宝蔵門と浅草メリーさん

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今年4月、夕暮れの宝蔵門。コロナ騒動で境内に人がいません。奥に観音堂(本堂)、左に五重塔。宝蔵門の屋根につき出して見えるのは「花やしき」の乗り物スペースショットの柱。

 

 前回、浅草寺の仁王門(現、宝蔵門)の話しを書いていて、ある人のことを思い出した・・・宝蔵門の軒下で出遭ったメリーさんです。

  もう10数年前になる。7月のはじめ、朝6時に本堂でやっている観音経の読経を聴き、それから境内を仲見世に向かって歩く。吾妻橋の交差点にあった助六、ビルの壁に「うまい、早い、安い」と大書していた立ち食いそば屋に行くため。いま店はなくなりましたが、壁の文字だけ残っている。

 そのころ早朝の観音経をよく聴いていた。 観音経は、観音菩薩を讃える経、「音」を観する経なんですね。オーソドックスに経文を読んで意味を理解する経、真言のような呪文を唱える経、いろんな経がある中で、観音教は聴くことでダイレクトに伝わってくる、そんな経だと思っている。・・・知ってる経は僅かですが、物語としていちばん面白いのは維摩経でした。

 観音経は、浅草のような伝統的に芸能=歌踊音曲を地場産業とする地にふさわしい、地元に密着した、また、しっかり現生利益をアピールしていて、なんかその辺り方便というか、ちょっといかがわしくもあるのですが、なんと言っても勢いがあるところがいい。

 真冬、暗い中、観音教を聴いていたら意識をもっていかれたことがあった。それがある意味、心地よく心に残り、足を運んでいた。読経が後半のクライマックスになってゆくに従い、読経の合唱(?)と太鼓、鉦の音がどんどん昂まってゆき、つられて意識がもっていかれる。これは絶妙に構成されているな、レイヴでDJが会場にいる人々の意識を高みにもっていくのとも似ているな、と思った。

 ・・・出だしから横道に逸れている。このまま書いてくと、全く別の話になりそう。話を戻し、境内を歩きはじめたところから。

 

 その日は、梅雨が開けたばかり、快晴の爽やかな夏の朝だった。 明け方まで雨が降っていてところどころに水溜りがあり、鏡のように夏の青空を映してる。

 早朝の境内は人もまばら。五重塔とおみくじの舎の間を歩き、宝蔵門まで来ると、門の軒下にブルーシートを敷いてぺったり座っている人がいる。上の写真だと、門の左側、ちょうど裏になる。

 目の前まで近づくと、黒のドレスで濃いメイクが雨と汗で落ちかけているけっこうな歳の女性でした。ブルーシートの上に櫛や化粧品、ポーチ、靴が散乱している。バングラデシュアフガニスタンイラクにいた難民の人たちを思い出す。

 しかし、難民にしてはケバい雰囲気、それがなんともアンバランスで鮮烈な印象でした。

 一言二言、立ち話しをした。ここで一晩、雨宿りをしていたそうで、街娼をしてるとか。いたって普通な感じのふっくらとしたおばちゃんで、言葉に品がある。それもまたアンバランスな感じ、これがメリーさんとの出逢いでした。

 

 何日か後、ひさご通りを歩いていたとき、メリーさんが立っていた。ああ、こんにちはと、それから顔を合わすと自然に挨拶するようになった。

 ここは、六区から言問通りまでの歩行者専用の商店街の通りで、その先は山谷や吉原に延びている。昔は街娼の人がよく立っていた。通りの入り口に街娼を締め出そうといったスローガンが書かれた古看板があった。しかし、時代も街も変わリ、その頃には、ほとんどいなくなっていた。 

 メリーさんはこの界隈の古参ではなく、そのころ遠くから流れてきた人だった。

 当時の浅草、特に盛り場は、長期にわたって衰退し続けた大底、その最後の時期でした(それから後、反転し国際的な観光地、それまでとは別の新しい浅草に変貌していく)。

 だから場末どころか、それがさらに寂れ果てた末、街娼も商売にならなくなり姿を消していた。夕暮れになると六区の通りはひと気がなくなり、ホームレスの人たちがダンボールで作った棺桶(?)みたいな「家」で寝ている。賑やかだった昔を知っている人は「浅草は死んだ街だ」と呟いていました。

 花やしき通りは、夜になると廃墟の暗闇というか、インドのオールド・デリーを彷彿させる既視感があった。蔦に覆われた観音温泉のビルはまるでホラー映画に出てくる古城のよう。

 ・・・こんなふうに書いてますが、自分が浅草を知ったのはそんな大底の陰の陰のころ。でもそれはそれで、そんな時代だからこそ出会えたことがあって面白かった。そこは人の行く裏に道あり花の山でした。

 

 ひさご通りのまん中にメリーさん一人、どうしたって目立つ。商店街の人たちは、高齢で体もよくないメリーさんを追い払うのは気の毒で黙認していたとか、そんな話が耳に入ってきた。そういえば、いろんな人たちが、口を揃えて浅草はよそ者に優しい街だと言ってます。

 メリーさんもそういったこと知ってたようで、ひさご通りだけに長居せず、ちょくちょく移動していた。それがまた神出鬼没で、まさかここにといった所にいたりして可笑しかった。

 通りに立っていると書いてますが、正確には、足がよくないのでいつも三脚のイスに座っていた。そして横に服や荷物を詰めたカートを置いている。要はホームレスなわけです。

 街娼でホームレスというと、野生人みたいになっちゃってる人がいる。しかし、メリーさんはいつも身なりには気を使っていたし、壊れた人という感じは全くなく、荒んでもいなかった。

