蝋梅の香り/寒ボラの臍(へそ)/江戸前の鮨

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 陽が少し長くなってきた。宵の口、東上野の寺町を歩いていると、ふわっと仄かに甘い香りが漂っている。道路脇にある小さな寺の庭の蝋梅(ロウバイ)でした。

  蝋梅の花大寒のころに咲く。毎年、この香りを聞くと、新しい一年が動き出したんだなと感じます。

 蝋梅は、梅の字が入っていますが、梅とはまったく別の潅木。蝋細工のような半透明の黄色い花びらと甘い香りが特徴。半月遅れぐらいに開花する梅の香りは、濃密な艶のある甘さですが蝋梅の香りは清楚で透き通った甘さ。

 息をしていて感じました。寒い日の冷えた空気と蝋梅の透き通った香りは絶妙に合っている。季節が温かくなって空気が緩んできたら、このシャープな香気はぼやけてしまう。

 寺のお堂と住居はつながっていて、戦前の民家のような造り。 周りを囲んでいるビルは夕闇に溶け込み昏くおぼろげ。街はコロナ禍で人も車も少ない。このあたりは、かって空襲で丸焼けになっているのですが、この一角には戦前の面影が残っている。少し歩けば浅草、昔の浅草の芸人さんたちはこの近くの長屋に住んでいた。

 蝋梅の香りに惹かれ、足をとめていると、ここは・・・と言っても僅か数メートル四方の空間ですが、過去の日本が途切れることなく続いているスポットのように感じました。

 

 昨日は、鮮魚の店に寒ボラが出ていた。ボラといえば唐墨(カラスミ)が有名。でも、それ以外、刺身や煮魚では身に魚臭さがあることや、都会の汽水域にいる魚といったイメージで退いてしまう人が多い。釣り人もボラは雑魚以下の扱い。

 お台場のビルの屋上から湾岸の向こうの冷凍倉庫や物流センターを眺めていると、海面からよくピチャと跳ねている魚。浅草の吾妻橋のテラスで休んでいると、川面の下に泳いでいるのが見える黒く大きな魚。都会の真ん中で見かけるので、どうも刺身の魚とは結びつかない。

 店先で見ていると店の人、「寒ボラは臭いが消えていて洗いか、刺身でもいいんですよ、大阪湾で獲れたボラ」と話しかけてきた。 けっこう大きい、50センチぐらい。値段は高くない。

 ん~、まあ、食べたことないので持ち帰ってきた。美味しそう、珍しい、安いからとかではなく、食べたことないからという消極的な動機、このパターン、だいたいは外れるのですが、今回は、当たりでした。

 

 寒ボラ、なかなかよかった。三枚に下ろし、刺身にして食べたら美味しかった。しっとりとした身、ちょっとアジに似ているが、アジの脂っ気、クセがない。

 食べた後、口の中に豊潤な旨味の余韻がしばらく残っていた。後から思い返すと、この旨味の余韻がボラの刺身の醍醐味だと思う。

 調べると、昔は、江戸湾で獲れる代表的な魚の一つだったようです。「鯔背(いなせ)」や「鯔(とど)のつまり」といった言葉の語源はボラ(鯔)に由来している。江戸時代は、それぐらい身近な魚だったわけです。

 同じく汽水域にいるスズキもそうですが、今は、格下に見られているけど、江戸前の鮨(のネタ)は、こんな味なのかもと想像した。スズキは旨味はあまりないですが、身の口当たりが柔らかくさっぱりしているところ、ボラと似ている。

 

 そしてボラのヘソ(臍)、本当はヘソではなく幽門という胃の筋肉。見た目、そろばん玉のような、人間のヘソを大きくしたような、よく命名したなと思う。

 茹でて食べたら、実に美味しい。 これは珍味と言われてる。 イカのクチバシ(とんび)ような、サザエの肉質部のような濃密な美味しさ。筋肉繊維の発達した部位のタンパク質の味だと思うのですが、この美味しさは新発見でした。

 さらに残ったアラで出汁をとり、それに市販のカレールー、豚肉、野菜を入れてカレーを作った。これも美味しかった。旨味のカレーをイメージして作ったのですが、まさにその通りの絶品。インドやネパールのスパイスのカレーとはまた違う美味しさ。 そう、昭和の蕎麦屋さんのカレーを濃密にした味です。

