今度はツグミがやってきた

f:id:alteredim:20220321164504j:plain

 前回、2月の下旬、ジョウビタキが来たあと、3月のはじめツグミが現れた。ともに秋、シベリア方面から日本に渡ってきて山野にいたのが、冬も終盤、山の餌が少なくなると平地に移動してくる。

 ジョウビタキツグミに春を感じる。壺中天の中に春が飛び込んできた。一般的には冬鳥ですが、東京に住んでいる自分の日常の中に現れるのはこの時期だけなので春の証になっている。ちょうど川津桜から蕗の薹(フキノトウ)が出てくるころと対応している。

 そういえば、江戸時代には、ホトトギスの初鳴きを聞いたってことが風流自慢になっていたとか。夏、ホトトギスと言うぐらいなので、初夏、見栄っ張りの江戸っ子の間で、誰が最初に初鳴きを聞いたか競っていたようです。どうも自分の感性は江戸時代あたりで止まっているような気がしている。

 

 ツグミは地面をピョンピョン跳ねるようにせわしなく動き回り、土の中の小さな虫を啄ばんでいる。少し前まで冬枯れの地面、生き物の兆候がなかったのに、地表がぬくんできたのか、よく見つけるものだ・・・そうか、これが啓蟄(冬籠りの虫が這い出てくる時期)ってことか。う~ん、ちょっと出来すぎのようですが、ミミズを捕まえてるのを見て納得。

 

 一見、ヒヨドリに似ているが、羽の赤茶と腹部の帷子(かたびら)のように見える模様が特徴。姿形とは別に、枝や地面にいるときの動作や飛び方も違うので、見慣れるとすぐ分かる。

 ツグミヒヨドリの見分け方、骨董というか、例えば古陶と同じで、何度も、何度も見比べること、そして互いの特徴、違いを、姿形だけでなく、動作や飛び方、鳴き声などひっくるめて全体としてつかむことだと思う。

 部分の違いにこだわるのを分析的思考とすると、そっちの方向に傾くとかえって分からなくなる。実際、判別するには曖昧なところがよくある。そんな訳で、対象を部分ではなく全体として捉える統合的な思考を働かせること・・・簡単な、当たり前のことをわざと難しく書いてるみたいで気が引ける。

 ツグミヒヨドリなら10個ぐらいのポイントを全体として掴むってことなのですが、別に難しいことではなく、人はふつうこうやって物を見ているんですね。だから何度も繰り返し見ていると自然に身についてくる。見た瞬間、直感的に分かるようになる。

 

 ヒヨドリにふれたので、ついでに今年、新しく気づいたこと・・・ヒヨドリがハナモモの蜜を吸いにやってきた。鳴き声は個性的で変幻自在だけど見た目は地味。でも、それがまた満開のハナモモと実によく合っているんですね。

 けっこう暴れん坊の鳥で、もっちりした花の枝が大きく揺れている。ハナモモは江戸時代の栽培品種、桜や梅よりも長い間、散らないので毎日、眺めている。

 コテコテのピンク爛漫の花とダークな茶色のヒヨドリ、組み合わせの妙です。メジロと白梅を静とすれば、こっちは動。どちらもいい。

  雪月花や花鳥風月、もともとは、唐の文化に由来している。白居易の詩がそう。唐では、雪(冬)はいい、月(秋)もいい、花(春)もいいと、パターン(種類)の列挙だったのが、日本では、花+鳥とか、雪+花+月のように組み合わせの妙になっている。

 雪月花だったら、桜の季節に雪が降り、月下の夜桜を愛でるとなる。花見と雪見と月見を一緒にする。季節、天気に月齢が関わっているので人為では成就しない。こういった趣向、マニアックというか贅沢なんですね。お金の贅沢ではなく自然の贅沢。

 そのあたり、漢心(からごころ)と大和心、いわば詩文の修辞の眼と美の眼の違いなのではないか。

 

 以前は、ジョウビタキツグミも庭で見かけることはなかった。庭でバードウオッチングができるようになるなんて、なんか変な感じ。住宅密集地で自然が戻ってきたわけでもないのに、それどころか一軒家の空き家だった敷地に新しく4軒の家が建ったり、マンションが建ったりして、住環境は、ますますチマチマしてきてるのに、どうして野鳥がくるんだろうか。

 

 ふと、二つほど気になっていることがある。近年、公園や神社の樹々は、みんな伐採、剪定され、下草、雑草の駆除が徹底化している。 公園に緑はあっても、そこは人間の空間で、野鳥の居場所ではなくなっている。そのことは、野鳥の種類が以前よりも少なくなっていることで分かる。当たり前のようにいたカワラヒワホオジロの姿が消えている。

 また、 以前は、街によくいたノラ猫がいなくなって、 猫は家の中で飼うのが一般的になっている。野鳥を捕食していた猫がいなくなった。

 2017年、オーストラリアの国内で毎日100万羽以上の鳥がペットや野生の猫に殺されているというレポートが公表されている。この数字は驚異的な規模で、野鳥の減少に猫の存在が関わっているようなのです。

 都会の人家で野鳥を目にするようになったのはこんな背景があるのではないか。

 なろほどね、冬鳥は本能で平地に移動してくるが、結局のところ居場所がないんで、それに猫もいなくなったしってことで、やってきたってことか。

 

 ・・・なんか、どうでもいいようなことを書いている気がしないでもない。この核戦争の危機(ロシアのウクライナ侵攻)に花鳥風月とはのん気な話だといわれそう。まあ、市隠の独り言なので。

 些細な話ですが、1962年のキューバ危機のときよりも、今回の方が危うい綱渡りをしているように思える。前々からの持論ですが、この世はB級世界なので、なんでも起こりうるんじゃないか。

 B級世界だってことは、アーリマンの力が人間界に及んでいるってことで、シュタイナーが言ってたことでもあるのですが。アーリマンは、比喩的に言えば精神寄生体みたいなもんですね。

 20世紀のはじめ地球の人口は15億人だったのがいまは77億人。また15億人ぐらいに戻っても、些細な話しなのかも。

 

 ☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。 http://alteredim.com