桑の実ジャムとクルディスタン

(右、桑の葉の上に実をのせた。赤い実はまだ完熟していない。完熟した実は甘く、そのまま食べるのもいい。左、今朝、枝から落ちてきた梅の実。黄色から紅色に完熟した実は柔らかく、そのまま食べると杏に似た、それでいて爽やかな味。桑も梅もフルーツなんですね)

 桑の実でジャムを作った。見た目、ブルーベリーのジャムに似ている。違いといえば、色に少し赤みがあるのと小さな粒々が混じっているところか。

 5月の連休がすぎたころから実が赤く色づいてきて、熟すと「桑の実色(くわのみいろ)」ーー暗い赤紫のことーーになる。色の名前になるほどインパクトのある赤紫。光にあたった小さな実のテリ(照り)は、シードパール(極小の真珠)をちりばめたヴィクトリア朝のブローチのよう(色は違うけど)。

 月の中頃になると熟した実が、枝からポッッと落ちてくる。そのまま食べてもいい。水気があって柔らかく、ほんのり甘い。酸っぱくないし、癖のない味。

 

 けっこう大きな桑の木で、二週間ほどの間、 毎日、採っていた。ピーク時は袋に詰めると、こぶしぐらいの量が採れた。朝夕の二回、集めては洗い、まとめて煮るを繰り返した。合計すると大きめのビン2つのジャムができた。 今年いっぱいはこれでなんとかなる。

  毎朝、パンにバターとジャム。同じジャムだと飽きてくるので、夏ミカン(要はマーマレード。春に作った)と梅(6月に作る)、それにこの桑の実のジャムを取っ替え引っ替えして食べている。

 そんなローテーションで年末までの分量ということは、日課のように実を集めた割には少ないとも言える・・・一本の桑の木から採ってるだけなので、これで上出来か。

 春先に作った蕗味噌もそうだった。蕗の薹をどっさり採ってきても、炒めて完成したときは、こじんまりした量になっている。また、5月は茶の生葉を摘んできて蒸し、手で練ってお茶を作ったのですが、こちらも完成したときは、せいぜいこんだけかという量だった。

 人に配ろうとしても、どれもたいした分量ではない。なので行き当たりばったり、そのとき縁のあった人に手渡している。

 

 桑の実は桑苺(くわいちご)とも言っている。俳句では、仲夏(だいたい6月)の季語。「 桑の実や花なき蝶の世捨て酒」(芭蕉)・・・このころの芭蕉、かなり気張ってたなと思う。

 桑の実のジャム、日本ではあまり馴染みがないけど、ヨーロッパではマルベリー(桑の実)ジャムと言ってよく見かける。かの地に、いろんなベリー(berry、草木の小さな果実)のジャムがあるのは、緯度の高いヨーロッパの植性から素材が限られていることが大きい。大航海時代、香辛料を求めインド、東南アジアまでやってきたのもそんな背景がある。

 日本の植生だと梅雨入りのいまごろ梅や枇杷が鈴なりに実っている。桑の実のようなベリー類よりも格段に大きな実、どんどんジャムが作れる。日本はヨーロッパよりも遥かに豊かだと思う(ジャム作りでは)。

 

 桑の実を水洗いしているとき、ときどき摘んで食べた・・・クルディスタンの山で食べていたのを想い出す。

 ザクロス山脈の南端、バグダードまで200キロぐらいの山の砦にいたときのこと。そこはペシュメルガクルド人民兵)の本拠地だった。イラン国境も近い。戦時だけど、険しい岩山に囲まれているので制空権を失ったイラクの政府軍は攻めてこれない。

 枯れた谷に桑の大樹があり、その下にタイ米の大きな袋が山積みになっていた。袋には国連の援助物資と表示してある。仮設の食料備蓄庫というか、野ざらしでとりあえず道端に置いてある。雨は降らないし、配給は小麦のチャパティを食べているので、米は予備のストックといった感じ。

 炎天下の日中、ペシュメルカの小隊が見張り番を兼ねて米袋の山の上でゴロゴロしている。桑の木は葉が大きく広い木陰ができ、また薄い葉なので風通しがよく、居心地がいい。

 常時、15、16人、寝転んでお喋りしてる。近代的な軍隊の規律はないが、江戸時代の侍(もののふ)のような戦士の気風があって、それによって集団が維持されている。

 日中、よくここに入り浸っていた。木陰の下、敷きつめた米袋の上に寝ているとひんやり心地いい。 米粒のザクザク感もいい。気温は高いが湿気がないので快適だ。

 蜂起する前は、中学校の先生、運転手、ホテルの従業員、エンジニア、脱走兵、学生、食堂や雑貨の店員と雑多な職業の人たち。ヨーロッパ人ふう、モンゴロイドふうもいて、顔つきも多様。小高い丘には中学生だけの部隊もいる。つまり大人から少年まで蜂起に加わっていた。

 指揮官以外、みんな普通の人々。まあ、クルドの人々は、もともと各家族でAK-47とクルドナイフ(民族衣装で正装するとき腰にさす三日月型の脇差)を持っているんで、最初から軍事組織化してるのが、普通のことなんだけど。

 みんな身一つ、私物はAK-47と手榴弾しか持っていない。電気もない場所ですることがない。夕方、草笛を聴かせてくれた人がいた。細長い葉の草を採ってきて、葉を二つ折りにし音を出す。心の鎮まるひと時だった。草笛は山の暮らしで無聊を慰める山岳民族の伝統だとか。

 

 寝転んでお喋りしてると書いたが、話しているのは、例えば、山の仮設診療所にいる医者は、実は全くの素人なんだとか、昨日、誰それのところに街から友人が尋ねてきたとか、人のうわさ話が多い。そのあたりは、世界中どこでも共通してるなと思う。

 

 ちょうど今頃の季節で、上から桑の実がポツン、ポツンと落ちてくる。みんな近くに落ちた実を摘んでは食べている。大樹なので次から次に落ちてくる。

 寝ながら上に口を開けている奴がいて、たまたま口の中に実が落ちてきたりもする。手を動かして拾わなくてもいい。無精の極みだけど、本人はどうだーと得意げに自慢してる。

 なるほどね、アラビアンナイトだったか(?)、昔の王様の晩餐風景にこんなのがあったな。運ばれてきた豪華な料理、葡萄を侍女が口に入れてくれる。王様は口を開けるだけ。

 この地の文化の底流には、こういうのを「理想」とする潜在意識があるんだろうな・・・現実の理想というよりは夢物語の理想。いわば夢の中の夢。リアルにいうと、明晰夢の中でさらに入れ子構造の夢を見ている。現実よりピュアーな、高次のユートピア的理想というか。

 

 近くの山すそにイチジクの大樹があって、イチジクの実も食べ放題。泉で冷やして食べる。泉は岩山のそこら中に湧き出ている。ここにいたとき生涯でいちばんたくさんイチジクを食べた。たぶん一生分以上食べたと思う。ゼリー状に熟れたイチジクの果肉のとろける甘さ、絶品だった。

 この辺りのイチジクの木は、枝が縦にも横にも伸びていて、ジャングルジムみたいに簡単に登れる。実を採るのが楽なのはいい。また、やけに葉が大きい。そういえば、エデンの園は、イラク南部のこの近くにあったと言われてる。 アダムとエバがイチジクの葉を身につけたというのも納得できる。

