美唄焼き鳥とソウルフード

 美唄(北海道)から届いたダンボール箱、開けると焼き鳥のパックが詰められていた。一緒に蕎麦も入っている。

 ふつうの焼き鳥とはちょっと違う。鶏のモツが五つ串に刺してある。それぞれ違う部位で、レバー、砂肝、ハツ、キンカン(卵になる前の「卵」)、端にタマネギ片が刺してある。味付けは、どれも塩味。

 焼いて口にすると、コリっとした弾力のある歯ごたえ、密にぴっちりした食感。こってり濃縮した旨味、コテコテの滋味が口の中にじんわり広がる。五味とは別次元で、味の存在感とでも言うか、強い、濃いい。

 酒の肴にいいだろうなと思いながら、ご飯のおかずにモサモサ食べている・・・下戸なので。当分、夕食に食べ続けることになっている。

 

 美唄焼き鳥(通称、モツ串)という地元名物らしい。暖かい蕎麦の上にモツ串をのせることもあるようだ。地元では、持ち帰りで家で食べることが多いとか。なにか行事があったとき、人をもてなすとき、親戚一同が集まったとき食べるとか、その土地の食文化の一部になっている。

 「美唄やきとりは、日本7大焼き鳥の一つ」とウィキペディアに書いてあった。七不思議とか七大陸、七草、七つ道具のような「名数」ですか、誰が選定したのか七大焼き鳥もあったのか。

 美唄について何も知らないので、どんなところかYouTubeにアップされていた動画を次々、観ていった。なるほどね、なんとなく分かってきました。この焼き鳥は、美唄の郷土食なんだ。

 

 美唄市は、北海道のほぼ真ん中、石狩平野の穀倉地帯にある街。冬はずいぶん寒いようで、マイナス20度になることもあるらしい。モツ串は体に動物性たんぱく質と油を補給するための寒冷地ならではの食べ物なんだろうな・・・なにぶん行ったことない土地なので勘違いして書いてるところもあるかもしれない。そのあたりご容赦ください。

 かって炭鉱街として栄えていた。最盛期の人口は約9万人、今は2万人を切っている。1960年代、産業のエネルギー源が石炭から石油に変わり炭鉱が閉山、以後60年間、人が減り続けてきた。

 動画を観ていると、夢の跡のような景色が映ってるいる。かって住宅街だった場所で、住む人がいなくなった廃屋が草木に覆われている。そのうち原野の森になっていくんだろうか。

 原野に街ができ、多くの人々が移り住んできて日々の暮らしを営み、それがまた原野に戻っていく姿、ある意味、数十年後の日本を、さらに22、23世紀の地球を見ているのかも。地球人口は早ければ今世紀中に、遅くとも22世紀の前半にピークに達し、それ以降、減少していく。

 ということでは、一つの街の過去を見ているようでいて、世界の未来を見ているのかもしれない。

 そんな現実がありながらも、美唄の地に愛着を持っている人たちが大勢いるのも見てとれる。動画をアップした人たちの思いが伝わってくる。いろんな困難、乗り越えていってほしい。

 

 この串モツの焼き鳥は炭鉱で働く労働者に好まれ、美唄に根づき、この地の郷土食になった。もともとは、肉体労働を支える料理だった。

 かってアメリカの黒人奴隷の人々が生み出した料理、ソウルフードと共通している。この焼き鳥は美唄ソウルフードなんだ。なんとなくモサモサ食べていたのが急に愛着が生まれてきた・・・プラシーボが効きやすいタチなんで。

 この場合、グルメや食い道楽、遊民、趣味人の物差しで、おいしいとか、まずいとか詮索するのは野暮。そんなこと是非に及ばず。パラダイムが違うんです。味にもヒナヤーナと大乗があるんです。

 鶏のそれまで捨てられていたような部位、安価な食材を用いて、 素朴で簡単、ボリュームがあり、がっちり精のつく食べ物、それが結果的においしかった。いいなと思う。

 

 深川飯なんかもそうだった。いまはお上品っぽく深川名物になってるけど、かっては人力車を引く重労働に従事していた車夫たちの好物のぶっかけ飯だった。

 明治の中頃、刊行された『最暗黒の東京』には、車夫たちの食い物、仕事の合間の昼飯に何を食べているのか記録されている。ざっと、丸三蕎麦、深川飯、馬肉飯、煮込み、焼き鳥、田舎団子などが列挙されているが、深川飯については、こんなふうに書かれていた。

