芳村正乗の書、西郷と明治天皇、 宮古島のパルダマ

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 神の字の「申」がクルクルと回っているのはカミの顕現と見た。カミの憑いた字。トランス状態になって書いていたのではないか。神と言っても、聖書やコーランの神ではない。神社に祀られている神々が登場する以前の弥生時代アニミズムのカミ。

 古事記以前の時代、人々はカミをこんな存在だと考えていた。「カミは姿形がなく、物や場所に固着・定住せず漂動し、招きに応じてそこに来臨し、また人間にとりつき、カミガカリして宣託するという根本的性格を持っていた。」(『日本人の神』 大野晋

 カミは姿の見えるものではなかった。では、どうして人はカミの存在を認めたのかというと、視覚以外の感覚の異変、あるいは気分、気配、目眩のような意識の変化が起きたのではないか。それをカミとした。人にとりつく、神懸かりするというのも、変性意識状態の人を客観的に語るとそんな描写になるのではないか。

 目には見えないが、何かがいる・あるという確たるリアリティがなければ、カミは生まれなかったはずだ。これは、どこかの本に書いてあったことではなく自分の思いつきみたいなものですが、そうだとすれば、「申」の渦巻きは、書き手の意識状態を具現化したものと見ることができる。

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 幕末の尊王派の武士で、明治時代の宗教家、芳村正乗(よしむらまさのり)という人の書です。偶然、別々のところで正乗の書を何点か入手したうちのひとつ。

 なんかミロの絵にこんな感じのがあったんじゃないかと探してみました。正乗の書もミロの絵も、共にアニミズムが蠢動してるように感じている。

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 書画骨董の中でも、書は敷居が高そうで、手を出すには抵抗があった。それでも、日本の家屋から床の間が消えていき、世代が代わっていくに連れ、掛け軸や書が安く出まわっている。

 安いから買うという情けない動機なのですが、つい・・・。江戸時代の文人や幕末の志士の書で目についたものを買っていた。偏屈、隠者、天邪鬼、変人っぽい人の書が多い。

 

 正乗は神道の中臣氏の末裔・・・記紀神話にも登場する天児屋命の「子孫」で、祭祀の場で祝詞を奉じていた氏族。一方、美作国岡山県の内陸部、古代の吉備王国の一部)生まれの本人のメンタリティーとしては祖母が巫女だったことが大きく、子供のころに祖母の神懸かりの宣託を目にし、それに突き動かされた生涯だった。

 つまり、吉備、安芸、周防の山陽地方に残っていた巫女のシャーマニズムを体現していた。遡ると、弥生時代に南の海から移住してきた人々の精神世界ということになる。

 吉備国の遺跡から発掘された石に刻まれていた文様(施帯文)は、台湾の先住民パイワン族の文様と共通していることが分かっている。また、パイワン族の文化はインドネシアボルネオ島とつながりがあるとも言われている。

 台湾の南端からフリピンまでは僅か300キロしか離れていない。太平洋からインド洋までの広大な、主に海のルートで繋がっているオーストロネシア語族の一部の人々が北上して建国したのが吉備国ってことでしょうか。

 

 ところで、ホモサピエンスは、アフリカから出た初期にネアンデルタール人との混血があったが(以前は、なかったという定説だったが、10数年前、遺伝子の研究で分かった)、近年、さらに南アジアに進出した人類はデニソワ人(ネアンデルタール人の近縁)との混血もあったということが明らかになっている。

 ということでは、進化の過程で別系統の道を歩んできた違う人類の体質や心性も受け継いでいることになる。・・・吉備国の時代から万年単位の過去のことで、縄文人の中で黒潮に乗って日本列島にやってきたグループも同じなのですが。

 人と人は違いがあってもいい、それが当然、人間はホモサピエンス以外の違う人類とのミックスなのだから。容貌や能力とか体質、社会的適性の違いに優劣をつける考え方がまかり通っているけど、つき詰めていくと、そういう考え方自体、人倫に反する無理があるのではないか。違いを認めた上でみんな仲良く、和の世の中になればいいなと切に思う。

 

 明治時代になってから、正乗は山岳修行をし神習教という神道系の宗教の創設者になる。女性の場合は、生身の地でシャーマニックな霊能が備わっている人がいる。霊能が発現するきっかけは日常の延長上の生活苦や不幸、あるいは戦争であったりする。

 男の場合は、地の素養としではだいたいが無能で、神仏どっちでもいいですが、山に篭ってハードな行を積んだ末、なんとか及第というパターンが多い。 1000年以上昔の雑密時代の青年だった頃の空海から江戸時代、昭和のころまでそうだった。

 山の中で何しているかといえば、一応、行法、形式とかあるけど、そういうのは枝葉末節なことで、核心は、自然の中で長期間、原始的なサバイバル生活をするということに尽きる。五穀断ちって要は縄文食ってことしょ。やり続ける根性があれば誰でも霊能は身につく。

 ・・・奈良時代のころ、雑密の時代の山岳修行について考えたことがあるのですが、結局、剱岳の頂に登るような、常人では登るのが無理だった未踏峰に登頂すること、そういうことだったのではないか。紀州や東北には、そういう山がたくさんあったはず。行法とか形式にこだわりだしたのは江戸時代になってからのこと。

 

 元警察官だった人の本の中に、こんな話がありました。警察で殺人事件の捜査に行き詰まったとき、内々に祈祷師、山伏といった霊能者の助言に頼っていたという話で、「岡山や広島あたりの殺人事件のかなりは、こういった霊能者によって解決されている事件が多いのではないか。なぜかはしらないが、岡山は日本の多くの宗教の発生地だ。そのことに関係があるのかもしれない」(『ニッポン非合法地帯』 北芝健

 著者は、なぜかはしらないがと書いていますが、宗教の発生地ということに目をつけているあたり、いい勘をしている。弥生時代から続くシャーマニズムの精神的風土がいまも残っているということなのだから。・・・自分が実感的に知っている土地は東京(武蔵)と関東地方ぐらいで、広島、岡山、山口になると何も知らないので、本の知識をもとにイメージしてるだけなのですが。

 幕末三大新宗教のうち二つ、金光教 黒住教はこの地(吉備)で生まれているのも同根の由来があるように思える。・・・ついでに、神習教って、本殿が近所にあります。時代も代も代わり、ふつうの神社っぽく幼稚園が隣接して建っている。

 

 正乗は、西郷隆盛伊藤博文とも接点があった。幕末の尊王派に組みした人なので当然かもしれないが、本人は、いまでいうとスピリチュアル系なので、軍人、政治家の頭の西郷や伊藤とは別タイプの人間。でも、野心家ではないし人柄が良かったからか、西郷や伊藤に目をかけられていたようです。

 正乗のメンタリティーは、明治国家の公式の国家神道とはそりが合わないけど、人脈的にはつながっていて、一方、天理教大本教のような民衆宗教としての迸り、広がりには欠けていてと、なんかチグハグな感じ。まあ、現実ってスッキリ類型化できないってことの方が多いので、権勢欲や山師的なところの少ない人(正乗はそんな人物だったと思う)の歩みとしてはそれが自然の流れだったのかも。

 

 「明治天皇西郷隆盛と三人で、お忍びで鶯谷で酒を飲み、日本の将来について語った」と正乗の日記に書かれているとか。以前、なんかの資料に載っていた一節で、真偽不明な話です。西郷がらみで、明治天童に皇居で幾度も会っているのは史実のようです。

 明治天皇が16、7歳のころかと思われますが、事実だとすれば、新政府を作ったばかりのころってずいぶんラフな感じだったんですね。

 当時の鶯谷といえば、根岸の里でしょ、文人墨客の愛した風光明美な地。あのあたりときどき歩いているが、いまは全く消滅した光景・・・以前、小野照崎神社の富士塚の話しを書きましたが、本殿の裏にある立ち入り禁止のエリアに僅かに残っている情景を敷衍すると、バリ島のアグン山の裾野に広がる田園地帯、小川とこんもりとした森に朝夕、霞がたなびき鶏鳴が聞こえてくるようなところだったのではないか・・・横道に逸れました。

 でも、豪胆な策謀家の西郷(当時40代前半)、20代後半のスピ系の正乗、カゴの鳥のような少年の三人、この組み合わせで日本の将来を語るといっても、はて?といった感じ。

 

 西郷とそのころの明治天皇については、こんな話もある。「明治の新政府になったばかりのころ、少年天皇がわがままを言うと、西郷隆盛はそんなことでは昔の御身分におかえしいたしますぞと脅かした。すると天皇はおとなしくなった。」(『日本史こぼれ話』奈良本辰也ほか)。

 著者は日本史の学者で、創作した話ではなく、往時、そんな噂があったのは事実だと思われる。意味深な話しです。ふつうに考えると、言うことを聞かないと、鎌倉幕府から600年以上、武家の風下に置かれていた境遇に戻してやると西郷に脅されたというふうに読める。    

 その一方、明治天皇は、長州の倒幕派によって作られた替え玉だったという陰謀論もあって、そうなると昔の身分に戻してやると脅されたというようにも読める。黒沢映画の「影武者」、いえ小説の『影武者徳川家康』(隆慶一郎)の方が近いか。

 明治天皇からすれば、幼いころの自分の養育係を殺した人物が側近(これは史実)で、また別の側近によって父親(孝明天皇)は毒殺された(これは噂)と、すごい境遇だった。天皇家をこういう境遇から自由にしてくれたのは、マッカーサーだったというのは皮肉なことだ。

 真偽不明や噂の話しばかり(でも事実かも)なのは、まあ、しょうがないでしょうか。国とか政党、企業、メデイア、学校どこでも、ほんとうにまずい事は、起きてしまったことであっても、なかったことにする、暗黙のしきたりがあるので、ちゃんとした資料なんて無いものねだりなのかも。

 かと言って、明治天皇替え玉説みたいな陰謀論を信じてるわけでもないんです。長い間、日本の最大のタブーだったテーマなので、こんな表現でしか後世に伝えられなかったと考えるとスリリング、そう、真に受けてるんじゃなくて戯画的に取り上げてるだけです。

 そんなドンデン返し感が面白い。小説、コミックはフィクションだし、野球やサッカー、囲碁、将棋にもドンデン返しはあるけどみんなゲームの世界の中の出来事だし・・・それに対して歴史的な出来事だとよりリアルっぽいんで。

 

 ところで、伊藤博文を暗殺した安重根が、裁判の過程で暗殺をした理由を15カ条あげていますが、その14番目は奇怪な話しでした。

 「 十四、日本先帝を殺害(今ヲ去ル四十二年前現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ其事ハ皆韓国民ガ知ツテ居リマス)」( 先帝というのは孝明天皇のこと)。

 伊藤が孝明天皇を暗殺したという・・・言ってることが事実かは分からない。15項目のうちで14番目なので、付け足しといったところかと思う。仮に事実だとしたら国家的な極秘機密で、果たしてそんなこと知り得たのだろうか? 

 日本では岩倉具視がやったというのが噂の定説だったのが、朝鮮半島では都合よく伊藤博文にすり替えられてるような気がしないでもない。つまり、暗殺するという忿怒の情念というか決意が先にあって、理由は後から考えたってこと。

 安重根は、例えていうと明治の40年代になってもちょんまげを結っていた人がいたそうですが、まわりはどうであろうと本人は江戸時代に生きていた。そういうタイプの人だった。

 そんな人だから、どうも背後にこの人を操っていた存在があったのではないか、ロシアの謀略だったのではないかとか、それとは別にアメリカの謀略だったとか、はたまた日本内部の権力抗争によるものだとか、いろんな説がある。

  安重根っていう人の気性は、昭和初期、血盟団事件を起こした小沼正とよく似ている。時系列では小沼が安に似ているでした。もし、生まれた時代、生まれた国が入れ替わっていたら、それぞれ同じことをしていたのではないか。一人の人間の一生分の生のエネルギーを一つの行為に集中させた彼らの心情、心理、それに気概、胆力は分かる。でも、それは主観世界のことで、やっぱり愚かな行為だったと思う。

 14項目めの文言は、当時の朝鮮半島でそんな風説(都市伝説)が一般庶民の間に広まっていたということの証言として興味深い。どうも土俗的な猟奇の匂い、昭和前半の紙芝居や貸本漫画の世界のようなノリ。それが事実かどうかより風説、噂の方が大きな力を持つ社会だったのでしょうか。はて? そういえば伊藤も若いころ、安重根と同じことをしていたので、日本も同じようなもんなんでしょうか。伊藤は知られているだけで2件の暗殺の実行犯です。

 伊藤の最期は、よく因果応報と言われたりしている。ハルピン駅で撃たれ倒れていたとき、自分が若いころ、思いこみで殺めてしまった相手のことを当然、想いだしていたでしょうし。

 

 ここからは、宮古島のパルダマの話しです。

 3月下旬から山菜、野草食に夢中になっていたのも新芽、若葉の季節がすぎ、先週、採った女竹で、ひと息ついた。一年ぶりの女竹、笹の細いタケノコですが、蒸し焼きで食べる。

 最近は、相模湾の魚、野菜は弦巻のセブンイレブンに探しにいっている。このあたり(世田谷区)は昔、江戸の郊外、武蔵の地で、西に横浜まで武蔵だったことからすれば、横浜市場の相模湾の魚は地魚と言えなくもない・・・ちょっと無理っぽいか、まあ、考え方次第で親近感が生まれ、自分の中では盛り上がっているので。

 住宅街の真ん中にあるセブンイレブン、広めの駐車場があり、端っこにテントを立て野菜を並べている。他ではあまり見かけない西洋野菜や珍しい野菜が置いてあるので、気になってのぞいている。