 

 山の砦を離れる前日、米の番をしている小隊にお別れの挨拶をしにいった。トルコ国境のドホークまで山のルートで一週間はかかる。この人たちと二度と会うことはないだろう。

 みんな別れを惜しんでしんみりしている。純情な人たちなんですね。その中の一人のことをいまもよく覚えている。

 インドのボリウッド映画に出てくる強盗団の頭目みたいな男がいた。いかにも悪人という顔つき、ひげ面、熊のように大柄。どうも印象よくないので、敬遠ぎみにしていた。

 その「強盗団の頭目みたいな男」がポツリともう行ってしまうのかと言った。なんと涙を流しているではないか。熊が泣いてる。

 そうかー、この人の心優しさに外見の先入観で人を見ていた自分を恥じた。

 言葉のコミュニケーションのこともあり、細かい話しをするには限界があったが、嘘偽りのない気持ちが伝わってきた。それ以上、言葉はいらない。ありがとう。

 日本にいたとき仕事の人間関係で見知っている人たちの中で、ここで自分がこの世から消えたとしても、こんなふうに涙を流す人がいるだろうか。消息不明で事務的に片づけられていくだけだろう。

 一期一会の「今」の方が、何十年の時間よりも久遠なこともあるんだな。その想いはいまも変わらない。

 

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美唄焼き鳥とソウルフード

 美唄(北海道)から届いたダンボール箱、開けると焼き鳥のパックが詰められていた。一緒に蕎麦も入っている。

 ふつうの焼き鳥とはちょっと違う。鶏のモツが五つ串に刺してある。それぞれ違う部位で、レバー、砂肝、ハツ、キンカン(卵になる前の「卵」)、端にタマネギ片が刺してある。味付けは、どれも塩味。

 焼いて口にすると、コリっとした弾力のある歯ごたえ、密にぴっちりした食感。こってり濃縮した旨味、コテコテの滋味が口の中にじんわり広がる。五味とは別次元で、味の存在感とでも言うか、強い、濃いい。

 酒の肴にいいだろうなと思いながら、ご飯のおかずにモサモサ食べている・・・下戸なので。当分、夕食に食べ続けることになっている。

 

 美唄焼き鳥(通称、モツ串)という地元名物らしい。暖かい蕎麦の上にモツ串をのせることもあるようだ。地元では、持ち帰りで家で食べることが多いとか。なにか行事があったとき、人をもてなすとき、親戚一同が集まったとき食べるとか、その土地の食文化の一部になっている。

 「美唄やきとりは、日本7大焼き鳥の一つ」とウィキペディアに書いてあった。七不思議とか七大陸、七草、七つ道具のような「名数」ですか、誰が選定したのか七大焼き鳥もあったのか。

 美唄について何も知らないので、どんなところかYouTubeにアップされていた動画を次々、観ていった。なるほどね、なんとなく分かってきました。この焼き鳥は、美唄の郷土食なんだ。

 

 美唄市は、北海道のほぼ真ん中、石狩平野の穀倉地帯にある街。冬はずいぶん寒いようで、マイナス20度になることもあるらしい。モツ串は体に動物性たんぱく質と油を補給するための寒冷地ならではの食べ物なんだろうな・・・なにぶん行ったことない土地なので勘違いして書いてるところもあるかもしれない。そのあたりご容赦ください。

 かって炭鉱街として栄えていた。最盛期の人口は約9万人、今は2万人を切っている。1960年代、産業のエネルギー源が石炭から石油に変わり炭鉱が閉山、以後60年間、人が減り続けてきた。

 動画を観ていると、夢の跡のような景色が映ってるいる。かって住宅街だった場所で、住む人がいなくなった廃屋が草木に覆われている。そのうち原野の森になっていくんだろうか。

 原野に街ができ、多くの人々が移り住んできて日々の暮らしを営み、それがまた原野に戻っていく姿、ある意味、数十年後の日本を、さらに22、23世紀の地球を見ているのかも。地球人口は早ければ今世紀中に、遅くとも22世紀の前半にピークに達し、それ以降、減少していく。

 ということでは、一つの街の過去を見ているようでいて、世界の未来を見ているのかもしれない。

 そんな現実がありながらも、美唄の地に愛着を持っている人たちが大勢いるのも見てとれる。動画をアップした人たちの思いが伝わってくる。いろんな困難、乗り越えていってほしい。

 

 この串モツの焼き鳥は炭鉱で働く労働者に好まれ、美唄に根づき、この地の郷土食になった。もともとは、肉体労働を支える料理だった。

 かってアメリカの黒人奴隷の人々が生み出した料理、ソウルフードと共通している。この焼き鳥は美唄ソウルフードなんだ。なんとなくモサモサ食べていたのが急に愛着が生まれてきた・・・プラシーボが効きやすいタチなんで。

 この場合、グルメや食い道楽、遊民、趣味人の物差しで、おいしいとか、まずいとか詮索するのは野暮。そんなこと是非に及ばず。パラダイムが違うんです。味にもヒナヤーナと大乗があるんです。

 鶏のそれまで捨てられていたような部位、安価な食材を用いて、 素朴で簡単、ボリュームがあり、がっちり精のつく食べ物、それが結果的においしかった。いいなと思う。

 

 深川飯なんかもそうだった。いまはお上品っぽく深川名物になってるけど、かっては人力車を引く重労働に従事していた車夫たちの好物のぶっかけ飯だった。

 明治の中頃、刊行された『最暗黒の東京』には、車夫たちの食い物、仕事の合間の昼飯に何を食べているのか記録されている。ざっと、丸三蕎麦、深川飯、馬肉飯、煮込み、焼き鳥、田舎団子などが列挙されているが、深川飯については、こんなふうに書かれていた。

 「深川飯ーーこれはバカ(貝/アオヤギ)のむきみに葱を刻み入れて熟烹し、客来れば白飯を丼に盛りてその上へかけて出す即席料理なり。一碗同じく一銭五厘、尋常の人には磯臭き匂ひして食ふに堪へざるが如しといえども、彼の社会(底辺の人々の暮らし)に於ては冬日もっとも簡易なる飲食店として大に繁昌せり」(松原岩五郎『最暗黒の東京』1893)

 現在だと丼一杯で300円ぐらいか。ふつうの人には磯臭くて食べれないと書かれている。それが約120年前の日本人の味覚。人の味覚は、いかようにも変わるんだなと思う。

 

 さらに横道に逸れます。海鞘(ホヤ)はどうしても食べれないと言ってた人がいた。たしかに奇異な味だと思う。ベトナム料理によく出てくるパクチーコリアンダー)、あれも苦手だという人がいる。

 ホヤにしろパクチーにしろ個性的な、癖のある味には、人により好き嫌いがある。だからこそ中庸な味にはない魅力があり病みつきになる人もいるんですね。

 不味いのを我慢しホヤを食べていた変わり者がいた。後日、また無理して食べている。やはり不味い。でも、また食べる。苦行みたいなもんです。どうしょうもなく不味いのによくやるもんだ。

 しかし、繰り返し食べてるうちに5回目ぐらいからなぜか美味しく感じられるようになってきたという。今では好物になっている。味覚でも回心(conversion)が起きるんですね。

