ボデイランゲージだけの会話

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 写真は棗(ナツメ)の実。このところ目に見えて大きくなってきた。実のサイズは長さ2センチを越えるぐらい。そのままでも食べれる。リンゴのような食感、でも甘みはないし水気もない平板な味。不味くはないですが、美味しくもなく、微妙なところ。

 美味しいといえば、榎(エノキ )  の実でいま木から落ちていて食べごろ。ほんのり甘く、アンコのような味ーー本当の話し。しかし、この実は小さくて10粒、20粒では食べた気がしないし(直径約6ミリ)、たくさん集めるのも手間がかかるしと、こちらも同じく微妙なところです。

 

 近くの商店街でビルの解体工事をしている。昭和の頃は蕎麦屋だった一角に平成のはじめビルが建ち、もんじゃ焼きの店が入り、それから店が変わり、いまビルを壊している。現場で作業しているのは4人、容貌と口髭から中東系の人たちのよう。

 毎朝、犬のJ(名前)と現場の前を通る。何日か目、どこの国から来ているのか聞いた。

 トルコからで、さらに聞くとディヤルバクル出身とのこと。じゃあ、クルド人か。イラクやイランのクルドの人たちにはずいぶんお世話になった。ディヤルバクルはトルコの南東部、シリア、イラクの国境と近い地域にある都市で住民の多くはクルド人です。

 街(旧市街)の周りを囲んでいるローマ時代に造られた城壁、ナスやトマト、ピーマン、豆を使った凝った野菜料理、強烈な日差しと土漠を思い出す。あのあたりから南は、夜になっても部屋に日中の熱気がこもっていて、建物の屋上にマットを敷いて寝ていた。湿気がないので案外、心地いい。

 

 ということで、毎朝、一言二言、言葉を交わすようになった。その中の一人、くたびれた感じのおじさんがいる。なんとなく人懐こそうな、そう、共感性の高い人のように感じた。

 おじさんは日本語も英語も通じない。こちらはトルコ語は挨拶ぐらいで喋れない。

 おじさんの知ってる日本語は、いくつかの地名、いま住んでいる「〇〇(北関東の街)」、乗り換え駅の「赤羽」、「新宿」ぐらい。「ありがとう」「さようなら」は知っているはずなのですが、喋れないのか、喋らないのかよく分からない。

 仲間にグレープフルーツを持っていったとき、おじさんは腕を曲げて胸のあたりに当てて、首をうな垂れた。「ありがとう」の意思表示なのはすぐに分かった。

 

 こちらから何か意思を伝える手はないか? 手振りであれこれやってるうちに、自然とジェスチャーでコミュニケーションをとるような形になっていった。

 可笑しいのは、おじさんの方も暗黙の了解で、自分の意思をジェスチャーで表現しはじめた。阿吽の呼吸というか、いつの間にか互いにジェスチャーに移行していくのが、なんか変だなーと思うのですが、もしかしたら共感性みたいなものが関係しているのかも。

 手話やホームサインは、互いに手指の動作の意味を知っているもの同士の間で成立している。しかし、ここでは、そういう事前学習はないので、もっと原初的というか、色物の芸の中に形態模写ってのがありますが(浅草の東洋館でやっている)、あれに近い。

 

 例えば、こんな様子です。現場の道端に座っていたおじさん、こちらに気づくや、顔を横に傾けて、握りこぶしを頬に当てた。・・・歯痛なんだなとすぐに分かった。

 自分を指差してから、両手でハンドルを握る動作をする。次に、角に見える一向通行の道路標識を指差しながら頭を振って目をつむる。・・・なるほど、トルコでは運転手をしていたが、日本では交通ルールが分からず車の運転ができないってことだな。

 連日、酷暑が続いていたが、この日は曇りで暑さも一息。おじさんは、空を指差し、シャツを指で摘んで困った顔をする。次に、ペットボトルを飲むしぐさ。それから、通りの向こうのコンビニを指差した。・・・この日は、まだ過ごしやすいのは互いに了解済みで、そのうえで、昨日までは汗だくになって何度もコンビニに飲み物を買いに行ってたってことだな。

 ふと、思ったのですが、このおじさんは、全く言葉の通じない異国で働いていて、ボディランゲージで自分の意思を伝える術(すべ)を身につけていたのかも。そうじゃなければ、こんなに臨機応変ジェスチャーができないだろうし、それに顔の表情を組み合わせるなんて即興でできたとは思えない。

 おじさんに比べると、自分の方は、ジェスチャーの表現力が全くないことがすぐに分かった。あらかじめ伝えたい内容がジェスチャーで表せるだろうかと頭の中で反芻してからやりはじめるので間延びしているし、本来、伝えたいと思っていることの中から表現が難しいことはあらかじめ捨象しているので、舌ったらずで不全感が募る。

 ジェスチャーで疑問形は難しい、過去形・未来形も難しい、 抽象的な内容も難しい、 と削っていくと、畢竟、Be Here Nowだけの自己完結した世界になってしまい、それはそれで拈華微笑みたいな以心伝心でいいのですが、巷の雑談、お喋りにはそぐわない。

 

 ・・・とはいえ、おじさんのジェスチャーを見ていると、前後の状況からこれは過去のことだな、あるいは、これからすること(未来)だなという見当がつく。また、「わたし」とか「あなた」、「道路標識」「コンビニ」などは指差しでなんとかなっている。

 また、相手の表情から、好ましいことなのか、困っているのかの見当がつくので、それで疑問形で聞くような内容のかなりは分かるということもある。

 この場合、読み取れるかどうかは、こちらの解釈力(?)に関わってくるのですが。こちらから発信する表現力に乏しいということもあり聞き手にまわることが多い。

 この何日か、ボディランゲージで話しているのですが、なんか妙な感じで、というのは最初から最後まで互いにほとんど無言なんですね。

 

 追記・・・上の文をアップした翌々日、新聞の書評で『言語の起源』(ダニエル・L・エヴェレット著、松浦俊輔訳)という本が紹介されていた。

 著者は、南米アマゾンの先住民ピダハンの言語を調査してきた言語人類学者。この本は、現在も狩猟採取生活をしているピダハンの言語から太古の人類の言語を類推することで、言語の起源について新しい仮説を提起している。その仮説は、ソシュールとかチョムスキーとか、これまで言語学が築き上げてきた文法の構造や論理を研究して導き出された結論とは大きく異なっている。

 そのポイントを端折って書くと、言語の発生は、シンボル(象徴)、ジェスチャー(身振り)、語順、イントネーション、文法などの要素が相互に作用して生まれたと言っている。

 言語は、口から音声を発して話す(喋る)ことですが、5万年〜10万年前に人間が言語を生み出したころ、突然、話せるようになったのではなく、前段階として上にあげたような要素を組み合わせているうちにその相互作用によって言語が生まれたという。

 これはとても興味深い話しでした。というのは、クルド人のおじさんとの「会話」と似てたからです。自然発生的に相互作用が起きていたのは、実感としてよく分かっていた。阿吽の呼吸とか、自分でも変だなーと思ったのはそのことでした。

 別に意識的にやろうとしてはじめた訳ではないのですが、結果的に、言語の起源の実験をしていたんじゃないか。

 

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