雪男、イエティの古い絵・・・UMA実在の証拠?

f:id:alteredim:20200916124656j:plain

 宝飾品の展示会に行ったときのこと。ずいぶん前のことです。会場はとても広く、ブースもすごい数、とても一店、一店見てる時間はない。そんな訳で目当てのブース以外は通り抜けるのですが、途中、海外の業者さんのブースが並んでいるエリアで何か引っかかるものが目に入った。

 横のブースの隅に場違いなものがある。キラキラしたアクセサリーを入れたガラスケースの上に、古文書のような、薄汚れた絵(?)みたいな厚紙が束になって置いてある。

 引き寄せられるように近づくとチベット密教のタンカだった。絵葉書より少し大きなサイズで、岩絵の具で描かれており鮮明な色彩。煤や裏面の埃やシミの付き具合、紙の劣化状態から古い寺院にあったものに違いない。

 50~60枚ぐらいの束をササッと見てくと、どれもチベット密教の伝統的な様式の図柄で、この場で売っているとのこと。気にいった何枚か抜き出し、さらに残りを見ていく。

 

 束の下の方に、一枚だけ変な動物が描かれているのが混じっていた。草原を二足歩行で歩いている動物の後姿。全身が毛に覆われ、太い尻尾がついている。これ、一体何だろう? 

 正面、あるいは横からならば、見当がつくのに・・・後姿なのは、逃げ去る姿を遠くから目撃したのを拡大して描いたからなのではないか。見た目、なんかトボけたというか、間の抜けた感じ。

 このブースはシンガポールの業者さんで、聞けば、中国の四川省の寺院にあったものだという。寺の場所や名前は分からない。扱っているメインは、宝飾品なのでタンカの束はついでにこんなものもあるんですが、といった感じで端っこに置かれている。場違いなものなので、足を止めるお客さんもいない。

 紙の状態からこの40~50年のものではない。100年以上は経っている。清朝は1644年から1912年まで、大まかに江戸時代と同じぐらいの期間、江戸時代より少し遅れて始まり明治末まで続いている。

 ところで、日清戦争は清の滅亡に大きな影響を与えていたし、文禄・慶長の役は明の滅亡に影響を与えていた。共に、王朝が傾いていたってこともあるのですが、建国71年の中華人民共和国はどうなるんでしょうか。

 紙の状態から清朝後期のもののようです。日本で明治時代のものといえば、そんなに古いってわけでもないですが。清朝は、チベット密教に対して融和的な対応をしていた。また、現在の四川省の西部は、そのころは東チベットと呼ばれていた。

 中国共産党チベットを併合したとき、チベット自治区と分けてチベットの東側を四川省に組み入れた。万が一、併合が頓挫しても、東側は確保しておくって考えてたってことでしょうか。・・・そういえば、現在のモンゴルという国は、昔のモンゴルの北部地域で、南部は中国に併合されて内モンゴル自治区になっているのも同じですね。

 当然、四川省にはチベット密教の寺院がたくさんあったはずで、現代の中国ではそういう寺に収められていた古い文物は、売り払われているようです。 そんな流出物の一つがどんな経緯を経てか、行き着いたのがここだったわけです。でも、ここでは、売ってる人も、お客さんも誰も関心を持っていない・・・。

 こんな経緯で4点ほど持ち帰ってきた。

 

 最初、描かれている動物は、ヒマラヤの雪男、 イエティかと思った。でも、最近はそういう話し、どうも分が悪い。

 近年、イエティの毛、歯、毛皮、排泄物と言われてきた遺物をDNA分析した結果、イエティの正体はヒグマかヒマラヤクマ(ツキノワグマ)だということになってきた。ちょっと夢が萎むような話ですが、まあ、そうなんでしょう。

 しかし、この絵の動物の太い尻尾はどう考えたらいいのか? ヒグマやヒマラヤクマにはこんな尻尾ないですから。

 

 世界のいろんな動物、すでに絶滅した動物も含めて似た動物が存在していないか探してみた。

 いました! メガテリウム、約1万年前ぐらいまで南アメリカに生息していた巨大なナマケモノの近縁族。成獣は全長6~8メートル、体重3トンになったという。一見、クマにも似ているし、太い尻尾が付いている。

 ヒグマは重いもので600キロぐらいとか。3トンというと、アジアゾウに近い。とんでもなく大きい。そうか、オオナマケモノ(和名)なら、なんかトボけたというか、ノロノロしてそうな感じってのももっともかも。

f:id:alteredim:20201215161621p:plain

 上は化石の骨格を基に描かれた想像図。大英博物館には全身の骨格標本があリます。 

 こういう古生物学に基づいて描かれた絵をパレオアートと言っている。想像図が異なっているのは、実物の体毛や色までは分からないので、その辺りは推測で描いているためです。

f:id:alteredim:20201215161812j:plain

 南米コロンビアのアマゾン川流域の岩窟遺跡で発見された壁画。 約1万1800~1万2600年前に描かれたと推定されている。 その壁画の中に絶滅した巨大動物が描かれていたのですが、研究者がオオナマケモノメガテリウム)と認定しているのが上の絵。壁画にはマストドンラクダ、ウマ、正体不明の哺乳類などもある。

 骨格標本から描かれた想像図と似ているでしょうか。確かに顔、口はそんな感じですが、 尻尾は、はしょって描いているのか? 壁画の方がリアルに現物に近く、パレオアートの方がずれているのかもしれないので。

  ナマケモノは異節類という南アメリカで進化した哺乳類のグループで、清朝後期、18~19世紀にヒマラヤで生息していたというのはちょっと苦しいのですが・・・。ということでは、 メガテリウムとは違うまだ知られていない動物(UMA)かも。

 

 古代の発掘品に限らず、近世でもよく分からない動物のテラコッタ、陶磁器、石像など骨董の世界で見かけることがある。神話や伝説をモチーフにしたものばかりでなく、その時代、その地域にいた生き物に違いないというものもある。

 最近、ベトナムなどインドシナのジャングルで新種の哺乳類が発見されてニュースになっている。あの地域の古い陶磁器の発掘品には、象とか牛とか動物のものも多い。顔の部分の破片で、羊、鹿、馬のような、でもどれにも当てはまらない動物のものもある。

 ああいう発掘品の中には、現在は絶滅しているけど、2~3世紀前ぐらいまではいた動物もあるんじゃないでしょうか。

 

     ☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。 http://alteredim.com

 

 

 

ボデイランゲージだけの会話

f:id:alteredim:20200903131859j:plain

 写真は棗(ナツメ)の実。このところ目に見えて大きくなってきた。実のサイズは長さ2センチを越えるぐらい。そのままでも食べれる。リンゴのような食感、でも甘みはないし水気もない平板な味。不味くはないですが、美味しくもなく、微妙なところ。

 美味しいといえば、榎(エノキ )  の実でいま木から落ちていて食べごろ。ほんのり甘く、アンコのような味ーー本当の話し。しかし、この実は小さくて10粒、20粒では食べた気がしないし(直径約6ミリ)、たくさん集めるのも手間がかかるしと、こちらも同じく微妙なところです。

 

