イエローサファイアの眩惑

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 コランダム(鋼玉)にはいろんな色がある赤い色はルビー、その他の色、紺、青、緑、グリーン、黄、紫などをサファイアと呼んでいる。

 物質としてはルビーとサファイアは同じ酸化アルミニウムの結晶です。不純物として含まれる鉄やクロム、チタン、ニッケル、コバルトなどにより、いろいろな色になる。不純物のない純粋なコランダムは無色透明ですが、色が入ってないのでジュエリーとしての価値は乏しい。

 鋼玉という名前、よくつけたものです。モロッコ産のルビーの結晶、細長い六角錐で整った形をしていたが、表面がところどころ白い層に覆われていた。 

 サンドペーパーでゴシゴシ磨いてくと白い層はタールのような黒になり、さらに磨くと小豆色、さらにやっいると赤紫色になっていった。夢中になってやっていて、指先が痛くなる。1ミリの1/10ぐらいでしょうか、それでも大変。石や鉱物というよりは硬い金属のような質感です。

 硬玉(ひすい)は磨いていてもまだ石という感じがするのですが、ずいぶん違う。鋼玉にしろ硬玉にしろ昔、中国でつけた名称かと思いますが、よくできた命名だと思う。

 

 上の写真は、スリランカ南部のバランゴタで採掘されたイエローサファイアの原石。 バラコンダはイエローサファイアの産地として知られています。

 現地では田んぼや畑の地面に埋まってるのを掘ったり、浅瀬の川底を掬って採掘している。ネットを検索すると、草むらに穴を掘って、湧き水を吸い上げながら採掘している写真や動画がありました。

 一般的にサファイアといえば、ブルーサファイアということになっていて、実際、ブルーサファイアの美しい原石を見ると、時間が止まってしまったかのような、何か現実離れした感じがする。

 色のついたサファイアの中でも、黄色はどうも影の薄いの存在のようです。サファイアには、いろんな色があって、黄色もあるといったぐらいの扱いで、衆目の関心からは外れている。でも、自分は、イエローサファイア凄いと思いました。

 

 まずテリ(照り)に魅せられた。水晶よりも強く眩い光沢。光沢は、その物質の屈折率と表面の状態によって決まる。透明度のある物質の場合、内部の光の分散度も関係してくる。

 話が逸れますが「テリ」って言葉、よく耳にする業界用語ですが、なんかいかがわしい響きがありますね。香具師の口上っぽいというか。「この石(ダイヤ)、テリがいいでしょ」と耳元で囁く業者さんの顔相が思い浮かぶ。

 

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  水晶(屈折率1.54~1.55)の光沢はガラス光沢と呼ばれますが、コランダム(屈折率1.768) subadamantine(準金剛光沢)と呼ばれている。準というのが曖昧な感じですね。

 金剛光沢ってどんな光沢なのか気になっていた。ネットを検索すると、ダイヤモンドのような光沢と紋切り型に書いてあるだけで具体的にどんな感じなのか説明がありません。

 試しに金剛光沢のある三つの鉱物(屈折率 2 前後)、ダイヤ(原石)、それと白鉛鉱とジルコンの結晶を並べて共通する何かを感じ取ろうとしてみる。

 結論ってほどのことでもないですが、三つの鉱物は、どれもギラッとした眩い光沢があり、それに比べるとガラス光沢は穏やかな光沢だと思います。両者の違いは、はっきり分かる。

 文字や写真では、その違いは分かったようで分からないんですが、現物を見れば一目瞭然、誰でも分かることです。情報(文字や写真)では分からないけど、リアルだと分かる、そういうことなんですね。

 なにげなく使っている「分かる」って言葉、本当はどういうことなのか考えさせられました。

 

 陽の光にかざしてみた第一印象、凄いなと思う。よく見たら凄いという凄さではないんです。

 一見、なんということもないけど、よく見たら凄いとか、あるいは味がある、深みがあるとか、例えば幕末明治の工芸品にそういうものがありますが、そういうのとは異なる瞬間的に分かる凄さ。極まっていて、それ故、甘美な危うさを感じさせる美です。

 黄色と言っても、道路や鉄道の標識、ヒマワリの花、バナナ、シトリンイエロー、クリームイエロー、琥珀色っぽい黄色・・・と挙げていくときりがないぐらい幅がある。イエローサファイアを評するするとしたら、ギラッとした光沢のある透明度の高い三原色の黄色味を帯びた物体、これは普通じゃないという感じがする。

 黄色はエキセントリックな色でもあるようです。もしかしたら、そのあたりに惹かれたのかもしれない。そういうのは心理的な話しになるですが。

 ふと、子供のころ耳にした「黄色い救急車」という都市伝説のことを想い出した。

 

 この世界(鉱物、石好きの人たちのマニアックな世界)には二つの価値観があって、ひとつは鉱物標本としての学術的な価値や稀覯品としての価値が高いかという視点、もうひとつは研磨してジュエリー・宝飾品に加工するための原石としての価値という視点、だいたいどちらかの目(価値観)で石を見ている。 

 鉱物コレクターではないので、コランダムの色や結晶の形、大きさ、採掘地とかいろいろ集めようというまでの気力はないんです。

 また、きれいにカットされたルースにはそんなに魅力を感じない。エンハンスメントされているものが多いし(宝飾品市場で流通しているルビー、サファイアの95%は加熱処理されている。それは何百年も昔からの慣行なので、そんなこと気にするのはヤボというのが了解事項になっている)、合成サファイアも美しさでは引けを取らない。

