メリーさんは純白のドレスを着ていたそうで、こちらはいつも黒いドレスを着てたので浅草メリーさんということになっている。

 こういう状況で、あれこれ聞いたり、詮索するのは野暮な話で、畢竟、どっちでもいいこと。そもそも自分が誰かなんて分かってる人、いるんだろうか。だからメリーさんが誰かなんて他者が聞くのは愚問。だいたい話すことといったら、あっちにこんな人がいたとか、この前、あそこでこんなことがあった(抽象的な書き方ですいません)、といった街の情報がほとんど。

 何も知らなくても、本音で話ができた。常識とか世間の建前に囚われず、表裏のない話ができた。本来無一物って自由のことでしょ。うまく言葉にならないですが、出逢えてよかったなと思っている。

 宝蔵門の下というシンボリックな場所で出逢ったことに、なんかの縁を感じていました。あそこは古来、悪魔やもののけが入ってくるのを防ぐ守護神の門だったんだな、後からそんな由来を思い出した。人間って終わった後から気づいたこと、知ったことなど諸々の断片を組み合わせて自分の内で納得できる物語を紡いでいくんじゃないか。

 

 真冬、コートを着て、襟巻き、手袋をして座っていた。ひさご通りはアーケードになっていて雨、雪はしのげるが吹きっ晒し。よく暖かいコヒーを持っていった。

 夏、隅田川の花火大会の日の夕暮れ、人通りが増えてくる。境内からも花火の見える一角があり、びっしり人で埋まる。メリーさんも後ろを振り向けば、建物の隙間から花火が見えるのだけど、花火大会があることも、花火を見たこともないと言っていた。メリーさんにとって、そういうこともどっちでもいいことだった。

 何度も倒れ、救急車で病院に運び込まれたがすぐに戻ってきた。姿が見えないと気になり、そういうときは、街の誰かがあそこの病院にいるとか教えてくれた。施設に入ればといった話もあったが、結局、ここがいいということだった。

 何年か経った真冬、メリーさんは亡くなった。路上で三脚イスに座ったまま最期を迎えたという。

 

 今朝、黒松の林の地面に小さな穴がたくさんあって、近くに蝉の抜け殻が落ちていた。樹の幹に付いているのもあれば、雑草の葉の裏に付いているのも、地面に転がっているのもいる。なんとなく抜け殻を見ていて気づいたのですが、15~20匹に一つはうまく脱皮できずにそのまま死んでいました。生まれるってことは大変なことなんだなと思う。

 人間が胎児として母体にいるときと、蝉が幼虫として大地(土の中)にいるときは対応していて、また人間が産まれるときは、幼虫が地上に出てきて脱皮し蝉になるときに対応してるように思える。・・・もし核戦争とか巨大隕石の衝突が起きて地上の生物が滅んでも、蝉の幼虫は地下のシェルターにいるので、その7年後ぐらいに姿を現わすのでしょうか。

 人間にとってほんとうの大事、正念場は、分娩時と臨終時の二回だけなのではないか。人生全体の中では、最初と最後のごく短い時間に起きること。別の言い方をすると、意識の始まりと終わり。途中の人生、いろいろあるでしょうが、それらは中事、小事といったところ。昔の人は、邯鄲の夢と言っていた。

 分娩時(とその前)の意識については、スタニスラフ・グロフの「基本的分娩前後のマトリックス」が包括的に説明していました。臨終時(からその後)の意識については、チベット仏教ニンマ派チベット死者の書がバルドゥとして詳細に説いていました。言ってることに向きあってきましたが、鵜呑みにしているわけではないです。

 これらは仮説であっても、正念場の前後の幅を広げて考える一助になるのではないかと思っている。科学、医学、心理学、宗教などこれまで人間が蓄積してきた膨大な知識の中で、この正念場の意識について語られていること、分かっていることは、ごく僅かしかないからです。常々、肝心なところが抜け落ちてる!って感じてました。

 思うに、正念場は、純粋に意識だけの問題になるってことですよね。

 

 メリーさんは即身仏の行と同じことをしていたのでは、ふと、そんな気がした。正念場の意識の話しです。奇異なこと言ってるでしょうか? もちろん、本人はそんなこと考えてもいなかったでしょうが、動機や過程は違っていても結果に於いて近いとすれば、そういう人のことを縁覚と呼ぶのではないか。

