遠くから見る山

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 下妻市の外れから見た夏の筑波山。30キロほど離れたところから撮っている。

 茨城県の下妻は映画「下妻物語」の中でも言ってましたが、何もない・・・というのは極端で、関東平野の真ん中に位置する広々としてきれいな田園地帯です。

 夏の青空と筑波山は、なんか自由を感じる。ずーっとどこまでも平坦な大地、空ってこんなに広かったのかと、ちょっとした感動。青天井って言葉、これでした。利根川も近く、坂東太郎の大入道(積乱雲)が雄大にそびえ立つ。

 そういえば、奈良時代ぐらいまでは蝦夷(えみし)の地で、朝廷の支配圏外でした。要するに、昔、ここは日本ではなかった。ここだけでなく、いま東京のある場所(武蔵)もそうでした。

 明治の初期には、自由民権派の先鋭的な人々が新政府に対して加波山で蜂起している(1884年加波山事件)。加波山筑波山に連なる山で、上の写真のもう少し左にあります。同じ年、そんなに遠くない秩父では秩父困民党の蜂起があった(1884年秩父事件)。共に「心に自由の種を蒔け」(オッペケペー節)ってことを行為で示したんだと思っています。

 そういったまつろわぬ民の歴史は郷土史の中にちょっと出てくるだけですが、言葉の端々から人々の集合的無意識にその息吹きが伝わっているのを感じる(察する)ことがある。

 この青空、大瀧詠一っぽいね、と言ってた人がいた。そっちの方面は疎く、聴かせてもらったら、言ってること分かるような気がした。

 離婚してキャンピングカーに生活用具一式を積み込んで暮らしている自由人が、下野(栃木県)、常陸茨城県)はアメリカに似ていると語ってましたが、こういった地理、気象や風土、人の気風などをひっくるめた印象のように感じました。

 なるほど、空の広さに感動するってことが、別の言い方をすると自由を感じるってことなんですね。いつも都会の狭い空の下、チマチマ暮らしているとそういう感覚とは縁遠く、なにかを新しく見つけたような気になっていた。ええ、自由を発見したわけです。

 

 筑波山は、東京から関東平野を北上していくと大地にぽつんと出ている姿がどこからでも見える。江戸時代の浮世絵には向島から隅田川の上流に筑波山が大きく描かれている。王子の飛鳥山からは田圃や湿地帯の原野の向こうに筑波山がやはり大きく見える。

 現在の向島や王子から筑波山がこんな大きく見えるなんて、ちょっと信じられない。左・歌川広重「名所江戸百景」隅田川水神の森真崎。右・同、飛鳥山北の眺望。

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 最初は、誇張して描かれているのかと思っていましたが、現在の東京のように人家が密集し、ビル、送電線、道路など人工的な構築物がなかった江戸の人々の目には、筑波山は本当に大きく見えたに違いない。

 

 だだっ広い関東平野、その東に住んでいるなら筑波山(871、877メートル)、西ならば丹沢山地の大山(1252メートル)は、誰でもすぐ分かる山です。ラクダのコブのように二つでっぱった形なのが筑波山、底辺がやけに長い二等辺三角形、偏平なピラミッドみたいな形なのが大山、と特徴ある形をしている。

 共に昔から信仰の山だったのは、遠くからでもひときわ目立っ山なことが理由だと思っている。理屈抜きに一目瞭然、目に見える形としてあるのだから誰もがその山が特別な存在であると意識する。カミが宿っていると感じられたはず。それは人間の自然な心理で、古代人もそう感じていたに違いない。

 現代に生きているわれわれは、誰でも簡単に世界中の情報と接することができるようになった。知識は豊富になっている。だから形の変わった山を見ても、そんな山、世界中、他にもあることを知っているし、そもそも山の形なんかに気をとめたりはしない。

 古代人のようにそこにカミが宿っていると感じる素朴な感性を失ってしまった。

 

  どこかで筑波山と似た姿の山を見ていたが思い出せない。書いていて浮かんできた。南インドの聖なる山、アルナチャラでした。アルナチャラは筑波山より低い山で、聖性は高さじゃないんですね。

 通天閣から奈良の二上山を探したとき、筑波山と同じラクダのコブのような形の山なので、土地勘のない者でもすぐに分かった。二上山も昔から神聖な山でした。・・・考えてみれば、日本の山はどこもみな神域とされてきたので、神聖な山とか言ってるのは野暮な話でした。

 別にラクダのコブ形だからというのではなく、一風変わっていれば、どんな形でもよくて、有名なところではオーストラリアのエアーズロックアメリカのデビルスタワーとか先住民の聖地がそうだし、そこまでコアではないですが、日本各地にもそういう山はけっこうある。だいたいの山は、それほど高くないので、地元、近隣の人達に知られているぐらいですが。

 要は、普通の形ではないところにポイントがあるのだと思っているわけです。

 

 筑波山も大山も30~40キロから60キロぐらいの距離から見るのがいい。この場合、その距離の間に他の山が存在しない平野から見るのですが。

 筑波山も大山も登ったことはない。登るってことは、その山自体は見えなくなるわけで、それよりは見てる方がいい。それも、近くで見るより、ちょっと遠くから見るのがいい。

 朝と夕、天気、季節によって変わる山の姿をただ見ているだけで満足してる。これは瞑想なんだなとも思っている。日想観って浄土宗の流れを汲む観想法がありますが、まあ、広い意味で瞑想といってもよく、観想の対象を太陽から遠くの山にしたようなもの。

 

 東京の西側、三軒茶屋キャロットタワーの展望台から大山は60キロ、筑波山は100キロといった距離。そこから見る大山は、富士山の裾野をつい立のように遮っている。背は低いが横幅が広いので目につく。筑波山も都心の向こうに見えますが遠いのでちっちゃく存在感は薄い。

   登戸からだと大山までの距離は、45キロになり、見た目、ぐっと迫ってくる。

 三茶の展望台の下を通っている246は、溝の口、厚木を経て大山に至る大山街道と呼ばれていた。江戸から大山街道を歩いていくと、常に、前方に大山が見えていた。

 筑波山も大山も、昔の人々の目には、今とは違って、もっと大きく、特別な存在に見えたはずだ。江戸開府以前の15世紀ぐらいまで原野に見えていた筑波山や大山を見てみたい。

 

 つい立てで思い出しました。東京から富士山を見るとき、常に丹沢山地がじゃまして裾野が見えない。子供のころからずっとそんな富士山を見てきたので、それが当たり前だと思っていた。

