今年、いちばんのキレイ&いちばんのビックリ

 2020年も残すところあと2日。今年は新型コロナで大変でした。

 2月の中旬、横浜港に停泊したダイヤモンドプリンセス号のニュースが連日、テレビで報道されていたのがずいぶん昔のことのよう。あれから春、夏、秋そして冬と季節感の欠けたのっぺらぼうのような日々が過ぎていった。

 

 6月、浅草の地下鉄銀座線の改札口を出てすぐの地下商店街にあった「たんぼ」が閉店した。この店の名物は肉豆腐。 旦那さんが亡くなられてから女手一つで店をきりもりしてきた。肉豆腐定食は昭和の味がしました。

 それから湯島の「天久」の閉店。湯島坂下から不忍池の方にちょっと行った所で、江戸風のごま油で香ばしく揚げた天ぷら、この店の天丼、濃いめのタレとご飯の相性が格別旨かった。 また、神保町のキッチン南海、ずっと行ってないまま閉店のニュースをテレビで見ました。

 近所のすし屋さんが唐突に閉店した。実は一度も入ったことはなかったですが、深夜まで頑固おやじ風の店主一人でやっていて、いつも帰るとき煌々と明かりが灯り、のれん越しにお客さんの姿が見えた。

 世田谷通りの信号待ちをしているとき、並木の銀杏の向こうに店が見え、毎日、今夜はまだ空いているな、今夜は遅くまでお客さんが多く賑やかだな、と目に入ってきてしまう。いまシャッターの降りた暗い店を見ると、自分の世界の一部が消失しているように感じる。

 コロナ禍は、個人経営の飲食店にとってほんとに酷、そして世代交代の流れ=時間を加速させている。人間世の常で遠からず引退するにしても、もう少し先までは残ったはずのものが消えていった。

 

いちばんのキレイ

 9月中旬、空が高くなってきた秋晴れの朝、近所の路地を歩いているとき目にした鈴なりの赤い棗(ナツメ)の実、今年、いちばんキレイだなと思ったのはこれでした。

 この路地は真っ直ぐ西の方角に延びている。歩いていると、路地に面した家の庭に大きなナツメの樹が植わっているのが目に入る。二階建ての家屋よりも背が高く、茂った枝に熟した実が覆うようについていた。

 東から朝陽がナツメの樹に真っ直ぐに当たり、赤い実も緑の葉もキラキラ輝いている・・・別になんということもない景色に思われるかもしれませんが、ちょっと違うんです。 

 ナツメの表皮はツルツルで光沢のある赤、最も赤のよく出ている珊瑚の色で、そこに光が当たるとまるでガーネットの粒のよう。また、なかには、所々、萎んだへこみのある実もあって、へこみに光が当たると乱反射して白光に瞬くように見える。緑色の小さな葉も緑釉のような光沢があるので、朝陽を浴びた樹全体が赤、白、緑の光の粒になり、真っ青な空とのコントラストで引き立てられている。

 実が落ちるまでの半月ほど、晴れた朝は、足をとめて眺めていた。この心象、写真には写せないので、何度も見てはイメージを胸というか、記憶というか、内界に焼きつけた。

 去年は、星と鉱物、どっちがキレイかなんて、とりとめなく思い巡らしていましたが、今年は、これでした。そう、2月の宵の口、寒風の吹きっ晒しのビルの屋上から見た月の地球照も絶美だった。透き通った群青色の夜空に月齢3.5の細く輝く白い月。欠けた部分が地球の反射光で仄かに円(まる)く見える。仄かに黒い色感はコヒーゼリーのよう。

 先の木星土星の最接近はいまいち。また、人間が作ったものでは、それほどのものとは出会いませんでした。

 

いちばんのビックリ

 「新潟県佐渡島では、島で生まれて生涯、島から出なかった人もいる。それどころか、島の内陸部で暮らし、一度も海を見たことのない人もいた」・・・久しぶりに会った友人と雑談していたとき耳にした話しです。

  友人は埼玉で生まれたのですが、佐渡島出身のお父さんから聞いたそうです。時代は、昭和の戦前から戦後すぐぐらいのことだと思います。

 えーっ、島で生まれ一度も海を見ないで一生を終える人がいたなんて! その人にとっての世界は生まれた家の近所だけだったってこと? そんなことってあるんでしょうか。まるで映画の「トゥルーマン・ショー」みたい。

 四国、九州、北海道、本州も世界地図では島だし、海を見ないまま一生を終える人もいるかもしれないとは思う。でも、佐渡島って、そんなに大きくはないのでは? 行ったことがないので実感がつかめない。

 

 ちょっと調べると、佐渡島の面積は東京23区よりも広く、大阪府の45パーセントだとか。東西の両側をついたてのような山地に挟まれた国中平野がある。

 平野の真ん中にいたとしたら南北両端の海岸まで7キロぐらい。平野は山手線の内側だけが世界といった感じでしょうか。最初、聞いたときにイメージしたよりは広く、ありえない話でもないような気がしてきた。

 それにしても、その人は外の世界には関心、好奇心なかったんでしょうか。新潟の街に行ってみたい、船や汽車に乗ってみたいとか。海ってものを見てみたいと思わなかったんでしょうか。

 考えていくと、結局、人間にとっての自由とは何かって問題になるのではないか。

 

 人間は自由がなくても生きることができる。 自由よりは生存の方が優先順位としては上位にある。「自由刑」は、人を牢屋に入れて自由を奪う刑罰ですが、それでも生存は保証している。

 狭い世界の中だけで生きるのは自由刑の受刑者と同じようにも感じるのですが、ただ自発的にそういう生き方を選んでいる場合もあり、自由がないとは感じていないのかもしれない。もし竜宮城みたいなところにいたら、あえて娑婆世界に戻りたい、行きたいとは思わなくなるのかも。

 あるいは、唐突な比喩かもしれませんが、家の中で劣悪な状態のまま多頭飼育されていた犬を救出し、保護犬として育てている人から聞いた話で、そういう犬は散歩で外に出るのを怖がるとか。これは人間にも当てはまるのではないか。

 佐渡島の話に出てきた人はどうだったのでしょうか?

 そういえば、昭和天皇の発言の中に、戦前、20歳のとき初めて訪欧したときの感想があり、そのとき「自由の楽しみ」をはじめて知ったと語っていました。

 それまでは(あるいはそれからも)、江戸城の奥でかごの鳥みたいな人生だったはずで、自由の楽しみという言葉はすごくリアルに感じました。あそこは東京の中心にありながら周りを堀で囲まれていて、小さな島と同じなんですね。

 ヨーロッパで初めて街の店に入って物を買う、お金を使うという体験をしたのではないか。資料を見ていて、ある皇族が、イギリスで店の人にお金を手渡しして、お釣りを受け取るという動作に戸惑ったという言葉がありました。未体験の行為だったので、手を出すタイミングがつかめなかったようです。本人にとっては凄い体験だったんだろうなと思う。

 昭和天皇は後年、若き日の訪欧をたびたび懐かしそうに回想している。その言葉に切なさみたいなものを感じる。あのときが人生で一度だけ体験した自由で、それをいつも想い出していたのかも。

 

 今年の春先、似た言葉をテレビニュースで目にしました。昨年末(12月29日、ちょうど今日)に日本からレバノンに逃亡したカルロス・ゴーン被告のテレビインタビューです。

 関西空港でプライベートジェットに搭乗する際、大きな楽器を入れる箱の中に身を隠していた。下の右の写真はトルコ政府が押収したその箱。・・・この作戦、元米軍のグリーンベレー隊員が立案したようですが、江戸川乱歩怪人二十面相のトリックにありました。トロイアの木馬からある古典的な手口ですね。

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 箱の中に隠れていたときの心境を聞かれたとき「過程はどうであっても自由とは甘いものだ」と答えていた。「過程はどうであっても」って、この人らしい。それに続く「自由とは甘いものだ」という表現、濃いい。上の写真左は、自由を勝ち取った勝利者の貌といった感じ、怪人二十面相っぽい顔相。

 自由には、権利として与えられる自由と、自分の力で勝ち取るというか自分で生み出す自由があるようです。また、何か行動する、行為する自由と頭の中で考える思考、思想、想像、妄想の自由も別の話になるようです。

 さらに、何もしない自由、怠惰とか堕落というか愚行権って言うんでしょうか、隠遁なんかも。隠者、老荘の道の自由ということになる。これは別の言い方をすると、時間を自分のためだけに使う自由ってことですね。人間がこの世にいる時間は有限(しかもそれほど長くない)ですが、自分の自由になる時間ってどれぐらいあるんでしょうか。

 

 「自由の楽しみ」と「自由とは甘いものだ」は通底している・・・砂糖がそうですが、水や食物、塩と違って、なくても生きていける。しかし、昔、初めて精製された砂糖の甘さを知った人は、圧倒的なインパクトに魅せられた。近代以前の世界では砂糖は特権階級しか手に入らない貴重品でした。江戸時代の庶民は砂糖を口にすることなどほとんどなかった。

 そういえば、香辛料、お茶、タバコ、酒、コーヒーといった嗜好品は、なくても生存することはできる。戦時中、「ぜいたくは敵だ!」という有名なスローガンがあって、そういったものは贅沢品として統制(制限)されていましたが、世の中から自由もなくなっていたんですね。

