新石器時代の矢尻と死海文書

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 上の写真は、北アフリカサハラ砂漠に落ちていた石器。砂が風に飛ばされ、地形が変わると埋まっていた石器が地表に出てくる。フランスの業者(トレジャーハンター)が拾い集めてきたものを譲ってもらった。

 サハラ砂漠は、アフリカ大陸の北部11カ国にまたがる広大な面積(アメリカの国土面積と同じぐらい)で、この石器はエジプトの中西部、リビア国境に近いグレート・サンド・シーから出土した。砂の上にふつうに落ちていると聞きました。

 他にも砂漠の薔薇(重晶石)、古代サメ(オドダス・オブリークス)の歯の化石、隕石の副産物リビアングラス、落雷の副産物フルグライトなど、砂漠から掘り出したものが市場に出回っている。

 サハラ砂漠の11カ国は、かってフランスの植民地だった国が多いことからフランスの業者が目に着く。

 

 2020年10月、フランスの関税当局が密輸された遺物をモロッコに返還したというニュースがあった。北アフリカのモロッコから車で運んでいる途中、フランス国内で摘発された。遺物の数は2万5500点、重量3トンというからすごい量。

  押収品の写真を見ると、石器の矢尻(上の写真とほぼ同じもの)、 古代サメの歯の化石がザクザク(たくさん)写っている。一目でサハラ砂漠に埋まっていたものだと分かる。

 このサメの歯の化石は、日本でもよく売られていて、ニュースは氷山の一角というか、たまたま摘発された例外的なケースで、ごく普通に流通している。

 

 写真は新石器時代の石器で、4000~6000年前のものと推定されている。年代を確定できる地層や遺跡から出たのではなく砂漠に落ちていたものなので、形状や作りの特徴から考古学の通説を当てはめた数字。

 石器に関心のある人ならだいたい見当がつくことですが、4000~6000年前というのは妥当な数字だと思う。大まかにメソポタミア、エジプトで都市が生まれ、家畜や農業が始まるころ。北アフリカが砂漠化していく時期にあたる。

 5000年前ぐらいまでのサハラ砂漠は、いまとは環境が異なり、草原で森もある緑豊かな土地だったといわれている。いま砂漠に落ちている石器は、そこで暮らしていた人々の遺物だと思われる。

 素材は、通称チヤートと呼ばれる鉱物、石英が玉髄(カルセドニー)化した石。別名、火打石と呼ばれたりもしている。

 チャートは、硬いだけでなく、潜晶質と言ってきめが細かく粘りがあり、細かな加工をするのに適している。石英は、地球を構成する最も基本的な物質(二酸化ケイ素 、SiO₂) で出来ている。チャートの産出地は、どこにでもあるとまでは言えないにしても、自然の中で暮らしてていた古代人ならば、見つけ出せたはず。石器に加工するチヤート原石を採掘していた鉱山の遺跡も各地で見つかっている。

 

 「石器」といっても、単純に石を割ったら出来ましたといった素朴な作りではない。けっこう精緻に作られている。長さが3~4センチと小さく、また薄く作られているうえ、磨製石器といって表面を滑らかに磨いている。また、端を細かく砕いて刃状に加工している。

 矢尻の形状を見ていると、注意深く丁寧に作業しているのが分かる。先の尖りも、肢の部分も、薄い石なので粗雑に扱えば簡単に折れてしまう。ずいぶん細かな仕事をしてたんだなと思う。

  これと比較すると、今から約1万数千年以前の旧石器時代の石器までは、個人個人で作っていたような単純な作りだった。それでも後期旧石器時代の石器になると、造形が進歩したのが分かる。細かな話になるのでとりあえずこれぐらいで。

 ということでは、これらはチャートの原石を採掘した後、石を同じようなサイズに揃え、いくつかの工程を経て仕上げていく工房のような場所で、それも大量に作られていたのではないか。文字やお金の生まれる以前の世界にも「製品」といえるようなものがあったことになる。

 

 当然、石器作りの職人のような人たちがいたはず。 石器作りも、このように精緻な段階になると、人により手先の器用さ、上手下手があるわけで、 集団の中で職業といえるような役割分担、つまり分業があったと思われる。察するに、同じ時間でたくさん作れる工程の工夫、たくさん作れる人を揃えるといった生産性みたいな考え方も出てくる。職業の起源は、このあたりから始まったのでしょうか。

 石器、つまり石を素材にした加工品としては、最高の技術水準に達したものではないか。指でつまんで眺めていて、つくずく感じる。石を素材にしている限り、これ以上、凝ったもの、精緻なものを作るのは難しい。    

 でも、この地から出てきた石器が世界で一番高度だというのではない。他の地域からも同水準のものが出ているので、 例えばアジアの東端にいた縄文人の石器にもこれと瓜二つのものがある。金属を生み出す以前の世界の技術的限界がこれ、ということです。  

 

 2017年、アラビア半島ヨルダン川西岸にあるクムラン周辺で12番目の死海文書が見つかった。1947年に最初の死海文書が見つかり、その後、1956年まで計11の文書が見つかっている。欧米では、20世紀最大の考古学的発見といわれるニュースになった。今回、新たな文書が見つかったのは60年ぶりのこと。 

 死海文書とは、大まかに紀元前2世紀から紀元1世紀に作られたユダヤ教関係の写本のこと。イスラエル死海近くの洞窟の中にあったので死海文書と呼ばれている。 11カ所から900点以上の写本が見つかっている。通説ではユダヤ教エッセネ派という、いまふうに言うとユダヤ教の教えを厳格に守る原理主義者といった人々によって書かれたといわれている。

 乾燥地帯の崖にある洞窟の奥に古い土器の壺があるのを羊飼の少年が見つけ、壺の中に羊皮紙やパピルスの巻物(写本)が入っていた。二千年の間に劣化して断片になっているものもある。古代から届いたタイムカプセルでもある。

 

 ユダヤ教の写本が見つかったことが、欧米でどうしてそんなに注目されたかというと、写本が作られたのがイエスの活動していた時代と重なっていたことが大きい。キリスト教ユダヤ教の分派として生まれたわけだから、何か書かれていないか、そこに関心が集まった。

 新約聖書に記されているイエスの活動の足跡を辿ると、イスラエル北部のガリラヤ湖の周辺に収まっている。イエスは日本の一つの県よりも狭いエリア内で布教していたローカルな人(?)だった。・・・ところで、今年が2021年なのも、あるいは、自分が生まれたのはいつか、過去の歴史も、みんなこの人の生まれた年を起点にしてるって、なんか変だなーと思っている。

 クムランは、そのガリラヤ湖から南に直線距離で100キロちょっとで、もしかしたらイエスに関する新情報も書かれているかも、という期待があった。イエス自身がエッセネ派だったのではないかという説もあった(いまは、その説に否定的な意見が多数ですが)。

 いまの世界の枠組みを作っているヨーロッパ文明の根っこにはキリスト教的な価値観がある。自分たちの価値観や人生観を揺るがすようなことが書かれていたらと想像する心理、そう、地球外の知的存在との遭遇を彷彿とさせる。人間の歴史で、これまでになかった面白いこと、本気でワクワクするようなことといったら、こんなことぐらいなんじゃないか?

 いまのところ、11の文書の中にイエスに関する記述は見つかっていないようですが。

 死海文書が最初に見つかったとき、クムランはイギリスの委任統治下で、その後、ヨルダン領になり、現在は、パレスチナ政府のエルサレム県になるが、実勢としてはイスラエル支配下にある。そんな土地で盗掘も多い。欧米に持っていけば高く売れるわけですから。

 すでに流失している文書もあるし、巧妙に偽造された文書が市場に出回っていたりもしている。今回の文書は、イスラエルの発掘チームが発見した。

 

 ・・・途中から、別の話しになっていました。なんで、そんな話をしてたのかといいますと、今回、死海文書の見つかった洞窟からは、新石器時代の石の矢尻も見つかっていたからです。

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(左・12番目の死海文書の見つかった洞窟にあった石器。右・死海文書の巻物の一部。CNNのニュースより)

 写真の矢尻は、上のサハラ砂漠のものと同じ作りでした。形に違いがあっても、基本的な構造が同じ。それを見て、最初、ちょっと奇異な感じがした。石器の時代はとっくの昔に終わっているはずなのに、なんでそこにあるの?

 

 新石器時代は、青銅器や鉄器を作り出すことで終わるのですが、クムランのあるパレスチナは、肥沃な三日月地帯と呼ばれる古代文明の中心地域の一角にあり、4000~3500年前に新石器時代は終わっている。  

 でも、死海文書の書かれた約2000年前も石の矢尻は使われていたようです。金属を使うようになっても、石器はずっと使われていた・・・考えてみれば、新しい技術が使われ始めたのがいつかは分かるけど、古い技術が使われなくなったのはいつか、その区切りにはいろんな考え方がある。

 

 アマゾンの奥地やインド洋の北センチネル島の先住民は、外からの接触を拒み、今も弓で狩猟し、石器時代を生きているという。他の地域にもそういう人たち、いるのかもしれない。

 少数ながらも、世界にそんな人たちがいるのだから、石器時代が完全に終わったとは言い切れない・・・詭弁でしょうか? また、現在、国により馬車、帆船、水車を使っている場所もある。複葉機だって農業に使われている。

 先日、知り合いがこんな話をしていたのを思い出しました。1960年代のはじめ、高度成長期に入るころ、東京の深川ではまだ馬車が使われていたそうです。もちろん大通りは車と都電が走っていましたが、廃品などを運ぶ馬車も見かけた。都心に近いところで馬車ってイメージしずらい。

 同じころ世田谷の住宅地ではふつうに共同井戸が使われていた。手押しのポンプで水を組み上げる井戸、飲み水、炊事、洗濯など井戸水で暮らしていた。水道の家もあったけど、井戸の家もあった、そんな感じ。少し前まで馬車や井戸が併用されていたのですが、そういう記憶、まるでなかったように消え去っている。

 現代の都会生活をしていると、そういう現実感とは全く断絶してるので、想像力も及ばない。クムランの洞窟に石器があったのを奇異に感じたのも、頭の中だけで年数の数字を比べて、辻褄が合わないなんて考えてたからでした。

 

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快楽について考える

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 梅雨の長雨、窓際に置いて眺める観賞用カボチャ。坊ちゃんカボチャとかブッチーニとかいろんな品種がある。左の卵と見比べ、小さいなーと感じるがこれで成果、食べれます。カボチャのプリンはお勧め。

 

 人間の知っている快楽の種類って「パンとサーカス」の古代ローマの時代にだいたい出揃っていて、現代もたいして変わってない。産業革命から電気、自動車、飛行機、宇宙ロケット、コンピュータと文明は大変化したのに、快楽に関しては2000年前から足踏み状態・・・人類は無意識のうちに快楽を自己抑制してるのかも。

 「快楽」という言葉にはどうも背徳的なイメージがつきまとっている。そのイメージは自己抑制の仮象なのではないか。

 一方、人間社会が快楽を自己抑制してきたのにもそれなりの理由があるように思える。 キリスト教イスラム教、仏教、儒教、どの教えも快楽を遠ざけている。 なぜなら、それを解いてしまうと人間の内にあるドロドロした、自分でも訳の分からないものが出てきてしまい当人も社会も収拾がつかなくなるパンドラの箱だから。 

 ということでは、いまのところ人間にはこれぐらい(現状)が身の丈に合っているのかもと、なんかはっきりしない曖昧なスタンスになる。

 快楽の大きさ、深さ、高さというか、なんと言えばいいのか、その極み、頂点みたいなことについて見聞きしたこと、書いてみた。実話ではあるのですが、常軌を逸しちゃってることなので奇妙な思考実験というか、想像の世界のお話しと思ってください。極みとか頂点って求めていくと、けっきょく廃人になっていく。やっぱり、そういうのってよくないですよ。

 

メンヘルとギャンブルと全能感

 夕方、Aさんから電話がかかってきた。この日、パチンコで大勝したという戦果報告でしたが、やたらテンションが高い。「やった、やった」、「最高、最高」と繰り返し、途中から堰を切ったようにハ、ハハ、ハハハハと笑い出した。そのまま哄笑が止まらない。

 前からこんな電話、たまにあったので、ああ、よかったですねと軽く相槌を打つのですが、歓喜状態のAさんの耳には伝わらないようで電話からは哄笑の声しか聞こえてこない。

 街中で歩きながらかけているようで、近くを歩いている女性たちに、「最高!」とか「よろしく!」とか一方的に声をかけているのが聞こえてくる。身なりは普通で暴力的な雰囲気はない人なので特にトラブルにはなっていない。

 でも、ここまでくると、かなり異様な感じ。夕暮れの都会の雑踏の中、ひとり高らかに哄笑しているAさんの毒気にあてられてしまった。

 

 Aさんは競馬、パチンコ、それからゲームを中心に生きている人。平日も地方競馬、必ずどこかでやってるんですね。こちらは、どれも全く縁がないので、いつも話しを聞いているだけですが、Aさんによれば、ギャンブルは賭けではなくゲーム理論に基づいた科学だそうで、自分の分析・予想能力に絶対的な自信を持っていた。聞いていて、自信過剰なぐらい、まあ自分を天才だと思っている人なので当然なんですが。

 Aさんは誇大妄想の人だと思っている。自分は人々に推挙されて日本の指導者になるしかないという・・・最初、聞いたときは冗談だと思ってましたが、その後も一貫して同じで、本気で言ってるんだと。国民がAさんに対して「大政奉還」をすることで超法規的措置により指導者になるらしい。

 でも難しいですね、ついこちらの本音を口にしてしまい否定すると深く傷つけてしまう。本人にとっては、正直に「本当」のことを言ってるのですから否定されると辛いわけです。だからAさんは、通っている病院でも「本当」のことは言わない。もし「本当」のことを言ったら誇大妄想と診断されるのが分かっているので、病院では、うつに当てはまる症状を話すようにして、うつの薬を処方してもらっている。

  地動説を唱えたガリレオが当時の世の中では認めらず屈折した思いでいたのと同じ心境・・・本人はそんな現実の中で生きている。

 

