大寒の朝の光とカラーストーン

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 年明けから冬晴れの日が続いています。大寒に入って、朝のひと時、テーブルの上に白い紙を敷き、小さなカラーストーンの原石をザーッと転がして見ています。

 低い角度から差し込んだ陽の光が透明や半透明の石にあたると透き通って赤やオレンジ、緑、青、グリーンの光の影が伸びている。

 

 しばらく見ていると、気持ちが自然と弾んできて、目から元気のエネルギーを充電してるみたい。そんな訳で、これは自分にとっては魂振りの呪術みたいなもんだなと思ってる。

 ちょっと付け足すと、「たましい」のことを魂魄と言いますが、それは、「たましい」は「魂」と「魄」の二つで成り立っているということです。神道の魂振りは、「魄」の方の活性化ということですね。

 「魂」は大脳に宿っている心のこと、「魄」は内臓に宿っている心という分け方をしてもいい。内臓の心と言われても戸惑うかもしれませんが、胆力とか、胸が痛む、腹が座る、肝を冷やすといった言葉で表される心のことです。

 セロトニンという神経伝達物質があって、それが人の幸福感や鬱(うつ)に関係しているといわれましたが、セロトニンが主に内臓で分泌されているのは、内臓の心のメッセージということかと思うのですが。

 そういえば、シンシンというパプアニューギニアのお祭りがありましたが、ああいう極彩色の色彩感覚って、なにか人間の本源的なところと直につながっているのではないでしょうか。本源的なということを、いま書いてきた文脈の言葉でいえば、魄になります。

 ところで、今日の新聞を読んでましたら、アメリカの経営学の大家、ドラッカーが生前、収集していた日本の水墨画や禅画、文人画が千葉市美術館に寄託されることになったという記事がありました。

 ドラッカーは、日本の侘び、寂び風の渋い画風を好んでいたという。なるほど、と思う。経済学ならば、数字データや統計を分析が中心でしょうが、経営学になると、プラスして人間性への洞察が不可欠になってきて、それは結局のところ「魂」、究極的には霊の問題になるのではないでしょうか。

 察するに、ドラッカーにとって、水墨画などの鑑賞は、思考を鎮める、深めるための内観をしていたというふうに見ています。

 

 聖書の中にはいろんな貴石や香が出てきます。ヨハネの黙示録には12の石が挙げられている。現代の鉱物名との同定は、はっきりしないものもあって深入りしませんが一見してメノウの類が多い(メノウはいろんな呼び名があります)。メノウは石英、つまり地殻の中で最も一般的な原子のケイ素の酸化物なので、どこからでも産する鉱物ということから当然かと思いますが。

 横道に入りそうで・・・要は、当時の人々にとって、美しい石は聖性と結びつく貴いものという観念があったので列挙したのだと思うわけです。端折って言えば、聖性自体は、言葉で口にしても、文字で書いても人々にイメージが伝わりずらいのを承知していたので、鉱物や香料を、つまり視覚、嗅覚で感じられる小道具を挙げたのではないでしょうか。

 王冠に宝石が嵌ってたのもそう。現代の人間は、値段が価値の基準ですが、あの頃は、聖性が価値の基準でした。

 キリストが生まれたときのプレゼントが乳香(フランキンセンス)と没薬(ミルラ)と金だったのは暗示的です。

 

 上の写真は、ルビー、サファイア、スピネル、ジルコン、ガーネット、トルマリン、トパーズ、ユークレース、アイオライト、クンツアイト、タンザナイト、フルオロアパタイト、ペリドット、アキシナイト、アウイナイト、エメラルド・・・はみ出て写ってないものもあるかも。みんな小さな原石で商品的価値は低いものばかり。

 でも原石は一つ一つに個性があっていいです。結局、エンハンスメント(加工)、研磨、カットされ完成したジュエリーになると見た目、人工石と大差なくなってしまう。

 クラックがあったり、欠けていたり、不純物が入っていても、それはそれでいいと思っています。骨董の方の世界だったら、陶磁器でも仏像でも古色を、つまり経年変化=劣化してるのを本物の証として尊んでるのですから・・・ああ、あんまり説得力のない比喩でしたね。

 

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