 客観的には同じもの(ホヤ)が主観が、まあ自分がってことですが、変わることで違うものになる。自分が変われば世界が変わるって面白い。

 美唄焼き鳥もそういう面があるように感じている。地元エリアの人たちは、たぶん域外の人とは違うというか、より広い味覚が醸成されているのではないか。

 ベトナムではパクチーの他にもドクダミの生葉を食べている。いまのところ日本で食べるベトナム料理には出てこない・・・ふつうの日本人には抵抗感のある臭気、風味なので。

 いつの日か、ドクダミが大好きという日本人が現れるのだろうか。

 

 美唄焼き鳥と炭鉱街のつながりについては、ネットでもよく紹介されている。調べていくと、さらに過去に遡る伏線があるようです。

 美唄という地名は、アイヌ語「ピパオイ(沼の貝の多いところ)」に由来している。平地部に流れていた川沿いに川跡湖や沼があって、そこで貝を採ってたってことか。この辺り、というか北海道はアイヌの人々の地だった。

 明治になってから開発がはじまり、本州からの移民が入植するようになる。屯田兵と呼ばれ、小火器で武装し、家族で移住してきた。どこかアメリカの西部劇っぽい匂いがする。そう、アイヌと和人の関係は、北米の先住民インデイアンとヨーロッパからの移民、白人の関係を彷彿させる。

 冬は雪に閉ざされる原生林を開墾するのは大変なことで、たびたび食糧難にみまわれた。大木を切るのも、さらにその根っこ掘り出すのも、人力でやるしかない。畑を作るまで食べるものがない。なんとか喰いつないでいくための対策の一つとして、鶏のつがいを飼うようになったという。

 たしかに牛や豚の飼育に比べると鶏はまだ手軽。すぐに数を増やせるし、卵は食べれる。戦後の食糧難の時代、昭和20~30年代には、東京の住宅地でもよく家で鶏を飼っていたのを思い出す。

 アメリカではコロナのバンデミックの渦中に、自宅で鶏を飼うのがブームになった。いまは卵の値上がりで飼う人が続いているとか。・・・こういう風潮の核にあるのは、サバイバリスト、最近はプレッパーと言ってるような人たちの、国家や社会に頼らず自給自足でも食ってけるようなライフスタイルで、それを実践している人たちが少なからずいることが分かる。

 そういえば、ビル・ゲイツが途上国の貧困対策に鶏のつがいを飼うことを提唱していた。自身、何万羽だったか配っている。

 昔からのこういう知恵、日本ではかなり途絶えてる。1960年代の高度成長と都市部への人口移動が大きかったんだろうな。

 

 当然、鶏は貴重な食材なので内臓も捨てずに食べていた。それが地域の食習慣として根づき、美唄焼き鳥の原点になった(はず)。詳しく調べたのではないですが、開拓民の食→炭鉱労働者の食→郷土料理という流れが浮かび上がる。

 そうか、開拓民のご馳走の味なのか、今夜もまた食べました。

 

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奇木・臥竜の松

 

      (中央のヒトデ(?)みたいな塊が臥竜の松。後方に弁天堂が見える)
 連休中、用事ができ新小岩にいく。駅からはバス、「松本弁天」という停留所で降りる。江戸川区松本1丁目にある弁天さまなので松本弁天。

 用事はすぐ終わり、天気もいいし、薫風に誘われ付近を散策することにした。知らない街は面白い。

 最初に、風に気づいた。さーっと体を通り抜けるさざ波のような風。この辺りは、まわりに大きな川があって、それが東京湾からの海風の通路になっている。この風はいい。

 薫風に誘われと書いたけど、自分の基準では、薫風と呼べる風は年に一、二度しかない。「薫風」は、言葉の修辞、時候の挨拶に留まらない体感の一つだと思っているわけです。天気、温度、湿度とこの季節の南風、絶妙なバランスにより生起する爽やかさが薫風なんです。

 この日は、陽射しが強く、気温が上がっていて、爽やかさで薫風と言うにはちょっとだけど、まあ、いい線いってたので、一応、薫風としときます。

 

 住宅街の中にある松本弁天にいってみた。珍しい古木があるらしい。庭園みたいな開放的な感じのお寺、「黄檗宗 江島山 寿昌院」に弁天さまが祀られている。

 芝生の境内、小さな弁天池と弁天堂がある。どことなく異国風・・・昭和のころ建てられたコンクリートの簡素なお堂ですが赤く塗られた手すり、柱と白壁のコントラスト、中華街にありそうな、中国の明の時代に由来する黄檗宗の建築様式を模しているようだ。浅草の川向う、向島弘福寺黄檗宗の建築様式の寺(再建ですが)で、細かい話は省きますが、建築物としての原イメージが似てるんですよ。

 弁天さまは、七福神の一柱、もともとはインドの女神、サラスヴァティーで、水辺にいることになっている。だからよく池のほとりに弁天堂がある。

 境内を歩いていたときヤモリの鳴き声を聴いた。キ、キッという声、実に久しぶり。穴を掘ったみたいに窪んだ池に菖蒲が咲いている。池から牛蛙(ウシガエル)の汽笛のような鳴き声が聴こえてきた。これだけでも、ここに来た甲斐があった。

 境内の真ん中にもっこりした樹木の塊がある。大木や高木ではない。大正時代に大風で幹が折れたとのことで、上に伸びた幹はない。 でも、けっこう大きな塊といった感じで「高さ5メートル、東西16.5メートル、南北18.4メートル」とある(江戸川区の説明文)。

 巨大な盆栽というか、これが臥竜の松でした。近くに寄ると、太い幹が枝分かれしてグニュグニュ横に伸び、大きな洞(うろ)が黒々とした口を開けている。樹皮のブロックはウロコのよう。

 臥竜(がりゅう)ってのは、竜が横に伏してる姿のことで、臥竜の松と呼ばれる木は、珍しい姿から目を引くので、ここ以外にも全国各地にある。

 近くに高いビルや大きなマンションがないので、境内から見る空は広い。静かな住宅街。昼間、訪れたのですが、月夜の晩、同じ場所に立てば、昔の情景に近づける。余計なものが見えなくなることで見えてくるものがあるんです。闇の中に漆黒の臥竜を幻視できるはず。

 

 推定樹齢500年のクロマツ、江戸時代後期の文献に「奇木」とか、とても珍しい木と記録されている。200年ぐらい前は、こんな様子だったようです。『新編武蔵風土記稿』の挿絵。

 中央近くに三本の高い松の木がある。高さ27メートル、マンションの9階ぐらい。200年前の時点で既に古木だった。左隣は田圃。地面の近くに横に広がっている傘の形をした枝が描かれている。これが冒頭の写真の「ヒトデ(?)みたいな塊」、臥龍の松ですね。

 

 「直立の老松三本あり。その中央なる松、いかなるゆえにや、土地一尺より別に枝を生じて、傘の形に藩延せること八、九間四方もあるべし。尤も奇木というべし。」(『葛西志』1821年)

 

「社に向かい左方に老松三株並び立り、共に高さ十五間許、中の松樹地上三尺許より西へ指る大枝ありて、それより左右へ広がれること凡九間余に及へり、いとめつらかなる木なれば、その図を右に出せる境内図に載たり。」(『新編武蔵風土記稿』(1804から1829年に編纂)