 自分はといえば、きれいな原石が好きというだけなので、そのどちらでもなく、ある意味、その隙間にいるのかもしれない。

 

 

 さらに話しが横道に逸れていきますが、骨董、古美術品などと鉱物を、美しさを基準にして比較すると相場に大きな開きがある。・・・需給関係や投機といった要素を取っ払って、自然物と人間が作った物、全然ジャンルの異なる物を同じ物差し(=美)で比較するなんて無謀な話かもしれませんが。台風一過の夕焼け空と南宋の砧青磁の逸品とでは、どちらが美しいかみたいなことを言い出してるのですから。

 言葉を換えて言えば、異なるジャンルの物を、自分がどれほど没入してるかだけで比較するわけです。意識の集中度ではなく没入度。集中だと意識の能動的な働きですが、ぱっと見たときどれだけその物に引きこまれるか、これは受け身の感覚です。

 自分の場合、生来、スキゾ的思考というか、考えてることがバラバラでも気にならないたちなので、そんな比較も馴染みやすい。主観の世界なので客観性はないのですが・・・Utubeにウチのネコは喋れますって動画がアップされてますがあれと同じ、他の人にはちょっと変わった鳴き声にしか聞こえなくても、飼い主=当人がそう思っているんだから、そうなんだっていう主観の世界。

 ああ、でも経済学者の岩井克人貨幣論、玉葱やラッキョウの皮を剥いてくみたいに貨幣って何なのか、どんどん遡ってくと、最後に貨幣とは貨幣ですみたいなところにいきついてしまうのも同じなのではないか。

 ついでに、何日か前、御茶の水女子大の学長が、トランスジェンダーの人の入学を認めることにしたという記者会見、言ってることの要旨は、男とか女とか決めるのは、本人の性自認(当人がどう思っているか)だってことで、それも同じことですよね。結局、人間界って究極的にはそういうところなんじゃないでしょうか?

 

 早い話し、こんなことです。一例をあげますと、透き通ったピュアーな黒の色感に見惚れたブラジルの煙水晶、小さいこともあり300円でした。

 同じぐらいのインパクトを受けたものはと記憶をたぐると、昔のタイのベンジャロン焼きの祭器の小皿、バンコク時代に清で作られたものでタイの美術館でも展示されてますが、あれを手にしたとき同じような気持ちになったのを思い出した。骨董市の相場では、いまあげた煙水晶の100 倍ぐらいの値がついている(大まかな数字)。

 と、いうことで、美しい鉱物は、骨董や古美術品よりも100倍お買い得、自分の感覚ではそういうことになる。話しが逸れたままですが、今回はここまでということで。

 

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「浅草田圃太郎稲荷」 と水の匂いのする夜

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 井上安治の版画。明治はじめの台東区下谷、そのころは浅草田圃(あさくさたんぼ)と呼ばれていた一角に太郎稲荷の社があった。昏く水の匂いのする静謐な夜。江戸時代の夜はこんな感じだったのでしょうか。

 明治以降、油絵や日本画で描かれた夜より、版画で描かれた夜が好きです。特に、安治と谷中安規の描く夜はいい。

 この画には、不思議な既視感があって、実際は見たことがないはずなのに、なぜか懐かしさを感じる。

 安治は130数枚の東京名所絵を描いています。 安治は幕末、江戸に生まれ、明治22 年、25 歳で病で亡くなっている。東京名所絵シリーズは十代のときの仕事でした。

 写真の画は、以前、まとまって売りに出ていた中の一枚。その中には、昼間の東京も、描かれた場所もいろいろありましたが、いちばん惹かれたのがこの画でした。迷わず、即これだと思った。

 刷られてから140 年ぐらい経っていることもありますが、それより、おそらく昨今のアート作品のように気配りした保存をされていなかったようで、画面の周りの白地は埃、色褪せ、シミがついている。まあ、当時は庶民の観光土産のようなものだったと思うので、言ってもしょうがないことですが。

 

 太郎稲荷は、現在も下谷2丁目に「太郎稲荷大明神」という名称で存在しています。まわりはごく普通の下町。民家、マンション、学校、事務所、倉庫などが立ち並んでいる道路沿いに小さな赤い鳥居があり、その細い路地の奥まった所に、地味にというか、ひっそりと鎮座している。

 ちなみに、太郎というのは、鎮座している狐の神様の名前。また、江戸時代には流行り神という奇妙な現象(今風にいえば都市伝説の騒動といったことになるのでしょうか)が起きていましたが、太郎稲荷は流行り神としても有名でした。

 太郎稲荷の流行は、江戸時代後期の60年間に3回ありました。最後が幕末の慶応3年(1867 年)で、安治が3歳のときのこと。

 この年、10 月に大政奉還、翌年( 1868 年)が明治元年。8 月から12 月にかけて西日本や東海では、ええじゃないか騒動が起き、同じ時期に、江戸で太郎稲荷参りの流行が起きている。

 浅草並木町生まれの安治にとって、 3 歳の頃の出来事であった太郎稲荷の「騒動」は、上野の山の戦争とともに身近で起きた天変地異だったはずで、一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)のような影響を受けていたののではないか。

