桑の実ジャムとクルディスタン

(右、桑の葉の上に実をのせた。赤い実はまだ完熟していない。完熟した実は甘く、そのまま食べるのもいい。左、今朝、枝から落ちてきた梅の実。黄色から紅色に完熟した実は柔らかく、そのまま食べると杏に似た、それでいて爽やかな味。桑も梅もフルーツなんですね)

 桑の実でジャムを作った。見た目、ブルーベリーのジャムに似ている。違いといえば、色に少し赤みがあるのと小さな粒々が混じっているところか。

 5月の連休がすぎたころから実が赤く色づいてきて、熟すと「桑の実色(くわのみいろ)」ーー暗い赤紫のことーーになる。色の名前になるほどインパクトのある赤紫。光にあたった小さな実のテリ(照り)は、シードパール(極小の真珠)をちりばめたヴィクトリア朝のブローチのよう(色は違うけど)。

 月の中頃になると熟した実が、枝からポッッと落ちてくる。そのまま食べてもいい。水気があって柔らかく、ほんのり甘い。酸っぱくないし、癖のない味。

 

 けっこう大きな桑の木で、二週間ほどの間、 毎日、採っていた。ピーク時は袋に詰めると、こぶしぐらいの量が採れた。朝夕の二回、集めては洗い、まとめて煮るを繰り返した。合計すると大きめのビン2つのジャムができた。 今年いっぱいはこれでなんとかなる。

  毎朝、パンにバターとジャム。同じジャムだと飽きてくるので、夏ミカン(要はマーマレード。春に作った)と梅(6月に作る)、それにこの桑の実のジャムを取っ替え引っ替えして食べている。

 そんなローテーションで年末までの分量ということは、日課のように実を集めた割には少ないとも言える・・・一本の桑の木から採ってるだけなので、これで上出来か。

 春先に作った蕗味噌もそうだった。蕗の薹をどっさり採ってきても、炒めて完成したときは、こじんまりした量になっている。また、5月は茶の生葉を摘んできて蒸し、手で練ってお茶を作ったのですが、こちらも完成したときは、せいぜいこんだけかという量だった。

 人に配ろうとしても、どれもたいした分量ではない。なので行き当たりばったり、そのとき縁のあった人に手渡している。

 

 桑の実は桑苺(くわいちご)とも言っている。俳句では、仲夏(だいたい6月)の季語。「 桑の実や花なき蝶の世捨て酒」(芭蕉)・・・このころの芭蕉、かなり気張ってたなと思う。

 桑の実のジャム、日本ではあまり馴染みがないけど、ヨーロッパではマルベリー(桑の実)ジャムと言ってよく見かける。かの地に、いろんなベリー(berry、草木の小さな果実)のジャムがあるのは、緯度の高いヨーロッパの植性から素材が限られていることが大きい。大航海時代、香辛料を求めインド、東南アジアまでやってきたのもそんな背景がある。

 日本の植生だと梅雨入りのいまごろ梅や枇杷が鈴なりに実っている。桑の実のようなベリー類よりも格段に大きな実、どんどんジャムが作れる。日本はヨーロッパよりも遥かに豊かだと思う(ジャム作りでは)。

 

 桑の実を水洗いしているとき、ときどき摘んで食べた・・・クルディスタンの山で食べていたのを想い出す。

 ザクロス山脈の南端、バグダードまで200キロぐらいの山の砦にいたときのこと。そこはペシュメルガクルド人民兵)の本拠地だった。イラン国境も近い。戦時だけど、険しい岩山に囲まれているので制空権を失ったイラクの政府軍は攻めてこれない。

 枯れた谷に桑の大樹があり、その下にタイ米の大きな袋が山積みになっていた。袋には国連の援助物資と表示してある。仮設の食料備蓄庫というか、野ざらしでとりあえず道端に置いてある。雨は降らないし、配給は小麦のチャパティを食べているので、米は予備のストックといった感じ。

