イ-16戦闘機と坂口安吾と機能美

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 前回のブログ、椎の実の話しのなかで、大きくて丸っこい形の実を1930年代のソ連(ロシア)の戦闘機イ-16のようなイメージと書いた。

 上の写真は、1998年、ニュージーランドのワナカで開催された航空ショーのイ-16。なんだかオモチャの飛行機みたい。

 そういえば、坂口安吾もイ-16について、こんなことを書いてました。太平洋戦争中の文章です。

 

「 いつか、羽田飛行場へでかけて、分捕品のイ―十六型戦闘機を見たが、飛行場の左端に姿を現したかと思ううちに右端へ飛去り、呆れ果てた速力であった。

 日本の戦闘機は格闘性に重点を置き、速力を二の次にするから、速さの点では比較にならない。イ―十六は胴体が短く、ずんぐり太っていて、ドッシリした重量感があり、近代式の百米選手の体格の条件に全く良く当てはまっているのである。

 スマートな所は微塵もなく、あくまで不恰好に出来上っているが、その重量の加速度によって風を切る速力的な美しさは、スマートな旅客機などの比較にならぬものがあった。」(『日本文化私観』1942/昭和17年青空文庫に収録されています)

 

 そのとき安吾が見たのはノモンハン事件(1939年)のときに捕獲されたイ-16だと思われる。イ-16が開発されたのは、まだ複葉機の全盛期だった。そのころは世界最高速度を記録し、また、世界初の引き込み式の主脚を採用と画期的な戦闘機だった。

 しかし、当時、列強間では新戦闘機の開発競争が激しく、あっという間にプロベラ機の限界まで達してしまい、ジェット機の時代に入っていく。イ-16も安吾が見たころには、すでに時代遅れの戦闘機であった。

 ・・・ふと、こんな勘ぐりが生まれた。同じ年、三木清は『戦時認識の基調』で敵(アメリカ)の飛行機の機能を考えると日本が空襲されることもありうると書き、軍部から憎まれ文筆活動が出来なくなっている。まだミッドウェー海戦の前で、緒戦の優位にイケイケだった頃のこと。

 言論の自由がない中で、安吾のイ-16を持ち上げた説明はいわば当て馬で、本当はアメリカの新鋭戦闘機のことを示唆していたのかも。

 

 とはいえ、目の前を重量感のある金属の塊が凄いスピードで飛び去っていく迫力に安吾が圧倒されたのは伝わってくる。

 ・・・海外からの観光客が駅のホームから全速力で通りすぎる新幹線を見てAmazing!と歓声をあげている動画、Youtubeにあリますが、あんな感じでしょうか。

 安吾はそれを美しいと言っている。機械(=飛行機)の性能の進歩に美を見る、別の言い方をすると機能美、それを賛美する言葉が続く。

 同じ本の中で、機能美の実例として自分の目にした小菅刑務所(1929年竣工)とドライアイス工場と軍艦(停泊中の駆逐艦)の三つをあげている。

 

 「この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。」(同書)

 

 安吾の言っていることは、モダニズム建築と同じ考え方だなと思う。

 モダニズム建築の場合は、過去のゴシック建築アールヌーボーの美に対して、安吾の場合は、当時、法隆寺平等院を賛美する国粋主義的な美に対して、共に新しい美を提唱した。それは既成の美、旧来の伝統や権威に対するアバンギャルドであった。

 つけ加えると、モダニズム建築とは無関係、むしろ対極にあるようにみえる柳宗悦らの民藝も根源的には、同じ根っ子から生まれている。柳の場合は、庶民の生活で使われていた日用の陶磁器、漆器、染織り、木工品などの再発見、つまりそれまで誰も気づかなかった美を見つけるという形をとっているが、発想の根っ子は通底している。

 

 機能美の視点が斬新で画期的だったこと、それはそれでいいのですが、というか、新旧の構図としてはそうなんでしょうが、なんかハテナ? と引っかかるところがある。

 と言うのは、機能美という発想の根っ子には、20世紀の考え方、唯物論の匂いがするからです。要は、人間の精神が物質に引き寄せられている。シュタイナーだったらアーリマンの力が人間界に働いている表れと見たのではないか。

 

 ところで、現在、なんとなく美しい、とか美と言っているけど、かなり曖昧な言葉で困っている。大和言葉と漢語と明治以降の外来語の三つの意味が入り混じっていて茫洋としてるんですね。

 『枕草子』は、平安時代中期、だいたい1000年前に書かれたのですが、うつくしいという言葉は、小さくてかわいいもののことだった。小さいの意味には、サイズが小さいと年齢が幼いの両方が含まれている。

 現代でも日本のアイドルはこの線にそっていることは興味深い。

 漢字の「美」は、端折って言うと、姿形がよいもの、おいしいもののことで、そこから誰もが好んで、褒め称えるものといった広い意味を持っている。美食、美味、美酒と飲食に関わる言葉によく「美」が用いられているのは中国人のメンタリティに由来している。

 英語のBeautyから来ている「美」が現代の一般通念に近い。しかし、遡ると古代ギリシャラテン語からの意味を持っている言葉ですが、どうしたって翻訳語なので表層的な浅い意味にとどまっている。

 

 なんでそんなことに拘っているかというと、安吾がイ-16を美しいと言っているニュアンスは、美とはずれているように感じたからです。

 安吾は、勘違いしているのではないか? 機能美の形状、姿形とスピード+重量感のもたらすインパクトは別物なのではないか。安吾が感動したインパクトは、本能的なスリル感に近いものだと思えるので。

 安吾が「その重量の加速度によって風を切る速力的な美しさ」と書いているイ-16の美は、古の日本人が懐いていたカミに近い。日本のカミの属性のひとつに「カミは超人的な威力を持つ恐ろしい存在である」(『日本人の神』大野普)という特徴がある。荒振神といわれるのがそう。地震や雷はカミの顕現と見なされていた。台風の暴風雨を神風と呼んだのもそう。

 イ-16に魅せられた安吾は古の日本の感性でありながら、当時の日本を席巻していた形骸化した国粋主義の欺瞞性にうんざりする余り、自分の感動を機能美の文脈に閉じ込めてしまったのではないか。

 

「見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。」(同書)

 

 しごく健全な正論のようでありながらも、でも、こんなふうに言い切っちゃていいんだろうか? 

 例えば、芥川龍之介が命と取り換えてもつかまえたかったと書いた紫色の火花。雨の日、街頭の電線がショートしていた情景なのですが、最晩年の芥川の目にはこの上なく美しく見えた。

 その美は空虚かもしれないが、だからといって、人を打つことは決してないとは言えないのではないか。あってもなくてもどっちでもいいようなものなんて言えないのではないか。

 安吾の論旨は、明快な割り切り方はあの時代のソ連の御用哲学者のよう。禁教の教えを言い換えて伝えている韜晦のような感じ。戦時下の日本で自由を渇望していたはずなのが、その理想をスターリニズムに見出すとは・・・後から言うのは簡単ってこともあるでしょうが、前門の虎、後門の狼の間で難しい時代だったんだなと思う。

 

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