今度は、箕とサンカ文字

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 前回、アイヌ文字の話しでしたが、ついでにサンカ文字のことも。上の写真、サンカ(山窩)研究で知られた三角寛氏の作った箕(み)。 作ったといっても、昭和32年ごろ三角氏が竹細工の職人さんに依頼し、竹を編み字を入れてもらった、いわば製作指導したものです。

 幅8センチほどの小さなもので、実用の農具ではなく民芸品ですね。 中央に書かれている絵文字みたいなのがサンカ文字。 下にサンカ文字の表を敷いてあります。

 もうずいぶん前になる、三角氏の親族の方が展示会を開いたとき購入しました。そのとき聞いた話しでは、長い間、茶箱の中に大量に詰められたまま置かれていたのが見つかった、ということでした。 たしか一つ1000 円ぐらいだった。

 自分もまた、しまいこんでたのですが、アイヌ文字の話しを書いていて、そうだ、こんなものもあったっけと思い出した。

 作ってから半世紀以上経っているはずですが、しっかりと編まれていて、たわんだり、ほつれたりしていない。

 表と見比べて「ひ」、「は」、「し」は分かりますが、それ以外は曖昧な感じです。縦に読むのか、横に読むのか、右から左か、左から右かとか、そういうこともよく分からない。

 アイヌ文字は、文字表を見た第一印象として確かに文字だと思いましたが、サンカ文字の方は、符丁のように見える。文字を組み合わせて文章を作るには、一文字、一文字書くのが煩雑で無理があるように思えるのですが。

 

 サンカには独自の文字がある。それは、ひらがな、カタカナや漢字などとは異なる文字で、日本に漢字が伝わる以前にあった神代文字と何らかのつながりをうかがわせる・・・一頃、そんな話しを書いた本が次々と出て、喧々諤々、盛り上がりました。   しかし、調べていくうちに、どうもサンカという存在自体が三角氏の創作というか嘘八百だったのではないかという疑いが深まり、話しが萎んでしまった・・・現状は、そんなところではないでしょうか。

 三角寛という人は、UFOのアダムスキーとよく似ている。ふたりとも、それぞれUFO(宇宙人)、サンカといった謎の存在とコンタクトしていると言って世間の注目を集めて本を売りました。謎の存在とコンタクトできるのは自分だけ、秘密を知っているのは自分だけというのも同じ。要するに、言葉巧みに口上で物を売る啖呵売(たんかばい)の一種、テキ屋商売みたいなことをしてたんだと思う。

 もしかしたら、実は三角氏自身がサンカで、あるいはアダムスキー自身が宇宙人で、本当の自分の正体を隠しながら、サンカに会ったとか、宇宙人に会ったとか言って人々を欺いてたのかも?

 

 サンカ文字は、よく神代文字と総称される文字グループの中に含めて語られている。アイヌ文字も同様に神代文字に含まれている。

 神代文字とは、江戸時代、国学が盛んになるとともに、中国由来の漢字が入ってくる以前に日本固有の文字はなかっただろうかといった関心が生まれ、それらしき文字を探し集め、編纂して作られた文字、そんなところではないか。

 サンカ文字もアイヌ文字も、漢字の伝わる以前までは遡れないと思うのですが、 あまり堅いこと言わずに、要は、謎めいた文字=神代文字、そんな括り方でいいのかもしれない。 みんな神代文字に、現実にはない夢やロマンを投影しているんだと思う。そういう意味では、真偽を詮索するなんて野暮な話しです。

 と、思うのですが、ここでは行きがかり上、野暮な話しを続けます。

  現在、神代文字はおおよそ20種類ぐらい挙げられている。かなり多いように感じますが、形やパターンの似ている幾つかのグループに分類できる。

 神代文字の中でも、サンカ文字と豊国文字(とよくにもじ)と呼ばれている文字はよく似ている。ついでに、やはり神代文字のひとつである阿比留文字(あびるもじ)と朝鮮半島のハングル文字もよく似ている。なんとか文字、なんとか文字と、聞き慣れない言葉が次々に出てきて難儀するのですが、とりあえず話しを進めます。

 似ている神代文字同士、なんらかのつながり、関係があるはずだ・・・おおよそ、そのあたりで話しは袋小路に入っているように見受けられます。

 思うに、神代文字が古代日本の文字だという前提なので、整合性のある解釈ができず、混乱しているのではないか。サンカ文字というか神代文字というか、そういった文字の発祥地は日本でも中国(漢字)でもないどこか、そんなふうに考えてみたらどうだろうか。

 

  前回、アイヌ文字のことを調べてるうちに、8世紀頃のモンゴルの突厥(とつけい)文字に行き着いた。

 アジアの内陸北部、モンゴル辺りにいた民族の文字が東ルートで、沿海州樺太、そして終着点の日本の北海道でアイヌ文字になったーー椀に彫られた図形の形から、そんなふうに考えてみたのですが、アジア地図を見ていて、ふとサンカ文字の箕を想い出した。

 当然、モンゴル辺りから南下するルートもあったはずで、それが数百年後の朝鮮半島でハングル文字となり、終着点の日本でハングル文字に影響を受けた阿比留文字ができたのではないか。そして最後の余興として、昭和のはじめ三角氏が豊国文字からサンカ文字を作った、そんなところではないでしょうか?

