横井也有と江戸時代の変人、奇人

 葛飾北斎富嶽三十六景、「尾州不二見原」。名古屋の前津から見た富士山。

 桶のタガの中に富士といったユニークな構図、のぞきからくりのような遊び心が面白い。

 江戸時代、同じ前津の地から山を眺めていた変わり者がいた。北斎よりも少し前、横井也有という人で、こんな逸話がある。

 住まいの草庵から東の方向に山が見える。そこで眺望のための窓を設けた・・・どんな窓かは知りませんが、文人趣味の人なので、丸窓なんかを想像している。

 変なのは、その窓には鍵が降ろされていたことだ。これでは外の景色が見えない。

 疑問に思った人がその理由を尋ねたところ、也有はこう答えた。

 ・・・どんなによい景色でも、目に慣れてしまったら面白味がない。だから、たまに窓を開けるようにして、いつもは塞いでいる。

 

 横井也有尾張藩の要職に就いていたが、官職が性に合わなかったようで病を理由に早々と隠居、城下町郊外の前津に草庵を結び俳文、和歌、狂歌、書画、茶道、琵琶を奏で暮らした。

 現役時代はとくに何事もなく地味、晩年の道楽(?)に耽っていた生き様が何百年も語り継がれるって、妙な感じですね。 晩年、といっても30年あまり、出仕していた年月より長かった。

 窓のエピソードは趣味人、いわば数奇者なので、ふつうの人とズレたところがあるにしても、この人の場合、「ふつうの数奇者」(?)ともズレている。

 人と、世間といってもいいですが、180度反対に留まらず、そこからさらに180度反対で、360度まわり、元に戻ってきてしまう。裏の裏だから表になる。

 こういう発想って、数奇や風雅を極めてそこに至ったというよりも、個人の持って生まれた気質、性格に由来しているのではないか。天邪鬼(あまのじゃく)を二乗したような人。成ろうとして成れるものではない狭き門だ。 

 

  名古屋の地はよく知らない。調べると、現在の前津は名古屋市中心部の市街地のようです。日本の都市の景観はどこも似たり寄ったりなので、だいたいのイメージはつく。当時は緑豊かな名勝地だった・・・まあ、そのころは日本全国、江戸も、例えば根岸の里も墨堤の向島も、王子も目黒もどこもそんな感じだったのですが。

 也有の草庵から見えた山、名古屋から東といえば、富士山だろうか。前津には富士見原という地名があるようで、現在は、名古屋市中区富士見町になっている。富士山が眺望できたことに由来する地名だ。

 名古屋から富士山までの距離は170キロぐらい。宇都宮から富士山が同じぐらいの距離で、かなり小さいにしても見えないことはない。

 しかし、地図だと三河の山々がついたてのように遮っている。前津から見えた富士山は、南アルプス聖岳(3013メートル)を誤認していたという説もあるとか。・・・詮索しても、結局、行ったことのない土地の話し、自分の目しか信じない性分なので、よく分からない。

 ところで、北関東の新4号線、春日部あたりから見る富士山は絶景です。富士山からの距離、それと方角の関係から丹沢山地奥多摩山地の隙間から見ることになる。山の多い日本で、遠くから裾野まで全景が見える場所、ここだけでしかない。

 江戸時代は変人、奇人を輩出した時代だった。『近世畸人伝』(伴蒿蹊)には、そんな人たちが紹介されている。上の画は、丸窓の中の月。北斎の浮世絵にある桶のタガとこの丸窓、似ていますね。

 後ろ姿で月を眺めているのは湧蓮という坊さん、生涯なにも蓄えず、念仏と和歌を詠み、その和歌も書き遺さなかったという人。肖像画が残っているわけでもなく、描かれているのは後姿。

 近世250年以上、鎖国していた島国、人々は変化の少ない、時間のゆっくり流れる世界に生きていた。江戸時代のかわら版、今だと新聞の号外ってことになるのですが、報じられていた事件は、火事、地震、敵討ち、心中、妖怪・怪獣の出現・・・ずっとそんな世界が続いていた。

 鎖国で、そして泰平の世で、磐石の身分制度の下、閉じられた世界が延々と続く。そんな環境が、変人、奇人たちの出現を促した。

 ある一個人が閉じられた世界を乗り超えようとした生き様が変人、奇人だったのではないか。世の中が変わらないとき、自分が変わることで世界を変える、そんな現象だったと思っている。

 それは個人だけでなく、文化的にも起きていた。いわば文化のガラパゴス化というか、少なからぬ人々が妙なことに夢中になっていた。

 巷では、言葉遊びやナゾナゾを作っては批評しあっていた・・・世界で最も短い定型詩(俳句、川柳)のことですが。 世界各地の演劇の歴史で、その国を代表する演劇が人間ではなく人形の芝居(文楽人形浄瑠璃)だったのは江戸時代中期の日本だけだし、人も住めない小さく狭い家に集まっては、無言でお茶を飲んでいた(茶道)とか。樹木に傷をつけたり、成長を阻害して矮小化させ観賞していた(盆栽)とか。そういうのが特殊な例外ではなく、市井に広まっていたことに、変だなーと思うわけです。 

 奇天烈なところでは、雲茶会や耽奇会みたいなサークル、千住の酒合戦、 犬の伊勢参りとか平賀源内の「放屁論」とか、全国各地に変な話しがたくさんある。

 

 『ビョークが行く』(エヴェリン・マクドネル) に、日本の文化のピークは江戸時代だったという指摘がありました。ビョークアイスランドの歌手、あんまり関係ない話ですが、この人、日本人っぽい容貌している。

 明治の文明開化からはじまる、欧米文化の影響を受けた日本ではない、日本固有の文化のピークは鎖国の時代だったというビョークの見識、当たっている。

 鎌倉時代ごろまでは中国文化の影響が濃かった。それが戦国時代に自壊というかご破算になり、リセットされた後、江戸時代になって固有の文化といえるもの、つまり町人文化=大衆文化が生まれた。武家の文化も公家の文化もそれに比べると影が薄い。

 いま日本の伝統文化といわれているものは、ほぼ全て江戸時代に確立されている。

 結局、何百年かの平穏、時間的余裕がないと、醸成されないと固有のものって形にならないんだと思う。

 

 そういえば、中国の文化のピークは宋の時代(960~1279)だったといわれている。 漢字の文芸は、詰まるところ唐詩宋詞に尽きる。工芸文化は宋磁に尽きる。歴史を通して、その時代に作られた詩文や陶磁を超えるものが以後、現れていない。

