寒の銭湯、天の声、鼠小僧と世直し大明神

 この間、しばらくお休みしてた。とくに変わりなく過ごしてました。

 「昼の銭湯の味を覚えたら、立身出世しようなどとは夢にも考えられなくなる」・・・詩人の田村隆一が「ぼくの銭湯論」で書いている。新聞記事の孫引きですが、まあ、確かにね、言える、言えるという感じ。寒波が来たとニュースで騒いでいる今なんかは特にそう。

 露天風呂のある銭湯もあり、なにぶん都内で湯船は狭いのですが、それでも寒の時期がいちばん。冬の青空は、いくら見続けてもなにもない青い色の天。湯につかって見上げてる。どんより鈍色の空に低く垂れこめた黒雲が流れていくのもいい。雪の日なんかは最高。

 熱い湯と水風呂もいい、体の芯にジンジン効いてくる。ああ、浅草の蛇骨湯がなくなったのは、残念だったが、最近は稲荷町の寿湯にいっている。

 もちろん朝湯もいい。以前、江戸時代の「朝風呂丹前長火鉢」については書いてました。

 銭湯の朝湯は、世間とは縁がなくなったようなさっぱりした気分、その清々しさがいい。真冬の朝湯は、門松の青々しさがある。湯上りに、植込みの蝋梅の香りを聞いたりすると・・・稀にそんな機会があって・・・淡い甘さの香りと冷たい外気が絶妙に合ってるんですね。そういえば、寒い朝、上野の燕湯によく通ったもんです。

 

 昨日は久しぶりに三ノ輪の大勝湯にいってきた。ここは午前中からやっている。 真冬、湯気でモウモウとして、雲海の中にいるみたいなのがいい。 天窓から湯気に差し込む一条の朝の光、とてもいい。

 奥に寂れたというか、鄙びたというか、鉱泉宿の湯のような薄暗い一角がある。壁の裏は荒川線の線路。見えはしないんですが、隣に都電が走っていると思うと気分いい。そこで湯に浸かっていると、つげ義春ワールドにいるみたいで、すごくいい。

 

 家の近所だと、梅ヶ丘の山崎湯。正月、二日の初風呂はやっぱり銭湯じゃないと。菖蒲湯、柚湯もそう、銭湯じゃないと・・・要は、季節、季節の風情、雰囲気にひたるってことなんですが。

 どういうことかって? 現実は2023年の東京で、江戸なんてどこにもない。でも、心の中で、俳句や川柳にある江戸文化の銭湯を追体験している、そんな楽しみ方もあるんです。

 ここは、材木を燃やして湯を沸かしている。だからやけに熱い。今日日、こんな銭湯あるんだろうか。

 それにしても、山崎湯は一軒家が続く住宅地の入り組んだ路地の奥、 ほんとに(民家以外)何もないところに建っている。車の行き交う道路や商店街から離れているし、小田急線、世田谷線の駅からも遠く、あたかも隠れるように(?)営業している。

 ・・・関係ない話ですが、この銭湯の路地の角に平成の天皇夫妻がお忍びで訪れていた所があって、その時だけ周りは警護体制が敷かれてた。プライベートで堀に囲まれた孤島のような空間の外に出るなんてこと、さぞ貴重な体験だったんだろうなと思う。

 

 ・・・とりとめのない話で、昨年末、調布の駅前ロータリーを歩いていたときのことです。雲ひとつない冬の快晴、昼下がりの太陽が眩しい。向こうから4~5人の作業服姿のオヤジたちが、これから昼飯か、談笑しながら歩いてくる。

 ちょうど、すれ違いざま「実はね、牛丼に味噌汁ぶっかけると、うまいんだよ~」と話し声が聞こえた。

 そうかー、牛丼に味噌汁ぶっかけか、確かにうまいかも。子供の頃、よく食べた「ねこまんま(猫飯)」を連想した。自分が疎くて知らなかっただけで、みんな知ってることかもしれないが、妙にリアリテイがあって納得。

 以前、ある行者の人からこんな話しを聞いたことがある。この人は曹洞宗の坊さんだったけど、僧籍を出家して単独の一修行者になった人だった。

 その人曰く、雑踏の中で、偶然、見知らぬ人の喋っている言葉が耳に入ったら、それは、自分にとって何か意味のある啓示だと受け止める。 別に、聞き耳を立ててるわけではないので、偶然、聞こえてきたときに限ってのこと。 

 これは民間伝承の一つなのだけど、行者の人は、一種の神事のような、占いのような行として捉えていた。

 思うに、記紀の遥か以前、原始的な神道(の祖先)は、まじない、占いの類だったはずで、これはその名残なのではないか。つまり森羅万象、偶然の中に潜んでいる神意を読み解くということをしているわけです。別の言い方をすれば、人類が合理的思考をするようになる前には、それが一般的だった太古の呪術的思考をその人の内部で再現していることになる。