 近くの商店街でビルの解体工事をしている。昭和の頃は蕎麦屋だった一角に平成のはじめビルが建ち、もんじゃ焼きの店が入り、それから店が変わり、いまビルを壊している。現場で作業しているのは4人、容貌と口髭から中東系の人たちのよう。

 毎朝、犬のJ(名前)と現場の前を通る。何日か目、どこの国から来ているのか聞いた。

 トルコからで、さらに聞くとディヤルバクル出身とのこと。じゃあ、クルド人か。イラクやイランのクルドの人たちにはずいぶんお世話になった。ディヤルバクルはトルコの南東部、シリア、イラクの国境と近い地域にある都市で住民の多くはクルド人です。

 街(旧市街)の周りを囲んでいるローマ時代に造られた城壁、ナスやトマト、ピーマン、豆を使った凝った野菜料理、強烈な日差しと土漠を思い出す。あのあたりから南は、夜になっても部屋に日中の熱気がこもっていて、建物の屋上にマットを敷いて寝ていた。湿気がないので案外、心地いい。

 

 ということで、毎朝、一言二言、言葉を交わすようになった。その中の一人、くたびれた感じのおじさんがいる。なんとなく人懐こそうな、そう、共感性の高い人のように感じた。

 おじさんは日本語も英語も通じない。こちらはトルコ語は挨拶ぐらいで喋れない。

 おじさんの知ってる日本語は、いくつかの地名、いま住んでいる「〇〇(北関東の街)」、乗り換え駅の「赤羽」、「新宿」ぐらい。「ありがとう」「さようなら」は知っているはずなのですが、喋れないのか、喋らないのかよく分からない。

 仲間にグレープフルーツを持っていったとき、おじさんは腕を曲げて胸のあたりに当てて、首をうな垂れた。「ありがとう」の意思表示なのはすぐに分かった。

 

 こちらから何か意思を伝える手はないか? 手振りであれこれやってるうちに、自然とジェスチャーでコミュニケーションをとるような形になっていった。

 可笑しいのは、おじさんの方も暗黙の了解で、自分の意思をジェスチャーで表現しはじめた。阿吽の呼吸というか、いつの間にか互いにジェスチャーに移行していくのが、なんか変だなーと思うのですが、もしかしたら共感性みたいなものが関係しているのかも。

 手話やホームサインは、互いに手指の動作の意味を知っているもの同士の間で成立している。しかし、ここでは、そういう事前学習はないので、もっと原初的というか、色物の芸の中に形態模写ってのがありますが(浅草の東洋館でやっている)、あれに近い。

 

 例えば、こんな様子です。現場の道端に座っていたおじさん、こちらに気づくや、顔を横に傾けて、握りこぶしを頬に当てた。・・・歯痛なんだなとすぐに分かった。

 自分を指差してから、両手でハンドルを握る動作をする。次に、角に見える一向通行の道路標識を指差しながら頭を振って目をつむる。・・・なるほど、トルコでは運転手をしていたが、日本では交通ルールが分からず車の運転ができないってことだな。

 連日、酷暑が続いていたが、この日は曇りで暑さも一息。おじさんは、空を指差し、シャツを指で摘んで困った顔をする。次に、ペットボトルを飲むしぐさ。それから、通りの向こうのコンビニを指差した。・・・この日は、まだ過ごしやすいのは互いに了解済みで、そのうえで、昨日までは汗だくになって何度もコンビニに飲み物を買いに行ってたってことだな。

 ふと、思ったのですが、このおじさんは、全く言葉の通じない異国で働いていて、ボディランゲージで自分の意思を伝える術(すべ)を身につけていたのかも。そうじゃなければ、こんなに臨機応変ジェスチャーができないだろうし、それに顔の表情を組み合わせるなんて即興でできたとは思えない。

 おじさんに比べると、自分の方は、ジェスチャーの表現力が全くないことがすぐに分かった。あらかじめ伝えたい内容がジェスチャーで表せるだろうかと頭の中で反芻してからやりはじめるので間延びしているし、本来、伝えたいと思っていることの中から表現が難しいことはあらかじめ捨象しているので、舌ったらずで不全感が募る。

 ジェスチャーで疑問形は難しい、過去形・未来形も難しい、 抽象的な内容も難しい、 と削っていくと、畢竟、Be Here Nowだけの自己完結した世界になってしまい、それはそれで拈華微笑みたいな以心伝心でいいのですが、巷の雑談、お喋りにはそぐわない。

 

 ・・・とはいえ、おじさんのジェスチャーを見ていると、前後の状況からこれは過去のことだな、あるいは、これからすること(未来)だなという見当がつく。また、「わたし」とか「あなた」、「道路標識」「コンビニ」などは指差しでなんとかなっている。

 また、相手の表情から、好ましいことなのか、困っているのかの見当がつくので、それで疑問形で聞くような内容のかなりは分かるということもある。

 この場合、読み取れるかどうかは、こちらの解釈力(?)に関わってくるのですが。こちらから発信する表現力に乏しいということもあり聞き手にまわることが多い。

 この何日か、ボディランゲージで話しているのですが、なんか妙な感じで、というのは最初から最後まで互いにほとんど無言なんですね。

 

 追記・・・上の文をアップした翌々日、新聞の書評で『言語の起源』(ダニエル・L・エヴェレット著、松浦俊輔訳)という本が紹介されていた。

 著者は、南米アマゾンの先住民ピダハンの言語を調査してきた言語人類学者。この本は、現在も狩猟採取生活をしているピダハンの言語から太古の人類の言語を類推することで、言語の起源について新しい仮説を提起している。その仮説は、ソシュールとかチョムスキーとか、これまで言語学が築き上げてきた文法の構造や論理を研究して導き出された結論とは大きく異なっている。

 そのポイントを端折って書くと、言語の発生は、シンボル(象徴)、ジェスチャー(身振り)、語順、イントネーション、文法などの要素が相互に作用して生まれたと言っている。

 言語は、口から音声を発して話す(喋る)ことですが、5万年〜10万年前に人間が言語を生み出したころ、突然、話せるようになったのではなく、前段階として上にあげたような要素を組み合わせているうちにその相互作用によって言語が生まれたという。

 これはとても興味深い話しでした。というのは、クルド人のおじさんとの「会話」と似てたからです。自然発生的に相互作用が起きていたのは、実感としてよく分かっていた。阿吽の呼吸とか、自分でも変だなーと思ったのはそのことでした。

 別に意識的にやろうとしてはじめた訳ではないのですが、結果的に、言語の起源の実験をしていたんじゃないか。

 

     ☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。 http://alteredim.com

 

宝蔵門と浅草メリーさん

f:id:alteredim:20200816123850p:plain

今年4月、夕暮れの宝蔵門。コロナ騒動で境内に人がいません。奥に観音堂(本堂)、左に五重塔。宝蔵門の屋根につき出して見えるのは「花やしき」の乗り物スペースショットの柱。

 