 

 佐渡島の話しと競うような話がもう一つありました。それは、ふと耳にした、小学生の子供さんが二人いるお母さんの言葉。家族で多摩動物園に行ったときのこと。

 園内を一周して、ゾウやライオン、シマウマなど見てきた後、そのお母さんは、ポツリと「カッパをまだ見ていない。カッパの檻はどこにあるの?」と旦那さんに尋ねたそうです。

 カッパなんているわけないよ。あれは想像上の妖怪みたいなもんだから、と旦那さんが言ったら逆にびっくりしたようで、「えっ? 信じられない。カッパっているもんだと思ってた。動物園にいないわけがない」と腑に落ちない様子だったとか。

 話を聞いて、このお母さんは、心が豊かな人なんだなと思った。お金に豊かな人でも、心が豊かかというと、多くは、心は普通人というか常人と大差ない。

 心が豊か・・・普通人の常識に拘束されていない心。無知とか迷信というのではない。心が純粋とか、優しい、広い、明るいとか、そういうのともまた異なるカテゴリーで天衣無縫の自由なのかも。努力してなれるものでもなく、天啓のような資質なのではないか。

 

 最後に、一昨日かかってきた電話、研師をしていた友人からでした。彼は、興奮した口調でこう言っていた。

 「聞いてください! 自分の生まれた年の西暦に、自分の年齢を足すと2020になるんです。さっき知り合いから電話で聞いて、紙に書いて計算してみたらその通りになりました。こんなこと1000年に一度しかないんです!」

 えーっ、言ってることおかしい、あたり前でしょ、いつだってそうなるんだけど(誕生日とか細かいことは端折って)。後の付け足しはゾロ目の一種で、1010の次は2020で、次は3030、4040ってことでは1010年に一度だけど、それは前の話しとは別でしょ。

 電話の向こうでは、感動して盛り上がっているので話が噛み合わなかった。検索すると、外人タレントの女性のツイッターから広まった話しのようです。

 これは、後世、コロナ禍でうっ積した世相を反映した「流言飛語」のひとつ(その変形パターン)と位置ずけられるのではないか。コロナ禍がなかったならば、こんなふうに広く拡散しなかったのではないか。人々の間に情報が拡散していく土壌にストレスや社会不安の高まりが作用しているということです。たぶん、それに敏感に反応するシャーマニックな人たちがいるのだと思う。

 昭和20年、戦局が悪化していたときにも、庶民の間で突飛な流言飛語が広まったのを思い出した。当時の憲兵隊の記録に巷で流布していた奇妙な噂や流言飛語が収録されている。予言獣の件(くだん)なんかも出てくる。

 日本社会も、世界中どこもそうなのかと思いますが、コロナ禍で結構こたえてはいるようです。でも、こういう状況だからこそ、悲観論にも楽観論にも流されることなく、冷静に物事を見ていきたいと思っています。

 

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イランの小さな庭

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 庭園やガーデニングのことはよく知りません。だから独断の思い込みで書いている。小さな庭、そこがどこだったかというのはなかなか難しい。イラクのような、イランのような、どちらでもない場所、そこに住んでいた一家の庭です。

 その庭を目にしたとき、これは別世界だと感じた鮮烈な印象は、今もありありと残っている。正直に書くと、歳月が経っている分、内界でさらに美化されているかもしれない。まあ、そういうイメージの結晶化で人間の世界は出来ているので、仮にそうであっても想いに変わりはない。

 

 イラククルディスタンで泊まった家の小さな庭でした。・・・少しややっこしいですが、イラククルド人の支配地区になっていた砂漠(土漠)に隣国のイランから越境してきたクルド系イラン人の基地(以下、砦としときます。その方が実情に近いので)があった。その砦の中は小さな村になっていて、その村に住んでいる一家の庭です・・・分かるでしょうか?

 一応、そこはイラク国内になるのですが、イラク政府軍は入ってこれないエリアで、さらにそこだけはミニイランでした。でも、イラン政府と戦っているイラン系クルド人たちの造ったミニイラン。イラク領なのでイラン軍も簡単には攻めてこれない(何年か後にイラン軍機が侵入し砦を爆撃したという話を聞いた)。

 

 イラククルディスタンでもいちばん南部、イラン国境にも近い。その頃、ザクロス山脈にあるイラククルド人たちの天然の要塞(切り立った崖や巨大な岩に囲まれ、外部からは近ずけない)にいたのですが、1日だけ山岳地帯から平地の土漠に出てクルド系イラン人の砦を訪れた。 

 地平線の向こうまで褐色の土漠が続いている。強い日差しで暑く乾燥していて、木も草も生えていない。近くに村も人家もない。地図だと200キロぐらい先にバグダッドがある。

 遠くから見た砦は、土漠の中に中世の城跡が忽然と建っているように見えた。 近ずくと砦は、長方形の敷地で石壁で囲われ、四方に銃座が設けられていた。 鉄板のゲートが開いて中に入ると、車の通れる道があって人家が並んでいる。電線が通っていて各家は電気が使えた。商店みたいな建物はなく、ところどころに倉庫があって人気はない。

 人気はないといっても、イラクやイランの地方にある民家の多くは石壁で囲まれていて、外からは平家の建物の様子が分からず、住人はみんな家の中にいるので殺風景に見えるのは普通のことですが。

 

 その晩、幼子のいる一家の家に泊まった。心尽くしの夕食をいただき、一緒にお茶を飲みテレビを見てくつろぐ。クルデイスタンではどこでも食事中はあまり喋らず床に座って黙々と食べるだけ。それが習慣になっていて、その後にゆっくりお茶を飲みお喋りする。小さなガラスコップに紅茶を注ぎ何杯も飲む。

 観ているのはイランのテレビ放送。国境が近いのでよく観える。 その少し前、イランで日本のテレビドラマ「おしん」が大人気だったのでみんなよく知っていた。 

 民族的にはクルド人でもイランで生まれ育った人たちなので、文化的にはイラン国民とそれほど変わらない。 

 イラククルド人たちは素朴、情に厚くぶっちゃけタイプな人たち、また、世俗的で隠れて酒を飲んでたりする人たちとよく出会った。一方、イランのクルド人たちは純朴、真面目でひたむきな人たちが多かった。思い浮かぶのは沈思黙考タイプというか、同じ民族でも国民性の違いなのだろうか。

 

 翌朝、眼が覚めると家のご主人と娘さんが庭にいた。草むらに座って小さな植物を観察(?)している。朝陽が斜めから庭の草木に差し込んでキラキラ光っている。

 砂漠の朝はこの上なく美しい。東の地平線の縁に水星が昇ってくるころから陽が差してくるまでの短い時間、日中は灼熱の地でも、この時間帯は穏やかな静寂に包まれている。

 水星はアクアマリンの色をしている。光度がそれほど強くはないし、見える時間も僅かですが、地平線が平坦で、湿度のない澄んだ空気、人工物がなにもない砂漠ではとても印象的な星だった。あれは夭折した人の星、そんな気がした。そういえば、水星には紫式部清少納言という名前のクレーターもあるんですね。

 庭の半分はいろいろな花が植えられたお花畑で、半分が草むらになっている。奥にオリーブの木が植わっていて、ヒマワリも見える。

 目の前に柔らかな若草色の草原(くさはら)とお花畑があるなんて。家の周りは壁に囲まれているので庭は見えなかった。こんな場所に別世界のような空間があるとは・・・。

 戦地の中に、荒涼とした無人の土漠があって、土漠の中に砦の囲いがあってと次々、入れ子の中に入っていくと、いちばん奥にはお花畑があるなんて信じられるでしょうか。

(上の写真、お花畑の方から草むらを写しているので、ここで書いているお花畑の情景とは異なります)

 

 お花畑の植物で、細く丸まった蔓が伸びているエンドウ豆の小さくて可憐な花、透き通った薄紫のクロッカスの花、この二種類は覚えている。それ以外にも色とりどりの草花が咲いていた。 

 原色の目立つ派手な、大きな花はない。もちろん地味な花でもない。植えられている花には、一定の基調があるようで、比較的背の低い小さな草で、可憐な優しい色をした花々が選ばれているように感じた。

 日本だと伝統的に秋の七草のような鄙びた花が好まれてきた。志野の古陶に描かれている柿色の草花文が目に浮かぶ。晴朗で慎ましく、ちょっと侘(わび)しくもある風情、李朝の清貧の美から来ているんでしょうか、現在、こういうのをいいなと思える感性を持っているのは日本人だけなのではないか?

