桃の花とカルマ・ヨーガ

 

 桃の花はいい。梅と桜の間で、存在感としては影が薄いが文字通り桃色・ピンクの花、真っ直ぐ伸びた枝にもっちり花がついて、派手さではダントツ。桃の前では梅も桜も霞んでしまう。

 それが詩歌の世界になると、もっぱら梅と桜。桃の影が薄いのは、派手で目立ちすぎて、伝統的な日本的情緒の世界には馴染まないからではないか。規格外の美というか、陶淵明が空想のユートピア桃源郷と名付けたのも、さらに桃源郷の隠語が性的な快楽のことなのも、桃の花のイメージ喚起力からきている。

 

 庭の花桃が満開のとき、ヒヨドリが蜜を吸いにやってくる。花桃の枝にヒヨドリがとまる図を見るのは、一年を通し、この時期だけ。ちょっとした稀覯だ。

 ヒヨドリは見た目、茶色っぽい地味な鳥ですが、けっこう暴れん坊で動きが派手、枝を嵐のように揺らし動きまわる。羽ばたきながら、ひっくり返って花弁を突いたりしている。鳥のアクロバットみたいだ。

 花と鳥、派手な色と派手な動きの組み合わせは、花鳥風月の図とは一味、いや二味、三味違った、はちゃめちゃな妙味があって、いいなと思ってる。

 

 花桃の枝は成長が早く、右に左に伸び広がり、一年で木の茂みが大きく膨らむ。毎年、剪定しなくてはならないが、蕾の膨らんだ枝、なにか活用できないか。

 ふと、思い浮かんだ。商店街の店に飾ってもらい、町中、桃の花だらけ・・・それは大げさにしても、そこかしこに花があったら面白いんじゃないか。

 枝を配ればいいだけのこと。花咲か爺さんをしてみよう。ちょっとイタズラ気分も混じっている。

 近所でボランテイア活動の野菜畑をやっているOさんに声をかけると、即、意気投合。応援してくれることになった。Oさんは、この町で飲み友達も多く、馴染みの店に顔が利く。なにより、面白がってやる気になっていることに、通じるものを感じ、嬉しかった。

 共感してくれる仲間ができると、気分的に盛り上がる。一人、頭の中で考えているときは妄想だったのが、この時点でささやかな共同性が生まれ、成功、失敗にかかわらず現実になった。

 

 枝を切っては、ここはと目星をつけたお店に持っていく。突然、桃の花の枝を持って店に現れ、受け取ってくれませんかは、変な話しなんですが、実物を見るとみんな喜んでくれた。花桃心理的効果、人を動かす力を実感。声を上げて感動してくれた人もいた。

 桃の色感には華があってゴージャス、客商売の場に映える。雰囲気を盛り上げる花なんですね。

 脚立に上って枝を切り、束ねて配りにいく。また切っては配り、5、6日で個人商店40ヶ所ほど、カフェ、レストラン、居酒屋をはじめ甘酒・日本茶・日本の豆菓子・コーヒー豆・氷屋さん・ケーキ・古本・絵の教室・北欧文具・童話の店などに配った。

 商店街を歩くと、あちこちの店先に、窓際に、ガラス越しに桃の花が目につく。華やかな桃色、目立つので遠くからでもすぐ分かる・・・愉快、愉快と一人ほくそ笑む。

 だからなに? と言われると困りますが、まあ、自己満足でいいんです。別に名乗ってやってるんじゃないし、人知れずほくそ笑む、そんな感じ。

 支出0円、収入0円。桃の花の非公然プロジェクト、面白かった。

 

 ところで、書いていてカルマ・ヨーガのことを思い出した・・・ここからは、桃の花とは全然、関係ない話になります。

 桃の花を配っていたのは、カルマ・ヨーガの行に似てるな。後から気づいた・・・唐突に意味不明なこと言ってると思われるかもしれませんが、自分の理解では、そういうことになるんです。

 カルマ・ヨーガについて、説明してくと長くなり、煩雑なので省きます。ヨーガと言っても、ふつう思い浮かぶ体操みたいな座禅みたいなヨーガではなく日常の行動、行為をヨーガとして行う、そんなことです。