 炎天下の日中、ペシュメルカの小隊が見張り番を兼ねて米袋の山の上でゴロゴロしている。桑の木は葉が大きく広い木陰ができ、また薄い葉なので風通しがよく、居心地がいい。

 常時、15、16人、寝転んでお喋りしてる。近代的な軍隊の規律はないが、江戸時代の侍(もののふ)のような戦士の気風があって、それによって集団が維持されている。

 日中、よくここに入り浸っていた。木陰の下、敷きつめた米袋の上に寝ているとひんやり心地いい。 米粒のザクザク感もいい。気温は高いが湿気がないので快適だ。

 蜂起する前は、中学校の先生、運転手、ホテルの従業員、エンジニア、脱走兵、学生、食堂や雑貨の店員と雑多な職業の人たち。ヨーロッパ人ふう、モンゴロイドふうもいて、顔つきも多様。小高い丘には中学生だけの部隊もいる。つまり大人から少年まで蜂起に加わっていた。

 指揮官以外、みんな普通の人々。まあ、クルドの人々は、もともと各家族でAK-47とクルドナイフ(民族衣装で正装するとき腰にさす三日月型の脇差)を持っているんで、最初から軍事組織化してるのが、普通のことなんだけど。

 みんな身一つ、私物はAK-47と手榴弾しか持っていない。電気もない場所ですることがない。夕方、草笛を聴かせてくれた人がいた。細長い葉の草を採ってきて、葉を二つ折りにし音を出す。心の鎮まるひと時だった。草笛は山の暮らしで無聊を慰める山岳民族の伝統だとか。

 

 寝転んでお喋りしてると書いたが、話しているのは、例えば、山の仮設診療所にいる医者は、実は全くの素人なんだとか、昨日、誰それのところに街から友人が尋ねてきたとか、人のうわさ話が多い。そのあたりは、世界中どこでも共通してるなと思う。

 

 ちょうど今頃の季節で、上から桑の実がポツン、ポツンと落ちてくる。みんな近くに落ちた実を摘んでは食べている。大樹なので次から次に落ちてくる。

 寝ながら上に口を開けている奴がいて、たまたま口の中に実が落ちてきたりもする。手を動かして拾わなくてもいい。無精の極みだけど、本人はどうだーと得意げに自慢してる。

 なるほどね、アラビアンナイトだったか(?)、昔の王様の晩餐風景にこんなのがあったな。運ばれてきた豪華な料理、葡萄を侍女が口に入れてくれる。王様は口を開けるだけ。

 この地の文化の底流には、こういうのを「理想」とする潜在意識があるんだろうな・・・現実の理想というよりは夢物語の理想。いわば夢の中の夢。リアルにいうと、明晰夢の中でさらに入れ子構造の夢を見ている。現実よりピュアーな、高次のユートピア的理想というか。

 

 近くの山すそにイチジクの大樹があって、イチジクの実も食べ放題。泉で冷やして食べる。泉は岩山のそこら中に湧き出ている。ここにいたとき生涯でいちばんたくさんイチジクを食べた。たぶん一生分以上食べたと思う。ゼリー状に熟れたイチジクの果肉のとろける甘さ、絶品だった。

 この辺りのイチジクの木は、枝が縦にも横にも伸びていて、ジャングルジムみたいに簡単に登れる。実を採るのが楽なのはいい。また、やけに葉が大きい。そういえば、エデンの園は、イラク南部のこの近くにあったと言われてる。 アダムとエバがイチジクの葉を身につけたというのも納得できる。

 

 山の砦を離れる前日、米の番をしている小隊にお別れの挨拶をしにいった。トルコ国境のドホークまで山のルートで一週間はかかる。この人たちと二度と会うことはないだろう。

 みんな別れを惜しんでしんみりしている。純情な人たちなんですね。その中の一人のことをいまもよく覚えている。

 インドのボリウッド映画に出てくる強盗団の頭目みたいな男がいた。いかにも悪人という顔つき、ひげ面、熊のように大柄。どうも印象よくないので、敬遠ぎみにしていた。

 その「強盗団の頭目みたいな男」がポツリともう行ってしまうのかと言った。なんと涙を流しているではないか。熊が泣いてる。

 そうかー、この人の心優しさに外見の先入観で人を見ていた自分を恥じた。

 言葉のコミュニケーションのこともあり、細かい話しをするには限界があったが、嘘偽りのない気持ちが伝わってきた。それ以上、言葉はいらない。ありがとう。

 日本にいたとき仕事の人間関係で見知っている人たちの中で、ここで自分がこの世から消えたとしても、こんなふうに涙を流す人がいるだろうか。消息不明で事務的に片づけられていくだけだろう。

 一期一会の「今」の方が、何十年の時間よりも久遠なこともあるんだな。その想いはいまも変わらない。

 

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