 しかし、埼玉県の春日部あたりから見る富士山は、190キロと距離はさらに離れますが、間を遮る山がなく裾野まで見事に見えました。春日部は絶妙な位置にあり、丹沢山地奥多摩の山々の切れ目の隙間から富士山を見ていることになる。

 地形的に隙間は僅かで、絶好のビューポイントです。この富士山は、他の地からは見られない秀逸さがありました。新4号国道バイパスの春日部あたりから見えます。

 あまり関係ない話ですが、バイパスは原野や畑、田圃、林を切り開いた新しい道路で、一般道なんですが、武蔵(埼玉県)から下野(栃木県)に入るとみんな100キロぐらいのスピードで走ってるんですね。

 ついでに、静岡県三島市から見た富士山は50キロぐらいで、近い分、裾野の広がりが一望に望め雄大な荘厳さがありました。駅から見る富士山は、手前の山からヌッと迫り出していて、ゴジラの顔がアップで出てくるシーンを思い出した。知らないで、突然、この富士山を見たらびっくりするんじゃないか。

 平地から見る山は、距離と地形の位置関係によってずいぶん見栄えが違います。

 

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テイッシュペーパーとアベノマスク

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 浅草のよくいく喫茶店でこんなテイッシュペーパーをもらった(写真・左)。

 芸人の林家ペーさんのオリジナルグッツ。「林家ペー 林家パー子」ご夫婦の名前が大書されている。ペーさんは舞台の後、店に寄ることがあり、そのとき配ったもの。

 使わずに取っておくことにしました。目にしたとき、ピンと来たものを集める、そんなコレクションに加えた。

 浅草では、2年前、関東大震災のとき倒壊した十二階(凌雲閣)の一部が工事現場の地面に埋まっていたのが見つかりニュースになった。ひさご通りの近くの現場に行ってその赤レンガを手に入れ、コレクションに入っている。青函トンネルの貫通石の話しと共に、ブログに書いています。(「誰も拾わないようなもの」http://alteredim.hatenablog.com/entry/2018/02/23/205711

 レンガもテイッシュも、もらったものなので0円。

 

 どんなものにピンとくるか? 特にテーマとか基準はないですが、強いて言えば、変なモノ、面白いモノで、かつ珍しいモノということでしょうか。その見きわめは、当然ながら自分の感覚で決めている。

 主観的価値だけの世界。使用価値や交換価値は全くない、と言い切ってしまうと誤解を生むので、あまりないぐらいにしときます。世間の感覚ではジャンク品以下というか、誰も拾わないようなものを集めてるともいえます。

  何か特定のジャンルに沿って集めてるのではないので、この世の万物なんでもいい、とはいえ一般的な廃棄物やゴミではなく、社会的に無意味で、かつレア、そういうモノって案外、少ない。

 

 そのモノにまつわる物語、由来などが決め手になることもある。例えば、ナポレオンの帽子からマリリンモンローの髪の毛、ジョンレノンのギターとか、そのもの自体は古い帽子、髪の毛、中古のギターでも、それに付随した物語によって見る目が全然、違ってくる。

 去年、イエス・キリストが誕生したとき寝かされていた飼い葉おけの一部(幅1センチ、長さ2.5センチの木片)が1300年ぶりにイタリアからパレスチナ自治区ベツレヘムに里帰りしたとニュースになった。これなんかその手の物品の最たるものですね。

  テイッシュにピンと来たのは、喫茶店でこんな話を聞いていたからです。 

 ペーさんご夫婦は、以前、安倍首相の桜を見る会に招待され参加している。国会でさんざん追及されたあの桜を見る会です。

 会場で招待者は、一言二言、安倍首相と言葉を交わすのですが、ペーさん夫妻は、林家ペーです、林家パー子です、どうぞと言ってこのティッシュペーパーを手渡したとのこと。

 ペーとパー子だから二人でペーパー。安倍首相、分かったでしょうか? 

 ちなみに、お二人の結婚披露宴の引き出物はトイレットペーパーだったとか。

 

 アベノマスク(写真・右)もご存知のように0円。全世帯に2枚無料配布でしたが、製作費と送料は国民の税金で賄われてる。

 もらってありがたいと感じるか、税金のムダ使いと感じるか、微妙な上、届くのに時間がかかり機を逸した挙句、使わない人はまた第二波が来るだろうから保管しておいてください(官房長官談話)と、正に変な話しです。

 アベノマスクは変なモノのコレクションに加えてもいいのですが、希少性が全くないので、どうも弱い。

 ・・・最近、テレビのニュースで、中国ではアベノマスクがネット上で約1万円の値段で転売されていると報じていた。当然ながら高すぎて売れてはいない。なぜそんなに高いのかというと、コレクションにという説明がついていた。

 そういえば、去年のあるカタログを捨てようとパラパラ見ていたら赤瀬川原平の「0円札」(「零円 本物」と書かれた「偽札」ふうの印刷物)が香港のオークションで28万円〜42万円で出品されていました。

 向こうでは、日本の現代美術にいい値がついている。「0円札」はあの時代のパフォーマンというか、イタズラのようなハプニング(この言葉もあの時代の流行語でした)のような、そんなノリでやってたものでしょ。「0円札」は0円だから、1枚でも1000枚でも同じ0円なのが可笑しい。

  半世紀後、それが現代美術として公認(?)され、「0円札」一枚が何十万円になるとは、作ったご本人、想像してなかったはず。

 ということでは、中国人の中には、二匹目のドジョウみたいなことを考える人がいておかしくない、そんな狙いでアベノマスクを出品していたりして。

 

 アベノマスクはどうも弱い。しかし、少し前、ピンと来て、アベノマスクとペーさんのティッシュをペアにしてみました。ペアといっても単に仕舞うとき、同じケースに並べて入れとくだけのことですが。

 ポイントは、「安倍首相」と「0円」という共通点。「奇しくも」は、ペーさんの口癖だそうですが、この共通点は、奇しくもですね。

 二つを組み合わせることで、無意味性が際立ち、結果、変なモノとしての価値が高まりました(いえ、主観的価値ですが)。

 

 書経に玩物喪志、物を玩(もてあそ)び、物に執着しすぎると志しを失うとある。確かに言えてると思う。そういえば、中国では骨董のことを古玩と言っている。

 でも、書経儒教でしょ。前回のヘリオトロープのブログで、人間がタイムトラベルできないのは自らそういう能力を自己抑制してるからだという話しを書きました。儒教は要するに、社会をうまく治めるために個人の自己抑制を説く教えなんですね。