 ちょっと、付け足しですが、超法規的措置により指導者になるといっても、国民から国家権力を差し上げますので指導者になってくださいとお願いされ、しょうがないから指導者になってあげるという受け身的、平和的(?)な考えです。

 Aさんは、政治家も裁判官も学者も、誰であろうと歯牙にもかけない。こちらは、なんとも驕慢なとへきへきしつつも、同じ誇大妄想でも、例えばヒトラーや麻原、あるいは近年、凶悪事件を引き起こした人物たちのような攻撃性は全くないので聞き流している。

 そもそも誇大妄想って言葉、良くないですね。最初からその人を否定的に見ているのですから。普段の生活で他人に迷惑をかけているのではないし、今の人間世界では理解できないインスピレーションぐらいでもいいのかもしれない。

 もしかしたら、本当に天才的な、周りの人間には理解できない才能の持ち主なのかもしれない、その可能性もあるかもしれないと思っている。ジョン・レノンも周りからは音楽、詩の才能を理解されなかったそうですから。

 どちらにしろ、自分には分からない。そして、分からないこともあるということは、分かっているつもりです。

 

 知り合いの中には、双極性障害の人、ADHD(注意欠如・多動性障害)の人もいる。つきあってきて感じていることですが、誇大妄想、双極性障害ADHDは、部分的に似ている。全体像としては、それぞれ違っているけど、ある局面では同じような言動をしてるなと感じる。・・・抽象的な話になってくのでこれぐらいにします。

 最初は、彼らに振り回されずいぶん疲れましたが、だいたいのパターンが分かってくると、こちらの対応もそれなりに要領がつかめてきて、なんとかふつうに付き合えるようになった。 

 う~ん、距離のとりかたが難しいですね。相手を理解しようと努力すればするほど、どうしても平行線になってしまうところに接してしまう。そのあたりは、どうしたらいいか、まだはっきりしていない。できるだけのことをして、後はなりゆき任せ、正直、そんなところです。

 平成になってから、いや1990年代に入ってぐらいからか、日本社会のあらゆる場で人間関係の許容範囲が狭まってきて、そういう人たちの言動は、心の障害に分類されるようになってきた。 考えてみれば、 一昔前までは、どこにでも普通にいる変わり者ぐらいだったのではないか。

 そういえば、鬱(うつ)と診断される人が急増したのも、プロザックのようなSSRI(選択的セロトニン再取込み阻害薬、要はニュータイプ抗うつ薬)が流行したのもその時期でした。

 

 歓喜状態のAさんの毒気にあてられてしまったと書きましたが、だからといって怒ってるのではないです。ドアを開けたら、ツァラトゥストラが高らかに哄笑している場に出くわし、圧倒されちゃったという感じ。

 それで気づいたのですが、誇大妄想とギャンブルの相性は絶妙で、この組み合わせにより常人には手の届かない快楽を得ているのではないかと思いました。

 毎日、Aさん頭の中はギャンブルのことだけのようですが、注ぎ込む賭け金を調整しており、大穴狙いでもないので、経済的に破綻とかはしていない。それなりに合理的に考えている。

 ギャンブルっていうと、よく聞くのは、人が破滅に向かっていくアブノーマルな話しばかり。そんな小説や映画が多い。でも、そういうのって150年も前にドストエフスキーが書いてた小説の焼き直しでしょ。しょせんは二番煎じ、面白くない。でも、元々の地がアブノーマルな人は、そんな月並みな物語を超えたスーパーノーマルなんですね。

 話しを聞いていて、Aさんがギャンブルに夢中になっている核心は、お金よりは、勝利感を味わい、それに酔うところにあるように感じた。毎回、勝利の美酒に酔ってるわけです(ノンアルコールで)。儲けは二次的なので、ギャンブル依存症のように破綻することもないと、よく出来ている。

 つまり、勝利感が誇大妄想をさらに盛り上げる、ギャンブルは自分を全肯定してくれるこの世で唯一のキーになっている。そんな訳で頭の中はギャンブルのことだけ。それにしても誇大妄想がさらに誇大化された世界って、いったいどんな境地なのか。それって大洋感覚? ニーチェの言っている幼子のような超人になっているんでしょうか。

 

 Aさんは、自分が日本で最高の存在だという実感を懐いている。どこの国の独裁者でも、大富豪でも有限の生の中で、比較の世界での優位というレベルだと思うのですが、Aさんはそういうレベルを超えた全能感を得ているのではないか。それは自分たちにはうかがい知れない快楽なのかも。

 

失神するほどの美味

 Bさんと出会ったのはオランダ滞在中のときでした。1990年代、オランダでは大麻の個人使用が合法化されていて、アムステルダムの街には大麻を楽しみにやってきたアメリカ人の観光客が多かった。飛行機をチャーターして訪れるグループもいた。

 ところで、かってオランダはヨーロッパのみならず世界の経済、金融、製造業、文化の中心だった。17世紀のころで、日本では徳川時代のはじまり、鎖国の間もオランダとは交易が続き、蘭学が生まれた。

 歴史上、アラブ、ペルシャ、インド、中国もそれなりの存在感はあったけど、要は地域の一番店みたいな位置に留まっている。一度、頂点に立つと違うと思うわけです。何がって、かって自分たちの価値観で新しい人類世界、つまり近代という仕組みを創ったのですから。別の言い方をすると、現在の世界中の国々の内に過去のオランダ人の意思、想いが継承され生き続けているってことになる。

 いま、分かりやすいからか、GDPの経済規模を国家を比べる指標にしているけど、そういうのはフローの数字にすぎないし、領土の面積とか人口も長い目で見ると一時的な数字だと思う。

 アムスの街や人々の精神性に触れると、世界の中心だったという歴史的な蓄積は大きいなと感じる。

 

 大麻の作用のひとつに食べ物がなんでも美味しく感じられるようになることがある。味覚の感度というか、味の豊かさが信じられないぐらいアップする。

 食べ物がなんでも美味しくなる。考えてみれば奇妙な作用です。白米のご飯、食パンなんかでも、そのままの味がとんでもなく美味しく感じられる。特に、肉料理やスウイーツのような甘いものはすごい。Bさんはそれにハマった人だった。

 Bさんは、アムスの街の商店やスーパーでいろんな食品を買い込んできてはホテルの部屋で食べていた。この場合、レストランに行くよりも自由に飲み食いできる場所の方が適している。

 ソーセージ、ハム、クロケット(クリームコロッケ)、ピザ、ハンバーグ、フライドポテト、サンドイッチ、チーズ、クッキー、ワッフル、チョコレートとなんでもあり、いろんな形のパン、缶詰、フルーツもあった。

 オランダ名物といえばニシンの塩漬けをパンに挟んだのがありますが、どうも魚や野菜はインパクトが薄く、この場合はそれほどはといった感じ。

  アンネの日記に出てくる隠れ家みたいな造りの屋根裏部屋で大きなソファーにゴロゴロしながら次々、食べていく。揚げたメンチボールを口にするや、旨い~~と呟きながら絨毯の敷かれた床に崩れ落ち、あまりの美味しさにのたうち廻っている。

 コロッケ料理の中に詰まっているクリームの食感に、う~~~と恍惚とした表情、体がとろけていくようなエクスタシー状態になっている。えーっ? 何、この痴態、尋常じゃない。

 のたうち廻っているように見えたのは、味覚に合わせて自然に体が動いていたのでした。音に合わせて体を動かす舞踊かダンスのよう、床に転がってオーケストラの指揮者のような動作をやっている。見た目、異様な光景ですが、別に精神が変になってるのではなく、純粋に味覚の世界を漂っているんですね。

 

 ここまで美味しさに感動している人間、見たことがない。ふつうに美味しいと言ってるのとは次元が違う。あまりの旨さに気を失うってこと、本当にあるんですね。もともと Bさんは先天的に味覚の感受性に秀でた人だと思うのですが、それを差し引いても凄いなと、見ていたこちらが感動しました。

 アイスクリーム、チョコレートが口の中でトロける味、甘さの感度が倍加する。超激辛トウガラシの辛さが痛覚に感じられるのに対し、甘さの方向に振れた超激甘を想像できるでしょうか。甘さの場合は、意識が朦朧としてくる。

 味覚の微細な変化をハーモニーやリズムのように感じとり音楽を楽しむように味わっている。味の幅や厚み、味覚の変化を立体的に感じている。味の波動がカーブしたり、渦を巻くように感じている。味の変化を色の変化のように感じている・・・まさに共感覚が起きている! これって凄いことです。

 口にしているのは街で売っている普通の食品です。客観的には同じもの、例えば何もつけていないただのパンでも主観の側の感覚(味覚)が変化すると、ここまで変わるんですね。

 

 味覚が極まると快感のエクスタシーに転化する・・・自分の知る範囲では誰もそういうこと語っていない。ちょっと大げさかもしれませんが、多くの人は、人間の舌にはこんな快感があることをまだ知らないのではないか。ということでは、すごい発見をしたような、あるいは、くだらない馬鹿話しをしてるような、どっちなんでしょうか?

 

ロシアンルーレットと神的な至福感

 Cさんの実体験を聞いた話です。この人、ロシアンルーレットをしたことがある。19世紀のロシアの小説、レールモントフの『現代の英雄』に出てくるあのロシアンルーレット。 

 回転式の拳銃に弾を一発装填して、弾倉を適当に回転させてから運まかせで自分を撃つゲーム?、儀式? 自殺願望のような動機ではないんですね。小説の中では、運命というものがあるのか、ないのかを試す神学的な実験として考案されたという話でした。

 う〜ん、これって、荒野でイエスを誘惑した悪魔のささやきと同じじゃないですか。悪魔はイエスエルサレム連れて行き、神殿の頂に立たせ飛び降りてみろと言った。神が守ってくれるから大丈夫なことを示してみよというわけです。

 悪魔に対してイエスは、神を試みてはならないと答えた。

 

 運がよければ無事、何も起こらない。見返りはなし、あるのはハイリスクだけ。ふつう誰もこんなことしない。でも、Cさんはしたんですね。なぜ、どうやって、どこで、いつしたのかとか、詳細は省きます。

 やった直後の心境だけ、聞いた話を書きます。その前と後では、全然、世界が変わっていたそうです。目にする周りの風景は同じなのですが、全く違う世界に感じられる。

 昨日と、いえ、数分前の自分と何も変わっていないのに、それまで人生で感じたことのない至福感に包まれていた。 その前後、時間にして1秒もたっていないのに、世界が全く変わっている、こんなことあり得ないという実感がすごく不思議だったと言っていました。

 それは、思ってもみなかった心理状態だったとか。事故に巻き込まれて九死に一生を得たというのとは、また違うパターン、類例がないので、どんな文脈で語ったらいいのか本人も分からないようでした。

 理知では計れないこと、体験した人だけのリアリティってこんな感じなんでしょうか。可能性としては誰でも分かるはずのことだけど、その条件は、体験してみるという踏み絵。簡単だけどすごく難しい。

 ところで、いま地球の外にいく、月にいく旅行が実現しようとしている。これまでとは違って民間旅行、つまり個人的にいくってことは大きい。任務、公務、仕事でいくのと、私的にいくのでは大違い。はじめてそういう枠組みから自由になっていくことができるようになるんですね。

 自分自身もその一部である地球を外から観察対象として見るということは、要するに、汝自らを知れという門をくぐることになるんですよね?

 1983年、もう40年近く前に出版された『宇宙からの帰還』(立花隆)、宇宙飛行士たちに起きた精神的な変化をインタビューした本を思い出す。立花氏は、そこに人類の新しい意識を予感し、それを知りたかったのではないかと思う。

 この場合、インタビュアーの質問の仕方、つつ込み方により、引き出せる答えが変わってくるのですが、立花氏は興味深い話を聞き出すことに成功している。どういうことかと言うと、宇宙飛行士に技術的な話しを尋ねたり、滞在中の衣食住の生活などを聞くのは、まあ、一般的な関心だと思うのですが、立花氏は、個人的な、人間として何も感じたか、思ったか、意識の変化、そういう話を引き出している。

・・・そういえば、Cさんの体験と、つながっているような話をしている宇宙飛行士もいました。

 この本の後、『臨死体験』、対談集『生、死、神秘体験』など同じ問題意識で書かれていることからも立花氏にとって生涯のメインテーマ(のひとつ)だったのではないかと思う。

 ・・・でも、ちょっと言いたいことがある。立花氏は、知識、情報をたくさん集め、それを理解し整理することで何かが分かると信じていたのだと思う。要は、知識が好きな人ってこと。それは、それでいいのですが、でも、人間の意識の世界は、そういう手法では掴めない、分かり得ないのではないか。

 横道に逸れました。Cさんの話に戻ります。

 

 やった直後、恐怖心に襲われるとか、どっと疲弊したとか、そういうネガティブなものは皆無で、雲ひとつない真っ青な青空のような完璧に美しい澄んだ至福感だけの純化された世界。月並みな言い方しかできないけど、人間は生きているだけで幸せなんだと、心の底から100パーセント分かったという。

 聞いていて、これは、人間の全肯定ってことだと思いました。そんなことって本当にあるの?人間の知性は、全肯定ってことに疑いを持っのが当然、でも、その疑い自体もまた疑わしいんじゃないのかとも思う。

  一度、そんな心境になっても時間が経つと、その感情も薄れていくのでしょうか、トラウマみたいなものが残ったのでしょうか、聞いてみたら、細部の記憶は薄れてたりするけど、ありありとした実感はそのまま、歳月を経ても変わらないという。

 

 Aさん、Bさん、Cさんと、どの話しも一般的な意味での「快楽」に含めていいのか、たぶん失格でしょうね、書いてる自分で分かっている。でも・・・と、ぎりぎりのところで、何か引っかかっている。