 また横道に逸れますが、弦巻ってところは、特徴のない住宅街で、大きな道路や電車の駅、商店街はなし、マンションやアパートも少なく、ただ庭付き一戸建ての家が続いている。

 一ヶ所、畑が残っていて、そこの竹藪を数百羽のムクドリが寝ぐらにしている。毎晩、その竹藪の横を通るのですが、近づくとピ、ピ、ピ、ピと電子音のようなムクドリの囀りが途切れることなく聞こえる。あたりの空間は、一晩中、この音に包まれている。弦巻の特徴といえば、こんなところでしょうか。

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 上の写真はパルダマ、袋に宮古島産とラベルが貼ってある。15本ぐらいの枝がパックされ値段は安い。ふーん、どんな味か気になる。

 宮古島沖縄本島でもよく食べられている島野菜だとか。宮古島といえば、確かインドクジャクが2000羽もいるとか、それから区の故郷祭りに出店していた宮古島出身者のブースで島トウガラシを片手で掴めるだけ取って150円だったのを思い出す。小さめで丸っこいトウガラシですが、痺れるような強い辛味があり、よくパスタに使った。一年以上持ち、お買い得でした。

 パルダマはサラダ、スープ、パスタにいろいろな具材になる。癖のない味で、苦味、酸味はないが、独特の風味、一瞬、ピーマンっぽく、でもまた違う風味、栽培野菜にはない味に野趣を感じる。

 先の女竹、それにここで見つけたトレビス(イタリア野菜)の苦味、また今春、出合ったイタドリの酸味、どれも野趣ですね。

 結局、料理は食材に尽きるのではないか。それが西洋、中東、インド、中国の料理とは違う日本の味覚だと思っている。世界の趨勢は調理(人為)の味を極めていくように進んでいる。でも、日本には素材(自然)の味の方を尊ぶ人たちもいる。

 翌日、パルダマを買い込んで、沖縄出身の知りあいに持っていく。ええい、この際、できるだけ多くの人に、と沖縄に縁のある人たちの家に宅配していった。値段は安いので貧民の自分でも大判振る舞いできる。

 お金を出せば、手に入るといった商品とは違い、そもそもふだんは売ってない生鮮食品、希少価値というところがポイント、喜んでもらえました。

 最近、思っていることですが、自分が楽しいということがなくなってきて、人が楽しいと思ってくれることをするのが楽しみなってきた。飲む・打つ・買うよりも、こっちの方がずっと楽しいんじゃないか。

 そんなに大それたことは出来ないし、せいぜい顔の見える範囲でのことですが、アイデア次第で出来ることはいろいろあるのではないかと思っている。

 

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都会のタヌキ/そこらへんの草のイタドリ/多頭飼育崩壊とシャーマニズム

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 上の写真は近所の線路を横断中のタヌキ。二匹いましたが、一匹はすでに渡りきって見えない。今週のはじめ世田谷線松陰神社前駅若林駅の間にある踏切から撮りました。

 世田谷線三軒茶屋と下高井戸の間を結んでいる二両編成の鄙びた路面電車。全長5キロの間に10の駅がある。駅と駅の間隔が短いので、地元の人たちは数駅ぐらいは歩いている。座席が左右一列のクロスシート、初めて乗った人は遊園地のおサルの電車みたいと言ってました。

 線路沿いの林にタヌキが何匹も(8匹とか)いて、テレビで紹介されたりもしている。

 

 桜の開花したころ、快晴の朝だった。踏切を通りかかったとき、林から今年初めてウグイスの啼き声を聞く。春告鳥という別名があり、日差しの増してきた朝の陽光とともに季節の移り変わりを感じました。

 それにしても囀(さえず)り方の下手なウグイスだった。舌ったらずな啼き声が親心じゃないですが気になり、毎朝、踏切を通るようになっていた。その後、少し上達している。

 先週はそこでコジュケイの啼き声を聞いた。キジの仲間の野鳥で、独特の節回のかん高い囀り声、間違いない。これは、自分の中では大きな出来事でした。というのは、この辺りでコジュケイの声を聞くのは何十年ぶりのことだったからです。

 かっては近くの松陰神社の林の竹薮にいたのですが、そこが駐車場やマンションになってしまい、それっきり姿が消えていた。啼き声を聞いて懐かしかった。そう、人でも何十年ぶりかに再会して声を聞いたときの感慨、そんな感じ。

 コジュケイの囀りは、他の鳥との違いが際立っていて、個性的で南方系のワクワク感があり、なかなかいいと思っている。でも外来種のためか、日本の自然の風情ということではあまり言及されていない。

 コジュケイは大正時代に台湾から日本に移入された。そのころの台湾は日本の一部だったことからすれば、一概に外来種という括りに入れていいのだろうか。それに日本に来てから1世紀になるということもある。

 う〜ん、一方でこの辺りではインド、スリランカの鳥、ワカケホンセイインコが目立って増えていて、土着のオナガが圧されてしまってるのは面白くない。

 

 コジュケイやワカケホンセイインコに東京の亜熱帯化を感じている。・・・横道に逸れますが、知り合いに鬼才、レズビデオの巨匠といわれるフェチ系のAV監督さんがいる。歌舞伎町のど真ん中に住んでいて、健康のため毎日、高い柵に囲まれ檻の中みたいな大久保公園の舗装されツルツルの中庭を反時計回りにジョキングしていた。ふつうの人は時計回りに走っているのでひとり目立つ。

 監督さんから歌舞伎町熱帯化計画という私的な構想(陰謀?)を聞いたことがある。少し前のことで、詳細は忘れてしまったが、バタイユ安部公房が好きで、演劇的な手法で世の中(手始めに歌舞伎町)を変える、カルチャーを熱帯化させるというようなことだった。これって個人でやっちゃう社会革命と言えなくもない(政治革命ではなく社会革命というところがミソ)。あの計画、どうなったのか、すでに成就してるのか、聞いてみたい。

 

 ウグイスやコジュケイの、それにタヌキのいる林は線路脇にあり、しかも住宅街の裏手、道のない場所なので人が近ずけない。だから踏切から姿の見えない野鳥の声を耳にするだけ。でも啼き声で鳥の種類は分かるので「ああ、コジュケイがいるな」と存在を確かめる。そこに満足感が生まれ、なんか少し得したような、リッチになった気分。

 林は、環七から100メートルぐらいしか離れていない所ですが、丘の斜面に位置していることもあり、踏切の脇に立ち止まっていると里山の気配も感じる。この辺り、かっては起伏のある武蔵野の雑木林だった。

 現実は東京の住宅街の真ん中なので、里山など目には見えないのですが、早朝や深夜、イメージを膨らませてそんな気配を感じとっている。踏切を通る道が曲がりくねった隘路なのはかって農道だったから、その先が坂道の下りなのは、そこが丘の上だから、そんな感じでイメージしていく。

 1月、東上野の街角で戦前の日本が途切れることなく続いていると書いたのと同じで、2021年の現実の中では、すでになくなっている過去の世界を、僅かな痕跡を手掛かりを見つけ出しては、頭の中で針小棒大に拡大し浸ってる、戯れている、遊んでいるわけです。

 

 この朝もコジュケイの声目当てだったのですが、思いがけずタヌキに出逢った。この近辺では、他に豪徳寺と城山城址公園の間の雑木林、宮の坂駅世田谷八幡宮裏手にある農地・竹やぶ、駒沢給水塔の中庭にタヌキがいる。四ヶ所の共通点を考えてみると、どこも人が立ち入れない場所になっている。都会では、広い公園はあっても、その条件にあてはまる場所はとてもレア。

 タヌキに比べてハクビシンは生息密度が濃く、ちょっと大げさに言えばそこら中にいる。いま東京の家屋の10軒に一軒は空家になっているとか、ハクビシンはそんな空家を住処にして数を増やしている。ああ、こちらも亜熱帯の動物でした。

 ハクビシンはタヌキと違い、木登りが上手。垂直な壁や電線を伝わって移動する忍者みたいな奴ら(?)なので空家は恰好の住処だ。

 実は、何日か前の夜、寝ていたときガターンと大きな音がして目が覚めた。庭の物干し竿が落ちて、暗がりにさっと消えた動物の影。こんなこと初めてでした。正体は分からなかったけど、物干し竿を伝わっていたことからすれば、ほぼハクビシンに違いない。

 深夜、人間が夢の中にいるとき、家の周りをタヌキが徘徊し、屋根をハクビシンが歩いている、そんな日常になりつつあるのだとしたら、アルカイック・リバイバルの人獣同衾の世界を彷彿とさせ好ましいことです。いえ、全く個人的な想いですが。(下の絵はシャガール

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  身の回りに野生の動物、さらにUMA(未確認動物)とか妖怪とか、要は魑魅魍魎のいる世界が自分にとっては理想郷なので、デフォルメされた現実ではあるにしても、気持ち的には救われている。

 踏切の近くに住んでいる人の話では、昭和の頃はタヌキはいなかったそうで、平成になってから姿を見かけるようになった。また、ハクビシンの数が増えているのは、この10~20年のこと。いわば新しく生まれた現実なんですね。

 

 ・・・そういえば、何日か前、「多頭飼育崩壊」のニュースがありました。自宅で24種類58匹の動物を飼い、どうにも面倒みきれなくなってしまった女性の占い師の話しです。都内で起きた事件。事実関係は検索すると出てくるので詳細は省きます。

 これは可哀想なネコを守るため、イヌを守るためにと次々に数が増えていったというような、ときどきニュースになる多頭飼育崩壊の話とは少し趣が違うように思いました。

 24種類という種類の多さに驚く。自宅が動物園で、いろいろな動物たちと一緒に暮らしていたといった感じ。そう、眠りに入っているとき、意識は動物たちの中を漂っている。

 イヌ、ネコは合わせて8匹で、他に22種類50匹、内訳を上げていくと大変なので大まかに、比較的ウサギの数が多いのと鳥類とトカゲ・カメ類が目に付くが、特定の動物にこだわりがあるのではなく動物一般分け隔てなくいるようです。

 一応、動機としてコロナ禍で海外旅行に行けなくなったので動物を飼うようになったと報じられている。こういう話は、だいたい人間関係の孤独とか、よく分からないときは変人ということで片ずけられる。

 でも、時代と場所が現代の日本の東京だったので、こんな動物虐待、近所迷惑のニュースになってしまったが、コロナ禍という社会的状況(プレッシャー)が占い師だったというこの人の霊性を一気に高めてしまったのではないかと解釈してみた。

 これはシャーマニズムの動物霊との結合が今日的な形で起きていたのかも。動物霊というと、おどろおどろしい迷信といった感じで敬遠されてしまうかもしれませんが、本質的には、世界中の新石器時代の人々の心の世界のことで、その名残なのではないかと思っている。

 自然とは切り離された都会生活をしている個人で、シャーマンの資質(精神感応能力)を持った女性が動物霊に突き動かされていることに無自覚なままペットショップから次々と動物を買い込んでたのではないか、そんなふうに感じた。

 

 昔、江戸の街は「伊勢屋 稲荷に犬の糞」と言われたように、稲荷の社が多かった。道ばたに犬の糞が多かった、つまり犬がたくさんいてウロウロしてたことも挙げられている。

 もともとは商家の家の守りカミだったキツネが、主人の夢に現れ、もっとたくさんの人間に拝まれたいと告げ、それで街中にキツネを祀った社が造られていった結果、江戸の街は稲荷の社(後に神社)だらけになってしまった。当時、町内、辻々にお稲荷様を祀るのが流行になっていた。

 横道に逸れますが、よくいく上野の下谷神社も江戸時代は下谷稲荷と呼ばれていた。銀座線の稲荷町駅はその名残。明治の文明開化の時代、外国人に日本人はキツネやタヌキを拝んでいるでは体裁が悪いので政府の命により神社に改められた。

 キツネやタヌキのような動物霊は、神格としては低めで、人間界に近いので現生利益をかなえてくれるということがポイント。

 占い師という職業は、人々の現生利益の想念を受けとめる特殊な仕事だと思うので、資質的に精神感応力が高い人でないと務まらないのではないか。そういえば、江戸時代には、狐使いという人たちがいて、占いもしていた。

 この多頭飼育崩壊の底流には、そんなスピリチュアル(?)な背景があったのではないかと思いました。

 

 3月の末からイタドリを摘んでは食べてを繰り返して、経験的に分かってきたことがある。山菜、野草、雑草・・・要は「そこらへんの草でも食わせておけ」(マンガ「翔んで埼玉」)ってことですが、同じ植物でもどう呼ぶかでイメージがずいぶん違う。イタドリは山菜と呼ぶ人もいれば、そこらへんの雑草と思っている人もいる。

 イタドリを摘んできて、最初は茹ですぎて半ば溶けてしまい捨てるしかなく、翌日、また摘んできて湯通しするぐらいでやってみたら酸っぱさが抜けてなくてと何回か繰り返して要領がつかめてきた。こういうのは実践しないと分からないことなんですが、U-tubeの動画はとても参考になった。

 いくらでも採れるので、ただし新芽のこの時期だけですが、高知県出身の人に持っていったら喜ばれました。向こうではスーパーの店頭に並んでいたり、学校給食の食材にもなっているとか。

 今年は、他にも7~8種類の食べられる野草というか雑草を採った。カラスノエンドウは味噌汁の具にいい、豆苗の味です。茶の木の新芽は天ぷらで食べる。ギシギシはフランス料理のソレルのスープが、ちよっと手間がかかるけど、いい。ヨモギは沖縄料理のフーチーバージューシー、ヨモギご飯ですが、いいです。

 どの野草もペペロンチーノの具材にしている。野菜代わりに用い、けっこう重宝している。

 