 いろいろな神代文字を見比べて、似たパターンの字体が目につくのは、もともと内陸アジアの文字が各地に伝わっていき、長い年月の間に枝分かれし、それぞれ別ルートで、時間的にもずれて日本に伝わったからだと思えるのですが。

 

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根来椀とアイヌ文字

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 江戸初期の根来椀、高台内によく分からない図形が彫られている。それと畳付きに 7 つの刻み。文様やデザインではないように思える。

 アイヌの祭器に使われていた椀で、彫られているのはアイヌ文字と聞きました。アイヌ文字というのは通称で、一般的には北海道異体文字という言い方をしているようですが、ここでは分かりやすい通称の方を用います。       

 今から40数年前に北海道を放浪していた方から最近、譲り受けたもの。各地のアイヌの人々に援けられて旅を続けていたとのことで、そのとき祭器として使われていた椀を白老のアイヌの人から授かったものだそうです。手に持つとサラリとした感触、調子抜けするぐらい軽い不思議な重量感。

 アイヌの人々と根来椀のつながり、全く知りませんでした。ネットで検索すると、江戸時代、和人との交易で漆器を入手していたと書かかれています。このあたりの経緯は、自分で書くよりも、ちゃんとした説明文があるので、それを引用しておきます。

 

 「・・・アイヌは交易の民であるともいわれます。アイヌの物質文化には周辺諸民族の異なる文化的要素を認めることができますが、本州からもたらされた杯、椀、天目台、行器、盥、片口、湯桶などの漆器もそのひとつです。

 アイヌにとって漆器は、それ自体が神(イオイペカムイ[器の神])であり、お神酒などを入れる重要な儀礼具であると同時に、富と権威を示す宝物でもありました。・・・(略)

  現在もアイヌの家には先祖伝来の漆器を所有する家が少なくありません。使用することはなくとも、代々受け継いできた大切なものという思いが、今なお手放すことのできない理由の一つなのでしょう。・・・(略)

 イタンキ[木椀] イタンキはオハウ[汁物]やご飯などを入れるいわゆる「お椀」「(木製の)茶碗」です。供物の器として用いるほか、文様が少ないものは日常の食事用としました。」( アイヌ民族博物館[北海道白老郡白老町]の HPより引用)

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 なるほど、彫られている図形は祭事に関係していたと聞いた話し、整合性があるなと想いを巡らす。また、アイヌの人々は漆器の朱色(赤)に惹きつけられたようですね。

 さて、肝心の図形ですが、明治時代中期、学会誌に紹介されたアイヌ文字といわれる文字をまとめた表があり、見比べてみました(写真の椀の下に敷いた白抜きの記号がそれです)。

 一見して似ていることは分かりますが、対応しているとまでは言えない。いろいろあたってみましたが、アイヌ文字といわれているもの自体、地域や時代により異なっているはずで、近代的な国語のように整理され、画一的に同定できるようなものではないと思われ、簡単には解読できないと、とりあえずここでは諦めました。でも、気になるので、これからも折にふれて考えていくかと思っています。

 椀の図形とアイヌ文字について検索しているうちに、実は両者とも8世紀頃のモンゴルの突厥(とつけい)文字に似ていることに気づきました。

 突厥文字は石に刻んだ碑文が見つかっているのですが、石に彫ることから特徴として直線を組み合わせた文字が多い。文字の歴史は、書かれるようになる前に骨や石に刻んだり、彫ったりしていたんですね。椀の図形も直線の組み合わせです。

 歴史的な流れからすると、突厥(とつけい)文字が変化してアイヌ文字になったと考えるのが自然ではないか。

 8世紀、奈良時代のころの日本の北限は関東平野から仙台、新潟平野ぐらいだっといわれます。その前の時代までアイヌの人々の南限が関東平野ぐらいでした。・・・そういえば、アイヌの祖先は、縄文人ではないかと思うのですが。

 埼玉県に吉見百穴古墳というところがあります。古墳といっても砂岩に掘られた横穴で、そこに住んでいた人たちの住居跡。東武東上線東松山駅から歩いて30〜40 分ぐらい。その穴の中に神代文字が書かれていたという話しがありました(一般的には、吉見百穴文字といわれています)。

 今は、その場所は見れないのですが、戦前の絵葉書に文字の写真があります。画像検索すればすぐに見れます。

 一見して、その文字は、アイヌ文字や突厥文字と近い関係があるように思える。その横穴に人が住んでいたのは西暦500 年代末から600 年代末といわれる。結局、奈良時代より前は、アイヌ系の人々がそこに住んでいたという証拠ではないでしょうか。

 

 ざっくり言ってアイヌ文化は、紀元前、何千年かのあいだ続いた縄文文化をベースに+紀元後にオホーツク海沿岸、シベリア、モンゴルなどの文化が融合し1000 年ぐらいかけて醸成され、そして13~14世紀頃に、本州だと室町時代のころになりますが、そのころアイヌ文化として形作られた、そんなイメージになりました。

 手にした椀をもとに、こんなことをあれこれ考えてるのは、謎解きをしてるみたいな気分になってけっこう面白い。

 