 「この世は楽しんだ者が勝ち」と言ってた人がいた。人生の優先順位として幸福、健康、成功、金などよりも快楽の方が上だと言っていた。思うに、いまの日本人だと平穏で不自由ない生活がいちばんといったところではないか。だからこんな極論に賛同する人、少ないと思いますが、話した人のことを知っている自分には、末期の目からこの世を見ている人なので、その人なりに正直な、素直な言葉だと思った。欲界の忉利天、夜摩天の囁きのようにも聞こえ、耳に残っている。

 そうそう、この世は愛と美だけで十分と言ってた人もいた。これも負けず劣らずの極論、でも日常、ふつうに生きてると、頭の中がステレオタイプ化してしまうので、それを揺さぶり、硬直化、劣化を防ぐために、極論にもそれなりの意味があるのかも。

 

 最後にちょっと趣きを変えて・・・古代ローマの時代から現代(19世紀末から20世紀初頭)に蘇った女性が主人公の『新しい逸楽』(ピエール・ルイス)という短編小説がありました。澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』の最終章で紹介されていた本です。

 彼女は、せっかく未来に蘇ったのだから、この世界で何か新しい快楽を体験したいと探すのですが、見つからない。自分の生きていた古代の時代から新しい快楽がなにも生まれていないことに憤慨する。彼女は快楽主義者ですがエピクロス派ではないんですね。

 でも、黄泉の国に戻る前、最後にそれを見つけた。2000年の間に唯一、発見された新しい快楽はタバコだったことを知る、そんな話しでした。大航海の時代、新大陸からもたらされたので確かにそうです。世界の四大嗜好品のうち、コーヒーはアラビア、茶は中国からもたらされたので、同じストーリーの物語ができそう。

 他愛ない話ですが、フランスのエスプリの中庸精神、いいなと思う。快楽もこれぐらいが人間の身の丈にあっているんでしょうか。

 

 

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芳村正乗の書、西郷と明治天皇、 宮古島のパルダマ

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 神の字の「申」がクルクルと回っているのはカミの顕現と見た。カミの憑いた字。トランス状態になって書いていたのではないか。神と言っても、聖書やコーランの神ではない。神社に祀られている神々が登場する以前の弥生時代アニミズムのカミ。

 古事記以前の時代、人々はカミをこんな存在だと考えていた。「カミは姿形がなく、物や場所に固着・定住せず漂動し、招きに応じてそこに来臨し、また人間にとりつき、カミガカリして宣託するという根本的性格を持っていた。」(『日本人の神』 大野晋

 カミは姿の見えるものではなかった。では、どうして人はカミの存在を認めたのかというと、視覚以外の感覚の異変、あるいは気分、気配、目眩のような意識の変化が起きたのではないか。それをカミとした。人にとりつく、神懸かりするというのも、変性意識状態の人を客観的に語るとそんな描写になるのではないか。

 目には見えないが、何かがいる・あるという確たるリアリティがなければ、カミは生まれなかったはずだ。これは、どこかの本に書いてあったことではなく自分の思いつきみたいなものですが、そうだとすれば、「申」の渦巻きは、書き手の意識状態を具現化したものと見ることができる。

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 幕末の尊王派の武士で、明治時代の宗教家、芳村正乗(よしむらまさのり)という人の書です。偶然、別々のところで正乗の書を何点か入手したうちのひとつ。

 なんかミロの絵にこんな感じのがあったんじゃないかと探してみました。正乗の書もミロの絵も、共にアニミズムが蠢動してるように感じている。

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 書画骨董の中でも、書は敷居が高そうで、手を出すには抵抗があった。それでも、日本の家屋から床の間が消えていき、世代が代わっていくに連れ、掛け軸や書が安く出まわっている。

 安いから買うという情けない動機なのですが、つい・・・。江戸時代の文人や幕末の志士の書で目についたものを買っていた。偏屈、隠者、天邪鬼、変人っぽい人の書が多い。

 

 正乗は神道の中臣氏の末裔・・・記紀神話にも登場する天児屋命の「子孫」で、祭祀の場で祝詞を奉じていた氏族。一方、美作国岡山県の内陸部、古代の吉備王国の一部)生まれの本人のメンタリティーとしては祖母が巫女だったことが大きく、子供のころに祖母の神懸かりの宣託を目にし、それに突き動かされた生涯だった。

 つまり、吉備、安芸、周防の山陽地方に残っていた巫女のシャーマニズムを体現していた。遡ると、弥生時代に南の海から移住してきた人々の精神世界ということになる。

 吉備国の遺跡から発掘された石に刻まれていた文様(施帯文)は、台湾の先住民パイワン族の文様と共通していることが分かっている。また、パイワン族の文化はインドネシアボルネオ島とつながりがあるとも言われている。

 台湾の南端からフリピンまでは僅か300キロしか離れていない。太平洋からインド洋までの広大な、主に海のルートで繋がっているオーストロネシア語族の一部の人々が北上して建国したのが吉備国ってことでしょうか。

 

 ところで、ホモサピエンスは、アフリカから出た初期にネアンデルタール人との混血があったが(以前は、なかったという定説だったが、10数年前、遺伝子の研究で分かった)、近年、さらに南アジアに進出した人類はデニソワ人(ネアンデルタール人の近縁)との混血もあったということが明らかになっている。

 ということでは、進化の過程で別系統の道を歩んできた違う人類の体質や心性も受け継いでいることになる。・・・吉備国の時代から万年単位の過去のことで、縄文人の中で黒潮に乗って日本列島にやってきたグループも同じなのですが。

 人と人は違いがあってもいい、それが当然、人間はホモサピエンス以外の違う人類とのミックスなのだから。容貌や能力とか体質、社会的適性の違いに優劣をつける考え方がまかり通っているけど、つき詰めていくと、そういう考え方自体、人倫に反する無理があるのではないか。違いを認めた上でみんな仲良く、和の世の中になればいいなと切に思う。

 

 明治時代になってから、正乗は山岳修行をし神習教という神道系の宗教の創設者になる。女性の場合は、生身の地でシャーマニックな霊能が備わっている人がいる。霊能が発現するきっかけは日常の延長上の生活苦や不幸、あるいは戦争であったりする。

 男の場合は、地の素養としではだいたいが無能で、神仏どっちでもいいですが、山に篭ってハードな行を積んだ末、なんとか及第というパターンが多い。 1000年以上昔の雑密時代の青年だった頃の空海から江戸時代、昭和のころまでそうだった。

 山の中で何しているかといえば、一応、行法、形式とかあるけど、そういうのは枝葉末節なことで、核心は、自然の中で長期間、原始的なサバイバル生活をするということに尽きる。五穀断ちって要は縄文食ってことしょ。やり続ける根性があれば誰でも霊能は身につく。

 ・・・奈良時代のころ、雑密の時代の山岳修行について考えたことがあるのですが、結局、剱岳の頂に登るような、常人では登るのが無理だった未踏峰に登頂すること、そういうことだったのではないか。紀州や東北には、そういう山がたくさんあったはず。行法とか形式にこだわりだしたのは江戸時代になってからのこと。

 

 元警察官だった人の本の中に、こんな話がありました。警察で殺人事件の捜査に行き詰まったとき、内々に祈祷師、山伏といった霊能者の助言に頼っていたという話で、「岡山や広島あたりの殺人事件のかなりは、こういった霊能者によって解決されている事件が多いのではないか。なぜかはしらないが、岡山は日本の多くの宗教の発生地だ。そのことに関係があるのかもしれない」(『ニッポン非合法地帯』 北芝健

 著者は、なぜかはしらないがと書いていますが、宗教の発生地ということに目をつけているあたり、いい勘をしている。弥生時代から続くシャーマニズムの精神的風土がいまも残っているということなのだから。・・・自分が実感的に知っている土地は東京(武蔵)と関東地方ぐらいで、広島、岡山、山口になると何も知らないので、本の知識をもとにイメージしてるだけなのですが。

 幕末三大新宗教のうち二つ、金光教 黒住教はこの地(吉備)で生まれているのも同根の由来があるように思える。・・・ついでに、神習教って、本殿が近所にあります。時代も代も代わり、ふつうの神社っぽく幼稚園が隣接して建っている。

 

 正乗は、西郷隆盛伊藤博文とも接点があった。幕末の尊王派に組みした人なので当然かもしれないが、本人は、いまでいうとスピリチュアル系なので、軍人、政治家の頭の西郷や伊藤とは別タイプの人間。でも、野心家ではないし人柄が良かったからか、西郷や伊藤に目をかけられていたようです。

 正乗のメンタリティーは、明治国家の公式の国家神道とはそりが合わないけど、人脈的にはつながっていて、一方、天理教大本教のような民衆宗教としての迸り、広がりには欠けていてと、なんかチグハグな感じ。まあ、現実ってスッキリ類型化できないってことの方が多いので、権勢欲や山師的なところの少ない人(正乗はそんな人物だったと思う)の歩みとしてはそれが自然の流れだったのかも。

 

 「明治天皇西郷隆盛と三人で、お忍びで鶯谷で酒を飲み、日本の将来について語った」と正乗の日記に書かれているとか。以前、なんかの資料に載っていた一節で、真偽不明な話です。西郷がらみで、明治天童に皇居で幾度も会っているのは史実のようです。

 明治天皇が16、7歳のころかと思われますが、事実だとすれば、新政府を作ったばかりのころってずいぶんラフな感じだったんですね。

 当時の鶯谷といえば、根岸の里でしょ、文人墨客の愛した風光明美な地。あのあたりときどき歩いているが、いまは全く消滅した光景・・・以前、小野照崎神社の富士塚の話しを書きましたが、本殿の裏にある立ち入り禁止のエリアに僅かに残っている情景を敷衍すると、バリ島のアグン山の裾野に広がる田園地帯、小川とこんもりとした森に朝夕、霞がたなびき鶏鳴が聞こえてくるようなところだったのではないか・・・横道に逸れました。

 でも、豪胆な策謀家の西郷(当時40代前半)、20代後半のスピ系の正乗、カゴの鳥のような少年の三人、この組み合わせで日本の将来を語るといっても、はて?といった感じ。

 

 西郷とそのころの明治天皇については、こんな話もある。「明治の新政府になったばかりのころ、少年天皇がわがままを言うと、西郷隆盛はそんなことでは昔の御身分におかえしいたしますぞと脅かした。すると天皇はおとなしくなった。」(『日本史こぼれ話』奈良本辰也ほか)。

 著者は日本史の学者で、創作した話ではなく、往時、そんな噂があったのは事実だと思われる。意味深な話しです。ふつうに考えると、言うことを聞かないと、鎌倉幕府から600年以上、武家の風下に置かれていた境遇に戻してやると西郷に脅されたというふうに読める。    

 その一方、明治天皇は、長州の倒幕派によって作られた替え玉だったという陰謀論もあって、そうなると昔の身分に戻してやると脅されたというようにも読める。黒沢映画の「影武者」、いえ小説の『影武者徳川家康』(隆慶一郎)の方が近いか。

 明治天皇からすれば、幼いころの自分の養育係を殺した人物が側近(これは史実)で、また別の側近によって父親(孝明天皇)は毒殺された(これは噂)と、すごい境遇だった。天皇家をこういう境遇から自由にしてくれたのは、マッカーサーだったというのは皮肉なことだ。

 真偽不明や噂の話しばかり(でも事実かも)なのは、まあ、しょうがないでしょうか。国とか政党、企業、メデイア、学校どこでも、ほんとうにまずい事は、起きてしまったことであっても、なかったことにする、暗黙のしきたりがあるので、ちゃんとした資料なんて無いものねだりなのかも。

 かと言って、明治天皇替え玉説みたいな陰謀論を信じてるわけでもないんです。長い間、日本の最大のタブーだったテーマなので、こんな表現でしか後世に伝えられなかったと考えるとスリリング、そう、真に受けてるんじゃなくて戯画的に取り上げてるだけです。

 そんなドンデン返し感が面白い。小説、コミックはフィクションだし、野球やサッカー、囲碁、将棋にもドンデン返しはあるけどみんなゲームの世界の中の出来事だし・・・それに対して歴史的な出来事だとよりリアルっぽいんで。

 

 ところで、伊藤博文を暗殺した安重根が、裁判の過程で暗殺をした理由を15カ条あげていますが、その14番目は奇怪な話しでした。

 「 十四、日本先帝を殺害(今ヲ去ル四十二年前現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ其事ハ皆韓国民ガ知ツテ居リマス)」( 先帝というのは孝明天皇のこと)。

 伊藤が孝明天皇を暗殺したという・・・言ってることが事実かは分からない。15項目のうちで14番目なので、付け足しといったところかと思う。仮に事実だとしたら国家的な極秘機密で、果たしてそんなこと知り得たのだろうか? 