 映画の「ブリキの太鼓」の主人公は、 3 歳で体の成長を自ら止めた人間の物語でしたが、安治の場合は、自我の成長を自ら止めたケースだったのではないか。

 この画もそうですが、東京名所絵シリーズの自我のすっぽり抜けた目で描いたような作風の背景をこんなところに見ています。

 

 このあたりは、朝顔市の鬼子母神からも、お酉さまの鷲神社からも少し離れていてる。西浅草から料理道具・食器で有名なかっぱ橋商店街を歩いていくと、そんなに遠くない所でもあるのですが、やはり微妙に、少し距離があるんですね。

 まわりに古い名所、旧跡がないのは、江戸時代には一面田圃だったから。入谷田圃、吉原田圃といった名前もあったとか。入谷の先は、江戸の外で、奥州街道の最初の宿、千住になる。ここは江戸の端、 古文書には人気のない寂しい所だったと書かれている。         

 地形を見ると、上野は山になっていて、その東側、浅草と上野に挟まれたこのあたりは谷のような地形になっている。下谷、入谷という地名はそんな地形に由来しています。

 太郎稲荷の横には、今は暗渠になっている新堀川が流れていて、池や沼が点在していた。現在では、全く想像できない情景が広がっていたようです。安治の画を見ていると、そのころの時代にタイムリップしたような気持ちになる。

 

 江戸の低地、湿地というと、時代劇の映画などでは湿ってジメジメした沼や葦原といった、怪談ものの舞台もそんな場所で、あまりいい印象はないのですが、でも、考えてみると、水郷のような景勝地でもあったように思います。

 自分の中では、大輪の蓮や睡蓮、菖蒲、カキツバタなど水生植物が百花繚乱、夏には蛍が飛び交う、そんなイメージ(ちょっと過剰でしょうか)。 初夏の早朝、不忍池の畔には蓮の花の香りが漂っていて、僅かにそんな面影が感じられます。

 日本の匂いということでは、まず畳の匂いを挙げたい。生活環境の変化で、この感覚がうまく伝わらなくなったとしたら、それは自分の憶っている日本の消滅ではないかと憶っている。そう、イグサも水辺の植物でした。

 そういえば、太郎稲荷からかっぱ橋商店街に戻ると、カッパの手のミイラを保存していることで知られる曹源寺がありました。江戸時代には、このあたりの水辺にカッパもいたようです(?)。

 ふと、バリ島のアグン山の裾野を想い出す。ずーっとどこまでも田圃が広がっていて、所々に小川や竹の林、灌木が見える・・・浅草田圃の想像としては飛躍しているかもしれませんが、近代化からすでに150年も経っている世の中にいる自分には、具体的なイメージとして想い浮かぶのはバリ島でした。

 少し横道に逸れますが、わたしが浅草にいくようになったのは、 そんなに昔ではなく1990〜 2000年代ごろからで、街が寂れていたころでした。

 そのころの浅草は、明治以降でいちばん寂れていた、いわば陰の陰の時期。でも、自分にはそんな雰囲気が心地よかった。場末美・・・誰かの造語ですが(確か平岡正明だったか)、自分にはいい街でした。

 夕方、花やしき通りを歩くと廃墟感が漂いオールドデリーみたいでした。また、人を案内し銀座線の改札口から地下商店街に足を踏み入れたとき、その人は「トルコのガラタ橋の露店街みたい」と素直にびっくりしていました。

 浅草には、東京にはなくなった風景が、つまり過去が僅かに残っていたということですね。しかし、それも近年、海外からの観光地に変貌していくなかで消えつつあるのは残念なことです。

 話しを戻します。別にバリでなくても、タイやベトナムメコンデルタ、中国南部、台湾には浅草田圃と同じような情景の場所、あるのではないか(あるいは、あったのではないか)。

 ゴーギャンの楽園は太平洋のタチヒ、トロピカルな世界でしたが、こちらのパターンは東南アジアと連なる高温多湿、照葉樹林帯の風土の楽園といってもいいのかもしれない。

 

 

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カラタネオガタマ、スイカズラ、ブンタンの花の香り

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 4月下旬の暑い日、近所を歩いているとカラタネオガタマの花の香りがしてきた。最近、植木として、あるいは街路樹としてよく植えられている。モクレン科の灌木で、花は小振りながらモクレンに似た形をしている。

 毎年、この季節になると、とくに気温の高い日には香気が強くなり、目鼻ぐらいの高さの枝についた花の匂いをクンクン嗅いでいる。

 その香り、第一印象を言葉にすると、ラムレーズンの匂い。ラム酒の香気+スウィート、初めて匂いを嗅いだときびっくりした。植物なのに、人が作った洋菓子のような匂いなのですから。

 ラムレーズンというのは個人的な印象で、英語ではバナナツリーともいわれていて、 確かに熟れたバナナのような匂いともいえます。

 

 漢字で書くと唐種招霊といわくありげな名前。カラタネオダマは江戸時代に中国から移入されたのですが、それ以前からあった日本原産のオガタマ(招霊)が常緑樹で榊(サカキ)のように神道の祓具(お祓いの用具)であったことに由来している。

 どうしてこの木が祓具に用いられたかというと、常緑樹の青々とした葉に生命力が宿っていると感じられ、そのパワー(霊威)で場を清めたり、邪を祓ったということに由来しています。遠い昔、神道が呪術だった頃から続いている原始信仰ですね。