 「深川飯ーーこれはバカ(貝/アオヤギ)のむきみに葱を刻み入れて熟烹し、客来れば白飯を丼に盛りてその上へかけて出す即席料理なり。一碗同じく一銭五厘、尋常の人には磯臭き匂ひして食ふに堪へざるが如しといえども、彼の社会(底辺の人々の暮らし)に於ては冬日もっとも簡易なる飲食店として大に繁昌せり」(松原岩五郎『最暗黒の東京』1893)

 現在だと丼一杯で300円ぐらいか。ふつうの人には磯臭くて食べれないと書かれている。それが約120年前の日本人の味覚。人の味覚は、いかようにも変わるんだなと思う。

 

 さらに横道に逸れます。海鞘(ホヤ)はどうしても食べれないと言ってた人がいた。たしかに奇異な味だと思う。ベトナム料理によく出てくるパクチーコリアンダー)、あれも苦手だという人がいる。

 ホヤにしろパクチーにしろ個性的な、癖のある味には、人により好き嫌いがある。だからこそ中庸な味にはない魅力があり病みつきになる人もいるんですね。

 不味いのを我慢しホヤを食べていた変わり者がいた。後日、また無理して食べている。やはり不味い。でも、また食べる。苦行みたいなもんです。どうしょうもなく不味いのによくやるもんだ。

 しかし、繰り返し食べてるうちに5回目ぐらいからなぜか美味しく感じられるようになってきたという。今では好物になっている。味覚でも回心(conversion)が起きるんですね。

 客観的には同じもの(ホヤ)が主観が、まあ自分がってことですが、変わることで違うものになる。自分が変われば世界が変わるって面白い。

 美唄焼き鳥もそういう面があるように感じている。地元エリアの人たちは、たぶん域外の人とは違うというか、より広い味覚が醸成されているのではないか。

 ベトナムではパクチーの他にもドクダミの生葉を食べている。いまのところ日本で食べるベトナム料理には出てこない・・・ふつうの日本人には抵抗感のある臭気、風味なので。

 いつの日か、ドクダミが大好きという日本人が現れるのだろうか。

 

 美唄焼き鳥と炭鉱街のつながりについては、ネットでもよく紹介されている。調べていくと、さらに過去に遡る伏線があるようです。

 美唄という地名は、アイヌ語「ピパオイ(沼の貝の多いところ)」に由来している。平地部に流れていた川沿いに川跡湖や沼があって、そこで貝を採ってたってことか。この辺り、というか北海道はアイヌの人々の地だった。

 明治になってから開発がはじまり、本州からの移民が入植するようになる。屯田兵と呼ばれ、小火器で武装し、家族で移住してきた。どこかアメリカの西部劇っぽい匂いがする。そう、アイヌと和人の関係は、北米の先住民インデイアンとヨーロッパからの移民、白人の関係を彷彿させる。

 冬は雪に閉ざされる原生林を開墾するのは大変なことで、たびたび食糧難にみまわれた。大木を切るのも、さらにその根っこ掘り出すのも、人力でやるしかない。畑を作るまで食べるものがない。なんとか喰いつないでいくための対策の一つとして、鶏のつがいを飼うようになったという。

 たしかに牛や豚の飼育に比べると鶏はまだ手軽。すぐに数を増やせるし、卵は食べれる。戦後の食糧難の時代、昭和20~30年代には、東京の住宅地でもよく家で鶏を飼っていたのを思い出す。

 アメリカではコロナのバンデミックの渦中に、自宅で鶏を飼うのがブームになった。いまは卵の値上がりで飼う人が続いているとか。・・・こういう風潮の核にあるのは、サバイバリスト、最近はプレッパーと言ってるような人たちの、国家や社会に頼らず自給自足でも食ってけるようなライフスタイルで、それを実践している人たちが少なからずいることが分かる。

 そういえば、ビル・ゲイツが途上国の貧困対策に鶏のつがいを飼うことを提唱していた。自身、何万羽だったか配っている。

 昔からのこういう知恵、日本ではかなり途絶えてる。1960年代の高度成長と都市部への人口移動が大きかったんだろうな。

 

 当然、鶏は貴重な食材なので内臓も捨てずに食べていた。それが地域の食習慣として根づき、美唄焼き鳥の原点になった(はず)。詳しく調べたのではないですが、開拓民の食→炭鉱労働者の食→郷土料理という流れが浮かび上がる。

 そうか、開拓民のご馳走の味なのか、今夜もまた食べました。

 

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