 野草はみんな新芽の時分に、柔らかい部分だけを採ることがポイント、書くと月並みな話しですが、じゃあ目の前にある草のどれを、そしてどこを、どこまで摘めばいいのか、実践して初めて分かることです。

 ・・・こんなこと書くのも野暮な話ですが、毛沢東の『矛盾論・実践論』の実践論の方で言っていたのは、こういうことなんだなと思い当たった。実戦論ってのは、いまふうに言うと、バーチャルとリアルな世界の曖昧さを峻別して、政治工作でも仕事でもリアルにやること、そのための思考法ってことになる。

 言ってることは、イデオロギーやドグマではなく合理的でリアルに物事を考えるための弁証法唯物論の哲学。哲学といっても、19世紀の自然科学に基づいた理論なので、専門家からはタダモノロン(唯物論のこと)と揶揄され、スルーされていた。でも、日常生活のレベルでは役立つのも事実。

 その当時の中国は、文盲の人々も多かったのでそれを分かりやすく説いている。高尚な難しいことではなく、平明かつ徹底的に現実的なところが毛沢東らしい。 

 一方、穿った見方をすると、『矛盾論・実践論』は個人の思考回路を一つの型に嵌める人間改造の教本でもあり、これを人民公社の集団農場で老若男女に学習させていた。画一化した思考をする新しい人間を作ろうとしたわけです。人為を全肯定して憚らない漢心(からごころ)の社会主義版って感じがする。

 これに比べると、昨今のカルトや宗教、セミナーなどの洗脳とかマインドコントロールってのは全然、甘いと思う。ああいうのは人を変性意識状態にもっていってやるんだけど、こちらはシラフで人間の思考パターン自体を変えてしまうのだから解きようがない。これまでの人間とは違う新しい人間の社会になるとしたら、究極的には人々を管理したり監視する必要もなくなる。

 ここまでやったら、後、人間に残っている自由は眠っているとき、夢の中ぐらいなんじゃないか。

 この本は、毛沢東思想の基本文献の筆頭にあげられていた。その意味では、中国共産党は侮り難い超リアルな思考法をしている集合知性体(?)で、なんと言えばいいのか、言葉に詰まる。

 

 イタドリはそのまま口にするとかなり酸っぱい。シュウ酸、アクの味で、これを下処理で抜いてから食べている。

 とはいえ適度の酸っぱさは、山菜の魅力である野趣であって、日本人は苦味やエグ味、フキやヨモギの独特のクセ、風味など野趣の味わいを堪能してきた。これは、いわば縄文の味でもあると思っている。大仰な言い方をすると、新石器時代の味覚ってことですね。

 また、舌で感じる味ではなく喉から鼻で匂いとして感じる風味のような味。食感、喉越しで感じる感触の味。こういう感覚を洗練させたところに日本を感じる。

 こういう味わい方は、蕎麦好きの友人のかねてからの持論で、いい蕎麦や薯蕷(とろろ)食べるときは、噛まないで飲み込み、喉越しの味を堪能していた。聞いたときは半信半疑でしたが、真似してみると、言ってることが分かるようになった。

 書いていて、こんな一節を思い出した。「原始食とは、Q感覚、つまりニオイ感覚、触覚器官などの退化器官を主として、全感覚器をフルに連帯させて原始人が食べていたタベモノのことである。」(『蘇った原始食』寺ノ門栄、1975)

 昔の本ですっかり忘れてたのですが、野草、雑草を食べていると、なるほどなと納得することが書かれている。先に山菜を新石器時代の味覚と書いたのとも合致している。どういうことかというと、嗅覚、触覚のよな退化器官で味わう味覚ってことです。

  先人が書いていたことも、それがマイナーな話の場合、膨大な過去の情報の中に埋れ、消えてしまっている、そういうことたくさんあるんだろうなと思う。

 昭和に入ってからの日本料理は、魯山人インパクトが大きかったこともあり、器に凝り、盛りつけに凝る、つまり視覚の方に進化していったように思う。

 また、魯山人から半世紀ぐらい後になると、伊万里の皿を骨董商の人がもてはやしブームになった。こちらは、それまで雑器扱いされ、地方の蔵にたくさん眠っていた伊万里の皿を安く仕入れて、いい値で売りぬける商売で、生活骨董というコンセプトが出来あがる。

 でも、伊万里みたいなコテコテの絵付けでは、視覚にもっていかれてしまい、肝心の料理の方が霞んでしまうのではないか。それに気づいていた料理人もいたかもしれないが、店の経営者やお客さんの意向を忖度して黙ってたのではないか。

 伊万里のブームは去りましたが、当時、誰もそういうことを口にしなかったって、なんかいいかげんな話だなと思っている。自分の想っている日本と現実の日本は、どんどん乖離していってるってことなのですが。

 ところで、日本食の中で、ラーメンやカレーなんかは世界の異文化の人たちの口にも通じるけど、例えば、ざる蕎麦は難しいのではないかと思う。通じない感覚があるということです。山菜の野趣もそう。そこに日本を感じています。

 

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チベットの「犬葬」/犬の共感性とソラリスの海

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   (芝生に現れた小さな穴。周りに地中の土が微小な球になって積もっている)


 朝、犬のJを連れて歩いている。近くの公園にある芝生の敷地をよく通る。冬の季節、芝生は枯れていて、ところどころ土の地面が表れている。

 3月の初め、敷地内に小さな穴がたくさんあるのに気づいた。地面に斑点模様がついているみたいな奇妙な光景。 昨日まではなかった。 足元に数十個、7~8メートル先までだと百を越える数はある。

 近寄って見ると、虫が地中から出てきた跡で、穴の周りに掘り出された土が積もっている。盛り土の高さは僅か数ミリ、あまりに小さく人も犬も無関心。

 なるほど、これが啓蟄(けいちつ)ってことか。「啓」の字は、開く、開放、先導といった意味、「蟄」は虫が土の中にこもること。暦では、春、温かくなって虫が地面から出てくる時期を啓蟄と言っている。ちょうど、この日が啓蟄でした。

 啓蟄って言葉の意味は、辞書で知っていたけど、それを目で見たのは初めて。文字情報の知識としての「啓蟄」と、地面に現れた斑点模様に、えーっ、何これ?と驚いたときの心持ちは、全く別物。情報とリアルな現実の違い、些細なことですが、変わりばえのしない日常の中でちょっとした発見をした気分です。

 

 毎朝、犬と歩いていると、なんとなく他の犬の飼い主さんと挨拶するようになる。一言二言、話すようになり、飼い主さんの名前は知らなくても、犬の名前は覚えていく。

 犬の名前を覚えるってことは、別の言い方をすると、その犬の顔と体型の特徴を覚えることで、そうなると必然的に犬種も覚えることになる。

 犬の犬種について少し調べると、この分野は特殊な世界なことが分かる。愛玩犬は、動物でありながら工芸品やアクセサリーのように、人の手(主に欧米)で作られた犬なのですから。

 

 シーズー という犬について書きます。ある意味、すごい犬です。

 人気のある洋犬のひとつで、鼻の短い平べったい顔、 まん丸の目、 毛の長いぬいぐるみ人形みたいな小型犬。神社の狛犬や獅子舞の獅子にも似ている。 英語で、Chinese lion dog、中国語で「獅子狗(狗は犬のこと)」と書いているのは、まさにその通り。

 シーズーは、いわゆる洋犬ですが、もともとは中国の犬で、清朝後期にチベットのラサ・アブソと中国のペニキーズ(祖先はチベットチベタン・スパニエル)をかけあわせて生まれた犬種です。

 ・・・出だしから、一般的にはあまり馴染みのない犬種名を羅列し、どうも書いていて抵抗がある。多くの人には関心のない話でしょうから。

 端折って書くと、凋落する清王朝チベット、勢力拡張を進める西洋列強の雄イギリスの国家関係が背景にあって、シーズーという犬種が生まれた。その経緯は興味深いのですが、細かい話しは省きます。また、犬種の話しは、諸説あって複雑になるので大まかにということで。

 シーズーの先祖のラサ・アブソは、チベットの宮殿、寺院の中で門外不出の神聖な犬として飼われていた。中国に渡ったのは、清朝後期のこと。宗教国家チベットの元首であったダライ・ラマ清王朝に贈り物としてラサ・アプソを献上していた。チベットでは魔除け、お守り、そして宝物のような犬だった。

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         (若き日のダライ・ラマ14世とラサ・アブソ)

 シーズー とラサ・アブソは似た容姿で、また、ペキニーズも同じく似ている。どの犬も祖先はチベットに由来しており、共に短吻種(たんふんしゅ)といって、鼻が短く、平べったい顔をしている。

 短吻種の犬は、人間が品種改良して作り出した容貌で、清朝では皇帝をはじめとする高い身分の人々だけの占有物、ステータスシンボルだった。

 シーズーが作られた目的は、伝説上の宗教的なシンボルであった瑞獣そっくりの生きた瑞獣を手に入れるためでした。 神社の狛犬や沖縄のシーサーは、中国の瑞獣から派生した神像なので、シーズーと似ているわけです。

 

 ところで、玉器や青銅器によくある古の瑞獣のイメージは、純粋に人間の想像から生まれたのかというと、実は、現実のモデルがあったのではないかと思っている。

 それは、かっては西南アジア全域に生息していたインドライオン。イランの国旗にライオンが描かれているのはペルシャの時代からの国のシンボル、イランにも生息していた。いまインドライオンはほとんどの地で絶滅し、インドの一部だけに生息している。

 そこまで遡ると、犬をネコ科の容姿に似せて品種改良したってことになる。なんか妙な話しです。・・・それなら猫を品種改良した方が手っとり早いと思うのですが、猫は犬のように躾けるのが難しく、宗教儀礼の一役を担うのは難しい。犬は寺院でマニ車を回す勤行をしたり、皇帝の葬儀で棺の先導役を務めるとかしていた。猫では無理。

 骨董で、インダス文明の彩色陶器や中央アジアの青銅器を集めていて感じたことですが、古代の中華文明の焼き物や青銅器は、西域の文明が伝わったものではないかと思っている(四大文明説は眉唾ってこと)。中華文明は、結局、西域のオリエントの文明から派生したんじゃないの?

 個人でアトランダムに集めてるので、体型的に網羅して言ってるのではないですが、発掘品を見比べていると、そんな印象を懐くようになった。

 横道に逸れますが、朝鮮の新羅の丸瓦、文様のデザインに惹かれて、いくつか骨董屋さんから購入したとき、日本の平安時代の丸瓦はこれの写し(コピー)ですよ、と言っていた。確かに博物館に同じものがある。

 さらに、その朝鮮の丸瓦を調べていくと、唐(中国)の写しなんですね。じゃあ、その唐の文様の由来は、と追っていくと、結局、オリジナルはシルクロードの向こうの西域の文様、その写しでした。インドで生まれた仏教(北伝)の伝来と同じような流れなことに気づく。神社の狛犬もそうなんだなと思う。

 

 シーズーやぺニキーズのような品種改良された愛玩犬の他にも、樹木の姿を人工的に変えて鑑賞する盆栽、宦官(かんがん)や纏足(てんそく)、盲舞は人間の身体改造だし、 中国の文化の底流には、 反自然というかアブノーマルな変形(トランスフォーメーション)に魅了される情動があるように感じる。

 漢心(からごころ)ってこういうこと、本居宣長が嫌ったのはこれだと思う。

 西域のインドライオンが中国で瑞獣になり、そういえばインドクジャクなんかも鳳凰になった。瑞獣をイメージした犬が作られ、その犬がイギリスに渡り、さらにお人形っぽく微改造されて現在のシーズーが生まれた。そして、その子孫が、日本でも朝夕、住宅街や公園を散歩している。

 

 先にシーズーがすごい犬だと書いたのは「犬葬」のことです。犬の葬儀のことではありません。チベットの鳥葬に因んで、とりあえず犬葬と書いた自分の造語。 

 鳥葬は、亡くなった人の遺体をハゲタカやハゲワシなど肉食鳥に食べさせる葬法。チベットでは昔から行われてきた。 犬葬は、犬に遺体を食べさせる葬法です。

 ラサ・アブソは、宗教的に格式の高い魔除けの犬だったので、高僧の葬儀のときにその役目を果たしていた。

 晴れた日の朝、公園の芝生で見かけるシーズー、ペットサロンできれいに身づくろいされ、トントン歩いている。 ぬいぐるみ人形みたいで、絵に描いたよう愛らしく、のどかな小市民的光景。

 キミ(シーズーくん)のご先祖は、人を食べてたんでしょ。もちろん全て人間の都合でそうなっていたので、人間界ってなんでもありなんだなと、つまり、人間界は善と悪、真と偽とか、どちらかに純化した世界ではないという意味に於いて、A級でもD級でもなく、中間のB級か、C級か、そういったところなのではないかと思う。

 

 犬の飼い主さんたちと話していて、犬と猫の両方を飼っている人もけっこういるのに気づいた。家の中で、人、犬、猫一緒に暮らしている。

 昨日、両方を飼っている年配の女性が、猫の方が頭が良くて、犬の行動の先を読んで、とおせんぼしたり、いじわるしてるのと言っていた。別の人からも同じような話を聞いた。猫より犬の方がおバカだと言ってました。

 犬の知能は人間の2歳児ぐらいだといわれる。人間を基準にした「知能」の物差しでは、犬よりも例えば、チンパンジーやイルカ、カラスとか、あるいは猫の方が高いのかもしれない。一方、精神活動の能力を比較する物差しは、もっと幅広いはずで、別の基準から見ると、犬の方が高いこともあるのではないか。

 というのは、常々、犬は共感性の高い動物だと感じていたからです。他人の体験する感情を自分のもののように感じとることを心理学の用語で共感と言っている、そういう性向のこと。