 

 そのころこの辺りは、江戸湾の近くで、田圃が広がり、池や小川、水路の流れる土地だった(はず)。この辺り松本だけでなく、松江、松島、それから瑞江、春江、一之江と「江」、「松」のつく町名が多いのは、海のそばの河口近くで松林があったってことなんですね。

 近所の人の話では1964年のオリンピックの前ごろまでは、田圃と畑が半々で、レンコン畑の沼が点在していた。金魚の養殖池がいくつもあったとか。

 話を聞いていて面白いなと思ったのは、子供のころの昆虫の話し。トンボやミズスマシ、ゲンゴロウといった水生昆虫のことが多い。ふつう定番のクヌギ林のカブトムシやクワガタ、カナブンは出てこない。なるほどね、このあたりは水辺の地なんだ。

  この弁天さまの裏手は、現在、幼稚園がある。話によれば、そこはかって田圃で、ザリガニがうじゃうじゃいて、タコ糸に煮干しやスルメを結んで釣り上げていたとか。いまもその頃の情景を憶えている人たちがいる。そうか、60〜70年ぐらい前にここに来ればよかったのか、ちょっと残念。

 蓮や菖蒲の花の咲き乱れる水郷のような情景が目に浮かぶ。豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)の原風景ではないか・・・ひとり懐かしんでいる。

 そして、遠くからも見える、近隣の街道を通る旅人の目印になった松の高木が三本立っていた。根元近くの枝が横に伸び、まるで傘を開いたように見える。これは天下の奇観だったんだろうな。

 現在、まわりは住宅街、松の幹はなくなっているので、目に見える景色は往時とは全く違う。でも、目を開けているときは見えない、目を瞑ると見えてくる景色もあるんです。そう、最初に気づいた南風は昔と同じ風だし、想像して、江戸文化の見立てを援用して楽しんでいた。

 

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贅沢について・・・サン・テグジュペリと古本屋さん

(野イチゴの葉陰にたたずむ星の王子さま(人形)。今年はもう実が熟してきた。赤くなった実を採って、そのまま食べる。甘さは薄いが、柔らかく口の中でとろんと溶けるところがいい。)

 

「真の贅沢というは、ただ一つしかない。それは人間関係の贅沢だ。」(サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大学訳)

 サン・テグジュペリは『星の王子さま』で知られる作家、また飛行機の操縦士でもあった・・・というより本人の中では、生涯、飛行機乗りだった。スタートはプロペラの複葉機、その少し前まで、空を飛ぶことは冒険と見なされていた時代のこと。最期は、第二次大戦中、偵察機に乗っていて行方不明になっている。

 引用文は、南大西洋で墜落し亡くなった仲間を回想する文中にある文言で、よくいろんなところで紹介されている。人間関係の贅沢・・・読んですぐピンと来なくても、なにか後を引くところがあって、人の心をつかむ言葉だと思う。

 

 『人間の土地』(1939)は、空を飛ぶ機械(飛行機)を操作する人間と天候、地形、地理など自然界の関係を自身の体験に基づき考察したエッセイです。

 「人間」対「自然」の構図なら遥か昔から考えていた人がいる。それまで人の手の届く自然は、地表と海に限られていたが。

 この本の「人間+機械」対「自然・・・それも空に特化した自然」という構図は、20世紀的な世界を示している。 「人間+機械」という存在が出現したということでは、汽車や自動車もそう(地表に限られているが)。

 サン・ テグジュペリはそれを文学という形式で表現した。構図の中心にあるのが「人間」という要素なので、他の記述法(例えば科学や技術の)では表現しきれない。この人は絵(イラスト)も描いていた。

 そういえば、アニメ監督の宮崎駿はこの本から大きな影響を受けたと語っている。

 

 ふつう贅沢といえば、物質的な贅沢のことだ。それが当たり前の常識になっている。しかし、 サン・ テグジュペリは、そういう贅沢は、大したものではないと思っていた。この人は、子供の魂のまま大人になった純な、そして稀有な人だった。

 大人の世界、いろんな言い方ができるが、資本主義の世界と言ってもいいだろう。それが現実なのだから、人は、その中で生きるしかないのだけど、この人はそれを超えて、それに拘束されずに生きようとした。ということでは、自由の問題になるんじゃないか。

 この場合、つまり人の生に於いて、ポイントは、そういう生き方を実現できたか、できなかったかではなくて、その方向を目指したかどうか、志しの有無にある。

 ちょっとつけ足すと、 サン・ テグジュペリは恵まれた時代、恵まれた家に生まれた人だった。そのことは大きいと思う。人は生まれてくる時代と、そして生まれてくる国、民族、階層、境遇など選べないから。

 19世紀フランスの絶頂期(ベルエポックといわれる時代)の末、貴族の家系に生まれた人なので、贅沢とか豊かさについての価値観は、日本のふつうの庶民とはかなり違う。それでもというか、そういった違いがあるにしても、この人の言葉には、素朴に共感するものがある。

 自分のような貧民はふだんの生活で、贅沢(物質的な贅沢の方)はしていない。でも、そんなこと、大して気にしていないのも事実で、人生を振り返ると、広い意味で人間関係の贅沢こそ大きかったなと思っている。

 人間関係といっても、有名人、有力者、偉い人、お金持ちに知り合いはいない。だから、どこにでもいるような人たちのことで、その中にいました。人間関係の贅沢を享受させてもらった人が。

 

 ・・・横道に逸れますが、浅草に通っていたころ、あの街の何に、どこに惹かれていたかといえば、それはどこかの店とか場所よりは、出会った人たち、その人間関係が大きかった。昔からよく「浅草に美味いものなし」と揶揄されてたし、自分は下戸だし・・・ああ、あの街ならではの饐(す)えた場末感に魅了されてたことはあったけど。

 

 話を戻して、人間関係の贅沢といえば、こんなことを想い出した。例によって、エキセントリックな話ですが。

 以前、近所にあった古本屋さん、世田谷通りに面した小さな店で、 店主のAさんには、ずいぶん贅沢をさせてもらった。お金に換算できない、方外な贅沢だった。

 たまたま近くにその店があったということでは偶然の出会い・・・棚の一角に並んでいた本について、あれこれ話しているうちに親しくなっていった。

 この古本屋さんにいく度、いつも何時間も、そして何年にもわたり、息抜きの居場所にさせてもらった。そう、小さなアジール(聖域、自由領域)、極私的な解放区になっていた。古本は買わないのに、つまり、お客でもないのに、毎回、雑談につきあってくれた。いま振り返ると、よく出入禁止にならなかったものだ。 

 夕方、店を訪れ、夜の10時すぎまで。長時間なので、木の丸椅子を出してもらい居座ってる。お喋りは、主にこちらが聞き役で、Aさんの昔話を聞き、質問したり、感想を述べたり、話が面白くていつまでも帰らない。

 途中、来店したお客さんが本を買うときも、細い通路を塞ぐように丸椅子に座ったまま。営業妨害してたのと同じだった。今にして申し訳ない気持ち。

 

 真夏、熱帯夜の夜。台風が通過する中、当然ながらお客さんが一人もこない夜。師走の木枯らしの夜。いろんな夜があった。

 寒い夜、石油ストーブの灯油と古本の匂いが入り混じった独特な匂い・・・暖かくて静謐な、心の落ち着く匂い、忘れられない。周りを古本の棚に囲まれた狭い空間、目の前に平積みの古本の山、別に音楽もコーヒーもなにもないんだけど、居心地がいい。

 要は、Aさんの人生体験を聞いていたのだが、それが面白く、根掘り葉掘り尋ねては、途中で脱線して世間話になっていたりと、いつまでも終わらない。まるでアラビアンナイト千夜一夜物語みたいで、そうなると話を聞いている自分は、いわば王様ではないか!