 約800年前の南宋の茶碗は、現代人の目から見て、付け足すものが何もない。省くものが何もない。それが完成形ということだと思う。つまり時代を超えている。

 また、北宋の蘇東坡を読んでいると、仕事、家計、暮らし、料理、旅、人間関係・・・いまの自分たちと同じ感覚で生きていたのを感じる。人間という種が社会的動物である限り、未来のいつか資本主義がなくなっても、あるいは国家がなくなっても、この感覚は1000年後の人にも通じるのではないか。ということでは、時代を超えている。

 

 漢から清までの陶磁器を見比べると、宋の時代がピークだったことは自分の目で確かめられる。本に、教科書に、辞典にそう書いてあるから、そうだと言ってるんじゃないんです。自分の目で確かめたことを基にした言葉でなければ、本当という言葉は使えないのでないか。

 別に大仰なことを言ってるのではない。出土品でいいので比較的状態のいいものを、要は、古陶はタイムカプセルだってことで、自分の手元に置いて朝晩、眺めて、触っていれば気づくことだからです。

 宋以降は、元や清のような他民族の支配を受け、中国固有の文化は歪められ、現在に至る。・・・ハイブリッドの方がいい、少なくとも異なるものとの融合によって普遍性は生じるという見方もあるので、あんまり固有性にこだわり過ぎるのも変でしょうか・・・ああ、そういう変なところが日本の日本たる由縁ってことか。

 

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今度はツグミがやってきた

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 前回、2月の下旬、ジョウビタキが来たあと、3月のはじめツグミが現れた。ともに秋、シベリア方面から日本に渡ってきて山野にいたのが、冬も終盤、山の餌が少なくなると平地に移動してくる。

 ジョウビタキツグミに春を感じる。壺中天の中に春が飛び込んできた。一般的には冬鳥ですが、東京に住んでいる自分の日常の中に現れるのはこの時期だけなので春の証になっている。ちょうど川津桜から蕗の薹(フキノトウ)が出てくるころと対応している。

 そういえば、江戸時代には、ホトトギスの初鳴きを聞いたってことが風流自慢になっていたとか。夏、ホトトギスと言うぐらいなので、初夏、見栄っ張りの江戸っ子の間で、誰が最初に初鳴きを聞いたか競っていたようです。どうも自分の感性は江戸時代あたりで止まっているような気がしている。

 

 ツグミは地面をピョンピョン跳ねるようにせわしなく動き回り、土の中の小さな虫を啄ばんでいる。少し前まで冬枯れの地面、生き物の兆候がなかったのに、地表がぬくんできたのか、よく見つけるものだ・・・そうか、これが啓蟄(冬籠りの虫が這い出てくる時期)ってことか。う~ん、ちょっと出来すぎのようですが、ミミズを捕まえてるのを見て納得。

 

 一見、ヒヨドリに似ているが、羽の赤茶と腹部の帷子(かたびら)のように見える模様が特徴。姿形とは別に、枝や地面にいるときの動作や飛び方も違うので、見慣れるとすぐ分かる。

 ツグミヒヨドリの見分け方、骨董というか、例えば古陶と同じで、何度も、何度も見比べること、そして互いの特徴、違いを、姿形だけでなく、動作や飛び方、鳴き声などひっくるめて全体としてつかむことだと思う。

 部分の違いにこだわるのを分析的思考とすると、そっちの方向に傾くとかえって分からなくなる。実際、判別するには曖昧なところがよくある。そんな訳で、対象を部分ではなく全体として捉える統合的な思考を働かせること・・・簡単な、当たり前のことをわざと難しく書いてるみたいで気が引ける。

 ツグミヒヨドリなら10個ぐらいのポイントを全体として掴むってことなのですが、別に難しいことではなく、人はふつうこうやって物を見ているんですね。だから何度も繰り返し見ていると自然に身についてくる。見た瞬間、直感的に分かるようになる。

 

 ヒヨドリにふれたので、ついでに今年、新しく気づいたこと・・・ヒヨドリがハナモモの蜜を吸いにやってきた。鳴き声は個性的で変幻自在だけど見た目は地味。でも、それがまた満開のハナモモと実によく合っているんですね。

 けっこう暴れん坊の鳥で、もっちりした花の枝が大きく揺れている。ハナモモは江戸時代の栽培品種、桜や梅よりも長い間、散らないので毎日、眺めている。

 コテコテのピンク爛漫の花とダークな茶色のヒヨドリ、組み合わせの妙です。メジロと白梅を静とすれば、こっちは動。どちらもいい。

  雪月花や花鳥風月、もともとは、唐の文化に由来している。白居易の詩がそう。唐では、雪(冬)はいい、月(秋)もいい、花(春)もいいと、パターン(種類)の列挙だったのが、日本では、花+鳥とか、雪+花+月のように組み合わせの妙になっている。

 雪月花だったら、桜の季節に雪が降り、月下の夜桜を愛でるとなる。花見と雪見と月見を一緒にする。季節、天気に月齢が関わっているので人為では成就しない。こういった趣向、マニアックというか贅沢なんですね。お金の贅沢ではなく自然の贅沢。

 そのあたり、漢心(からごころ)と大和心、いわば詩文の修辞の眼と美の眼の違いなのではないか。

 

 以前は、ジョウビタキツグミも庭で見かけることはなかった。庭でバードウオッチングができるようになるなんて、なんか変な感じ。住宅密集地で自然が戻ってきたわけでもないのに、それどころか一軒家の空き家だった敷地に新しく4軒の家が建ったり、マンションが建ったりして、住環境は、ますますチマチマしてきてるのに、どうして野鳥がくるんだろうか。

 

 ふと、二つほど気になっていることがある。近年、公園や神社の樹々は、みんな伐採、剪定され、下草、雑草の駆除が徹底化している。 公園に緑はあっても、そこは人間の空間で、野鳥の居場所ではなくなっている。そのことは、野鳥の種類が以前よりも少なくなっていることで分かる。当たり前のようにいたカワラヒワホオジロの姿が消えている。

 また、 以前は、街によくいたノラ猫がいなくなって、 猫は家の中で飼うのが一般的になっている。野鳥を捕食していた猫がいなくなった。

 2017年、オーストラリアの国内で毎日100万羽以上の鳥がペットや野生の猫に殺されているというレポートが公表されている。この数字は驚異的な規模で、野鳥の減少に猫の存在が関わっているようなのです。