 

 ボラの刺身から、ふと江戸前の鮨の味に想いをはせる。江戸前と呼ばれる範囲は、だいたい東京湾隅田川の河口から羽田あたりの海(これは狭義、旧江戸川でもいいのですが、とりあえず) といわれているので、そこで獲れる魚をネタにしている。

 いまは、都市の一部になっている海で、工場や生活排水、埋め立て、それに3.11の影響を気にしてる人もいるし、そこで獲れる魚の刺身を珍重しているという人はよほどの変わり者。今、江戸前の鮨を謳っている店のネタは、他の海で獲れた同じ種類の魚で、まあ、当然でしょうか。

 江戸時代、趣向をこらした上方の鮨と違い、江戸前の鮨は、酢飯に刺身を載せて握るだけ、ほとんどネタで決まる素朴でシンプルなもの。その昔、発酵食品だった元々のすしとは別物だし、考えてみれば原始的な料理だと思う。

 

 ところで、いま江戸前を謳っている鮨屋さん、本当に江戸前の鮨を知っているんでしょうか。素人の自分が、釈迦に説法みたいな話で、気が引けるのですが、ボラのいきがかりで、そんなことも気になる。

 というのは、これが江戸前の鮨と言ってても、実際に江戸時代に鮨を握っていた人も食べた人も、もういない(あたり前)。だから先代から伝え聞いた話しとか、文献に書いてあることを基に江戸前と言ってるわけですよね。

 当事者が直に体験、見聞きしたことを語っているのが一次情報。それを元にして作られたのが二次情報、孫引きが三次情報・・・。一次情報だって、見間違い、記憶違い、書き間違い、さらに嘘や誇張が混じってることがあるのに、それをコピーしたり編集して作られる二次、三次情報を基にして言ってる話し、どこまで信じていいのか?

 嘘といえば、旧石器時代の石器の発見者や慰安婦問題で証言した人物とか、共に本人の捏造なのですが、時代に大きな影響を与えた人がいた。なんと言えばいいのか、ほんとに困った人たち。

 一方、そんな困った人たちにコロリと騙されてしまった人たちの側、考古学者やメデイアの記者にも問題あるんじゃないか。だって、骨董の商売人同士だったら騙された方が甘いってことだし、諜報のプロ同士の場合も騙された方が愚かってことでしょ。だから考古学者や記者がアマチュアレベルだってことだと思うわけです。

 ・・・ちょっと横道に逸れますが、蒋介石が晩年、自伝を書いたときに言ってた言葉があります。曰く、この自伝に嘘は書いていない。でも、自分の全てを書いてるわけではない。なるほどね、と思いました。

 書いていることは全て本当だけど、全てを書いているわけではない。都合の悪いことや隠したいこともあると認めているわけで、それが本人なりの誠実さだったのかもしれない。

 また、自らの志として知っていても書かない、公にしないという人もいる。倫理観というか、節(せつ)、生きざまの美学っていうのでしょうか、「政治犯」の中にそんな人がいる。

 一次情報で確かな情報だとしても、それ以外に自主規制している情報もあって当然と見ています。

 手元にある本を調べてみましたが、江戸前の鮨のネタについて、自分が知りたいと思っているような情報は載っていなかった。ネットには、あるにはあるのですが、有名な『守貞謾稿』の孫引きのような三次情報が多い(全部はチエックしてません)。

 ネタの魚は、ざっくりアナゴ、サヨリシラウオ、ヒラメ、タイ数種類、キス、アジ、コハダ(コノシロ)の名前が上がっている。

 ついでに一言。浅草川(隅田川)の海苔とシラウオは江戸名物としてよく知られていた。

 刺身としては、総じて比較的淡白な、しつこくない味、今の日本人には物足りなく感じられる味といった印象。といっても、昔の人と現代人では、味覚も違っていたはずで、昔の人たちには違う味に感じられていたのかも。

 肉食と化学調味料、それに食品添加物、防腐剤、人工着色料などを摂って育った今の日本人の味覚と、江戸時代の人の味覚は、違っているはずで、同じものを口にしても感じる味にずれがあると思うわけです。