 

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 スイカズラも今が開花期の蔦(つた)植物で、住宅街の垣根や柵に植えられたりしている。野山の山草でもあります。細長く白い花がたくさん咲く。

 香りのベースはフローラルですが、それにプラスして艶があり、生っぽい独特の癖がある。この癖のアクセント、うまく言葉にできないですが、なぜか自分の内では官能的な感じなんです。

 この花の香りについて、よくいい香りがすると書かれていますが、そういった一般的というか、月並み(失礼しました)な批評を超えた特別な香りで、自分の好きな花の香りのベスト3に入っている。

 初めてこの香りと出合ったのは、インドのバラナシでした。蒸し暑い夜、ヒンドゥー教の寺院が続いている泥道の路地を歩いていたら、えも言われぬ香りが漂っていた。   唐突な比喩ですが、その空間にイノチがほとばしっているような匂い(表現が難しい・・・)。

 見ると、暗がりに一面、白い蝶のような花。まさに夜来香(実際は植物学的には違う種類なのですが、シチュエーション的には、これ!って感じ)。

 インドの街には供え物や儀礼のための品を売っている店が多いのですが、スイカズラの花輪や線香はラインナップの定番に入っていました。

 

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 好きな花の香りのベスト3についてふれましたが、一番はブンタン(文旦)の花です。この樹も今が開花期です。柑橘類ですが、みかんやゆず、レモンよりも花も実もずっと大きい。花も実も柑橘類で最大だとか。

 花は、肉厚で房状になって、見た目、爬虫類っぽい。けっこう重みがあり、ずっしりしている。その分、香気も強い。柑橘類の花に共通する匂いの系統ですが、より濃密でクリーミー、ファンタジックな雰囲気の香りです。

 香気の強さは、量は質に転化するといってもよく、他の柑橘類の花のようないい香りといった域を超えて陶酔感をもたらす香りです・・・香りで陶酔感とは? ちょっと言い過ぎでしょうか、ぜひブンタンの花の香りを聞いて(嗅いで)みてください。

 先日、この樹のある住宅街の奥まった路地に行ってみたら、なんと根元から切られている。 二階建ての屋根ほどの高さの樹で、毎年、大きな実をつけていた。

 30〜40年ほど前に、アパートの通路とブロックの隙間の狭いスペースに苗木を植えたという話しをお年寄りから聞いた憶えがある。その話しを聞いたのもかなり前のこと。隣りの駐車場に枝がせり出し、通路の邪魔にもなっていた。

 ブンタンは東南アジア原産で、日本では九州と四国の高知で栽培されている。九州、四国が露地栽培の北限とか。都内で大きく実をつける樹になっているのは、けっこう珍しかったのではないか? このあたりで、ここまで大きくなっているブンタンの樹はほかに見かけない。

 ところで、この場所から 200 メートルほど離れた表通り沿いの家の庭にアボガドが植わっているのですが、その樹には「せたがやトラスト」(区内の名木を選定している団体)のプレートがかかっています。太い幹のアボガドで、大きく育っているのが珍しいことから選ばれたようです。

 こんなに素晴らしい香りのする花なのに、誰もそれを知らないまま伐採されてしまった。毎年、この香りを楽しみにし、自分の内では、貴重な存在でした。

 

 生花の香りは、生きた香りです。このことは、特に強調しておきたい。

 生きた花の香りを嗅ぐと分かりますが、例えば、バラでも蘭でもジャスミンでも、実際は、いろんな香気成分が微妙に、そして渾然と混じりあっているんですね。単体の匂いではなく、融合した匂いというところが自然の匂いなんだと思う。

 また、もう一つの特徴として、生花の醸し出している湿り気が感じられる、ウエットな香りでもあるんですね。 これが花の生気の匂いということなのではないでしょうか。

 

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古代エジプト展と人智学と犬

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  5 月 に「古代エジプト展」がある。この数日、その準備で忙しい・・・というのは大げさで、しまっていた箱から小さな立像などを取り出し並べるだけと全く簡単。

 場所は、部屋の隅っこのテーブルの上。開催期間を5月1日(火曜日)から 31日(木曜日)とした。 「・・・とした」と書きましたが、別に誰にも言ってないので、自分の頭の中で、並べ方の配列や背景をどうしょうかなど考えては、ひとり盛り上がっている。

 とくに古代エジプトの発掘品にこだわって集めてるのではないんです。だから手もとにあるのは、ウシャブティ 2 点、土偶(粘土を焼いて作ったベス神)、セクメト女神像 2 点(上半身だけ、それとアミュレト)、トキ(鳥の朱鷺。トト神ですね)のアミュレット、動物(猫、バステト女神)のアミュレットの7点だけ。どれも小さなものばかり。

 古代エジプトの発掘品はもともと相場の水準が高いうえ、レプリカ(博物館や学校で展示するために、あるいは好事家の鑑賞用に、と発掘品そっくりに作られている)も混じっていて、なかなか難しい。      

 横道に逸れますが、中国の漢の時代の発掘品(明器が多いですが)は相場が値崩れしていて入手しやすい。今が底値と言う人もいますが、続々と入ってきている。さらに古い、通称アンダーソン土器と呼ばれる仰韶土器なども同様。