 心理療法のセラピー犬は、犬の共感性によって、辛い人の心を癒している。人よりも共感性の能力が高いともいえる。つまり犬と心が通じると、人間の側が感じられるからです。

 コロナ禍による巣ごもり生活で、この一年、犬を飼う人が増えている。可愛いからというだけではなく、人間の孤独感を犬の共感性が癒している。ご主人を亡くした年配の一人暮らしの女性が犬を飼っているのをよく見かけるのも同じ気持ちからだと思う。

 

 人間の中で共感性の高い人のことをエンパス体質と言っている。 どんな人が当てはまるかというと、基本的に敏感な質(たち)で、他人の思っていること、他人の体の痛み、辛さが分かる。他の人の気分の影響を受けやすい。映画や演劇を観ているとき普通の人以上に感情移入するといった人たちのことです。

 たぶん、程度の差はありつつも身のまわりに、そういうタイプの人はいるのではないかと思う。

 共感性は、持って生まれた体質とされているが、能力という言い方もできる。共感能力者(empathy)と呼ばれる。 他人の思っていることが分かるというのが昂じると、テレパシーのように見えるはず。言語を生みだす前の古代人は、互いのコミュニケーショを共感性に頼っていたので、現代人よりこの能力が高かった。言葉を使うようになって人間の共感性は衰えていった。

 3万年ぐらい前までいたネアンデルタール人は、言語を使っていたかはっきりしていない。確か、顎の骨格から言葉を喋ってはいなかった説の方が有力だという話になっていた。いまの人間の系統では、言語が生まれたのは10万年以内と考えられている。

 能力と言っても、共感性は、競争社会の中ではあまり生かしようのない能力ではないでしょうか。競争とは逆の方向に向かう能力ですから。

 

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ソラリスの海。茫洋とした「地球外生命体」らしきもの。抽象画っぽい。映画の特撮ですが)

 共感性について書いていて、東欧の作家スタニスワフ・レムのSF『ソラリス』を思い出しました。原著が出たのは1961年で、二度、ソ連(ロシア)とアメリカで映画にもなっている。

 ソラリスは、二つの太陽を持った架空の惑星で、表面を粘性のある海に覆われている。そして、その「海」が高度の思考力を持った生物のような活動をしていた。人間と地球外生命体とのファーストコンタクトの物語です。

 「海」は、人間の知識や論理では理解できない存在として描かれている。人間の想定してきた知性の枠外にある精神活動らしい。

 体、ボディがゲル状の「海」というのは、想定できなくもない。粘菌とかクラゲなどを思い浮かべれば、想像可能。脳、脊髄、筋肉のない腸だけの生き物が海の中に浮いているのがクラゲ。また、クラゲには前後や左右はないんですね。『ソラリス』以前にも天文学者フレッド・ホイルのSFには星雲状の知的存在が描かれていた。

 問題は、「海」の思考力の方で、こちらはボディよりも難しい。レムは、読者に人間の思考では理解できない思考の存在を示したかったと思うので、この場合、いくら考えても分からなくて当然。

 もし、向こうが人間と同じような思考をしていて、人類よりもっと進んでいるとすれば、遅れているこちらがいくら考えても解らないだろうし、晩年のホーキングは、近代の西欧文明と出逢った先住民のケースを引き合いにして危惧していた。つまり、人間は向こうに支配されてしまうか、滅ぼされてしまう。

 でも、人間の頭、思考で解るのは、自分たちと同等か、それ以下の存在だけなので、いくらホーキングが頭が良くても、ドングリの背比べで秀でてるぐらい(?)とすれば、やはりどうなるかは解らない。

 とりあえず、「海」は、自我のない、共感性のとんでもなく高い、そういった思考力(精神)を持った存在と解釈しました。人間でいえば、内臓系の心ということになるのではないか。中枢神経系(脳)の心ではなく、自律神経系の心が発達した存在。

 原作者のレムが共感性のことを意識して書いていたのかはよく分からない。そのイメージの断片、インスピレーションみたいなものは、あったと思う。

 人間が「海」にコンタクトを試みると、鏡の反射のように、自分自身の内面が戻ってくる存在、それが「海」の共感性=精神活動。・・・ここで自分自身の内面が戻ってくると書いているのは、小説や映画では、本人と過去につながりのあった人の姿(実は自分の化身)として現れるという話になっている。

 人間には、相手(「海」)の意思、意図が分からないのは、探ろうとしている相手は究極的には自分自身だからです。そういえば、ニコラス・ハンフリーという動物行動学者がゴリラの生態観察をしているうちに、自分自身の心を観ていることに気づく『内なる目』という本がありました。

 あるいは、古代ギリシャアポロン神殿の入り口には、つまりそこから先の神界に足を踏み入れる人間に対し、警告文として「汝自身を知れ」と刻まれていた。それと同じですね。

 「海」を探査するということは、いわば合わせ鏡の中に入り込んでいくのと同じ。自分自身の化身との共依存関係に陥っていく・・・悪夢っぽい。

 実は、人間はすでに地球上でソラリスの海(のようなもの)と出逢っていて、ラルフ・メッツナーという心理学者は、それをエンパソゲン( empathogen/共感をもたらす薬物)と呼んでいた。後にエンタクトゲン( entactogen/内面とのつながりをもたらす薬物)と呼ぶようになる。

 

 ところで、植物や鉱物にも意識はある、というか、言い方を変えて、植物の意識、鉱物の意識がある。人間の意識とは異なるタイプの意識。ソラリスの海もそうでした。

 地球内部の核・マントルは、単一の意識体のように思える。人間の寿命が長くても百年前後なのに対し、向こうは万年単位の時間で活動しているので、時間感覚が違いすぎて意思疎通はできない。 こちらが何か意思表示して、返事を受け取るのは400世代後では、ほとんど意味がない。

 意識は無機物にも生じるというところがポイントで、そうなると無機物のAIにも生じるのは時間の問題ではないか。

 地球の表面で生きている人間は、自我があるので一人一人別人ということになっている。でも、全体としての人類意識が醸成しつつあるように見える。人種や民族が違っていても人間は平等になってく反面、精神的には均一化したフラットな同じような人間になっていく。頭の中は集合知に統合されていく。この趨勢は、人類が群体生命化していく流れのように思える。どうもアリとかハチを連想してしまう。ネットはそれを加速させている。

 動物も植物も事実上、人類の支配下(保護下)にあるので、地球は、この先、核・マントル界と人間界という二つの意識体で成り立ってくようになる。

 とはいえ、人間界の方は、チンパンジーの祖先と枝分かれしたのが僅か600万年ほど前、核・マントル界と比べると春の夜の夢みたいな、今の繁栄は「瞬間的」な椿事。比べるのも野暮ですが、3,5億年の間、栄えたアンモナイトほどは長続きはしないと思う。

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           (ロシアの犬。頑張ってるって感じ) 

 

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富士山と貧乏飯と飯場料理

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 真冬の朝、手前の丹沢山地の奥に真っ白の富士山、見とれるばかりで言葉が出てこない。とってもいい。富士山の左の稜線に頂上が接しているのが大山(1252メートル)。

 小田急線の代田駅から撮りました。駅の崖下には環七が通っている。駅前の正面、西の天地が大きく広がっていて、なにも富士山を遮るもののない絶好のビューポイントです。

 代田の駅は、下北沢から上ってきた台地の端っこにあり、この辺りがピーク(標高46m/駅前)、次の梅ヶ丘駅(標高37m)にかけてぐーっと下っていく。写真中央の建物が梅ヶ丘駅の近辺。その標高差、大したことないように思われるかもしれませんが、平野の真ん中なので

視覚的にはずいぶん下ってるように見える。

 

 改札口を出ると、視線の真正面に地平線から純白の台形が突き出ているのが否応なく目に入ってきて、思わず足を止める人たちがいる。見ているここは武蔵の国、手前の丹沢山地は相模の国で、富士山の山頂は駿河と甲斐の国境、こう書くとずいぶん遠くに思えてくる。

 左の端の黒っぽい樹木はケヤキ、冬は葉が落ちて樹形がはっきり分かる。街のビルやマンションよりも高い大樹になる武蔵野の代表的な木。ケヤキの幹、枝の黒いシルエットに冬の武蔵野の風情を感じている。

 富士山は、白色の台形、それに抜きんでた高さの独立峰、別格の山容スケール、なんか出来すぎで、造り物っぽくもあり、巨大なオブジェのように見える。考えてみれば、ふつうの山っぽくない奇妙な山です。

 

 そうでした! 『日本百名山』(深田久弥)の富士山の紹介文に、この山は世界に二つとない特徴があると指摘していました。それは稜線のライン(線)で、「頂上は3776米、大宮口は125米、その等高差を少しのよどみもない一本の線で引いた例は、地球上に他にあるまい。」と書いている。

 「地球上に他にあるまい」・・・そこまで書かれると急にすごい山に思えてくる。

 確かに、富士山の稜線は、独立峰で見た目、棒線というか長い直線なんですね。日本の他の山、あるいはヒマラヤやヨーロッパ・アルプスの山の稜線とは異なる。独立峰の山容ということでは、アグン山とかポポカテペトル山は似ているが、どちらの稜線も富士山のような直線ではない。

 本にはまた「(富士山の稜線の)そのスケールの大きさ、そののんびりとした屈託のない長さは、海の水平線を除けば、凡(およ)そ本邦において肉眼をもって見られ得べき限りの最大の線であろう」(小島鳥水)とある。

 なるほど、稜線の「線」に着目してるわけですか。ふつうの山っぽくない奇妙な山と書きましたが、富士山は左右の稜線が直線で、上が水平の直線・・・つまり台形なので、自然の山の類型化したイメージから外れてるんですね。

 自然に直線は存在しないというイギリスの造園家の言葉がありました。富士山の姿は、反自然的な景観ということですか。奇妙な山に見えたのが分かってきました。

 直感は統合された感覚なので、富士山を眺めていて全体としてなんか奇妙に感じられても、分析的に見る眼ではなかったから、その理由が分からなかった。それを指摘した文章を読んでやっと気づきました。

 

 前回、最後に「(江戸時代の)庶民の贅沢」を紹介したとき現代の庶民の贅沢についてもふれた。実は、書いていて少し違和感がありました。

 格差社会といわれる現代、庶民といっても幅広いわけで、自分も含めて知り合いは、だいたい庶民の中でも下の方。たまに美味しいものを食べ、ちょっとした旅行にいく、そんな庶民の贅沢を楽しむ余裕もあまりないのが実情。そんな人たちのことです。

 貧すれば鈍すという格言がある。でも、なかには貧にして楽しむ(論語)みたいな人もいるのではないか。

 思い浮かべるのは、北宋文人、蘇東坡のことです。流罪に遭いながらも窮乏生活の中で、 自然を愛で、 詩文を作り、書画を描き、友とつきあい、ついでに東坡肉(中華料理)を考案した人。

 ああ、蘇東坡は士大夫でした。つまりエリート。でも、そんな特別な人じゃなくても、凡庸な庶民の中にも貧にして楽しむ人がいるのではないか、日々、生きることの中に楽しみを見つけること。心の持ち方次第で、いくらでも開けてくるのではないか。

 「へうげもの」の登場人物、 茶人の丿貫(へちかん)のようなノリならそんなに難しくないんじゃないか。別に人と比べてどうこう気にすることでもなく、要は、自分の気持ちが充足できればそれでいいのですから。

 今回は、三界の中では欲界、ドロドロした話しが多く、ちょっと気がひけるのですが、まあ、人間界はいろいろあるので、これもその一面ということで。

 

 アパートで一人暮らしの友人がいる。仮にAさんとしておきます。電話でときどき雑談している。いかに安上がりに暮らしていくか、そんなことを日々、研究している人で、当然、自炊。玉ねぎ10キロを600円で買ったので分けますよとか、トビウオが山盛りで安かったですが持ってきませんかとか、浮世離れしたところ、常ならざるところが面白い。

  経済力はないけど、生存力があるというのが個人主義者(?)Aさんの生活パターン。 かってアジアやアフリカの途上国を貧乏旅行していた旅の知恵が身についていて、今はそれが生存力に転化している。

 普通の人だったら鬱になってもおかしくない状況なのに、そうならないのは、本人の資質もあるでしょうが、バックパッカー時代に生存力を鍛えられたことが大きい。窮すれば通ずですね。そんな旅の体験がAさんの財産になっている。

 Aさんのしぶとい生存力を見ていると、大地震があっても核戦争が起きても、飢餓や疫病、なにがあってもこの人は生き延びるような気がする。都市生活者型のサバイバリストというか、要は、コアな個人主義者、別の言い方をするとエゴイスト。

 ・・・ちょっと横道に逸れます。自分はいくつもの危うい状況を、例えば戦場でも超えてきましたが、生きているのは、偶然の要素が大きかった。正直、能力も生存力もたいしてないなと思っている。

 何度も偶然に助けられ、ある場合は、偶然、見知らぬ人の好意で助けられた。そんな偶然が繰り返されると、偶然x偶然x偶然・・・と確率的には理解できなくなり、神仏の加護のようなものを感じられざるを得なくなってきた。幻覚とか幻聴の類ではなく、経験科学から導き出された結論のようなものとして受けとめている。だから神仏といっても、別に、特定の宗教ってわけではなく、超越的な何か。自力の信仰ではなく、他力の信仰に近い。

 なにが言いたいかと言いますと、人はいろんなパターンがあって、ここでは生存力を持ち上げてますが、それにこだわることもなく、自分のパターンでやりましょうよ、ってことです。 

 