 一方、この庭は、もっと煌(きら)びやかな色感の、一つ一つは小さい花が至るところにちりばめられている。

 バイカラーやウオーターメロンのトルマリンとかタンザナイト、モルガナイト、ペリドット、クンツアイトといった石を連想する。全体として明るく繊細でフェミニンな感じの花の世界になっている。まるで庭自体が宝石箱のよう。

 

 なるほど、こういう色感、配色がイラン人の好みなんだな。ペルシャ絨毯やタペストリーの絵柄、ミニアチュール(細密画)、モザイクタイル、貴石・宝石を使った装飾品、家具や楽器に施された寄木の象嵌細工、分厚い古書の装丁、多彩花文皿、モスクの壁の装飾やステンドグラス・・・それらにこめられた、イランの人々の原イメージは、これなんだな、みんな繋がっているんだな、と解りました。

 こういう感性って遡るとイスラム以前のペルシャに由来していると思うのですが、素直に人間の本性を表しているのではないか。

 ペルシャは最盛期、ほぼオリエント全域を支配した世界帝国だった。人類の歴史上、最初の世界帝国です。

 ところで、アメリカもドイツもロシアも鷲が国章なのは、ローマ帝国の国章が鷲だったからでしょ。現代のEUアメリカ、ロシアは要するにローマ帝国の分家筋で、国連常任理事会の5カ国のうち4カ国がそこに含まれている。

 今年が2020年だと言っているのもローマ帝国の皇帝が決めた西暦によって決まってるわけでしょ。世界史が西暦で配列されているのも既成事実になっている。もしペルシャがその後、ギリシャ、ローマの文明に覇を奪われなかったら、世界は、今とは別種の異なる文明になっていたはず。

 

 中国の庭は、なんか奇を衒う方向に進んでいった。特に清朝になってますます、満漢全席の様相を呈してきた。清の磁器もそうでした。反自然の人工楽園に向かっていく精神の衝動みたいなものが底流にあるのでしょうか。

 満漢全席は、当時の中華世界では異民族の皇帝、つまり満州人が漢人(中国人)の上に位置していることを象徴している料理ですよね。・・・あの地の異民族支配は元もそうだったし、ヨーロッパの黄禍論で最悪のパターンは日本の皇帝(天皇)の下に中国が統一されることだった。日中連邦というか、その実現は西洋の没落を意味していた。

 そういえばバブルの頃、満漢全席を食べにいくツアーとか雑誌の特集があったが、あのころが日本のベルエポックだったんだなと今にして思う。

 21世紀になって、ワシントン条約で動植物の規制が強化され、感染症のことも大きくなって、もう満漢全席のような欲望全開の時代は終わっているのかも、ということでは20世紀の徒花だったのか。・・・話を戻します。

 また、日本の庭は結局、中国の宋代の禅から派生した枠組みから自由になれていないように感じる。すでにそれが伝統になっているので今更どうこう言う筋合いではないのですが。

 利休の侘び寂びもそうなんじゃないかと思うのですが、創始者が偏屈で意固地になっていたのを門下が真に受けて、あるいは門閥の権威づけのために祭り上げられカリスマ化し、それを何百年も踏襲し続けて今に至ってるのではないか。

 嘘から出たまことで、何百年もそれを続けてると、最初は虚妄でもいつしか実体化してくるんですね。別の言い方をするとプラシーボ、ただ歴史・文化に裏打ちされているプラシーボなので気づけない。

 その意味では、かなり特異な感性だとしても、それが日本なのかも。三島由紀夫は亡くなる3ヶ月前、日本にはオリジナルなものは何もないんだ、何もない、無のるつぼの変性力こそが日本なんだと言っていた。その変性力のことですね。

 

 ペルシャの感性は、幼子みたいに素直なように感じました。和辻哲郎は、それを風土に結びつけて解釈してるけど、そういうのって一見、説得力があるようでいて、でも結果から恣意的に、自分の認識できる範囲内の要素を探索して原因を言挙げしているだけなんじゃないか。認識できない要素、そしてそこに核心があるということ、ないでしょうか?

 「楽園」を意味する「 paradise 」という言葉は、いにしえのペルシャ式庭園のことをそう呼んでいたことに由来しているとか。

 この一家の庭は、特別な庭ではなく、どこにでもある庶民の家の庭でした。立派な庭園とは比べようもない。でも、究竟、そんなことは末梢的なことで、その土地で育まれた感性の核は同じで、この人たちの魂に焼きついているパラダイスの原イメージはこれなんだなと発見した気持ちになっていた。

 いまこんなふうに書いていて、もしかして大きな勘違いをしている可能性がないとはいえない、その可能性は認めるにしても、あの朝、受けた鮮烈な印象は今もありありと生きている。

 

 季節がずれていたのか、庭で薔薇(ばら)の花は見なかった。またイランの国花といえばチューリップですが、それも見ていない。そう、一家の庭の話しではないですが、薔薇といえばこんなことがありました。

 国境近くの町で出会ったクルド系イラン人の若いペシュメルガ義勇兵)は、一日中、庭の薔薇の枝の手入れや水遣りをしていた。本来の仕事というか任務はしないで、70~80センチほどの茎の根元の余計な土を掃いたり、支え棒を立てたり、細いことまで熱心にやっている。

 元は地方役場のちょっとした広さの庭、古いが立派な建物の造りはイギリス統治時代のもののようでした。横浜の山手にある古い洋館といった感じ。イランから険しい山を越えてやってきたペシュメルガたちが建物を接収して宿泊所になっていた。

 ここに寝泊まりしていた40人ほどのペシュメルガは全員、中学生ぐらいで雰囲気は林間学校のよう。子供だけで編成された軍隊って奇異な感じですが、その場にいると別に普通な感じで違和感もないんですね。

 部隊長は大人のペシュメルガですが、生徒たちの引率者のオジサンといった感じだった。とにかくワイワイ、ガヤガヤ賑やかで、支給されたAK47と手榴弾を持ったまま鬼ごっこみたいな遊びをしている。規律は全くないのですが、それでも、それなりの戦力になっている。

 イラクペシュメルガでしたが、対戦車ロケット弾を抱えて一人で政府軍の戦車2両を撃破した少年がいた。彼らの中ではオリンピックの金メダル以上の名誉で、周りの仲間、大人たちからヒーローになっていた。

 庭先のテーブルに手榴弾を置きっぱなしにして、ぶっかった拍子にテーブルが傾いて手榴弾が転がり落ちてきた。あっ、危ない、みんな慌てる。瞬間的に運動神経のいい奴が飛びついてキヤッチした。すると、みんなよくやったと大喝采、一堂さらに盛り上がる。終始そんな感じでした。

 

 その庭は、完全に薔薇園になっていた。いったい彼は、ここで何をしてるんだろうか? 薔薇を愛でる目つき、表情からして、彼にとって薔薇は特別な存在なことが分かる。

 彼は変わり者と見られていたようで仲間たちの輪には入らず、あまり喋らないが、薔薇の枝葉とは恋人みたいに接している。部外者の目には薔薇フェチのようにも見えてしまう。

 酒を飲まない文化で生まれ育っても、人は薔薇に酔うってことがあるのかも。シラフの酔いって想像できないかもしれませんが、言葉の比喩ではなくてそういうリアリティも確かにあって酔いというか、陶酔というか、そんな意識になっているのではないか。

 そういえば、インドの13〜16世紀のバクテイ運動は、要するに神に酔うという現象だったのではないか。ハーレクリシュナの一団が太鼓を叩き踊りながら歩いてるのを見ると(最近、見ないですね)、バクテイ運動を思い出したものです。また、流れは違いますが、ラーマクリシュナも神に酔っていた人だった。

 薔薇の香りといえばローズダマスク、近隣のシリアの薔薇に由来している。ペルシャの時代は同じ文化圏でした。ローズダマスクの香りは人を陶酔境に導く魔法ともいえる。また、ペルシャの文化には詩に酔うというのもあって、嗅覚と詩が共感覚のように繋がっているようにも思う。

 彼の場合は、かなり極端でしたが、イラン人にとっての薔薇の花とその香りは、こういうものなんだなと、垣間見た思いです。

 

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「博物館のいっぴん 」展

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 足立区立郷土博物館の「博物館のいっぴん 」展にいってきました。

 「いっぴん」って、どんな物が展示されているのか・・・「博物館では歴史・民俗資料をたくさん収集保管しています。めずらしいもの、貴重なもの、面白いもの、博物館資料のなかから、ちょっと楽しいコレが「すごい!」を紹介します。」(案内文)といった内容。

 要は、収蔵品の中からふだんの展示企画ではあまり出番のない珍品を選んでみましたってことです。 言葉は悪いですが、ガラクタとの線引きが難しいものも含まれている。

 この企画を知ったとき、江戸時代後期に変な物(奇物)・本(珍書)を集めてきては批評し合っていた「耽奇会」、また昭和のはじめにそれを再現した「新耽奇会」とつながる匂いというかオーラを感じ、見にいかなきゃという思いになりました。

 展示されているのは主に足立区内に関係した物品がですが、このあたりは昔から「東郊」(江戸・東京の東の郊外)という文化圏で括られるので、そのエリアともいえる。大まかに足立区、葛飾区、江戸川区に広がる地域です。

 企画展は、主に明治以降に作られた珍品の類いと、江戸時代から幕末の布告、高札、算額などの二部構成になっている。ここでは前者の珍品の方を紹介します。併せて常設展示品の中で面白いなと思ったものも選びました(そうでした、今月の8日までの開催期間ですでに終了していますが、常設展はやっています)。

 以下の説明文は、会場の解説文を要約したものと、そのままの引用、それに私見が入り混じっています。横道に逸れているのはだいたい私見です。

 

 上・左の写真「張り子心臓模型」

 医学教育用の教材の心臓模型、思いっきりキュートな彩色に目を見張る。外側を取り外すと、心臓の内部が見え、精緻に作られている。動脈、静脈が色分けされきれいに塗られている。