 ここまでメリーさんと書いてきましたが、自分の中でそう呼んでいるだけの名前です。映画や芝居にもなって有名な娼婦の横浜メリーさんは純白のドレスを着ていたそうで、こちらはいつも黒いドレスを着てたので浅草メリーさんということになっている。

 こういう状況で、あれこれ聞いたり、詮索するのは野暮な話で、畢竟、どっちでもいいこと。そもそも自分が誰かなんて分かってる人、いるんだろうか。だからメリーさんが誰かなんて他者が聞くのは愚問。だいたい話すことといったら、あっちにこんな人がいたとか、この前、あそこでこんなことがあった(抽象的な書き方ですいません)、といった街の情報がほとんど。

 何も知らなくても、本音で話ができた。常識とか世間の建前に囚われず、表裏のない話ができた。本来無一物って自由のことでしょ。うまく言葉にならないですが、出逢えてよかったなと思っている。

 宝蔵門の下というシンボリックな場所で出逢ったことに、なんかの縁を感じていました。あそこは古来、悪魔やもののけが入ってくるのを防ぐ守護神の門だったんだな、後からそんな由来を思い出した。人間って終わった後から気づいたこと、知ったことなど諸々の断片を組み合わせて自分の内で納得できる物語を紡いでいくんじゃないか。

 

 真冬、コートを着て、襟巻き、手袋をして座っていた。ひさご通りはアーケードになっていて雨、雪はしのげるが吹きっ晒し。よく暖かいコヒーを持っていった。

 夏、隅田川の花火大会の日の夕暮れ、人通りが増えてくる。境内からも花火の見える一角があり、びっしり人で埋まる。メリーさんも後ろを振り向けば、建物の隙間から花火が見えるのだけど、花火大会があることも、花火を見たこともないと言っていた。メリーさんにとって、そういうこともどっちでもいいことだった。

 何度も倒れ、救急車で病院に運び込まれたがすぐに戻ってきた。姿が見えないと気になり、そういうときは、街の誰かがあそこの病院にいるとか教えてくれた。施設に入ればといった話もあったが、結局、ここがいいということだった。

 何年か経った真冬、メリーさんは亡くなった。路上で三脚イスに座ったまま最期を迎えたという。

 

 今朝、黒松の林の地面に小さな穴がたくさんあって、近くに蝉の抜け殻が落ちていた。樹の幹に付いているのもあれば、雑草の葉の裏に付いているのも、地面に転がっているのもいる。なんとなく抜け殻を見ていて気づいたのですが、15~20匹に一つはうまく脱皮できずにそのまま死んでいました。生まれるってことは大変なことなんだなと思う。

 人間が胎児として母体にいるときと、蝉が幼虫として大地(土の中)にいるときは対応していて、また人間が産まれるときは、幼虫が地上に出てきて脱皮し蝉になるときに対応してるように思える。・・・もし核戦争とか巨大隕石の衝突が起きて地上の生物が滅んでも、蝉の幼虫は地下のシェルターにいるので、その7年後ぐらいに姿を現わすのでしょうか。

 人間にとってほんとうの大事、正念場は、分娩時と臨終時の二回だけなのではないか。人生全体の中では、最初と最後のごく短い時間に起きること。別の言い方をすると、意識の始まりと終わり。途中の人生、いろいろあるでしょうが、それらは中事、小事といったところ。昔の人は、邯鄲の夢と言っていた。

 分娩時(とその前)の意識については、スタニスラフ・グロフの「基本的分娩前後のマトリックス」が包括的に説明していました。臨終時(からその後)の意識については、チベット仏教ニンマ派チベット死者の書がバルドゥとして詳細に説いていました。言ってることに向きあってきましたが、鵜呑みにしているわけではないです。

 これらは仮説であっても、正念場の前後の幅を広げて考える一助になるのではないかと思っている。科学、医学、心理学、宗教などこれまで人間が蓄積してきた膨大な知識の中で、この正念場の意識について語られていること、分かっていることは、ごく僅かしかないからです。常々、肝心なところが抜け落ちてる!って感じてました。

 思うに、正念場は、純粋に意識だけの問題になるってことですよね。

 

 メリーさんは即身仏の行と同じことをしていたのでは、ふと、そんな気がした。正念場の意識の話しです。奇異なこと言ってるでしょうか? もちろん、本人はそんなこと考えてもいなかったでしょうが、動機や過程は違っていても結果に於いて近いとすれば、そういう人のことを縁覚と呼ぶのではないか。

 即身仏の行は、そんなに多くではないですが、江戸時代、主に東北の山形の方で行われていた。明治以降、 近代化していく中で核にあったものが見失われ、奇習などと呼ばれるようになってしまった。でも、別の言い方をすると、正念場に際し、意識を保ち続けて臨終する行、究極的な瞑想ともいえる。

 そういえばブッダと同時代、双子の兄弟のような関係にあったマハーヴィーラ(大勇)のジャイナ教には宗教的に自死を肯定する教えがあった。断食による死を賞賛している。即身仏の行は、奇しくもあれと近いんじゃないか。南ベトナムの僧侶ティック・クアン・ドックという人もいた。

 ジャイナ教をマイルドにしたのが仏教で、そのことは、ブッダの唱えた初期仏教に近い南伝仏教の方が、北伝仏教よりもジャイナ教により近いことからも明らかではないだろうか。

 仏教とジャイナ教はインドの精神文明の同じ幹から出ている二つの枝で、長い時間を経てアジア各地でさらに小枝に分かれていっても、ときどき先祖返りする個体が出てくるってことでしょうか。教義や形式的なことを取っ払うと、共通した意識にあるのかも。

 

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