 

 Aさんは、戦争中、一兵卒として満州ソ連国境近くに配属されていた。戦後は、共産党で活動、いろいろあって既に党から離れていた。本好きで、晩年になってから古本屋をはじめた。  

 Aさんは淡々とした口調で、厭世的でありながらユーモアがあり、受苦的な人でありながら漫談っぽく話す人だった。よく相手をしてくれたもんです。年齢差もあって、それにAさんの話を共感性を持って、面白がって聞く人間が珍しかったのだと思う。

 いまになって思うのですが、Aさんは隠者だったんですね。元革命家の隠者。なるほど、市隠ってのはこういうことなのか。思うに、そういう人、全国どこにでもいるはずで、でもほとんどの人が気づいていない、そういうことなんですね。

 

 敗戦(1945年)から50年代に入るころまでの日本は、国家の統治機構、ガバナンスが崩れていた。実際、アメリカ(GHQ連合国軍最高司令官総司令部)の占領下にあり、その時代の話しは、いわばなんでもありのアナーキーな世の中、荒廃と貧困と、そして青天井の自由と破天荒な出来事がごちゃごちゃになっていて面白いわけです。 

 どんな時代だったかというと・・・敗戦から9ヶ月ほど、都市部は食糧難で至る所にヤミ市が生まれていた。世田谷区のおばさんたちが、食べ物がないと皇居に押しかけた有名な事件があった。

 

 「1946(昭和21)年5月12日、配給米の遅配が続いていた東京・世田谷で「米よこせ区民大会」が開かれ、天皇に食糧危機を訴えようと皇居に向かってデモ。赤旗が初めて坂下門をくぐった。この1週間後の「飯米獲得人民大会」(食糧メーデー)では皇居前広場に約25万人が集まった。」(共同通信

 

 1949年の春には、9月に革命が起きる(起こす)と本気で言われはじめた。人民政府が出来る・・・都市伝説とかSNSで拡散している噂と違って、街角で職場で、ふつうの人々の間で囁かれていたとか。

 今では想像できない社会状況、でも、かって起きたことは、いつか再び起こり得る、そんな気もしている。やっぱり革命の話しがいちばん面白い・・・う~ん、なんと言えばいいのか、例えると、落ち武者から合戦の様子を聞いているといった感じ。敗れたにしても、部分的には勝ったりもしていたとか、あの時、こうすれば流れが変わっていたとか、敗軍の兵なので、将ではない分、好きに語ってもいい。

 そういえば、上記の9月革命説を盛り上げたのは、6月の徳球(後述)の発言だったのですが、翌月の7月から8月にかけて下山事件三鷹事件松川事件と立て続けに謎っぽい大事件が起きている。党のシンパでもあった松本清張は謀略説を唱えていましたが、物事が煮詰まってくると起きるんですね、こういうことが。

 ああ、またタラタラ書いている。Aさんの話し、書いていくときりがないし、実は、かなり忘れてしまっている。なので一つだけ紹介しときます。

 

 本で読むのと、当事者に直に聞くことの違いで、具体性というか、リアルさ、物事の枝葉の部分が面白い。大局的なレベルの話し、当時の綱領やソ同盟、コミンフォルム共産党・労働者党情報局)との関係(要は親分・子分関係)などは本や資料はたくさん出ているんでパス。

 Aさんは、あの徳球の話をするとき、身振り手振りで、表情や口調を真似しながら話す。徳田球一(略して徳球)はそのころ党の書記長、革命の首魁だった人物。戦前、政治犯として逮捕され18年間獄中に閉じ込められていて、つまり浦島太郎状態で米軍によって解放されるや革命の機運が日に日に盛り上がりつつあるその中心、指導者になった人。徳球本人の心象風景は、ジェットコースターに乗ってるような感じだったんじゃないか?

 ついでに、横道に逸れますが、「徳球」という呼び方は「隠語文化」(?)の中で生まれた。「徳球」の次に指導者になったのは「宮顕」という人、『日革展』(内輪の隠語。この人の主著だと思っている)という本を書いている。

 ミヤケンのニッカクテン・・・何て本か分かりますでしょうか?

 徳田球一という人は、ざっくばらんな性格の熱血漢だそうで、目をぐっと見開いて大きな怒声、手をドーンと振り下ろす様子をジェスチャーで再現するAさん。

 (Aさんの扮した)徳田球一の印象は、ファナティックな人ではない。独裁者でも官僚的な人でもない。庶民的な明るさというか、言い方を変えれば、粗な野趣があって、ちょっと滑稽(微妙に愛嬌)な感じがしないでもないけど。

 まあ、時代と状況の中では、そんなテンション、とにかくパワフルだったんだろうな・・・面白く聞いていたんですが、いま振り返ると、時代を見極める目、つまり物事が煮詰まるとこんな感じになってくんだなというリアルさ、感触を養ってもらったように思っている。

 

 

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桃の花とカルマ・ヨーガ

 

 桃の花はいい。梅と桜の間で、存在感としては影が薄いが文字通り桃色・ピンクの花、真っ直ぐ伸びた枝にもっちり花がついて、派手さではダントツ。桃の前では梅も桜も霞んでしまう。

 それが詩歌の世界になると、もっぱら梅と桜。桃の影が薄いのは、派手で目立ちすぎて、伝統的な日本的情緒の世界には馴染まないからではないか。規格外の美というか、陶淵明が空想のユートピア桃源郷と名付けたのも、さらに桃源郷の隠語が性的な快楽のことなのも、桃の花のイメージ喚起力からきている。

 

 庭の花桃が満開のとき、ヒヨドリが蜜を吸いにやってくる。花桃の枝にヒヨドリがとまる図を見るのは、一年を通し、この時期だけ。ちょっとした稀覯だ。

 ヒヨドリは見た目、茶色っぽい地味な鳥ですが、けっこう暴れん坊で動きが派手、枝を嵐のように揺らし動きまわる。羽ばたきながら、ひっくり返って花弁を突いたりしている。鳥のアクロバットみたいだ。

 花と鳥、派手な色と派手な動きの組み合わせは、花鳥風月の図とは一味、いや二味、三味違った、はちゃめちゃな妙味があって、いいなと思ってる。

 

 花桃の枝は成長が早く、右に左に伸び広がり、一年で木の茂みが大きく膨らむ。毎年、剪定しなくてはならないが、蕾の膨らんだ枝、なにか活用できないか。

 ふと、思い浮かんだ。商店街の店に飾ってもらい、町中、桃の花だらけ・・・それは大げさにしても、そこかしこに花があったら面白いんじゃないか。

 枝を配ればいいだけのこと。花咲か爺さんをしてみよう。ちょっとイタズラ気分も混じっている。

 近所でボランテイア活動の野菜畑をやっているOさんに声をかけると、即、意気投合。応援してくれることになった。Oさんは、この町で飲み友達も多く、馴染みの店に顔が利く。なにより、面白がってやる気になっていることに、通じるものを感じ、嬉しかった。