 即身仏の行は、そんなに多くではないですが、江戸時代、主に東北の山形の方で行われていた。明治以降、 近代化していく中で核にあったものが見失われ、奇習などと呼ばれるようになってしまった。でも、別の言い方をすると、正念場に際し、意識を保ち続けて臨終する行、究極的な瞑想ともいえる。

 そういえばブッダと同時代、双子の兄弟のような関係にあったマハーヴィーラ(大勇)のジャイナ教には宗教的に自死を肯定する教えがあった。断食による死を賞賛している。即身仏の行は、奇しくもあれと近いんじゃないか。南ベトナムの僧侶ティック・クアン・ドックという人もいた。

 ジャイナ教をマイルドにしたのが仏教で、そのことは、ブッダの唱えた初期仏教に近い南伝仏教の方が、北伝仏教よりもジャイナ教により近いことからも明らかではないだろうか。

 仏教とジャイナ教はインドの精神文明の同じ幹から出ている二つの枝で、長い時間を経てアジア各地でさらに小枝に分かれていっても、ときどき先祖返りする個体が出てくるってことでしょうか。教義や形式的なことを取っ払うと、共通した意識にあるのかも。

 

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浅草寺仁王門のかな輪

 

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 木村荘八の『現代風俗帖』(昭和27年、東峰書房)に以下のような一節がありました。終戦後、間もないころ浅草寺を訪れたときの話です。昭和20年3月10日の空襲で下町一帯は大きな被害を受け、浅草寺も本堂、五重塔、仁王門をはじめ主だった建物は焼け落ちていた。

 上の写真は焼失する前の仁王門。戦前の絵葉書です。

 

「まだその時は仁王門の焼け跡がよく整理されていずに、私はそこで、門の金具として打付けてあった、鉄瓶の蓋程の大きさの、かな輪を拾って来ましたから・・・そこらじゅう未だ戦跡の片付いていなかった、生々しかった頃です。」

 

 仁王門は1964年、東京オリンピックのあった年、鉄筋コンクリートで再建され、宝蔵門と改名された。仲見世通りから本堂に向かうとき通る大きな赤い門で、長さ4.5メートルの大草鞋(わらじ)が掛かっている。コロナ騒動が起きる前は、海外からの観光客が門の下でよく記念写真を撮っていました。

 仁王門が建てられたのは江戸時代初期の1649年、同じ年に 本堂(観音堂)、前年に五重塔が建てられている。戦前、観音堂五重塔は国宝になっていた。当然、同時期に建てられた仁王門もそれらと同格に目されていた。

 しかし戦災で三つとも焼失、江戸時代に作られ、いま残っているのは二天門、六角堂、橋下薬師堂、被官稲荷のお堂と小ぶりな建物だけ。二天門は近年、改修され真新しくなっているし、被官稲荷は幕末に作られたものなので、古色のある建物はほとんどない。

 ついでに一言。浅草神社三者様)の裏にひっそり建っている被官稲荷は、僅かに江戸時代の気配が残っている希な空間です。まず気づくのは、建物内部のスケール感、その頃の日本人の身長、体格は今とは違ってたんですね。また、周りはすっかり観光地化していますが、死角みたいな場所に建っていることもあり、この内部には江戸の庶民信仰が今も息づいてるのが見てとれる。

 ここは浅草をシマ(窟)にしていたテキ屋博徒兼火消し(消防組織)の大元締めの有名な人物の奥さんがキツネに憑かれて難儀していたのをこのお稲荷様が救ってくれたことから建てられた社です。・・・現在、被官稲荷の前に置かれているプレートは、体裁というか品位を気にしてか、キツネの話しはぼかして書かれていますが。

 ・・・伝法院にはタヌキを祀った社があるし、タヌキ通りには願掛けタヌキがあるとか、キツネに憑かれた、タヌキに化かされたといった話しは、現代だとメンタルヘルスの領域になるのですが、江戸時代の人々の心はキツネやタヌキの動物霊と感応していたってことかと思っている。

 被官稲荷を訪れるなら夜、まわりの雑多なものが闇に紛れて見えなくなるのでここで書いていることがリアルに感じとれます。

 もう一言だけ。木村荘八(1893〜1958)といえばなんと言っても『濹東綺譚』の挿画です。永井荷風の文章に劣らずというか、戦前の玉の井界隈を描いた挿絵は、文章に勝る風情、情感がある。