 前回、浅草寺の仁王門(現、宝蔵門)の話しを書いていて、ある人のことを思い出した・・・宝蔵門の軒下で出遭ったメリーさんです。

  もう10数年前になる。7月のはじめ、朝6時に本堂でやっている観音経の読経を聴き、それから境内を仲見世に向かって歩く。吾妻橋の交差点にあった助六、ビルの壁に「うまい、早い、安い」と大書していた立ち食いそば屋に行くため。いま店はなくなりましたが、壁の文字だけ残っている。

 そのころ早朝の観音経をよく聴いていた。 観音経は、観音菩薩を讃える経、「音」を観する経なんですね。オーソドックスに経文を読んで意味を理解する経、真言のような呪文を唱える経、いろんな経がある中で、観音教は聴くことでダイレクトに伝わってくる、そんな経だと思っている。・・・知ってる経は僅かですが、物語としていちばん面白いのは維摩経でした。

 観音経は、浅草のような伝統的に芸能=歌踊音曲を地場産業とする地にふさわしい、地元に密着した、また、しっかり現生利益をアピールしていて、なんかその辺り方便というか、ちょっといかがわしくもあるのですが、なんと言っても勢いがあるところがいい。

 真冬、暗い中、観音教を聴いていたら意識をもっていかれたことがあった。それがある意味、心地よく心に残り、足を運んでいた。読経が後半のクライマックスになってゆくに従い、読経の合唱(?)と太鼓、鉦の音がどんどん昂まってゆき、つられて意識がもっていかれる。これは絶妙に構成されているな、レイヴでDJが会場にいる人々の意識を高みにもっていくのとも似ているな、と思った。

 ・・・出だしから横道に逸れている。このまま書いてくと、全く別の話になりそう。話を戻し、境内を歩きはじめたところから。

 

 その日は、梅雨が開けたばかり、快晴の爽やかな夏の朝だった。 明け方まで雨が降っていてところどころに水溜りがあり、鏡のように夏の青空を映してる。

 早朝の境内は人もまばら。五重塔とおみくじの舎の間を歩き、宝蔵門まで来ると、門の軒下にブルーシートを敷いてぺったり座っている人がいる。上の写真だと、門の左側、ちょうど裏になる。

 目の前まで近づくと、黒のドレスで濃いメイクが雨と汗で落ちかけているけっこうな歳の女性でした。ブルーシートの上に櫛や化粧品、ポーチ、靴が散乱している。バングラデシュアフガニスタンイラクにいた難民の人たちを思い出す。

 しかし、難民にしてはケバい雰囲気、それがなんともアンバランスで鮮烈な印象でした。

 一言二言、立ち話しをした。ここで一晩、雨宿りをしていたそうで、街娼をしてるとか。いたって普通な感じのふっくらとしたおばちゃんで、言葉に品がある。それもまたアンバランスな感じ、これがメリーさんとの出逢いでした。

 

 何日か後、ひさご通りを歩いていたとき、メリーさんが立っていた。ああ、こんにちはと、それから顔を合わすと自然に挨拶するようになった。

 ここは、六区から言問通りまでの歩行者専用の商店街の通りで、その先は山谷や吉原に延びている。昔は街娼の人がよく立っていた。通りの入り口に街娼を締め出そうといったスローガンが書かれた古看板があった。しかし、時代も街も変わリ、その頃には、ほとんどいなくなっていた。 

 メリーさんはこの界隈の古参ではなく、そのころ遠くから流れてきた人だった。

 当時の浅草、特に盛り場は、長期にわたって衰退し続けた大底、その最後の時期でした(それから後、反転し国際的な観光地、それまでとは別の新しい浅草に変貌していく)。

 だから場末どころか、それがさらに寂れ果てた末、街娼も商売にならなくなり姿を消していた。夕暮れになると六区の通りはひと気がなくなり、ホームレスの人たちがダンボールで作った棺桶(?)みたいな「家」で寝ている。賑やかだった昔を知っている人は「浅草は死んだ街だ」と呟いていました。

 花やしき通りは、夜になると廃墟の暗闇というか、インドのオールド・デリーを彷彿させる既視感があった。蔦に覆われた観音温泉のビルはまるでホラー映画に出てくる古城のよう。

 ・・・こんなふうに書いてますが、自分が浅草を知ったのはそんな大底の陰の陰のころ。でもそれはそれで、そんな時代だからこそ出会えたことがあって面白かった。そこは人の行く裏に道あり花の山でした。

 

 ひさご通りのまん中にメリーさん一人、どうしたって目立つ。商店街の人たちは、高齢で体もよくないメリーさんを追い払うのは気の毒で黙認していたとか、そんな話が耳に入ってきた。そういえば、いろんな人たちが、口を揃えて浅草はよそ者に優しい街だと言ってます。

 メリーさんもそういったこと知ってたようで、ひさご通りだけに長居せず、ちょくちょく移動していた。それがまた神出鬼没で、まさかここにといった所にいたりして可笑しかった。

 通りに立っていると書いてますが、正確には、足がよくないのでいつも三脚のイスに座っていた。そして横に服や荷物を詰めたカートを置いている。要はホームレスなわけです。

 街娼でホームレスというと、野生人みたいになっちゃってる人がいる。しかし、メリーさんはいつも身なりには気を使っていたし、壊れた人という感じは全くなく、荒んでもいなかった。

 ここまでメリーさんと書いてきましたが、自分の中でそう呼んでいるだけの名前です。映画や芝居にもなって有名な娼婦の横浜メリーさんは純白のドレスを着ていたそうで、こちらはいつも黒いドレスを着てたので浅草メリーさんということになっている。

 こういう状況で、あれこれ聞いたり、詮索するのは野暮な話で、畢竟、どっちでもいいこと。そもそも自分が誰かなんて分かってる人、いるんだろうか。だからメリーさんが誰かなんて他者が聞くのは愚問。だいたい話すことといったら、あっちにこんな人がいたとか、この前、あそこでこんなことがあった(抽象的な書き方ですいません)、といった街の情報がほとんど。

 何も知らなくても、本音で話ができた。常識とか世間の建前に囚われず、表裏のない話ができた。本来無一物って自由のことでしょ。うまく言葉にならないですが、出逢えてよかったなと思っている。

 宝蔵門の下というシンボリックな場所で出逢ったことに、なんかの縁を感じていました。あそこは古来、悪魔やもののけが入ってくるのを防ぐ守護神の門だったんだな、後からそんな由来を思い出した。人間って終わった後から気づいたこと、知ったことなど諸々の断片を組み合わせて自分の内で納得できる物語を紡いでいくんじゃないか。

 

 真冬、コートを着て、襟巻き、手袋をして座っていた。ひさご通りはアーケードになっていて雨、雪はしのげるが吹きっ晒し。よく暖かいコヒーを持っていった。

 夏、隅田川の花火大会の日の夕暮れ、人通りが増えてくる。境内からも花火の見える一角があり、びっしり人で埋まる。メリーさんも後ろを振り向けば、建物の隙間から花火が見えるのだけど、花火大会があることも、花火を見たこともないと言っていた。メリーさんにとって、そういうこともどっちでもいいことだった。

 何度も倒れ、救急車で病院に運び込まれたがすぐに戻ってきた。姿が見えないと気になり、そういうときは、街の誰かがあそこの病院にいるとか教えてくれた。施設に入ればといった話もあったが、結局、ここがいいということだった。

