横井也有と江戸時代の変人、奇人

 葛飾北斎富嶽三十六景、「尾州不二見原」。名古屋の前津から見た富士山。

 桶のタガの中に富士といったユニークな構図、のぞきからくりのような遊び心が面白い。

 江戸時代、同じ前津の地から山を眺めていた変わり者がいた。北斎よりも少し前、横井也有という人で、こんな逸話がある。

 住まいの草庵から東の方向に山が見える。そこで眺望のための窓を設けた・・・どんな窓かは知りませんが、文人趣味の人なので、丸窓なんかを想像している。

 変なのは、その窓には鍵が降ろされていたことだ。これでは外の景色が見えない。

 疑問に思った人がその理由を尋ねたところ、也有はこう答えた。

 ・・・どんなによい景色でも、目に慣れてしまったら面白味がない。だから、たまに窓を開けるようにして、いつもは塞いでいる。

 

 横井也有尾張藩の要職に就いていたが、官職が性に合わなかったようで病を理由に早々と隠居、城下町郊外の前津に草庵を結び俳文、和歌、狂歌、書画、茶道、琵琶を奏で暮らした。

 現役時代はとくに何事もなく地味、晩年の道楽(?)に耽っていた生き様が何百年も語り継がれるって、妙な感じですね。 晩年、といっても30年あまり、出仕していた年月より長かった。

 窓のエピソードは趣味人、いわば数奇者なので、ふつうの人とズレたところがあるにしても、この人の場合、「ふつうの数奇者」(?)ともズレている。

 人と、世間といってもいいですが、180度反対に留まらず、そこからさらに180度反対で、360度まわり、元に戻ってきてしまう。裏の裏だから表になる。

 こういう発想って、数奇や風雅を極めてそこに至ったというよりも、個人の持って生まれた気質、性格に由来しているのではないか。天邪鬼(あまのじゃく)を二乗したような人。成ろうとして成れるものではない狭き門だ。 

 

  名古屋の地はよく知らない。調べると、現在の前津は名古屋市中心部の市街地のようです。日本の都市の景観はどこも似たり寄ったりなので、だいたいのイメージはつく。当時は緑豊かな名勝地だった・・・まあ、そのころは日本全国、江戸も、例えば根岸の里も墨堤の向島も、王子も目黒もどこもそんな感じだったのですが。

 也有の草庵から見えた山、名古屋から東といえば、富士山だろうか。前津には富士見原という地名があるようで、現在は、名古屋市中区富士見町になっている。富士山が眺望できたことに由来する地名だ。

 名古屋から富士山までの距離は170キロぐらい。宇都宮から富士山が同じぐらいの距離で、かなり小さいにしても見えないことはない。

 しかし、地図だと三河の山々がついたてのように遮っている。前津から見えた富士山は、南アルプス聖岳(3013メートル)を誤認していたという説もあるとか。・・・詮索しても、結局、行ったことのない土地の話し、自分の目しか信じない性分なので、よく分からない。

 ところで、北関東の新4号線、春日部あたりから見る富士山は絶景です。富士山からの距離、それと方角の関係から丹沢山地奥多摩山地の隙間から見ることになる。山の多い日本で、遠くから裾野まで全景が見える場所、ここだけでしかない。

 江戸時代は変人、奇人を輩出した時代だった。『近世畸人伝』(伴蒿蹊)には、そんな人たちが紹介されている。上の画は、丸窓の中の月。北斎の浮世絵にある桶のタガとこの丸窓、似ていますね。

 後ろ姿で月を眺めているのは湧蓮という坊さん、生涯なにも蓄えず、念仏と和歌を詠み、その和歌も書き遺さなかったという人。肖像画が残っているわけでもなく、描かれているのは後姿。

 近世250年以上、鎖国していた島国、人々は変化の少ない、時間のゆっくり流れる世界に生きていた。江戸時代のかわら版、今だと新聞の号外ってことになるのですが、報じられていた事件は、火事、地震、敵討ち、心中、妖怪・怪獣の出現・・・ずっとそんな世界が続いていた。