 また、パキスタンから流れてくるインダス文明の発掘品も博物館に展示しているようなものと遜色ないというか、いえ、それ以上のレベルと思えるものが案外、安く手に入ったりする。

 と、書いていてポリシーがないよう思われるかもしれませんが、落花流水の理とでもいうのでしょうか自然に入手しやすい方に傾いてしまいがちなのは否めない。

 

  今から30 数年前、個人的に集めた古代エジプトの発掘品約230点を地元の市に寄贈した方がいました。藤沢の医師で、なかなかの人物だと思いました。

 教育委員会の発行した「高橋コレクション」と呼ばれる目録を見ると、ほとんどは、自分の手もとにあるのと同じような小品でした。・・・もう少し大きなものもあるんじゃないかと思っていたのですが。

  3 年前、日本各地を巡回した「古代エジプト美術の世界展」は、世界屈指の古代エジプト美術コレクションと評されていた。現在は、永続的に保存管理するために財団が作られていますが、もともとはスイス人の一人のコレクターが集めたものでした。

 ナポレオンのエジプト遠征の頃から200年、帝国主義の時代にイギリスやフランス、ヨーロッパの国々は、エジプトから大量の発掘品を持っていった。価値あるもの、 大きなものなどはそういった国々の博物館に納まっている。

 

 最近、シュタイナーが晩年に語った人智学の講演録を読んでいて、古代の芸術について印象的なことを話している一節が目についた。

 シュタイナーはーー念頭にあるのは古代エジプト文明だと思われますがーー「物質素材の霊化という芸術活動」というふうに述べているんです。すごいことを言っている。   エジプト文明は、紀元前3000年頃から約3000年間あまり続いている。その文明の人々は、現実に生きているこの世と、死後、あるいは生前の世界、つまり霊的世界とのつながりを実感としてつかめていたというのです。その後のギリシャ、ローマ文明の時代になると、人間の意識の内でその実感はあやふやになっていったとシュタイナーはとらえていた。

 発掘されたいろいろな神像を見ても、今のわわれわれは、古代の人たちは、ああいうものを想像して作ったに違いないと考える。現実には存在しないものの像なので創作だと考える。それが普通の一般的な考えだと思う。

 ところがシュタイナーは、あれらは霊界に存在している神々の模写として作られたと言っている。創作ではなく模写、作り手の内的なプロセスは全然違います。だから粘土、ファイアンス、石、木などを用いて神像を作る行為(芸術活動)を、物質素材の霊化だというのですね。

 古代エジプト展を思いついたのは、このシュタイナーの指摘に刺激を受けたことが大きい。

 

 美術館や博物館にいくと立派な名品が見られる。それはそれでいいですが、日常の中で、寝転びながら、手仕事しながら、朝食食べながら、新聞見ながら、居眠りしながら、寝る前に、真夜中目が覚めたときに、と好き勝手に見たりするのもいい。

 もとをただせば、フランス革命で王族や特権階級の館にあった絵や彫刻などを没収し、人民が等しく見れるようにと作った施設が美術館の始まりでしょ。そこに納まってるものは、断頭台に消えた人たちの調度品、インテリア、要は、家に飾ってたもの。

 そういう意味では、もともとそうであったような展示の仕方をしようとしているともいえる。自分のような貧民がしてるってのは妙な話しですが、そのあたりは知恵を絞ってなんとか・・・。

 美術館や博物館だと、触っちゃいけない、立って静かに行儀よく鑑賞しなくてはいけないとかいろんな制約があります。その点、自作自演、観客も自分と犬だけなので自由気まま・・・落語の蝦蟇の油と似てなくもないですが。

   冒頭、並べ方について書きましたが、それぞれのサイズや形状、材質(色、質感)の違いを考えて、木の台を置いてみたり、いろいろ試行錯誤しているうちに、配置は「 ∧  」の字形になった。だんだん舞台の演出家のようなノリになってきた。

 間仕切りは、色の異なる小さな水晶をポールを立てるように並べてみた。半透明で紫、橙、黒、松葉色、青、水色がかかった水晶を選ぶ・・・自然と、これが結界になった。発掘品とのバランスもなかなかいい、禅語の「別是一壺天」というか、異世界の神殿みたいでもあり、少なくとも初めて見る世界といった感じです。

 

   さて、開催が近づくにつれ、誰も見にこないというのも味気ないような気がしてきた。どうしょう・・・思い倦ねて、結局、犬の J (名前のイニシャル)に見てもらうことにしました。

 毎晩、寝床も一緒なので呼んでくる手間が省け楽。 いわば人獣同衾とでもいうんでしょうか、でも犬と寝ていていろんな気づきがありました。寝ていると、J もやってきて、ちょうどお腹あたりに、奴の背中を押し付けるようにしてゴロンと横になる。

 肌に犬の体温が伝わってくる。呼吸している体の膨らみと収縮の感触が伝わってくる。眠っているときに、犬の温感と呼吸のリズムがこちらの意識に入ってくるわけです。

 昼間、起きて生活してる時間の生(人間界の生)と同じぐらいに、眠っている時間の間にも生(アストラル界の生)があることに気づいた。

 ふつうは、他者といえば人間以外ありえない、そんな世界(現実といっている世界)にいるのですが、他者が動物という世界(自己と動物で成り立っている世界)もありうるのではないか。睡眠時のような半覚醒状態だったことがこの気づきをもたらしてくれたように思っています。