 見た目、これが一番インパクトがあり、「すごい!」ということで会場の入り口に展示されているのだと思いました。この企画のポスターにもこれが載っている。

 いつ頃のものか解説はないですが、状態からして昭和の戦後に作られたものだと思いました。

 この模型は、人形のダルマさんと同じ張り子の作り方で製作されています。工程としては、型にすき返し紙をはって重ねて、それから型を抜く。そして、上に和紙を貼り、切り口には板を貼って、上塗り、彩色とまさに職人技です。 

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 左・「木製の洗濯器」 

 大正11年に実用新案登録された手動の安倍式洗濯器。中は見えないので仕組みは分かりませんが、洗濯板を用いていると解説にありました。

 昔、洗濯物は手でゴシゴシ洗っていた。大正時代に洗濯板が普及し、昭和30年代に電気洗濯機が登場するまで、一般家庭では盥(たらい)に洗濯板を置いて洗濯していました。

 当時、家電の白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器と呼ばれていました。考えてみると、そんなに大昔のことではないのですね。

 右・「栓抜器」 

 ビンのコルク栓を抜くための道具。てこの原理で栓を抜く、現代でいえばワインオープナー明治41年に実用新案登録されている。洗濯器にしても栓抜器にしても街の発明家が作ったもので、全国各地にこういう発明家がたくさんいた。農村部にも新しい脱穀器や種まき器など農機具を作った発明家がいて、一部は各地の資料館などに保存されています。

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左・「人体解剖模型」 

 こちらも和紙を貼って作られている。こういった人体模型は、江戸時代の終わりころから作られはじめ、その後、技巧がさらに巧みになり、戦後は海外輸出もされていたという。プラスチックなど新素材が登場することで、時代遅れになり廃れていった。

 解剖模型や骨格模型、それに鯉のぼりや大凧など、区内には和紙、張り子の職人さんたちが大勢いたようです。そういえば、幕末・明治期の見世物に生人形がありました。あれは不気味なほど妙にリアルな造形で、職人さんたちの間につながりがあったんでしょうか?

右・「骨格標本のパーツ」 

 展示には全身の骨格標本(模型)もありました。でも、見るからにガイコツ(あたり前か)、なんかホラー的な感じがして、その写真はパス。総じてホラー的なものは、映画でも小説でもどうも嘘っぽくて面白味がないように感じるのですが。

 写真は、背骨と足の指の骨の未完成品。古紙で形を作り、加工、彩色して完成させます。いっしょに右側に写っているのは和装マネキンのボデイで、これも古紙で作られている。

 そういえば、去年、区内の空き家で500人分の人骨(インドから持ち運んできたもの)が見つかってニュースになりました。骨格標本を製作していた会社のストックだとか。ダンボール箱に長年放置されたままになっていて、一部、箱が破けて庭先に骨が転がっていた。

 骨格標本の場合は、状態の良し悪しが問われるので、本物よりも模型の方が適しているように思われるのですが。

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左・「名物看板だった下駄」

 千住4丁目の旧日光街道沿いにあった下駄屋さんの店先に飾られていた大きな桐下駄。ふつうの下駄の50倍の重さとか。長さ40センチぐらいか(?)。幕末、下駄の産地の会津で作られたものだそうです。

 この下駄は、店の看板になっていて、あまりの大きさと派手な赤い鼻緒にみんなビックリ、街道を通る人々の目印になっていたという。いま郷土博物館に収まっているのですから、往時の千住で知らない人はいない存在だったのだと思う。昭和39年ごろ店先に飾ってあるモノクロ写真も展示されていた。何代かにわたり100年は店先にあったことになる。

 ところで、明治後期に見つかった安藤昌益(1703〜1762)の『自然真営道』の稿本(手書きの清書を冊子にしたもの)は、この下駄屋さんの近くの穀物問屋に約150年間秘蔵されていたんですね。江戸時代、本の内容が公になれば首が飛ぶようなことが書かれていたので隠されていたわけです。

 昌益は秋田の大館で生まれ、青森の八戸で町医者をしていたこと、大館で没したことは分かっているが、それ以外のことはほとんど不明、肖像画のようなものも残っていない。時代は赤穂浪士の討ち入りがあったころ、階級、身分を否定した万民平等の世の中を構想していた。

 昌益はどんなことを考えていたのか? それを「農本的無政府共産主義」と評した人がいた(石川三四郎)。全ての人が土を耕し農業で食を得て、幕府や藩とか代官とかの権力機関の存在しない世の中、だいたいそんな感じです。

 当時、千住には昌益の話を聞く非公然の集まりがあった。千住の宿は江戸市中の郊外だったので幕府の目につきずらかったことがある。その集まりのメンバーが本を保管し、そのまま時代が移り変わりタイムカプセルみたいになっていた。

 長い眠りから覚め世に出てきた『自然真営道』は、その後、当時の東京帝国大学附属図書館が購入するのですが、関東大震災で大部分(約9割)が焼失してしまった。本を秘蔵していた穀物問屋さんの家屋と蔵も1945年3月10日の東京大空襲で焼失。

 昌益の思想については、いろいろ考えてきたことがあるのですが、それはまた別の機会にということで一言だけ、この人は「すごい!」ですね。

 書いていて、そういえば深沢七郎も昌益と同じこと言ってたなと気づいた。『生きているのはひまつぶし』というエッセーです。超堅物の昌益と遊び人の深沢七郎、ノリは180度真反対ですが奇しくも両者似た思想、その人の気質から生まれた思想です。発禁本を書いているのも同じで、極めて正直ですが、古今、日本の中ではアウトサイダーになるしかない性(さが)を感じる。

 ・・・あまり関係ない話ですが、築地の場外市場で、店先にヤマネコの剥製を置いていた乾物屋さんがありましたが、あれはどうなってるんでしょうか。

 ヤマネコといっても豹、ピューマぐらいの大きさで猛獣といった感じ。市場の路地の角にあって目印になっていた。ああいうのも名物看板(店のシンボル)。また、看板娘って言葉もありました。笠森お仙、柳家お藤、蔦屋およしから始まって、今だとアイドル、だから人間でもいいんですね。

 たぶん全国いたる所に、この手の人の目を引く名物看板があるのではないか。

右・「紙製の鯉のぼり」

 長さ4メートルとけっこう大きい。和紙は丈夫で色もつけやすい手ごろな材料だったので、昭和の中頃までは和紙の鯉のぼりが作られていたという。江戸時代の鯉のぼりは黒い色で、錦鯉の赤が作られるようになったのは明治以降のことだそうです。

 鯉のぼりの胴体が風に膨らんだ姿を想像して思ったのですが、戦時中のアメリカ本土攻撃用の秘密兵器、風船爆弾も和紙で作られていた。爆弾を付けて太平洋を横断するぐらい丈夫にできている。その製作には、こういう職人さんたちの技がベースになっていたのではないか。

 風船爆弾の材料は和紙(コウゾ、ミツマタの繊維)とコンニャク糊、それに麻紐でしょ、そして細菌兵器を搭載する案もあったようで、素材がみんな草食系というか、地下資源に乏しいことから省エネ・エコロジー兵器(?)みたいな方向に進化していった(いくしかなかった)ことが分かる。このあたり日本的だなと思う。 

右の奥・「大凧」

「足立区梅田界隈では、昭和時代の初めころ和紙をはりあわせて大きな凧をあげることが行われていました。」(解説文)。和紙をはりあわせて大きな一枚の紙にしたもので作られている。凧は、大正時代、千住の名産品の一つだったそうです。

 当時、凧揚げは大人の遊びで、大風が吹くと一日中凧揚げをしていたとか。・・・バリ島が毎日、そんな感じでした。クタの空にはいつもたくさんの凧が見えていた。郊外を歩いていたら車ぐらいの大きな凧が路地に不時着していて、通行できなくなったりもしていたのを思い出しました。

 補足として、文末にバリ島の凧揚げの写真を付けました。

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千住大橋を描いた欄間」

 地元のお大尽の家にあった欄間だそうで、横幅3.6メートル、「大正14年5月 貞卜作」という銘が記されている。「木材の木目や節を川の流れに見立てて背景とし、そこに橋脚、筏をあやつる船頭、船を木、貝、鉄などをはめ込む象嵌の技術を使って表しています。」(解説文)。

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左・「輸出用セルロイド製品」

ここからは常設展示品の中から面白そうなものをピックアップしてみました。「アジア風俗を表現したミニュチアの置物のセットと帆船、象牙風、鼈甲風に色づけされており、セルロイドの加工しやすく、着色しやすい特徴がよく生かされた製品である。」(解説文)

右・「松本昌久作 手彫り花札牌」

「通常使われるものではないが職人が腕試しで彫った花札牌。花札の細かな絵柄が、麻雀牌と同様の彩色を使いながら見事に表現されている。」(解説文)

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左・「文化フライ」

 地元のソウルフードですね。一見、ハムカツに似ているが、ハムの入っていないハムカツといったところ。文化フライも次のポッタもどこか戦後のヤミ市の雰囲気がある。自分の勝手な造語ですが、テキ屋料理っていうのがあり、それに含まれます。

 「ガムシロップを入れて練った小麦粉にパン粉をつけてあげたものです。梅田の長谷川商店が発案したもので、西新井大師をはじめ下町の縁日で長年販売されたため、懐かしい味として思い出す多くのファンがいます。」(解説文)