 何年か経った真冬、メリーさんは亡くなった。路上で三脚イスに座ったまま最期を迎えたという。

 

 今朝、黒松の林の地面に小さな穴がたくさんあって、近くに蝉の抜け殻が落ちていた。樹の幹に付いているのもあれば、雑草の葉の裏に付いているのも、地面に転がっているのもいる。なんとなく抜け殻を見ていて気づいたのですが、15~20匹に一つはうまく脱皮できずにそのまま死んでいました。生まれるってことは大変なことなんだなと思う。

 人間が胎児として母体にいるときと、蝉が幼虫として大地(土の中)にいるときは対応していて、また人間が産まれるときは、幼虫が地上に出てきて脱皮し蝉になるときに対応してるように思える。・・・もし核戦争とか巨大隕石の衝突が起きて地上の生物が滅んでも、蝉の幼虫は地下のシェルターにいるので、その7年後ぐらいに姿を現わすのでしょうか。

 人間にとってほんとうの大事、正念場は、分娩時と臨終時の二回だけなのではないか。人生全体の中では、最初と最後のごく短い時間に起きること。別の言い方をすると、意識の始まりと終わり。途中の人生、いろいろあるでしょうが、それらは中事、小事といったところ。昔の人は、邯鄲の夢と言っていた。

 分娩時(とその前)の意識については、スタニスラフ・グロフの「基本的分娩前後のマトリックス」が包括的に説明していました。臨終時(からその後)の意識については、チベット仏教ニンマ派チベット死者の書がバルドゥとして詳細に説いていました。言ってることに向きあってきましたが、鵜呑みにしているわけではないです。

 これらは仮説であっても、正念場の前後の幅を広げて考える一助になるのではないかと思っている。科学、医学、心理学、宗教などこれまで人間が蓄積してきた膨大な知識の中で、この正念場の意識について語られていること、分かっていることは、ごく僅かしかないからです。常々、肝心なところが抜け落ちてる!って感じてました。

 思うに、正念場は、純粋に意識だけの問題になるってことですよね。

 

 メリーさんは即身仏の行と同じことをしていたのでは、ふと、そんな気がした。正念場の意識の話しです。奇異なこと言ってるでしょうか? もちろん、本人はそんなこと考えてもいなかったでしょうが、動機や過程は違っていても結果に於いて近いとすれば、そういう人のことを縁覚と呼ぶのではないか。

 即身仏の行は、そんなに多くではないですが、江戸時代、主に東北の山形の方で行われていた。明治以降、 近代化していく中で核にあったものが見失われ、奇習などと呼ばれるようになってしまった。でも、別の言い方をすると、正念場に際し、意識を保ち続けて臨終する行、究極的な瞑想ともいえる。

 そういえばブッダと同時代、双子の兄弟のような関係にあったマハーヴィーラ(大勇)のジャイナ教には宗教的に自死を肯定する教えがあった。断食による死を賞賛している。即身仏の行は、奇しくもあれと近いんじゃないか。南ベトナムの僧侶ティック・クアン・ドックという人もいた。

 ジャイナ教をマイルドにしたのが仏教で、そのことは、ブッダの唱えた初期仏教に近い南伝仏教の方が、北伝仏教よりもジャイナ教により近いことからも明らかではないだろうか。

 仏教とジャイナ教はインドの精神文明の同じ幹から出ている二つの枝で、長い時間を経てアジア各地でさらに小枝に分かれていっても、ときどき先祖返りする個体が出てくるってことでしょうか。教義や形式的なことを取っ払うと、共通した意識にあるのかも。

 

    ☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。 http://alteredim.com

 

浅草寺仁王門のかな輪

 

f:id:alteredim:20200816162146p:plain

 木村荘八の『現代風俗帖』(昭和27年、東峰書房)に以下のような一節がありました。終戦後、間もないころ浅草寺を訪れたときの話です。昭和20年3月10日の空襲で下町一帯は大きな被害を受け、浅草寺も本堂、五重塔、仁王門をはじめ主だった建物は焼け落ちていた。

 上の写真は焼失する前の仁王門。戦前の絵葉書です。

 

「まだその時は仁王門の焼け跡がよく整理されていずに、私はそこで、門の金具として打付けてあった、鉄瓶の蓋程の大きさの、かな輪を拾って来ましたから・・・そこらじゅう未だ戦跡の片付いていなかった、生々しかった頃です。」

 

 仁王門は1964年、東京オリンピックのあった年、鉄筋コンクリートで再建され、宝蔵門と改名された。仲見世通りから本堂に向かうとき通る大きな赤い門で、長さ4.5メートルの大草鞋(わらじ)が掛かっている。コロナ騒動が起きる前は、海外からの観光客が門の下でよく記念写真を撮っていました。

 仁王門が建てられたのは江戸時代初期の1649年、同じ年に 本堂(観音堂)、前年に五重塔が建てられている。戦前、観音堂五重塔は国宝になっていた。当然、同時期に建てられた仁王門もそれらと同格に目されていた。

 しかし戦災で三つとも焼失、江戸時代に作られ、いま残っているのは二天門、六角堂、橋下薬師堂、被官稲荷のお堂と小ぶりな建物だけ。二天門は近年、改修され真新しくなっているし、被官稲荷は幕末に作られたものなので、古色のある建物はほとんどない。

 ついでに一言。浅草神社三者様)の裏にひっそり建っている被官稲荷は、僅かに江戸時代の気配が残っている希な空間です。まず気づくのは、建物内部のスケール感、その頃の日本人の身長、体格は今とは違ってたんですね。また、周りはすっかり観光地化していますが、死角みたいな場所に建っていることもあり、この内部には江戸の庶民信仰が今も息づいてるのが見てとれる。

 ここは浅草をシマ(窟)にしていたテキ屋博徒兼火消し(消防組織)の大元締めの有名な人物の奥さんがキツネに憑かれて難儀していたのをこのお稲荷様が救ってくれたことから建てられた社です。・・・現在、被官稲荷の前に置かれているプレートは、体裁というか品位を気にしてか、キツネの話しはぼかして書かれていますが。

 ・・・伝法院にはタヌキを祀った社があるし、タヌキ通りには願掛けタヌキがあるとか、キツネに憑かれた、タヌキに化かされたといった話しは、現代だとメンタルヘルスの領域になるのですが、江戸時代の人々の心はキツネやタヌキの動物霊と感応していたってことかと思っている。

 被官稲荷を訪れるなら夜、まわりの雑多なものが闇に紛れて見えなくなるのでここで書いていることがリアルに感じとれます。

 もう一言だけ。木村荘八(1893〜1958)といえばなんと言っても『濹東綺譚』の挿画です。永井荷風の文章に劣らずというか、戦前の玉の井界隈を描いた挿絵は、文章に勝る風情、情感がある。

 『濹東綺譚』は、もともと新聞の連載小説として書かれている。荷風は、偏奇な人物といった面ばかり語られているが、仕事面では読者にウケる文章を作れる器用な人だったのではないか。一方、挿画は文章の脇役ながらも、というか脇役だからこそ木村庄八は自分の個性をそのまま出して仕事ができた。その辺りの違いを感じるのかもしれない。