 共感してくれる仲間ができると、気分的に盛り上がる。一人、頭の中で考えているときは妄想だったのが、この時点でささやかな共同性が生まれ、成功、失敗にかかわらず現実になった。

 

 枝を切っては、ここはと目星をつけたお店に持っていく。突然、桃の花の枝を持って店に現れ、受け取ってくれませんかは、変な話しなんですが、実物を見るとみんな喜んでくれた。花桃心理的効果、人を動かす力を実感。声を上げて感動してくれた人もいた。

 桃の色感には華があってゴージャス、客商売の場に映える。雰囲気を盛り上げる花なんですね。

 脚立に上って枝を切り、束ねて配りにいく。また切っては配り、5、6日で個人商店40ヶ所ほど、カフェ、レストラン、居酒屋をはじめ甘酒・日本茶・日本の豆菓子・コーヒー豆・氷屋さん・ケーキ・古本・絵の教室・北欧文具・童話の店などに配った。

 商店街を歩くと、あちこちの店先に、窓際に、ガラス越しに桃の花が目につく。華やかな桃色、目立つので遠くからでもすぐ分かる・・・愉快、愉快と一人ほくそ笑む。

 だからなに? と言われると困りますが、まあ、自己満足でいいんです。別に名乗ってやってるんじゃないし、人知れずほくそ笑む、そんな感じ。

 支出0円、収入0円。桃の花の非公然プロジェクト、面白かった。

 

 ところで、書いていてカルマ・ヨーガのことを思い出した・・・ここからは、桃の花とは全然、関係ない話になります。

 桃の花を配っていたのは、カルマ・ヨーガの行に似てるな。後から気づいた・・・唐突に意味不明なこと言ってると思われるかもしれませんが、自分の理解では、そういうことになるんです。

 カルマ・ヨーガについて、説明してくと長くなり、煩雑なので省きます。ヨーガと言っても、ふつう思い浮かぶ体操みたいな座禅みたいなヨーガではなく日常の行動、行為をヨーガとして行う、そんなことです。

 インドでは古来、いろんなタイプのヨーガがあって、カルマ・ヨーガはその中の一つ。

どのヨーガも目的は解脱。ヨーガはそれを成就するための手段なんですね。目的は同じだけど、手段はいくつもある。 千何百年か前、ヨーガ・スートラはそう説いている。

 仏陀も最初はヨーガの苦行(後世、ハタ・ヨーガになっていく流れ)を無理してやって体を壊し、心機一転、ジニャーナ・ヨーガに転向して成就した人だった。

 ああ、現代ではフィットネスだったり、目的からして違ってきてるんで、現況優先の世の中では、野暮なこと言ってるんですが。

 

 ふつう思い浮かべるヨーガ、その末裔がチベット密教のタントラとか、南伝仏教のヴィパッサナーとか、北伝の禅だったりするのですが、そういうのって袋小路に入っている(と思う)。

 どうして? っていえば、結局、産業革命以降、人間は汽車、自動車、電気、ガス、水道を使った文化的生活をするようになったことで、体(体質、生理、免疫系とか、たぶん神経系も。平均寿命も人口も)が変わってしまったことが大きい。

 いわゆるヨーガ、つまりハタ・ヨーガのことですが、それは原始的な暮らしをしていた時代の体に対応したもので、近代以降の文化的な暮らしをしている人間には通用しない・・・これはラーマクリシュナ(1836-1886)が言ってたことです。

 

 アマゾンのシャーマンにしてもそう。形は残っていても、人間の体が変わっているので、20世紀に入るころを境にシャーマン(呪術師)は力を失っていった。いまもペルーや南米の国々にシャーマンはいるが、なかなか難しい。

 ラーマクリシュナは19世紀のインドの人だったが、ヨーガ・スートラの中で有効性があるのはバクティ・ヨーガだと言っていた。

 そういえば、イスラム教は、教義をとっぱらうと、要はバクティ・ヨーガなんですね。目的と手段の関係でいえば、目的を捨象して手段を比較しての話しです。現在、イスラム教徒は世界で18億人ぐらいですか、これからさらに増加していくと予測されているが、それはバクティ・ヨーガの有効性を示しているのではないか。

 

 ラーマクリシュナから少し後のラマナ・マハリシ(1879-1950)はジニャーナ・ヨーガを推奨していた・・・中国、宋代の公案禅、つまり日本の臨済宗の禅はジニャーナ・ヨーガに似ている。

 ラマナ・マハリシもラーマクリシュナと同様、人間の変化を見据えて言ってたんだと思う。また、カルマ・ヨーガについても語っている。

 あるとき、確かアルナチャラの山道で、偶然、落ちていた木の枝を拾い、その場で丁寧に削って杖を作りあげた。完成したとき、ちょうど通りがかった少年にその杖をあげたという逸話がある。うろ覚えで書いてるので、おおよそというか、ポイントはそんなところです。

 要は、見返りを求めない、無執着の善行、それがカルマ・ヨーガだと言っている。

 この話しは、維摩経のヴィマラキールティ(維摩居士)の言ってる風変わりな菩薩の道、「道でないものを道とする」のと同じではないか。世俗のヴィマラキールティが持論の菩薩の道を説いて、仏陀の直弟子(声聞)たちを煙に巻くんですね。

 仏陀の直弟子といえば、キリスト教だと十二使徒にあたる・・・まあ同格というか、それを俗人(格下)のヴィマラキールティが、あんたがたは頭が硬いんじゃないの、こういう考え方もあるんだよとぶっ飛んだ持論を展開、直弟子たちは圧倒されちゃうわけです。

 整理すると、維摩軽(のエッセンス)=カルマ・ヨーガってことになる・・・なんか、新しい発見をしたような気になっている。そういえば、維摩軽は昔、一名・不可思議解脱経と呼ばれたりもしていた。

 ああ、誰も関心ないようなことタラタラ書いている。あんまりなんで、これぐらいということで。

 

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冬の光とジェレメジェバイト

  2月も下旬、昼間の空気がぬるんできた。青空に白味がかっている。近所の河津桜は薄紅紫の花が満開。今年も来るかなと気になっていたジョウビタキが庭に姿を現した。春、シベリアの方にいく前に平地に移動してくるんだけど、ここには一羽だけでやってくる。 冬も終わりか。

 地面からは蕗(フキ)がもっこり芽を出している。芽はまだ柔らかく、早々、摘んできて味噌汁に入れた。・・・そうでした、今年は蕗味噌をたくさん作らなきゃ。50パックを目標に配りたい。

 

 写真は、天使が空を指差し、見よ、いま天が開いたと告げるが、みんな地面からせり出してくる光る物体を凝視していて相手にしない、そんなシーン・・・適当な思いつき。

 今年の冬、朝の光で眺めていたのは、まずシェリー酒の色のトパーズ結晶、気の遠くなるほど美しい・・・まあ、これは毎年、真冬の朝の「儀式」みたいになってるんで。それからアクチノライトの緑色の結晶、翡翠にはない眩い光沢がいい。そしてジェレメジェバイトの結晶。

