インドネシアの昆虫、すごくいい

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 昨年の後半は、イエローサファイアがいい、いや、火星の大接近もいい、と鉱物と星のどっちがいいか迷ってるうち、晩秋になって昆虫もいいんじゃないかと思いはじめ、決着はつかないまま、というか、別に順位を決めるような話でもないので、今に至っています。

 

 上の写真は、インドネシア、ケイ島の昆虫。地図を見るとケイ島は、ニューギニアやオーストラリアに近いところにあるようですね。昆虫について詳しくないですが、自分が目にした世界各地の昆虫の中では、これが一番きれいでした。

 ベトナムや東南アジアのタマムシもなかなかですが、こちらの方が抜きん出ている。

 見た瞬間、意識が引き込まれ、視界からまわりのものが消えて、しばらく見惚れる。久々に極美!なものと出逢ったと思いました。

 『世界一うつくしい昆虫図鑑』という本によれば、キンカメムシの仲間らしい。

  サイズは小さいながらも、ファンタジックな構造色が絶妙で、部分的には、これに似てるものがないわけではないけど、例えば、オパールの色感、アンモライトの光沢、ヘリトリアワビの貝殻の遊色なんかが思い浮かびますが、トータルにこんな模様、配色の鉱物や貝はない。

 

 インドネシアの虫を見ていてふと思ったことがあり、そのことを書きます。そういえば、イエローサファイアスリランカ、ヘリトリアワビはニュージーランドの海で採れたものだった。どれも南の地の産物です。

 人間は長い歴史で、膨大な数のアートを作り出してきた。しかし、それぞれの分野を極めているエリアがあるように思うのです。どういうことかというと、北半球の西から東に、絵画はヨーロッパ、建築は中東、石の彫像はインド、陶磁器は中国というような感じです。大胆というか、大雑把な分け方ですが。

 

 日本はといえば、職人技の工芸になるでしょうか。手仕事の生活用具も含めて、雑多で小品が多くチマチマしてるので、気遅れしそうになりますが、いや、文化相対主義の目というか、これが日本なんだと言っていいのではないか。

 例えば、根付は手のひらに載るぐらい小さいけど、だからしょぼいってわけではないですよね。

 一昨年だったか、上野で台湾の故宮博物院の展覧会があって、話題になってた翡翠の白菜を見にいきました。長い列に並んでやっと見れました。あのとき、会場には清朝乾隆帝の愛蔵品も展示されてました。

 多宝格というケースに収められた宝物がたくさん並んでいました。どれも皇帝専属の工房で作られたもので、いろんな細工が施されている。

 でも、日本の庶民(町人や農民のお金持ちぐらい)の持ってた根付や櫛、それに七宝や牙彫、自在置物などと技巧性のレベル、別の言い方をすれば細やかさ、繊細さに比し、それほどのものではないように思いました。

 それは、皇帝の美を平民、町人の美が凌駕してたってことですよね。

 小泉八雲が初めて日本に来て、横浜の外人居留地から街に出たときのことを『日本の面影』に書いている。 いま読み直すと、ヨーロッパのオリエンタリズムを感じないでもないですが、それはそれとして。

 街の様子、家屋、看板、商店、歩いている人々の服装、「何でもかでも言うに言われぬほど楽しく目新しい」と感動しているのですが、特に、普通の店に並んでいる手細工品に目を見張り、「日本風のものはなんでも、すべて繊細で、巧緻で、かつ驚嘆すべきもの」と驚いている。

 具体的に挙げてみると、木の箸や、つまようじや手拭、それを入れた紙袋、包み紙の類で、当時、どこにでもあった雑多な品々でした。

 

 枕草子では、「うつくしいもの」と「かわいらしいもの」は同じ意味の言葉として使われています。「小さいものはみなかわいらしい」とも書かれている。

 つまり、小さいものはみんなうつくしい、それが平安時代中期、9世紀のはじめの日本人の感覚のようで、それは小泉八雲が感動した美と通じるものがあるように思っています。

 16世紀、桃山文化の利休や侘び・寂びは、中国文明に対する意識過剰(対抗心)が生み出した倒錯的な美ですよね? 当時は、それが斬新で画期的だったので、それなりの意味があったと思いますが、以来、そっちの方ばっかりもてはやされ、枕草子のような美は顧みられることがないのはなんか面白くない。 

 『陶庵夢憶』という本があります。明から清にかけての時代を生きた張岱(ちょうたい)という人の随筆で、岩波文庫に収められている。ときどき寝る前に読む。1ページも進まないうちに寝てしまいますが。

 この本には、随所に骨董品の話が出てきます。ある人の収集品リストの話を読んでいると、日本の漆器がありました。秦の銅器、漢の玉器、宣徳の香炉、唐の琴などと並んで、国外の物品では唯一、挙げられている。江戸時代のはじめ頃、中国では日本の漆器が珍重されていたのですね。

 英語で、陶磁器は“china”、漆器は“japan” と辞書にありますが、そこで言っている漆器とは、蒔絵や螺鈿などの細工が含まれていて、要は巧みな工芸といった意味だったと思います。

 近年、北斎の世界的評価が高いですが、これなんかも浮世絵=版画という工芸じゃないですか。周作人は、浮世絵は中国にはない日本独自の文化だと言ってました。

 

 北半球の西から東の文明圏のアートは、人が作ってきたものですが、一方、南の地には、自然が作った美しいものがたくさんある。海のシルクロードは、ユーラシア大陸を南下するルートになるので、そこでいろんな物と出会うことになる。

 先ほどは、南の地の宝石や貝殻、昆虫をあげましたが、極彩色の鳥や熱帯魚、ついでに人を惑わすぐらいに惹きつけるものとして、ヨーロッパの人々を虜にしたスパイス(香辛料)にインセンス(香)、茶、コーヒー、アメリカ大陸のタバコ、ココアなんかもそうでした。

 

 南インドのラマナ・マハルシのアシュラムにいたとき・・・そう、ここの食堂は美味しいと有名でした。ときどき、南インドのカレーを無性に食べたくなる・・・庭をクジャクが歩いていました。

 何羽もいて、その辺の地面の虫をついばんでいる。庭には、猿と犬も徘徊していて、クジャクがキジなら桃太郎の話と同じです。毎日、飽きることなくクジャクを眺めてました。

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 お堂にはラマナ・マハルシがクジャクに乗ってるいかにもインド的といった感じの絵が掛かってました。聖人の後ろには光輪が見え、クジャクは聖なる鳥なのが分かります。

 

 昔は、中世ぐらいまででしょうか、あるものを美しいと感じることと、あるものに聖性を感じることは、全く同じ感覚だったのだと思う。現代の人間は、その感覚、もう分からなくてなっている。

 美と聖性、それと畏れ・・・恐れでもいいのですが、たぶん死と結びついた、例えばロシアンルーレットをする時の心理状態をリアルに想像すると感じる心理状態。この三つは、普通の意識のときはそれぞれ別のものに感じられるけど、炭素を超高圧にするとダイヤができるように極限まで見極めると、畢竟、同一の何かですよね?

 

 思うに、南の地では、まわりを探せば、そのままで美しいものがあるのだから、北半球の文明のように人為の美を極めようとする意欲、精神の衝動みたいなものが醸成されなかったのではないか。

 

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 上の写真は、新宿ベルグのスパイスショコラケーキ。美味しかったです。

 

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