 犬だけでなく、猫でも、あるいは他の動物でもーー人間だと同種どうしなので(犬の体温は人間より高く、呼吸のリズムが早い)気づきずらいと思いますがーー睡眠中にこういう相互意識の世界があるのではないか。

 そういえば、 J の先祖は、古代エジプトでも飼われていたそうで、絵に描かれていたり、ミイラが発掘されているとか。 ついでに、オードリー・ヘプバーンに似ていることも書いておきます。怪獣マリンコングにも似ています。

 この話し、人に言っても信じてもらえないことが多いので、証拠の写真を上にアップしました。左が J です。下の写真はマリンコング。

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 ところで、犬は発掘品にこびりついている塵や彩色片から古代の古代エジプトの匂いを感じとれるのだろうか?  J に聞いてみたい。

 

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いいなと思った鉢

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 金沢の陶芸家、大西雄三郎さんの鉢。一目見て、いいなと思った。

 なにより、その色感。深緑から紫がかった小豆色に溶けていくような流れ。見込みの底に、雲の隙間に見える紺碧の空、ボルダーオパールやローマングラスを彷彿とさせる。

 中心のやや右に見える小さなオーシャングリーン、大西氏の極め色のようです。というのは、他にもワンポイントとしてこの色を用いた皿を見て印象的だったので。

  色の違う釉薬をかけ流すのは、 唐三彩や遼三彩もそうでした。 黄土色と緑の釉薬が重なって混じり合った色模様、そして、淡い色やぼかした色の味わい、そんな唐三彩に魅了された日本人は多い。

 自分はといえば、唐三彩はもちろんいいにしろ、それ以上に、遼三彩の藍色の色感に心底参ってしまった。この鉢には、あのとき遼三彩の藍色にクラクラしたのと同じ何かを感じました。  

 

  写真では、皿のような平坦な形に見えて、鉢の立体感がよく分からない。実物は、どんぶりではないですが、深さがあります。

 最近、写真と実物のリアリティの違いが気になってしょうがない。自分が眼で見てるものと、それを写したものとでは、違うものに見える。遠近感と立体感、凹凸や質感、それに眼で見ているときは、瞬間、瞬間で意識がそのものの一部に向いていて、それがつながって全体としての、そのもののイメージを作っていると思うのですが、写真はそういうところが抜けているんですね。

 昨年の晩秋に南宋の焼き物と出合い(以前、ブログに書いたあの話し)、それがマイブームになってしまい、寝ても覚めてもそっちにばっかり目がいってました。現代のものは、見たとしても上の空、見ていながら目が閉じていた。

 そんなわけで、今年の 1月、この鉢を目にしたときも、 胸の内では、いいなと感じて戸惑いつつ、ふんぎりががつかなかった。で、翌日の朝、目が覚めたとき、あの鉢を気にしている自分に気づきました。

 だいたい、朝、目が覚めた直後に思い浮かんだことは、自分の内の正直な心からのメッセージだと思っている。これは、古神道やシュタイナーから学んだ一種の知恵で、振り返ると、この見方、そんなに間違ってなかったように思っています。

 ・・・ああ、どんどん横道に逸れている。鉢の話しの続きですが、それからずっと気になって、いろいろ探して、半月後、作家の方にコンタクトすることができ、あのとき見た鉢を手にしました。

 

 日本の伝統的な美とは毛色が違う。でも、こういうのが好きなんだからしょうがない。ニューギニアの先住民のお祭りシンシンとか、ブラジルのカーニバルとか、ダイナミックで、鮮やか派手な色使いをしていました。本源的には、あるいは自己抑制をとっぱらうと、こっちの方がヒトの感性を素直に表しているのではないか。

 そういえば、骨董についての岡本太郎小林秀雄は全く違った見方をしていた、そんな逸話を想い出す。この話し、要は縄文系と渡来系の文化の感性の違いということになるかと思うのですがーー『日本の伝統』(岡本太郎)という本の一節です。ご関心のある方は「岡本太郎 小林秀雄」で検索すると概要が分かります。

 ・・・・また、横道に逸れている。こんなことを書いてるうちに、結局、自分が惹かれているのは、陶磁器というよりは陶板画なのかも、そんな気がしてきた。

 

 大西氏は、九谷を学んだ陶芸家で、伝統に沿った作陶もされていると思いますが、個性をはっきりと出した作品も作っていて、この鉢は、その中でも会心作といえるものだと聞きました。

 ふと、大西氏と立ち話してたとき耳にした一言を思い出した。焼き物を作っているとき、抽象画のようなものを狙っている、そう話していました。

 第二次大戦後、アメリカで生まれた抽象表現主義というアートの潮流がありました。抽象+表現+主義という漢字、ガチガチに硬い感じがして、一方で漢字だと知らない言葉でも文字からなんとなく意味がつかめるという利点もあり、Abstract expressionismと書けばいいのか、迷うところです。

 その中に、ドリッピングという絵画の技法がある。筆を使わずキャンパスに描くという技法で、棒から絵具を垂らしたり、撥ねつけたりして描きます。

 大西氏は、釉薬を口縁から見込みに流していくとき、どういうふうになっていくか計算して作っているとも話していました。その言葉は、最初にドリッピングで描いた画家、ジャクソン・ポロックが、意識的に絵具の垂れる位置や量をコントロールしていると語っていたのとつながるように思いました。

 なるほど、自分は、鉢の形をした抽象画を見ているのかも?