 このジェレメジェバイトにしばらくハマっていた。六角柱の透明な結晶ですが、えらく小さい。なにしろこれまで世界各地で採集されている原石は数ミリの結晶がほとんど。

 小さくて指でつまんでるうち、どっかに紛れてなくなっちゃいそう・・・こういうのって非常に困る。世界最小の金貨ってのがあるんですが、近世インドの藩国の金貨で、以前、箱から移し替えてるうちに幾つか紛失している。ちょっとした隙にシャツの袖口にくっついてどっかにいっちゃったり、箱の窪みに紛れこんでしまったり、小さくて見つからない。

 ついでに一言。小さくて扱いに気をつかう上に、鉱物名もややっこしく気をつかう。ロシアの鉱物学者の名前に由来しているのですが、ドストエフスキーの小説の登場人物がカタカナ表記でややっこしいのを思い出す。

 

 朝の光に当たったジェレメジェバイトのピュアーな輝き・・・透明で屈折率の高い鉱物は、トパーズ、ペリル、コランダム、みんなそうですが、ジェレメジェバイトは角度によりスカイブルーに、それも成層圏の空の色が出てきて、ウワッと当たってしまった。網膜から松果体を直撃されたような、ええ、比喩ですが、そんな感じ。

 微小な針の先っぽ、小さな小さな六方晶の一面から成層圏の空が出てくるなんて、華厳経的というか、ハマってしまったわけです。

 

 実は、写真の真ん中に立っている小さな針みたいなのがジェレメジェバイト。あまりに小さく写真を拡大してもなんか興ざめ。単体じゃ何だか分からないし、それで周りにエキストラを並べてみた。

 天使は古代ローマの発掘品。2~3世紀に作られたもの。青銅で出来ていて、緑は錆の固着した色。天使といってるけど、正しくは、丸顔、幼児体型、小さな羽と、ローマ神話の恋の神(クピド)、つまりキューピッド。

 キューピーちゃん人形の背中にはちょうどこれと同じ小さな羽がついている。

 古代ローマと中国の漢の発掘品には青銅で作られたものがたくさんあって、集めていくときりがない。いまも新たに掘り出されたものが売りに出されてるし。時代区分では共に鉄器時代に入っているが日常の暮らしに定着していたことが分かる。まあ、10円玉も青銅だし、ずっとそうか。

 犬のようなアシカのような半透明の青い動物は、一見、ガラス細工のようでいてアクリル製、妙に軽い。たしか愛知の玩具工場だったか、昭和のころのデットストックで、骨董市の片隅に出ていた。二束三文のものでしたが、合成樹脂の柔らかな質感、トロンとしていて、かわいい。

 

 女性のフィギュアはフェーブと言って、フランスのケーキの中に入っている陶器の人形。ガレット・デ・ロワという、アップルパイの生地にアーモンドクリームともう一つ、なんだったか忘れちゃいましたがクリームの入ったケーキで、1月のキリストの生誕にちなんだお祝いのとき食べる。

 大きなケーキをカットして小分けしたとき、その人形が入ってる一片を得た人はラッキーということで、幸運のシンボルなんですね。

 フェーブは、昔はそら豆が入っていたのが陶器の人形になり、いまはいろんなアイテムがあって、どれもかわいいし、いかにもフランスといった配色。・・・もともと、そら豆の色感、つるんとした明るいグリーンにほんのり赤紫が混じっている、あれから来てるのではないか。

 近所にフランスのケーキとお菓子の店があり、そこで聞いた話しです。店主の方は向こうで20年ケーキを作っていたとか。蚤の市にはいろんなフェーブ並んでますよと言っていた。庶民の暮らしに馴染んでいるということでは、崎陽軒のシュウマイ弁当に入っている陶器の醤油容器・・・ヘタウマな顔して寝転んでる人形・・・みたいな存在なんですね。

 話していて、店主さんの中にフランスの文化が根付いているのを感じた。というのは、ここは犬も店の中に入っていいことになっている。向こうでは犬の散歩の途中、店に訪れたりしてるのが普通の光景だそうで、なるほどねと思いました。

 犬のJの散歩中、お店に寄ったので、日本とは違うんだなと思った次第。

 やっぱり個人でやってる店がいいなと思う。店主の職人の技が生きているのだから。規模の問題もありますが、そういう人の作った味に出会いたい。今は、大きな店やチエーン店とか有名店や老舗でも、みんな画一された味覚ばかり。

 この店でも1月にはガレット・デ・ロワを店頭に出していて、日本では誤食しないように、そら豆を入れているとのこと。

 

 小さくてかわいいって、もし平安人の清少納言がフェーブを見たら、うつくしいと見惚れたんじゃないか。ローマのキューピッドもアクリルの動物も、ジェレメジェバイトも・・・。

 寒い朝、よく眺めていたのですが、どうも反射光の冴えがゆるくなっているようで。冬の光が名残惜しい。

 

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寒の銭湯、天の声、鼠小僧と世直し大明神

 この間、しばらくお休みしてた。とくに変わりなく過ごしてました。

 「昼の銭湯の味を覚えたら、立身出世しようなどとは夢にも考えられなくなる」・・・詩人の田村隆一が「ぼくの銭湯論」で書いている。新聞記事の孫引きですが、まあ、確かにね、言える、言えるという感じ。寒波が来たとニュースで騒いでいる今なんかは特にそう。

 露天風呂のある銭湯もあり、なにぶん都内で湯船は狭いのですが、それでも寒の時期がいちばん。冬の青空は、いくら見続けてもなにもない青い色の天。湯につかって見上げてる。どんより鈍色の空に低く垂れこめた黒雲が流れていくのもいい。雪の日なんかは最高。

 熱い湯と水風呂もいい、体の芯にジンジン効いてくる。ああ、浅草の蛇骨湯がなくなったのは、残念だったが、最近は稲荷町の寿湯にいっている。

 もちろん朝湯もいい。以前、江戸時代の「朝風呂丹前長火鉢」については書いてました。

 銭湯の朝湯は、世間とは縁がなくなったようなさっぱりした気分、その清々しさがいい。真冬の朝湯は、門松の青々しさがある。湯上りに、植込みの蝋梅の香りを聞いたりすると・・・稀にそんな機会があって・・・淡い甘さの香りと冷たい外気が絶妙に合ってるんですね。そういえば、寒い朝、上野の燕湯によく通ったもんです。

 

 昨日は久しぶりに三ノ輪の大勝湯にいってきた。ここは午前中からやっている。 真冬、湯気でモウモウとして、雲海の中にいるみたいなのがいい。 天窓から湯気に差し込む一条の朝の光、とてもいい。

 奥に寂れたというか、鄙びたというか、鉱泉宿の湯のような薄暗い一角がある。壁の裏は荒川線の線路。見えはしないんですが、隣に都電が走っていると思うと気分いい。そこで湯に浸かっていると、つげ義春ワールドにいるみたいで、すごくいい。

 

 家の近所だと、梅ヶ丘の山崎湯。正月、二日の初風呂はやっぱり銭湯じゃないと。菖蒲湯、柚湯もそう、銭湯じゃないと・・・要は、季節、季節の風情、雰囲気にひたるってことなんですが。