 くだらないコレクションでも面白いってこともある。 おもしろきこともなき世を面白く、ってノリもあるんじゃないか。

 浅草の喫茶店で、芸人で映画畑を生きてきた久保新二さんが、「自分のやってきたこと(出演した映画のこと)は、くだらないよ、でも面白い、それで十分なんじゃないの」と語ってた言葉が浮かんでくる。久保さんは、はちゃめちゃ一途の、今日日希な芸人です。

 聞いていて、ご本人の人柄、表裏のない喋りもあるかと思いますが、なんか、そうだなと納得する説得力がありました。

 

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ヘリオトロープの香りと大脳タイムマシン

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 6月の花の香りといえばクチナシスイカズラヘリオトロープをあげたい。梅雨の真ん中、湿り気のある空気と生花のしっとりした香気が混じり合った水無月ならではの香りです。

 ・・・と、書きはじめたが、もう7月に入りました。

 今年の梅雨は、雨の日と晴れや曇りの日が交互に繰り返してる。近年は長雨、台風、それから連日、猛暑日の梅雨といった記憶ばかり残っていて、本物の梅雨は久しぶりです。

 アジサイは雨上がりの朝に見るのがいちばん映える。今年はそんな朝が幾度もあった。そういえば、以前は葉の上にカタツムリがよくいたのですが、最近は全く姿を見かけない。

 そうでした! 昨日の午前2時半ぐらいに火球が上空を落下してたようで、朝、ニュースで知った。爆発音も聞こえたという。残念、眠っていて全く気づかなかった。

 7年ほど前の深夜、家の中で火球の音を聞いていて、いつも見たい、見たいと思ってたのですが、いつ落ちてくるのか分からないし、見れないままでした(この話しは、少し前のブログ「トラフズク の鳴き声」に書いています)。

 これまで火球を何度かは見ているのですが、最後に見たのは15年ぐらい前か、少し落ち込んでいる。・・・横道に逸れていました。

 

 ということで、今回はヘリオトロープの香りに絞ります。写真(上)、紫色の花がヘリオトロープです。

 この植物はペルー原産で18世紀にフランスで園芸種として広まり、明治時代に日本に移入された。今頃の季節、小さな紫色の花が塊になって咲く。ときどき庭植えや鉢に植えられているのを見るが、どちらかと言うと、地味な目立たない花です。

  和名は香水草、匂ひ紫。香りの強さは、それほどでもなくクチナシなどに比べるとずっと控え目。そんなことからでしょうか、ヘリオトロープの香りに関心を持つ人はあまりいないようです。

  しかし、けっこう個性的で、癖のある香りです。 ヘリオトロピンという香気成分を含んでいて、これはバニラビーンズの香気成分でもあるので、第一印象はバニラっぽい香りですが、丁寧に香りを感じようとすれば、バニラビーンズよりも複雑で重層的な香りなのに気づく。 

 どう表現すればいいのか、比喩的に書くと、映画や小説を一瞬に凝縮したような香りです。

 香木の伽羅や沈香を焚いた香りも、複雑で重層的ですが、これらはゆっくりと玄妙に変化していくのに対し、生花のヘリオトロープの香りは一瞬の中に凝縮されている。絵の具を重ね塗りしていくとだんだん黒に近ずいていくように、いろいろな香りが重ね合わされた深重な香りです。

 ヘリオトロープは、もともと自然の状態でそんな香りなのですが、思い返すと香気を発する花の中でも、これほどの複雑さは稀で、人工的な香りと言っても通りそうです。

 19世紀後半、フランスで合成香料が開発され、現代的な香水が作られるのですが、その際、ヘリオトロープは調香のアイデアの源泉になったに違いない・・・と想像している。当時の調香師の職人さんたちの日記やメモ(が残っているとして)を調べれば、実証されるかも。

 

 実は、久しぶりにヘリオトロープの香りを聞いて(嗅いで)みて、20数年前、はじめて聞いた時の記憶が蘇ってきた。

 鉢植えの花を両手で持って鼻に近ずけ匂いを嗅いだ。その時、その場にいた人のことを、表情や仕草、それが20年以上前の年齢、人格なのが奇妙でしたが、ありありと存在感を感じました。眠っているときにみる夢よりも抽象的ながら、よりありありとしている。

 また、人の周りにはバブル期の世の中の雰囲気、日本社会の空気もありました。身体感覚にも近い、でも、もう少し体の外に広がった情感でした。

 香りから過去の記憶が蘇ってくるのは別に珍しいことでもなく、体験したことのある人はけっこういるのではないか。こういった体験のことをマルセル・プルーストの小説に出てくるお菓子のマドレーヌと紅茶の話しを引き合いに出してプルースト効果とも呼んでいる。

 

 ひとつ気づいたことがあります。というのは、はじめてヘリオトロープの香りと出会った時の記憶が蘇ってくるのであって、いわば一対一の対応で、その後、度々、同じ香りと接しているのですが、その時々の記憶は霞んでいることです。

 プルーストのマドレーヌと紅茶の記憶も、幼いとき、はじめてその香味を意識したのがその時だったからこそ蘇ってきたのだと思います。

 

 コリン・ウイルソンは、プルースト効果が起きるのは人間の大脳に備わっているタイムトラベル機能の働きによるもので、過去をありありと感じている時、実は過去に接しているのだと言っていました。

 1980年ごろ、今から40年ほど前ですが、 コリン・ウイルソンはこの大脳タイムマシン説に基づいた評論やSFを書いている。大まかに、こんな話しです。

 

 大脳タイムマシン説の前提として、現在、多くの人の懐いている「時間」という概念は全くの誤りで、そもそも時間は存在していないとコリン・ウイルソンは言っている。近年、物理学者の中にも同様のことを言ってる人がいました。

 時間が存在しないというのは、物理的な物体の変化を時間の経過と取り違えていることから生じる錯誤で、われわれが時間と言っているのは大脳(左脳)の創作した心理的観念だという。

 もし意識が極度に集中した状態になれば時間は消えるとも言っている。奇異なことを言ってるようですが、ふと、機械時計が作られるまでは、今の1分とか5分や秒単位の時間はなかったはずで、そのころは物事の前後関係は意識されていたでしょうが、それと時間は異なったもののように思いました。

 コリン・ウイルソンの大脳タイムマシン説は、19世紀ロマン派の詩人や宗教家、超常現象などの知識を組み合わせて作られている。科学、物理学や医学に基ずいているのではないからこそ、大胆なことも言えるわけで、それはそれでいいんじゃないかと思っている。

