「浅草田圃太郎稲荷」 と水の匂いのする夜

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 井上安治の版画。明治はじめの台東区下谷、そのころは浅草田圃(あさくさたんぼ)と呼ばれていた一角に太郎稲荷の社があった。昏く水の匂いのする静謐な夜。江戸時代の夜はこんな感じだったのでしょうか。

 明治以降、油絵や日本画で描かれた夜より、版画で描かれた夜が好きです。特に、安治と谷中安規の描く夜はいい。

 この画には、不思議な既視感があって、実際は見たことがないはずなのに、なぜか懐かしさを感じる。

 安治は130数枚の東京名所絵を描いています。 安治は幕末、江戸に生まれ、明治22 年、25 歳で病で亡くなっている。東京名所絵シリーズは十代のときの仕事でした。

 写真の画は、以前、まとまって売りに出ていた中の一枚。その中には、昼間の東京も、描かれた場所もいろいろありましたが、いちばん惹かれたのがこの画でした。迷わず、即これだと思った。

 刷られてから140 年ぐらい経っていることもありますが、それより、おそらく昨今のアート作品のように気配りした保存をされていなかったようで、画面の周りの白地は埃、色褪せ、シミがついている。まあ、当時は庶民の観光土産のようなものだったと思うので、言ってもしょうがないことですが。

 

 太郎稲荷は、現在も下谷2丁目に「太郎稲荷大明神」という名称で存在しています。まわりはごく普通の下町。民家、マンション、学校、事務所、倉庫などが立ち並んでいる道路沿いに小さな赤い鳥居があり、その細い路地の奥まった所に、地味にというか、ひっそりと鎮座している。

 ちなみに、太郎というのは、鎮座している狐の神様の名前。また、江戸時代には流行り神という奇妙な現象(今風にいえば都市伝説の騒動といったことになるのでしょうか)が起きていましたが、太郎稲荷は流行り神としても有名でした。

 太郎稲荷の流行は、江戸時代後期の60年間に3回ありました。最後が幕末の慶応3年(1867 年)で、安治が3歳のときのこと。

 この年、10 月に大政奉還、翌年( 1868 年)が明治元年。8 月から12 月にかけて西日本や東海では、ええじゃないか騒動が起き、同じ時期に、江戸で太郎稲荷参りの流行が起きている。

 この年のええじゃないか騒動は、約60年周期で起きていた伊勢神宮への集団参拝現象、お蔭参りの変形版といわれていることを考えると、太郎稲荷の一件は、それに誘発されて起きていたのかもしれない。

 浅草並木町生まれの安治にとって、 3 歳の頃の出来事であった太郎稲荷の「騒動」は、上野の山の戦争とともに身近で起きた天変地異だったはずで、一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)のような影響を受けていたののではないか。

 映画の「ブリキの太鼓」の主人公は、 3 歳で体の成長を自ら止めた人間の物語でしたが、安治の場合は、自我の成長を自ら止めたケースだったのではないか。

 この画もそうですが、東京名所絵シリーズの自我のすっぽり抜けた目で描いたような作風の背景をこんなところに見ています。

 

 このあたりは、朝顔市の鬼子母神からも、お酉さまの鷲神社からも少し離れていてる。西浅草から料理道具・食器で有名なかっぱ橋商店街を歩いていくと、そんなに遠くない所でもあるのですが、やはり微妙に、少し距離があるんですね。

 まわりに古い名所、旧跡がないのは、江戸時代には一面田圃だったから。入谷田圃、吉原田圃といった名前もあったとか。入谷の先は、江戸の外で、奥州街道の最初の宿、千住になる。ここは江戸の端、 古文書には人気のない寂しい所だったと書かれている。         

 地形を見ると、上野は山になっていて、その東側、浅草と上野に挟まれたこのあたりは谷のような地形になっている。下谷、入谷という地名はそんな地形に由来しています。

 太郎稲荷の横には、今は暗渠になっている新堀川が流れていて、池や沼が点在していた。現在では、全く想像できない情景が広がっていたようです。安治の画を見ていると、そのころの時代にタイムリップしたような気持ちになる。

 

 江戸の低地、湿地というと、時代劇の映画などでは湿ってジメジメした沼や葦原といった、怪談ものの舞台もそんな場所で、あまりいい印象はないのですが、でも、考えてみると、水郷のような景勝地でもあったように思います。

 自分の中では、大輪の蓮や睡蓮、菖蒲、カキツバタなど水生植物が百花繚乱、夏には蛍が飛び交う、そんなイメージ(ちょっと過剰でしょうか)。 初夏の早朝、不忍池の畔には蓮の花の香りが漂っていて、僅かにそんな面影が感じられます。

 日本の匂いということでは、まず畳の匂いを挙げたい。生活環境の変化で、この感覚がうまく伝わらなくなったとしたら、それは自分の憶っている日本の消滅ではないかと憶っている。そう、イグサも水辺の植物でした。

 そういえば、太郎稲荷からかっぱ橋商店街に戻ると、カッパの手のミイラを保存していることで知られる曹源寺がありました。江戸時代には、このあたりの水辺にカッパもいたようです(?)。

 ふと、バリ島のアグン山の裾野を想い出す。ずーっとどこまでも田圃が広がっていて、所々に小川や竹の林、灌木が見える・・・浅草田圃の想像としては飛躍しているかもしれませんが、近代化からすでに150年も経っている世の中にいる自分には、具体的なイメージとして想い浮かぶのはバリ島でした。

 少し横道に逸れますが、わたしが浅草にいくようになったのは、 そんなに昔ではなく1990〜 2000年代ごろからで、街が寂れていたころでした。

 そのころの浅草は、明治以降でいちばん寂れていた、いわば陰の陰の時期。でも、自分にはそんな雰囲気が心地よかった。場末美・・・誰かの造語ですが(確か平岡正明だったか)、自分にはいい街でした。

 夕方、花やしき通りを歩くと廃墟感が漂いオールドデリーみたいでした。また、人を案内し銀座線の改札口から地下商店街に足を踏み入れたとき、その人は「トルコのガラタ橋の露店街みたい」と素直にびっくりしていました。

 浅草には、東京にはなくなった風景が、つまり過去が僅かに残っていたということです。しかし、それも近年、外国人旅行者ばかりの国際的な観光地に変貌していくなかで消えつつあるのは残念に思っている。

 1990年代末期の浅草六区は、よく死んだ街だと陰口を言われていたぐらい寂れていたので、賑やかさが戻ってきたのは一般的には良かったのかもしれませんが、昔とは別の浅草になってしまったのは空虚な感じです。

 話しを戻します。別にバリでなくても、タイやベトナムメコンデルタ、中国南部、台湾には浅草田圃と同じような情景の場所、あるのではないか(あるいは、あったのではないか)。

 ゴーギャンの楽園は太平洋のタチヒ、トロピカルな世界でしたが、こちらのパターンは東南アジアと連なる高温多湿、照葉樹林帯の風土の楽園といってもいいのかもしれない。

 

 

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