 都会の人家で野鳥を目にするようになったのはこんな背景があるのではないか。

 なろほどね、冬鳥は本能で平地に移動してくるが、結局のところ居場所がないんで、それに猫もいなくなったしってことで、やってきたってことか。

 

 ・・・なんか、どうでもいいようなことを書いている気がしないでもない。この核戦争の危機(ロシアのウクライナ侵攻)に花鳥風月とはのん気な話だといわれそう。まあ、市隠の独り言なので。

 些細な話ですが、1962年のキューバ危機のときよりも、今回の方が危うい綱渡りをしているように思える。前々からの持論ですが、この世はB級世界なので、なんでも起こりうるんじゃないか。

 B級世界だってことは、アーリマンの力が人間界に及んでいるってことで、シュタイナーが言ってたことでもあるのですが。アーリマンは、比喩的に言えば精神寄生体みたいなもんですね。

 20世紀のはじめ地球の人口は15億人だったのがいまは77億人。また15億人ぐらいに戻っても、些細な話しなのかも。

 

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ジョウビタキと壺中天

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 立春がすぎ雨水、少し前まで夕方5時になると暗かったのが、いまは近所の家の屋根にオレンジ色の夕日が差している。このところ花桃の蕾の膨らみが目立ってきた。とはいえ霜柱の立つ朝もあるし、北風はまだ冷たい。

 天気のいい朝、土の地面が銀色に輝いていた。泥土から浸み出た水が陽光を受けて反射している。はて? 昨夜、雨は降ってなかったが・・・近づくと、霜柱が溶け小さな水たまりになっていた。

 そうか、二十四節気の雨水って雪や氷が溶けて雨となる時期のこと、つまりこれなんだなと納得。辞書で言葉の意味を知るのと、現実に体験する、目で見ることの違いを感じている。

 都会の一角、まわりは人家、マンション、ビル、道路など全てが人工物の中で暮らしている。自然から隔離された日常ですが、その日、その日の天気、それに季節の移り変わりは自然に違いなく、ちよっとしたことの中に自然の姿を見つけている。

 

 この何日か、夕方になると庭に冬鳥のジョウビタキがくる。

 ジョウビタキは野鳥にしては人間への警戒心が薄く、近くに人がいても木の枝、地面をいったりきたりしている。単独行動の習性があり、一羽で動きまわっている。

 姿を見るのは一年ぶり、冬のいちばん寒いころ、もうすぐ春といった時期に現れる。

 スズメよりも小振りな鳥で、同じぐらいのサイズの鳥でシジュウガラ、メジロはわりとよく見かける。しかし、ジョウビタキを見るのは、今の時期だけ。その分、なにか貴重なものと出逢ったような、トクをしたような気分になっている。自然の生物なのでタダで見られる(あたり前)。

 郊外の田畑、河原、雑木林にいけば、特に珍しい鳥ではなく、見たからといってなんということもないのですが、自然が過疎なところに住んでいるので、自分にとってはプレミアム感があるわけです。

 

 これは雌鳥で胴体が灰色っぽく、雄より地味ながらも、体の真ん中の白い斑点、そして柿色にもオレンジ色にも見える尾っぽに華があり、野鳥の中ではけっこう綺麗な鳥です。

 そうでした、枯れ草、落ち葉と土、木の芽もまだの寒々とした情景だからこそ、ジョウビタキのオレンジ色がひきたっていることもある。

 藤色の法被(はっぴ)を纏った鯔背(いなせ)なシジュウガラに、鶯色の着物姿の芸妓がメジロ。とくに白梅とメジロの組合せは、けっこう極まってる。寒い朝のふくよかで艶のある香りもいい。

 ジョウビタキは、・・・紋付羽織袴の歌舞伎役者、黒と萌黄と柿色の定式幕からの連想、ちょっと苦しいか。どうも江戸情緒に流れてますが、原色で派手な熱帯・亜熱帯の鳥とは異なり、武蔵野のどちらかといえば地味っぽい中間色の鳥たちなので、自然とそっち(和の色)の方に傾いてしまう。

 

 「枕草子」には、著者の清少納言がいろんな鳥の中で、いいな、好きだなと思っている鳥の名前が列挙されている。ヒタキ(ジョウビタキの古名)の名も挙げられていた。

 小さくて可愛いもの好きの彼女の感性からして、ジョウビタキのサイズ感、小刻みに尾を振る仕草、それになにより白い斑点と尾っぽのオレンジ、蜜柑色・・・この鳥は外せなかったんだなと思う。

 清少納言の感性の綾、1000年の時を隔てていても、実物を見ていると、つながる瞬間があるように感じられる。「何も何も、小さきものは、みなうつくし」と書いた彼女の感性をもう一歩、リアルにつかめたような気がしている。

 

 それにしても、ジョウビタキは、こんな小さな、華奢な体で、中国東北部、シベリア、遠くはバイカル湖のあたりから、海を渡って北海道に、さらに本州を南下し東京の、それも自分の目の前までくるなんて、大変なことだ。

 何千キロの距離を、途中、激しい雨や強風に見舞われたであろうし、よく耐えたものだ。そして、人口1200万人の東京で、どうやってここを探しあてたのだろうか。

 狭い庭に遊ぶ小さな鳥・・・ユーラシア大陸から北の海、東北の山々を越えてきた物語を重ね合わせると、ふと、壺中天の故事を想い出す。小さな壺の中に入れる仙人がいて、壺の内部にはこの世界と別の天地があったというあの話しです。

 街中のこんな場所で自然の姿を見つけるなんて言葉倒れだろうか。でも、人間の目に映る世界は自己相似形のフラクタル構造をしていると捉えると、そういえば華厳経の一即多、多即一の世界観もそうでしたが、どんな場所にいても見方次第なのではないか。要は、好奇心の持ち方によって見えるものも違うと思っているわけです。

 

 冬鳥でもツグミなら、と言ってもひとまわり大きいぐらいで実質的には同じようなものかもしれないが、見た目、ジョウビタキはヒヨコより小さい。体の筋肉は、ほんの僅かしかないのに、ここまで飛んできて、また帰っていくなんて、奇跡的と言ってもいい。

 どうしてそんなことが出来るの? って感慨がある。ああ、これが自然ってことか。

 目の前のジョウビタキは、そんなこと自覚しているふうもなく(これも、あたり前)、柿と花桃の枝を飛び移っている。

 

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日本の山奥にライオンがいる!