右・「 ボッタ」

 こちらも地元のソウルフード。「足立区周辺では水で溶いた小麦粉を焼いた「もんじゃ」をボッタと呼び、子供たちに人気があり駄菓子屋の鉄板で焼きました。値段が安く、具はほとんどなく、鉄板にボタボタと落とすことからついた名前といわれています。」(解説文)

 これは以前、駄菓子屋さんで食べたことがある。 地元の人に車で店まで案内されて行ったので場所ははっきりしない。舎人ライナーの高架が近くに見えた所でした。あれが開通したのは2008年なのでそんなに昔しというほどでもない。

 味はよく覚えていませんが、ランドセルをしょった小学生たちが下校中、寄り道して食べていたのを覚えている。

 

補足・・・今年、世界的なコロナ騒動で、バリ島では観光店の閉店が相次ぐ一方、空は凧だらけといったテレビニュースがありました。仕事がなくなり暇になった人たちが凧揚げをしている衝撃的光景といった感じで報道されている。でも、上記のようにもともと凧揚げが盛んで、空には凧がたくさん見えてたんですが。

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ブルートパーズは「いい!」

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(ブルートパーズの原石 、どうも写真は実物のイメージと違っている。とりあえずこんな物体、ということで。全体の形は丸っこくて、タマゴぐらいの大きさの結晶。)

 

 気分がクサクサしてるときはブルートパーズ(原石)を見る。ブルーと言っても青というよりは透明な水色っぽい結晶。テーブルの上にゴロンと置き、ただ眺めてるだけ。

 朝の光が斜めから射し込んだ結晶は極美。見ていると、しばし時を忘れ、その間、思考が止まってクサクサした雑念が消えている。忘我と言ってもいい。

 結晶の一面は、艶やかでツルンとした真っ平らな平面、無機的な光沢のテリ、氷や水晶よりも硬質な透明感・・・見ていると微妙に意識が変容している。

 忘我という言葉は、本来はスーフィーやインド由来の流れをくむ宗教的な体験の中で語られているのですが、そういう文脈とは場違いの状況でも同じ意識状態になることがある。

 別に、それでクサクサしている根っ子が解消されるわけでもなく、一時的な気休めにすぎないのですが、それで気分がリセットされるので、十分癒される。一応、社会生活をしているので、一日中、ボーッと眺めてるわけではないです。そう、これは疲れたときにもいいです。

 

 トパーズ( Al2(F,OH)2SiO4)は、鉱物学ではケイ酸塩鉱物というグループに分類されている。そのグループの代表的な鉱物といえば水晶(=石英)、化学式は二酸化ケイ素(SiO2)、地球にある最もベーシックな元素を組み合わせた鉱物です。

 トパーズはケイ素、酸素にアルミニウム ( Al )と水酸基( OH )、フッ素( F )が組み合わされた組成で、アルミニウムの化合物はルビーやサファイアなどコランダム( =鋼玉、Al2 O3、酸化アルミニウム)のようにとても硬くなる。トパーズはケイ酸塩鉱物の中では最も硬い。上の写真のトパーズは、ずっしりとした重量感がある。

 実際に、見た目(輝き、光沢)と手で触った感触(質感)や、ずっしり感(比重)で分かりますが、トパーズは、比較すると水晶とコランダムのちょうど中間といった感じです。

 トパーズは、サファイア、ルビーのようなコランダムやエメラルドなどよりも大きな結晶が採掘されている・・・透明度のある結晶の話しです。不透明の結晶ならば、見るからにデカイという感じのコランダムやエメラルドもありますが、いくら大きくても不透明だとやはり岩石の標本みたいでちょっと・・・。

 大きくて透明な結晶は、それだけでインパクトがある。小さな結晶にはない物体としての存在感があります。言葉にならない透明な非現実感というか、それがトパーズの魅力だと思っている。ついでにコランダムよりずっと安い。

 日本でもトパーズは採れる。和名は黄玉、明治時代にはヨーロッパにジュエリーとして輸出されていた。日本のトパーズは無色透明で、黄玉と呼ぶのはおかしいのですが、18世紀にドイツで淡黄色の結晶が採掘され、当時、それを加工したアクセサリーがヨーロッパでもてはやされていたことから、同じ鉱物なので黄玉ということになった。

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(日本のトパーズ。以前、岐阜県の山で採ってきたもの。それなりのサイズの原石は、過去に取り尽くされている。小さくて、これなら水晶の粒と見間違ってもおかしくない)

 それまで日本では水晶と黄玉の区別がはっきりしていなかった。確かに透明な水晶と透明なトパーズは一見、よく似ている。でも、よく見ると、トパーズは水晶よりも屈折率が高く、比重も重いので、水晶よりキラキラしていて、手に持つと重くどっしりしている。水晶は結晶の断面が六角形ですが、トパーズは平行四辺形という違いがある。しかし、明治になるまで、そういう違いは、見逃されていた。

 

 トパーズといえば、先日、石好きの女性Aさんからこんな話を聞いた。ふだんは会社で経理の仕事をしているAさんは、その日に限り、やむ終えない用事で早退けすることになった。帰りの地下鉄の車内でのことです。

 隣に立っている女性のつけているブレスレットが普通じゃないことに気づいた。石のギラギラ感にクラッとした。車内の照明の下でも眩しいぐらい、それもブルーに輝いている。

 Aさんは、気づかれないようブレスレットをちらちら見てるうちに目が離せられなくなった。水晶の屈折率1.54~1.55に対し、トパーズは1.66~1.67で、水晶よりも輝きが強い。   

 石のはっきりとした明晰なブルーの色感、それに光を最も効果的に反射するカットを施し研磨しているのだから、やりすぎ(そこまでいくと毒気というか)ぐらいに出来ている。

 その女性が下車すると、Aさんは衝動的に後をついていった。それって尾行でしょ。やむ終えない用事は、どこかにいっちゃてる。夢遊病者のようにとか、催眠術にかかったようにとか、比喩ではなく現実にそういうことあるんですね。

 Aさんは、以前から透明でキラキラしている原石に魅せられる性分だと自認していました。そういう性分のことをなんと言えばいいのか、 能力(「物事を成し遂げることのできる力」大辞泉)というのとは違うし、認識力・知覚力に近いが、 広い意味で審美眼というか、生まれつきこういう感受性が鋭い人っているようです。

 

 以前にもふれたと思いますが、さくらももこさん(ちびまる子ちゃんの作者)は宝石が大好きだった。本の中で、どうして宝石に夢中になったのか、その理由を「星が自分の中にあるようなものだからね。星に似てる物なんて宝石しかないよ、この世には。」と説明していました。

 この一節、本心を語ってるなと思いました。そして、なんか普通ではない気配を感じました。これは、ふつうにキレイだから好きと言ってるのとはちょっと違う。それが極絶対的な世界と接するところまで極まっている人の言葉のような気がした。

 そういえば、さくらさんの好きな石の一つに、色のついたトパーズ、よくインペリアルトパーズと呼ばれている黄色から橙色、赤系中間色のトパーズをあげていました。シェリー酒やウイスキーのような色のものもある。

 ・・・書いていて、以前、ウイスキー色をしたトパーズの小さな結晶を見て動けなくなってしまった女性がいたのを思い出しました。 Bさんとしておきます。石を見て、ここまで感動する人は稀で、よく覚えている。

 Bさんは初めてこの色のトパーズを目にしたそうで、表情や目つきからリアルに感動してる様子が分かりました。トパーズを見つめたまま棒立ち、言葉が出てこない。

 察するに、Bさん自身、どうして自分がこれほど魅せられているのか分からなかったのではないか。

 直感は、統合的な「感覚」なので、分析的な言葉では言い表せられないということがある。部分、部分を、例えば色や形、模様、表面の質感、内包物、屈折率や分散と分けていっても、それはデータにはなっても核心には迫れない。人はそれらが一つになった全体的イメージで感じているのですから。

 Aさんにしても、Bさんにしても、たぶん、さくらさんも、同じタイプの人なのではないかと思う。なんとなく直感は性別と関係していて、どうも女性の方が直感能力(?)が高いように思える。

 蘭の花の中には女性にしか香りが分からない品種がありました。男にはその香りが認識できない。おそらく女性ホルモンが感知能力に影響しているはずで、そういう方面のことはまだ未知の領域なんじゃないでしょうか。

 

 話しを戻します。Aさんは、改札口を出てからしばらく女性の後をついて行った末、話しかけてブレスレットの石について尋ねた。相手の人、びっくりしたかと思います。

 そして、クラッとした石は、ブルートパーズだということが分かった。

 アクセサリーに用いられるブルートパーズは、ほぼ全て放射線の照射と加熱処理によって青い色にしたものです。先ほど「 やりすぎ(そこまでいくと毒気というか)」と書きましが、自然ではありえない濃さの青、その派手な輝きに俗っぽさを感じ引いてしまう人もいる。

 天然のブルートパーズ は、青の色が薄くて小さくカットすると、見た目、無色に近くなってしまうし、また、そんなにたくさんは採れないのでアクセサリーに用いられることはほとんどない。

 だからと言って貶めてるわけではないです。というのは、昔から、確か1000年以上も前からコランダムやジルコンなどの宝石は、熱して色を変えているので、人の手を加えることは、この世界ではノーマルなことだったからです。

 