 どういうことかって? 現実は2023年の東京で、江戸なんてどこにもない。でも、心の中で、俳句や川柳にある江戸文化の銭湯を追体験している、そんな楽しみ方もあるんです。

 ここは、材木を燃やして湯を沸かしている。だからやけに熱い。今日日、こんな銭湯あるんだろうか。

 それにしても、山崎湯は一軒家が続く住宅地の入り組んだ路地の奥、 ほんとに(民家以外)何もないところに建っている。車の行き交う道路や商店街から離れているし、小田急線、世田谷線の駅からも遠く、あたかも隠れるように(?)営業している。

 ・・・関係ない話ですが、この銭湯の路地の角に平成の天皇夫妻がお忍びで訪れていた所があって、その時だけ周りは警護体制が敷かれてた。プライベートで堀に囲まれた孤島のような空間の外に出るなんてこと、さぞ貴重な体験だったんだろうなと思う。

 

 ・・・とりとめのない話で、昨年末、調布の駅前ロータリーを歩いていたときのことです。雲ひとつない冬の快晴、昼下がりの太陽が眩しい。向こうから4~5人の作業服姿のオヤジたちが、これから昼飯か、談笑しながら歩いてくる。

 ちょうど、すれ違いざま「実はね、牛丼に味噌汁ぶっかけると、うまいんだよ~」と話し声が聞こえた。

 そうかー、牛丼に味噌汁ぶっかけか、確かにうまいかも。子供の頃、よく食べた「ねこまんま(猫飯)」を連想した。自分が疎くて知らなかっただけで、みんな知ってることかもしれないが、妙にリアリテイがあって納得。

 以前、ある行者の人からこんな話しを聞いたことがある。この人は曹洞宗の坊さんだったけど、僧籍を出家して単独の一修行者になった人だった。

 その人曰く、雑踏の中で、偶然、見知らぬ人の喋っている言葉が耳に入ったら、それは、自分にとって何か意味のある啓示だと受け止める。 別に、聞き耳を立ててるわけではないので、偶然、聞こえてきたときに限ってのこと。 

 これは民間伝承の一つなのだけど、行者の人は、一種の神事のような、占いのような行として捉えていた。

 思うに、記紀の遥か以前、原始的な神道(の祖先)は、まじない、占いの類だったはずで、これはその名残なのではないか。つまり森羅万象、偶然の中に潜んでいる神意を読み解くということをしているわけです。別の言い方をすれば、人類が合理的思考をするようになる前には、それが一般的だった太古の呪術的思考をその人の内部で再現していることになる。

 

 一昨年、弦巻で人家の庭に実っていた大きな文旦(ブンタン)を、あまりにでっかい実なんで眺めていたら、頭上からカラスに「バカ~」と一喝されたことがある。

 ふつうのカラスのように鳴けないカラスで、「カア~」とならずに、くぐもって「バ・カ~ア」と鳴くんです。あれは自分に対する天声としか思えなかった。

 ってことでは、「 牛丼に味噌汁ぶっかけると、うまいんだよ~」も天声なのかも。折にふれ、思い返してはいろんな解釈をしてるが、機が熟してないようで、まだよく分からないでいる。

 

 とりとめのない話のついでに、YouTubeで「鼠小僧次郎吉」(1965年、大映)を観ていたときのことです。見はじめてすぐ、ちょとした用で、近所の家に届け物を持っていくことになった。とりあえず動画を一時とめ、家を出る。すぐに戻ってくるつもり。

 その家の玄関のブザーを押したが、応答がない。外出しているのか・・・とそのとき、玄関の横、下の物陰でガサ、ガサ不規則な音がする。姿は見えないが、動物のような気配。このあたりにアライグマが出没しているので、一瞬、期待感が膨らんだ。タヌキやハクビシンよりはレアなんで。

 近ずくと、残念、慌てて飛び出してきたのはハツカネズミでした。まあ、ハツカネズミもかわいい目をしているし、長い尻尾が愛嬌あって、いいんですが。

 家に戻って、映画の続きを観ようと、再生をクイックすると、そこからハツカネズミが天井から落ちてきて、畳の上を逃げるシーンになった。ほんの一瞬ですが長い尻尾が印象的・・・ネズミはどっちの方向に逃げるか分からないんで、何度も撮り直してるんだろうか?

 えーっ、またネズミ。シンクロニシティが起きている。

 鼠小僧の映画なので、動物のネズミを映したシーンがあっても、おかしくないんですが、拘っているのは、二つの別々の事象の時間的な一致(同時とはいえないにしても接近している)です。

 客観的に言えば、一方は現実のネズミで、もう一方は映画の中のネズミの映像なので、現実の出来事が重なって起きたというわけではない。リアルのネズミとバーチャルのネズミ、それを見た自分が、観察者といってもいいですが、頭の中でつなげている、偶然の中に意味を創り上げようとしている。虫の知らせなんかと同じ。

 そう、最初に直感の働きから始まるんですね。別の言い方をすれば、偶然、統合された認識・・・これは直感のことです・・・が起き、それを後からいろいろ解釈してる。

 この場合、偶然を仏教で言っている縁と捉えている。そして解釈とは、ある事象とそれとは無関係と思われる事象の間に相関関係があるかを察することになる。ここで因果関係ではなく相関関係というところがミソ。

 人間は時間を一方通行にしか認識できないから物事を因果関係で考えている。時間は前と後の違いとしか捉えられない。人間は時間に関しては一次元の直線の中に同化されているような存在。でも森羅万象を突き詰めていくと、それでは整合性が破綻するので虚数時間を唱える物理学者が出てきたりしている。

 人間はみんなそれを超えようとする試行錯誤をしている。それが意味を創り上げるってことなのではないか。

 現代では、ふつう偶然は確率の問題、それから物事は因果関係で考えるパターン、あるいは習性が身についている。それは、とりあえず身近な物質の世界では有効性があるんだけど、人間の世界・・・つまり個々人の人生に於いては、その有効性は限定的にならざるを得ない。それは千年前も千年後もたいして変わらないんじゃないか? 

 

  ところで映画の中の鼠小僧は、義賊、庶民のヒーローに描かれていた。大正時代の朝日平吾を非暴力主義者にしたような人物というか。まあ、鼠小僧は小説のフィクションですが。

 両者は同じようなモチベーション・・・万民の平等、富者を懲らしめ、貧民を救済する志しを持ち、共にそれを一人でやろうとした。目的は同じだが、その手段は異なっていた。鼠小僧は泥棒という手段で、朝日平吾は暗殺という手段で。

 朝日平吾といえば、あの山上徹也容疑者を連想します。今度は、手段が同じという連想で。

 連想ゲームみたいになってきましたが、次に上山容疑者といえば、当然、江戸時代中期、世直し大明神といわれた佐野政言が思い浮かんでくる。佐野政言と上山容疑者は、共に私怨が動機でありながらも、共にその行為によって社会的な世直しを引き起こしているのだから。

 佐野政言の墓は西浅草にあり、寺の壁の中にあるのですが、寺の前をよく通るので、気になっていた。ああ、鼠小僧の墓は、三ノ輪の近く(南千住)でした。

 

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