 Aさんの生存力の一例、なんか可笑しかった話しです。Aさんは、エジプトで、滞在費を稼ぐためにテレビドラマに出ていた。演技経験はゼロ、それでも出来る役があった。

 エジプトでは、イスラム教の戒律に反した人間=ならず者という社会通念があるので、酒を飲んだり(実は水を飲むだけ)、女性にちょっかいを出す(ふりだけ)、それで悪役が務まった。極悪というよりは醜悪の方の悪。

 テレビの視聴者にとっては、法律を犯した人=犯罪者よりもイスラムの教えに反する人間の方が嫌悪すべき存在で、現地の俳優はイスラム教徒なのでそういう役はやりたがらない。そこでお鉢がまわってきたわけです。

 イスラエル軍の兵隊とよく似た軍服を着て出演したりもしていた。当時は、第四次中東戦争の記憶もあって、エジプトの人々にとってイスラエルは憎き敵、その兵隊は鬼畜という目で見られていた。

 えーっ、日本人では顔つきが違うんじゃないかと思うのですが、向こうのテレビはあんまり細かいことは気にしない作りだった。後にふれますが、本人の容貌がそんな役に向いていたこともある。

 カイロの街を歩いていると、テレビを観ている子供たちがあーっ、怖いと声を上げるぐらい顔を知られるようになっていた。

 ・・・そういえば、天本英世という俳優さん、死神博士とかムー帝国の長老とか演じてカルト的な人気ありました。画面の中の天本さんは、不気味な容貌、偏執者というかエキセントリックな雰囲気、存在自体が非日常的だった。

 並の悪役にとどまらない特異性として、世界征服の陰謀を企てている悪の秘密結社の首領みたいな荒唐無稽さが味でした。今だったらQアノンの陰のリーダーといった感じ。

 一時期、仕事の用事で三宿にいくことがあった。・・・また横道に逸れますが、交差点の近くにある古本屋、江口書店には子供のころ毎週、通っていた。レジの台に高く平積みされた本が何列も連なり、本の壁が出来ていて、その奥のコックピットみたいな隙間に店主のおじさんが座っていた。

 昭和はじめの円本が新本のようにたくさんあって、本を開くとページから戦前の匂いがした。ちょっとすえたような静謐な匂い。

 あれから月日がたち、店主さんは亡くなり、最近、通ったときは店のシャッターが閉じたままですが、聞くところ、あの店は古本屋業界(?)のレジェンドになっているようです。

 通りに面したファミレスに入ると天本さんがよくいました。そこを事務所代わりにしていた。特異な風貌なのですぐに分かる。挨拶するぐらいでたいして話さなかったけど、ごく普通の人でした(当たり前)。

 いま結びついたのですが、Aさんの容貌、天本さんに似ているのに気づいた。ともに180センチ以上の長身で痩せ型、彫りの深い顔つきの細面、世界共通なんでしょうか、視聴者の想像力を膨らませるのにうってつけの容貌。・・・なんの話しをしてたんでしょうか? ええと、貧乏飯の話しでした。

 

 毎日、何を食べているか、Aさんの貧乏飯の聞いていると、本人にとっては必死にやっていることでしょうが、聞いている方は、いかに安く食べるかの工夫を楽しんでいるような感じです。巻頭でふれた蘇東坡に通じるところがある。

 蘇東坡の創作といわれる料理、東坡肉は、いまは中華料理の定番の一つになっていて、沖縄のラフテーもこれから派生した料理という説もある。しかし、その時代、豚肉は卑しい食べ物と見なされていたとか。東坡肉はそんな食材を使った貧乏飯だったわけです。

 Aさんの家の台所にガスはない。カセットコンロで煮炊きしている。ガスボンベは安売りの店で3本で200何十円、夏は一週間に2本、冬は3本使うとか。ガス代よりも安くすむ。

 以前はコンビニの弁当、レトルトや缶詰を安く買えるときに食べていたが、5年ほどそんな生活を続けているうち、体調を崩し、体のあちこちが痛くなってきてやめることになる。安いだけで不健康な食だった。

 今は、自転車で新大久保までいってハラルフードの店で豆を買ってくる。レンズ豆、ウズラ豆、ヒヨコ豆など1キロ200円で買える。炭水化物の米やパスタ(小麦)を控えめにして、ビタミン、ミネラルの豊富な豆を増やす食生活。肉や魚は食べなくなった。

 貧乏飯として豆に目をつけたところ、Aさんでなければ思いつかないのではないか。

 中東には豆を使った料理が多い。インドのダールもそう。フムスも、と豆を食材としてよく用いる文化圏ではいろいろな料理がある。

 Aさんは豆を煮て、味付けはいろいろ、塩、味噌、スパイス、卵など選んでを入れている。

 ついでに、卵って、都会生活のサバイバルでは最も重要な食材かも、最近、そんな場面に出くわした。ホームレスで、小さな公園を拠点の一つにしている人がいる。

 その人がスーパーで買ってきた食料、それが生卵でした。なるほど、 価格と栄養価のコストパフォーマンスでは、卵がいちばんだし調理する必要がなく、そのまま飲み込めばいい。ギリギリの現金で卵を選んだのは、生活の知恵なんだなと思った。

 ついでのついで、荻生徂徠の貧乏飯ってのもありました。若いころの貧乏生活で、三食、豆腐のおからを食べていた。また、戦後の食糧難の時代、配給の食パンに味噌をつけて食べていた小説家とか、こういう話し、探していくとたくさんありそう。

 

 ハラルフードの店で売っていた豆の話し、すらすら書いていますが、Aさんは、自転車で都内の食材店を探しまわり、価格と栄養価の両方を考え、試行錯誤を繰り返した末、この貧乏飯にたどり着いた。

 予々、Aさんの生存力、凄いなーと思っているので、そのAさんの結論なら、これこそ究極的な貧乏飯だと思っている。

 

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(ロシアのナマズ。どーんっとしている。本文とは関係ありません) 

 近所のおじさんで、朝、ときどき話をするBさんは、昔、テキ屋をしてたり飯場を渡り歩いてきた人。やはり一人暮らし。先週、雑談していたら、飯場にいたころナマズを獲ってきて鍋にしたと言っていた。

 実は、以前からナマズ鍋にはこだわりがあったので話しに引き込まれた。というのは「怪談蚊喰鳥」(1961年、大映)という映画のワンシーンがずっと記憶に残っていたからです。

 怪談物なのに、いつまでたってもお化けが出てこない変な映画でした。どんな話しかというと、「大映が真夏に放つ『怪談蚊喰鳥』は人間の業ともいうべき、凄まじき物欲と色欲に対するあくなき執着が巻き起こす悲劇を描く」(角川映画の説明文)・・・これだけでは、なんだか分からないけど、ドロドロ凄そうなことだけは分かる。

 大映は、有名なワンマン社長がいて、その人の好みだと思うのですが、愛欲がらみの因果話しと仏教の教えが混濁した変な映画がたくさんある。浅草の映画館でよく観ました。

 この映画でいちばん印象的だったのは、沼から獲ってきたナマズを調理するシーン。葦の茂ったジメジメした沼にいるナマズを獲ってきて、長屋の土間で調理する。 モノクロの映画で、それが土俗的なイメージを膨らませている。

 それから、包丁でナマズをトン、トンと輪切りにして小ぶりの鍋に放り込む。七輪の上に鍋をのせ、下から団扇でパタパタして煮込むシーン、あの鍋は飯田屋のドジョウ鍋と似ているなと思いながら、見ていて無性に食べてみたくなった。

 以来、いつかあんなナマズ鍋を食べたいと思っているのですが、実現していない。

 

 Bさんは、千葉の飯場にいたとき、近くの用水路にナマズがいるのを見つけ、ミミズを餌に釣ってきた。 30センチぐらいのナマズが15、6匹獲れた。

 飯場では、お金は盗まれるはろくな奴がいないからナマズのいる場所は秘密にしていたとか。キノコ採り名人が松茸山のポイントを他人に隠しているみたいな口調。

 じゃあ、だいたいどの辺りだったの? 聞いたら、う〜ん、と悩んだ末、取手の競輪場の近くと告白。・・・ああ、これは競輪にハマってたのをバレないように口籠もってたのかも。世間の目からすれば、Bさんはお金が入れば朝から酒とパチンコ、競輪、競馬で擦ってしまうダメ人間なわけですが。

 調理はシンプル。まず水桶に入れて泥を吐かせる。それから飯場の台所で頭とハラワタを除けて、輪切りにして鍋で煮るだけ。飯場で作っているから飯場料理。

 「ぶつ切りの肉の山もり鯰鍋」(俳人・野村喜舟)・・・こんな感じですね。

 粗塩をつけて食べる。味は聞いても、美味しかったよぐらいで、はっきりした言葉が出てこない。もともと寡黙な人なので、あんまり言わない。その分、聞いているこちらは夢が膨らむ。

 勝手に飯場料理と言ってますが、他にもテキヤ料理もそうで、粗野な中にも常民の日常的な食とは異なる非定住民の食の遺風を感じている。潜在的な意識の領域のことではっきり言い切れないですが、映画のナマズ鍋に土俗的なイメージを感じたのもたぶん源泉は同じ。それがいっそう夢を膨らませている。

 

 ところで、ナマズってそんなに簡単に獲れるんでしょうか? 素人が手作りの仕掛けで獲れるのか。聞けば、Bさんは、子供のころ小学校にはあまりいかず、裏山でメジロ、ウグイス、ヒヨドリなど野鳥を獲ってきては、道端で鳥を売っていた。通りがかりのトラックの運転手がメジロを買ってくれたとか。そんな生活をしていたので鳥や魚を獲るのはお手のものだった。 

 今の感覚では、小学生が学校にいかず鳥を売ってるのって変な話しですが、昭和の高度成長の頃までは、そういうこともあったんですね。

 そういえば、戦争中、ビルマ戦線の極限状況を生き延びてきた人で、野鳥獲りの名人がいました。田圃でウナギを手で獲ったりするのも上手、ジャングルで、鳥や魚を獲っていた技が身についていた。

 カスミ網で獲ったツグミが焼き鳥屋に並んでいて、スズメの焼き鳥もふつうにあった時代、鳥を捕まえ生計を立てていた人たちがいた。

 伊豆の山で鳥黐(とりもち)を使ってメジロを捕まえ、こ使い稼ぎにしていた。今は違法になっていますが、そのころは、メジロの鳴き声を競いあっていた趣味人たちがいて、メジロは愛玩用に売り買いされていた。

 お金が入ると、各地の公営ギャンブル場をまわっていた。インパール作戦は、兵隊の8割が死んでいて、補給が途絶え餓死者が多い。帰国はできたけど、人間が壊れ、変わってしまった人でした。いま振り返ると、嬉々として競輪場や競艇場を渡り歩いていた姿、本人にはそれが地上天国だったのかも。

 

 貧乏飯のAさん、飯場料理のBさん、共にいまの日本社会の中ではマイノリティー的存在かもしれない。でも、窮すれば通ずの人生体験を通して得た知恵で楽しみを見つけていました。・・・今回、通して読むと、富士山の話から、エジプトの悪役、ハラルフードの豆、怪談映画のナマズ鍋、飯場メジロ獲りと話しの流れが支離滅裂、毎度、そんな感じで申し訳ありません。

 

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蝋梅の香り/寒ボラの臍(へそ)/江戸前の鮨

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 陽が少し長くなってきた。宵の口、東上野の寺町を歩いていると、ふわっと仄かに甘い香りが漂っている。道路脇にある小さな寺の庭の蝋梅(ロウバイ)でした。

  蝋梅の花大寒のころに咲く。毎年、この香りを聞くと、新しい一年が動き出したんだなと感じます。

 蝋梅は、梅の字が入っていますが、梅とはまったく別の潅木。蝋細工のような半透明の黄色い花びらと甘い香りが特徴。半月遅れぐらいに開花する梅の香りは、濃密な艶のある甘さですが蝋梅の香りは清楚で透き通った甘さ。

 息をしていて感じました。寒い日の冷えた空気と蝋梅の透き通った香りは絶妙に合っている。季節が温かくなって空気が緩んできたら、このシャープな香気はぼやけてしまう。

 寺のお堂と住居はつながっていて、戦前の民家のような造り。 周りを囲んでいるビルは夕闇に溶け込み昏くおぼろげ。街はコロナ禍で人も車も少ない。このあたりは、かって空襲で丸焼けになっているのですが、この一角には戦前の面影が残っている。少し歩けば浅草、昔の浅草の芸人さんたちはこの近くの長屋に住んでいた。

 蝋梅の香りに惹かれ、足をとめていると、ここは・・・と言っても僅か数メートル四方の空間ですが、過去の日本が途切れることなく続いているスポットのように感じました。

 

 昨日は、鮮魚の店に寒ボラが出ていた。ボラといえば唐墨(カラスミ)が有名。でも、それ以外、刺身や煮魚では身に魚臭さがあることや、都会の汽水域にいる魚といったイメージで退いてしまう人が多い。釣り人もボラは雑魚以下の扱い。

 お台場のビルの屋上から湾岸の向こうの冷凍倉庫や物流センターを眺めていると、海面からよくピチャと跳ねている魚。浅草の吾妻橋のテラスで休んでいると、川面の下に泳いでいるのが見える黒く大きな魚。都会の真ん中で見かけるので、どうも刺身の魚とは結びつかない。

 店先で見ていると店の人、「寒ボラは臭いが消えていて洗いか、刺身でもいいんですよ、大阪湾で獲れたボラ」と話しかけてきた。 けっこう大きい、50センチぐらい。値段は高くない。

 ん~、まあ、食べたことないので持ち帰ってきた。美味しそう、珍しい、安いからとかではなく、食べたことないからという消極的な動機、このパターン、だいたいは外れるのですが、今回は、当たりでした。

 