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 旧約聖書のユダの獅子(ライオン)に由来する紋章。エチオピアの発掘品で土がこびり付いている。時代としては、近代に入ってから造られたもの。以前のエチオピア国旗は、中心にこのライオンが描かれていた。また、音楽のレゲエ、ラスタのシンボルでもある。

   

 常識的には荒唐無稽としか言えないような話しですが、実際に山の中でライオンを見た人がいるようなのです。それも各々遠く離れた地域で、何人もの人たちが見ている。  

 目撃談は、1970年代から90年代前半のことで、現代の出来事といってもいい。マスメデイアやネットには、ライオンの存在に関する情報は見当たらないので、これは大スクープなんじゃないか?

 

 たまたま読んでいた本、それから雑誌の中に別々のライオン目撃談があるのを見つけた。本と雑誌の内容は、互いに年代も場所も異なり、まったく関係なく同じようなものを見たというところに興味を惹かれた。

 目撃談の記事は、小さなトピックス程度の扱いだった。実害があったのではないし、写真に撮られてはいないので、そんな扱いなんでしょうね。

 

 最初は『山怪』(田中康弘、2015)という本、奇妙な体験談が載っていた。秋田の雪山でライオンを見たというのですが、 作り話にしては、あまりに非現実的なところが、逆にリアリティを感じた。そう、「不合理ゆえにわれ信ず」です。

 この本は、山の中で猟師の人たちが体験した不思議な話を集めた現代版「遠野物語」として、けっこう話題になっていた。

 秋田県北部の雪山で、マタギの猟師がウサギ狩りをしていたとき、こんな体験をしたという。 1990年代前半のことです。 本文の一部を引用します。

 

「雪も止んで結構穏やかな天気だったんだ。ウサギ狩りには最適だな。まだ勢子が動き始めるまで時間があったから、辺りを何気なく見てな、こう下の斜面の方に顔向けたら、驚いたよ。」

 Iさん(本文では苗字)が立つ位置から少し下がった雪の斜面に大きな何かが見えた。

「ちょうどなあ、ライオンみたいな感じだった。それが何かって言われると、はっきりとは分からねえどもな、感じはライオンだったな、それがこう這いつくばってこっちを見てるんだ」

 静かな雪山、明るい広葉樹の森の中でとてつもない怪物と対峙したマタギは銃を構えた。

 「いやこれは何とかせねばなんね。そう思って銃を構えたけどなあ、とても敵う相手じゃねえって」

 ライフルやスラッグ弾なら大物でも倒せるが、今銃に装填されているのはウサギ狩り用の散弾だ。とてもこれでは歯がたたない。

「もう生きた心地がしねえもんなあ。こりゃあとても駄目だと思ってゆっくり後ずさってよ、仲間の所さ走ったさ」

 この後、猟師仲間にライオンのことを話すが、全然相手にされなかった。付け加えると、Iさんは、他にも狐に惑わされた体験もあったりしてサイキックな資質の人だったと書かれている。

 

 その本を読んだ、ちょうど同じころ、古雑誌を整理していて、パラパラ、ページをめくっていたら、またライオンの記事が目に入ってきた。

 『別冊 宝石』(1973年1月号)、「日本列島を騒がせた怪獣たち」(斎藤守弘)という記事でした。そのころ日本各地でヒバゴンツチノコ、クッシーなどUMA(未確認動物)の目撃談が相次いでいた。

 1973年は、高度成長の晩期、田中角栄氏が首相で、第四次中東戦争によりオイルショックが起きている。そういえば先日、亡くなられた作家・政治家の石原慎太郎氏がネッシー探検隊の総隊長になりスコットランドネス湖に行ってたのもこの年だった。

 そんな時代風潮の中で、関西の和歌山、京都、舞鶴でライオンが次々と目撃されていた。

 1971年1月、和歌山県新和歌浦で駐在所の警察官が見たライオンはこんな感じだった。以下、引用です。

 

「あれは昼飯をとった後でしたな。腹ごなしに近くの雑木林にはいって行くと、奥のほうから耳なれない唸り声がする。いままで見たことのない大きな動物なんですわ。

 見ると、岩の上にごろり横になっていて、前足でしきりに口のまわりをこするところなどまったく猫そっくり。けれど、それにしては図体が大きい。約2メートルくらい。尻尾は長く、耳は小さかった」

 

 記事によれば、警察官が見たということから、その後、大がかりな捜査を行ったが、ライオンは見つからなかったという。

 また、 1972年5月、丹波山中で亀岡市の中学生が見たライオンはこんな感じだった。

 

「まるで巨大な猫のようだった。体に模様はなく、全身、うす茶色。とてもしなやかな身のこなしで、雌のライオンか、ピューマに似ていた」

 わずかに開けた草っ原の上を、跳ねたり転がったり、しきりにたわむれる様子。

「それは記録映画なんかで見るライオンの遊び方そっくりだった。野良犬や山猫なんかの見間違いじゃ絶対ない」

 

 引用文のライオンは、地域、年代が離れていて、互いに無関係の存在だと思われる。みんな虚言? あるいは、なにか他の動物、岩や倒木の類いを錯覚したのか? 客観的な視点で、それが何かと詮索してもどうも先に進まない。思考停止になってしまう。

 異なる視点から、これは人間の主観性の世界に棲息している幻獣ライオンなのではないかと思った。 伝説や神話に登場する、民間伝承で伝えられてきた、あるいは妖怪の一種、そんな動物をひっくるめて「幻獣」と呼ばれている。

 「いる」という言葉の解釈になるのですが、物質的な存在ではないが、「いる」ということもありえるのではないか。また、客観的に誰にも見える「いる」とは異なる人により見える人と、見えない人がいる、そんなパターンの「いる」もあるのではないか。

 じゃあ、幻獣ライオンって何なの? すぐに思い付くのは、ユングの説いている「元型」・・・人類の集合的無意識の象徴ではないか。元型と言っておけば、UFOでもなんでも、よく分からないことはみんな当てはまってしまうので、なんか安直な考えのような気がしないでもないが。

 そんな心理学的な解釈では面白くないという人には、幻獣ライオンは、この世界(三次元空間+時間)に属していない何か、異次元獣だといってもいい。同じ出来事でも、山奥で幻覚を見たというより、異次元獣と遭遇したといった方がドラマチック。

 意識の本源はこの世界に属していないんじゃないかと疑っている・・・DMTやケタミンサルビノリンAから得た直観で、科学ではまだ未解明の領域。思うに、客観世界を主観世界の観察対象として分離し捉えている現在の科学のパラダイムでは解明できないのではないか。