 この人の描いた街並みや路地、私娼窟の長屋、めし屋、飲み屋などいいですね。場末美というか、夜の街の情景はすごくいい。ペン画は、相性がいいようで、それもまたいい。一方、女と男、人物、動物などの描写は、それほどではないように思える。

 個性的ってことは、あんまり器用じゃないこと、得手、不得手がはっきりしてるってことなんでしょうか。

 

 木村荘八の拾ってきたかな輪は、けっこう由緒あるものでした。かな輪は玄関あたりに吊るしていたんでしょうか。下に苔玉を吊るしてもいい。

  なにげなく焼け跡から拾ってきた物がお宝だった。そういうことって、ままあるのではないか。昨年、パリのノートルダム大聖堂の屋根、尖塔が火災で焼失した。世界遺産にもなっている建物で、大きく報じられた。

f:id:alteredim:20200804112602p:plain

 焼け跡から尖塔の先端に付いていた銅製の風見鶏を見つけた人がいて、奇跡的だとニュースになりました。写真の左は、焼失する前の尖塔の先っぽ。右は、発見者が現場近くの路上で手に抱えているところ。

 写真を見比べると、尖塔の頂点の90メートル以上の高さから、それも火災の中に落ちたにしては状態がいいように思える。奇跡的と言ってるわけですね。

 このケースでは見つけたのが作業関係者の一人で、すぐに公になりましたが、もし、その人が黙って自分の家に持ち帰っていたら、焼失したということで終わっていたはず。サイズ的にも持ち出そうとすれば、可能な大きさですし。

 

 こういった話しは、焼け跡だけではなく災害、戦乱・紛争、盗掘・盗難、間違い・手違いによる紛失とか、いくらでもあるようです。

 発掘品でも、いちばんいいもの、価値あるものは、公になる前に誰かが持っていっちゃってるのではないか。発掘現場を取り仕切っている当事者も気づいていないところで、現場の警備員とか、作業の手伝い、近くに住んでるオヤジなんか怪しい。

 美術館や博物館にあるものよりも秀でたものを隠し持ってる人は大勢いるはず。

 ピラミッドに収められていた物品から正倉院の宝物まで、かってイギリスやフランスが自国に持っていった世界各地の文化財も、故宮博物院の収蔵品も、最近ではイラクでISに破壊された発掘品も、三国志曹操の墓に埋まっていた遺品も、その他きりがないですが、誰かに中抜きされているはず。

 持ち出すにはサイズの制約がありますが、いいものから先に持っていくのは自然の流れでしょうか。また、中抜きに限らず、落とした、忘れたの類でどっかにいっちゃって、誰かが持ってるものもあるはず。

 そういう物の一部は、市場に流れている。でも多くは映画の「タイタニック」の結末で「碧洋のハート」っていうダイヤのネックレスがトレジャーハンターの手を逃れ、密かに海に捨てられてしまうのと同じような運命を辿っているはず。

 ・・・さっきから「はず」ばっかりですが、まあ、このあたりは人智を超えたことなので。

 レオナルド・ダビンチの作品も、まだ知られていない絵を誰か持っている人がいるはず・・・テレパシーで分かる(と、思っている)。

 

 もしどこにあるか分かったら『黒蜥蜴』(江戸川乱歩)の緑川夫人のように「この世の美しいものという美しいものを、すっかり集めてみたいのがあたしの念願なのよ」と言って盗んじゃう? いえ、そういうやり方は小乗的でなんか反りが合わない。それを国家としてやったのがイギリスやフランスの帝国主義でしょ。

 と思いつつ、でも映画「Vフォー・ヴェンデッタ」のV(主人公)も緑川夫人と同じことしてるんだけど、Vの方は許せるような気がして、どうも一律には言えないようです。

 何でも念力で引き寄せることができるのではないかと思っている。それは誰でも可能、でも、普通に探しても出てこないのも当然。カネ目当ての欲で探しても無理。プロだから、専門家だからどうかなるって話でもない。

 想念を練りに練って、極まるところまでいくと、そこは無色界で無欲の世界、すると自然に向こうから転がり込んでくる。外見上は、偶然、手にするという形になるのですが、それは起こされた偶然なのではないかと思っている。

 

    ☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。 http://alteredim.com

 

遠くから見る山

f:id:alteredim:20200720130859j:plain

 下妻市の外れから見た夏の筑波山。30キロほど離れたところから撮っている。

 茨城県の下妻は映画「下妻物語」の中でも言ってましたが、何もない・・・というのは極端で、関東平野の真ん中に位置する広々としてきれいな田園地帯です。

 夏の青空と筑波山は、なんか自由を感じる。ずーっとどこまでも平坦な大地、空ってこんなに広かったのかと、ちょっとした感動。青天井って言葉、これでした。利根川も近く、坂東太郎の大入道(積乱雲)が雄大にそびえ立つ。

 そういえば、奈良時代ぐらいまでは蝦夷(えみし)の地で、朝廷の支配圏外でした。要するに、昔、ここは日本ではなかった。ここだけでなく、いま東京のある場所(武蔵)もそうでした。

 明治の初期には、自由民権派の先鋭的な人々が新政府に対して加波山で蜂起している(1884年加波山事件)。加波山筑波山に連なる山で、上の写真のもう少し左にあります。同じ年、そんなに遠くない秩父では秩父困民党の蜂起があった(1884年秩父事件)。共に「心に自由の種を蒔け」(オッペケペー節)ってことを行為で示したんだと思っています。

 そういったまつろわぬ民の歴史は郷土史の中にちょっと出てくるだけですが、言葉の端々から人々の集合的無意識にその息吹きが伝わっているのを感じる(察する)ことがある。

 この青空、大瀧詠一っぽいね、と言ってた人がいた。そっちの方面は疎く、聴かせてもらったら、言ってること分かるような気がした。

 離婚してキャンピングカーに生活用具一式を積み込んで暮らしている自由人が、下野(栃木県)、常陸茨城県)はアメリカに似ていると語ってましたが、こういった地理、気象や風土、人の気風などをひっくるめた印象のように感じました。

 なるほど、空の広さに感動するってことが、別の言い方をすると自由を感じるってことなんですね。いつも都会の狭い空の下、チマチマ暮らしているとそういう感覚とは縁遠く、なにかを新しく見つけたような気になっていた。ええ、自由を発見したわけです。

 

 筑波山は、東京から関東平野を北上していくと大地にぽつんと出ている姿がどこからでも見える。江戸時代の浮世絵には向島から隅田川の上流に筑波山が大きく描かれている。王子の飛鳥山からは田圃や湿地帯の原野の向こうに筑波山がやはり大きく見える。

 現在の向島や王子から筑波山がこんな大きく見えるなんて、ちょっと信じられない。左・歌川広重「名所江戸百景」隅田川水神の森真崎。右・同、飛鳥山北の眺望。

f:id:alteredim:20200720131535p:plain 

 最初は、誇張して描かれているのかと思っていましたが、現在の東京のように人家が密集し、ビル、送電線、道路など人工的な構築物がなかった江戸の人々の目には、筑波山は本当に大きく見えたに違いない。

