ふたつの謎の塔と戦後モダニズム建築
(上の写真、昨日、撮ってきました。今日は冷たい雨、このところ天気がコロコロ変わっている。築57年ですか、きれいに塗装されているので秋の陽に映え、真新しく見える。)
謎の塔・その1
塔の話しの続きです。「塔は、駒沢オリンピック記念塔、駒沢給水塔、浅草十二階、通天閣」と書いた。
駒沢オリンピック記念塔は、世田谷区の駒沢公園内にある高さ50メートル、だいたい12階のビルぐらいの高さのモニュメント。現在、周辺にもっと高いタワーマンションもあってそれほどは目立たない。公園の外に出ると見えなくなる。
まだ高いビルもなかった子供のころ遠くから見た塔は、 電気部品のポリマー絶縁体みたいな形、 まあ、焼き鳥屋の串焼きネギを垂直に立てたような謎の建築物だった。
そうでした、昭和40年代、東京の南西部で塔のようなものといったら銭湯の煙突か消防署の火の見櫓、それに高圧送電線の鉄塔ぐらいだった。下町のお化け煙突は有名だったけど見えなかったし、東京タワーが小さく見えるポイントはあったが、あまりに遠くで関心外だった。
ある日、「ねずやま」の上から町を眺めていたとき細長い変な形の物体があるのに気づいた。遠くの方で小さく、それまで気づかなかった。
小田急線の梅ヶ丘駅の近くにある羽根木公園をそのころは「ねずやま」と呼んでいた。戦前は、東武鉄道の創業者(根津嘉一郎)の所有地だったので根津山。直裁、無粋なネーミング感覚、南青山の根津美術館もそう。
大人たちは、戦争中「ねずやま」には高射砲の陣地があったと言っていた。まだ防空壕も残っていた・・・と友達は言ってたが見ていない。松陰神社の裏や城山城址公園にあった防空壕(赤土の崖に掘られたトンネル)ならよく知っている遊び場だった。洞窟探検のノリです。
「ねずやま」はすでに公園でしたが、現在のように整備されておらず、赤土の禿山と原っぱが残っていた。大きなトノサマバッタ、細長いショウリョウバッタ、虹色のトカゲがたくさん、それにモグラもいた。
いま図書館や梅林のある斜面は、風の強い日は砂埃が舞い上がって髪の毛や服の中がざらざらになった。雪の日は、塩ビの波形のスレートを見つけてきてはソリにして滑った。
あの日以来、変な形の物体が気になって、一体なんなのか、場所を探して正体を自分の目で確かめることが最大の関心事になった。
だいたいの方向から見当をつけて探すうちにたどり着く・・・・1964年のオリンピックのとき建てられた駒沢公園の塔だった。「ねずやま」から遠いといっても3キロぐらいか。
近くで見る塔は、思っていたよりも影の薄い、とり付く島もない感じだった。ちょっと期待外れ。青空の似合う颯爽とした姿。いわば優等生的存在なわけです。拒否されている感じはしないけど、かと言って親近感が生まれるわけでもない。「ねずやま」から見ていたときの方がワクワク感があった。
塔の建っている広場からして日本じゃないような、なんとなくヨーロッパっぽく、でもどこだか分からない無国籍ふうのだだっ広く整然とした空間。広場は、凹凸のないのっぺらぼうみたいな空間なので空が広く見えた。広場の真ん中に立っていると、微妙な空気の流れ、繊細な風を感じる。
それまで東京といえば、ごちゃごちゃ、ちまちました姿しか知らなかった自分には、なんか場違いな雰囲気。そんな広場の臍(へそ)・・・じゃないですね、人体に見立てると頭頂にあたる位置にある人工池の真ん中にすくっと塔が立っていた。
建築のことは素人なので、専門家のように塔の部分、部分を分析的に書くのではなく全体像について書きます。いわば全体を統合した直観の眼、それなら書ける。
白いコンクリート打ちっぱなしの塔で、井桁を積み重ねたような単調で直線だけの構造。無機質で健康的で明朗な存在、それが第一印象。何度も見ているうちに、意識の中に織り込まれ、ただそこにあるだけの存在になり、気にならなくなった。
塔からは威圧感や荘厳さ、豪華さ、スケール感に驚くとか、歴史や伝統みたいなものは感じなかった。感想を書こうとしても、「~である」、「~だ」と断定する言葉が出てこない。ただ「~ではなかった」、「~でもなかった」と、違うという言葉でしか言い表せない。思うに、これが本当に新しいものと出逢ったということなのかも。
もし人類が知的な地球外生命体と遭遇したとしたら、たぶん同じようなことになるのではないか。文字を使うようになってから3000年ぐらい蓄積してきた全ての知識を動員して考察しても、それとは違うというしかないのだから。
よく五重塔を模したようにも見えるところに日本らしさがこめられているといわれている。そこに関してはどうかな~という感じ。素材が木ではなくてコンクリートなので、しいて言えば百済の石塔っぽいか(五重塔も百済の石塔も、元をたどるとインドのストウパー(仏教の塚)から派生している)。横浜、川崎の地元言葉に「ホントかさー?」ってのがあるのですが、こんなときに使っている。