 ということでは、結論だけ直観的に分かっていて(と、思い込んでいて)、そこから察するに、元型も異次元獣も同じことになる。

 

 人類の始まりを仮にチンパンジーの祖先と分岐した約600万年前とすると、現在までの大部分の間、ライオンと人類は、捕食者と被食者という関係だった。人間は、一方的に食べられちゃうだけ。ライオンは、SF映画プレデターみたいな存在。

 人類が集団でなんとか対抗(反撃)できるようになったのは3~4万年前ぐらいからではないか。

 忘れてならないのは、ホラアナライオンやスミロドンのような既に絶滅した、ライオンよりも大きくパワフルなネコ科の肉食猛獣が1万年前ぐらいまでヨーロッパやアメリカにいたということだ。それらより少し小型になるがヨーロッパ南部には西暦1世紀ぐらいまでライオンがいたし、イランには19世紀までいた。

 1万年前といえば、日本では縄文時代に入っていて、そんなに大昔(?)でもない。 文字はなかったけど、すでに言葉を使っていたから文化的な伝承、つまり人から人、ある世代から次の世代への情報のコピーがなされていたはず。

 こんな猛獣たちが跋扈していたころの人類にとって、ライオン・・・ネコ科の大型猛獣は現代人には想像できない恐怖というか畏怖というか、そういう絶対的な存在だったはず。

 人類は、何千世代もの間、そんな一生を繰り返していたのだから、人類の潜在意識に情報のファイル、つまり元型として刷り込まれていないわけがない(変な論証かも。まあ、瞑想的な推測として)。

 ライオンが王権の象徴であり、スフインクスの胴体がライオンなのも、神社の狛犬も、その名残りだと思っているわけです。

 

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翡翠(ヒスイ)をなでる・・・触覚の快感

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 渋谷のハチ公前、妙にすっきりしている。海外の観光客の長い行列ができていたのが嘘のよう。ハチ公と一緒に記念写真を撮る順番待ちの列だけでなく、周りはいつも人でいっぱいだった。  

 視界が開けるとハチ公の前足が目につく・・・表面がツルツル、銅光りしている。人が手で触り、なでていったので銅の地肌がすり減り、足指の造型が分からない。一体、どれほどの人が触るとこんな状態になるのだろうか? 

 前足に手の平を当てると、大寒の冷えびえとした金属の感触、体温が奪われキューンと冷えていく。しばらく手を当てていると、体の芯まで冷えてきて、肝臓、腎臓あたりに寒気を感じる。

 

 昨年の晩秋、風の快感について書いた。「風」の「快感」? 風ならいつでも、どこでも当たり前のことだし、それを快感と言ってしまうのは大げさか。

 でも、これこそ薫風というレアーな風のことを想い出していたとき、頭の中で「風」と「快感」が結びついた。ということでは、自分にとっては発見だった。

 

 今回は、ツルツルの物体に触ったとき、その滑らかな感触の心地ちよさ。

 翡翠(ヒスイ)の原石を磨いていたときのこと。ミャンマーのヒスイは、川の礫(れき)で丸っこく、クリーミーな緑色をしていた。

 原石の白い部分(こっちの方がヒスイとしては純度の高い部分ですが)を削って、緑色の部分が広がるようにサンドペーパーで延々擦っているうちに、地肌にヌルッとした感触が生まれてきたのに気づいた。

 この手触り、アイスクリームが口の中で溶けていく感じに似ている。蕩(とろ)けるような感触。皮膚に塗ったエタノールが気化するときの感覚なんかもそうだけど、融解にしろ蒸発にしろ消滅していく皮膚感覚は快感なのではないか。 

 究極的には、肉体自体がこの世から消えていくときの感覚がそうだと思うが、話が逸れていくので戻します。

 

 ヒスイは結晶構造がチエーン状に連なっており、硬いだけでなく粘り強く、簡単には割れない。こんな特性が粘りのある密な手触りを生み出している。

 ネットリとしたキメの細かさ、 指で撫でると細やかで、つややかな感触、絹の布地を彷彿とさせる・・・何度も手にしているうちに、感触の味わいに開眼したわけです。

 なるほど、漢の時代から続く中国の玉の文化は、これなんだなとひとり納得。ああ、古来、玉はネフライト(軟玉)が主ですが、それはそれとして、石の彫物を「見る」「愛でる」だけでなく、指や肌で肉感的に感触を味わう文化ということです。

 現代中国でも和田玉を羊脂玉と讃えているように、文字通り羊の脂の質感にある。

 

 ヒスイ(ヒスイ輝石)は石英(水晶、瑪瑙)よりも比重が高い鉱物で、つまりどっしりした重量感と硬質な質感はこの石の個性でもある。また、握っているうちに掌の中で温もってくる温感も味わいのひとつだろう。

 ヒスイは小石でも比重が高いのでどっしり感があり、掌に載せた石の重みからカミの感応(つまり神意)を知ろうとした、古の石占いに想いを馳せる。

 

 これに惹かれ、身の回りに転がっているもの中からツルツルした物をテーブルに並べてみた。鉱物は当てはまる石がいろいろあるが、まずヒスイがあるので他はパス。硬いものという流れなので、例えば犬や猫の肉球とか、レザーとかビニールの類いもパス。

 シカの角(削ってツルツルにした)、ムクロジの実(羽子板の黒光りしている玉。今の季節、林に落ちている黄色い果実を割って取り出す)、カルボン球(一件、黒真珠。炭素原子が金属結合した工業用の球。ダイヤモンドより硬い)を選んだ。

 光沢の出るまで磨いたシカの角の感触は優美(ホントにそう!)、グーッと湾曲した撓(しな)りの手触りがいい。ムクロジの実は、漆器にも似た植物ならではの温和で純朴な質感。超硬度の人間を拒絶し、取りつく島もない異質感のカルボン球、これはこれで個性だなと思う。それぞれ異なるツルツル感を味わう。

 

 深夜、目を瞑って、いろんなツルツル感に耽る。ツルツル感の違い、組み合わせの変化を味わうのは面白い。でも、感触は目で見えるもの、音で聞こえるものではないから触覚の変化を共通の言葉で表すのは難しい。形や色なら言葉・文字で伝えられるのですが。なにか意味や価値があるわけでもない。ダイレクトに感覚だけの世界。

