逝きし世の浅草の絵

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 「浅草スケッチ 昭和十三年」と裏の板に書かれている絵、一目でどこか分かった。中央の石橋は、浅草寺の本堂の西側の池にかかっている「神橋」。都内最古の石橋といわれてます。

 橋の上に着物に髷を結った女性が二人、下の池に白い鯉が泳いでいる。 後ろに浅草寺の本堂が見えます。この本堂は、昭和 20 年3 月 10 日の空襲で燃えてしまう。橋と建物の位置関係などは、今とそれほど変わっていません。

 なんでこの絵を選んだかというと、やっぱり大好きだった浅草、それも戦前の浅草を描いてるからでした。昭和13年(1938 年)の浅草の時間が、その時点で止まったままキャンバス上に絵具で固着されている。

 

 作者は、近藤晴彦という北海道出身の洋画家で、戦前、東京の風景を好んで描いていたということぐらいしか分からない。詩人の西脇順三郎と親しかったとか。

 ときどき、絵を購入している。昭和の戦前、戦後に活動し、すでに故人になっている画家の中には、ほとんど顧みられることもなくなっている人も多く、そんな画家の絵です。

 はじめの頃は、シュールレアリズムの絵に目が向いてましたが、そういう絵は観るのが疲れてきて、自然に風景画を選ぶようになっていった。水辺の景色が多い。

 

 浅草寺は、7 世紀の中頃に創建されました。でも古い建造物はほとんど残っていない。戦前、国宝に指定されていた五重塔と本堂、それに仁王門(宝蔵門)、どれも木造で空襲により焼失しています。戦後、それぞれ再建されましたけど、みんな鉄筋コンクリートの建造物になっている。

 いま残っている建造物で最も古いのは、江戸時代初期の元和4年(1618) に作られた神橋、二天門、六角堂の三つ。二天門は、補修工事によって見た目は新築ピカピカ、古い姿を留めているのは神橋と六角堂ぐらいです。

 

 少し脇道に逸れますが、浅草寺の仏像について、なんか腑に落ちないことがあります。

 いま浅草寺の境内にある仏像は、古いものでも江戸時代に入ってから、17 世紀に作られたものです。飛鳥時代に創建されたという寺なのに近世以降の仏像しかないのは、どうしてなんだろうか? 常々、疑問に思ってました。

 秘仏の本尊(観音様 7 世紀)、それに木彫りの前立本尊(9 世紀)という仏像があるということになっていますが、その話しは、茫洋としてどこか眉唾物っぽい。

 まず本尊は、絶対秘仏、つまり絶対公開されない仏像ということで、本当に存在してるのかどうか分かりません。

 前立本尊の方は、年に一度、開帳されている。とはいえ、拝観者からは離れた距離にある厨子の奥、扉に挟まれた仏像を拝むという形なので、あまりはっきりとは見えない。

 望遠レンズで前立本尊の仏像を写した写真がありますが、骨董の世界をちょっぴりかじってる自分の目から見て、木像の古色(材質の経年劣化)の具合は、平安時代に作られたものといえるのか悩ましいところです。比較的新しい江戸時代以降に作られたものだとしたら納得できます。

 ・・・もしかして、こういうこと寺の関係者の間では、みんな真相を知ってて、野暮な話しなので口外しないだけなのかも。

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   (現在の神橋。だいたい上の絵と同じアングルです)

 石橋の話しに戻ります。神橋は、今は渡ることができず、眺めるだけですが、以前から、その特異な存在感に見蕩れてました。

 特異な存在感とは、どういうことでしょうか? そのひとつは、建造物のスケール感です。先ほど、橋と建物の位置関係などは、今とそれほど変わっていないと書きました。しかし、江戸時代の世界と現在を比較すると、物(建造物)のスケール感は異なっています。

 一例をあげれば、浅草寺の一角にある被官稲荷、幕末に建てられた社殿に足を踏み入れると、最初、何か妙な感じがするはずです。浅草寺の境内にある浅草神社(三社様)の裏にあるこじんまりした社が被官稲荷ですので、今度、行ってみてください。

