クメールの石像

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 真夜中、目が覚めた。豆電球に照らされた石像が見える。7 世紀のクメールの神像、 枕元のテーブルの上に置いていた。暗がりに浮き上がった横顔は、生きている人のよう。

 砂岩を彫ったものですが、砂岩といっても、よくインドの彫像、例えばカジュラーホーの寺院で知られるチャンデーラ朝の彫像などに用いられている砂岩に比べ、きめ細かく、滑らかな質感です。青みがかった緻密な岩石で、暗がりでは、しっとりとした人の肌のように見える。

 そういえば、カンボジアの石像について、こんなことを書いている本がありました。

   「人体の美しさは、骨や筋肉だけではなくて、この皮下組織の弾性に支えられている。それまでの古代美術は、西洋も含めて皮下組織の表現には関心を払わなかった。ところが古代カンボジアの芸術家は、皮下組織の美しさを発見し、それを意識して表現したらしい。カンボジアの石像の独特の肉体表現は、この新しい発見によるものだと私は思った。」(『私のガラクタ美術館』多田富雄

 ちょっと即物的な話しになりますが、この指摘に補足して、クメールの地で、皮下組織、肌を表現する素材として絶好の砂岩が産出されたことが大きかったように思えます。

 

 クメール王国は、最盛期の西暦1000年〜1250 年代頃、カンボジアを中心に現在のラオスベトナム、タイ、マレー半島まで版図が広がっていたという。想像以上に、大きな王国であったようで、そこでインド文明の影響を受けたクメール美術が花開いていたことを知りました。

 この石像は、最近、クメール文化を在野で研究している方に譲っていただいたのですが、その方の話しでは、クメールについて究明されていることは少なく、遺跡の調査も手つかずの場所がたくさんあるとのことでした。

 いろいろな国の仏像、インドやチベット、東南アジア、中国、それに日本も加えていいですが、その中でもクメールの石像には、他の地域にはない一種特異なリアリティを感じる。

 美術史では、サンボー プレイ クック様式と呼ばれるらしいのですが、この石像が造られたのは今から 1200〜1300年ほど前、カンボジアの歴史では、前アンコール期という時代区分になります。だいたい日本の奈良時代から平安初期にあたる。

 仏陀がはじめて人間の姿で表されたのは、つまり最初の仏像は、1 世紀頃、今のイランからアフガニスタンにかけてを領土としたクシャン朝で生まれたといわれます。それがガンダーラの仏像でした。

 その後、仏像が広まっていった地域では、どこでもそれぞれ独自の仏像や神像が造られるようになり、そして歳月を重ねていくにつれ、姿形は、その地域の特徴を帯びたパターンのものになっていく。様式化していくと言ってもいい。どこの国、地域でもおおよそそんな進化をしている。

 ところがクメールで造られた彫像は、何故か、そういった様式化の流れを免れ、生身の肉体や表情の姿を写実的に極めていく。はじめてクメールの仏像を目にしたとき、鮮烈な印象を受けました。

 石像が作られた頃の日本は平安時代でした。その頃、近年とみに高い評価を得ている興福寺の阿修羅像が作られている。世界の仏像の中でも、この阿修羅像は、別格というか、特異な存在感があるんじゃないかと思っています。日本の仏像の歴史でも、突然変異のように現れたように思う。

  ちょっと横道に逸れますが、江戸川乱歩の『黒蜥蜴』という小説は、世の中にある美しいものを蒐集するために盗みをはたらく耽美主義的な盗賊が主人公でした。阿修羅像は国宝になっているし、一個人が欲しいと思っても黒蜥蜴でもなければ手に入りません。

 もともと日本の古い仏像はとても高価、というか、すでに収まる所に収まってしまっている。日本のコレクターの人気度では、当然、日本の仏像がトップ、その次に周辺の東アジアの仏像、それにガンダーラの仏像、チベットの仏像などが続く。

 これまで東南アジア圏の仏像には関心が薄かった。でも、この 20 年ぐらいか、東南アジアの仏像について、関心を持つ人たちが増えています。

 

 言葉で表現するのは難しいですが、クメールの初期の仏像と阿修羅像を見比べていると、共通して写実性の中に、なにか清冽なイメージを感受します。現代の文明が作る文物にはない清冽さ。どういうことかと言うと、人類が今よりもっと素直で、純粋だったころの精神の形状で、近世、近代では、死語になってしまったイメージではないか。

 阿修羅像は乾漆造でした。漆を用いる造形の技法は、日本だけのものだとか。なるほど、「世界の仏像の中でも、この阿修羅像は、別格というか、特異な存在感がある」と書きましたが、要は、表現力の問題にとどまらず、製造技術というところに注目すべきなんだな、と思いました。

 きめの細かい砂岩の磨いた表面と乾漆の表面は、光のあたり具合で、金属や木質、岩石とは異なる一種フェチ的な質感を生み出していて、それが鮮烈なイメージを醸し出すのに寄与しているように感じる。

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 薄明かりの石像は、目を開け、生きているようでいて、でも息はしていない。いつ見ても同じ表情なのが奇妙に思えてくる。 静止したまま、匂い立つような、シャープな若々しさを発散し続けている。

 1300 年間、歳をとらず、ずっと同じ表情の瞬間で止まったまま、こんなふうに、ただいたんだな。きみは、昔も今も同じ時間が止まった世界にいるんだな・・・。

 冒頭、ふと目が覚めたと書きましたが、それは、布団の中で寝ていた犬が、夜中、水を飲みにいき、戻ってきて、また布団に潜り込もうと、足でわたしの頭をゴシゴシしたからでした。

 目が覚めてしまい、ふと、布団の中の犬の寝顔を見る。犬って、すごく寝付きがよくて、布団に潜り込むやいなや、もう熟睡してる。鼻筋の通った細面、はて?誰かに似ていたな・・・オードリーヘップバーンのモノクロ写真、こんな顔してたっけ・・・と、とりとめもない夢想に浸っているうち、昼間、誰かが「犬は人間の4倍の早さで歳をとっていくんだよね」と話してたのを思い出す。その言葉、妙に耳に残っていた。

 ・・・こいつは、人間より時間が4倍も速く進む世界にいるんだな。この世にいる時間、そんなにたくさんはない。そんなことを考えていると、仏陀四門出遊の話しみたいな気持ちになっていく。

 時間って、突き詰めると、主観的な現象ですよね?  実は、この宇宙に客観的な時間なんか存在しなくて、本当は今しかないんでしょ。畢竟、自己意識と時間って、同じ現象を別の言い方で言ってるんでしょ?

  石像は時間の止まった世界にいる、犬は4倍速の時間の世界にいる、そして、今、それを寝ぼけ眼で見ている自分が、夢うつつの中で交わっていました。

 

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