 日本では岩倉具視がやったというのが噂の定説だったのが、朝鮮半島では都合よく伊藤博文にすり替えられてるような気がしないでもない。つまり、暗殺するという忿怒の情念というか決意が先にあって、理由は後から考えたってこと。

 安重根は、例えていうと明治の40年代になってもちょんまげを結っていた人がいたそうですが、まわりはどうであろうと本人は江戸時代に生きていた。そういうタイプの人だった。

 そんな人だから、どうも背後にこの人を操っていた存在があったのではないか、ロシアの謀略だったのではないかとか、それとは別にアメリカの謀略だったとか、はたまた日本内部の権力抗争によるものだとか、いろんな説がある。

  安重根っていう人の気性は、昭和初期、血盟団事件を起こした小沼正とよく似ている。時系列では小沼が安に似ているでした。もし、生まれた時代、生まれた国が入れ替わっていたら、それぞれ同じことをしていたのではないか。一人の人間の一生分の生のエネルギーを一つの行為に集中させた彼らの心情、心理、それに気概、胆力は分かる。でも、それは主観世界のことで、やっぱり愚かな行為だったと思う。

 14項目めの文言は、当時の朝鮮半島でそんな風説(都市伝説)が一般庶民の間に広まっていたということの証言として興味深い。どうも土俗的な猟奇の匂い、昭和前半の紙芝居や貸本漫画の世界のようなノリ。それが事実かどうかより風説、噂の方が大きな力を持つ社会だったのでしょうか。はて? そういえば伊藤も若いころ、安重根と同じことをしていたので、日本も同じようなもんなんでしょうか。伊藤は知られているだけで2件の暗殺の実行犯です。

 伊藤の最期は、よく因果応報と言われたりしている。ハルピン駅で撃たれ倒れていたとき、自分が若いころ、思いこみで殺めてしまった相手のことを当然、想いだしていたでしょうし。

 

 ここからは、宮古島のパルダマの話しです。

 3月下旬から山菜、野草食に夢中になっていたのも新芽、若葉の季節がすぎ、先週、採った女竹で、ひと息ついた。一年ぶりの女竹、笹の細いタケノコですが、蒸し焼きで食べる。

 最近は、相模湾の魚、野菜は弦巻のセブンイレブンに探しにいっている。このあたり(世田谷区)は昔、江戸の郊外、武蔵の地で、西に横浜まで武蔵だったことからすれば、横浜市場の相模湾の魚は地魚と言えなくもない・・・ちょっと無理っぽいか、まあ、考え方次第で親近感が生まれ、自分の中では盛り上がっているので。

 住宅街の真ん中にあるセブンイレブン、広めの駐車場があり、端っこにテントを立て野菜を並べている。他ではあまり見かけない西洋野菜や珍しい野菜が置いてあるので、気になってのぞいている。

 また横道に逸れますが、弦巻ってところは、特徴のない住宅街で、大きな道路や電車の駅、商店街はなし、マンションやアパートも少なく、ただ庭付き一戸建ての家が続いている。

 一ヶ所、畑が残っていて、そこの竹藪を数百羽のムクドリが寝ぐらにしている。毎晩、その竹藪の横を通るのですが、近づくとピ、ピ、ピ、ピと電子音のようなムクドリの囀りが途切れることなく聞こえる。あたりの空間は、一晩中、この音に包まれている。弦巻の特徴といえば、こんなところでしょうか。

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 上の写真はパルダマ、袋に宮古島産とラベルが貼ってある。15本ぐらいの枝がパックされ値段は安い。ふーん、どんな味か気になる。

 宮古島沖縄本島でもよく食べられている島野菜だとか。宮古島といえば、確かインドクジャクが2000羽もいるとか、それから区の故郷祭りに出店していた宮古島出身者のブースで島トウガラシを片手で掴めるだけ取って150円だったのを思い出す。小さめで丸っこいトウガラシですが、痺れるような強い辛味があり、よくパスタに使った。一年以上持ち、お買い得でした。

 パルダマはサラダ、スープ、パスタにいろいろな具材になる。癖のない味で、苦味、酸味はないが、独特の風味、一瞬、ピーマンっぽく、でもまた違う風味、栽培野菜にはない味に野趣を感じる。

 先の女竹、それにここで見つけたトレビス(イタリア野菜)の苦味、また今春、出合ったイタドリの酸味、どれも野趣ですね。

 結局、料理は食材に尽きるのではないか。それが西洋、中東、インド、中国の料理とは違う日本の味覚だと思っている。世界の趨勢は調理(人為)の味を極めていくように進んでいる。でも、日本には素材(自然)の味の方を尊ぶ人たちもいる。

 翌日、パルダマを買い込んで、沖縄出身の知りあいに持っていく。ええい、この際、できるだけ多くの人に、と沖縄に縁のある人たちの家に宅配していった。値段は安いので貧民の自分でも大判振る舞いできる。

 お金を出せば、手に入るといった商品とは違い、そもそもふだんは売ってない生鮮食品、希少価値というところがポイント、喜んでもらえました。

 最近、思っていることですが、自分が楽しいということがなくなってきて、人が楽しいと思ってくれることをするのが楽しみなってきた。飲む・打つ・買うよりも、こっちの方がずっと楽しいんじゃないか。

 そんなに大それたことは出来ないし、せいぜい顔の見える範囲でのことですが、アイデア次第で出来ることはいろいろあるのではないかと思っている。

 

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都会のタヌキ/そこらへんの草のイタドリ/多頭飼育崩壊とシャーマニズム

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 上の写真は近所の線路を横断中のタヌキ。二匹いましたが、一匹はすでに渡りきって見えない。今週のはじめ世田谷線松陰神社前駅若林駅の間にある踏切から撮りました。

 世田谷線三軒茶屋と下高井戸の間を結んでいる二両編成の鄙びた路面電車。全長5キロの間に10の駅がある。駅と駅の間隔が短いので、地元の人たちは数駅ぐらいは歩いている。座席が左右一列のクロスシート、初めて乗った人は遊園地のおサルの電車みたいと言ってました。

 線路沿いの林にタヌキが何匹も(8匹とか)いて、テレビで紹介されたりもしている。

 

 桜の開花したころ、快晴の朝だった。踏切を通りかかったとき、林から今年初めてウグイスの啼き声を聞く。春告鳥という別名があり、日差しの増してきた朝の陽光とともに季節の移り変わりを感じました。

 それにしても囀(さえず)り方の下手なウグイスだった。舌ったらずな啼き声が親心じゃないですが気になり、毎朝、踏切を通るようになっていた。その後、少し上達している。

 先週はそこでコジュケイの啼き声を聞いた。キジの仲間の野鳥で、独特の節回のかん高い囀り声、間違いない。これは、自分の中では大きな出来事でした。というのは、この辺りでコジュケイの声を聞くのは何十年ぶりのことだったからです。

 かっては近くの松陰神社の林の竹薮にいたのですが、そこが駐車場やマンションになってしまい、それっきり姿が消えていた。啼き声を聞いて懐かしかった。そう、人でも何十年ぶりかに再会して声を聞いたときの感慨、そんな感じ。

 コジュケイの囀りは、他の鳥との違いが際立っていて、個性的で南方系のワクワク感があり、なかなかいいと思っている。でも外来種のためか、日本の自然の風情ということではあまり言及されていない。

 コジュケイは大正時代に台湾から日本に移入された。そのころの台湾は日本の一部だったことからすれば、一概に外来種という括りに入れていいのだろうか。それに日本に来てから1世紀になるということもある。

 う〜ん、一方でこの辺りではインド、スリランカの鳥、ワカケホンセイインコが目立って増えていて、土着のオナガが圧されてしまってるのは面白くない。

 

 コジュケイやワカケホンセイインコに東京の亜熱帯化を感じている。・・・横道に逸れますが、知り合いに鬼才、レズビデオの巨匠といわれるフェチ系のAV監督さんがいる。歌舞伎町のど真ん中に住んでいて、健康のため毎日、高い柵に囲まれ檻の中みたいな大久保公園の舗装されツルツルの中庭を反時計回りにジョキングしていた。ふつうの人は時計回りに走っているのでひとり目立つ。

 監督さんから歌舞伎町熱帯化計画という私的な構想(陰謀?)を聞いたことがある。少し前のことで、詳細は忘れてしまったが、バタイユ安部公房が好きで、演劇的な手法で世の中(手始めに歌舞伎町)を変える、カルチャーを熱帯化させるというようなことだった。これって個人でやっちゃう社会革命と言えなくもない(政治革命ではなく社会革命というところがミソ)。あの計画、どうなったのか、すでに成就してるのか、聞いてみたい。

 

 ウグイスやコジュケイの、それにタヌキのいる林は線路脇にあり、しかも住宅街の裏手、道のない場所なので人が近ずけない。だから踏切から姿の見えない野鳥の声を耳にするだけ。でも啼き声で鳥の種類は分かるので「ああ、コジュケイがいるな」と存在を確かめる。そこに満足感が生まれ、なんか少し得したような、リッチになった気分。

 林は、環七から100メートルぐらいしか離れていない所ですが、丘の斜面に位置していることもあり、踏切の脇に立ち止まっていると里山の気配も感じる。この辺り、かっては起伏のある武蔵野の雑木林だった。

 現実は東京の住宅街の真ん中なので、里山など目には見えないのですが、早朝や深夜、イメージを膨らませてそんな気配を感じとっている。踏切を通る道が曲がりくねった隘路なのはかって農道だったから、その先が坂道の下りなのは、そこが丘の上だから、そんな感じでイメージしていく。

 1月、東上野の街角で戦前の日本が途切れることなく続いていると書いたのと同じで、2021年の現実の中では、すでになくなっている過去の世界を、僅かな痕跡を手掛かりを見つけ出しては、頭の中で針小棒大に拡大し浸ってる、戯れている、遊んでいるわけです。

 

 この朝もコジュケイの声目当てだったのですが、思いがけずタヌキに出逢った。この近辺では、他に豪徳寺と城山城址公園の間の雑木林、宮の坂駅世田谷八幡宮裏手にある農地・竹やぶ、駒沢給水塔の中庭にタヌキがいる。四ヶ所の共通点を考えてみると、どこも人が立ち入れない場所になっている。都会では、広い公園はあっても、その条件にあてはまる場所はとてもレア。

 タヌキに比べてハクビシンは生息密度が濃く、ちょっと大げさに言えばそこら中にいる。いま東京の家屋の10軒に一軒は空家になっているとか、ハクビシンはそんな空家を住処にして数を増やしている。ああ、こちらも亜熱帯の動物でした。

 ハクビシンはタヌキと違い、木登りが上手。垂直な壁や電線を伝わって移動する忍者みたいな奴ら(?)なので空家は恰好の住処だ。

 実は、何日か前の夜、寝ていたときガターンと大きな音がして目が覚めた。庭の物干し竿が落ちて、暗がりにさっと消えた動物の影。こんなこと初めてでした。正体は分からなかったけど、物干し竿を伝わっていたことからすれば、ほぼハクビシンに違いない。

 深夜、人間が夢の中にいるとき、家の周りをタヌキが徘徊し、屋根をハクビシンが歩いている、そんな日常になりつつあるのだとしたら、アルカイック・リバイバルの人獣同衾の世界を彷彿とさせ好ましいことです。いえ、全く個人的な想いですが。(下の絵はシャガール

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  身の回りに野生の動物、さらにUMA(未確認動物)とか妖怪とか、要は魑魅魍魎のいる世界が自分にとっては理想郷なので、デフォルメされた現実ではあるにしても、気持ち的には救われている。

 踏切の近くに住んでいる人の話では、昭和の頃はタヌキはいなかったそうで、平成になってから姿を見かけるようになった。また、ハクビシンの数が増えているのは、この10~20年のこと。いわば新しく生まれた現実なんですね。

 

 ・・・そういえば、何日か前、「多頭飼育崩壊」のニュースがありました。自宅で24種類58匹の動物を飼い、どうにも面倒みきれなくなってしまった女性の占い師の話しです。都内で起きた事件。事実関係は検索すると出てくるので詳細は省きます。

 これは可哀想なネコを守るため、イヌを守るためにと次々に数が増えていったというような、ときどきニュースになる多頭飼育崩壊の話とは少し趣が違うように思いました。

 24種類という種類の多さに驚く。自宅が動物園で、いろいろな動物たちと一緒に暮らしていたといった感じ。そう、眠りに入っているとき、意識は動物たちの中を漂っている。

 イヌ、ネコは合わせて8匹で、他に22種類50匹、内訳を上げていくと大変なので大まかに、比較的ウサギの数が多いのと鳥類とトカゲ・カメ類が目に付くが、特定の動物にこだわりがあるのではなく動物一般分け隔てなくいるようです。

 一応、動機としてコロナ禍で海外旅行に行けなくなったので動物を飼うようになったと報じられている。こういう話は、だいたい人間関係の孤独とか、よく分からないときは変人ということで片ずけられる。

 でも、時代と場所が現代の日本の東京だったので、こんな動物虐待、近所迷惑のニュースになってしまったが、コロナ禍という社会的状況(プレッシャー)が占い師だったというこの人の霊性を一気に高めてしまったのではないかと解釈してみた。

 これはシャーマニズムの動物霊との結合が今日的な形で起きていたのかも。動物霊というと、おどろおどろしい迷信といった感じで敬遠されてしまうかもしれませんが、本質的には、世界中の新石器時代の人々の心の世界のことで、その名残なのではないかと思っている。

 自然とは切り離された都会生活をしている個人で、シャーマンの資質(精神感応能力)を持った女性が動物霊に突き動かされていることに無自覚なままペットショップから次々と動物を買い込んでたのではないか、そんなふうに感じた。

 

 昔、江戸の街は「伊勢屋 稲荷に犬の糞」と言われたように、稲荷の社が多かった。道ばたに犬の糞が多かった、つまり犬がたくさんいてウロウロしてたことも挙げられている。

 もともとは商家の家の守りカミだったキツネが、主人の夢に現れ、もっとたくさんの人間に拝まれたいと告げ、それで街中にキツネを祀った社が造られていった結果、江戸の街は稲荷の社(後に神社)だらけになってしまった。当時、町内、辻々にお稲荷様を祀るのが流行になっていた。

 横道に逸れますが、よくいく上野の下谷神社も江戸時代は下谷稲荷と呼ばれていた。銀座線の稲荷町駅はその名残。明治の文明開化の時代、外国人に日本人はキツネやタヌキを拝んでいるでは体裁が悪いので政府の命により神社に改められた。

 キツネやタヌキのような動物霊は、神格としては低めで、人間界に近いので現生利益をかなえてくれるということがポイント。

 占い師という職業は、人々の現生利益の想念を受けとめる特殊な仕事だと思うので、資質的に精神感応力が高い人でないと務まらないのではないか。そういえば、江戸時代には、狐使いという人たちがいて、占いもしていた。

 この多頭飼育崩壊の底流には、そんなスピリチュアル(?)な背景があったのではないかと思いました。

 

 3月の末からイタドリを摘んでは食べてを繰り返して、経験的に分かってきたことがある。山菜、野草、雑草・・・要は「そこらへんの草でも食わせておけ」(マンガ「翔んで埼玉」)ってことですが、同じ植物でもどう呼ぶかでイメージがずいぶん違う。イタドリは山菜と呼ぶ人もいれば、そこらへんの雑草と思っている人もいる。