 一方、目で見る、つまり光。耳で聞く、つまり音、よりも体の一部(指)で物に触っているのだから、ずっとリアルな体験だ。

 また、硬度や比重の違いも、統合された、ひとつになった味わいどころです。とはいえ、そんなこと言っていても、現実は、見た目、テーブルの前でただボーッとしてるだけ。

 ・・・横道に逸れますが、外は冬枯れ、木々の葉が落ち空気の流れぐらいの風では物音もしない。ツルツル感に浸っていたらサラサラ小さな音が聴こえてくる。何の音? かたまって生えている葉蘭の葉が微風に揺られ擦りあっている音でした。関係ないことですが、葉蘭の大きくて、一年中青々とした葉は、刺身を盛るのにいい。

 スルーッッッッッッ→サラサラサラ→ググッ→ツルールーン(シカの角→ムクロジ→カルボン球→ヒスイの感触)と触り心地の変化を楽しむ。

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天の声/池波正太郎の映画論とマズローの自己超越

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 12月の快晴の朝、駒沢給水塔の近くを歩いていたときのこと。

 このあたりは高台の閑静な住宅街で夜遅くなると人通りは少ない。深夜、道路の反対方向からやってくるタヌキと鉢合わせすることがある。真正面から見るタヌキの顔は、一見、犬のポメラニアン、たてがみがあるような丸っこい輪郭をしている。

 タヌキって、かなり近ずかないと人に気づかないんですね。こっちは先に気づいて、このままタヌキとすれ違いになるのかな、と思いながらまっすぐ歩いていくと、やっと気づき、一瞬、間を置いてからくるりと向きを変えて、トントントンと去っていく。

 ネコやハクビシンのような敏捷さがない、むしろ鷹揚な動きなのがなんともおかしい。

 

 ・・・そうでした、朝、歩いていたときの話しです。庭にザボンの木を植えている家がある。二階の屋根ぐらいに成長している木でした。鮮やかな緑色で肉厚の葉、大きな黄色い実が枝からいくつも垂れ下がっている。

 それにしても、並外れて大きな実だ。 ハンドボールよりも大きく、バレーボールぐらいあるんじゃないか。真っ青な冬空と黄色い風船のような実のコントラスト・・・シュールな光景だなーと、足をとめて眺めていた。

 ちょうどそのときでした。唐突に、天から「バカー」と声が聞こえてきた。はっきり大きな声で「バカー」と一喝。 えっ、自分のこと? 

 周りを見上げるとヒマラヤ杉の高い枝にカラスがいた。このカラス、うまく鳴けないようで、カーと鳴こうとして、最初にくぐもった「ば」の音が出てしまい「バカー」と鳴いている。まったくふざけたカラスだ。

 う~ん、でも、これが天の声ってことなのか。

 

 池波正太郎の『映画を見ると得をする』にこんな一節がありました。1980年に発行された本で、文庫化されている。氏の映画と料理、とくに江戸時代の食について書いているエッセイは、寝る前、寝床で読むのにいい。すぐに眠ってしまうので数ページも進みませんが。

 以下、引用です。

 

 映画を観るということは「いくつもの人生を見る」ということだ。

 映画は何のために観るかというと、定義は別にないんだよ。山は何のために登るのかということと同じでね。

 なぜ映画を観たり、小説を読んだり、芝居を観たりするかというと、理屈では説明できないけれども、強いていえば、

(人間というのは、一人について人生は一つしかないから・・・)

ということでしょうね。

 だれしも一つの人生しか経験できないわけだ。・・・(略)

 ・・・人間というのは、自分の人生だけしか知らない。一つの人生しか知らないというのでは、やはり、さびしいわけだよ。だから、小説を読み、芝居や映画を観るんだよ。

 すぐれた映画とか、すぐれた文学とか、すぐれた芝居とかいうのを観るのは、つまり自分が知らない人生というものをいくつも見るということだ。もっと違った、もっと多くのさまざまな人生を知りたい・・・そういう本能的な欲求が人間にはある。

 

 この一節、妙な説得力があった。同感、そういう願望、よく分かるという感じ。

 例えば、どこかの会社に勤めていたとしても、運転手、エンジニア、自営業でも地方公務員でもなんでもいいですが、あるいは家庭環境、結婚、暮らしている地域、さらには性別、生まれた国、生まれた時代・・・人それぞれ千差万別ですが、一つの人生を生き死んでいく。

 現在の世界人口は約78億人、すべて別人。全ての人は、それぞれ一人だけ(当たり前)。

 人類が生まれてから現在まで、この世に生を受けた人間の総数は約1080億人だとか(2011年のアメリカのNPOの推計)。この1080億人もすべて別人、同じ人が二人いたなんてことはないはず。二度生まれた人は一人もいないはず。ビックバンで宇宙が始まってから、自分と同じ人間は一人もいないはず。直感的な確信だけど、たぶん正しい。イエスの復活や輪廻転生したという人についてはよく分からないのでとりあえずパス。

 池波正太郎の書いている「本能的な欲求」は、人間が生と死の間の有限の存在であること、全ての人は思春期ぐらいまでにそれを自覚することから生まれた欲求ではないか。どうあがいても有限でしかない生、分かっていても、納得していても、「やはり、さびしいわけだよ」という言葉、よく分かる。

 ・・・こんなこと書いてるからカラスに「バカー」と言われるのかも。

 その「本能的な欲求」を満たす代償行為の一つが映画を観ることなんでしょうね。もちろん、みんながみんなそれを自覚して映画を観ているとは思わないが、意識化していなくても本能的には、無意識的にはそういう作用が働いていると思う。

 

 映画の巧妙なところは、観ている人は物語に引き込まれていくうちに、過去の記憶や無意識を誘引され、自分を投影してしまうことが起きる。20世紀の初めに映画を発明した人たちは、そんな現象が起きるとは考えていなかったのではないか。

 映画監督のキューブリックは、映画を見ているときの人間は夢に近い体験をしていると言っていた。それは映画の中の物語に引き込まれ、感情移入している状態のときのことですが。

 「現実とフィクションの間には大きな開きがある。人間が映画を見ているとき、その体験は何よりも夢に近いものである。」(スタンリー・キューブリック)。 

 夢は、当然ながら覚醒時の現実とは違うけど、かといって空想、妄想ではないし、錯覚や幻覚でもない。自分の内面で起きたことなのだから、現実ではないが事実であることは確かだ。

 言葉では、なにげなく夢を「見た」と言っているが、窓の外の景色や部屋の壁、ドア、テーブルの上の皿やカップのような客観的な対象(物体)を見ているのではなく、夢は全て自分の内側の世界の認知なのですね。だから夢は、いわば鏡で自分を見ているようなもの。 