 

 だだっ広い関東平野、その東に住んでいるなら筑波山(871、877メートル)、西ならば丹沢山地の大山(1252メートル)は、誰でもすぐ分かる山です。ラクダのコブのように二つでっぱった形なのが筑波山、底辺がやけに長い二等辺三角形、偏平なピラミッドみたいな形なのが大山、と特徴ある形をしている。

 共に昔から信仰の山だったのは、遠くからでもひときわ目立っ山なことが理由だと思っている。理屈抜きに一目瞭然、目に見える形としてあるのだから誰もがその山が特別な存在であると意識する。カミが宿っていると感じられたはず。それは人間の自然な心理で、古代人もそう感じていたに違いない。

 現代に生きているわれわれは、誰でも簡単に世界中の情報と接することができるようになった。知識は豊富になっている。だから形の変わった山を見ても、そんな山、世界中、他にもあることを知っているし、そもそも山の形なんかに気をとめたりはしない。

 古代人のようにそこにカミが宿っていると感じる素朴な感性を失ってしまった。

 

  どこかで筑波山と似た姿の山を見ていたが思い出せない。書いていて浮かんできた。南インドの聖なる山、アルナチャラでした。アルナチャラは筑波山より低い山で、聖性は高さじゃないんですね。

 通天閣から奈良の二上山を探したとき、筑波山と同じラクダのコブのような形の山なので、土地勘のない者でもすぐに分かった。二上山も昔から神聖な山でした。・・・考えてみれば、日本の山はどこもみな神域とされてきたので、神聖な山とか言ってるのは野暮な話でした。

 別にラクダのコブ形だからというのではなく、一風変わっていれば、どんな形でもよくて、有名なところではオーストラリアのエアーズロックアメリカのデビルスタワーとか先住民の聖地がそうだし、そこまでコアではないですが、日本各地にもそういう山はけっこうある。だいたいの山は、それほど高くないので、地元、近隣の人達に知られているぐらいですが。

 要は、普通の形ではないところにポイントがあるのだと思っているわけです。

 

 筑波山も大山も30~40キロから60キロぐらいの距離から見るのがいい。この場合、その距離の間に他の山が存在しない平野から見るのですが。

 筑波山も大山も登ったことはない。登るってことは、その山自体は見えなくなるわけで、それよりは見てる方がいい。それも、近くで見るより、ちょっと遠くから見るのがいい。

 朝と夕、天気、季節によって変わる山の姿をただ見ているだけで満足してる。これは瞑想なんだなとも思っている。日想観って浄土宗の流れを汲む観想法がありますが、まあ、広い意味で瞑想といってもよく、観想の対象を太陽から遠くの山にしたようなもの。

 

 東京の西側、三軒茶屋キャロットタワーの展望台から大山は60キロ、筑波山は100キロといった距離。そこから見る大山は、富士山の裾野をつい立のように遮っている。背は低いが横幅が広いので目につく。筑波山も都心の向こうに見えますが遠いのでちっちゃく存在感は薄い。

   登戸からだと大山までの距離は、45キロになり、見た目、ぐっと迫ってくる。

 三茶の展望台の下を通っている246は、溝の口、厚木を経て大山に至る大山街道と呼ばれていた。江戸から大山街道を歩いていくと、常に、前方に大山が見えていた。

 筑波山も大山も、昔の人々の目には、今とは違って、もっと大きく、特別な存在に見えたはずだ。江戸開府以前の15世紀ぐらいまで原野に見えていた筑波山や大山を見てみたい。

 

 つい立てで思い出しました。東京から富士山を見るとき、常に丹沢山地がじゃまして裾野が見えない。子供のころからずっとそんな富士山を見てきたので、それが当たり前だと思っていた。

 しかし、埼玉県の春日部あたりから見る富士山は、190キロと距離はさらに離れますが、間を遮る山がなく裾野まで見事に見えました。春日部は絶妙な位置にあり、丹沢山地奥多摩の山々の切れ目の隙間から富士山を見ていることになる。

 地形的に隙間は僅かで、絶好のビューポイントです。この富士山は、他の地からは見られない秀逸さがありました。新4号国道バイパスの春日部あたりから見えます。

 あまり関係ない話ですが、バイパスは原野や畑、田圃、林を切り開いた新しい道路で、一般道なんですが、武蔵(埼玉県)から下野(栃木県)に入るとみんな100キロぐらいのスピードで走ってるんですね。

 ついでに、静岡県三島市から見た富士山は50キロぐらいで、近い分、裾野の広がりが一望に望め雄大な荘厳さがありました。駅から見る富士山は、手前の山からヌッと迫り出していて、ゴジラの顔がアップで出てくるシーンを思い出した。知らないで、突然、この富士山を見たらびっくりするんじゃないか。

 平地から見る山は、距離と地形の位置関係によってずいぶん見栄えが違います。

 

    ☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。 http://alteredim.com

 

テイッシュペーパーとアベノマスク

f:id:alteredim:20200708222600j:plain

 浅草のよくいく喫茶店でこんなテイッシュペーパーをもらった(写真・左)。

 芸人の林家ペーさんのオリジナルグッツ。「林家ペー 林家パー子」ご夫婦の名前が大書されている。ペーさんは舞台の後、店に寄ることがあり、そのとき配ったもの。

 使わずに取っておくことにしました。目にしたとき、ピンと来たものを集める、そんなコレクションに加えた。

 浅草では、2年前、関東大震災のとき倒壊した十二階(凌雲閣)の一部が工事現場の地面に埋まっていたのが見つかりニュースになった。ひさご通りの近くの現場に行ってその赤レンガを手に入れ、コレクションに入っている。青函トンネルの貫通石の話しと共に、ブログに書いています。(「誰も拾わないようなもの」http://alteredim.hatenablog.com/entry/2018/02/23/205711

 レンガもテイッシュも、もらったものなので0円。

 

 どんなものにピンとくるか? 特にテーマとか基準はないですが、強いて言えば、変なモノ、面白いモノで、かつ珍しいモノということでしょうか。その見きわめは、当然ながら自分の感覚で決めている。

 主観的価値だけの世界。使用価値や交換価値は全くない、と言い切ってしまうと誤解を生むので、あまりないぐらいにしときます。世間の感覚ではジャンク品以下というか、誰も拾わないようなものを集めてるともいえます。

  何か特定のジャンルに沿って集めてるのではないので、この世の万物なんでもいい、とはいえ一般的な廃棄物やゴミではなく、社会的に無意味で、かつレア、そういうモノって案外、少ない。

 

 そのモノにまつわる物語、由来などが決め手になることもある。例えば、ナポレオンの帽子からマリリンモンローの髪の毛、ジョンレノンのギターとか、そのもの自体は古い帽子、髪の毛、中古のギターでも、それに付随した物語によって見る目が全然、違ってくる。

 去年、イエス・キリストが誕生したとき寝かされていた飼い葉おけの一部(幅1センチ、長さ2.5センチの木片)が1300年ぶりにイタリアからパレスチナ自治区ベツレヘムに里帰りしたとニュースになった。これなんかその手の物品の最たるものですね。

  テイッシュにピンと来たのは、喫茶店でこんな話を聞いていたからです。 

 ペーさんご夫婦は、以前、安倍首相の桜を見る会に招待され参加している。国会でさんざん追及されたあの桜を見る会です。

 会場で招待者は、一言二言、安倍首相と言葉を交わすのですが、ペーさん夫妻は、林家ペーです、林家パー子です、どうぞと言ってこのティッシュペーパーを手渡したとのこと。

 ペーとパー子だから二人でペーパー。安倍首相、分かったでしょうか? 