 寒ボラ、なかなかよかった。三枚に下ろし、刺身にして食べたら美味しかった。しっとりとした身、ちょっとアジに似ているが、アジの脂っ気、クセがない。

 食べた後、口の中に豊潤な旨味の余韻がしばらく残っていた。後から思い返すと、この旨味の余韻がボラの刺身の醍醐味だと思う。

 調べると、昔は、江戸湾で獲れる代表的な魚の一つだったようです。「鯔背(いなせ)」や「鯔(とど)のつまり」といった言葉の語源はボラ(鯔)に由来している。江戸時代は、それぐらい身近な魚だったわけです。

 同じく汽水域にいるスズキもそうですが、今は、格下に見られているけど、江戸前の鮨(のネタ)は、こんな味なのかもと想像した。スズキは旨味はあまりないですが、身の口当たりが柔らかくさっぱりしているところ、ボラと似ている。

 

 そしてボラのヘソ(臍)、本当はヘソではなく幽門という胃の筋肉。見た目、そろばん玉のような、人間のヘソを大きくしたような、よく命名したなと思う。

 茹でて食べたら、実に美味しい。 これは珍味と言われてる。 イカのクチバシ(とんび)ような、サザエの肉質部のような濃密な美味しさ。筋肉繊維の発達した部位のタンパク質の味だと思うのですが、この美味しさは新発見でした。

 さらに残ったアラで出汁をとり、それに市販のカレールー、豚肉、野菜を入れてカレーを作った。これも美味しかった。旨味のカレーをイメージして作ったのですが、まさにその通りの絶品。インドやネパールのスパイスのカレーとはまた違う美味しさ。 そう、昭和の蕎麦屋さんのカレーを濃密にした味です。

 

 ボラの刺身から、ふと江戸前の鮨の味に想いをはせる。江戸前と呼ばれる範囲は、だいたい東京湾隅田川の河口から羽田あたりの海(これは狭義、旧江戸川でもいいのですが、とりあえず) といわれているので、そこで獲れる魚をネタにしている。

 いまは、都市の一部になっている海で、工場や生活排水、埋め立て、それに3.11の影響を気にしてる人もいるし、そこで獲れる魚の刺身を珍重しているという人はよほどの変わり者。今、江戸前の鮨を謳っている店のネタは、他の海で獲れた同じ種類の魚で、まあ、当然でしょうか。

 江戸時代、趣向をこらした上方の鮨と違い、江戸前の鮨は、酢飯に刺身を載せて握るだけ、ほとんどネタで決まる素朴でシンプルなもの。その昔、発酵食品だった元々のすしとは別物だし、考えてみれば原始的な料理だと思う。

 

 ところで、いま江戸前を謳っている鮨屋さん、本当に江戸前の鮨を知っているんでしょうか。素人の自分が、釈迦に説法みたいな話で、気が引けるのですが、ボラのいきがかりで、そんなことも気になる。

 というのは、これが江戸前の鮨と言ってても、実際に江戸時代に鮨を握っていた人も食べた人も、もういない(あたり前)。だから先代から伝え聞いた話しとか、文献に書いてあることを基に江戸前と言ってるわけですよね。

 当事者が直に体験、見聞きしたことを語っているのが一次情報。それを元にして作られたのが二次情報、孫引きが三次情報・・・。一次情報だって、見間違い、記憶違い、書き間違い、さらに嘘や誇張が混じってることがあるのに、それをコピーしたり編集して作られる二次、三次情報を基にして言ってる話し、どこまで信じていいのか?

 嘘といえば、旧石器時代の石器の発見者や慰安婦問題で証言した人物とか、共に本人の捏造なのですが、時代に大きな影響を与えた人がいた。なんと言えばいいのか、ほんとに困った人たち。

 一方、そんな困った人たちにコロリと騙されてしまった人たちの側、考古学者やメデイアの記者にも問題あるんじゃないか。だって、骨董の商売人同士だったら騙された方が甘いってことだし、諜報のプロ同士の場合も騙された方が愚かってことでしょ。だから考古学者や記者がアマチュアレベルだってことだと思うわけです。

 ・・・ちょっと横道に逸れますが、蒋介石が晩年、自伝を書いたときに言ってた言葉があります。曰く、この自伝に嘘は書いていない。でも、自分の全てを書いてるわけではない。なるほどね、と思いました。

 書いていることは全て本当だけど、全てを書いているわけではない。都合の悪いことや隠したいこともあると認めているわけで、それが本人なりの誠実さだったのかもしれない。

 また、自らの志として知っていても書かない、公にしないという人もいる。倫理観というか、節(せつ)、生きざまの美学っていうのでしょうか、「政治犯」の中にそんな人がいる。

 一次情報で確かな情報だとしても、それ以外に自主規制している情報もあって当然と見ています。

 手元にある本を調べてみましたが、江戸前の鮨のネタについて、自分が知りたいと思っているような情報は載っていなかった。ネットには、あるにはあるのですが、有名な『守貞謾稿』の孫引きのような三次情報が多い(全部はチエックしてません)。

 ネタの魚は、ざっくりアナゴ、サヨリシラウオ、ヒラメ、タイ数種類、キス、アジ、コハダ(コノシロ)の名前が上がっている。

 ついでに一言。浅草川(隅田川)の海苔とシラウオは江戸名物としてよく知られていた。

 刺身としては、総じて比較的淡白な、しつこくない味、今の日本人には物足りなく感じられる味といった印象。といっても、昔の人と現代人では、味覚も違っていたはずで、昔の人たちには違う味に感じられていたのかも。

 肉食と化学調味料、それに食品添加物、防腐剤、人工着色料などを摂って育った今の日本人の味覚と、江戸時代の人の味覚は、違っているはずで、同じものを口にしても感じる味にずれがあると思うわけです。

 また、日本の伝統的なスパイス(薬味)は、サッと抜けていく風味がメインなのに対し、昭和の後期から根付いてきた南の地のスパイスははっきりした味の強さで、日本人の味覚に影響を与えている。近年、トウガラシの激辛の食べ物がもてはやされていますが、激辛の味に舌が馴染むことで新しい味覚を覚える一方、その副作用(?)として昔の日本人の味覚が分からなくてなってしまうのではないか。

 そうなると、今の日本人には、ほんとうの江戸前の味は分からないということになってしまう。行き止まりになるので話しを変えます。

 

 ところで、上に列挙したのは、当時の有名店で握られていたネタで、ふつうの江戸前も同じ種類の魚だったのか、そんなことも気になる。

 ネットを検索すると、「東京湾でよく釣れる魚ベスト10」というテレビ番組の情報があって2つは重なっている。重なっていない8種も刺身でも食べる魚なので、実際は、もっといろんな種類の魚が江戸前のネタになっていたのではないか。

 なんでこんなこと書いているかといいますと、ボラの刺身がけっこう良かったので、ボラを贔屓して、江戸前の鮨のネタだったに違いない、と思ったのですが、そういう話が見つからない。

 見つからないのは、現代の江戸前鮨屋さんも、釣り人もはなからボラを相手にしない、無視というか差別(?)してるからなのではないか・・・なんか、くだらないこと書いてます。

 江戸には町に一、二戸の鮨屋があったそうです(『風俗辞典』1957、東京堂)。江戸の町の数は1600~1700なので、2000戸を越える鮨屋があったことになる。

 武家と寺社の領地を除いた庶民の住んでいるエリア(江戸の面積の15パーセント)にそれだけの数の鮨屋があったってことは、その多くは屋台かと思いますが、けっこう多いなと思う。

 自分の定義では、そういう店で食べられていたのが、ほんとうの江戸前の鮨ということになる。

 冷蔵庫、車のない時代、ネタの魚は、海で獲ってから痛(いた)まないうちに店まで運ばなければならない。江戸のエリアは大まかに三ノ輪から品川を直径とした半円内なので、陸上げされた魚を数時間でどこの店にも届けられたはず。もちろん徒歩で運んでいた。

 江戸前鮨(=握り鮨)は、短時間に生魚を店に供給できるシステムの整った都市だから生まれた料理だと思いました。前近代の世界では、日本以外の国では生れようのない風変わりな料理だとも思う。

 江戸で握り鮨が生まれ、また庶民に受けたのは「江戸っ子は、好んで鮮魚を食う。三日食べないと骨と肉が離れると言っている」(『江戸繁盛記』寺門静軒)ということが大きかったと思う。 

 生魚好みの嗜好は、日本が国として成立する以前、黒潮に乗ってやってきた南の海洋民、最初は房総半島の先っぽに上陸した人たちかと思いますが、それから浅草あたり(その頃は海岸線が浅草や向島まで入り込んでいた)にたどり着いた人たちの食習慣だったからではないか。 

 江戸で生まれた握り鮨は、庶民が屋台でささっと食べるもので、魚の種類は先にあげたものより、もっと多様だったのではないか。それが江戸前の鮨の実情ではないかと思うわけです。

 でも、そういう当たり前の日常のことは、あまり書き残されていない。記録に残っているのは、有名な料理屋の話しで、それはそれでいいのですが、実情は、いろんな生魚、もちろんボラも、その刺身を酢飯の大きな塊に載せ、さっと握って出していたのではないか、そんなふうに想像している。

 

 ついでに・・・江戸前の鮨を本で調べていたとき、江戸時代の食生活で、へーっと思った話がいくつもありました。その中から三つほど引用します。

海鳥の作る鮨

 「ちなみに海の鶚(みさご)が海岸の巌などに貯え、自然に潮水で熟した小魚は、鶚鮨と呼んで、昔から漁夫たちがとりに出かけたものであるが、酢の味に似ていたという。」(『風俗辞典』1957年、東京堂

 これは『甲子夜話』に書かれている話を紹介したもの。大分には、鶚鮨をまねて生まれた鮎の竹鮨という郷土食があるとか。

 そういえば、夏になるとクヌギの樹液が茎のくぼみに溜まって発酵し、あたりに芳香を放っている。要するに猿酒です。

 毎日、近くを歩いているので気になってしょうがなかった。野外の樹木だし、木屑や小さな羽虫、カナブンがくっついていて口にするのはちょっと。でも、何日目か、好奇心を抑えきれず舐めました。けっこう美味、そのうち書いてみます。

 

サルやオオカミも食べていた

「近所の獣肉屋へときどき狼や猿を売りにくる甲州辺の猟師が、この頃も江戸へ出て来て、花町辺の木賃宿に泊まっている。」(『岡本綺堂 江戸に就いての話』1956年、青蛙書房)

 当時、肉食は一般的ではなかったですが、 江戸には獣肉屋が何軒かあって、両国のももんじ屋という店だと思われる。この店は、創業300年を越え、現在も営業しているんですね。

 調べていたら1971年、大阪万博の翌年に出版された本に、当時、この店ではサル鍋が食べられていたと書かれていました。もちろん今はもう出していません。

 ジビエは知っていても、それはシカとかイノシシのことで、オオカミやサルって、食べるってこととは全く結びつかなかった。えーっ!という感じ。

 寺門静軒の『江戸繁昌記』には、幕末の天保のころには「山鯨」の看板を出した店が数えきれぬほどに増えていたとか。肉屋さんのことですが、いまと違うのは家畜の牛や豚はなく、獣肉だけで、イノシシ、シカ、キツネ、カワウソ、オオカミ、クマなどが並んでいた。

 時代小説には犬を食べる話が出てくる。でも、オオカミは知らなかった。オオカミはすでに絶滅していますが(生存説もあり)、オオカミやサルを食べるという発想、なんか奇異というか変な感じで、言葉にできない不可解さ。いまのところ、今年、いちばんビックリした話しです。

 頭を真っさらにすると、中・大サイズの動物という括りではみんな一緒なのに、別物とみなす固定観念が刷り込まれていたってことでしょうか。物事を枠にとらわれず考えているつもりで、案外、死角というか、枠にとらわれていたなと思う。

 

庶民の贅沢

 「とにかく鰹魚(カツオ)、鰻、白魚(シラウオ)を食うなどという事は、いずれも食好みの贅沢の中に数えられていた。」(同上)。

 「むかしは鰻を食うのと駕籠(かご)にのるのとを、平民の贅沢と称していたという。」(同上)。 

 むかしというのは江戸時代のこと。岡本綺堂は明治5年生まれ、両親は江戸時代の人です。岡本綺堂は江戸時代の生活を知っている人たちから「むかし」の話しを聞いていた。

 平民は、庶民のこと。駕籠は現代でいえばハイヤーでしょうか、あるいは旅行、当時は遠方の地にお参りにいくことでしたが、そんな意味も含まれているのかも。輸入した鰻はスーパーに並んでますが、国内の天然ものは昔よりも高級品になっている。

 たまには美味しいものを食べ、ちょっとした旅行にいく、そんな感じでしょうか。

 庶民の贅沢は、科学・テクノロジーの領域を除くと、江戸時代と現代、それほど変わっていないようにも思える。庶民は昔も今も慎ましく暮らしていて、たまにささやかな贅沢を楽しむ。100年、200年後の未来もそんな感じかも。

 21世紀に入ってから人間は、ネットやスマホ、ゲームなどバーチャルな世界の方にもっていかれてる。今後、地球規模で富の不均衡の是正が行われ、人類の平等化が進むと、また、世界人口はしばらく増え続けるわけだし、さらに環境問題もあって、この傾向はさらに磐石なものになっていくはず。

 キューブリックは、映画を観ているときの人間は夢をみているのと同じリアリティにいると言ってました。思うに、20世紀はじめの映画の発明は、人間界をバーチャルな世界が侵食しはじめる嚆矢だった。半世紀後、テレビが普及する頃になると現実とバーチャルが拮抗し、世紀末、インターネットになると現実を超えてきた・・・この1世紀は電化の時代だったんだなと思う。