 イタドリを摘んできて、最初は茹ですぎて半ば溶けてしまい捨てるしかなく、翌日、また摘んできて湯通しするぐらいでやってみたら酸っぱさが抜けてなくてと何回か繰り返して要領がつかめてきた。こういうのは実践しないと分からないことなんですが、U-tubeの動画はとても参考になった。

 いくらでも採れるので、ただし新芽のこの時期だけですが、高知県出身の人に持っていったら喜ばれました。向こうではスーパーの店頭に並んでいたり、学校給食の食材にもなっているとか。

 今年は、他にも7~8種類の食べられる野草というか雑草を採った。カラスノエンドウは味噌汁の具にいい、豆苗の味です。茶の木の新芽は天ぷらで食べる。ギシギシはフランス料理のソレルのスープが、ちよっと手間がかかるけど、いい。ヨモギは沖縄料理のフーチーバージューシー、ヨモギご飯ですが、いいです。

 どの野草もペペロンチーノの具材にしている。野菜代わりに用い、けっこう重宝している。

 

 野草はみんな新芽の時分に、柔らかい部分だけを採ることがポイント、書くと月並みな話しですが、じゃあ目の前にある草のどれを、そしてどこを、どこまで摘めばいいのか、実践して初めて分かることです。

 ・・・こんなこと書くのも野暮な話ですが、毛沢東の『矛盾論・実践論』の実践論の方で言っていたのは、こういうことなんだなと思い当たった。実戦論ってのは、いまふうに言うと、バーチャルとリアルな世界の曖昧さを峻別して、政治工作でも仕事でもリアルにやること、そのための思考法ってことになる。

 言ってることは、イデオロギーやドグマではなく合理的でリアルに物事を考えるための弁証法唯物論の哲学。哲学といっても、19世紀の自然科学に基づいた理論なので、専門家からはタダモノロン(唯物論のこと)と揶揄され、スルーされていた。でも、日常生活のレベルでは役立つのも事実。

 その当時の中国は、文盲の人々も多かったのでそれを分かりやすく説いている。高尚な難しいことではなく、平明かつ徹底的に現実的なところが毛沢東らしい。 

 一方、穿った見方をすると、『矛盾論・実践論』は個人の思考回路を一つの型に嵌める人間改造の教本でもあり、これを人民公社の集団農場で老若男女に学習させていた。画一化した思考をする新しい人間を作ろうとしたわけです。人為を全肯定して憚らない漢心(からごころ)の社会主義版って感じがする。

 これに比べると、昨今のカルトや宗教、セミナーなどの洗脳とかマインドコントロールってのは全然、甘いと思う。ああいうのは人を変性意識状態にもっていってやるんだけど、こちらはシラフで人間の思考パターン自体を変えてしまうのだから解きようがない。これまでの人間とは違う新しい人間の社会になるとしたら、究極的には人々を管理したり監視する必要もなくなる。

 ここまでやったら、後、人間に残っている自由は眠っているとき、夢の中ぐらいなんじゃないか。

 この本は、毛沢東思想の基本文献の筆頭にあげられていた。その意味では、中国共産党は侮り難い超リアルな思考法をしている集合知性体(?)で、なんと言えばいいのか、言葉に詰まる。

 

 イタドリはそのまま口にするとかなり酸っぱい。シュウ酸、アクの味で、これを下処理で抜いてから食べている。

 とはいえ適度の酸っぱさは、山菜の魅力である野趣であって、日本人は苦味やエグ味、フキやヨモギの独特のクセ、風味など野趣の味わいを堪能してきた。これは、いわば縄文の味でもあると思っている。大仰な言い方をすると、新石器時代の味覚ってことですね。

 また、舌で感じる味ではなく喉から鼻で匂いとして感じる風味のような味。食感、喉越しで感じる感触の味。こういう感覚を洗練させたところに日本を感じる。

 こういう味わい方は、蕎麦好きの友人のかねてからの持論で、いい蕎麦や薯蕷(とろろ)食べるときは、噛まないで飲み込み、喉越しの味を堪能していた。聞いたときは半信半疑でしたが、真似してみると、言ってることが分かるようになった。

 書いていて、こんな一節を思い出した。「原始食とは、Q感覚、つまりニオイ感覚、触覚器官などの退化器官を主として、全感覚器をフルに連帯させて原始人が食べていたタベモノのことである。」(『蘇った原始食』寺ノ門栄、1975)

 昔の本ですっかり忘れてたのですが、野草、雑草を食べていると、なるほどなと納得することが書かれている。先に山菜を新石器時代の味覚と書いたのとも合致している。どういうことかというと、嗅覚、触覚のよな退化器官で味わう味覚ってことです。

  先人が書いていたことも、それがマイナーな話の場合、膨大な過去の情報の中に埋れ、消えてしまっている、そういうことたくさんあるんだろうなと思う。

 昭和に入ってからの日本料理は、魯山人インパクトが大きかったこともあり、器に凝り、盛りつけに凝る、つまり視覚の方に進化していったように思う。

 また、魯山人から半世紀ぐらい後になると、伊万里の皿を骨董商の人がもてはやしブームになった。こちらは、それまで雑器扱いされ、地方の蔵にたくさん眠っていた伊万里の皿を安く仕入れて、いい値で売りぬける商売で、生活骨董というコンセプトが出来あがる。

 でも、伊万里みたいなコテコテの絵付けでは、視覚にもっていかれてしまい、肝心の料理の方が霞んでしまうのではないか。それに気づいていた料理人もいたかもしれないが、店の経営者やお客さんの意向を忖度して黙ってたのではないか。

 伊万里のブームは去りましたが、当時、誰もそういうことを口にしなかったって、なんかいいかげんな話だなと思っている。自分の想っている日本と現実の日本は、どんどん乖離していってるってことなのですが。

 ところで、日本食の中で、ラーメンやカレーなんかは世界の異文化の人たちの口にも通じるけど、例えば、ざる蕎麦は難しいのではないかと思う。通じない感覚があるということです。山菜の野趣もそう。そこに日本を感じています。

 

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チベットの「犬葬」/犬の共感性とソラリスの海

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   (芝生に現れた小さな穴。周りに地中の土が微小な球になって積もっている)


 朝、犬のJを連れて歩いている。近くの公園にある芝生の敷地をよく通る。冬の季節、芝生は枯れていて、ところどころ土の地面が表れている。

 3月の初め、敷地内に小さな穴がたくさんあるのに気づいた。地面に斑点模様がついているみたいな奇妙な光景。 昨日まではなかった。 足元に数十個、7~8メートル先までだと百を越える数はある。

 近寄って見ると、虫が地中から出てきた跡で、穴の周りに掘り出された土が積もっている。盛り土の高さは僅か数ミリ、あまりに小さく人も犬も無関心。

 なるほど、これが啓蟄(けいちつ)ってことか。「啓」の字は、開く、開放、先導といった意味、「蟄」は虫が土の中にこもること。暦では、春、温かくなって虫が地面から出てくる時期を啓蟄と言っている。ちょうど、この日が啓蟄でした。

 啓蟄って言葉の意味は、辞書で知っていたけど、それを目で見たのは初めて。文字情報の知識としての「啓蟄」と、地面に現れた斑点模様に、えーっ、何これ?と驚いたときの心持ちは、全く別物。情報とリアルな現実の違い、些細なことですが、変わりばえのしない日常の中でちょっとした発見をした気分です。

 

 毎朝、犬と歩いていると、なんとなく他の犬の飼い主さんと挨拶するようになる。一言二言、話すようになり、飼い主さんの名前は知らなくても、犬の名前は覚えていく。

 犬の名前を覚えるってことは、別の言い方をすると、その犬の顔と体型の特徴を覚えることで、そうなると必然的に犬種も覚えることになる。

 犬の犬種について少し調べると、この分野は特殊な世界なことが分かる。愛玩犬は、動物でありながら工芸品やアクセサリーのように、人の手(主に欧米)で作られた犬なのですから。

 

 シーズー という犬について書きます。ある意味、すごい犬です。

 人気のある洋犬のひとつで、鼻の短い平べったい顔、 まん丸の目、 毛の長いぬいぐるみ人形みたいな小型犬。神社の狛犬や獅子舞の獅子にも似ている。 英語で、Chinese lion dog、中国語で「獅子狗(狗は犬のこと)」と書いているのは、まさにその通り。

 シーズーは、いわゆる洋犬ですが、もともとは中国の犬で、清朝後期にチベットのラサ・アブソと中国のペニキーズ(祖先はチベットチベタン・スパニエル)をかけあわせて生まれた犬種です。

 ・・・出だしから、一般的にはあまり馴染みのない犬種名を羅列し、どうも書いていて抵抗がある。多くの人には関心のない話でしょうから。

 端折って書くと、凋落する清王朝チベット、勢力拡張を進める西洋列強の雄イギリスの国家関係が背景にあって、シーズーという犬種が生まれた。その経緯は興味深いのですが、細かい話しは省きます。また、犬種の話しは、諸説あって複雑になるので大まかにということで。

 シーズーの先祖のラサ・アブソは、チベットの宮殿、寺院の中で門外不出の神聖な犬として飼われていた。中国に渡ったのは、清朝後期のこと。宗教国家チベットの元首であったダライ・ラマ清王朝に贈り物としてラサ・アプソを献上していた。チベットでは魔除け、お守り、そして宝物のような犬だった。

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         (若き日のダライ・ラマ14世とラサ・アブソ)

 シーズー とラサ・アブソは似た容姿で、また、ペキニーズも同じく似ている。どの犬も祖先はチベットに由来しており、共に短吻種(たんふんしゅ)といって、鼻が短く、平べったい顔をしている。

 短吻種の犬は、人間が品種改良して作り出した容貌で、清朝では皇帝をはじめとする高い身分の人々だけの占有物、ステータスシンボルだった。

 シーズーが作られた目的は、伝説上の宗教的なシンボルであった瑞獣そっくりの生きた瑞獣を手に入れるためでした。 神社の狛犬や沖縄のシーサーは、中国の瑞獣から派生した神像なので、シーズーと似ているわけです。

 

 ところで、玉器や青銅器によくある古の瑞獣のイメージは、純粋に人間の想像から生まれたのかというと、実は、現実のモデルがあったのではないかと思っている。

 それは、かっては西南アジア全域に生息していたインドライオン。イランの国旗にライオンが描かれているのはペルシャの時代からの国のシンボル、イランにも生息していた。いまインドライオンはほとんどの地で絶滅し、インドの一部だけに生息している。

 そこまで遡ると、犬をネコ科の容姿に似せて品種改良したってことになる。なんか妙な話しです。・・・それなら猫を品種改良した方が手っとり早いと思うのですが、猫は犬のように躾けるのが難しく、宗教儀礼の一役を担うのは難しい。犬は寺院でマニ車を回す勤行をしたり、皇帝の葬儀で棺の先導役を務めるとかしていた。猫では無理。

 骨董で、インダス文明の彩色陶器や中央アジアの青銅器を集めていて感じたことですが、古代の中華文明の焼き物や青銅器は、西域の文明が伝わったものではないかと思っている(四大文明説は眉唾ってこと)。中華文明は、結局、西域のオリエントの文明から派生したんじゃないの?

 個人でアトランダムに集めてるので、体型的に網羅して言ってるのではないですが、発掘品を見比べていると、そんな印象を懐くようになった。

 横道に逸れますが、朝鮮の新羅の丸瓦、文様のデザインに惹かれて、いくつか骨董屋さんから購入したとき、日本の平安時代の丸瓦はこれの写し(コピー)ですよ、と言っていた。確かに博物館に同じものがある。

 さらに、その朝鮮の丸瓦を調べていくと、唐(中国)の写しなんですね。じゃあ、その唐の文様の由来は、と追っていくと、結局、オリジナルはシルクロードの向こうの西域の文様、その写しでした。インドで生まれた仏教(北伝)の伝来と同じような流れなことに気づく。神社の狛犬もそうなんだなと思う。

 

 シーズーやぺニキーズのような品種改良された愛玩犬の他にも、樹木の姿を人工的に変えて鑑賞する盆栽、宦官(かんがん)や纏足(てんそく)、盲舞は人間の身体改造だし、 中国の文化の底流には、 反自然というかアブノーマルな変形(トランスフォーメーション)に魅了される情動があるように感じる。

 漢心(からごころ)ってこういうこと、本居宣長が嫌ったのはこれだと思う。

 西域のインドライオンが中国で瑞獣になり、そういえばインドクジャクなんかも鳳凰になった。瑞獣をイメージした犬が作られ、その犬がイギリスに渡り、さらにお人形っぽく微改造されて現在のシーズーが生まれた。そして、その子孫が、日本でも朝夕、住宅街や公園を散歩している。

 

 先にシーズーがすごい犬だと書いたのは「犬葬」のことです。犬の葬儀のことではありません。チベットの鳥葬に因んで、とりあえず犬葬と書いた自分の造語。 

 鳥葬は、亡くなった人の遺体をハゲタカやハゲワシなど肉食鳥に食べさせる葬法。チベットでは昔から行われてきた。 犬葬は、犬に遺体を食べさせる葬法です。

 ラサ・アブソは、宗教的に格式の高い魔除けの犬だったので、高僧の葬儀のときにその役目を果たしていた。

 晴れた日の朝、公園の芝生で見かけるシーズー、ペットサロンできれいに身づくろいされ、トントン歩いている。 ぬいぐるみ人形みたいで、絵に描いたよう愛らしく、のどかな小市民的光景。

 キミ(シーズーくん)のご先祖は、人を食べてたんでしょ。もちろん全て人間の都合でそうなっていたので、人間界ってなんでもありなんだなと、つまり、人間界は善と悪、真と偽とか、どちらかに純化した世界ではないという意味に於いて、A級でもD級でもなく、中間のB級か、C級か、そういったところなのではないかと思う。

 

 犬の飼い主さんたちと話していて、犬と猫の両方を飼っている人もけっこういるのに気づいた。家の中で、人、犬、猫一緒に暮らしている。

 昨日、両方を飼っている年配の女性が、猫の方が頭が良くて、犬の行動の先を読んで、とおせんぼしたり、いじわるしてるのと言っていた。別の人からも同じような話を聞いた。猫より犬の方がおバカだと言ってました。

