野ネズミとトマト
畑のトマトが赤く色ずき、毎朝、もう収穫かと見ていたのですが、気づいたら大きな穴があいていた。庭に畑を作り野菜を作っている。ウクライナやロシアのダーチャ生活の動画を見ているうちに自家菜園の真似事をしたくなった。
えっ、鳥? いつも来ているキジバトの仕業か。でも、よく地面を突いてはいたけど、枝になっているトマトを啄むとは考えづらい。木登りの出来ないタヌキが壁を越えてくるのは無理だし、ハクビシンかアライグマか?
これらの動物が近所を徘徊しているのは、それにアナグマ(これは桜、経堂の近く)がいるのは知っている。人間の活動している時間帯は隠れていて、寝静まったころ徘徊しているので、気づいていない人が多い。タヌキの棲家のすぐ近く、彼らの通路に面した住宅に住んでいるおばさんと雑談していて分かったことですが、タヌキの存在に全く気づいていないんですね。
ふと、思い出すのはメキシコ南部のジャングルを根拠地にしているサパテイスタ民族解放軍(EZLE)の人たちのこと。あの地域、一応、昼間はメキシコ政府の支配下にあるのだけど、夜になると先住民の反政府勢力サパテイスタ側の「領土」(?)になる。
二重権力っていうんでしょうか、昼間の「政府」と夜の「政府」、同じ空間に二つの政府がある。あんなカオス的状況を夢想している。
・・・横道に逸れますが、あの辺りグアテマラ国境に近いジャングルには吠え猿(ホエザル)がいて、体は小さいんですが、とんでもなく大きな声で唸る。ジャングルに埋れた遺跡には、けっこう大きなイグアナがいる。小川には1メートルぐらいのワニがいて土手でゴロゴロしている。
ホエザルは高い木の枝にいて、ギャーというかガオーというか強烈、獰猛な声で、とんでもない大音響が5〜6秒続く。100メートル以上離れていても音で動けなくなる。なんでも地上の動物でいちばん大きな声だとか。5キロ先でも聴こえる。こいつを動物園で飼育するのは無理。
対テロ用の非殺傷兵器に大音響で相手にショックを与え、動きを封じる投擲弾があるのですが、あれと同じ。ついでに、7月に起きた元首相の事件ですが、あの時、元首相の周りにいた警護の4人(SP一人、警官三人)が外れた一発目と命中した二発目の間の2秒ちょっとの間、全く動けなかったことが問題になっている。
要は、棒立ちになってたってことですが、あれは手製火薬の爆発音にやられちゃってたんですね。あの瞬間、警護員がサッと動けたらってのは一般論でしかないんです。ホエザルの声は140db、人間が音として聴こえる最大値に近いそうで、それ以上の数値になると失神してしまう。
ホエザルは、荘子の「無用の用」の生き物なんだなと思う。声があまりに大きすぎることから、捕獲されて動物園に閉じ込められることなく、ジャングルで平穏に暮らしていられるのですから。・・・ああ、何の話をしてたんでしょうか、話を戻します。
しかし、70~80センチの高さの枝についているトマトの実を、それも周りの枝を荒らさずに実だけ食べるなんて出来るんだろうか。
そんなことがあって、他のトマトの実に注意していたら、何日か後、正体が分かりました。昼下がり、トマトの実に何か小さな動物がくっついている。茶色っぽいリスのような姿。
野ネズミ(ハツカネズミ)でした。こちらに気づかず、実に乗って食べている。思わず撮った写真のうちの一枚が上の写真です。小さな体ながらジャンプ力があるとか。
見ていると、けっこうかわいい。春から育ててきたトマトで怒る気持ちがありつつも、かわいさの方が優って、まあ、いいかと、そんな気持ちになっていた。特に、つぶらな黒い目がかわいい。
「アパッチの涙」と呼ばれるアリゾナ産のオブシディアン(黒曜石)
オブシディアン(黒曜石)のような目。アメリカのアリゾナ州、ニューメキシコ州で採取されるオブシディアン、丸っこい涙の塊のような原石を「アパッチの涙」と呼んでいるあれに似ている。原石の表面の艶(ツヤ)は、濡れているような、涙目みたいに見える。