 結局、ルースになると自然石もそれに手を加えた半自然石も、あるいは人工石もキレイという基準では優劣がない。天然ダイヤモンドと変わらない人工ダイヤモンド、あるいは天然ダイヤモンドよりもキレイな人工のダイヤモンド・サイミュラントとか、それがコランダムでも同じことですが、本物よりもキレイな偽物ということもある。

 話が飛びますが、昔から書画、骨董、刀剣の中には、本物より上の偽物、真作より秀でた贋作も混じっていると言われてました。

 書は、ほとんど知りませんが、昔の高名な書家の作品で、本人よりも弟子が代筆した書の方が上だといういう話しもある。刀剣の世界で「無名に偽物なし」と言ってた人がいました。当たり前のことを言っているようであり、でも改めて考えるとけっこう奥深い言葉でもある。

 平成の時代、一世を風靡した交響曲の作曲家の作品が、実は代作者が作っていたと分かり騒ぎになったこともありました。

 思うに、それが本物か偽物かという区別(鑑定の眼と言ってもいいですが)と、それがストレートな言い方で「いい!」ものか、素晴らしい、美しい・・・言い方に困りますが、そういうものかの見きわめは、異なる次元のことのようです。

 

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エノキとムクの実はおいしい/縄文文明と木の実

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 8月下旬、公園のエノキ(榎)の木の下に小さな赤い実が落ちていた。まん丸の球形で、小豆色やオレンジ色に近いものなど地面にたくさん転がっている(上の写真、左がエノキの実。右はムクの実)

 前から鳥がよく集まってくる木だなと思っていた。 枝先の実をヒヨドリオナガメジロがついばんでいる。 本には人も食べれると書いてあったけど口にしたことはない。気になり、拾って何粒か食べてみた。

 仄かに甘みのあるアンコのような味。木の実なのに、お饅頭やたい焼きのアンコと同じ味がするのがなんとも不思議。果肉に水気がなく粉っぽい。そんなところもアンコに似ている。これは案外、いけるんじゃないか。

 きれいに洗った実を人にも食べてもらったところ、白あんのような味、確かにアンコっぽいと好評でした。

 しかし、小さくて食べたという気がしない。測ってみたところ直径6ミリ、中に硬い種が一つ入っていて果肉層は薄い。それならということで20粒ほど口に入れた。でも、種が気になり食べづらい。

 たくさん集めてペースト状にしてみようか。パンやお餅につけたらいいかも。乾燥させればこな汁粉もできる。しかし、いざやってみると、100粒ぐらいでも僅かしかできない。果肉の量が少ないので手間がかかる。

 ということで、どうも食材にするのは難しい。9月の中旬になると、実が硬くなってきて食べるのには適さなくなる。来年、もっと効率的な方法を試みようと、今回はここまででした。

 

 エノキと次に取り上げるムクは一見、似た樹木です。エノキもムクも里山や郊外でよく見かける木で、見分け方として葉の形が違うので分かる。特に、葉の表面を指で触るとザラザラしているのがムク、ここを覚えておくといい。

 しかし、ともに高木で葉を採るのが大変なときもある。そんなときは、幹を見ても分かる。人の身長の目線の位置なので楽です。

 エノキの大木の幹は白灰色から褐色で、象の足を太く長くして、それがすくっと直立したように見える。根元から幹の先を見上げると聳え立っている。幹の根元を見るとタコの足のような根が地面に伸びている。・・・う~ん、書いていて、エノキとムクの幹の違いを文字や写真で説明するのは難しいかも。それぞれ個体差があるし、樹齢によっても変わってくるので。

 でも、幹をたくさん見ていると、違いのパターンも自然に分かってきて、それぞれの特徴を集合的に掴めてくる。何度も繰り返し見ていると分かってくる。

 そうしていると、特徴に当てはまらない部分があっても、全体的な判断として、こっちだと分かるようになる。このあたり、中国の陶磁器を見るのと似てるなと思う。

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 写真の左は、根元から見上げたエノキの幹。雨上がり、緑色の苔に覆われた幹が目に映える。右は、ムクの幹。地面にヒダのように広がる板根は迫力がある。

 写真でも分かりますが、エノキもムクもシイ(椎)の木に囲まれている。共に鳥が他所からシイの林の中に種を運んできて芽を出し成長したものです。

 いろんな木の幹を見比べるのも面白い。理想的には手つかずの原生林の木であればいいのですが、公園に植えられる木は定期的にきれいに剪定されているので、それはこの辺りでは無理っぽそう・・・。

 同じ種類の木でも一本、一本異なる個性がある。古木の太い幹は、そこに長い時間が蓄積されている分、個性がより強く現れているように感じる。

 幹の膨らみや節くれ、瘤や洞、筋のおうとつ、樹皮の色模様、地肌についた苔や寄生木、虫食いや腐朽の跡も、根元から出てきた「ひこばえ」(新たな芽)も、見ているとけっこう味わいがあります。

 そうでした・・・この公園は、昔は長州藩の関係の霊廟だった敷地で、戦前、まだ公園になる前、クロマツ(黒松)とシイが植林されている。二種類の木を東と西の二つのブロックに配置し、それが現在は林になっている。

 いつだったか、朝、シイの林を歩いていたとき、妙にメンタル的に鎮まっていることに気づいた。照葉樹林なので下は光が抑えられ陰の気の空間。自然に魂と魄が鎮まり、いわば軽い鎮魂の状態に入っている。また、クロマツの針葉樹林は空が明るくすっきり清涼、陽の気の空間。こちらは心身が清められる。

 つまり陰(西側のシイの林)と陽(東側のクロマツの林)の空間になっている。

 ここでメンタル的にと言っているのは、内臓系の心(三木成夫氏の言葉だと腸管系・血管系・腎管系の植物性臓器が司っている心)のこと、別の言い方をすると魂魄のうちの「魄」の方のことです。

 そういえば、朝、気功をしている人を見かけるのですが、申し合わせたようにクロマツの林の方でしている。別にそこじゃないといけない理由があるのではなく、何となく自然にそっちでやっている。自分は理屈であれこれ言ってますが、感覚的に気功をするのに適した場所が分かるんでしょうね。

 この二つの空間は当時、木々が人にメンタルな作用を及ぼすことを知っていた造園家(?)が、意図的に計画して作ったのではないか? 

 ということで、原生林ではなく、人の作為が入っている林ですが、それはそれで面白い。

 

 9月に入るとムク(椋)の実が落ちはじめた。ムクの大樹の下にたくさん落ちている。ムクやクスノキ(楠)は成長が早く、樹齢80〜90年でけっこう大木になる。苔に覆われ、樹皮が剥がれて樹齢何百年かという古木の風格を漂わせていても、意外に若かったりする。樹齢150年ぐらいのケヤキ(欅)に匹敵するというか。

 ムクの大樹は「板根」と言って、幹の下が張り出したヒダ状になる。こんな大樹が一本あると、その周りの空間が亜熱帯のジャングルのような雰囲気になります。宮崎駿のアニメで描かれる森にもこんな木が出てきた。夕方、日が陰ると、魑魅魍魎の気配が醸し出され、なんかワクワク感がある。

 ムクの実は、エノキの実より少し大きい(直径約8ミリ)。エノキの実より僅か2ミリほど大きいだけですが、見た目も違いを感じる。

 8月下旬、緑色の実が落ちているのに気づいた。でも、緑色の実は、まだ硬く味もない。熟してくると黒く萎んだ実になり、それが食べごろ。

 口にすると、甘酸っぱいブルーベリーのような味。これはジャムにもなる。こちらもなかなかいけるんじゃないか。

 しかし、熟した実は地面に落ちてきた時点で、潰れた状態のものが多いというか、薄い外皮が裂け果肉に土がついて食べるのには抵抗ある人も多いかも。枝についている実を採ればと思われるかもしれませんが、ムクもエノキもけっこうな高木で、細い枝先についている小さな実を一つ一つ採るのは大変で、難しいのではないか。

 結局、木の周りに落ちてきたものを集めるしかないようです。

 ・・・ところで、日本は野生の果実が豊富だという話がありました。ほんと? そういう指摘、初めて耳にしました。その中でもエノキとムクノキの実は「かなりおいしい果実」だと言われている。以下、引用してみます。

 

「日本の植物相には、野生の果物が非常に豊富である。キイチゴ類は、世界一種類が多く、日本全土にわたって分布しており、主に二次林クヌギーコナラ林やアカマツ林のなかでみられる。・・・

 日本の北半分には、ヤマブドウ類やサルナシなどの優れた果樹が野生しているが、これも野生利用にとどまった。

 また、日本の南半分にはエノキ、ムクノキのような大木がどこにでも野生しており、小さいがかなりおいしい果実がなる。エノキは「餌の木」から名付けられたの説もあり、食用として有用である。しかし、このふたつとも今日では見捨てられている。日本原生の果樹で発達したのは、ただひとつ日本梨だけで、ほかにはナッツの栗があるだけである。」(杉田直儀「週刊朝日百科 世界の食べもの 日本編 24 野菜・果実」)

 

 エノキ、ムクノキがおいしい果実というのはもちろん同感、一方、食用にするには実が小さく量が足らないし、採取が大変なので見捨てられているのもしょうがないとも思う。

 引用文の文末で栗(クリ)を挙げている。クリは種実類と言って硬い殻や皮に包まれた木の実、いわゆるナッツ・・・ナッツという言葉からは、アーモンドとかカシューナッツとかピスタチオなどスナック、お菓子を思い浮かべるのですが、クリもナッツなんですね。