今年のオリンピックの新国立競技場は、木を使っているから日本らしさを取り入れているって言ってるのを聞いたときも「ホントかさー?」と思った。なんか安直というか。でも、頭ごなしに否定するのも躊躇われるし、目に見える形にしなきゃいけない建築家の仕事としては、頑張ったってことでしょうか。
意識的に装飾的な要素を排していることもあり面白味はあまりない。でも、真面目で実直なのは伝わってくる。そして権威的ではないフラットな感じ。庶民的ではないにしても市民的なんですね。
こういうのを戦後モダニズム建築って呼ぶらしい。モダニズム建築については、戦前、ヨーロッパで生まれた過去の伝統建築とは断絶した、合理性、機能性を追求した建築といわれている。頭に「戦後」がついているのはアメリカナイズされたといった意味が加わっているってことか、詳しいことは知らない。
塔を作ったのは戦後、アメリカに留学して学んできた芦原義信という建築家。正統的なモダニズム建築の作風らしい。
なるほどね、この塔は、戦後民主主義を目に見える形で具現化したものなんだ。オリンピック、高速道路、新幹線などと同時に現れたその時代のシンボルなんですね。
調べると塔も近くに建っている体育館も、周りの広場も、つまり空間全体が芦原氏の「作品」なんですね。かなり気張って構想されたのが感じられる。ご本人にとって一世一代の自己表現といった意気込みだったのではないか。
あの時代、気張った人がいて、もちろん有能ではあるのですが、自分の好きにやっていた。それが許される、誰もがそういうもんだと思っていた時代だった。
オリンピックの公式記録映画の監督だった市川崑という人、出来あがった映画は、客観的な記録性よりは自分の世界(個性)を押し出した妙な作品になっていた。市川崑氏と波長の合っている人には名作、そうじゃない人にとってはよく解らない映画だった。
建築家と映画監督は似ているなと思う。多くの人たち、スタッフ、関係者の共同事業(総合芸術)でありながらも、権限がその人に集中しているので、当人の個性がもろに出てくる。
小学生の自分がなんか場違いな雰囲気だと感じたのは・・・「まるで御殿場の兔(うさぎ)が日本橋の真中へ抛(ほう)り出されたような心持ちであった。」(夏目漱石『倫敦塔』)、そんな感じ。
唐突ですが、例えばサイケデリックスを摂取すると人間の内面、意識が変わることで外界が変わる。世界が変わったように認識される。その逆に外界を変えることによって人間の意識をそれに同調させる、内面が変わるってこともあるのではないか。マインドコントロールとまでは言えないにしても、マイルドに影響を与えるといった感じでしょうか。
場違いな雰囲気と感じたのは、それに対して直感的に反応していたのではないか、今にしてそう思う。「それ」ってのは、要は新しい時代のことであり、芦原氏の自己表現というかマインドに泥臭い日本で育ってきた子供が戸惑っていたのだと思う。
・・・子供の直感を卑下してるわけでもない。というのは、塔も広場も、見方によっては戦後版の鹿鳴館建築(西洋崇拝)という言い方もできるだろうし、一方、ごちゃごちゃ、ちまちました東京も、生活の必要から生まれた姿なのだから、そこから見た視線は素直で正直なものだと思っているので。
機能美に対し、場末美ってのもあって、どっちがいいかなんて簡単には言い切れないんじゃないか。
ところで、身の回りを振り返ると、近所の世田谷区民会館、区役所(設計は前川國男。現在、解体工事中)も戦後モダニズム建築だし、公園のイベントでいつもその脇を通る代々木競技場( 設計は丹下健三)もそうだった。別に意識するでもなく、長い間、それが見慣れた日常だった。
ああ、上にあげた建築家の方々は、欧米のモダニズム建築の丸写しではなく「日本」の建築物の特徴も融合させているんですね。苦心していたわけです。最近、日本の戦後モダニズム建築は世界的にも注目されているとか。そういう異文化を柔軟に吸収し融合させる知恵こそ日本文化の真髄ではないかと思っている。
謎の塔・その2
世田谷区役所の端っこについている謎の塔。四角い箱のような直線だけの建物にここだけ曲線の円柱。もっさりとしていて不釣り合いな感じがしていた・・・何十年も前からずっと違和感があった。蛇足って感じ。
設計者の前川氏は、当初、展望塔を考えていたとか。それは現実化できず、一応、煙突といわれてた。実際は、用途のないままで終わった。もうすぐ建物全体が解体される。
ということでは、この「塔」は赤瀬川源平なんかの言っていた無用で変な建築物、超芸術トマソンだったんだ・・・いまにしてそう想う。