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誰も拾わないようなもの

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 先日、浅草の工事現場で凌雲閣、通称、浅草十二階と呼ばれた塔の遺構が見つかった。六区からひさご通りに入って、左手の角地、以前は台東医院があった所です。

 十二階は明治時代、当時としては雲をも凌ぐ超高層の建築物で浅草随一の名所でした。しかし、設計の経緯からしてなんか変で、というのは水道の給水塔を上下引き伸ばしたものだったとか。このあたりのいかがわしさ、実に浅草っぽい。

 と、書いていて、考えてみると、そもそも「塔」って、なんかいかがわしい存在だと思う。建築物といっても、用途は、上に昇ってみるとか、遠くから眺めるとか、要は、特殊な見世物なのではないか。

 そして、浅草にはいつも塔があった。空襲で焼失した浅草寺五重塔はもちろんですが、こちらは由緒正しい文化財で、六区的ないかがわしさが欠けていて、それゆえ俎上に載ることは少ない。

 塔といえば、今は、スカイツリーだし、戦後の仁丹塔もそれ自体は単なる広告塔だったのですが、郷愁をもって語り継がれている。他にも、地下鉄ビルの尖塔、新世界ビルの五重塔花やしきの「Beeタワー」(旧・人工衛星塔)と挙げられる。

 十二階は、それらの元祖、伝説的存在で、今もファンがいてネットで検索すると情報が溢れています。今回、遺構が見つかった話しは新聞記事にもなりました。

 1923年9月1日の関東大震災で十二階の8階から上が倒壊し、残骸は全て撤去され更地になり、その後、約一世紀の間、何度も別の新しい建物を建てては壊してを繰り返してきた。また今度、新しい建物を造るため地面を掘っていたら十二階の遺構が現れたわけです。 敷地の広さから塔の基礎部分の一部ですが。

 この区域にはいろんな逸話があって、戦後の闇市の時代には、アジール治外法権地区になっていたし、今の常識ではありえないような話しを聞くことがあります。

 見つかったのは、塔の基礎部分とレンガ壁の一部ですが、浅草に愛着のある自分としては、とにかく塔の一部には違いないのだから、レンガの欠片でも垂涎の的です。

 なんとかレンガの一片を手にいれました。それが上の写真。

 底の方にコンクリートがくっついている。ただのレンガの欠片のように見える。事実、そうなんですが。う〜ん、道端に落ちていても誰も拾わないでしょうね。

 元来、なんかのコレクターだったこともないし、収集癖のようなものはないと思ってるんですが、このレンガの場合は、自分と十二階がつながっているような気持ちになれるというところが大きい。

 こういう心性は、よく呪術的思考といわれている。人が合理的思考をするようになる前の時代、新石器時代ぐらいまでの人類は、こんな思考パターンをしていたのではないか。

 日本では、いまも形見分けのような風習が残っているので、こういう心性、人間の中から完全に消えたわけではないと思います。

 それと写真とか、あるいは展示物をガラス越しに見るのと(つまり視覚情報と)、直に指で触ったり撫でたり、持ってみたり、臭いをかいでみたりするのではリアリティが違うこともあります。 縄文土器なんかを手にしてもそんな想いに耽ることがある。                   現代は、物を知るということを、物にまつわる情報を知ることと勘違いしているように思えるのですが。情報、データは、文字・数字・画像・動画など、その大部分は視覚を通して伝えられています。

 しかし、太古の人間にとって物を知るということは、触覚や嗅覚で知るということでもあった。

 

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 ついでに、もうひとつ。青函トンネル工事で、両側から掘ったトンネルが貫通した地点の岩。手で持つとずっしりと重い。

 改めて調べると、トンネルの工事、1963年に着工して完成したのが87年と、24年もかかっている。たいへんな難工事だったようです。

 収集癖はないと言ってて、こんなものがあるなんておかしいですが、これは何年か前のボロ市で見つけたもの。貫通石といって、安産や学業成就のお守りということは知っていたので、つい物珍しさから持って帰ってきてしまった。

 ただの石のように見える。事実、そうなんですが。津軽海峡の海底下約100mの石・・・やはり道端に落ちていても誰も拾わないでしょうね。そんなものを買ってるというのも変な話しですが。

 そういえばこんな意見もありました。引用してみます。「CURIO (骨董品)の原義は『珍物』ですし、往古の王侯のコレクションや最初の頃の博物学の対象は、この『珍物』にあったわけですから、案外この辺が古美術、古陶磁蒐集の正統といえるかも知れません。」(出川直樹『やきもの蒐集入門』)。

 なんか勇気ずけられる指摘。珍物ってところがいいと自己満足している。

 日焼けして茶色くなった小さな紙が貼ってあって、「火山礫凝灰岩 青函トンネル先進導抗」と書いてある。ロットリングで書いたかと思うのですが、驚くほど小さな字なのには感心しました。製図のプロが書いていると思うのですが、今もこういう職人的な技を持っている人、いるんだろうか。

 写真を撮ったついでに、テーブルの上にレンガと石を並べて置くと、いやがおうにもどっしりした存在感が倍増し、なんて言えばいいか、始末に困るというか、結局、これどうしたらいいんでしょうか?