 

 縄文時代の日本人(?)は動植物、魚貝類などいろんなものを食べていたが、主食は、クリ、クルミ、トチノミ、ドングリなどナッツでした。栄養的にクリ、トチノミ、ドングリはデンプン質で穀物の代用になった。

 今回、エノキ、ムクの実がなんとも小さいとボヤいてましたが、ドングリはそれに比べると一粒が大きいし、一本の木からそれこそうじゃうじゃ採れる。木の下に歩く場所がないぐらい実が落ちてくる。クリやトチノミは、うじゃうじゃとまではいかないですが、一粒がずっと大きい。

 縄文時代の中期から後期にかけて人口と集落数、建造物や土偶、土器、漆器の製作などの文化は、地域的に東日本に偏っている。青森県三内丸山遺跡のような数百人規模の砦というか村落もあった。最大時は500人が定住していたというから狩猟採集社会のイメージとはずいぶん違う。

 縄文人の暮らしは、現代人の感覚だと自然の中でサバイバル生活をしているのと同じで、それにしてはよくそんな規模の村を作れたものだとびっくりする。遭難してなんとか生き延びるというのではなく、持続的な共同体を築くのですから。

 サバイバル生活の必須条件は、水、食べ物、火、雨風をしのぐ寝ぐら(住居)があることの四つ。その四つが確保できれば、なんとか生き延びられる。

 サバイバル生活を体験する海外の動画がネットにアップされている。熱帯のジャングル、砂漠、北極圏、山奥、無人島などでその四つを確保するため知恵を絞り工夫するシーンを撮っている。毒ヘビやワニ、クマなんかに遭遇する場面もあるのですが、終始、能天気なノリで次はどうなるかとつい観てしまう。

 水と火と住居の三つは日本の風土ならばどこでも確保できたでしょうが、食べ物、それも安定的に人口をまかなう量が採れるという条件はどこでも満たされた訳ではなかった。

  日本の森の植生は、東西の二つに大別される。本州の中部から東、北海度の半分ぐらいまでは温帯落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)、西は中国、四国、九州と暖温帯常緑林帯(照葉樹林帯)に分けられる(佐々木高明氏の説による)。

 クリ、クルミ、トチノミ、ドングリは、東のナラ林帯で育つ木の実なので、中期以降の縄文人の生活圏が東日本に偏っているのは、結局、植物の植生によって決まってきた。

 

  縄文中期は、世界で最も高度に発展した石器文明だったのではないか。人類の文明の趨勢が農耕・牧畜から都市が生まれ、文字や金属を作る世界に移行しつつあった時期に、石器文明をベースにしたまま木や草、鉱物、土=セラミックスを素材にして発展していくのって奇妙な感じですが・・・ああ、後のマヤ文明もそうでした。

 縄文人はそういう生活を一万年も続けていたなんてその長さ、まさに悠久って言うのでしょうか、こういう文明のパターンもあるんだとすれば、凄いなというか、他人事みたいなこと言ってますが、日本人はその末裔なんですね。

  ついでに、別コースの発展パターンということでは江戸時代の和算も似ていたなと思う。他の文明と比較すると、縄文文明は、生産力の技術よりも土偶や土器のデザインや装飾性に見られるように美的な感性を極めていく方向に進化していったようにも感じる。

 

 一方、21世紀の現在も、少数ながら石器時代と同じような生活を続けている人々がアマゾン奥地やベンガル湾北センチネル島ですか(あるいは他にもいるかもしれませんが)いるので、人間世とは、そんなものなのかもという気もする。

 そんなものってのは、人間世はこの数千年間は前に進むだけだったので、そのパターンでこれからもそうだと思っているけど、全てを疑えじゃないですが、本当は前に進むのも、止まるのも、後ろに進む(後退する)のも、潜在的可能性として全てありなのではないか。

 アメリカの遺伝学者、ジェラルド・クラブトリーという人が、人類の知性は狩猟採取時代の2000~6000年前にピーク達し、その後、知的、感情的な能力は徐々に衰えているという仮説を発表していました。言われてみれば、そんな気がしないでもない。

 2000~6000年前(0.2〜0.6万年)というと、文字を使いはじめた時期、そのあたりが人類の能力のピークで、それから現在までいわばその惰性でやってきたということになる。

 人間世の起点をどこにするかで変わってくるのですが、道具(石器)を作った時点とするとおおよそ300万年ぐらい前、火を使いはじめた時点とするとこれは諸説あってはっきりしないが一声おおよそ50万年ぐらい前、はじめに言葉ありき(言語)とすると5万年〜10万年ぐらい前。   

 0.2〜0.6万年は、全体としては比較的短い時間なので、渦中にいる自分たちには、まだトレンドがはっきり見えないのかも。直近の0.02万年前に産業革命が起きたので、それで勘違いしてるなんてことないでしょうか?

 ふと、夢想するのですが、1万年後は、現在とあまり変わっていない、あるいは縄文文明やマヤ文明みたいな世界になってるとか、そんなパターンもあるのかも。「猿の惑星」は後退する方のパターンの未来でした。猿の代役がAIだとしても同じことになるですが。

 

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雪男、イエティの古い絵・・・UMA実在の証拠?

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 宝飾品の展示会に行ったときのこと。ずいぶん前のことです。会場はとても広く、ブースもすごい数、とても一店、一店見てる時間はない。そんな訳で目当てのブース以外は通り抜けるのですが、途中、海外の業者さんのブースが並んでいるエリアで何か引っかかるものが目に入った。

 横のブースの隅に場違いなものがある。キラキラしたアクセサリーを入れたガラスケースの上に、古文書のような、薄汚れた絵(?)みたいな厚紙が束になって置いてある。

 引き寄せられるように近づくとチベット密教のタンカだった。絵葉書より少し大きなサイズで、岩絵の具で描かれており鮮明な色彩。煤や裏面の埃やシミの付き具合、紙の劣化状態から古い寺院にあったものに違いない。

 50~60枚ぐらいの束をササッと見てくと、どれもチベット密教の伝統的な様式の図柄で、この場で売っているとのこと。気にいった何枚か抜き出し、さらに残りを見ていく。

 

 束の下の方に、一枚だけ変な動物が描かれているのが混じっていた。草原を二足歩行で歩いている動物の後姿。全身が毛に覆われ、太い尻尾がついている。これ、一体何だろう? 

 正面、あるいは横からならば、見当がつくのに・・・後姿なのは、逃げ去る姿を遠くから目撃したのを拡大して描いたからなのではないか。見た目、なんかトボけたというか、間の抜けた感じ。

 このブースはシンガポールの業者さんで、聞けば、中国の四川省の寺院にあったものだという。寺の場所や名前は分からない。扱っているメインは、宝飾品なのでタンカの束はついでにこんなものもあるんですが、といった感じで端っこに置かれている。場違いなものなので、足を止めるお客さんもいない。

 紙の状態からこの40~50年のものではない。100年以上は経っている。清朝は1644年から1912年まで、大まかに江戸時代と同じぐらいの期間、江戸時代より少し遅れて始まり明治末まで続いている。

 ところで、日清戦争は清の滅亡に大きな影響を与えていたし、文禄・慶長の役は明の滅亡に影響を与えていた。共に、王朝が傾いていたってこともあるのですが、建国71年の中華人民共和国はどうなるんでしょうか。

 紙の状態から清朝後期のもののようです。日本で明治時代のものといえば、そんなに古いってわけでもないですが。清朝は、チベット密教に対して融和的な対応をしていた。また、現在の四川省の西部は、そのころは東チベットと呼ばれていた。

 中国共産党チベットを併合したとき、チベット自治区と分けてチベットの東側を四川省に組み入れた。万が一、併合が頓挫しても、東側は確保しておくって考えてたってことでしょうか。・・・そういえば、現在のモンゴルという国は、昔のモンゴルの北部地域で、南部は中国に併合されて内モンゴル自治区になっているのも同じですね。

 当然、四川省にはチベット密教の寺院がたくさんあったはずで、現代の中国ではそういう寺に収められていた古い文物は、売り払われているようです。 そんな流出物の一つがどんな経緯を経てか、行き着いたのがここだったわけです。でも、ここでは、売ってる人も、お客さんも誰も関心を持っていない・・・。

 こんな経緯で4点ほど持ち帰ってきた。

 

 最初、描かれている動物は、ヒマラヤの雪男、 イエティかと思った。でも、最近はそういう話し、どうも分が悪い。

 近年、イエティの毛、歯、毛皮、排泄物と言われてきた遺物をDNA分析した結果、イエティの正体はヒグマかヒマラヤクマ(ツキノワグマ)だということになってきた。ちょっと夢が萎むような話ですが、まあ、そうなんでしょう。

 しかし、この絵の動物の太い尻尾はどう考えたらいいのか? ヒグマやヒマラヤクマにはこんな尻尾ないですから。

 

 世界のいろんな動物、すでに絶滅した動物も含めて似た動物が存在していないか探してみた。

 いました! メガテリウム、約1万年前ぐらいまで南アメリカに生息していた巨大なナマケモノの近縁族。成獣は全長6~8メートル、体重3トンになったという。一見、クマにも似ているし、太い尻尾が付いている。