 鎖国で、そして泰平の世で、磐石の身分制度の下、閉じられた世界が延々と続く。そんな環境が、変人、奇人たちの出現を促した。

 ある一個人が閉じられた世界を乗り超えようとした生き様が変人、奇人だったのではないか。世の中が変わらないとき、自分が変わることで世界を変える、そんな現象だったと思っている。

 それは個人だけでなく、文化的にも起きていた。いわば文化のガラパゴス化というか、少なからぬ人々が妙なことに夢中になっていた。

 巷では、言葉遊びやナゾナゾを作っては批評しあっていた・・・世界で最も短い定型詩(俳句、川柳)のことですが。 世界各地の演劇の歴史で、その国を代表する演劇が人間ではなく人形の芝居(文楽人形浄瑠璃)だったのは江戸時代中期の日本だけだし、人も住めない小さく狭い家に集まっては、無言でお茶を飲んでいた(茶道)とか。樹木に傷をつけたり、成長を阻害して矮小化させ観賞していた(盆栽)とか。そういうのが特殊な例外ではなく、市井に広まっていたことに、変だなーと思うわけです。 

 奇天烈なところでは、雲茶会や耽奇会みたいなサークル、千住の酒合戦、 犬の伊勢参りとか平賀源内の「放屁論」とか、全国各地に変な話しがたくさんある。

 

 『ビョークが行く』(エヴェリン・マクドネル) に、日本の文化のピークは江戸時代だったという指摘がありました。ビョークアイスランドの歌手、あんまり関係ない話ですが、この人、日本人っぽい容貌している。

 明治の文明開化からはじまる、欧米文化の影響を受けた日本ではない、日本固有の文化のピークは鎖国の時代だったというビョークの見識、当たっている。

 鎌倉時代ごろまでは中国文化の影響が濃かった。それが戦国時代に自壊というかご破算になり、リセットされた後、江戸時代になって固有の文化といえるもの、つまり町人文化=大衆文化が生まれた。武家の文化も公家の文化もそれに比べると影が薄い。

 いま日本の伝統文化といわれているものは、ほぼ全て江戸時代に確立されている。

 結局、何百年かの平穏、時間的余裕がないと、醸成されないと固有のものって形にならないんだと思う。

 

 そういえば、中国の文化のピークは宋の時代(960~1279)だったといわれている。 漢字の文芸は、詰まるところ唐詩宋詞に尽きる。工芸文化は宋磁に尽きる。歴史を通して、その時代に作られた詩文や陶磁を超えるものが以後、現れていない。

 約800年前の南宋の茶碗は、現代人の目から見て、付け足すものが何もない。省くものが何もない。それが完成形ということだと思う。つまり時代を超えている。

 また、北宋の蘇東坡を読んでいると、仕事、家計、暮らし、料理、旅、人間関係・・・いまの自分たちと同じ感覚で生きていたのを感じる。人間という種が社会的動物である限り、未来のいつか資本主義がなくなっても、あるいは国家がなくなっても、この感覚は1000年後の人にも通じるのではないか。ということでは、時代を超えている。

 

 漢から清までの陶磁器を見比べると、宋の時代がピークだったことは自分の目で確かめられる。本に、教科書に、辞典にそう書いてあるから、そうだと言ってるんじゃないんです。自分の目で確かめたことを基にした言葉でなければ、本当という言葉は使えないのでないか。

 別に大仰なことを言ってるのではない。出土品でいいので比較的状態のいいものを、要は、古陶はタイムカプセルだってことで、自分の手元に置いて朝晩、眺めて、触っていれば気づくことだからです。

 宋以降は、元や清のような他民族の支配を受け、中国固有の文化は歪められ、現在に至る。・・・ハイブリッドの方がいい、少なくとも異なるものとの融合によって普遍性は生じるという見方もあるので、あんまり固有性にこだわり過ぎるのも変でしょうか・・・ああ、そういう変なところが日本の日本たる由縁ってことか。

 

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