 

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目光と金色に光る観音様

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 今朝、いつもの道を歩いていて、冬の間、建物の合間からくっきりと見えていた奥多摩の山々が春霞で見えない。少し前、寒波、寒波と言ってたのが、暦は雨水になってるのですね。

 そろそろ近所の鮮魚の店に、さよりが出ていないか気もそぞろで、見にいきました。早春になるとまず、さよりの刺身、桜が散るとトビウオと、昔、見よう見まねで包丁捌きを覚えたころインプットされた旬の季節感が染み着いている。

 横道に逸れますが、初鰹は毎年1月から出ているし、6 月になると名札がトロ鰹と書き替わるだけ、秋以降はもどり鰹に書き替わってと、要は、一年中出てるのでこんなワクワク感は少ない。

 と、店に入ってすぐ、 一見、ハゼかハタハタかといった見慣れぬ魚が皿に一山盛られているのが目についた。脇の札に黒いマジックで「目光」と書いてある。

 晩ご飯のおかずにと、これを持って帰ることに。さよりはまだ出ていませんでしたが、それはそれで満足。小振りですが量が多いので半分は刺身、それから唐揚げにしました。

 ネットで調べると、メヒカリは、関東以北では冬から春が旬の魚とある。昔は、二束三文にもならなった魚、大衆魚と書かれてます。底引網で獲ってかまぼこなど加工用に廻されるので鮮魚としての流通はそんなに多くないとか。

 海の深いところにいる魚で、目が大きく、反射光で黄緑色に光って見えるとも書いてある。

 最初に見たときから気づいていました、目が宇宙人みたいに光っているのを。発光しているように見えるので怪しい光といった雰囲気。

 半透明、宝石の中にこんな色のものはない。フローライト(蛍石)に似たような色のものがあったな、と想い出す。そう、葡萄のマスカットの粒を小さくしたような感じ。魚の目の美しさに見とれたのは、はじめてでした。

 

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   谷中の全生庵にある観音様、夕日に眩く輝きます。特に、晴天の真っ青な空と金色に輝く観音様のコントラストは絶妙です。

  全生庵は、谷中の三崎坂沿い、上野台地のゆるい斜面にあるお寺で、毎年8 月、所蔵している幽霊画を公開していることでもよく知られている。

 境内に大きな桜の木があって、これから花見のシーズンに観音様の見物、お勧めします。

 

 はじめて観音様を見たのは、近くの脇道を歩いていたときでした。このあたり一帯は寺町で、お寺と民家が軒を連ねている。壁の向こう、家と家の間に、金色に輝くウルトラマンみたいなのが立っている!

 けっこう大きい、特撮のセット? なんなのかよく分からない。仏像かなとも思いはしたのですが、それにしては、真新しい、ピカピカでメタリックな輝き、人体っぽい姿などが不釣合いに感じられた。

 この観音様が作られたのは平成3年(1991年)と、まだ 27年しか経っていない。高さ6.6 メートル。境内の盛り土した台座に鎮座しているので、10 メートルはあるように思う。離れたところからも見えるわけです。

 ネットを検索すると北村西望の作とある。長崎の「平和祈念像」を作った有名な彫刻家で、1987年、104 歳で亡くなられている。この観音様の起工が1990 年なので、その前のよう、生前に原型を作っていたのでしょうか、もしかして北村氏の以前からあった作品を拡大コピーしたものかも?

 この観音様、近くに寄って見ると、造りがわりと大まかなことに気づきます。また、鍍金ではなく金色の塗料で、ごく普通に塗っている。もともと数十センチ〜 1メートルぐらいの観音像を10 倍ぐらいに大きくしたものだとすると辻褄があいますが、どうなんでしょうか?

 ・・・と書きましたが、日本各地に北村氏作の同じ観音様(聖観世音菩薩、原型はやはりコンパクトなサイズでした)は建立されているようで、全生庵もその一つということでした。

 なるほど、よく目にする観音様は、明の時代に造られたふくよかな女性の姿をした仏像が基になっていて、江戸時代に仏師の造った観音様もその姿を踏襲しているのですが、こちらは近代彫刻としての観音像なんですね。

 はじめて家の合間から横向きの姿を目にしたときの第一印象が、ウルトラマンみたい、人体っぽいと感じたわけが分かりました。

 

 境内から見上げるようにして拝観するのが一般的ですが、それ以外に、二つほどビューポイントを書いておきます。

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 一つは、近くの「谷中防災広場 初音の森」からの景観。

 上野台地の山の斜面に、 タヌキの住んでいる照葉樹林の林と芝生の広場があります。 ここから見る観音様は、斜め後ろからの姿になりますが、それもまた木々の中からヌッと立ち上がったみたいで、妙にリアルな趣があります。

 写真にありますように、桜の季節がお勧め。一休みするには絶好の場所です。

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 二つ目は、全生庵の上の脇道に入ったところからの景観。

 写真は、空気の澄んだ日の日没の少し前。こんな感じもまたいいです。ここは脇道の路上から眺めることになります。

 