 ということでは、人間世は現実の代償として夢の中で贅沢をする方向、マトリックス世界というか、そっちに進んでいるように思える。

 ・・・一方、そもそも贅沢ってそんなに魅力的なんでしょうか? 贅沢とは縁のない生活をしてるから言ってるわけではありませんが、慎ましい暮らしでも楽しいことや面白いことはあるので、それで十分という気持ちです。

 

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今年、いちばんのキレイ&いちばんのビックリ

 2020年も残すところあと2日。今年は新型コロナで大変でした。

 2月の中旬、横浜港に停泊したダイヤモンドプリンセス号のニュースが連日、テレビで報道されていたのがずいぶん昔のことのよう。あれから春、夏、秋そして冬と季節感の欠けたのっぺらぼうのような日々が過ぎていった。

 

 6月、浅草の地下鉄銀座線の改札口を出てすぐの地下商店街にあった「たんぼ」が閉店した。この店の名物は肉豆腐。 旦那さんが亡くなられてから女手一つで店をきりもりしてきた。肉豆腐定食は昭和の味がしました。

 それから湯島の「天久」の閉店。湯島坂下から不忍池の方にちょっと行った所で、江戸風のごま油で香ばしく揚げた天ぷら、この店の天丼、濃いめのタレとご飯の相性が格別旨かった。 また、神保町のキッチン南海、ずっと行ってないまま閉店のニュースをテレビで見ました。

 近所のすし屋さんが唐突に閉店した。実は一度も入ったことはなかったですが、深夜まで頑固おやじ風の店主一人でやっていて、いつも帰るとき煌々と明かりが灯り、のれん越しにお客さんの姿が見えた。

 世田谷通りの信号待ちをしているとき、並木の銀杏の向こうに店が見え、毎日、今夜はまだ空いているな、今夜は遅くまでお客さんが多く賑やかだな、と目に入ってきてしまう。いまシャッターの降りた暗い店を見ると、自分の世界の一部が消失しているように感じる。

 コロナ禍は、個人経営の飲食店にとってほんとに酷、そして世代交代の流れ=時間を加速させている。人間世の常で遠からず引退するにしても、もう少し先までは残ったはずのものが消えていった。

 

いちばんのキレイ

 9月中旬、空が高くなってきた秋晴れの朝、近所の路地を歩いているとき目にした鈴なりの赤い棗(ナツメ)の実、今年、いちばんキレイだなと思ったのはこれでした。

 この路地は真っ直ぐ西の方角に延びている。歩いていると、路地に面した家の庭に大きなナツメの樹が植わっているのが目に入る。二階建ての家屋よりも背が高く、茂った枝に熟した実が覆うようについていた。

 東から朝陽がナツメの樹に真っ直ぐに当たり、赤い実も緑の葉もキラキラ輝いている・・・別になんということもない景色に思われるかもしれませんが、ちょっと違うんです。 

 ナツメの表皮はツルツルで光沢のある赤、最も赤のよく出ている珊瑚の色で、そこに光が当たるとまるでガーネットの粒のよう。また、なかには、所々、萎んだへこみのある実もあって、へこみに光が当たると乱反射して白光に瞬くように見える。緑色の小さな葉も緑釉のような光沢があるので、朝陽を浴びた樹全体が赤、白、緑の光の粒になり、真っ青な空とのコントラストで引き立てられている。

 実が落ちるまでの半月ほど、晴れた朝は、足をとめて眺めていた。この心象、写真には写せないので、何度も見てはイメージを胸というか、記憶というか、内界に焼きつけた。

 去年は、星と鉱物、どっちがキレイかなんて、とりとめなく思い巡らしていましたが、今年は、これでした。そう、2月の宵の口、寒風の吹きっ晒しのビルの屋上から見た月の地球照も絶美だった。透き通った群青色の夜空に月齢3.5の細く輝く白い月。欠けた部分が地球の反射光で仄かに円(まる)く見える。仄かに黒い色感はコヒーゼリーのよう。

 先の木星土星の最接近はいまいち。また、人間が作ったものでは、それほどのものとは出会いませんでした。

 

いちばんのビックリ

 「新潟県佐渡島では、島で生まれて生涯、島から出なかった人もいる。それどころか、島の内陸部で暮らし、一度も海を見たことのない人もいた」・・・久しぶりに会った友人と雑談していたとき耳にした話しです。

  友人は埼玉で生まれたのですが、佐渡島出身のお父さんから聞いたそうです。時代は、昭和の戦前から戦後すぐぐらいのことだと思います。

 えーっ、島で生まれ一度も海を見ないで一生を終える人がいたなんて! その人にとっての世界は生まれた家の近所だけだったってこと? そんなことってあるんでしょうか。まるで映画の「トゥルーマン・ショー」みたい。

 四国、九州、北海道、本州も世界地図では島だし、海を見ないまま一生を終える人もいるかもしれないとは思う。でも、佐渡島って、そんなに大きくはないのでは? 行ったことがないので実感がつかめない。

 

 ちょっと調べると、佐渡島の面積は東京23区よりも広く、大阪府の45パーセントだとか。東西の両側をついたてのような山地に挟まれた国中平野がある。

 平野の真ん中にいたとしたら南北両端の海岸まで7キロぐらい。平野は山手線の内側だけが世界といった感じでしょうか。最初、聞いたときにイメージしたよりは広く、ありえない話でもないような気がしてきた。

 それにしても、その人は外の世界には関心、好奇心なかったんでしょうか。新潟の街に行ってみたい、船や汽車に乗ってみたいとか。海ってものを見てみたいと思わなかったんでしょうか。・・・そういえば、北朝鮮では自分の住んでいる所から半径40キロ以上離れた場所に行くときは当局の許可が必要だとか。脱北者の人の語っていた話しです。

 考えていくと、結局、人間にとっての自由とは何かって問題になるのではないか。

 

 人間は自由がなくても生きることができる。 自由よりは生存の方が優先順位としては上位にある。「自由刑」は、人を牢屋に入れて自由を奪う刑罰ですが、それでも生存は保証している。

 狭い世界の中だけで生きるのは自由刑の受刑者と同じようにも感じるのですが、ただ自発的にそういう生き方を選んでいる場合もあり、自由がないとは感じていないのかもしれない。もし竜宮城みたいなところにいたら、あえて娑婆世界に戻りたい、行きたいとは思わなくなるのかも。

 あるいは、唐突な比喩かもしれませんが、家の中で劣悪な状態のまま多頭飼育されていた犬を救出し、保護犬として育てている人から聞いた話で、そういう犬は散歩で外に出るのを怖がるとか。これは人間にも当てはまるのではないか。

 佐渡島の話に出てきた人はどうだったのでしょうか?

 そういえば、昭和天皇の発言の中に、戦前、20歳のとき初めて訪欧したときの感想があり、そのとき「自由の楽しみ」をはじめて知ったと語っていました。

 それまでは(あるいはそれからも)、江戸城の奥でかごの鳥みたいな人生だったはずで、自由の楽しみという言葉はすごくリアルに感じました。あそこは東京の中心にありながら周りを堀で囲まれていて、小さな島と同じなんですね。

 ヨーロッパで初めて街の店に入って物を買う、お金を使うという体験をしたのではないか。資料を見ていて、ある皇族が、イギリスで店の人にお金を手渡しして、お釣りを受け取るという動作に戸惑ったという言葉がありました。未体験の行為だったので、手を出すタイミングがつかめなかったようです。本人にとっては凄い体験だったんだろうなと思う。

 昭和天皇は後年、若き日の訪欧をたびたび懐かしそうに回想している。その言葉に切なさみたいなものを感じる。あのときが人生で一度だけ体験した自由で、それをいつも想い出していたのかも。

 

 今年の春先、似た言葉をテレビニュースで目にしました。昨年末(12月29日、ちょうど今日)に日本からレバノンに逃亡したカルロス・ゴーン被告のテレビインタビューです。

 関西空港でプライベートジェットに搭乗する際、大きな楽器を入れる箱の中に身を隠していた。下の右の写真はトルコ政府が押収したその箱。・・・この作戦、元米軍のグリーンベレー隊員が立案したようですが、江戸川乱歩怪人二十面相のトリックにありました。トロイアの木馬からある古典的な手口ですね。

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 箱の中に隠れていたときの心境を聞かれたとき「過程はどうであっても自由とは甘いものだ」と答えていた。「過程はどうであっても」って、この人らしい。それに続く「自由とは甘いものだ」という表現、濃いい。上の写真左は、自由を勝ち取った勝利者の貌といった感じ、怪人二十面相っぽい顔相。

 ちょっと横道に逸れます。叶恭子さんの自伝、20年前に出版された本で、タイトルが『蜜の味』。編集者が考えたタイトルだと思いますが、「自由とは甘いものだ」と「蜜の味」って同じノリですね。イブとアダムの食べたリンゴも甘かったんでしょうか?

 

 自由には、権利として与えられる自由と、自分の力で勝ち取るというか自分で生み出す自由があるようです。また、何か行動する、行為する自由と頭の中で考える思考、思想、想像、妄想の自由も別の話になるようです。

 さらに、何もしない自由、怠惰とか堕落というか愚行権って言うんでしょうか、隠遁なんかも。隠者、老荘の道の自由ということになる。これは別の言い方をすると、時間を自分のためだけに使う自由ってことですね。人間がこの世にいる時間は有限(しかもそれほど長くない)ですが、自分の自由になる時間ってどれぐらいあるんでしょうか。

 

 「自由の楽しみ」と「自由とは甘いものだ」は通底している・・・砂糖がそうですが、水や食物、塩と違って、なくても生きていける。しかし、昔、初めて精製された砂糖の甘さを知った人は、圧倒的なインパクトに魅せられた。近代以前の世界では砂糖は特権階級しか手に入らない貴重品でした。江戸時代の庶民は砂糖を口にすることなどほとんどなかった。

 そういえば、香辛料、お茶、タバコ、酒、コーヒーといった嗜好品は、なくても生存することはできる。戦時中、「ぜいたくは敵だ!」という有名なスローガンがあって、そういったものは贅沢品として統制(制限)されていましたが、世の中から自由もなくなっていたんですね。

 

 佐渡島の話しと競うような話がもう一つありました。それは、ふと耳にした、小学生の子供さんが二人いるお母さんの言葉。家族で多摩動物園に行ったときのこと。

 園内を一周して、ゾウやライオン、シマウマなど見てきた後、そのお母さんは、ポツリと「カッパをまだ見ていない。カッパの檻はどこにあるの?」と旦那さんに尋ねたそうです。

 カッパなんているわけないよ。あれは想像上の妖怪みたいなもんだから、と旦那さんが言ったら逆にびっくりしたようで、「えっ? 信じられない。カッパっているもんだと思ってた。動物園にいないわけがない」と腑に落ちない様子だったとか。

 話を聞いて、このお母さんは、心が豊かな人なんだなと思った。お金に豊かな人でも、心が豊かかというと、多くは、心は普通人というか常人と大差ない。仮に、誰かに大金を積んでカッパ実在を信じなさいと言って相手が承諾しても、このような心の豊かさにはなり得ない。

 日本人の大人でカッパが実在していると思っている人、何人ぐらいいるだろうか? カワウソのような他の動物とか絶滅種、UMAとか、あるいは妖怪とか、そういうのがいると思っている人ではなく、本当にそのまま動物として100パーセントいると思っている人。

 心が豊か・・・普通人の常識に拘束されていない心。無知とか迷信というのではない。心が純粋とか、優しい、広い、明るいとか、そういうのともまた異なるカテゴリーで天衣無縫の自由なのかも。努力してなれるものでもなく、天啓のような資質なのではないか。

 

 最後に、一昨日かかってきた電話、研師をしていた友人からでした。彼は、興奮した口調でこう言っていた。

 「聞いてください! 自分の生まれた年の西暦に、自分の年齢を足すと2020になるんです。さっき知り合いから電話で聞いて、紙に書いて計算してみたらその通りになりました。こんなこと1000年に一度しかないんです!」

 えーっ、言ってることおかしい、あたり前でしょ、いつだってそうなるんだけど(誕生日とか細かいことは端折って)。後の付け足しはゾロ目の一種で、1010の次は2020で、次は3030、4040ってことでは1010年に一度だけど、それは前の話しとは別でしょ。

 電話の向こうでは、感動して盛り上がっているので話が噛み合わなかった。検索すると、外人タレントの女性のツイッターから広まった話しのようです。

 これは、後世、コロナ禍でうっ積した世相を反映した「流言飛語」のひとつ(その変形パターン)と位置ずけられるのではないか。コロナ禍がなかったならば、こんなふうに広く拡散しなかったのではないか。人々の間に情報が拡散していく土壌にストレスや社会不安の高まりが作用しているということです。たぶん、それに敏感に反応するシャーマニックな人たちがいるのだと思う。

 昭和20年、戦局が悪化していたときにも、庶民の間で突飛な流言飛語が広まったのを思い出した。当時の憲兵隊の記録に巷で流布していた奇妙な噂や流言飛語が収録されている。予言獣の件(くだん)なんかも出てくる。

 日本社会も、世界中どこもそうなのかと思いますが、コロナ禍で結構こたえてはいるようです。でも、こういう状況だからこそ、悲観論にも楽観論にも流されることなく、冷静に物事を見ていきたいと思っています。

 

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イランの小さな庭

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 庭園やガーデニングのことはよく知りません。だから独断の思い込みで書いている。小さな庭、そこがどこだったかというのはなかなか難しい。イラクのような、イランのような、どちらでもない場所、そこに住んでいた一家の庭です。

 その庭を目にしたとき、これは別世界だと感じた鮮烈な印象は、今もありありと残っている。正直に書くと、歳月が経っている分、内界でさらに美化されているかもしれない。まあ、そういうイメージの結晶化で人間の世界は出来ているので、仮にそうであっても想いに変わりはない。

 

 イラククルディスタンで泊まった家の小さな庭でした。・・・少しややっこしいですが、イラククルド人の支配地区になっていた砂漠(土漠)に隣国のイランから越境してきたクルド系イラン人の基地(以下、砦としときます。その方が実情に近いので)があった。その砦の中は小さな村になっていて、その村に住んでいる一家の庭です・・・分かるでしょうか?