 インドでは古来、いろんなタイプのヨーガがあって、カルマ・ヨーガはその中の一つ。

どのヨーガも目的は解脱。ヨーガはそれを成就するための手段なんですね。目的は同じだけど、手段はいくつもある。 千何百年か前、ヨーガ・スートラはそう説いている。

 仏陀も最初はヨーガの苦行(後世、ハタ・ヨーガになっていく流れ)を無理してやって体を壊し、心機一転、ジニャーナ・ヨーガに転向して成就した人だった。

 ああ、現代ではフィットネスだったり、目的からして違ってきてるんで、現況優先の世の中では、野暮なこと言ってるんですが。

 

 ふつう思い浮かべるヨーガ、その末裔がチベット密教のタントラとか、南伝仏教のヴィパッサナーとか、北伝の禅だったりするのですが、そういうのって袋小路に入っている(と思う)。

 どうして? っていえば、結局、産業革命以降、人間は汽車、自動車、電気、ガス、水道を使った文化的生活をするようになったことで、体(体質、生理、免疫系とか、たぶん神経系も。平均寿命も人口も)が変わってしまったことが大きい。

 いわゆるヨーガ、つまりハタ・ヨーガのことですが、それは原始的な暮らしをしていた時代の体に対応したもので、近代以降の文化的な暮らしをしている人間には通用しない・・・これはラーマクリシュナ(1836-1886)が言ってたことです。

 

 アマゾンのシャーマンにしてもそう。形は残っていても、人間の体が変わっているので、20世紀に入るころを境にシャーマン(呪術師)は力を失っていった。いまもペルーや南米の国々にシャーマンはいるが、なかなか難しい。

 ラーマクリシュナは19世紀のインドの人だったが、ヨーガ・スートラの中で有効性があるのはバクティ・ヨーガだと言っていた。

 そういえば、イスラム教は、教義をとっぱらうと、要はバクティ・ヨーガなんですね。目的と手段の関係でいえば、目的を捨象して手段を比較しての話しです。現在、イスラム教徒は世界で18億人ぐらいですか、これからさらに増加していくと予測されているが、それはバクティ・ヨーガの有効性を示しているのではないか。

 

 ラーマクリシュナから少し後のラマナ・マハリシ(1879-1950)はジニャーナ・ヨーガを推奨していた・・・中国、宋代の公案禅、つまり日本の臨済宗の禅はジニャーナ・ヨーガに似ている。

 ラマナ・マハリシもラーマクリシュナと同様、人間の変化を見据えて言ってたんだと思う。また、カルマ・ヨーガについても語っている。

 あるとき、確かアルナチャラの山道で、偶然、落ちていた木の枝を拾い、その場で丁寧に削って杖を作りあげた。完成したとき、ちょうど通りがかった少年にその杖をあげたという逸話がある。うろ覚えで書いてるので、おおよそというか、ポイントはそんなところです。

 要は、見返りを求めない、無執着の善行、それがカルマ・ヨーガだと言っている。

 この話しは、維摩経のヴィマラキールティ(維摩居士)の言ってる風変わりな菩薩の道、「道でないものを道とする」のと同じではないか。世俗のヴィマラキールティが持論の菩薩の道を説いて、仏陀の直弟子(声聞)たちを煙に巻くんですね。

 仏陀の直弟子といえば、キリスト教だと十二使徒にあたる・・・まあ同格というか、それを俗人(格下)のヴィマラキールティが、あんたがたは頭が硬いんじゃないの、こういう考え方もあるんだよとぶっ飛んだ持論を展開、直弟子たちは圧倒されちゃうわけです。

 整理すると、維摩軽(のエッセンス)=カルマ・ヨーガってことになる・・・なんか、新しい発見をしたような気になっている。そういえば、維摩軽は昔、一名・不可思議解脱経と呼ばれたりもしていた。

 ああ、誰も関心ないようなことタラタラ書いている。あんまりなんで、これぐらいということで。

 

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