 考えてみると、時間にしろ意識にしろ現在の科学では、本質的なことは何も分かっていない。時間や意識の定義もはっきりしていないし、定義できるようなものなのかも分からない。ということでは、コリン・ウイルソンのようなアプローチの仕方もありなのではないか。

 ところで、最近はあまり耳にしませんが、当時は右脳と左脳の違いを解説した本がブームになっていて、コリン・ウイルソンも人間の意識や心、知性など、なんでも右脳と左脳の機能の違いに還元して説明していて、そのあたりは  ? ですが、ここでは深入りしません。

 

 宇宙と個人のすべての過去と未来は、人間ひとりひとりの大脳の中に、あらかじめ情報として存在している。 過去と未来は、新しいことを発見したり、学んだり、知ることで分かることではなく、あらかじめ内にあることなので、それとアクセスできれば分かることになる。過去と未来は、現在の中に隠れているわけです。

 しかし、人間はその過去と未来の情報にアクセスできないので現在しか分からない。アクセスできないのは、努力や能力の不足というよりは、アクセスする機能を自己抑制しているからだという。

 もし意識を過去にアクセスすることができれば、それがタイムトリップだと言っています。

 補足しますと、コリン・ウイルソンの言っている人間の中にある情報は、 読み方によっては、 銀河系の外のどこかの星の過去と未来、あるいは50億年前に地球に落ちてきた隕石のことも全て含めた情報のようにも、一方で、人類が生まれてから滅びるまでの時間的な範囲内の情報のようにも、どちらにも読めてしまい、このあたりは判然としない。

 コリン・ウイルソンは、結局、ストーリーテーラーなんですね。要は、本人の思いつきの直観をまとめあげたのが大脳タイムマシンなのだと思います。

 とはいえ、コリン・ウイルソンは24歳のときの『アウトサイダー』から晩年までブレずに一貫して人間の可能性みたいなことを書き続けた人です。だから、それが思いつきにしても、気まぐれに出てきたものではなく、本人の中で熟成されてきたものが表れてきたのではないかと思う。

 ということでは、コリン・ウイルソンの思いつきの直観にリアリティを感じられるか否かが核心で、矛盾点を詮索するのは野暮のようです。

 

 大脳タイムマシン説は、事実(?)かどうかよりも、夢があるというところに惹かれていました。

 現実はといえば、人間は半世紀前に月には行ったけど、それからたいして進んでいない。今世紀中に火星に行ければ上出来といったところで、時空をコントロールできるような文明にはほど遠いところにいる。

 大脳タイムマシーンは、誰でも個人で実現可能で、嗅覚をキー(鍵)にして過去にアクセスする一種の瞑想法と言えなくもない。

 ただ、いつの過去にアクセスするのかは、やってみないと分からない。おそらく一対一対応なので、いつかを自由に選べるようなものではないだろう。未来にアクセスするかもしれない。そのときは、未来のいつの日か既視感を感じる香りとして気づくときがくるのかもしれない。

 一般論としては、嗅覚は他の感覚器官よりもキーとして優れているように思われる。

 視覚や聴覚は、光や音を感覚器官がキャッチしたデータを大脳で変換して、それを大脳辺縁系が受けとる。そこで感情、情感が生まれる。一方、嗅覚は、匂いの分子を嗅覚細胞がキャッチしたデータを直に大脳辺縁系が受け取る。回り道をしてないわけです。視覚や聴覚より原始的な感覚ともいえます。

 そういったことから嗅覚の方が、よりダイレクトに強く感情、情感を揺さぶる。つまり、大脳タイムマシンのキーとして優れているわけです。

 キーになる感覚は、嗅覚に限らず人により音楽とか詩句とか、食べ物だったりとか、その他にもいろいろあると思う。そのあたりのことは、人それぞれの個性、気質の違いによりキーは異なるはずで一般論では決められない。

 例えば、ケガの古傷を見ると、ケガをした時の情景が蘇ってくることがある。これは文字のない古代の時代に記憶術として用いられていた連想法とも関連しているのですが、こういうのもキーになりうる。

 

 夏至の余韻でしょうか? 6月の花の香り、火球、アジサイヘリオトロープ、コリン・ウイルソンとずいぶんと話しがワープしてました。

 

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川崎の有馬温泉「霊光泉」

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 体がクタクタに疲れたときだけにいく温泉がある。川崎の有馬温泉田園都市線鷺沼駅からバスにちょっと乗った市街地にあり、東京の西にいるのでそんなに遠くない。調べると電車で鷺沼駅まで18分。考えてみれば、同じ東京でも東の浅草にいくよりも近い。

 

 幹線道路沿いにある温泉は、昭和のビジネス旅館といった三階建、屋内は湯治場の雰囲気。浴室、湯船は狭く、古い銭湯といった感じ。休憩スペースは、二代目のご主人のお孫さんの勉強部屋兼用で、いまふうのスパ施設とは違います。

 でも、そういった話しはこの場合、些細なことで、肝心なのは霊光泉(りようこうせん)と呼ばれる鉱泉の効能、これは凄いと思いました。他のスパ施設と設備や料金を比較したりするのは、あまり意味がない。

 

 湯船は、茶褐色から赤茶色の濃い色で、季節、時間帯によって変わり、黄金色になることもある。含鉄泉という鉄分を含んだ泉質で、温泉の中では比較的マイナーな泉質のようです。 源泉温度は20.9度とのこと( 表示によれば、1リットル中の成分/ナトリウム15.1mg、カルシウム27.9mg、第一鉄25.81mg、アルミニウム5.15mg、塩素22.27mg、硫酸6.58mg、ヒドロ炭酸208.0mg)。

 源泉は透明、飲むこともでき、口に含むと鉄錆の味がしました。空気に触れていると鉄分が酸化し、湯船は茶褐色系になっていく。 

 この温泉に浸かって、外で少し休んで、また浸かってと繰り返していると、体に元気が蘇ってくる。肉体的な、特に筋肉の疲労感がすっかり消えている。

 そういう感覚は、ふだんより体の状態がきついとき、疲労度が±0より-(マイナス)になっている時の方がよく分かります。

 ここに通っている人と話をしていたら、温泉の効きが強いので、湯にあたって知らないうちに気を失い、ズルズル沈んでいく人を引き揚げたという話を聞きました。これまで二人、引き揚げたとか。湯船の底は浅いですが、濃い黄赤色の湯に沈むと、姿が全く見えなくなってしまう。