 犬の知能は人間の2歳児ぐらいだといわれる。人間を基準にした「知能」の物差しでは、犬よりも例えば、チンパンジーやイルカ、カラスとか、あるいは猫の方が高いのかもしれない。一方、精神活動の能力を比較する物差しは、もっと幅広いはずで、別の基準から見ると、犬の方が高いこともあるのではないか。

 というのは、常々、犬は共感性の高い動物だと感じていたからです。他人の体験する感情を自分のもののように感じとることを心理学の用語で共感と言っている、そういう性向のこと。

 心理療法のセラピー犬は、犬の共感性によって、辛い人の心を癒している。人よりも共感性の能力が高いともいえる。つまり犬と心が通じると、人間の側が感じられるからです。

 コロナ禍による巣ごもり生活で、この一年、犬を飼う人が増えている。可愛いからというだけではなく、人間の孤独感を犬の共感性が癒している。ご主人を亡くした年配の一人暮らしの女性が犬を飼っているのをよく見かけるのも同じ気持ちからだと思う。

 

 人間の中で共感性の高い人のことをエンパス体質と言っている。 どんな人が当てはまるかというと、基本的に敏感な質(たち)で、他人の思っていること、他人の体の痛み、辛さが分かる。他の人の気分の影響を受けやすい。映画や演劇を観ているとき普通の人以上に感情移入するといった人たちのことです。

 たぶん、程度の差はありつつも身のまわりに、そういうタイプの人はいるのではないかと思う。

 共感性は、持って生まれた体質とされているが、能力という言い方もできる。共感能力者(empathy)と呼ばれる。 他人の思っていることが分かるというのが昂じると、テレパシーのように見えるはず。言語を生みだす前の古代人は、互いのコミュニケーショを共感性に頼っていたので、現代人よりこの能力が高かった。言葉を使うようになって人間の共感性は衰えていった。

 3万年ぐらい前までいたネアンデルタール人は、言語を使っていたかはっきりしていない。確か、顎の骨格から言葉を喋ってはいなかった説の方が有力だという話になっていた。いまの人間の系統では、言語が生まれたのは10万年以内と考えられている。

 能力と言っても、共感性は、競争社会の中ではあまり生かしようのない能力ではないでしょうか。競争とは逆の方向に向かう能力ですから。

 

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ソラリスの海。茫洋とした「地球外生命体」らしきもの。抽象画っぽい。映画の特撮ですが)

 共感性について書いていて、東欧の作家スタニスワフ・レムのSF『ソラリス』を思い出しました。原著が出たのは1961年で、二度、ソ連(ロシア)とアメリカで映画にもなっている。

 ソラリスは、二つの太陽を持った架空の惑星で、表面を粘性のある海に覆われている。そして、その「海」が高度の思考力を持った生物のような活動をしていた。人間と地球外生命体とのファーストコンタクトの物語です。

 「海」は、人間の知識や論理では理解できない存在として描かれている。人間の想定してきた知性の枠外にある精神活動らしい。

 体、ボディがゲル状の「海」というのは、想定できなくもない。粘菌とかクラゲなどを思い浮かべれば、想像可能。脳、脊髄、筋肉のない腸だけの生き物が海の中に浮いているのがクラゲ。また、クラゲには前後や左右はないんですね。『ソラリス』以前にも天文学者フレッド・ホイルのSFには星雲状の知的存在が描かれていた。

 問題は、「海」の思考力の方で、こちらはボディよりも難しい。レムは、読者に人間の思考では理解できない思考の存在を示したかったと思うので、この場合、いくら考えても分からなくて当然。

 もし、向こうが人間と同じような思考をしていて、人類よりもっと進んでいるとすれば、遅れているこちらがいくら考えても解らないだろうし、晩年のホーキングは、近代の西欧文明と出逢った先住民のケースを引き合いにして危惧していた。つまり、人間は向こうに支配されてしまうか、滅ぼされてしまう。

 でも、人間の頭、思考で解るのは、自分たちと同等か、それ以下の存在だけなので、いくらホーキングが頭が良くても、ドングリの背比べで秀でてるぐらい(?)とすれば、やはりどうなるかは解らない。

 とりあえず、「海」は、自我のない、共感性のとんでもなく高い、そういった思考力(精神)を持った存在と解釈しました。人間でいえば、内臓系の心ということになるのではないか。中枢神経系(脳)の心ではなく、自律神経系の心が発達した存在。

 原作者のレムが共感性のことを意識して書いていたのかはよく分からない。そのイメージの断片、インスピレーションみたいなものは、あったと思う。

 人間が「海」にコンタクトを試みると、鏡の反射のように、自分自身の内面が戻ってくる存在、それが「海」の共感性=精神活動。・・・ここで自分自身の内面が戻ってくると書いているのは、小説や映画では、本人と過去につながりのあった人の姿(実は自分の化身)として現れるという話になっている。

 人間には、相手(「海」)の意思、意図が分からないのは、探ろうとしている相手は究極的には自分自身だからです。そういえば、ニコラス・ハンフリーという動物行動学者がゴリラの生態観察をしているうちに、自分自身の心を観ていることに気づく『内なる目』という本がありました。

 あるいは、古代ギリシャアポロン神殿の入り口には、つまりそこから先の神界に足を踏み入れる人間に対し、警告文として「汝自身を知れ」と刻まれていた。それと同じですね。

 「海」を探査するということは、いわば合わせ鏡の中に入り込んでいくのと同じ。自分自身の化身との共依存関係に陥っていく・・・悪夢っぽい。

 実は、人間はすでに地球上でソラリスの海(のようなもの)と出逢っていて、ラルフ・メッツナーという心理学者は、それをエンパソゲン( empathogen/共感をもたらす薬物)と呼んでいた。後にエンタクトゲン( entactogen/内面とのつながりをもたらす薬物)と呼ぶようになる。

 

 ところで、植物や鉱物にも意識はある、というか、言い方を変えて、植物の意識、鉱物の意識がある。人間の意識とは異なるタイプの意識。ソラリスの海もそうでした。

 地球内部の核・マントルは、単一の意識体のように思える。人間の寿命が長くても百年前後なのに対し、向こうは万年単位の時間で活動しているので、時間感覚が違いすぎて意思疎通はできない。 こちらが何か意思表示して、返事を受け取るのは400世代後では、ほとんど意味がない。

 意識は無機物にも生じるというところがポイントで、そうなると無機物のAIにも生じるのは時間の問題ではないか。

 地球の表面で生きている人間は、自我があるので一人一人別人ということになっている。でも、全体としての人類意識が醸成しつつあるように見える。人種や民族が違っていても人間は平等になってく反面、精神的には均一化したフラットな同じような人間になっていく。頭の中は集合知に統合されていく。この趨勢は、人類が群体生命化していく流れのように思える。どうもアリとかハチを連想してしまう。ネットはそれを加速させている。

 動物も植物も事実上、人類の支配下(保護下)にあるので、地球は、この先、核・マントル界と人間界という二つの意識体で成り立ってくようになる。

 とはいえ、人間界の方は、チンパンジーの祖先と枝分かれしたのが僅か600万年ほど前、核・マントル界と比べると春の夜の夢みたいな、今の繁栄は「瞬間的」な椿事。比べるのも野暮ですが、3,5億年の間、栄えたアンモナイトほどは長続きはしないと思う。

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           (ロシアの犬。頑張ってるって感じ) 

 

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富士山と貧乏飯と飯場料理

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 真冬の朝、手前の丹沢山地の奥に真っ白の富士山、見とれるばかりで言葉が出てこない。とってもいい。富士山の左の稜線に頂上が接しているのが大山(1252メートル)。

 小田急線の代田駅から撮りました。駅の崖下には環七が通っている。駅前の正面、西の天地が大きく広がっていて、なにも富士山を遮るもののない絶好のビューポイントです。

 代田の駅は、下北沢から上ってきた台地の端っこにあり、この辺りがピーク(標高46m/駅前)、次の梅ヶ丘駅(標高37m)にかけてぐーっと下っていく。写真中央の建物が梅ヶ丘駅の近辺。その標高差、大したことないように思われるかもしれませんが、平野の真ん中なので

視覚的にはずいぶん下ってるように見える。

 

 改札口を出ると、視線の真正面に地平線から純白の台形が突き出ているのが否応なく目に入ってきて、思わず足を止める人たちがいる。見ているここは武蔵の国、手前の丹沢山地は相模の国で、富士山の山頂は駿河と甲斐の国境、こう書くとずいぶん遠くに思えてくる。

 左の端の黒っぽい樹木はケヤキ、冬は葉が落ちて樹形がはっきり分かる。街のビルやマンションよりも高い大樹になる武蔵野の代表的な木。ケヤキの幹、枝の黒いシルエットに冬の武蔵野の風情を感じている。

 富士山は、白色の台形、それに抜きんでた高さの独立峰、別格の山容スケール、なんか出来すぎで、造り物っぽくもあり、巨大なオブジェのように見える。考えてみれば、ふつうの山っぽくない奇妙な山です。

 

 そうでした! 『日本百名山』(深田久弥)の富士山の紹介文に、この山は世界に二つとない特徴があると指摘していました。それは稜線のライン(線)で、「頂上は3776米、大宮口は125米、その等高差を少しのよどみもない一本の線で引いた例は、地球上に他にあるまい。」と書いている。

 「地球上に他にあるまい」・・・そこまで書かれると急にすごい山に思えてくる。

 確かに、富士山の稜線は、独立峰で見た目、棒線というか長い直線なんですね。日本の他の山、あるいはヒマラヤやヨーロッパ・アルプスの山の稜線とは異なる。独立峰の山容ということでは、アグン山とかポポカテペトル山は似ているが、どちらの稜線も富士山のような直線ではない。

 本にはまた「(富士山の稜線の)そのスケールの大きさ、そののんびりとした屈託のない長さは、海の水平線を除けば、凡(およ)そ本邦において肉眼をもって見られ得べき限りの最大の線であろう」(小島鳥水)とある。

 なるほど、稜線の「線」に着目してるわけですか。ふつうの山っぽくない奇妙な山と書きましたが、富士山は左右の稜線が直線で、上が水平の直線・・・つまり台形なので、自然の山の類型化したイメージから外れてるんですね。

 自然に直線は存在しないというイギリスの造園家の言葉がありました。富士山の姿は、反自然的な景観ということですか。奇妙な山に見えたのが分かってきました。

 直感は統合された感覚なので、富士山を眺めていて全体としてなんか奇妙に感じられても、分析的に見る眼ではなかったから、その理由が分からなかった。それを指摘した文章を読んでやっと気づきました。

 

 前回、最後に「(江戸時代の)庶民の贅沢」を紹介したとき現代の庶民の贅沢についてもふれた。実は、書いていて少し違和感がありました。

 格差社会といわれる現代、庶民といっても幅広いわけで、自分も含めて知り合いは、だいたい庶民の中でも下の方。たまに美味しいものを食べ、ちょっとした旅行にいく、そんな庶民の贅沢を楽しむ余裕もあまりないのが実情。そんな人たちのことです。

 貧すれば鈍すという格言がある。でも、なかには貧にして楽しむ(論語)みたいな人もいるのではないか。

 思い浮かべるのは、北宋文人、蘇東坡のことです。流罪に遭いながらも窮乏生活の中で、 自然を愛で、 詩文を作り、書画を描き、友とつきあい、ついでに東坡肉(中華料理)を考案した人。

 ああ、蘇東坡は士大夫でした。つまりエリート。でも、そんな特別な人じゃなくても、凡庸な庶民の中にも貧にして楽しむ人がいるのではないか、日々、生きることの中に楽しみを見つけること。心の持ち方次第で、いくらでも開けてくるのではないか。

 「へうげもの」の登場人物、 茶人の丿貫(へちかん)のようなノリならそんなに難しくないんじゃないか。別に人と比べてどうこう気にすることでもなく、要は、自分の気持ちが充足できればそれでいいのですから。

 今回は、三界の中では欲界、ドロドロした話しが多く、ちょっと気がひけるのですが、まあ、人間界はいろいろあるので、これもその一面ということで。

 

 アパートで一人暮らしの友人がいる。仮にAさんとしておきます。電話でときどき雑談している。いかに安上がりに暮らしていくか、そんなことを日々、研究している人で、当然、自炊。玉ねぎ10キロを600円で買ったので分けますよとか、トビウオが山盛りで安かったですが持ってきませんかとか、浮世離れしたところ、常ならざるところが面白い。

  経済力はないけど、生存力があるというのが個人主義者(?)Aさんの生活パターン。 かってアジアやアフリカの途上国を貧乏旅行していた旅の知恵が身についていて、今はそれが生存力に転化している。

 普通の人だったら鬱になってもおかしくない状況なのに、そうならないのは、本人の資質もあるでしょうが、バックパッカー時代に生存力を鍛えられたことが大きい。窮すれば通ずですね。そんな旅の体験がAさんの財産になっている。

 Aさんのしぶとい生存力を見ていると、大地震があっても核戦争が起きても、飢餓や疫病、なにがあってもこの人は生き延びるような気がする。都市生活者型のサバイバリストというか、要は、コアな個人主義者、別の言い方をするとエゴイスト。

 ・・・ちょっと横道に逸れます。自分はいくつもの危うい状況を、例えば戦場でも超えてきましたが、生きているのは、偶然の要素が大きかった。正直、能力も生存力もたいしてないなと思っている。

 何度も偶然に助けられ、ある場合は、偶然、見知らぬ人の好意で助けられた。そんな偶然が繰り返されると、偶然x偶然x偶然・・・と確率的には理解できなくなり、神仏の加護のようなものを感じられざるを得なくなってきた。幻覚とか幻聴の類ではなく、経験科学から導き出された結論のようなものとして受けとめている。だから神仏といっても、別に、特定の宗教ってわけではなく、超越的な何か。自力の信仰ではなく、他力の信仰に近い。