 

 一昨年、弦巻で人家の庭に実っていた大きな文旦(ブンタン)を、あまりにでっかい実なんで眺めていたら、頭上からカラスに「バカ~」と一喝されたことがある。

 ふつうのカラスのように鳴けないカラスで、「カア~」とならずに、くぐもって「バ・カ~ア」と鳴くんです。あれは自分に対する天声としか思えなかった。

 ってことでは、「 牛丼に味噌汁ぶっかけると、うまいんだよ~」も天声なのかも。折にふれ、思い返してはいろんな解釈をしてるが、機が熟してないようで、まだよく分からないでいる。

 

 とりとめのない話のついでに、YouTubeで「鼠小僧次郎吉」(1965年、大映)を観ていたときのことです。見はじめてすぐ、ちょとした用で、近所の家に届け物を持っていくことになった。とりあえず動画を一時とめ、家を出る。すぐに戻ってくるつもり。

 その家の玄関のブザーを押したが、応答がない。外出しているのか・・・とそのとき、玄関の横、下の物陰でガサ、ガサ不規則な音がする。姿は見えないが、動物のような気配。このあたりにアライグマが出没しているので、一瞬、期待感が膨らんだ。タヌキやハクビシンよりはレアなんで。

 近ずくと、残念、慌てて飛び出してきたのはハツカネズミでした。まあ、ハツカネズミもかわいい目をしているし、長い尻尾が愛嬌あって、いいんですが。

 家に戻って、映画の続きを観ようと、再生をクイックすると、そこからハツカネズミが天井から落ちてきて、畳の上を逃げるシーンになった。ほんの一瞬ですが長い尻尾が印象的・・・ネズミはどっちの方向に逃げるか分からないんで、何度も撮り直してるんだろうか?

 えーっ、またネズミ。シンクロニシティが起きている。

 鼠小僧の映画なので、動物のネズミを映したシーンがあっても、おかしくないんですが、拘っているのは、二つの別々の事象の時間的な一致(同時とはいえないにしても接近している)です。

 客観的に言えば、一方は現実のネズミで、もう一方は映画の中のネズミの映像なので、現実の出来事が重なって起きたというわけではない。リアルのネズミとバーチャルのネズミ、それを見た自分が、観察者といってもいいですが、頭の中でつなげている、偶然の中に意味を創り上げようとしている。虫の知らせなんかと同じ。

 そう、最初に直感の働きから始まるんですね。別の言い方をすれば、偶然、統合された認識・・・これは直感のことです・・・が起き、それを後からいろいろ解釈してる。

 この場合、偶然を仏教で言っている縁と捉えている。そして解釈とは、ある事象とそれとは無関係と思われる事象の間に相関関係があるかを察することになる。ここで因果関係ではなく相関関係というところがミソ。

 人間は時間を一方通行にしか認識できないから物事を因果関係で考えている。時間は前と後の違いとしか捉えられない。人間は時間に関しては一次元の直線の中に同化されているような存在。でも森羅万象を突き詰めていくと、それでは整合性が破綻するので虚数時間を唱える物理学者が出てきたりしている。

 人間はみんなそれを超えようとする試行錯誤をしている。それが意味を創り上げるってことなのではないか。

 現代では、ふつう偶然は確率の問題、それから物事は因果関係で考えるパターン、あるいは習性が身についている。それは、とりあえず身近な物質の世界では有効性があるんだけど、人間の世界・・・つまり個々人の人生に於いては、その有効性は限定的にならざるを得ない。それは千年前も千年後もたいして変わらないんじゃないか? 

 

  ところで映画の中の鼠小僧は、義賊、庶民のヒーローに描かれていた。大正時代の朝日平吾を非暴力主義者にしたような人物というか。まあ、鼠小僧は小説のフィクションですが。

 両者は同じようなモチベーション・・・万民の平等、富者を懲らしめ、貧民を救済する志しを持ち、共にそれを一人でやろうとした。目的は同じだが、その手段は異なっていた。鼠小僧は泥棒という手段で、朝日平吾は暗殺という手段で。

 朝日平吾といえば、あの山上徹也容疑者を連想します。今度は、手段が同じという連想で。

 連想ゲームみたいになってきましたが、次に上山容疑者といえば、当然、江戸時代中期、世直し大明神といわれた佐野政言が思い浮かんでくる。佐野政言と上山容疑者は、共に私怨が動機でありながらも、共にその行為によって社会的な世直しを引き起こしているのだから。

 佐野政言の墓は西浅草にあり、寺の壁の中にあるのですが、寺の前をよく通るので、気になっていた。ああ、鼠小僧の墓は、三ノ輪の近く(南千住)でした。

 

☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。

 http://alteredim.com