 

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今度は、箕とサンカ文字

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 前回、アイヌ文字の話しでしたが、ついでにサンカ文字のことも。上の写真、サンカ(山窩)研究で知られた三角寛氏の作った箕(み)。 作ったといっても、昭和32年ごろ三角氏が竹細工の職人さんに依頼し、竹を編み字を入れてもらった、いわば製作指導したものです。

 幅8センチほどの小さなもので、実用の農具ではなく民芸品ですね。 中央に書かれている絵文字みたいなのがサンカ文字。 下にサンカ文字の表を敷いてあります。

 もうずいぶん前になる、三角氏の親族の方が展示会を開いたとき購入しました。そのとき聞いた話しでは、長い間、茶箱の中に大量に詰められたまま置かれていたのが見つかった、ということでした。 たしか一つ1000 円ぐらいだった。

 自分もまた、しまいこんでたのですが、アイヌ文字の話しを書いていて、そうだ、こんなものもあったっけと思い出した。

 作ってから半世紀以上経っているはずですが、しっかりと編まれていて、たわんだり、ほつれたりしていない。

 表と見比べて「ひ」、「は」、「し」は分かりますが、それ以外は曖昧な感じです。縦に読むのか、横に読むのか、右から左か、左から右かとか、そういうこともよく分からない。

 アイヌ文字は、文字表を見た第一印象として確かに文字だと思いましたが、サンカ文字の方は、符丁のように見える。文字を組み合わせて文章を作るには、一文字、一文字書くのが煩雑で無理があるように思えるのですが。

 

 サンカには独自の文字がある。それは、ひらがな、カタカナや漢字などとは異なる文字で、日本に漢字が伝わる以前にあった神代文字と何らかのつながりをうかがわせる・・・一頃、そんな話しを書いた本が次々と出て、喧々諤々、盛り上がりました。   しかし、調べていくうちに、どうもサンカという存在自体が三角氏の創作というか嘘八百だったのではないかという疑いが深まり、話しが萎んでしまった・・・現状は、そんなところではないでしょうか。

 三角寛という人は、UFOのアダムスキーとよく似ている。ふたりとも、それぞれUFO(宇宙人)、サンカといった謎の存在とコンタクトしていると言って世間の注目を集めて本を売りました。謎の存在とコンタクトできるのは自分だけ、秘密を知っているのは自分だけというのも同じ。要するに、言葉巧みに口上で物を売る啖呵売(たんかばい)の一種、テキ屋商売みたいなことをしてたんだと思う。

 もしかしたら、実は三角氏自身がサンカで、あるいはアダムスキー自身が宇宙人で、本当の自分の正体を隠しながら、サンカに会ったとか、宇宙人に会ったとか言って人々を欺いてたのかも?

 

 サンカ文字は、よく神代文字と総称される文字グループの中に含めて語られている。アイヌ文字も同様に神代文字に含まれている。

 神代文字とは、江戸時代、国学が盛んになるとともに、中国由来の漢字が入ってくる以前に日本固有の文字はなかっただろうかといった関心が生まれ、それらしき文字を探し集め、編纂して作られた文字、そんなところではないか。

 サンカ文字もアイヌ文字も、漢字の伝わる以前までは遡れないと思うのですが、 あまり堅いこと言わずに、要は、謎めいた文字=神代文字、そんな括り方でいいのかもしれない。 みんな神代文字に、現実にはない夢やロマンを投影しているんだと思う。そういう意味では、真偽を詮索するなんて野暮な話しです。

 と、思うのですが、ここでは行きがかり上、野暮な話しを続けます。

  現在、神代文字はおおよそ20種類ぐらい挙げられている。かなり多いように感じますが、形やパターンの似ている幾つかのグループに分類できる。

 神代文字の中でも、サンカ文字と豊国文字(とよくにもじ)と呼ばれている文字はよく似ている。ついでに、やはり神代文字のひとつである阿比留文字(あびるもじ)と朝鮮半島のハングル文字もよく似ている。なんとか文字、なんとか文字と、聞き慣れない言葉が次々に出てきて難儀するのですが、とりあえず話しを進めます。

 似ている神代文字同士、なんらかのつながり、関係があるはずだ・・・おおよそ、そのあたりで話しは袋小路に入っているように見受けられます。

 思うに、神代文字が古代日本の文字だという前提なので、整合性のある解釈ができず、混乱しているのではないか。サンカ文字というか神代文字というか、そういった文字の発祥地は日本でも中国(漢字)でもないどこか、そんなふうに考えてみたらどうだろうか。

 

  前回、アイヌ文字のことを調べてるうちに、8世紀頃のモンゴルの突厥(とつけい)文字に行き着いた。

 アジアの内陸北部、モンゴル辺りにいた民族の文字が東ルートで、沿海州樺太、そして終着点の日本の北海道でアイヌ文字になったーー椀に彫られた図形の形から、そんなふうに考えてみたのですが、アジア地図を見ていて、ふとサンカ文字の箕を想い出した。

 当然、モンゴル辺りから南下するルートもあったはずで、それが数百年後の朝鮮半島でハングル文字となり、終着点の日本でハングル文字に影響を受けた阿比留文字ができたのではないか。そして最後の余興として、昭和のはじめ三角氏が豊国文字からサンカ文字を作った、そんなところではないでしょうか?