 なにが言いたいかと言いますと、人はいろんなパターンがあって、ここでは生存力を持ち上げてますが、それにこだわることもなく、自分のパターンでやりましょうよ、ってことです。 

 

 Aさんの生存力の一例、なんか可笑しかった話しです。Aさんは、エジプトで、滞在費を稼ぐためにテレビドラマに出ていた。演技経験はゼロ、それでも出来る役があった。

 エジプトでは、イスラム教の戒律に反した人間=ならず者という社会通念があるので、酒を飲んだり(実は水を飲むだけ)、女性にちょっかいを出す(ふりだけ)、それで悪役が務まった。極悪というよりは醜悪の方の悪。

 テレビの視聴者にとっては、法律を犯した人=犯罪者よりもイスラムの教えに反する人間の方が嫌悪すべき存在で、現地の俳優はイスラム教徒なのでそういう役はやりたがらない。そこでお鉢がまわってきたわけです。

 イスラエル軍の兵隊とよく似た軍服を着て出演したりもしていた。当時は、第四次中東戦争の記憶もあって、エジプトの人々にとってイスラエルは憎き敵、その兵隊は鬼畜という目で見られていた。

 えーっ、日本人では顔つきが違うんじゃないかと思うのですが、向こうのテレビはあんまり細かいことは気にしない作りだった。後にふれますが、本人の容貌がそんな役に向いていたこともある。

 カイロの街を歩いていると、テレビを観ている子供たちがあーっ、怖いと声を上げるぐらい顔を知られるようになっていた。

 ・・・そういえば、天本英世という俳優さん、死神博士とかムー帝国の長老とか演じてカルト的な人気ありました。画面の中の天本さんは、不気味な容貌、偏執者というかエキセントリックな雰囲気、存在自体が非日常的だった。

 並の悪役にとどまらない特異性として、世界征服の陰謀を企てている悪の秘密結社の首領みたいな荒唐無稽さが味でした。今だったらQアノンの陰のリーダーといった感じ。

 一時期、仕事の用事で三宿にいくことがあった。・・・また横道に逸れますが、交差点の近くにある古本屋、江口書店には子供のころ毎週、通っていた。レジの台に高く平積みされた本が何列も連なり、本の壁が出来ていて、その奥のコックピットみたいな隙間に店主のおじさんが座っていた。

 昭和はじめの円本が新本のようにたくさんあって、本を開くとページから戦前の匂いがした。ちょっとすえたような静謐な匂い。

 あれから月日がたち、店主さんは亡くなり、最近、通ったときは店のシャッターが閉じたままですが、聞くところ、あの店は古本屋業界(?)のレジェンドになっているようです。

 通りに面したファミレスに入ると天本さんがよくいました。そこを事務所代わりにしていた。特異な風貌なのですぐに分かる。挨拶するぐらいでたいして話さなかったけど、ごく普通の人でした(当たり前)。

 いま結びついたのですが、Aさんの容貌、天本さんに似ているのに気づいた。ともに180センチ以上の長身で痩せ型、彫りの深い顔つきの細面、世界共通なんでしょうか、視聴者の想像力を膨らませるのにうってつけの容貌。・・・なんの話しをしてたんでしょうか? ええと、貧乏飯の話しでした。

 

 毎日、何を食べているか、Aさんの貧乏飯の聞いていると、本人にとっては必死にやっていることでしょうが、聞いている方は、いかに安く食べるかの工夫を楽しんでいるような感じです。巻頭でふれた蘇東坡に通じるところがある。

 蘇東坡の創作といわれる料理、東坡肉は、いまは中華料理の定番の一つになっていて、沖縄のラフテーもこれから派生した料理という説もある。しかし、その時代、豚肉は卑しい食べ物と見なされていたとか。東坡肉はそんな食材を使った貧乏飯だったわけです。

 Aさんの家の台所にガスはない。カセットコンロで煮炊きしている。ガスボンベは安売りの店で3本で200何十円、夏は一週間に2本、冬は3本使うとか。ガス代よりも安くすむ。

 以前はコンビニの弁当、レトルトや缶詰を安く買えるときに食べていたが、5年ほどそんな生活を続けているうち、体調を崩し、体のあちこちが痛くなってきてやめることになる。安いだけで不健康な食だった。

 今は、自転車で新大久保までいってハラルフードの店で豆を買ってくる。レンズ豆、ウズラ豆、ヒヨコ豆など1キロ200円で買える。炭水化物の米やパスタ(小麦)を控えめにして、ビタミン、ミネラルの豊富な豆を増やす食生活。肉や魚は食べなくなった。

 貧乏飯として豆に目をつけたところ、Aさんでなければ思いつかないのではないか。

 中東には豆を使った料理が多い。インドのダールもそう。フムスも、と豆を食材としてよく用いる文化圏ではいろいろな料理がある。

 Aさんは豆を煮て、味付けはいろいろ、塩、味噌、スパイス、卵など選んでを入れている。

 ついでに、卵って、都会生活のサバイバルでは最も重要な食材かも、最近、そんな場面に出くわした。ホームレスで、小さな公園を拠点の一つにしている人がいる。

 その人がスーパーで買ってきた食料、それが生卵でした。なるほど、 価格と栄養価のコストパフォーマンスでは、卵がいちばんだし調理する必要がなく、そのまま飲み込めばいい。ギリギリの現金で卵を選んだのは、生活の知恵なんだなと思った。

 ついでのついで、荻生徂徠の貧乏飯ってのもありました。若いころの貧乏生活で、三食、豆腐のおからを食べていた。また、戦後の食糧難の時代、配給の食パンに味噌をつけて食べていた小説家とか、こういう話し、探していくとたくさんありそう。

 

 ハラルフードの店で売っていた豆の話し、すらすら書いていますが、Aさんは、自転車で都内の食材店を探しまわり、価格と栄養価の両方を考え、試行錯誤を繰り返した末、この貧乏飯にたどり着いた。

 予々、Aさんの生存力、凄いなーと思っているので、そのAさんの結論なら、これこそ究極的な貧乏飯だと思っている。

 

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(ロシアのナマズ。どーんっとしている。本文とは関係ありません) 

 近所のおじさんで、朝、ときどき話をするBさんは、昔、テキ屋をしてたり飯場を渡り歩いてきた人。やはり一人暮らし。先週、雑談していたら、飯場にいたころナマズを獲ってきて鍋にしたと言っていた。

 実は、以前からナマズ鍋にはこだわりがあったので話しに引き込まれた。というのは「怪談蚊喰鳥」(1961年、大映)という映画のワンシーンがずっと記憶に残っていたからです。

 怪談物なのに、いつまでたってもお化けが出てこない変な映画でした。どんな話しかというと、「大映が真夏に放つ『怪談蚊喰鳥』は人間の業ともいうべき、凄まじき物欲と色欲に対するあくなき執着が巻き起こす悲劇を描く」(角川映画の説明文)・・・これだけでは、なんだか分からないけど、ドロドロ凄そうなことだけは分かる。

 大映は、有名なワンマン社長がいて、その人の好みだと思うのですが、愛欲がらみの因果話しと仏教の教えが混濁した変な映画がたくさんある。浅草の映画館でよく観ました。

 この映画でいちばん印象的だったのは、沼から獲ってきたナマズを調理するシーン。葦の茂ったジメジメした沼にいるナマズを獲ってきて、長屋の土間で調理する。 モノクロの映画で、それが土俗的なイメージを膨らませている。

 それから、包丁でナマズをトン、トンと輪切りにして小ぶりの鍋に放り込む。七輪の上に鍋をのせ、下から団扇でパタパタして煮込むシーン、あの鍋は飯田屋のドジョウ鍋と似ているなと思いながら、見ていて無性に食べてみたくなった。

 以来、いつかあんなナマズ鍋を食べたいと思っているのですが、実現していない。

 

 Bさんは、千葉の飯場にいたとき、近くの用水路にナマズがいるのを見つけ、ミミズを餌に釣ってきた。 30センチぐらいのナマズが15、6匹獲れた。

 飯場では、お金は盗まれるはろくな奴がいないからナマズのいる場所は秘密にしていたとか。キノコ採り名人が松茸山のポイントを他人に隠しているみたいな口調。

 じゃあ、だいたいどの辺りだったの? 聞いたら、う〜ん、と悩んだ末、取手の競輪場の近くと告白。・・・ああ、これは競輪にハマってたのをバレないように口籠もってたのかも。世間の目からすれば、Bさんはお金が入れば朝から酒とパチンコ、競輪、競馬で擦ってしまうダメ人間なわけですが。

 調理はシンプル。まず水桶に入れて泥を吐かせる。それから飯場の台所で頭とハラワタを除けて、輪切りにして鍋で煮るだけ。飯場で作っているから飯場料理。

 「ぶつ切りの肉の山もり鯰鍋」(俳人・野村喜舟)・・・こんな感じですね。

 粗塩をつけて食べる。味は聞いても、美味しかったよぐらいで、はっきりした言葉が出てこない。もともと寡黙な人なので、あんまり言わない。その分、聞いているこちらは夢が膨らむ。

 勝手に飯場料理と言ってますが、他にもテキヤ料理もそうで、粗野な中にも常民の日常的な食とは異なる非定住民の食の遺風を感じている。潜在的な意識の領域のことではっきり言い切れないですが、映画のナマズ鍋に土俗的なイメージを感じたのもたぶん源泉は同じ。それがいっそう夢を膨らませている。

 

 ところで、ナマズってそんなに簡単に獲れるんでしょうか? 素人が手作りの仕掛けで獲れるのか。聞けば、Bさんは、子供のころ小学校にはあまりいかず、裏山でメジロ、ウグイス、ヒヨドリなど野鳥を獲ってきては、道端で鳥を売っていた。通りがかりのトラックの運転手がメジロを買ってくれたとか。そんな生活をしていたので鳥や魚を獲るのはお手のものだった。 

 今の感覚では、小学生が学校にいかず鳥を売ってるのって変な話しですが、昭和の高度成長の頃までは、そういうこともあったんですね。

 そういえば、戦争中、ビルマ戦線の極限状況を生き延びてきた人で、野鳥獲りの名人がいました。田圃でウナギを手で獲ったりするのも上手、ジャングルで、鳥や魚を獲っていた技が身についていた。

 カスミ網で獲ったツグミが焼き鳥屋に並んでいて、スズメの焼き鳥もふつうにあった時代、鳥を捕まえ生計を立てていた人たちがいた。

 伊豆の山で鳥黐(とりもち)を使ってメジロを捕まえ、こ使い稼ぎにしていた。今は違法になっていますが、そのころは、メジロの鳴き声を競いあっていた趣味人たちがいて、メジロは愛玩用に売り買いされていた。

 お金が入ると、各地の公営ギャンブル場をまわっていた。インパール作戦は、兵隊の8割が死んでいて、補給が途絶え餓死者が多い。帰国はできたけど、人間が壊れ、変わってしまった人でした。いま振り返ると、嬉々として競輪場や競艇場を渡り歩いていた姿、本人にはそれが地上天国だったのかも。

 

 貧乏飯のAさん、飯場料理のBさん、共にいまの日本社会の中ではマイノリティー的存在かもしれない。でも、窮すれば通ずの人生体験を通して得た知恵で楽しみを見つけていました。・・・今回、通して読むと、富士山の話から、エジプトの悪役、ハラルフードの豆、怪談映画のナマズ鍋、飯場メジロ獲りと話しの流れが支離滅裂、毎度、そんな感じで申し訳ありません。

 

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蝋梅の香り/寒ボラの臍(へそ)/江戸前の鮨

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 陽が少し長くなってきた。宵の口、東上野の寺町を歩いていると、ふわっと仄かに甘い香りが漂っている。道路脇にある小さな寺の庭の蝋梅(ロウバイ)でした。

  蝋梅の花大寒のころに咲く。毎年、この香りを聞くと、新しい一年が動き出したんだなと感じます。

 蝋梅は、梅の字が入っていますが、梅とはまったく別の潅木。蝋細工のような半透明の黄色い花びらと甘い香りが特徴。半月遅れぐらいに開花する梅の香りは、濃密な艶のある甘さですが蝋梅の香りは清楚で透き通った甘さ。

 息をしていて感じました。寒い日の冷えた空気と蝋梅の透き通った香りは絶妙に合っている。季節が温かくなって空気が緩んできたら、このシャープな香気はぼやけてしまう。

 寺のお堂と住居はつながっていて、戦前の民家のような造り。 周りを囲んでいるビルは夕闇に溶け込み昏くおぼろげ。街はコロナ禍で人も車も少ない。このあたりは、かって空襲で丸焼けになっているのですが、この一角には戦前の面影が残っている。少し歩けば浅草、昔の浅草の芸人さんたちはこの近くの長屋に住んでいた。

 蝋梅の香りに惹かれ、足をとめていると、ここは・・・と言っても僅か数メートル四方の空間ですが、過去の日本が途切れることなく続いているスポットのように感じました。

 

 昨日は、鮮魚の店に寒ボラが出ていた。ボラといえば唐墨(カラスミ)が有名。でも、それ以外、刺身や煮魚では身に魚臭さがあることや、都会の汽水域にいる魚といったイメージで退いてしまう人が多い。釣り人もボラは雑魚以下の扱い。

 お台場のビルの屋上から湾岸の向こうの冷凍倉庫や物流センターを眺めていると、海面からよくピチャと跳ねている魚。浅草の吾妻橋のテラスで休んでいると、川面の下に泳いでいるのが見える黒く大きな魚。都会の真ん中で見かけるので、どうも刺身の魚とは結びつかない。

 店先で見ていると店の人、「寒ボラは臭いが消えていて洗いか、刺身でもいいんですよ、大阪湾で獲れたボラ」と話しかけてきた。 けっこう大きい、50センチぐらい。値段は高くない。

 ん~、まあ、食べたことないので持ち帰ってきた。美味しそう、珍しい、安いからとかではなく、食べたことないからという消極的な動機、このパターン、だいたいは外れるのですが、今回は、当たりでした。

 