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冬至の朝の光

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 12 月の大雪から2 月の立春ぐらいまでの朝の光が好きです。あけぼのといえば、春となるでしょうが、旭光ならば、この時期を推します。一年を通し最も極まった光と言った感じでしょうか。空気中の湿気が少なくなり、普段、見ているものがよりクリアーになるのもいい。

  真っ青な空の朝、低い角度から射し込む白光に、いろんなものをかざしたり、テーブルの上に透明、半透明なもの、キラキラしたものを置いて見ている。グラス入れた水を見てるだけでもいい。

 

 上の写真、冬至の朝の光と鍔(つば)。骨董市で埃をかぶっていた道具類の中に錆びた金具のようなものが混じっていた。最初は、何かの留め金か蓋かと思いましたが、形が刀の鍔、帰ってから磨いてみると小さな蝸牛が現れた。超ミニサイズなうえ、錆に覆われ、誰も気づかなかったのではないか。

 朝陽にあたると、蝸牛の糸のように細い胴体が金色に輝き、一条の光が目に飛び込んできた。繊細な象嵌細工に、昔の職人技の凄さを感じました。

 

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 透明な結晶、4種類の鉱物。大きいのがアポフィライトの両錐結晶、変わった形をした結晶のタンビュライト、それから「ハーキマーダイヤモンド」と呼ばれている両錐水晶(結晶の中に見える黒いものはオイル、パキスタンで採れたものなのでカッコ付きにしています)、そして中津川のトパーズ3つ。明治時代、トパーズは日本で採れる宝石として輸出されていたとか。

 どれがどれかは、すぐに分かるかと思います。

 

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 近所の鮮魚の店に久しぶりにイトヨリダイが出ていました。ハモと同じように関西の方で人気があって、こっちではあまり並ばない。 今が旬の魚で、刺身にしようと買ってきましたが、 鮮やかな黄色いラインに目が釘付けになりました。 キラキラした青っぽい紫の遊色の斑点も見える。

 陽光の下で写真を撮ってみました。スリムな体型をしていて、黄色のラインがよく見えるように一部分をアップ するとなんか面妖な感じ。一体、何なのかよく分からない。・・・アダムを誘惑した美しい蛇の絵、たしかアメリカの新宗教の聖書物語の挿画だったかと思いますが、どこか似てるのを想い出しました。

 それはさておき、肝心なのは眩(まばゆ)い輝き、いくぶんかでも捉えているでしょうか。

 

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 ムクロジの実、中の黒い種が透かして見える。蝋細工、あるいはガレのガラスを彷彿とさせる半透明の色感、質感に魅せられる。

 鉱物だともっと硬質な感じで、こういうヌルンというかトロリというか、そんな感覚はない。いくぶん色が似ているということでは、アンバー(琥珀)やミルラ(没薬)といった樹脂ーー前者は樹脂の化石、後者は樹脂の香ですーーが思い浮かびますが、やはりムクロジの実のような生っぽさは欠けている。

 果肉の部分、乾燥して硬くなるのですが、コーヒーミルなどで粉にすると、天然の石鹼になります。インドやネパールでは、石鹼として使われています。そんなわけで、いま手洗いのときなど、使っている。

 泡立ちは市販の製品ほどではないですが、香料の癖がなく、ないより手がすべすべになります。

 

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大理国の小皿

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 日曜日、早起きして京王線高幡不動の骨董市にいってきました。水曜日、法華経寺の骨董市で下総の古寺の雰囲気が心地よかったので、今度は、武蔵の寺にといった気持ちになってのこと。

 真っ青な青空、駅前の商店街を少し歩くと多摩丘陵の紅葉した山と赤い五重塔が見えてくる。昔の絵葉書にこんな景色あったような、でも、なんか全体的に真新しい。由緒書きではずいぶん古いお寺のようですが、あまり抹香臭さがない。

 五重塔をはじめ大きな伽藍は、1975 年以降に建立されたということを後に知りました。

 境内は多勢の人、七五三の家族連れや紅葉を撮りにきたカメラマニアが目につく。土方歳蔵の銅像がありました。 身構えた姿は映画のワンシーンのよう。ここは日野市で土方歳蔵の故郷なので、ヒーロー像といった感じです。近藤勇の生家は、近くの調布です。

 武蔵(江戸、東京)の地面を掘ると、土の色は黒ではなく赤茶、関東ローム層の火山灰で、赤土と呼んでいる。武蔵は、原野の開拓地、ふつう使っているような意味での伝統とは切れている土地です。

 強いてこの地の伝統といえば、常にスクラップアンドビルド(新陳代謝)を繰り返していることでしょうか。武蔵の古寺でそんなことを考えました。

 一方、人がやってくる前の原野の名残りがこの地にはまだあります。都内でもいろんな所に、すごい巨樹や樹齢700、800年レベルの古木がけっこうあって、それは原野の時代が今も絶えていない証ですから。そんな木を眺めるのは好きです。

 

 そうそう、骨董市の話しでした。境内の参道沿いに骨董の露店が並んでいます。 最初の一区画をすぎたあたりで、向こうで手を振っている人がいるのに気づく。先日の馴染みの業者さんでした。法華経寺のときと同じパターン! あれからまだ4 日。