 妙な感じというのは、柱や鴨居、間取り、屋根、天井など全てが縮小したサイズで出来ていて、小人の国に迷い込んだかのような気分になるからです。

 江戸時代の平均身長は男性155 〜157センチ、女性は143〜145センチで、昭和初期までだいたい変わらなかったようです。

 神橋を実測した数字を見ると、とても小さいんですね。欄干も低く、絵では人のお腹ぐらいの高さがあるように見えますが、現代人だと膝の上・・・は大げさにしても、腰までないぐらではないかと思う。

  ふと、枕草子の〈なにもなにも、小さきものはみなうつくし〉と書いている一節を想い出しました。

 

 もうひとつ、なんだかよく分からない、言葉にならない何かを感じてたのですが、改めて、よく考えているうちに、ふと気づいたことがあります。

 それは、長い年月、雨風に晒された石の醸し出す印象でした。この場合、少し変わっているのは、それが野山にある自然状態の石ではなく、常に大切に扱われながら付いた古色、独特の味だというところです。たぶん、それに感応してたんじゃないか。

 敷石の色は、微妙に緑の入った灰黒色で、緻密で光沢のある石質。察するに、こういった特徴から、使われたのは江戸時代に真鶴から運ばれた小松石だと思います。安山岩で昔から石材として有名な石です。

 ぶ厚い敷石は、真ん中が凹んだ形で滑らかに湾曲している。これは、およそ300年の間、人々が草鞋や下駄を履いてこの上を歩き、磨り減った痕跡です。堅牢な石がこんなに窪むほど、同じ石の上を10 世代以上、信じられないぐらい多くの人が通っていたなんて想像すると、センス・オブ・ワンダーの感覚になる。

 現在も小松石は建材として用いられており、クオリティによって4 つに区分けされているようで、最も秀でたものは通称、大トロと呼ばれているとか。この呼び名、神橋の敷石を見ていて、なるほど!とつながりました。

 神橋を見るとき、季節の移り変わりの中で、いちばんいいなと思っているセッティングは、梅雨や秋霖(しゅうりん)の日の眺めです。

 というのは、長い年月、擦り磨かれ、ねっとりとした石肌が雨に濡れると、緑の黒髪ような色に深まるからですーー質感と色感の共感覚というと大げさかもしれませんがーーたぶん、自分はこれに感応してるのではないかと思います。

 なんだか古硯鑑賞、書の硯を水に浸して眺める、中国の宋の時代に生まれた一種フェチ的な趣向ですが、それに通じるように思います。そういえば、昔から玉(ぎょく)の名品を脂玉といったり、骨董の業者の口上で木工の品をトロトロといったり(刀の鍔まで、そんなふうに言ってる人がいる)、硯だけでなく、そういった感触の美(?)を尊ぶのは、いにしえの中国に由来しているのかも。

  話しが右往左往してますが、神橋の敷石の話しでした。このねっとり感、大トロとは、巧いこと言うなと思った次第です。  

 

 昭和13 年というと、前年に日中戦争がはじまっていて、 3 年後に日米開戦になる。その年の3 月ドイツのオーストリア併合、 4 月国家総動員法公布と国家的には準戦時体制に入っていた時代。

 その頃、ものの本によると、すでに息苦しい世の中になっていたとありますが、浅草の周りの時間は、そういう世間の時間とは少しずれていたのではないか。希望的観測も交えてそんなふうに思ってる。

  昭和 13 年は換算すると、明治 71 年に当たる。その時代、父親や母親が江戸時代の人という世代がいました。江戸時代の人たちの生活、暮らしや気風、風俗を書き残した文筆家として有名な三田村鳶魚岡本綺堂といった人たちが、明治の初めに生まれているというのも、まだ江戸の記憶が人々の間に残っていたということが大きい。

 特に、浅草は、大局としての文明開化の時代にあっても、前時代の江戸の遺風が残っている土地でした。自分なりにそんな実感を感じていることなのですが、それについては、別の機会に書いてみたいと思います。

 

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