 ちなみに、お二人の結婚披露宴の引き出物はトイレットペーパーだったとか。

 

 アベノマスク(写真・右)もご存知のように0円。全世帯に2枚無料配布でしたが、製作費と送料は国民の税金で賄われてる。

 もらってありがたいと感じるか、税金のムダ使いと感じるか、微妙な上、届くのに時間がかかり機を逸した挙句、使わない人はまた第二波が来るだろうから保管しておいてください(官房長官談話)と、正に変な話しです。

 アベノマスクは変なモノのコレクションに加えてもいいのですが、希少性が全くないので、どうも弱い。

 ・・・最近、テレビのニュースで、中国ではアベノマスクがネット上で約1万円の値段で転売されていると報じていた。当然ながら高すぎて売れてはいない。なぜそんなに高いのかというと、コレクションにという説明がついていた。

 そういえば、去年のあるカタログを捨てようとパラパラ見ていたら赤瀬川原平の「0円札」(「零円 本物」と書かれた「偽札」ふうの印刷物)が香港のオークションで28万円〜42万円で出品されていました。

 向こうでは、日本の現代美術にいい値がついている。「0円札」はあの時代のパフォーマンというか、イタズラのようなハプニング(この言葉もあの時代の流行語でした)のような、そんなノリでやってたものでしょ。「0円札」は0円だから、1枚でも1000枚でも同じ0円なのが可笑しい。

  半世紀後、それが現代美術として公認(?)され、「0円札」一枚が何十万円になるとは、作ったご本人、想像してなかったはず。

 ということでは、中国人の中には、二匹目のドジョウみたいなことを考える人がいておかしくない、そんな狙いでアベノマスクを出品していたりして。

 

 アベノマスクはどうも弱い。しかし、少し前、ピンと来て、アベノマスクとペーさんのティッシュをペアにしてみました。ペアといっても単に仕舞うとき、同じケースに並べて入れとくだけのことですが。

 ポイントは、「安倍首相」と「0円」という共通点。「奇しくも」は、ペーさんの口癖だそうですが、この共通点は、奇しくもですね。

 二つを組み合わせることで、無意味性が際立ち、結果、変なモノとしての価値が高まりました(いえ、主観的価値ですが)。

 

 書経に玩物喪志、物を玩(もてあそ)び、物に執着しすぎると志しを失うとある。確かに言えてると思う。そういえば、中国では骨董のことを古玩と言っている。

 でも、書経儒教でしょ。前回のヘリオトロープのブログで、人間がタイムトラベルできないのは自らそういう能力を自己抑制してるからだという話しを書きました。儒教は要するに、社会をうまく治めるために個人の自己抑制を説く教えなんですね。

 くだらないコレクションでも面白いってこともある。 おもしろきこともなき世を面白く、ってノリもあるんじゃないか。

 浅草の喫茶店で、芸人で映画畑を生きてきた久保新二さんが、「自分のやってきたこと(出演した映画のこと)は、くだらないよ、でも面白い、それで十分なんじゃないの」と語ってた言葉が浮かんでくる。久保さんは、はちゃめちゃ一途の、今日日希な芸人です。

 聞いていて、ご本人の人柄、表裏のない喋りもあるかと思いますが、なんか、そうだなと納得する説得力がありました。

 

   ☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。 http://alteredim.com

 

ヘリオトロープの香りと大脳タイムマシン

f:id:alteredim:20200703175114j:plain
 6月の花の香りといえばクチナシスイカズラヘリオトロープをあげたい。梅雨の真ん中、湿り気のある空気と生花のしっとりした香気が混じり合った水無月ならではの香りです。

 ・・・と、書きはじめたが、もう7月に入りました。

 今年の梅雨は、雨の日と晴れや曇りの日が交互に繰り返してる。近年は長雨、台風、それから連日、猛暑日の梅雨といった記憶ばかり残っていて、本物の梅雨は久しぶりです。

 アジサイは雨上がりの朝に見るのがいちばん映える。今年はそんな朝が幾度もあった。そういえば、以前は葉の上にカタツムリがよくいたのですが、最近は全く姿を見かけない。

 そうでした! 昨日の午前2時半ぐらいに火球が上空を落下してたようで、朝、ニュースで知った。爆発音も聞こえたという。残念、眠っていて全く気づかなかった。

 7年ほど前の深夜、家の中で火球の音を聞いていて、いつも見たい、見たいと思ってたのですが、いつ落ちてくるのか分からないし、見れないままでした(この話しは、少し前のブログ「トラフズク の鳴き声」に書いています)。

 これまで火球を何度かは見ているのですが、最後に見たのは15年ぐらい前か、少し落ち込んでいる。・・・横道に逸れていました。

 

 ということで、今回はヘリオトロープの香りに絞ります。写真(上)、紫色の花がヘリオトロープです。

 この植物はペルー原産で18世紀にフランスで園芸種として広まり、明治時代に日本に移入された。今頃の季節、小さな紫色の花が塊になって咲く。ときどき庭植えや鉢に植えられているのを見るが、どちらかと言うと、地味な目立たない花です。

  和名は香水草、匂ひ紫。香りの強さは、それほどでもなくクチナシなどに比べるとずっと控え目。そんなことからでしょうか、ヘリオトロープの香りに関心を持つ人はあまりいないようです。

  しかし、けっこう個性的で、癖のある香りです。 ヘリオトロピンという香気成分を含んでいて、これはバニラビーンズの香気成分でもあるので、第一印象はバニラっぽい香りですが、丁寧に香りを感じようとすれば、バニラビーンズよりも複雑で重層的な香りなのに気づく。 

 どう表現すればいいのか、比喩的に書くと、映画や小説を一瞬に凝縮したような香りです。

 香木の伽羅や沈香を焚いた香りも、複雑で重層的ですが、これらはゆっくりと玄妙に変化していくのに対し、生花のヘリオトロープの香りは一瞬の中に凝縮されている。絵の具を重ね塗りしていくとだんだん黒に近ずいていくように、いろいろな香りが重ね合わされた深重な香りです。

 ヘリオトロープは、もともと自然の状態でそんな香りなのですが、思い返すと香気を発する花の中でも、これほどの複雑さは稀で、人工的な香りと言っても通りそうです。

 19世紀後半、フランスで合成香料が開発され、現代的な香水が作られるのですが、その際、ヘリオトロープは調香のアイデアの源泉になったに違いない・・・と想像している。当時の調香師の職人さんたちの日記やメモ(が残っているとして)を調べれば、実証されるかも。