 温泉にあたった・・・そういえば、前回は、鯖(サバ)にあたった話でした。いえ、全然、関係ない話しです。まあ、ヒスタミンや鉄が人の体に与える作用ということでは、つながっていると言えなくもない。

 

 この温泉が見つかったのは1965年、東京オリンピックの翌年、高度成長のまっただ中の頃でした。以下、温泉を開業するまでの経緯は、川崎、有馬温泉のホームページの記述をもとに書いています。

 温泉を掘り当てた創業者は、以前は、東京の港区で工場を営んでいた。元来、信心深い人だったそうで、ある日、夢の中で白衣の翁からで西の方角によい土地があるというお告げを受けたことから、この地に移り住んだという。

 白衣の翁は、八幡大神の化身ということで、建物の横に社(やしろ)が建てられている。

 まだ水道のない時代で、井戸を掘ったところ、青く濁った水が出てきた。これが鉱泉で、沸かして風呂に入ったところ疲れが消えたように感じられたそうです。

 自分がはじめて入ったときも、なぜか分からないぐらいに疲れが消え元気が戻ってきて驚きました。そのときは、事前に何の情報、知識もなく、近場なので入ってみただけだったのですが不思議な体験でした。

 他にも、リューマチの体の痛みが消えたとか、体に効能があることが分かってきた。そこで、病に苦しむ人のために無料で入浴できる風呂を作ったという。それを2年間、続けたそうで、創業者の強い想いを感じます

 そのころ、体の動かなかった人が温泉に入ったら、歩いて帰れるようになったこともあったと二代目のご主人から聞きました。新約聖書に書かれているイエスの行った奇跡と似た話しなので印象に残っている。  

 それは、中風(体の麻痺といった意味)で動けなかった人に、イエスが言葉をかけると起き上がり歩き出したという話しです。福音書にはこの他にも、さまざまな病気にかかっていた人々をイエスが治した話が書かれている。

 この温泉に浸かったら病が治ったという話しが広がり、毎日入りきれないほどの人が殺到するようになる。

 半世紀ほど前のことで、現在は落ち着いていますが、そのころは効能の噂が都市伝説のように広まったようです。そういえば、福音書にはイエスが病を治すという噂が広がり人々が続々とやってきたという話も書かれていました。

 そこで1966年、温泉療養施設として開業する。成り立ちからして普通の温泉とは違うことが分かる。

 

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 霊光泉という名称は、この温泉に度々、入浴していた、当時、厚生大臣だった自民党の政治家、園田直氏が名付けている。建物の横に霊光泉と彫られた大きな石碑が社と並んで建っている(上の写真)。

 霊光泉というインパクトのあるネーミングについて、とりとめもなく考えてきた。一体、この名称は、何に由来しているのか? 

 察するに、創業者の病に苦しんでいる人々のためにという想いを名称にしたと思うのですが、漢字で「霊」の「光」の「泉」でしょ、思いつきでつけたにしては、決まりすぎというか、何か強い力が働いているように感じ、謎解きのように考えていた。

 取っ掛かりは、霊光という二文字で、真光とか白光とか大本教の流れを汲む古神道系の分家筋の教団に共通する類似の用法で、何か関係があるように思えました。

 ちょっと調べると、園田氏は合気道創始者植芝盛平の門人で昵懇の間柄だったことが分かり、つながりました。植芝盛平は、戦前、大本教の信者で、生涯、大きな影響を受けている。

 そういった人脈の流れから霊光泉の名称は、古神道を踏襲したネーミングだと思いました。でも、それはまだ表層的なことで、その先があるようです。

 というのは、古神道と言われる教義の多くは、明治維新後に日本に入ってきたキリスト教や西洋のスピリチュアリズムの論理や概念を転用して作られているからです。

 そこまで遡ると見えてくるのは、霊光や真光、白光といった言葉は、神は光と言っているキリスト教に由来しており、さらに遡ると一神教にゆき着く。これ以上は遡れない。

 まあ、だからどうなの? 一神教の神だなんて、アニミズム的な日本のカミ(迦微)とは水と油じゃないか、けしからんと文句を言ってるのではありません。ええ、単にとりとめもなく考えてきた戯れ言を書いただけ。温泉の話からずいぶん横道に逸れました。

 

 人の体内で、細胞のエネルギー源の酸素を運んでいるのは血液の主成分である赤血球、細かく言うとヘモグロビンで、鉄は、そのヘモグロビンの生成を担っている。

 鉄は必須ミネラルのひとつで、レバー、しじみ、ほうれん草、大豆などいろいろな食物に含まれている。 ほうれん草を食べると超人的パワーが生まれるアメリカのアニメがありました。あれは、ほうれん草の鉄分により体の力がアップするというふれこみでした。

 そういえば、この温泉が見つかった前の年(1964年)、小松左京の『日本アパッチ族』という小説が出てベスセラーになっている。主人公たちは、鉄を主食として食べる人間(ミュータント)で、やはり超人的パワーを身につけていました。中にこんなくだりがありました。コテコテの大阪弁なんですね。

 

 「やっぱり、鉄を食うと、あんなにすごい力がでるんでしゃろか」(略)

 「そら当たりまえやがな」もう一人がしたり顔でいった。

 「ポパイみなはれ。ホウレンソウ食うたら、あんなに力が出るやおまへんか」

 「ホウレンソウとこれと、どんな関係がおまんねン」

 「ホウレンソウには鉄分が多いというやおまへんか--あんた、家で料理させられたことおまへんか?」(小松左京『日本アパッチ族』)

 

 食物を食べるのは自然なことですが、もっと効果的に、そして即効で体に鉄を取り入れる、不自然な方法がスポーツ界で問題になりました。

  いまから4年前、日本陸連は長距離選手に行っていた鉄剤注射をやめるよう警告文書を出している。それまで、鉄剤を静脈血管に注射し、血液中の酸素の供給を増やすことで、記録を伸ばすという一種の「ドーピング」が女子選手を中心に行なわれていたからです。

 温泉に含まれる鉄分は、口から飲んでも、あるいは皮膚からも吸収される。一般的に皮膚吸収は、ごく僅かだといわれていますが、 いろいろな条件により吸収率は変わるはずで、 そもそも人により吸収の度合いに個人差があるのではないか。