 『濹東綺譚』は、もともと新聞の連載小説として書かれている。荷風は、偏奇な人物といった面ばかり語られているが、仕事面では読者にウケる文章を作れる器用な人だったのではないか。一方、挿画は文章の脇役ながらも、というか脇役だからこそ木村庄八は自分の個性をそのまま出して仕事ができた。その辺りの違いを感じるのかもしれない。

 この人の描いた街並みや路地、私娼窟の長屋、めし屋、飲み屋などいいですね。場末美というか、夜の街の情景はすごくいい。ペン画は、相性がいいようで、それもまたいい。一方、女と男、人物、動物などの描写は、それほどではないように思える。

 個性的ってことは、あんまり器用じゃないこと、得手、不得手がはっきりしてるってことなんでしょうか。

 

 木村荘八の拾ってきたかな輪は、けっこう由緒あるものでした。かな輪は玄関あたりに吊るしていたんでしょうか。下に苔玉を吊るしてもいい。

  なにげなく焼け跡から拾ってきた物がお宝だった。そういうことって、ままあるのではないか。昨年、パリのノートルダム大聖堂の屋根、尖塔が火災で焼失した。世界遺産にもなっている建物で、大きく報じられた。

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 焼け跡から尖塔の先端に付いていた銅製の風見鶏を見つけた人がいて、奇跡的だとニュースになりました。写真の左は、焼失する前の尖塔の先っぽ。右は、発見者が現場近くの路上で手に抱えているところ。

 写真を見比べると、尖塔の頂点の90メートル以上の高さから、それも火災の中に落ちたにしては状態がいいように思える。奇跡的と言ってるわけですね。

 このケースでは見つけたのが作業関係者の一人で、すぐに公になりましたが、もし、その人が黙って自分の家に持ち帰っていたら、焼失したということで終わっていたはず。サイズ的にも持ち出そうとすれば、可能な大きさですし。

 

 こういった話しは、焼け跡だけではなく災害、戦乱・紛争、盗掘・盗難、間違い・手違いによる紛失とか、いくらでもあるようです。

 発掘品でも、いちばんいいもの、価値あるものは、公になる前に誰かが持っていっちゃってるのではないか。発掘現場を取り仕切っている当事者も気づいていないところで、現場の警備員とか、作業の手伝い、近くに住んでるオヤジなんか怪しい。

 美術館や博物館にあるものよりも秀でたものを隠し持ってる人は大勢いるはず。

 ピラミッドに収められていた物品から正倉院の宝物まで、かってイギリスやフランスが自国に持っていった世界各地の文化財も、故宮博物院の収蔵品も、最近ではイラクでISに破壊された発掘品も、三国志曹操の墓に埋まっていた遺品も、その他きりがないですが、誰かに中抜きされているはず。

 持ち出すにはサイズの制約がありますが、いいものから先に持っていくのは自然の流れでしょうか。また、中抜きに限らず、落とした、忘れたの類でどっかにいっちゃって、誰かが持ってるものもあるはず。

 そういう物の一部は、市場に流れている。でも多くは映画の「タイタニック」の結末で「碧洋のハート」っていうダイヤのネックレスがトレジャーハンターの手を逃れ、密かに海に捨てられてしまうのと同じような運命を辿っているはず。

 ・・・さっきから「はず」ばっかりですが、まあ、このあたりは人智を超えたことなので。

 レオナルド・ダビンチの作品も、まだ知られていない絵を誰か持っている人がいるはず・・・テレパシーで分かる(と、思っている)。

 

 もしどこにあるか分かったら『黒蜥蜴』(江戸川乱歩)の緑川夫人のように「この世の美しいものという美しいものを、すっかり集めてみたいのがあたしの念願なのよ」と言って盗んじゃう? いえ、そういうやり方は小乗的でなんか反りが合わない。それを国家としてやったのがイギリスやフランスの帝国主義でしょ。

 と思いつつ、でも映画「Vフォー・ヴェンデッタ」のV(主人公)も緑川夫人と同じことしてるんだけど、Vの方は許せるような気がして、どうも一律には言えないようです。

 何でも念力で引き寄せることができるのではないかと思っている。それは誰でも可能、でも、普通に探しても出てこないのも当然。カネ目当ての欲で探しても無理。プロだから、専門家だからどうかなるって話でもない。

 想念を練りに練って、極まるところまでいくと、そこは無色界で無欲の世界、すると自然に向こうから転がり込んでくる。外見上は、偶然、手にするという形になるのですが、それは起こされた偶然なのではないかと思っている。

 

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