 鏡に写っている自分は、現実のありのままの自分の姿かというと、そうでもなく二次元像だし、左右が反転している。夢は意識化されていない過去や、もしかしたら「未来」をもごっちゃになって、デフォルメされた自分なのだと思う。

 自分なりに整理すると、映画に引き込まれているときの自分と、夢を見ているときの自分は、同じ何かで、ふだんは気づいていない、感じたり考えたりしている自分の奥に隠れている自分の源なのではないか。「本能的な欲求」はそこから生まれている。

 

 この「本能的な欲求」は、別の言い方をすると、アメリカの心理学者、マズローの説いている自己超越の欲求のことだと思っている。池波正太郎は自己超越なんてこと言ってないですが、結果的に意味しているのは同じだと思うわけです。

 マズローは人間のメンタルな成長パターンを定式化して、「欲求」の変化という視点から6つの階梯に分けている。肉体(体力)の成長、知能の成長とは異なるメンタル面、人間性と言ってもいいのですが、その成長パターンを考えていた。

 大雑把に言って、人間のいちばん底にある欲求は生きるための衣食住のような生理的欲求、それがクリアーできてから次の段階の欲求が生まれる。まあ、普通というかそれが自然の流れで、発想としては、衣食足りて礼節を知ると同じですね。

 衣食住が充足、満たされたとき、次に安全で安定した暮らし、さらに良好な人間関係、人から尊敬され、社会的名誉を得ることなどの欲求が生まれる。それらを4つの階梯に分類している。最後に5つ目の自己実現の欲求に至るとマズローは考えた。自己実現とは自分の資質、個性を十全に生かした人生といったところでしょうか。

 この時点で、マズローは人間のメンタルな成長の完成を自己実現にあると見ていた。

 大まかには現代の日本人も共通していると思うのですが、 20世紀の西欧市民社会をベースにしたユダヤアメリカ人、マズローの考えなので、日本人とは異なるところもあるように思える。

 日本だと否応なく地震や自然災害のことがあって、常になんとなく気にしている人は多いし、各地の原発、稼働していなくても周辺の人たちは気にしている。格差社会といわれて先行きを気にしている人も多い。こういう問題は、マルローの階梯では2つ目ぐらいのところで、なんというか切ないところです。

 

 その後、マズロー自己実現の次に6つ目の欲求として、自己超越があると付け加えた。晩年になって以前は知らなかった人間の欲求があることに気づいたわけです。アメリカ社会で成功者になってみて、そこが山の頂上だった思っていたのが、実はピークはもっと先にあることに気づいたといったところです。

 自己超越は個人の個を超えた人類の普遍的な類の領域に達するような生といった、ちょっと抽象的ですがマズローは、それを見据えていた。5つ目までの欲求は一般社会の価値観に収まっているけど、6つ目になると、心理学を超えた人間の霊性と接したような領域になる。自我(エゴ)の世界を超え、他利の心になっている。

 マズローは自分自身の内的な心の変化をそう解釈し、定式化したわけです。1960年代後半のことで、そのころのアメリカの時代状況も影響していたといわれている。

 これを人間一般のモデルにしたってことは、けっこう高望みしてるな、という印象。この考え方は、さらに後、トランスパーソナル心理学に引き継がれていく。

 池波正太郎の書いていたこと、人が一つの人生しか経験できない限界を超えたい、もっと多くの様々な人生を知りたい(=生きたい)という「本能的な欲求」はマズローの自己超越の欲求と同じことなんだなと思う。

 

 思うに、マズローの説いている6つ目の欲求は、豊かな社会に生まれた人間であることが前提条件になっている。日常生活の心配事のなくなった、満たされた境遇の人なんて、そんなにいないのではないか。ある意味、贅沢な欲求ともいえる。

 日本でトランスパーソナル心理学に惹かれる人たちが目についたのは、翻訳事情もあるのですが、ちょうど1980年代後半のバブル期のことだった。そういえば、チベット密教とバクテイ・ヨガをベースにして、その後、惨事を引き起こし解体していった教団が急成長したのも同じ時期だった。あの教義はまさに自己超越をウリにしていた。

 ・・・あのころは、私鉄沿線のどこの駅を降りてもフランス料理店が何軒もあったなーと思い出す。GDPアメリカを追い越し、21世紀は日本の世紀になると言ってる人たちもいた。日本のベルエポックの時代とでも言うんでしょうか。

 あの時代、マズローの6つ目の欲求が射程に入ってきた人が日本でもそれなりの規模で生まれていたのだと思う。その後、日本は失われた30年という時代になっていく。

 マズローは人間の6つ目の欲求を定式化した後、ほどなくして亡くなり、その母国アメリカにしても国内の経済格差が広がりトランプのような人が大統領になり、いまも社会の分裂(分解)過程が進行しているように見える。

 

 まあ、こういう話は社会状況にあてはめてあれこれ言っても、あんまり意味がないような気もする。それが人間にとって普遍的な願望(欲求)だとするなら、経済や社会の発展度とは別に、途上国であろうと先進国であろうと関係なく、気づく人、惹かれる人はいるだろうから。

 ということでは、マズローの階梯を上っていくのとはまた違う道、例えば華厳経の一即多多即一もありなのではないか。アリとキリギリスじゃなくてオセロやバックギャモン、双六みたいなノリ、苦しまぎれに捻り出して言ってるわけではないんです。

 あるいはシュタイナーが言っていたように、その方向にどれほど遠くまで歩いていけるかは、能力の問題が大きいかもしれないけれど、しかし、真摯にこれだと思ったことを貫き、他のことは成り行きにまかさればいいんじゃないか(シュタイナーは本気でそう言っていた)と、つまり能力よりは一途さだという、そういう道もあるだろうし。

 ふりだしに戻って、池波正太郎の映画を観るということは「いくつもの人生を見る」ということだという一節をそんなふうに受けとめている。

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イ-16戦闘機と坂口安吾と機能美

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 前回のブログ、椎の実の話しのなかで、大きくて丸っこい形の実を1930年代のソ連(ロシア)の戦闘機イ-16のようなイメージと書いた。

 上の写真は、1998年、ニュージーランドのワナカで開催された航空ショーのイ-16。なんだかオモチャの飛行機みたい。

 そういえば、坂口安吾もイ-16について、こんなことを書いてました。太平洋戦争中の文章です。

 