 結局、今度は五代十国時代雲南の小皿を持って帰ることに。焼き物に深入りするつもりはないのですが、つい手が出てしまいました。今回は、やっぱり、物としてのたたずまいということでしょうか。

 ちょうど立冬の朝陽がピンポイントであたっているところにこの小皿がありました。 口径に比して背が高く椀のようにも見える。同じ出自の別の小皿と壷、全部で3点、それぞれプラス、マイナスのポイントがあるのですが、すぐにこれだと思いました。

 

 五代十国といえば、唐と宋の間の時代( 907〜960 )でしたが、その頃の雲南は中国の域外で、大理国という国があった。大理石は、この地から産出される石ということですね。

 13世紀、モンゴル軍は、対立していた南宋を上(北)と下(南つまり大理国)から挟み撃ちにする戦略をたて、中原の西を迂回するコースから大理国に侵攻しました(反時計回り)。・・・この発想のスケールは、名将として知られるハンニバルやナポレオンなんかを遥かに超えている。

 ちなみに毛沢東の長征は、モンゴルとは逆のルート、中原を時計回りに迂回して延安に落ち延びました。長征の記録を読むと、延々、険しい山脈や密林、大河、大草原、湿原の沼を徒歩で行軍して行くのですが、今だと冒険ルートといっても過言ではない。

 長征は20世紀のことですが、その700年も前にモンゴル軍はよく踏破したと驚くばかりです。

 中国の地勢を大きなスケールで見ると、真ん中が中原で、東は海、西は砂漠とヒマラヤの壁に囲まれている。魏、蜀、呉の三国志の世界を一回りも二回りもスケールアップして作戦を立てたモンゴル軍の地政学的戦略は凄いと思う。大理国はモンゴル軍に降伏し、その後、南宋は滅び元の時代になります。

 そのとき大理国の遺民が南に逃れ、タイの建国に至るという歴史がありました。そういえば、皿の口縁に付いている二本の黒い線、どこか彼の地の少数民族の描く模様に似ています。

 これも今から7年前に持ってきたという発掘品で、前回と同じく広州経由。このあたりのやりとりは、「南宋青磁の小皿」に書きましたので省きます。

  業者さん曰く、最近は、向こう(中国)でも値段が上がって商売にならなくなってしまったとのこと。7年前、2010年は、中国がGDPで日本を追い越した年、上海万博のあった年でした。

 前回、今回の2点、共に大したものではないですが、少なくとも真贋(本物、偽物)は、はっきりしているので、自分のような素人には、よかったのではないかと思っている。中国陶磁器の真贋の問題は複雑で、正直、自信がありません。

 

 ところで、よくバーゲンなんかで「掘り出し物」 と言ったりしてますが、それって元を質せば発掘品のことですよね。

 さらに、発掘品を商いにした始まりについて考えてみました。それは、ピラミッドとか古墳とか、中国では明器といって副葬品がありましたが、そこから掘り出した物を売りさばいた、つまり墓荒らしというか、墓泥棒だったのではないか? 

 ついでに・・・一昔前の本を読んでいると、古い窯跡を探して、埋まった陶器を掘り出しコレクターや骨董屋に売る発掘屋という職業(?)の話しが出てきます。昭和のはじめ、車や機械などない時代、自転車で現場に向かい、スコップで穴を掘っていた。

 伝説的な人がいて、大晦日に大雪の中、山に入って穴を掘っていたとか、発掘に夢中になりすぎ奥さんに逃げられ、三歳になる子供をリュックに入れて背負いながら穴掘りしてたという。つげ義春の世界を十倍濃縮したようなディープさ、つい横道に逸れてしまいました。

 

 胴に釉薬の滴が這っていて、もともと大雑把に作られた雑器で、その上、(今のわたしたちから見ると)場違いな感じの模様が目立つ、土が膜のように表面にくっついている。一言でいって野暮ったい。

 でも、自分の目には、そんなところは気にならず、いいところ(と、思い込んでるところ)に惹かれてる。人と人の間でも、そんなことあるのではないでしょうか。あばたもえくぼ現象みたいな。

 言葉や文字でうまく表現できなくてもどかしいのですが、こぶりの椀ほどの密なスケール感、すくっとしたたたずまいの存在感。外に向かって広がっていくような目を引く存在感ではなく、内に収束していくような存在感です。そして、見込みにガス星雲状の藍色ーー菫青石のような色が広がっていて、逆さまにし下から見上げるとプラネタリウムのよう。・・・こういったすべてが合わさって、何か特別なものに見えた、そういうことなんだと思います。

 南宋の皿のときとは、全く関係ないこと言ってます。あのときは、物に具現している完全さ、普遍性、そんなこと書きました。今度は、物としてのたたずまい。

 物と出合って、自分の内に湧いてくる情感を探っていくのは、謎解きのようでもあり、内観のようでもあり、けっこう面白い。

 朝、日の光で見るのと、夜、スタンドの光で見るのでは違います。また、手で持ってみて、指で触って厚みを感じたり、見込みを摩ったり、地肌をルーペで観察したり、ひっくり返して高台を斜めから眺めてみたり、指で軽く弾いて音色を聴いてみたり、手のひらで包んで重さを感じてみたりと、そんなふうにいじってると、なんとなく全体的に掴めてくるように感じます。