 ヒグマは重いもので600キロぐらいとか。3トンというと、アジアゾウに近い。とんでもなく大きい。そうか、オオナマケモノ(和名)なら、なんかトボけたというか、ノロノロしてそうな感じってのももっともかも。

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 上は化石の骨格を基に描かれた想像図。大英博物館には全身の骨格標本があリます。 

 こういう古生物学に基づいて描かれた絵をパレオアートと言っている。想像図が異なっているのは、実物の体毛や色までは分からないので、その辺りは推測で描いているためです。

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 南米コロンビアのアマゾン川流域の岩窟遺跡で発見された壁画。 約1万1800~1万2600年前に描かれたと推定されている。 その壁画の中に絶滅した巨大動物が描かれていたのですが、研究者がオオナマケモノメガテリウム)と認定しているのが上の絵。壁画にはマストドンラクダ、ウマ、正体不明の哺乳類などもある。

 骨格標本から描かれた想像図と似ているでしょうか。確かに顔、口はそんな感じですが、 尻尾は、はしょって描いているのか? 壁画の方がリアルに現物に近く、パレオアートの方がずれているのかもしれないので。

  ナマケモノは異節類という南アメリカで進化した哺乳類のグループで、清朝後期、18~19世紀にヒマラヤで生息していたというのはちょっと苦しいのですが・・・。ということでは、 メガテリウムとは違うまだ知られていない動物(UMA)かも。

 

 古代の発掘品に限らず、近世でもよく分からない動物のテラコッタ、陶磁器、石像など骨董の世界で見かけることがある。神話や伝説をモチーフにしたものばかりでなく、その時代、その地域にいた生き物に違いないというものもある。

 最近、ベトナムなどインドシナのジャングルで新種の哺乳類が発見されてニュースになっている。あの地域の古い陶磁器の発掘品には、象とか牛とか動物のものも多い。顔の部分の破片で、羊、鹿、馬のような、でもどれにも当てはまらない動物のものもある。

 ああいう発掘品の中には、現在は絶滅しているけど、2~3世紀前ぐらいまではいた動物もあるんじゃないでしょうか。

 

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ボデイランゲージだけの会話

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 写真は棗(ナツメ)の実。このところ目に見えて大きくなってきた。実のサイズは長さ2センチを越えるぐらい。そのままでも食べれる。リンゴのような食感、でも甘みはないし水気もない平板な味。不味くはないですが、美味しくもなく、微妙なところ。

 美味しいといえば、榎(エノキ )  の実でいま木から落ちていて食べごろ。ほんのり甘く、アンコのような味ーー本当の話し。しかし、この実は小さくて10粒、20粒では食べた気がしないし(直径約6ミリ)、たくさん集めるのも手間がかかるしと、こちらも同じく微妙なところです。

 

 近くの商店街でビルの解体工事をしている。昭和の頃は蕎麦屋だった一角に平成のはじめビルが建ち、もんじゃ焼きの店が入り、それから店が変わり、いまビルを壊している。現場で作業しているのは4人、容貌と口髭から中東系の人たちのよう。

 毎朝、犬のJ(名前)と現場の前を通る。何日か目、どこの国から来ているのか聞いた。

 トルコからで、さらに聞くとディヤルバクル出身とのこと。じゃあ、クルド人か。イラクやイランのクルドの人たちにはずいぶんお世話になった。ディヤルバクルはトルコの南東部、シリア、イラクの国境と近い地域にある都市で住民の多くはクルド人です。

 街(旧市街)の周りを囲んでいるローマ時代に造られた城壁、ナスやトマト、ピーマン、豆を使った凝った野菜料理、強烈な日差しと土漠を思い出す。あのあたりから南は、夜になっても部屋に日中の熱気がこもっていて、建物の屋上にマットを敷いて寝ていた。湿気がないので案外、心地いい。

 

 ということで、毎朝、一言二言、言葉を交わすようになった。その中の一人、くたびれた感じのおじさんがいる。なんとなく人懐こそうな、そう、共感性の高い人のように感じた。

 おじさんは日本語も英語も通じない。こちらはトルコ語は挨拶ぐらいで喋れない。

 おじさんの知ってる日本語は、いくつかの地名、いま住んでいる「〇〇(北関東の街)」、乗り換え駅の「赤羽」、「新宿」ぐらい。「ありがとう」「さようなら」は知っているはずなのですが、喋れないのか、喋らないのかよく分からない。

 仲間にグレープフルーツを持っていったとき、おじさんは腕を曲げて胸のあたりに当てて、首をうな垂れた。「ありがとう」の意思表示なのはすぐに分かった。

 

 こちらから何か意思を伝える手はないか? 手振りであれこれやってるうちに、自然とジェスチャーでコミュニケーションをとるような形になっていった。

 可笑しいのは、おじさんの方も暗黙の了解で、自分の意思をジェスチャーで表現しはじめた。阿吽の呼吸というか、いつの間にか互いにジェスチャーに移行していくのが、なんか変だなーと思うのですが、もしかしたら共感性みたいなものが関係しているのかも。

 手話やホームサインは、互いに手指の動作の意味を知っているもの同士の間で成立している。しかし、ここでは、そういう事前学習はないので、もっと原初的というか、色物の芸の中に形態模写ってのがありますが(浅草の東洋館でやっている)、あれに近い。

 

 例えば、こんな様子です。現場の道端に座っていたおじさん、こちらに気づくや、顔を横に傾けて、握りこぶしを頬に当てた。・・・歯痛なんだなとすぐに分かった。

 自分を指差してから、両手でハンドルを握る動作をする。次に、角に見える一向通行の道路標識を指差しながら頭を振って目をつむる。・・・なるほど、トルコでは運転手をしていたが、日本では交通ルールが分からず車の運転ができないってことだな。

 連日、酷暑が続いていたが、この日は曇りで暑さも一息。おじさんは、空を指差し、シャツを指で摘んで困った顔をする。次に、ペットボトルを飲むしぐさ。それから、通りの向こうのコンビニを指差した。・・・この日は、まだ過ごしやすいのは互いに了解済みで、そのうえで、昨日までは汗だくになって何度もコンビニに飲み物を買いに行ってたってことだな。

 ふと、思ったのですが、このおじさんは、全く言葉の通じない異国で働いていて、ボディランゲージで自分の意思を伝える術(すべ)を身につけていたのかも。そうじゃなければ、こんなに臨機応変ジェスチャーができないだろうし、それに顔の表情を組み合わせるなんて即興でできたとは思えない。

 おじさんに比べると、自分の方は、ジェスチャーの表現力が全くないことがすぐに分かった。あらかじめ伝えたい内容がジェスチャーで表せるだろうかと頭の中で反芻してからやりはじめるので間延びしているし、本来、伝えたいと思っていることの中から表現が難しいことはあらかじめ捨象しているので、舌ったらずで不全感が募る。

 ジェスチャーで疑問形は難しい、過去形・未来形も難しい、 抽象的な内容も難しい、 と削っていくと、畢竟、Be Here Nowだけの自己完結した世界になってしまい、それはそれで拈華微笑みたいな以心伝心でいいのですが、巷の雑談、お喋りにはそぐわない。

 

 ・・・とはいえ、おじさんのジェスチャーを見ていると、前後の状況からこれは過去のことだな、あるいは、これからすること(未来)だなという見当がつく。また、「わたし」とか「あなた」、「道路標識」「コンビニ」などは指差しでなんとかなっている。

 また、相手の表情から、好ましいことなのか、困っているのかの見当がつくので、それで疑問形で聞くような内容のかなりは分かるということもある。

 この場合、読み取れるかどうかは、こちらの解釈力(?)に関わってくるのですが。こちらから発信する表現力に乏しいということもあり聞き手にまわることが多い。

 この何日か、ボディランゲージで話しているのですが、なんか妙な感じで、というのは最初から最後まで互いにほとんど無言なんですね。

 

 追記・・・上の文をアップした翌々日、新聞の書評で『言語の起源』(ダニエル・L・エヴェレット著、松浦俊輔訳)という本が紹介されていた。

 著者は、南米アマゾンの先住民ピダハンの言語を調査してきた言語人類学者。この本は、現在も狩猟採取生活をしているピダハンの言語から太古の人類の言語を類推することで、言語の起源について新しい仮説を提起している。その仮説は、ソシュールとかチョムスキーとか、これまで言語学が築き上げてきた文法の構造や論理を研究して導き出された結論とは大きく異なっている。

 そのポイントを端折って書くと、言語の発生は、シンボル(象徴)、ジェスチャー(身振り)、語順、イントネーション、文法などの要素が相互に作用して生まれたと言っている。

 言語は、口から音声を発して話す(喋る)ことですが、5万年〜10万年前に人間が言語を生み出したころ、突然、話せるようになったのではなく、前段階として上にあげたような要素を組み合わせているうちにその相互作用によって言語が生まれたという。

 これはとても興味深い話しでした。というのは、クルド人のおじさんとの「会話」と似てたからです。自然発生的に相互作用が起きていたのは、実感としてよく分かっていた。阿吽の呼吸とか、自分でも変だなーと思ったのはそのことでした。

 別に意識的にやろうとしてはじめた訳ではないのですが、結果的に、言語の起源の実験をしていたんじゃないか。

 

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