「 いつか、羽田飛行場へでかけて、分捕品のイ―十六型戦闘機を見たが、飛行場の左端に姿を現したかと思ううちに右端へ飛去り、呆れ果てた速力であった。

 日本の戦闘機は格闘性に重点を置き、速力を二の次にするから、速さの点では比較にならない。イ―十六は胴体が短く、ずんぐり太っていて、ドッシリした重量感があり、近代式の百米選手の体格の条件に全く良く当てはまっているのである。

 スマートな所は微塵もなく、あくまで不恰好に出来上っているが、その重量の加速度によって風を切る速力的な美しさは、スマートな旅客機などの比較にならぬものがあった。」(『日本文化私観』1942/昭和17年青空文庫に収録されています)

 

 そのとき安吾が見たのはノモンハン事件(1939年)のときに捕獲されたイ-16だと思われる。イ-16が開発されたのは、まだ複葉機の全盛期だった。そのころは世界最高速度を記録し、また、世界初の引き込み式の主脚を採用と画期的な戦闘機だった。

 しかし、当時、列強間では新戦闘機の開発競争が激しく、あっという間にプロベラ機の限界まで達してしまい、ジェット機の時代に入っていく。イ-16も安吾が見たころには、すでに時代遅れの戦闘機であった。

 ・・・ふと、こんな勘ぐりが生まれた。同じ年、三木清は『戦時認識の基調』で敵(アメリカ)の飛行機の機能を考えると日本が空襲されることもありうると書き、軍部から憎まれ文筆活動が出来なくなっている。まだミッドウェー海戦の前で、緒戦の優位にイケイケだった頃のこと。

 言論の自由がない中で、安吾のイ-16を持ち上げた説明はいわば当て馬で、本当はアメリカの新鋭戦闘機のことを示唆していたのかも。

 

 とはいえ、目の前を重量感のある金属の塊が凄いスピードで飛び去っていく迫力に安吾が圧倒されたのは伝わってくる。

 ・・・海外からの観光客が駅のホームから全速力で通りすぎる新幹線を見てAmazing!と歓声をあげている動画、Youtubeにあリますが、あんな感じでしょうか。

 安吾はそれを美しいと言っている。機械(=飛行機)の性能の進歩に美を見る、別の言い方をすると機能美、それを賛美する言葉が続く。

 同じ本の中で、機能美の実例として自分の目にした小菅刑務所(1929年竣工)とドライアイス工場と軍艦(停泊中の駆逐艦)の三つをあげている。

 

 「この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。」(同書)

 

 安吾の言っていることは、モダニズム建築と同じ考え方だなと思う。

 モダニズム建築の場合は、過去のゴシック建築アールヌーボーの美に対して、安吾の場合は、当時、法隆寺平等院を賛美する国粋主義的な美に対して、共に新しい美を提唱した。それは既成の美、旧来の伝統や権威に対するアバンギャルドであった。

 つけ加えると、モダニズム建築とは無関係、むしろ対極にあるようにみえる柳宗悦らの民藝も根源的には、同じ根っ子から生まれている。柳の場合は、庶民の生活で使われていた日用の陶磁器、漆器、染織り、木工品などの再発見、つまりそれまで誰も気づかなかった美を見つけるという形をとっているが、発想の根っ子は通底している。

 

 機能美の視点が斬新で画期的だったこと、それはそれでいいのですが、というか、新旧の構図としてはそうなんでしょうが、なんかハテナ? と引っかかるところがある。

 と言うのは、機能美という発想の根っ子には、20世紀の考え方、唯物論の匂いがするからです。要は、人間の精神が物質に引き寄せられている。シュタイナーだったらアーリマンの力が人間界に働いている表れと見たのではないか。

 

 ところで、現在、なんとなく美しい、とか美と言っているけど、かなり曖昧な言葉で困っている。大和言葉と漢語と明治以降の外来語の三つの意味が入り混じっていて茫洋としてるんですね。

 『枕草子』は、平安時代中期、だいたい1000年前に書かれたのですが、うつくしいという言葉は、小さくてかわいいもののことだった。小さいの意味には、サイズが小さいと年齢が幼いの両方が含まれている。

 現代でも日本のアイドルはこの線にそっていることは興味深い。

 漢字の「美」は、端折って言うと、姿形がよいもの、おいしいもののことで、そこから誰もが好んで、褒め称えるものといった広い意味を持っている。美食、美味、美酒と飲食に関わる言葉によく「美」が用いられているのは中国人のメンタリティに由来している。

 英語のBeautyから来ている「美」が現代の一般通念に近い。しかし、遡ると古代ギリシャラテン語からの意味を持っている言葉ですが、どうしたって翻訳語なので表層的な浅い意味にとどまっている。

 

 なんでそんなことに拘っているかというと、安吾がイ-16を美しいと言っているニュアンスは、美とはずれているように感じたからです。

 安吾は、勘違いしているのではないか? 機能美の形状、姿形とスピード+重量感のもたらすインパクトは別物なのではないか。安吾が感動したインパクトは、本能的なスリル感に近いものだと思えるので。

 安吾が「その重量の加速度によって風を切る速力的な美しさ」と書いているイ-16の美は、古の日本人が懐いていたカミに近い。日本のカミの属性のひとつに「カミは超人的な威力を持つ恐ろしい存在である」(『日本人の神』大野普)という特徴がある。荒振神といわれるのがそう。地震や雷はカミの顕現と見なされていた。台風の暴風雨を神風と呼んだのもそう。

 イ-16に魅せられた安吾は古の日本の感性でありながら、当時の日本を席巻していた形骸化した国粋主義の欺瞞性にうんざりする余り、自分の感動を機能美の文脈に閉じ込めてしまったのではないか。

 

「見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。」(同書)

 

 しごく健全な正論のようでありながらも、でも、こんなふうに言い切っちゃていいんだろうか? 

 例えば、芥川龍之介が命と取り換えてもつかまえたかったと書いた紫色の火花。雨の日、街頭の電線がショートしていた情景なのですが、最晩年の芥川の目にはこの上なく美しく見えた。

 その美は空虚かもしれないが、だからといって、人を打つことは決してないとは言えないのではないか。あってもなくてもどっちでもいいようなものなんて言えないのではないか。

 安吾の論旨は、明快な割り切り方はあの時代のソ連の御用哲学者のよう。禁教の教えを言い換えて伝えている韜晦のような感じ。戦時下の日本で自由を渇望していたはずなのが、その理想をスターリニズムに見出すとは・・・後から言うのは簡単ってこともあるでしょうが、前門の虎、後門の狼の間で難しい時代だったんだなと思う。

 

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