この石の名称は、アメリカが建国される前、ヨーロッパから来た白人、アングロサクソンに先住民が駆逐された歴史があるのですが、黒い目の先住民たちが流した涙に由来している。アメリカは、先住民のジェノサイドによって建国された国だった。カナダもメキシコも、南米の国々も先住民を駆逐して作られた国ということでは同じですが。
アメリカ先住民は、4~1.5万年前にシベリアから陸地だったベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に移住したモンゴロイド系の子孫でした。
どうもネズミというと、昔からネガテイブなイメージが固定化していた。 しかし、考えてみれば、野ネズミも都市部に生息するタヌキやハクビシン、アライグマ、アナグマと同じ「仲間」と見なすべきなんじゃないか。
ところで、平成のいつ頃からか、飼いネコを家の外に出さなくなった。路地、道端、家屋の塀や庇、屋根、以前は当たり前にいたネコの姿が消えていった。少し前のブログで、冬鳥のジョウビタキやツグミが庭に姿を現すようになったのは、野外にネコがいなくなったからではないかと書いた。
世田谷線の松陰神社前駅、軌道線という二両編成の「ちんちん電車」の通っている鄙びた駅で、踏切の遮断機の脇の草叢に野ネズミの巣がある。
昼間もけっこう大ぴらに動き回っていて、これも街からネコが消えたことによる新しい状況だ。また、ハクビシンが増えてきたのも同じ要因がある・・・くだらない話しかもしれませんが、自分にとっては大事なんで。
先日、踏切で待っていたとき、偶然、耳にした会話、ネズミを見た幼稚園ぐらいの女の子がお母さんに言っていた言葉が印象的だった。
「あっ、ネズミ。かわいい!」とお母さんに指差していた。
なるほどね、まっさら素直に、偏見のない目で見ると、かわいいんですね・・・全く当たり前のことを今になって気づく。
小さくて、かわいい・・・枕草子であげられている「うつくしきもの」に当てはまっている。清少納言が野ネズミを見たら「うつくしい」と書いたんだろうな。
昭和の高度成長のころ、既に都市化の進んでいたこの辺りにいた哺乳類といえば、コウモリ、モグラ、ネズミといったところで、その頃はタヌキやハクビシン、アライグマ、アナグマはいなかった。現在、コウモリ、モグラはほぼ絶滅。
これが令和の、21世紀前半の都会の野生動物(?)。ネズミや元はといえばペットの外来種の動物がメインの自然って変ですが、現況優先しかあり得ないので。
理想的な「自然」、それは頭の中のイメージとしてしか存在していない。人類は農耕を始めたころから自然を破壊しはじめ、現在、人間の関与していない自然は殆どなくなっている。結局、地球に人類がいる限り、折衷案的な、人工的な自然しかあり得ないんじゃないか。
いま動物園や小学校で「動物介在教育」なるものが行われている。情操教育の一環として、動物に触れあったり飼育をしている。また、学校教育とは別に、いろんな場所で、子供、大人を含めた野生動物観察も行われている。
なんでそんなこんなことしているのか? 欧米の受け売りでやりはじめたでは身も蓋もないですが、いま流行のSDGsにしてもジェンダー平等にしても、ほんとはみんなそうなんでしょ? でも、言ってることに納得してしまえば、違和感なく受け入れられるわけですが。
察するに、「動物介在教育」の底流には、いかに人間が自然、この場合は動物たちと切り離されて生きているか、その不自然さを修復しなければという衝動が起きているからではないか。
言葉としては、そういうことはいっていない。その目的や動機、つまりその底にある衝動は、集合的無意識なので、学会、文科省、教育委員会、NGOとかNPO、それぞれいろん語り口で言葉にしているでしょうが、自然からの乖離によって人類の内の人間性が危うくなっていることの修復として起きているんだと思える。
