いいなと思った鉢

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 金沢の陶芸家、大西雄三郎さんの鉢。一目見て、いいなと思った。

 なにより、その色感。深緑から紫がかった小豆色に溶けていくような流れ。見込みの底に、雲の隙間に見える紺碧の空、ボルダーオパールやローマングラスを彷彿とさせる。

 中心のやや右に見える小さなオーシャングリーン、大西氏の極め色のようです。というのは、他にもワンポイントとしてこの色を用いた皿を見て印象的だったので。

  色の違う釉薬をかけ流すのは、 唐三彩や遼三彩もそうでした。 黄土色と緑の釉薬が重なって混じり合った色模様、そして、淡い色やぼかした色の味わい、そんな唐三彩に魅了された日本人は多い。

 自分はといえば、唐三彩はもちろんいいにしろ、それ以上に、遼三彩の藍色の色感に心底参ってしまった。この鉢には、あのとき遼三彩の藍色にクラクラしたのと同じ何かを感じました。  

 

  写真では、皿のような平坦な形に見えて、鉢の立体感がよく分からない。実物は、どんぶりではないですが、深さがあります。

 最近、写真と実物のリアリティの違いが気になってしょうがない。自分が眼で見てるものと、それを写したものとでは、違うものに見える。遠近感と立体感、凹凸や質感、それに眼で見ているときは、瞬間、瞬間で意識がそのものの一部に向いていて、それがつながって全体としての、そのもののイメージを作っていると思うのですが、写真はそういうところが抜けているんですね。

 昨年の晩秋に南宋の焼き物と出合い(以前、ブログに書いたあの話し)、それがマイブームになってしまい、寝ても覚めてもそっちにばっかり目がいってました。現代のものは、見たとしても上の空、見ていながら目が閉じていた。

 そんなわけで、今年の 1月、この鉢を目にしたときも、 胸の内では、いいなと感じて戸惑いつつ、ふんぎりががつかなかった。で、翌日の朝、目が覚めたとき、あの鉢を気にしている自分に気づきました。

 だいたい、朝、目が覚めた直後に思い浮かんだことは、自分の内の正直な心からのメッセージだと思っている。これは、古神道やシュタイナーから学んだ一種の知恵で、振り返ると、この見方、そんなに間違ってなかったように思っています。

 ・・・ああ、どんどん横道に逸れている。鉢の話しの続きですが、それからずっと気になって、いろいろ探して、半月後、作家の方にコンタクトすることができ、あのとき見た鉢を手にしました。

 

 日本の伝統的な美とは毛色が違う。でも、こういうのが好きなんだからしょうがない。ニューギニアの先住民のお祭りシンシンとか、ブラジルのカーニバルとか、ダイナミックで、鮮やか派手な色使いをしていました。本源的には、あるいは自己抑制をとっぱらうと、こっちの方がヒトの感性を素直に表しているのではないか。

 そういえば、骨董についての岡本太郎小林秀雄は全く違った見方をしていた、そんな逸話を想い出す。この話し、要は縄文系と渡来系の文化の感性の違いということになるかと思うのですがーー『日本の伝統』(岡本太郎)という本の一節です。ご関心のある方は「岡本太郎 小林秀雄」で検索すると概要が分かります。

 ・・・・また、横道に逸れている。こんなことを書いてるうちに、結局、自分が惹かれているのは、陶磁器というよりは陶板画なのかも、そんな気がしてきた。

 

 大西氏は、九谷を学んだ陶芸家で、伝統に沿った作陶もされていると思いますが、個性をはっきりと出した作品も作っていて、この鉢は、その中でも会心作といえるものだと聞きました。

 ふと、大西氏と立ち話してたとき耳にした一言を思い出した。焼き物を作っているとき、抽象画のようなものを狙っている、そう話していました。

 第二次大戦後、アメリカで生まれた抽象表現主義というアートの潮流がありました。抽象+表現+主義という漢字、ガチガチに硬い感じがして、一方で漢字だと知らない言葉でも文字からなんとなく意味がつかめるという利点もあり、Abstract expressionismと書けばいいのか、迷うところです。

 その中に、ドリッピングという絵画の技法がある。筆を使わずキャンパスに描くという技法で、棒から絵具を垂らしたり、撥ねつけたりして描きます。

 大西氏は、釉薬を口縁から見込みに流していくとき、どういうふうになっていくか計算して作っているとも話していました。その言葉は、最初にドリッピングで描いた画家、ジャクソン・ポロックが、意識的に絵具の垂れる位置や量をコントロールしていると語っていたのとつながるように思いました。

 なるほど、自分は、鉢の形をした抽象画を見ているのかも?

 

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