 

 実は、久しぶりにヘリオトロープの香りを聞いて(嗅いで)みて、20数年前、はじめて聞いた時の記憶が蘇ってきた。

 鉢植えの花を両手で持って鼻に近ずけ匂いを嗅いだ。その時、その場にいた人のことを、表情や仕草、それが20年以上前の年齢、人格なのが奇妙でしたが、ありありと存在感を感じました。眠っているときにみる夢よりも抽象的ながら、よりありありとしている。

 また、人の周りにはバブル期の世の中の雰囲気、日本社会の空気もありました。身体感覚にも近い、でも、もう少し体の外に広がった情感でした。

 香りから過去の記憶が蘇ってくるのは別に珍しいことでもなく、体験したことのある人はけっこういるのではないか。こういった体験のことをマルセル・プルーストの小説に出てくるお菓子のマドレーヌと紅茶の話しを引き合いに出してプルースト効果とも呼んでいる。

 

 ひとつ気づいたことがあります。というのは、はじめてヘリオトロープの香りと出会った時の記憶が蘇ってくるのであって、いわば一対一の対応で、その後、度々、同じ香りと接しているのですが、その時々の記憶は霞んでいることです。

 プルーストのマドレーヌと紅茶の記憶も、幼いとき、はじめてその香味を意識したのがその時だったからこそ蘇ってきたのだと思います。

 

 コリン・ウイルソンは、プルースト効果が起きるのは人間の大脳に備わっているタイムトラベル機能の働きによるもので、過去をありありと感じている時、実は過去に接しているのだと言っていました。

 1980年ごろ、今から40年ほど前ですが、 コリン・ウイルソンはこの大脳タイムマシン説に基づいた評論やSFを書いている。大まかに、こんな話しです。

 

 大脳タイムマシン説の前提として、現在、多くの人の懐いている「時間」という概念は全くの誤りで、そもそも時間は存在していないとコリン・ウイルソンは言っている。近年、物理学者の中にも同様のことを言ってる人がいました。

 時間が存在しないというのは、物理的な物体の変化を時間の経過と取り違えていることから生じる錯誤で、われわれが時間と言っているのは大脳(左脳)の創作した心理的観念だという。

 もし意識が極度に集中した状態になれば時間は消えるとも言っている。奇異なことを言ってるようですが、ふと、機械時計が作られるまでは、今の1分とか5分や秒単位の時間はなかったはずで、そのころは物事の前後関係は意識されていたでしょうが、それと時間は異なったもののように思いました。

 コリン・ウイルソンの大脳タイムマシン説は、19世紀ロマン派の詩人や宗教家、超常現象などの知識を組み合わせて作られている。科学、物理学や医学に基ずいているのではないからこそ、大胆なことも言えるわけで、それはそれでいいんじゃないかと思っている。

 考えてみると、時間にしろ意識にしろ現在の科学では、本質的なことは何も分かっていない。時間や意識の定義もはっきりしていないし、定義できるようなものなのかも分からない。ということでは、コリン・ウイルソンのようなアプローチの仕方もありなのではないか。

 ところで、最近はあまり耳にしませんが、当時は右脳と左脳の違いを解説した本がブームになっていて、コリン・ウイルソンも人間の意識や心、知性など、なんでも右脳と左脳の機能の違いに還元して説明していて、そのあたりは  ? ですが、ここでは深入りしません。

 

 宇宙と個人のすべての過去と未来は、人間ひとりひとりの大脳の中に、あらかじめ情報として存在している。 過去と未来は、新しいことを発見したり、学んだり、知ることで分かることではなく、あらかじめ内にあることなので、それとアクセスできれば分かることになる。過去と未来は、現在の中に隠れているわけです。

 しかし、人間はその過去と未来の情報にアクセスできないので現在しか分からない。アクセスできないのは、努力や能力の不足というよりは、アクセスする機能を自己抑制しているからだという。

 もし意識を過去にアクセスすることができれば、それがタイムトリップだと言っています。

 補足しますと、コリン・ウイルソンの言っている人間の中にある情報は、 読み方によっては、 銀河系の外のどこかの星の過去と未来、あるいは50億年前に地球に落ちてきた隕石のことも全て含めた情報のようにも、一方で、人類が生まれてから滅びるまでの時間的な範囲内の情報のようにも、どちらにも読めてしまい、このあたりは判然としない。

 コリン・ウイルソンは、結局、ストーリーテーラーなんですね。要は、本人の思いつきの直観をまとめあげたのが大脳タイムマシンなのだと思います。

 とはいえ、コリン・ウイルソンは24歳のときの『アウトサイダー』から晩年までブレずに一貫して人間の可能性みたいなことを書き続けた人です。だから、それが思いつきにしても、気まぐれに出てきたものではなく、本人の中で熟成されてきたものが表れてきたのではないかと思う。

 ということでは、コリン・ウイルソンの思いつきの直観にリアリティを感じられるか否かが核心で、矛盾点を詮索するのは野暮のようです。

 

 大脳タイムマシン説は、事実(?)かどうかよりも、夢があるというところに惹かれていました。

 現実はといえば、人間は半世紀前に月には行ったけど、それからたいして進んでいない。今世紀中に火星に行ければ上出来といったところで、時空をコントロールできるような文明にはほど遠いところにいる。

 大脳タイムマシーンは、誰でも個人で実現可能で、嗅覚をキー(鍵)にして過去にアクセスする一種の瞑想法と言えなくもない。

 ただ、いつの過去にアクセスするのかは、やってみないと分からない。おそらく一対一対応なので、いつかを自由に選べるようなものではないだろう。未来にアクセスするかもしれない。そのときは、未来のいつの日か既視感を感じる香りとして気づくときがくるのかもしれない。

 一般論としては、嗅覚は他の感覚器官よりもキーとして優れているように思われる。

 視覚や聴覚は、光や音を感覚器官がキャッチしたデータを大脳で変換して、それを大脳辺縁系が受けとる。そこで感情、情感が生まれる。一方、嗅覚は、匂いの分子を嗅覚細胞がキャッチしたデータを直に大脳辺縁系が受け取る。回り道をしてないわけです。視覚や聴覚より原始的な感覚ともいえます。

 そういったことから嗅覚の方が、よりダイレクトに強く感情、情感を揺さぶる。つまり、大脳タイムマシンのキーとして優れているわけです。

 キーになる感覚は、嗅覚に限らず人により音楽とか詩句とか、食べ物だったりとか、その他にもいろいろあると思う。そのあたりのことは、人それぞれの個性、気質の違いによりキーは異なるはずで一般論では決められない。

 例えば、ケガの古傷を見ると、ケガをした時の情景が蘇ってくることがある。これは文字のない古代の時代に記憶術として用いられていた連想法とも関連しているのですが、こういうのもキーになりうる。

 

 夏至の余韻でしょうか? 6月の花の香り、火球、アジサイヘリオトロープ、コリン・ウイルソンとずいぶんと話しがワープしてました。

 

  ☆世界の香など揃えたショップ。よかったらご覧下さい。 http://alteredim.com