話しが面倒くさくなるんで、大まかな言い方ですが、人間性が危うくなっていると見ているのは、子供の教育に遡って考えていくと、例えば、ざっとAI化社会、親子関係、新自由主義、戦後77年の占領下体制の継続・・・まあ、いろいろ理由はあるでしょうし、交互に絡みあってるでしょうが、思い当たる節として自然と切り離された暮らしってことがあるのではないか。
教育現場で子供たちと接していて、はっきりつかめているわけではないけれど、思い当たる節がある・・・そんな想いを持っている人たちが少なからずいる。その想いを衝動と言ってるわけです。
人間は、人間だけの世界で、あるいは人間+AIだけの世界で成長していくのは、なかなか難しいように思える。もちろん、そんな世界でもちゃんと、というか適応して成長していく子供もいるでしょうが、全体としては難しいし、危うい。
多くの人々が犬やネコを飼ったりしているのも、ベランダにプランターを置いて植物を育てているのも、根っこには同じ衝動が働いているのではないか。犬やネコはペットで自然でも野生でもないし、ベランダの植物じゃあ・・・という疑問もあるかもしれないが、でも、それでもいいんです。この世は、現況優先の世界なので、次善の策でもいいんです。
いっそのこと、野ネズミ、タヌキ、ハクビシン、アライグマ、アナグマ、それにキョンやヌートリアなどを身近な野生動物観察の対象にしてみたらいいんじゃないか。
この場合、当然ながら、ふつう頭の中で想い描いている「自然」とはかなり違う。線路脇の雑木林にいるタヌキだったり、空き家を棲み家にしているハクビシンだったり、雑草の茂った河原、住宅地の崖と、美しい自然とは言い難い場所だし、見つけるには人間の往来している時間帯ではない時に出向かなければいけないのでけっこう大変かも。
また、動物園とは違うのだから相手と出逢うこと自体、簡単にはいかない。何度も空振りしても、もともとそんなものなんだと、肯定的に理解できるようになれればいいんじゃないか。
近くの公園に榎(えのき)の大樹が二本ある。夏の後半から初秋に幹の周りに赤い、深緋(こきあけ)色というか、小さな実が散らばるように落ちている。
榎の実を見ると、「桐一枚」で、連日の猛暑でも秋が近いんだなと感じる。
口にすると、ほんのり甘く、和菓子のアンコの味がする。でも、実は直径5ミリほど、中の種を除くと食べるところは、ほんの僅かしかない。
昔は子供が食べたりしていた。毎年、拾っているのですが、あまりに小さく、いくら集めても増えてる気がせず、途中でやる気が失せてしまう。
正岡子規は随筆「くだもの」の中で、一番小さいくだものとして榎の実をあげている。子規は榎の実に思い入れがあるようでこんな俳句も残している。明治のころは、子供たちにとって榎の実はお菓子みたいなものだったことが分かる。
一本に 子供あつまる 榎の実かな
榎の実 散る此の頃うとし 隣の子
今月のプロジェクトとして、知り合いに榎の実をパックして配っている。昨日、浅草の馴染みの店では大好評。半信半疑で口にして、ほんとにアンコの甘さだと、そんなびっくり感でウケました。
珍しいものをありがとう、貴重なものをありがとう・・・そんな言葉をいただいた。浅草の地元では、そうなんでしょうね。本来、どこにでもある木なのですが、どこにも実は売ってないってところがミソ。
縁のある人たちに、拾ってきた木の実をプレゼントし、自分で作ったキュウリやトマト、ナス、ゴーヤを配る。自分にとっては、喜んでもらえるってのが最大の「利益」です。
☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。
☆You Tubeの脱兎とモナカのおもしろ話し 浅草探検『塔と異界』後編
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