 食物からの吸収にしても効率はそれほど良くないうえ個人差もあり、貧血気味の人は鉄分のサプリメントを摂ったりもしている。

 含鉄泉の温泉に浸かることで、鉄分が吸収され血液中の酸素の供給が増える。それにより全身の細胞のエネルギーが活性化し元気になる。それが霊光泉の効能なのではないでしょうか。

 

 書いていて、これは道教の煉丹術のようにも思えてきました、煉丹術は丹砂(硫化水銀)をはじめとした主に金属鉱物の粉を組み合わせた霊薬を服用することで、超人的な効能を得たり、極めつけは不老不死になるというふれこみでした。テキストの「神農本草経」はなにぶん大昔の書で、こだわると迷路に迷い込むので、大雑把に言ってます。

 実際には、煉丹術は長い間、試行錯誤を繰り返したが、実効性はなかった(と思うのですが)。霊光泉は、煉丹術の夢の一つを叶えたともいえる。

 

 

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鯖(サバ)の変性意識

 鯖の変性意識? 鯖は魚のサバです。変性意識って言葉は、ふだんの日常の意識とは異なるいろいろな意識状態の総称でチャールズ・タートという心理学者の提唱した Altered state of consciousnessの訳語です。

 はて? そう言われても意味不明・・・いえ、単に先日、サバにあたったという話で、ヒスタミンのもたらす変性意識ってことです。

 

 昼、レアに焼いたサバの塩焼き、急な用事ができてテーブルに置きっ放しにしていた。翌日の夜、食べました。別に味に変わりなかった。梅雨のこの時期、なんで冷蔵庫に入れとかなかったか、後から考えると当たり前のことですが、すっかり忘れてました。

 それから一時間ぐらいして、なんか変なんです。少しフラフラする。それでも気のせいかなと、そのまま過ごしていたら、だんだんきつくなってきた。

 平衡感覚がおかしい。立ち上がると、足がふらつき真っ直ぐ立っていられない。めまいがする。冷や汗が出てきて背中がゾクゾクする。

 何が起きてるのかよく分からなかった。というのは、それ以外は心身の状態は特に変わらなかったので。何か気づいていなかった病の発作か、ごく微量で作用する化学物質の微粉末が空気に漂っていて知らないうちに吸い込んでいたのか、あるいは神経ガスのようなものなのか?

 健康サプリメントとかお医者さんの処方箋薬とか薬やアルコールとは全く無縁の生活なので、そういう類の可能性はゼロ。

 よくサバにあたったときに起きる蕁麻疹やアレルギー反応、頭痛、嘔吐、下痢などの症状はなかった。そんな訳で、おかしいと思っていても、その原因が食べた物とは結びつきませんでした。

 サバにあたるということは、結局、サバの中で生成され蓄積されたヒスタミンを体内に取り入れたことによる中毒症状のことです。

 ヒスタミンは人間の体の中でも作られている活性アミンで、神経組織では神経伝達物質として働いている。花粉症の目や鼻のかゆみは、体が過剰にヒスタミンを分泌することにより起きることから、鼻のスプレーや目薬には抗ヒスタミン剤が用いられている。

 後から調べたら、ヒスタミンに対する感受性は個人差が大きいとのことで、蕁麻疹は典型的な症状ですが、このときは、そういう症状が起きないケースだったようです。また、魚屋の商売をしていた人に聞いたら、ああ、冷や汗がどんどん出てくるのはサバだね、と教えてくれました。

 その後も、めまいと冷や汗は続きましたが、それ以外の症状はなく、めまいで横になり、そのまま眠ってしまい、翌朝には平常に戻っていました。

 

 先に、めまいと書きましたが、回転性のめまいではなく、体がフワフワした感じでふらつく浮動性めまいです。だから不快には違いないけど、それで目が回って気持ちが悪くなるということはなく、あたかもトリップしてるような感覚でした。

 自分にとっては、この時の意識はとてもユニークでした。過去に40~50種類のサイコアクティブを体験していて、それぞれ摂取量や摂取方法により生まれる異なる意識状態を覚えている。そのどれとも異なりました。

 ここで言っているのは、心や情感の変化や感覚の変化ではなく意識の変化のことです。

 比喩的に言えば、目に見えない、耳にも聞こえない、温度とか時間の変化、温度の1度の違い、時間の1分の経過を判別できるか、意識的に練習するとだいたいつかめるようになりますが、その要領で異なる変性意識も覚えることができる。

 別の言い方をすると、異なる変性意識に対応したリアリティの違いと言えばいいでしょうか、五感の感覚も変わるのですが、それぞれの感覚を分析的につかむのではなく、統合的に気づくこと。この気づきは、ヴィパッサナー瞑想の技法に共通したところがある。・・・なにぶん意識の世界のことなので、抽象的な話になってしまいました。

 

 ヒスタミンの変性意識は、どのサイコアクティブとも異なったユニークなものでした。体への負担が少なくて、心と思考は普通の日常と変わらず、浮動性のめまいだけがかなり激しい。それを浮遊感と言い換えてもいいかもしれない。

 顰蹙を買うかもしれませんが、心の片隅では他の変性意識と比較して面白いなと観察していました。全く予想もしてなかったことで、唐突に違う世界、異なる次元を垣間見たような感じです。

 でも、また体験したいかというと、次はどうなるか分からないし、蕁麻疹になるかもしれないし、とてもその気にはなれない一期一会のことでした。

 

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女竹と姫竹の食べ比べ

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 いつもの若林公園の外れ、ちようど松陰神社の入り口辺りの植込みは、この時期、口紅色(?)をしたヒナゲシが満開。その周りから細いタケノコみたいなのが芽を出していた。たくさん出ていて、もしかして食べれるかもと、採ってきた。根元から簡単に折れる。

 

 ふつうタケノコと言ってる孟宗竹のシーズンはもう終わっている。この近くでも4月下旬になると、経堂と宮の坂の中間にある農家が竹藪から採ってきたタケノコを小屋で売っている。毎年、待ちわびていて、今年も何回か食べた。アク抜きに手間がかかりましたが。

 採ってきたタケノコ(?)をネットで調べると女竹(篠竹)という種類らしい。茎が細めで材質が柔らかく、粘りが強いので、よく竹細工に用いられる竹で分類上は笹になる。下の写真は採ってきた女竹。

 

 朝、採ってきたのを夕方、皮を剥いて塩茹でにし、パスタの具材にして食べてみた。アク、エグミはないけど、苦味がありました。ニガヨモギの強烈な苦さに比べれば、たいしたことはない。でも食材としては少し抵抗があるかな。