 いろいろな神代文字を見比べて、似たパターンの字体が目につくのは、もともと内陸アジアの文字が各地に伝わっていき、長い年月の間に枝分かれし、それぞれ別ルートで、時間的にもずれて日本に伝わったからだと思えるのですが。

 

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根来椀とアイヌ文字

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 江戸初期の根来椀、高台内によく分からない図形が彫られている。それと畳付きに 7 つの刻み。文様やデザインではないように思える。

 アイヌの祭器に使われていた椀で、彫られているのはアイヌ文字と聞きました。アイヌ文字というのは通称で、一般的には北海道異体文字という言い方をしているようですが、ここでは分かりやすい通称の方を用います。       

 今から40数年前に北海道を放浪していた方から最近、譲り受けたもの。各地のアイヌの人々に援けられて旅を続けていたとのことで、そのとき祭器として使われていた椀を白老のアイヌの人から授かったものだそうです。手に持つとサラリとした感触、調子抜けするぐらい軽い不思議な重量感。

 アイヌの人々と根来椀のつながり、全く知りませんでした。ネットで検索すると、江戸時代、和人との交易で漆器を入手していたと書かかれています。このあたりの経緯は、自分で書くよりも、ちゃんとした説明文があるので、それを引用しておきます。

 

 「・・・アイヌは交易の民であるともいわれます。アイヌの物質文化には周辺諸民族の異なる文化的要素を認めることができますが、本州からもたらされた杯、椀、天目台、行器、盥、片口、湯桶などの漆器もそのひとつです。

 アイヌにとって漆器は、それ自体が神(イオイペカムイ[器の神])であり、お神酒などを入れる重要な儀礼具であると同時に、富と権威を示す宝物でもありました。・・・(略)

  現在もアイヌの家には先祖伝来の漆器を所有する家が少なくありません。使用することはなくとも、代々受け継いできた大切なものという思いが、今なお手放すことのできない理由の一つなのでしょう。・・・(略)

 イタンキ[木椀] イタンキはオハウ[汁物]やご飯などを入れるいわゆる「お椀」「(木製の)茶碗」です。供物の器として用いるほか、文様が少ないものは日常の食事用としました。」( アイヌ民族博物館[北海道白老郡白老町]の HPより引用)

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 なるほど、彫られている図形は祭事に関係していたと聞いた話し、整合性があるなと想いを巡らす。また、アイヌの人々は漆器の朱色(赤)に惹きつけられたようですね。

 さて、肝心の図形ですが、明治時代中期、学会誌に紹介されたアイヌ文字といわれる文字をまとめた表があり、見比べてみました(写真の椀の下に敷いた白抜きの記号がそれです)。

 一見して似ていることは分かりますが、対応しているとまでは言えない。いろいろあたってみましたが、アイヌ文字といわれているもの自体、地域や時代により異なっているはずで、近代的な国語のように整理され、画一的に同定できるようなものではないと思われ、簡単には解読できないと、とりあえずここでは諦めました。でも、気になるので、これからも折にふれて考えていくかと思っています。

 椀の図形とアイヌ文字について検索しているうちに、実は両者とも8世紀頃のモンゴルの突厥(とつけい)文字に似ていることに気づきました。

 突厥文字は石に刻んだ碑文が見つかっているのですが、石に彫ることから特徴として直線を組み合わせた文字が多い。文字の歴史は、書かれるようになる前に骨や石に刻んだり、彫ったりしていたんですね。椀の図形も直線の組み合わせです。

 歴史的な流れからすると、突厥(とつけい)文字が変化してアイヌ文字になったと考えるのが自然ではないか。

 8世紀、奈良時代のころの日本の北限は関東平野から仙台、新潟平野ぐらいだっといわれます。その前の時代までアイヌの人々の南限が関東平野ぐらいでした。・・・そういえば、アイヌの祖先は、縄文人ではないかと思うのですが。

 埼玉県に吉見百穴古墳というところがあります。古墳といっても砂岩に掘られた横穴で、そこに住んでいた人たちの住居跡。東武東上線東松山駅から歩いて30〜40 分ぐらい。その穴の中に神代文字が書かれていたという話しがありました(一般的には、吉見百穴文字といわれています)。

 今は、その場所は見れないのですが、戦前の絵葉書に文字の写真があります。画像検索すればすぐに見れます。

 一見して、その文字は、アイヌ文字や突厥文字と近い関係があるように思える。その横穴に人が住んでいたのは西暦500 年代末から600 年代末といわれる。結局、奈良時代より前は、アイヌ系の人々がそこに住んでいたという証拠ではないでしょうか。

 

 ざっくり言ってアイヌ文化は、紀元前、何千年かのあいだ続いた縄文文化をベースに+紀元後にオホーツク海沿岸、シベリア、モンゴルなどの文化が融合し1000 年ぐらいかけて醸成され、そして13~14世紀頃に、本州だと室町時代のころになりますが、そのころアイヌ文化として形作られた、そんなイメージになりました。

 手にした椀をもとに、こんなことをあれこれ考えてるのは、謎解きをしてるみたいな気分になってけっこう面白い。

 

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