 そういえば、「陶酔」という言葉、陶磁器に惚け、愛玩するあまり、酔ったようになってる人がいたということに由来してるのではないでしょうか? ふと、そんな気がしました。

 

   会場を一回りして、まだ時間は早いけど、小山の中腹にいい日なたの場所を見つけ休憩。道路を隔てた向いのおまんじゅう屋さんで買ってきた高幡まんじゅうの包みを開ける。蒸してあって温かい。             

 そうか、最後も同じパターンで写真を撮ろうとシャッターを切りました。  

 

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南宋青磁の小皿

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 京成線中山駅にある法華経寺で年二回、春秋に開催される骨董市にいってきました。      駅から続くなだらかな上り坂に沿って門前町があります。寺は、起伏のある地形の一角、まわりは小山でその底面にあたる敷地に境内が広がっていて、山門、五重塔や大仏、いくつもお堂が建っている。

 上野、浅草や鎌倉なども広い敷地に寺社が幾つも建っている所がありますが、観光客が多く、ここのような静かで鄙びた感じはない。木立に囲まれた境内は、日が陰ると山の中のよう。

 近世、開拓地の風土ということなんでしょうが、 関東にある社寺は、樹木が多いのと、武家文化の影響でシンプル(質実)な感じですね。以前、大阪の生駒山石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)にいったとき、呪術的なコテコテさ、派手さにびっくりしたのを想い出します(正直言うと、西の方が面白い)。

 参道にある茶屋は、昭和 30〜40年代のレトロな雰囲気です。ここに来ている本当の目的は、こんな雰囲気にひたるためだったような気がします。

 

   そうでした、骨董の話しです。これは!というようなものはなかったですが、素見しているうちに、南宋青磁の小皿と出合いました。南宋青磁といっても、大仰なものではなく、わけありの発掘品が巡り巡って、行き着いた先が自分のところだった、そんな話しです。

 なんだか行き当たりばったりっぽいですが、別にひとつの分野、ひとつのテーマを追っかけてるのではないので、70 万年前のホモエレクトスの石器から仏像でも書画でも古今東西、ピンと来たものなら何でもいいといったわけなので・・・。

 

 初日の朝でした。会場を歩きはじめてすぐ、向こうで馴染みの業者さんが手を振っている。こちらは、軒を連ねている店の陳列台に並ぶ品々に気をとられ下ばっかり見ているのですが、その業者さんは、少し高くなっている敷石の上に立って来場者の中に顧客はいないかチェックしてるので、すぐに分かってしまうのですね。

 いろいろ話しがあちこち飛んだ末のことで、細かい経緯は省きますが、上の小皿を持って帰ることに。 2010 年に中国の福建省の古窯を発掘して出てきたものだとか。その手の発掘品は、だいたい広州に集まっていたので、そこで仕入れてきたといった話しでした。

 こういう発掘では、焼き物がたくさん出てくるのだけど、その中で、特にいいものは、写真に撮り図録に載せ、展示のために保管する。あと、そんなではないものを、労賃として分配してるのだとか。

 現場で穴を掘ったり、運んだりする人にお金は支払われず、代わりに発掘品を現物支給し、働いた人は、それを換金してお金を得るのだという話しでした。たしか日本の漁村でも地引き網漁で、網縄を引っぱる人たちが、網元から労賃代わりに、獲った魚を分けてもらうといった話しがあったのと似ている。

 ああ、もしかしたら現実は、もっと複雑怪奇かもしれない。というのは、昭和7年、 今から80年以上前ですが、魯山人が日本の古窯を発掘したときの話しが思い浮かびました。そのことを書いている本の一節を引用します。

 「・・・発掘中に、完器もしくはそれに近いものはみんな持ち出され、売りに出されていたという評判は度々耳にした。発掘した出資人の愛好者魯山人の手もとには、屑の破片が送られて来ただけだったかとも見受けられた。」(秦秀雄『やきものの鑑賞』)

 察するに、人の世の常として、近年行なわれている中国の古窯の発掘も、現場ではこんなことになっているのではないか。 優品の中でもだんとつのものは、公にならないまま流出し、図録にも載らず、展示もされず、どこかに収まっているのかも。

 

 青磁といっても、青っぽくない青磁。微妙な色で、光によりベージュにもアイボリーにも黄褐色にも見える。クヌギの落ち葉の色のみたい。南宋青磁について調べていると、釉薬焼成の具合により、黄褐色に焼き上がったものがあり、それを稲穂の色に見立てて米色青磁というそうですが、そんな系譜になるのでしょうか。

 表面は、透明感のあるガラス質で、発掘品によくあるカセはほとんどない。伝世品ではないので、表面のスレやいわゆる「育った」(人の手元にあっことによる経年変化)感じもない。

 一方、目立った傷はないものの、胴についたへらで圧したような筋や、見込みにニキビのような小さなでっぱりがあったり、口縁の一部にちょっとカセている部分があると、粗も見え、まあ、そんなものなのでといったところでしょうか。

 

・・・実は、胴についたへらで圧したような筋ですが、これは作られたとき誤ってついてしまった傷とばかり思ってましたが、中国青磁と日本の茶の湯の歴史を書いた本を読んでいたら、珠光青磁と呼ばれ、侘(わ)びの美の原点に位置づけられている南宋青磁の特徴だということを知りました。