 また、日本の伝統的なスパイス(薬味)は、サッと抜けていく風味がメインなのに対し、昭和の後期から根付いてきた南の地のスパイスははっきりした味の強さで、日本人の味覚に影響を与えている。近年、トウガラシの激辛の食べ物がもてはやされていますが、激辛の味に舌が馴染むことで新しい味覚を覚える一方、その副作用(?)として昔の日本人の味覚が分からなくてなってしまうのではないか。

 そうなると、今の日本人には、ほんとうの江戸前の味は分からないということになってしまう。行き止まりになるので話しを変えます。

 

 ところで、上に列挙したのは、当時の有名店で握られていたネタで、ふつうの江戸前も同じ種類の魚だったのか、そんなことも気になる。

 ネットを検索すると、「東京湾でよく釣れる魚ベスト10」というテレビ番組の情報があって2つは重なっている。重なっていない8種も刺身でも食べる魚なので、実際は、もっといろんな種類の魚が江戸前のネタになっていたのではないか。

 なんでこんなこと書いているかといいますと、ボラの刺身がけっこう良かったので、ボラを贔屓して、江戸前の鮨のネタだったに違いない、と思ったのですが、そういう話が見つからない。

 見つからないのは、現代の江戸前鮨屋さんも、釣り人もはなからボラを相手にしない、無視というか差別(?)してるからなのではないか・・・なんか、くだらないこと書いてます。

 江戸には町に一、二戸の鮨屋があったそうです(『風俗辞典』1957、東京堂)。江戸の町の数は1600~1700なので、2000戸を越える鮨屋があったことになる。

 武家と寺社の領地を除いた庶民の住んでいるエリア(江戸の面積の15パーセント)にそれだけの数の鮨屋があったってことは、その多くは屋台かと思いますが、けっこう多いなと思う。

 自分の定義では、そういう店で食べられていたのが、ほんとうの江戸前の鮨ということになる。

 冷蔵庫、車のない時代、ネタの魚は、海で獲ってから痛(いた)まないうちに店まで運ばなければならない。江戸のエリアは大まかに三ノ輪から品川を直径とした半円内なので、陸上げされた魚を数時間でどこの店にも届けられたはず。もちろん徒歩で運んでいた。

 江戸前鮨(=握り鮨)は、短時間に生魚を店に供給できるシステムの整った都市だから生まれた料理だと思いました。前近代の世界では、日本以外の国では生れようのない風変わりな料理だとも思う。

 江戸で握り鮨が生まれ、また庶民に受けたのは「江戸っ子は、好んで鮮魚を食う。三日食べないと骨と肉が離れると言っている」(『江戸繁盛記』寺門静軒)ということが大きかったと思う。 

 生魚好みの嗜好は、日本が国として成立する以前、黒潮に乗ってやってきた南の海洋民、最初は房総半島の先っぽに上陸した人たちかと思いますが、それから浅草あたり(その頃は海岸線が浅草や向島まで入り込んでいた)にたどり着いた人たちの食習慣だったからではないか。 

 江戸で生まれた握り鮨は、庶民が屋台でささっと食べるもので、魚の種類は先にあげたものより、もっと多様だったのではないか。それが江戸前の鮨の実情ではないかと思うわけです。

 でも、そういう当たり前の日常のことは、あまり書き残されていない。記録に残っているのは、有名な料理屋の話しで、それはそれでいいのですが、実情は、いろんな生魚、もちろんボラも、その刺身を酢飯の大きな塊に載せ、さっと握って出していたのではないか、そんなふうに想像している。

 

 ついでに・・・江戸前の鮨を本で調べていたとき、江戸時代の食生活で、へーっと思った話がいくつもありました。その中から三つほど引用します。

海鳥の作る鮨

 「ちなみに海の鶚(みさご)が海岸の巌などに貯え、自然に潮水で熟した小魚は、鶚鮨と呼んで、昔から漁夫たちがとりに出かけたものであるが、酢の味に似ていたという。」(『風俗辞典』1957年、東京堂

 これは『甲子夜話』に書かれている話を紹介したもの。大分には、鶚鮨をまねて生まれた鮎の竹鮨という郷土食があるとか。

 そういえば、夏になるとクヌギの樹液が茎のくぼみに溜まって発酵し、あたりに芳香を放っている。要するに猿酒です。

 毎日、近くを歩いているので気になってしょうがなかった。野外の樹木だし、木屑や小さな羽虫、カナブンがくっついていて口にするのはちょっと。でも、何日目か、好奇心を抑えきれず舐めました。けっこう美味、そのうち書いてみます。

