博多人形と「紫色の火花」

f:id:alteredim:20200329203551j:plain

 近所のリサイクルショップを通りがかったときのこと。道路脇に棚が置いてあり、カゴの中にお茶碗や湯呑、皿などが山盛りになっている。不用品の食器類でどれも100円の貼り紙・・・前回の古本と同じですね。

 その中に素焼きの白い人形が逆さまに放り込まれていた。このままでは、磁器のお茶碗とぶつかって壊れてしまう。置き方を直そうと人形を手にした。持ち上げると顔が現れ、針のように細く長い目の奥に恐ろしく小さな瞳が見えた・・・凛とした涼しい目をしている。

 古い博多人形で、大振りなので躊躇いがありましたが、目に惹かれ持って帰ることにした。古いといっても、博多人形自体、郷土民芸の土人形を基にいまの様式で造られるようになったのは明治末期といわれており、近現代のものです。

 思い返すと、これまで選んできた仏像やキリスト教のマリア像とか仮面、能面などは、目の第一印象で決めていた。要は、一目惚れ、ほとんどそれで決まっていた。

 

 その人形が上の写真。最初、明るいところで撮ってみたが、どうも実物の印象と違う。素焼きの人形の表情を引き出すにはどうすればいいのか。

 部屋を暗くして光の当て方をいろいろ変えて撮ってみた。 谷崎潤一郎の『陰翳禮讃』(いんえいれいさん)で書いてるようなことです。

 陰影があると実物の雰囲気、たたずまいに少し近ずいた。でも、実物のイメージ通りの写真にはならない。実物は、面長の大人のお姉さんといった感じなのですが、写真は丸顔の小娘っぽい。

 また、実物はもっと目尻がつり上がっていて、細く長い目をしている。目頭と目尻を結ぶ角度がこんなにつり上がった人間は存在しない。この人形は作者のイメージを具象化したミュータントと言えなくもない。

 写真では、そういったポイントが伝わってこない。というか、突き詰めると主観の世界のことなので、客観的に再現しようとしても無理な試みかもしれない。とりあえずこれで良しとしてアップしました。

 

 これまで博多人形のことはよく知らなかった。お土産品のイメージが強く、あまり関心がなかった。

 人形の裏に長二郎作と書かれている。ネットで検索すると、井上長二郎(1911~1964)という人でした。

 調べてみると、作者は、戦前、名人として名を轟かせた人形師の下で修行した後、独り立ちしたが間もなく太平洋戦争になり出征、復員後は闘病生活を送りながら人形を作ったことが分かった。53歳で亡くなり、活動期間はそれほど長くない。人形師としては、あるいは職人としては不全感を懐きながら生涯を終えたのではないか。

 

 博多人形の代表格は美人物といわれてますが、時代の移り変わりに連れ、顔相が変化しているのに気づいた。

 例えば、この人形は、おそらく1960年前後に作られたと思われますが、ネットで検索すると出てくる現在の博多人形と比較すると、西欧人風の高い鼻で、シャープな顔立ちをしている。また、現在の博多人形は、この人形に比べると可愛さがより強調されているように見える。

 元来、博多人形は、特定の美人像が受け継がれてきたのではなく、個々の人形師がその人なりの美人像を創り上げてきたようです。その美人像は人形師が無から創り上げたとは考えずらく、何かビジュアル的なイメージの源泉があったはず。

 思い当たるのは、明治以降の近代日本画の世界で生まれた美人画です。画壇のような狭い世界にとどまらず、市井の人々の目にふれる雑誌、新聞に載っていた美人の挿絵や広告のポスターなども美人画から派生したものだった。

 博多人形の美人物の由来は、明治から昭和の美人画、挿絵を素焼き人形に写したものではないかと推測しました。二次元の美人画を三次元に拡張したものという言い方もできる。上の写真を上村松園や志村立美の美人画と見比べると一目瞭然です。

 この人形は、そういった作風が見て取れる晩期のもので、1960年代の高度成長以降、博多人形の顔相、容姿は様変わりしていく。

 

 芥川龍之介が最晩年に書き遺した「或阿呆の一生」の中に火花の話しがあります。雨の中、街角で高架の電線がショートしているのを目撃するのですが、そのとき電線から放たれた紫色の火花を見て、命に代えてもその火花を手に入れたかったという想いを綴っている。

 人は人生の終末を意識したとき、この世の何に執着するだろうか。思いつくのは、まず生きていることそのものだろうし、家族だったり、事業や仕事だったり、財産だったり、あるいは、なんにも執着しないという人もいるかもしれない。

 芥川龍之介は、一瞬といってもいいような紫色の火花に執着した。現象的には、電線のちょっとした事故ぐらいの出来事で、他の人には気にとめるほどのことでもなかったかもしれない。

 しかし、その火花は、この上なく美しかったのではないか。 自分の命と交換してもいいぐらいに。言葉だと美ということになりますが、それは一般的に語られているような美ではなく、美しさと死と畏れと聖性の入り混じった異様な感覚だったと思う。

 そんなに多くないだろうが、同じような資質を持った人もいて、この人形師はそんな一人だったのではないかと思う。紫色の火花は、人形師にとっては博多人形だった。

 生命力が衰弱していくに連れ、審美眼が高まっていくという話しをよく耳にする。かって結核が不治の病と言われていた時代、罹患した古陶の収集家の逸話にそんな話がありました。

 「この世の中には、愛と美さえあればそれだけで充分なのです」と書いていた人がいた。演劇や歌手として有名な人の本からの引用です。なんとも大胆な言葉で、じゃあ衣食住はどうなるの、生活の心配しなくても大丈夫なの、と言いたくなる。

 でも、解釈次第とも思える面もあり、人生も終わり近くなったときには、末期(まつご)の目から見たとき、この世は愛と美に尽きるという言葉が実感として分かるのかも。

 実は、人間にとって、この瞬間の今と、いつかこの世を去る時に意識しているであろう時の今は、まったく同じ今だと思っていますので、引用した言葉は究極的にはその通りなのかもしれない。

 

 先に細長い目と書きましたが、幅0.8ミリぐらいの目の上と下にアイラインが2本引かれ、その極細の幅の中に白目の輪郭が描かれ、さらに白目の中に8倍のルーペで分かるような瞳の黒点が入っている。1ミリの100分の1のレベル、つまり10ミクロンの単位で瞳の位置と大きさを描いている。写真に撮ろうとしたのですが、上手く撮れない。

 これを描き込むのには、尋常じゃない集中力を要します。型取りした粘土の素焼きに筆で描き込むのですが、そんなにたくさんは作れないじゃないか。

 この集中力は、自分の生の証を人形に込めたのではないか。人形師、職人としては極めるところまでいけなかった分、ある意味、より大きな力が生まれたように感じます。

 

  ☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。 http://alteredim.com