建設当時の区民館の端っこには築山があったが、ほどなくして撤去されたし、区民館と区役所の二階部分の広いテラスも同様、立ち入り禁止になったり(そのまま50年ぐらい立ち入り禁止で廃墟化していた)と、前川氏の理想主義を生かしきれなかった。
区民館の築山は高いコンクリートの壁に囲まれていて外部からは見えなかったので、その存在を知っていた人は少ない。こっちは忍者みたいに壁を登って侵入、自分のフリースペースだった。他の子供は壁が高くて入ってこれない。建物の構造上、内からは見えないので大人は誰も知らない。
そう、築山を所有してたわけではないですが、占有していたと言ったところです。
狛江の方にいくと、住宅地の合間に小さな古墳がありますが、芝生に覆われた築山は、ちょうどその古墳ぐらいの大きさ、この「山」を独り占めにしていたのは贅沢なことでした。
実は、前川氏の建築を身体感覚で知っている。いまの言葉でいうと、パールクール+ボルダリングを勝手にやっていたので。コンクリートの屋根、庇、外階段、出窓を飛び移ったり、這い上がったり、綱渡りみたいにして、各部分の距離感、高低差、勾配、角度、みんな身体感覚でつかんでいた。あそこまで飛び移れるか、距離の目測と自分のジャンプ力を考えて、一回勝負、失敗したら下まで転落してしまうので真剣です。
率直に言って、出っ張りや足場になる装飾がないコンクリートのつるんとした建築なので、けっこう難易度が高い。それでも工夫してやっているうち踏破できた。その意味では、そんな遊び場を作ってくれた前川氏に感謝している。
・・・区役所の庁舎の話に戻ります。まあ、区の人口が急増しすぎて前川氏の理想主義は、絵に描いた餅みたいになってしまったんだと思う。山陰地方や四国の県よりも人口が多いのだからキャパシティとして無理があったってことか。築60年ほどであっけなく解体されるとは前川氏、思ってもみなかったのではないか。
モダニズム建築は「過去の伝統建築とは断絶した、合理性、機能性を追求した建築」ということですが、ここであげた建築物は、20世紀中頃までの技術、鉄、コンクリート、ガラスで作られているので、いろんな新素材、AIが出てきたいま、すでにレトロ化している。現在は、近過去のレトロとしてのモダニズム建築を見ているんですね。
You Tubeで京都会館(ロムシアター京都)の動画を観ていて、世田谷区民会館を見ているかのような既視感にとらわれた。行ったことがないのに、よく知っているところみたいな奇妙な感じ。
両者は、前川國男氏が同時期に手がけた建築物なので、水平に広い庇、レンガタイル、コンクリート打ち放しから内部の間合い、部屋、柱、階段の配置、バランスなど空間の感覚が同じなんですね。
新宿の紀伊國屋書店のビルも前川氏の設計、こちらは商業施設のコンセプトなので類似性は薄められている。物販スペースが優先するので空間設計の自由度は限定されるってことが大きい。
そういえば、モダニズム建築と日本の伝統の融合に苦心した建築家の人たち、きっと夢にまでそれが出てきたんじゃないか。建築設計の夢ってどんなもんなのか?
知り合いの半導体の技術者は、新しい回路の設計に苦心していたとき、夢に出てきたと言っていた。朝、目が覚めたとき、なんで家にいるのか一瞬、戸惑ったという。職場で研究していたはずなのに・・・実はそれが夢だったのですが。その後、彼は新技術の開発に成功した。
ということでは、人間の思考と夢は、案外近いのではないかと思う。
何日か前、茨城県の池で大きなワニガメが見つかり、4日かけて捕獲したというニュースがあった。そのとき作戦指揮をしていた爬虫類専門家、少し前、逃げ出した大蛇の捕獲で名をあげた人でした。
苦心の末、ワニガメを捕まえたのですが、この人は、捕獲成功後のインタビューで、毎晩、寝ていてもワニガメが夢に出てきたと言っていた。精神的にかなりまいっていた様子。聖徳太子や親鸞の見た夢の逸話を思い出す。やっぱり夢に出てくるぐらいじゃないと、ほんとうに苦心しているとは言えないんですね。
AIの知が人間を追い越すんじゃないかとシンギュラリティの話を耳にする。一方、三人寄れば文殊の知恵ってことで、これからはSNS、ウィキペディアもそう、集合知の時代だっていう話もある。AIと集合知は相性がいい。
でも人間自体、それぞれの人の能力を十分に出し切れていないのではないか。教育システムや社会システムの問題が入ってきて、現状、どうにもならない閉塞状況に陥っている。夢の話をしていて、人間の能力にはまだ伸びしろがあるのではないかと思うのですが。
・・・ワニガメの夢ってどんなもんだったんでしょうか? 捕獲のニュース動画を観ていて思ったんですが、ガメラによく似ている。ってことは、ガメラはワニガメをモデルに創作されたってこと?
どんどん横道に逸れていくので今回は終わりにします。
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