 

サルやオオカミも食べていた

「近所の獣肉屋へときどき狼や猿を売りにくる甲州辺の猟師が、この頃も江戸へ出て来て、花町辺の木賃宿に泊まっている。」(『岡本綺堂 江戸に就いての話』1956年、青蛙書房)

 当時、肉食は一般的ではなかったですが、 江戸には獣肉屋が何軒かあって、両国のももんじ屋という店だと思われる。この店は、創業300年を越え、現在も営業しているんですね。

 調べていたら1971年、大阪万博の翌年に出版された本に、当時、この店ではサル鍋が食べられていたと書かれていました。もちろん今はもう出していません。

 ジビエは知っていても、それはシカとかイノシシのことで、オオカミやサルって、食べるってこととは全く結びつかなかった。えーっ!という感じ。

 寺門静軒の『江戸繁昌記』には、幕末の天保のころには「山鯨」の看板を出した店が数えきれぬほどに増えていたとか。肉屋さんのことですが、いまと違うのは家畜の牛や豚はなく、獣肉だけで、イノシシ、シカ、キツネ、カワウソ、オオカミ、クマなどが並んでいた。

 時代小説には犬を食べる話が出てくる。でも、オオカミは知らなかった。オオカミはすでに絶滅していますが(生存説もあり)、オオカミやサルを食べるという発想、なんか奇異というか変な感じで、言葉にできない不可解さ。いまのところ、今年、いちばんビックリした話しです。

 頭を真っさらにすると、中・大サイズの動物という括りではみんな一緒なのに、別物とみなす固定観念が刷り込まれていたってことでしょうか。物事を枠にとらわれず考えているつもりで、案外、死角というか、枠にとらわれていたなと思う。

 

庶民の贅沢

 「とにかく鰹魚(カツオ)、鰻、白魚(シラウオ)を食うなどという事は、いずれも食好みの贅沢の中に数えられていた。」(同上)。

 「むかしは鰻を食うのと駕籠(かご)にのるのとを、平民の贅沢と称していたという。」(同上)。 

 むかしというのは江戸時代のこと。岡本綺堂は明治5年生まれ、両親は江戸時代の人です。岡本綺堂は江戸時代の生活を知っている人たちから「むかし」の話しを聞いていた。

 平民は、庶民のこと。駕籠は現代でいえばハイヤーでしょうか、あるいは旅行、当時は遠方の地にお参りにいくことでしたが、そんな意味も含まれているのかも。輸入した鰻はスーパーに並んでますが、国内の天然ものは昔よりも高級品になっている。

 たまには美味しいものを食べ、ちょっとした旅行にいく、そんな感じでしょうか。

 庶民の贅沢は、科学・テクノロジーの領域を除くと、江戸時代と現代、それほど変わっていないようにも思える。庶民は昔も今も慎ましく暮らしていて、たまにささやかな贅沢を楽しむ。100年、200年後の未来もそんな感じかも。

 21世紀に入ってから人間は、ネットやスマホ、ゲームなどバーチャルな世界の方にもっていかれてる。今後、地球規模で富の不均衡の是正が行われ、人類の平等化が進むと、また、世界人口はしばらく増え続けるわけだし、さらに環境問題もあって、この傾向はさらに磐石なものになっていくはず。

 キューブリックは、映画を観ているときの人間は夢をみているのと同じリアリティにいると言ってました。思うに、20世紀はじめの映画の発明は、人間界をバーチャルな世界が侵食しはじめる嚆矢だった。半世紀後、テレビが普及する頃になると現実とバーチャルが拮抗し、世紀末、インターネットになると現実を超えてきた・・・この1世紀は電化の時代だったんだなと思う。

 ということでは、人間世は現実の代償として夢の中で贅沢をする方向、マトリックス世界というか、そっちに進んでいるように思える。

 ・・・一方、そもそも贅沢ってそんなに魅力的なんでしょうか? 贅沢とは縁のない生活をしてるから言ってるわけではありませんが、慎ましい暮らしでも楽しいことや面白いことはあるので、それで十分という気持ちです。

 

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