 民窯で作られた雑器で、青さのない、青磁としての魅力に乏しい色、胴についた筋、こういったそれまでの青磁の基準からすればマイナス評価のものに、室町時代村田珠光という茶人が、侘びの美を見いだしました。この新しい流れを後に完成させたのが利休ということになっています。

 観念の世界のことなので、無から有が作れるわけですね。誰かが、なんのへんてつもない雑器の茶碗を見て、これが侘びだと言えば、その瞬間から、それまでこの世になかった侘びという観念が現れる。

 その誰かは、ほんとうは誰でもいいのですが、とりあえずカリスマ性のある人か、あるいはカリスマ性があるように演じられる人でないと按排が悪い。

 これは価値観の逆転なのですが、例えばヨーロッパのニーチェマルクスニュートンアインシュタインピカソみたいな全力投球型の力技ではなく、直観的な、機転を利かした、あるいは即興の手品みたいな技で、そういうのが日本文化の特異なところなのかもしれない。付け足しですが、こういう技は『無門関』のような公案禅とは相性がいい。・・・横道に逸れました。

 

 この皿にピンと来たのはデザインがシンプルでモダンな感じ・・・ありきたりな話しに聞こえるかもしれませんが、そんなデザインにプラス、見た目、ピカピカ、ツルツルで、街の雑貨や100均の店で売っている新品みたい、約800年前の南宋の時代に作られたものとは思えない、そんなところに惹かれたわけです。

 中国の焼き物の歴史を俯瞰すると、ざっくり言って宋の時代と清の時代の二つのピーク(黄金時代)があったといわれている。二つのピークを精神的な面で唐から宋の時代、技術的な面で明から清の時代という理解をしてもいい。

 焼き物の本を読むと、どの本もそんな歴史観になっていて、それが業界(骨董というか古美術の業界ですが)の定説になっている。

 焼き物に限らず中国文化全体の歴史を見ていくと、「唐詩宋詞」といわれるように、唐から宋の時代が最盛期だったように思えます。

 宋詞といえば蘇東坡。この人は現代にも通じる隠者でした。老荘は人気はあっても、現代とは時代が離れすぎていて、リアリティという面では通じえないのではないかと思っている。

 疲れた晩、蘇東坡詩選のページをめくっていると、人間の生の営みを 21 世紀の現代人と同じところまで見つめ書いているのを感じ、その普遍性に引き込まれ、安堵する。

 

 

 宋の時代の陶磁器については、 高い精神性とか気品に満ちといった記述を目にするのですが、それがある物(陶磁器)を評する核心的な指摘だと思いつつも、それだけでは観念的、抽象的で、よく分からないまま、そーなんだと納得しているのが実情ではないでしょうか。

 でも、小皿を見てて、ふと、こんなことを感じました。過去に人間が作ってきた物を、その機能とデザイン(彩色)という二つの異なる要素を両立させながら、それぞれの要素を突き詰めた物として、そのバランス、完成度を具現している物を探す、万物をそんな基準の篩にかけてチェックしてみたら・・・そんな目で見て、これはいいと感じられる物を指して「高い精神性」と言ってるのではないか、こんなふうに解釈してみた。

 精神性といっても、例えば、神道キリスト教のような宗教的な境地と解するのではなく、あるいは芸術作品や工芸品、また白樺派的な民芸の目線なんかともちょっと異なって、その時代の実用品として作られた物の中に具現している完全さ、普遍性を言っているのではないかと思うわけです。

  800年前に作られたもので、いまごく普通に、違和感なく日常の生活に使われるものに混じっていても気づかないぐらい普通な物ということは、それが物として完全な域に達してるということではないか。 これ以上、新しくなることのない物。いつまでも古くならない物。

 帰ってから、この皿、どこで買ってきたか分かる?と聞いたら、ニトリでしょ、同じような皿、あそこで売ってたと言われました。その答えは、ある意味、いま書いてることの裏付けともいえる。それは時間を超越してるということなのですから。

 その物の形状、デザインが現代的で、かつ古色がついてない物。いつの時代でも、その時代に生きている人の目に現代的なフォルムの、新品に見えるような物です。

 いま身のまわりにあるもので、服、椅子やテーブル、グラス、カバン、靴、携帯、財布、工具、鍵と何でもいいですが、 それをタイムカプセルに入れ、800年後に取り出し、未来の人間にまったく気づかれずに、その時代の普通の物として紛れ込んでしまうような物、あるでしょうか。

 

 上の写真は、境内の茶屋の向かいの土手を上って林の中で一休みしたときの一枚。もらった温泉饅頭(まんじゅう)をのせてみた。

 まんじゅうの包みを開けると、栞が落ちてきた。なにげなく読むと、群馬の伊香保温泉の和菓子屋さんで、伊香保温泉の茶褐色の湯の色をイメージして明治43年に発案したと書いてありました。これが温泉まんじゅうの発祥だとか。

 倒木に腰かけ、崖下の茶屋で買ってきた温かいお茶を飲み、まんじゅうを食べる。

 

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