 一応、そこはイラク国内になるのですが、イラク政府軍は入ってこれないエリアで、さらにそこだけはミニイランでした。でも、イラン政府と戦っているイラン系クルド人たちの造ったミニイラン。イラク領なのでイラン軍も簡単には攻めてこれない(何年か後にイラン軍機が侵入し砦を爆撃したという話を聞いた)。

 

 イラククルディスタンでもいちばん南部、イラン国境にも近い。その頃、ザクロス山脈にあるイラククルド人たちの天然の要塞(切り立った崖や巨大な岩に囲まれ、外部からは近ずけない)にいたのですが、1日だけ山岳地帯から平地の土漠に出てクルド系イラン人の砦を訪れた。 

 地平線の向こうまで褐色の土漠が続いている。強い日差しで暑く乾燥していて、木も草も生えていない。近くに村も人家もない。地図だと200キロぐらい先にバグダッドがある。

 遠くから見た砦は、土漠の中に中世の城跡が忽然と建っているように見えた。 近ずくと砦は、長方形の敷地で石壁で囲われ、四方に銃座が設けられていた。 鉄板のゲートが開いて中に入ると、車の通れる道があって人家が並んでいる。電線が通っていて各家は電気が使えた。商店みたいな建物はなく、ところどころに倉庫があって人気はない。

 人気はないといっても、イラクやイランの地方にある民家の多くは石壁で囲まれていて、外からは平家の建物の様子が分からず、住人はみんな家の中にいるので殺風景に見えるのは普通のことですが。

 

 その晩、幼子のいる一家の家に泊まった。心尽くしの夕食をいただき、一緒にお茶を飲みテレビを見てくつろぐ。クルデイスタンではどこでも食事中はあまり喋らず床に座って黙々と食べるだけ。それが習慣になっていて、その後にゆっくりお茶を飲みお喋りする。小さなガラスコップに紅茶を注ぎ何杯も飲む。

 観ているのはイランのテレビ放送。国境が近いのでよく観える。 その少し前、イランで日本のテレビドラマ「おしん」が大人気だったのでみんなよく知っていた。 

 民族的にはクルド人でもイランで生まれ育った人たちなので、文化的にはイラン国民とそれほど変わらない。 

 イラククルド人たちは素朴、情に厚くぶっちゃけタイプな人たち、また、世俗的で隠れて酒を飲んでたりする人たちとよく出会った。一方、イランのクルド人たちは純朴、真面目でひたむきな人たちが多かった。思い浮かぶのは沈思黙考タイプというか、同じ民族でも国民性の違いなのだろうか。

 

 翌朝、眼が覚めると家のご主人と娘さんが庭にいた。草むらに座って小さな植物を観察(?)している。朝陽が斜めから庭の草木に差し込んでキラキラ光っている。

 砂漠の朝はこの上なく美しい。東の地平線の縁に水星が昇ってくるころから陽が差してくるまでの短い時間、日中は灼熱の地でも、この時間帯は穏やかな静寂に包まれている。

 水星はアクアマリンの色をしている。光度がそれほど強くはないし、見える時間も僅かですが、地平線が平坦で、湿度のない澄んだ空気、人工物がなにもない砂漠ではとても印象的な星だった。あれは夭折した人の星、そんな気がした。そういえば、水星には紫式部清少納言という名前のクレーターもあるんですね。

 庭の半分はいろいろな花が植えられたお花畑で、半分が草むらになっている。奥にオリーブの木が植わっていて、ヒマワリも見える。

 目の前に柔らかな若草色の草原(くさはら)とお花畑があるなんて。家の周りは壁に囲まれているので庭は見えなかった。こんな場所に別世界のような空間があるとは・・・。

 戦地の中に、荒涼とした無人の土漠があって、土漠の中に砦の囲いがあってと次々、入れ子の中に入っていくと、いちばん奥にはお花畑があるなんて信じられるでしょうか。

(上の写真、お花畑の方から草むらを写しているので、ここで書いているお花畑の情景とは異なります)

 

 お花畑の植物で、細く丸まった蔓が伸びているエンドウ豆の小さくて可憐な花、透き通った薄紫のクロッカスの花、この二種類は覚えている。それ以外にも色とりどりの草花が咲いていた。 

 原色の目立つ派手な、大きな花はない。もちろん地味な花でもない。植えられている花には、一定の基調があるようで、比較的背の低い小さな草で、可憐な優しい色をした花々が選ばれているように感じた。

 日本だと伝統的に秋の七草のような鄙びた花が好まれてきた。志野の古陶に描かれている緋色の草花文が目に浮かぶ。晴朗で慎ましく、ちょっと侘(わび)しくもある風情、李朝の清貧の美から来ているんでしょうか、現在、こういうのをいいなと思える感性を持っているのは日本人だけなのではないか?

 一方、この庭は、もっと煌(きら)びやかな色感の、一つ一つは小さい花が至るところにちりばめられている。

 バイカラーやウオーターメロンのトルマリンとかタンザナイト、モルガナイト、ペリドット、クンツアイトといった石を連想する。全体として明るく繊細でフェミニンな感じの花の世界になっている。まるで庭自体が宝石箱のよう。

 

 なるほど、こういう色感、配色がイラン人の好みなんだな。ペルシャ絨毯やタペストリーの絵柄、ミニアチュール(細密画)、モザイクタイル、貴石・宝石を使った装飾品、家具や楽器に施された寄木の象嵌細工、分厚い古書の装丁、多彩花文皿、モスクの壁の装飾やステンドグラス・・・それらにこめられた、イランの人々の原イメージは、これなんだな、みんな繋がっているんだな、と解りました。

 こういう感性って遡るとイスラム以前のペルシャに由来していると思うのですが、素直に人間の本性を表しているのではないか。

 ペルシャは最盛期、ほぼオリエント全域を支配した世界帝国だった。人類の歴史上、最初の世界帝国です。

 ところで、アメリカもドイツもロシアも鷲が国章なのは、ローマ帝国の国章が鷲だったからでしょ。現代のEUアメリカ、ロシアは要するにローマ帝国の分家筋で、国連常任理事会の5カ国のうち4カ国がそこに含まれている。

 今年が2020年だと言っているのもローマ帝国の皇帝が決めた西暦によって決まってるわけでしょ。世界史が西暦で配列されているのも既成事実になっている。もしペルシャがその後、ギリシャ、ローマの文明に覇を奪われなかったら、世界は、今とは別種の異なる文明になっていたはず。

 

 中国の庭は、なんか奇を衒う方向に進んでいった。特に清朝になってますます、満漢全席の様相を呈してきた。清の磁器もそうでした。反自然の人工楽園に向かっていく精神の衝動みたいなものが底流にあるのでしょうか。

 満漢全席は、当時の中華世界では異民族の皇帝、つまり満州人が漢人(中国人)の上に位置していることを象徴している料理ですよね。・・・あの地の異民族支配は元もそうだったし、ヨーロッパの黄禍論で最悪のパターンは日本の皇帝(天皇)の下に中国が統一されることだった。日中連邦というか、その実現は西洋の没落を意味していた。

 そういえばバブルの頃、満漢全席を食べにいくツアーとか雑誌の特集があったが、あのころが日本のベルエポックだったんだなと今にして思う。

 21世紀になって、ワシントン条約で動植物の規制が強化され、感染症のことも大きくなって、もう満漢全席のような欲望全開の時代は終わっているのかも、ということでは20世紀の徒花だったのか。・・・話を戻します。

 また、日本の庭は結局、中国の宋代の禅から派生した枠組みから自由になれていないように感じる。すでにそれが伝統になっているので今更どうこう言う筋合いではないのですが。

 利休の侘び寂びもそうなんじゃないかと思うのですが、創始者が偏屈で意固地になっていたのを門下が真に受けて、あるいは門閥の権威づけのために祭り上げられカリスマ化し、それを何百年も踏襲し続けて今に至ってるのではないか。

 嘘から出たまことで、何百年もそれを続けてると、最初は虚妄でもいつしか実体化してくるんですね。別の言い方をするとプラシーボ、ただ歴史・文化に裏打ちされているプラシーボなので気づけない。

 その意味では、かなり特異な感性だとしても、それが日本なのかも。三島由紀夫は亡くなる3ヶ月前、日本にはオリジナルなものは何もないんだ、何もない、無のるつぼの変性力こそが日本なんだと言っていた。その変性力のことですね。

 

 ペルシャの感性は、幼子みたいに素直なように感じました。和辻哲郎は、それを風土に結びつけて解釈してるけど、そういうのって一見、説得力があるようでいて、でも結果から恣意的に、自分の認識できる範囲内の要素を探索して原因を言挙げしているだけなんじゃないか。認識できない要素、そしてそこに核心があるということ、ないでしょうか?

 「楽園」を意味する「 paradise 」という言葉は、いにしえのペルシャ式庭園のことをそう呼んでいたことに由来しているとか。

 この一家の庭は、特別な庭ではなく、どこにでもある庶民の家の庭でした。立派な庭園とは比べようもない。でも、究竟、そんなことは末梢的なことで、その土地で育まれた感性の核は同じで、この人たちの魂に焼きついているパラダイスの原イメージはこれなんだなと発見した気持ちになっていた。

 いまこんなふうに書いていて、もしかして大きな勘違いをしている可能性がないとはいえない、その可能性は認めるにしても、あの朝、受けた鮮烈な印象は今もありありと生きている。

 

 季節がずれていたのか、庭で薔薇(ばら)の花は見なかった。またイランの国花といえばチューリップですが、それも見ていない。そう、一家の庭の話しではないですが、薔薇といえばこんなことがありました。

 国境近くの町で出会ったクルド系イラン人の若いペシュメルガ義勇兵)は、一日中、庭の薔薇の枝の手入れや水遣りをしていた。本来の仕事というか任務はしないで、70~80センチほどの茎の根元の余計な土を掃いたり、支え棒を立てたり、細いことまで熱心にやっている。

 元は地方役場のちょっとした広さの庭、古いが立派な建物の造りはイギリス統治時代のもののようでした。横浜の山手にある古い洋館といった感じ。イランから険しい山を越えてやってきたペシュメルガたちが建物を接収して宿泊所になっていた。

 ここに寝泊まりしていた40人ほどのペシュメルガは全員、中学生ぐらいで雰囲気は林間学校のよう。子供だけで編成された軍隊って奇異な感じですが、その場にいると別に普通な感じで違和感もないんですね。

 部隊長は大人のペシュメルガですが、生徒たちの引率者のオジサンといった感じだった。とにかくワイワイ、ガヤガヤ賑やかで、支給されたAK47と手榴弾を持ったまま鬼ごっこみたいな遊びをしている。規律は全くないのですが、十分戦力になっている。大人よりも恐怖心が少ないこと、体が敏捷なこと、これが優位点になっているからです。

 イラクペシュメルガでしたが、対戦車ロケット弾を抱えて一人で政府軍の戦車2両を撃破した少年がいた。彼らの中ではオリンピックの金メダル以上の名誉で、周りの仲間、大人たちからヒーローになっていた。

 ・・・ふと、思うのですが、この少年、ごく普通のひょろっと痩せた中学生か高校に入ったぐらいの年齢、彼には特異な才能があったのではないか。身ひとつで戦車をやっつける才能(?)。でも、この才能、平時には分からないし、生かしようのない才能なんですね。

 庭先のテーブルに手榴弾を置きっぱなしにして、ぶっかった拍子にテーブルが傾いて手榴弾が転がり落ちてきた。あっ、危ない、みんな慌てる。瞬間的に運動神経のいい奴が飛びついてキヤッチした。すると、みんなよくやったと大喝采、一堂さらに盛り上がる。終始そんな感じでした。

 

 その庭は、完全に薔薇園になっていた。いったい彼は、ここで何をしてるんだろうか? 薔薇を愛でる目つき、表情からして、彼にとって薔薇は特別な存在なことが分かる。

 彼は変わり者と見られていたようで仲間たちの輪には入らず、あまり喋らないが、薔薇の枝葉とは恋人みたいに接している。部外者の目には薔薇フェチのようにも見えてしまう。

 酒を飲まない文化で生まれ育っても、人は薔薇に酔うってことがあるのかも。シラフの酔いって想像できないかもしれませんが、言葉の比喩ではなくてそういうリアリティも確かにあって酔いというか、陶酔というか、そんな意識になっているのではないか。

 そういえば、インドの13〜16世紀のバクテイ運動は、要するに神に酔うという現象だったのではないか。ハーレクリシュナの一団が太鼓を叩き踊りながら歩いてるのを見ると(最近、見ないですね)、バクテイ運動を思い出したものです。また、流れは違いますが、ラーマクリシュナも神に酔っていた人だった。

 薔薇の香りといえばローズダマスク、近隣のシリアの薔薇に由来している。ペルシャの時代は同じ文化圏でした。ローズダマスクの香りは人を陶酔境に導く魔法ともいえる。また、ペルシャの文化には詩に酔うというのもあって、嗅覚と詩が共感覚のように繋がっているようにも思う。

 彼の場合は、かなり極端でしたが、イラン人にとっての薔薇の花とその香りは、こういうものなんだなと、垣間見た思いです。

 

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