 寒ボラ、なかなかよかった。三枚に下ろし、刺身にして食べたら美味しかった。しっとりとした身、ちょっとアジに似ているが、アジの脂っ気、クセがない。

 食べた後、口の中に豊潤な旨味の余韻がしばらく残っていた。後から思い返すと、この旨味の余韻がボラの刺身の醍醐味だと思う。

 調べると、昔は、江戸湾で獲れる代表的な魚の一つだったようです。「鯔背(いなせ)」や「鯔(とど)のつまり」といった言葉の語源はボラ(鯔)に由来している。江戸時代は、それぐらい身近な魚だったわけです。

 同じく汽水域にいるスズキもそうですが、今は、格下に見られているけど、江戸前の鮨(のネタ)は、こんな味なのかもと想像した。スズキは旨味はあまりないですが、身の口当たりが柔らかくさっぱりしているところ、ボラと似ている。

 

 そしてボラのヘソ(臍)、本当はヘソではなく幽門という胃の筋肉。見た目、そろばん玉のような、人間のヘソを大きくしたような、よく命名したなと思う。

 茹でて食べたら、実に美味しい。 これは珍味と言われてる。 イカのクチバシ(とんび)ような、サザエの肉質部のような濃密な美味しさ。筋肉繊維の発達した部位のタンパク質の味だと思うのですが、この美味しさは新発見でした。

 さらに残ったアラで出汁をとり、それに市販のカレールー、豚肉、野菜を入れてカレーを作った。これも美味しかった。旨味のカレーをイメージして作ったのですが、まさにその通りの絶品。インドやネパールのスパイスのカレーとはまた違う美味しさ。 そう、昭和の蕎麦屋さんのカレーを濃密にした味です。

 

 ボラの刺身から、ふと江戸前の鮨の味に想いをはせる。江戸前と呼ばれる範囲は、だいたい東京湾隅田川の河口から羽田あたりの海(これは狭義、旧江戸川でもいいのですが、とりあえず) といわれているので、そこで獲れる魚をネタにしている。

 いまは、都市の一部になっている海で、工場や生活排水、埋め立て、それに3.11の影響を気にしてる人もいるし、そこで獲れる魚の刺身を珍重しているという人はよほどの変わり者。今、江戸前の鮨を謳っている店のネタは、他の海で獲れた同じ種類の魚で、まあ、当然でしょうか。

 江戸時代、趣向をこらした上方の鮨と違い、江戸前の鮨は、酢飯に刺身を載せて握るだけ、ほとんどネタで決まる素朴でシンプルなもの。その昔、発酵食品だった元々のすしとは別物だし、考えてみれば原始的な料理だと思う。

 

 ところで、いま江戸前を謳っている鮨屋さん、本当に江戸前の鮨を知っているんでしょうか。素人の自分が、釈迦に説法みたいな話で、気が引けるのですが、ボラのいきがかりで、そんなことも気になる。

 というのは、これが江戸前の鮨と言ってても、実際に江戸時代に鮨を握っていた人も食べた人も、もういない(あたり前)。だから先代から伝え聞いた話しとか、文献に書いてあることを基に江戸前と言ってるわけですよね。

 当事者が直に体験、見聞きしたことを語っているのが一次情報。それを元にして作られたのが二次情報、孫引きが三次情報・・・。一次情報だって、見間違い、記憶違い、書き間違い、さらに嘘や誇張が混じってることがあるのに、それをコピーしたり編集して作られる二次、三次情報を基にして言ってる話し、どこまで信じていいのか?

 嘘といえば、旧石器時代の石器の発見者や慰安婦問題で証言した人物とか、共に本人の捏造なのですが、時代に大きな影響を与えた人がいた。なんと言えばいいのか、ほんとに困った人たち。

 一方、そんな困った人たちにコロリと騙されてしまった人たちの側、考古学者やメデイアの記者にも問題あるんじゃないか。だって、骨董の商売人同士だったら騙された方が甘いってことだし、諜報のプロ同士の場合も騙された方が愚かってことでしょ。だから考古学者や記者がアマチュアレベルだってことだと思うわけです。

 ・・・ちょっと横道に逸れますが、蒋介石が晩年、自伝を書いたときに言ってた言葉があります。曰く、この自伝に嘘は書いていない。でも、自分の全てを書いてるわけではない。なるほどね、と思いました。

 書いていることは全て本当だけど、全てを書いているわけではない。都合の悪いことや隠したいこともあると認めているわけで、それが本人なりの誠実さだったのかもしれない。

 また、自らの志として知っていても書かない、公にしないという人もいる。倫理観というか、節(せつ)、生きざまの美学っていうのでしょうか、「政治犯」の中にそんな人がいる。

 一次情報で確かな情報だとしても、それ以外に自主規制している情報もあって当然と見ています。

 手元にある本を調べてみましたが、江戸前の鮨のネタについて、自分が知りたいと思っているような情報は載っていなかった。ネットには、あるにはあるのですが、有名な『守貞謾稿』の孫引きのような三次情報が多い(全部はチエックしてません)。

 ネタの魚は、ざっくりアナゴ、サヨリシラウオ、ヒラメ、タイ数種類、キス、アジ、コハダ(コノシロ)の名前が上がっている。

 ついでに一言。浅草川(隅田川)の海苔とシラウオは江戸名物としてよく知られていた。

 刺身としては、総じて比較的淡白な、しつこくない味、今の日本人には物足りなく感じられる味といった印象。といっても、昔の人と現代人では、味覚も違っていたはずで、昔の人たちには違う味に感じられていたのかも。

 肉食と化学調味料、それに食品添加物、防腐剤、人工着色料などを摂って育った今の日本人の味覚と、江戸時代の人の味覚は、違っているはずで、同じものを口にしても感じる味にずれがあると思うわけです。

 また、日本の伝統的なスパイス(薬味)は、サッと抜けていく風味がメインなのに対し、昭和の後期から根付いてきた南の地のスパイスははっきりした味の強さで、日本人の味覚に影響を与えている。近年、トウガラシの激辛の食べ物がもてはやされていますが、激辛の味に舌が馴染むことで新しい味覚を覚える一方、その副作用(?)として昔の日本人の味覚が分からなくてなってしまうのではないか。

 そうなると、今の日本人には、ほんとうの江戸前の味は分からないということになってしまう。行き止まりになるので話しを変えます。

 

 ところで、上に列挙したのは、当時の有名店で握られていたネタで、ふつうの江戸前も同じ種類の魚だったのか、そんなことも気になる。

 ネットを検索すると、「東京湾でよく釣れる魚ベスト10」というテレビ番組の情報があって2つは重なっている。重なっていない8種も刺身でも食べる魚なので、実際は、もっといろんな種類の魚が江戸前のネタになっていたのではないか。

 なんでこんなこと書いているかといいますと、ボラの刺身がけっこう良かったので、ボラを贔屓して、江戸前の鮨のネタだったに違いない、と思ったのですが、そういう話が見つからない。

 見つからないのは、現代の江戸前鮨屋さんも、釣り人もはなからボラを相手にしない、無視というか差別(?)してるからなのではないか・・・なんか、くだらないこと書いてます。

 江戸には町に一、二戸の鮨屋があったそうです(『風俗辞典』1957、東京堂)。江戸の町の数は1600~1700なので、2000戸を越える鮨屋があったことになる。

 武家と寺社の領地を除いた庶民の住んでいるエリア(江戸の面積の15パーセント)にそれだけの数の鮨屋があったってことは、その多くは屋台かと思いますが、けっこう多いなと思う。

 自分の定義では、そういう店で食べられていたのが、ほんとうの江戸前の鮨ということになる。

 冷蔵庫、車のない時代、ネタの魚は、海で獲ってから痛(いた)まないうちに店まで運ばなければならない。江戸のエリアは大まかに三ノ輪から品川を直径とした半円内なので、陸上げされた魚を数時間でどこの店にも届けられたはず。もちろん徒歩で運んでいた。

 江戸前鮨(=握り鮨)は、短時間に生魚を店に供給できるシステムの整った都市だから生まれた料理だと思いました。前近代の世界では、日本以外の国では生れようのない風変わりな料理だとも思う。

 江戸で握り鮨が生まれ、また庶民に受けたのは「江戸っ子は、好んで鮮魚を食う。三日食べないと骨と肉が離れると言っている」(『江戸繁盛記』寺門静軒)ということが大きかったと思う。 

 生魚好みの嗜好は、日本が国として成立する以前、黒潮に乗ってやってきた南の海洋民、最初は房総半島の先っぽに上陸した人たちかと思いますが、それから浅草あたり(その頃は海岸線が浅草や向島まで入り込んでいた)にたどり着いた人たちの食習慣だったからではないか。 

 江戸で生まれた握り鮨は、庶民が屋台でささっと食べるもので、魚の種類は先にあげたものより、もっと多様だったのではないか。それが江戸前の鮨の実情ではないかと思うわけです。

 でも、そういう当たり前の日常のことは、あまり書き残されていない。記録に残っているのは、有名な料理屋の話しで、それはそれでいいのですが、実情は、いろんな生魚、もちろんボラも、その刺身を酢飯の大きな塊に載せ、さっと握って出していたのではないか、そんなふうに想像している。

 

 ついでに・・・江戸前の鮨を本で調べていたとき、江戸時代の食生活で、へーっと思った話がいくつもありました。その中から三つほど引用します。

海鳥の作る鮨

 「ちなみに海の鶚(みさご)が海岸の巌などに貯え、自然に潮水で熟した小魚は、鶚鮨と呼んで、昔から漁夫たちがとりに出かけたものであるが、酢の味に似ていたという。」(『風俗辞典』1957年、東京堂

 これは『甲子夜話』に書かれている話を紹介したもの。大分には、鶚鮨をまねて生まれた鮎の竹鮨という郷土食があるとか。

 そういえば、夏になるとクヌギの樹液が茎のくぼみに溜まって発酵し、あたりに芳香を放っている。要するに猿酒です。

 毎日、近くを歩いているので気になってしょうがなかった。野外の樹木だし、木屑や小さな羽虫、カナブンがくっついていて口にするのはちょっと。でも、何日目か、好奇心を抑えきれず舐めました。けっこう美味、そのうち書いてみます。

 

サルやオオカミも食べていた

「近所の獣肉屋へときどき狼や猿を売りにくる甲州辺の猟師が、この頃も江戸へ出て来て、花町辺の木賃宿に泊まっている。」(『岡本綺堂 江戸に就いての話』1956年、青蛙書房)

 当時、肉食は一般的ではなかったですが、 江戸には獣肉屋が何軒かあって、両国のももんじ屋という店だと思われる。この店は、創業300年を越え、現在も営業しているんですね。

 調べていたら1971年、大阪万博の翌年に出版された本に、当時、この店ではサル鍋が食べられていたと書かれていました。もちろん今はもう出していません。

 ジビエは知っていても、それはシカとかイノシシのことで、オオカミやサルって、食べるってこととは全く結びつかなかった。えーっ!という感じ。

 寺門静軒の『江戸繁昌記』には、幕末の天保のころには「山鯨」の看板を出した店が数えきれぬほどに増えていたとか。肉屋さんのことですが、いまと違うのは家畜の牛や豚はなく、獣肉だけで、イノシシ、シカ、キツネ、カワウソ、オオカミ、クマなどが並んでいた。

 時代小説には犬を食べる話が出てくる。でも、オオカミは知らなかった。オオカミはすでに絶滅していますが(生存説もあり)、オオカミやサルを食べるという発想、なんか奇異というか変な感じで、言葉にできない不可解さ。いまのところ、今年、いちばんビックリした話しです。

 頭を真っさらにすると、中・大サイズの動物という括りではみんな一緒なのに、別物とみなす固定観念が刷り込まれていたってことでしょうか。物事を枠にとらわれず考えているつもりで、案外、死角というか、枠にとらわれていたなと思う。

 

庶民の贅沢

 「とにかく鰹魚(カツオ)、鰻、白魚(シラウオ)を食うなどという事は、いずれも食好みの贅沢の中に数えられていた。」(同上)。

 「むかしは鰻を食うのと駕籠(かご)にのるのとを、平民の贅沢と称していたという。」(同上)。 

 むかしというのは江戸時代のこと。岡本綺堂は明治5年生まれ、両親は江戸時代の人です。岡本綺堂は江戸時代の生活を知っている人たちから「むかし」の話しを聞いていた。

 平民は、庶民のこと。駕籠は現代でいえばハイヤーでしょうか、あるいは旅行、当時は遠方の地にお参りにいくことでしたが、そんな意味も含まれているのかも。輸入した鰻はスーパーに並んでますが、国内の天然ものは昔よりも高級品になっている。

 たまには美味しいものを食べ、ちょっとした旅行にいく、そんな感じでしょうか。

 庶民の贅沢は、科学・テクノロジーの領域を除くと、江戸時代と現代、それほど変わっていないようにも思える。庶民は昔も今も慎ましく暮らしていて、たまにささやかな贅沢を楽しむ。100年、200年後の未来もそんな感じかも。

 21世紀に入ってから人間は、ネットやスマホ、ゲームなどバーチャルな世界の方にもっていかれてる。今後、地球規模で富の不均衡の是正が行われ、人類の平等化が進むと、また、世界人口はしばらく増え続けるわけだし、さらに環境問題もあって、この傾向はさらに磐石なものになっていくはず。

 キューブリックは、映画を観ているときの人間は夢をみているのと同じリアリティにいると言ってました。思うに、20世紀はじめの映画の発明は、人間界をバーチャルな世界が侵食しはじめる嚆矢だった。半世紀後、テレビが普及する頃になると現実とバーチャルが拮抗し、世紀末、インターネットになると現実を超えてきた・・・この1世紀は電化の時代だったんだなと思う。

 ということでは、人間世は現実の代償として夢の中で贅沢をする方向、マトリックス世界というか、そっちに進んでいるように思える。

 ・・・一方、そもそも贅沢ってそんなに魅力的なんでしょうか? 贅沢とは縁のない生活をしてるから言ってるわけではありませんが、慎ましい暮らしでも楽しいことや面白いことはあるので、それで十分という気持ちです。

 

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