 調べていくと、採ってすぐに食べると苦味はそれほどないことを知り、翌朝、また採ってきた。今度は昼前に、それでも3時間ほど経ってたが、塩茹でして醤油をつけて食べる。 

 確かに苦味は薄く感じる。そう、トレビスの苦味を思い出した。トレビスはソフトボールほどのサイズで、赤紫の筋が目につく一見、レタスといった感じのイタリア原産の野菜。フランス料理でよくサラダにして食べるのですが、ちょっと苦味がある。女竹の苦味はトレビスと同じぐらい。

 最近の野菜は、野菜の味がしなくなっている。トマトなんかがそう、以前はあった味、風味、癖、匂いが薄くなっている。その分、口当たりはよくなった。そういう野菜に慣れた味覚にとって、トレビスの苦味はどう感じられるか気になる。

 ネットで検索すると、南房総種子島では女竹を郷土料理として食べているとか。千葉、房州の伝統工芸品、房州うちわは女竹を割いて作ることもあり、食材にもしてるようです。

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 味は、よく口にしているタケノコとは違い、こちらは笹の新芽、山菜ですね、上の方は柔らかくて茹でたアスパラガスのよう。植物の香りのグリーンノートっぽい風味。行きがかり上の贔屓目もありますが、苦味も野趣の味わいがあって悪くない。

 ふと、気づいたのですが、桜沢如一氏神の土産物とか、その土地の産土(うぶすな)の贈り物と言っていた食物の味はこれなのかも・・・なんか新発見をしたような気持ちになる。

 蕗(ふき)は苦味があってこそいいんで、それは野菜にはない山菜の味覚でもあります。それを美味しいと感じられるかどうかは、口にする側の頭の切り替え次第だと思うのですが。

 女竹の場合、誰もが知っているタケノコの味が先入観としてあって、それを基準に女竹を口にすると、苦味が違和感に感じられるのではないか。

 

 食べ方としては、採ってすぐ、皮のついたままレンジで焼いて、ほんのり焼けたら皮を剥き醤油を垂らして食べる。蒸し焼きですね。これが一番シンプルで、最も持ち味を生かした食べ方だと思いました。

 

 そういえば、1960年代の高度成長の時代ぐらいまでは、竹の皮でおにぎりを包んでいた。街の商店では、よく肉や魚、コロッケ、ノリ巻き、和菓子など、木を薄く削った「きようぎ(経木)」で包んでいた。かさばるものは新聞紙で包んでいた。

 それらを買い物カゴに入れて持って帰っていた。ビニールのレジ袋はなかった。レジ袋が一般化したのは、スーパーやコンビニが台頭してきてからのことだった。そのころから、生活の豊かさとか、便利さとか、その手の言葉が出回りはじめた。

 

 それから何日か後、三ノ輪の商店街の八百屋さんに、あの女竹によく似たタケノコ(?)が並んでいた。

 通りがかりに偶然、目に入ってきたのですが、後から思うに、これも捨て目でした。女竹を採ってきては試食してた余韻が頭の中を占めてたのだと思う。

 えっ、これ女竹?と店のおじさんに聞くと、「山形の姫竹だよ、ほら、おばあちゃんが山に採りに行って熊に襲われる、あれ」とのこと。アク抜きは必要なく、皮付きのまま焼いて、それから皮を剥いて食べると美味しいという。

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 見た目も大きさも女竹に似ている。根曲り竹とも呼ばれていて、こちらも分類上は笹です。上の写真が八百屋さんで買った姫竹。

 俄然、食べ比べしなきゃという気持ちになって、持って帰り、軽く焼き皮を剥いて食べる。

  姫竹は女竹よりも苦味がない。味、風味、食感など女竹とよく似ているというか、ほとんど同じ。生っぽい緑(植物の新芽)の風味も同じようにある。先に女竹を食べているので、姫竹は円満、癖のない味に感じられた。

 

 5月の中旬、世の中は新型コロナのため自粛中でクサクサしてましたが、ひとしきり女竹と姫竹の食べ比べに夢中になっていました。

 

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トラフズクの鳴き声

 4月18日、この日は午前中まで大雨、陽が沈むころになって晴れ間が広がり、澄んだ西空に金星がプラチナの大粒みたいに輝いていました。

 夜半、若林公園のクロマツの林で妙な鳴き声を聞いた。「ホーッ」というか「フーッ」というかうまく表記できない単発的な音。歩いていたら唐突に聞こえてきて、しばらく沈黙、また聞こえる。

 ウシガエルの鳴き声にも似ているが、こちらはくぐもった低音でどうも違う。高い松の木の上から聞こえてくるので鳥に違いない。暗闇で姿は見えない。

 

 去年は冬の朝、同じ場所でタカのツミ(雀鷹)を見つけ、一人盛り上がっていた。ツミは小動物や鳥を餌にしている小型の猛禽類で、以前はこの公園にはいなかった。

 ツミがキジバトを捕食しているのを何度も見かけた。体は小さいが、脚が太くがっちりしていて鋭い爪、目に焼き付いている。

 毎日、見ていて分かってきたのですが、キジバトはスピードや敏捷性が緩いのと、中サイズなのでツミが狙うのに打って付けだった。例えば、ヒヨドリは敏捷だし、スズメやシジュウガラは小さくて効率が悪い。

 東京の区部では、ずっと前から野鳥の種類も数も減り続けてるけどキジバトは逆に増えていた。明け方、キジバトの鳴き声で目を覚ますことがある。電信柱にとまってたのだと思いますが、以前は人の生活圏とこんなに接近していなかった。

 察するに、キジバトが増えたので、それを捕食するツミがやって来たってことのようです。こんな街中にも自然の摂理が働いているようです。

 新型コロナ対策で、外出する人が減ったヨーロッパの各都市では、鹿や野兎、イノシシ、山羊といった野生動物が目撃されるようになり、港にイルカが現れているとか。人類滅亡の映画のラウトシーンはこんな感じでした。

 地球上から人間がいなくなれば、自然は数百万年ぐらい前の状態、もともとの姿にすぐに戻るんじゃないか。

 いま見つかっている最古の石器はだいたい260万年ぐらい前(アウストラロピテクスという初期の人類というか猿人で、学問的にはヒト亜科に分類されるとか)まで遡ると言われている。さらに330万年前まで遡った石器も見つかっているという。

 人間の祖先がチンパンジーなど類人猿の祖先と枝分かれしたのが600万年前ぐらいということになっているので、人間に向かっていく方向(道具を作るってこと)がはっきりするまで半分以上の時間(約340万年)がかかっている。

 動物園のチンパンジーでも落ちている細い木の棒を道具にしてましたが、自分で道具を作ることはしていない。人間になっていく方向が定まるまで、折り返しの半分の時間がかかってるということは、その間、よほど紆余曲折があったってことのようです。

 これは、自然(動物)から人間になっていくってことは、それほど反自然的なことだったってことを示してると思うわけです。・・・横道に逸れていました。

 公園の松林に二つがいのツミの巣があり、春になると外敵のカラスを威嚇する鳴き声が聞こえてきた。しかし、ちょうど今頃だったか大嵐の日、ツミの巣は吹き飛ばされてしまった。

 今年はツミを見ていない。大切なものをなくしたような欠落感をずっと引きずっていた。

 

 翌日、鳥の正体をネットで調べる。「サントリーの愛鳥活動」というサイトで鳴き声から鳥の種類を検索できました。

 「春」「夜」「森林」「一音」という条件を入れると7種類の野鳥が出てきた。それぞれ鳴き声を聞いてみて、すぐトラフズクだと分かりました。前夜、鳴き声を繰り返し聞いていたのでまず間違いない。

 トラフズクはフクロウの仲間で漢字で書くと虎斑木菟。羽がトラ模様のミミズクといった意味で低山地や平地の林に生息している。英語だとLong-eared owl  、長い耳(羽角という)のフクロウと言ったところ。キジバトよりも大きい鳥です。

 画像の検索をすると、けっこうかわいい感じ、丸顔で羽角がピンとしたところは猫っぽい。知恵の象徴、ミネルヴァのフクロウはこんな目をしてたのか、なんかを深く考えてるようにも見える。

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トラフズク(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より)。写真が撮れないのでこれでご勘弁を。

 トラフズクだと分かり、新しい発見をしたような気分になって、やはり一人盛り上がっている。周りの人に話しても無関心な様子、まあしょうがない。

 姿は見えなかったが、たしかにいる・・・そういえば火球を聞いた時のことを想い出す。

 あまり関係ない話ですが、諸葛孔明とラマナマハリシ岡本太郎の三人に共通していることが一つある。三人とも亡くなったとき、夜空に火球が見えたってことです。

 岡本太郎の逝去を報じた新聞記事をみると、少し離れたところに前夜、火球が目撃されたという記事が載っている。

 そういえば、7年ほど前のことでした。真冬の深夜、室内にいたとき屋根に何か落ちてきたような音が聞こえた。大きな音ではなかった。ガタンというか、雨戸を揺さぶったような音。静かな晩で、そのときは空耳、錯覚かと思っていた。

 翌日の夕刊で、同じ地域、同時刻に火球が落下するのを見た、その音を聞いた人が大勢いたことを知りました。火球は音速の数十倍のスピードで大気を落ちてくるので、その衝撃波が届いたときの音でした。

 いまもそのときの音の記憶、残っていて、天狗の石飛礫(いしつぶて)ってこれじゃないかと思っている。

 テングは、もともとは中国の漢字で天の狗(いぬ)、隕石が落ちてきたとき、つまり火球の音がして、それを空から犬の鳴き声がしたと思ったという話しでしょ。稀な椿事で、なんとも不思議な出来事だったから後世に残る言葉になり、そして日本にも伝わったわけですよね。

 

 いまのところトラフズクの姿は見ていない。そうか、ウシガエルも同じだったなとつながった。弦巻の中央図書館の池にウシガエルがいたのですが、そこは人の近ずけない茂みの奥で、春から夏、牛のような、汽笛のような大きな鳴き声が聞こえてくる。

 図体の大きな動物かと思うほど大きな鳴き声でした。でも、姿形は見えない。

 見えないけど、そこにいる。こんな関係も案外、面白い。見えない分、逆に存在感があって、少なくともそこに行くと、いつも意識するようになっている。それは、妖怪のような存在といえなくもない。

 なくても(見えなくても)、ある(居る)というリアリテイ。思い込みで感じてるのとは違うんです。本当にある(居る)のですから。幻覚を見るより、こっちの方がワクワクする。

 日常世界にこういうリアリテイがたくさんあったら面白い。日常がもっと豊かになるんじゃないか。この話は結局、豊かさって何かということになるのですが。

 お金に換算できる豊かさの世界は、まだ貧しいのではないかと思っている。UFOでも妖怪でもUMAでもなんでもいいですが、そういうのが身近に、周りにいた方が人間界としては豊かなのではないか。

 

 ふと思ったのですが、今までこんなところにはいなかった鳥がどうしてここにいるのだろうか? 郊外の山野から街中に移動してきたのか、ペットとして飼われていたのが逃げたのか。 日本の野鳥のトラフズクを飼うことは法律で禁止されており、輸入されたトラフズクが高値で売られている。

 一昨日、雨の中、三軒茶屋の三角地帯を通ったとき、ここは小さな飲食店の密集しているエリアですが、路地の脇に調理器具や敷き布、箸立てなどを包んだ大きなビニール袋が山のように捨てられているのを目にした。

 新型コロナの影響で飲食店はどこも営業を自粛している。いまコロナ騒動で廃業する店が出始めているというニュースを見ましたが、捨てられていたビニール袋は、そんな一例なのかもしれない。

 この数年、猫カフェの後続で各地でフクロウカフェが開店していましたが、若林公園にいたトラフズクはフクロウカフェにいたのかも? でも、そういう業者の人は放ったりせずに、しっかり転売するでしょうから、その可能性は少ないか。

 

追記・・・下の写真は、チンパンジーが木の棒を道具にして使ってるところ。横浜のズーラシア動物園で、奥の方で座って何かしている人物(?)の左手に注目。細い棒を指でつまんで、朽ちた倒木の幹の中にいる虫をほじくっていた。

 親指が短いので、正確にはつまむことができず、指と指の間に挟んでいる。ぎこちない様子です。

 使っているのは細めで真っ直ぐな枝。近くに落ちていたのを拾ったもの。太い枝から細い枝を折り、葉を除いて棒(道具)を作ることはしていない。この違いはすごく大きい。

 道具を作るってことは、予めその道具を作った後の用途や使い方を頭の中で考えてるわけで、もしかしたら未来という観念が芽生えたのはこのときだったのかも、いずれにしても、そこまで複雑な思考をしはじめたのは人類だけだった。

 道具を使うけど、道具を作るまでには至らない段階、これが600万年前の知性なんですね。

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