都会のタヌキ/そこらへんの草のイタドリ/多頭飼育崩壊とシャーマニズム

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 上の写真は近所の線路を横断中のタヌキ。二匹いましたが、一匹はすでに渡りきって見えない。今週のはじめ世田谷線松陰神社前駅若林駅の間にある踏切から撮りました。

 世田谷線三軒茶屋と下高井戸の間を結んでいる二両編成の鄙びた路面電車。全長5キロの間に10の駅がある。駅と駅の間隔が短いので、地元の人たちは数駅ぐらいは歩いている。座席が左右一列のクロスシート、初めて乗った人は遊園地のおサルの電車みたいと言ってました。

 線路沿いの林にタヌキが何匹も(8匹とか)いて、テレビで紹介されたりもしている。

 

 桜の開花したころ、快晴の朝だった。踏切を通りかかったとき、林から今年初めてウグイスの啼き声を聞く。春告鳥という別名があり、日差しの増してきた朝の陽光とともに季節の移り変わりを感じました。

 それにしても囀(さえず)り方の下手なウグイスだった。舌ったらずな啼き声が親心じゃないですが気になり、毎朝、踏切を通るようになっていた。その後、少し上達している。

 先週はそこでコジュケイの啼き声を聞いた。キジの仲間の野鳥で、独特の節回のかん高い囀り声、間違いない。これは、自分の中では大きな出来事でした。というのは、この辺りでコジュケイの声を聞くのは何十年ぶりのことだったからです。

 かっては近くの松陰神社の林の竹薮にいたのですが、そこが駐車場やマンションになってしまい、それっきり姿が消えていた。啼き声を聞いて懐かしかった。そう、人でも何十年ぶりかに再会して声を聞いたときの感慨、そんな感じ。

 コジュケイの囀りは、他の鳥との違いが際立っていて、個性的で南方系のワクワク感があり、なかなかいいと思っている。でも外来種のためか、日本の自然の風情ということではあまり言及されていない。

 コジュケイは大正時代に台湾から日本に移入された。そのころの台湾は日本の一部だったことからすれば、一概に外来種という括りに入れていいのだろうか。それに日本に来てから1世紀になるということもある。

 う〜ん、一方でこの辺りではインド、スリランカの鳥、ワカケホンセイインコが目立って増えていて、土着のオナガが圧されてしまってるのは面白くない。

 

 コジュケイやワカケホンセイインコに東京の亜熱帯化を感じている。・・・横道に逸れますが、知り合いに鬼才、レズビデオの巨匠といわれるフェチ系のAV監督さんがいる。歌舞伎町のど真ん中に住んでいて、健康のため毎日、高い柵に囲まれ檻の中みたいな大久保公園の舗装されツルツルの中庭を反時計回りにジョキングしていた。ふつうの人は時計回りに走っているのでひとり目立つ。

 監督さんから歌舞伎町熱帯化計画という私的な構想(陰謀?)を聞いたことがある。少し前のことで、詳細は忘れてしまったが、バタイユ安部公房が好きで、演劇的な手法で世の中(手始めに歌舞伎町)を変える、カルチャーを熱帯化させるというようなことだった。これって個人でやっちゃう社会革命と言えなくもない(政治革命ではなく社会革命というところがミソ)。あの計画、どうなったのか、すでに成就してるのか、聞いてみたい。

 

 ウグイスやコジュケイの、それにタヌキのいる林は線路脇にあり、しかも住宅街の裏手、道のない場所なので人が近ずけない。だから踏切から姿の見えない野鳥の声を耳にするだけ。でも啼き声で鳥の種類は分かるので「ああ、コジュケイがいるな」と存在を確かめる。そこに満足感が生まれ、なんか少し得したような、リッチになった気分。

 林は、環七から100メートルぐらいしか離れていない所ですが、丘の斜面に位置していることもあり、踏切の脇に立ち止まっていると里山の気配も感じる。この辺り、かっては起伏のある武蔵野の雑木林だった。

 現実は東京の住宅街の真ん中なので、里山など目には見えないのですが、早朝や深夜、イメージを膨らませてそんな気配を感じとっている。踏切を通る道が曲がりくねった隘路なのはかって農道だったから、その先が坂道の下りなのは、そこが丘の上だから、そんな感じでイメージしていく。

 1月、東上野の街角で戦前の日本が途切れることなく続いていると書いたのと同じで、2021年の現実の中では、すでになくなっている過去の世界を、僅かな痕跡を手掛かりを見つけ出しては、頭の中で針小棒大に拡大し浸ってる、戯れている、遊んでいるわけです。

 

 この朝もコジュケイの声目当てだったのですが、思いがけずタヌキに出逢った。この近辺では、他に豪徳寺と城山城址公園の間の雑木林、宮の坂駅世田谷八幡宮裏手にある農地・竹やぶ、駒沢給水塔の中庭にタヌキがいる。四ヶ所の共通点を考えてみると、どこも人が立ち入れない場所になっている。都会では、広い公園はあっても、その条件にあてはまる場所はとてもレア。

 タヌキに比べてハクビシンは生息密度が濃く、ちょっと大げさに言えばそこら中にいる。いま東京の家屋の10軒に一軒は空家になっているとか、ハクビシンはそんな空家を住処にして数を増やしている。ああ、こちらも亜熱帯の動物でした。

 ハクビシンはタヌキと違い、木登りが上手。垂直な壁や電線を伝わって移動する忍者みたいな奴ら(?)なので空家は恰好の住処だ。

 実は、何日か前の夜、寝ていたときガターンと大きな音がして目が覚めた。庭の物干し竿が落ちて、暗がりにさっと消えた動物の影。こんなこと初めてでした。正体は分からなかったけど、物干し竿を伝わっていたことからすれば、ほぼハクビシンに違いない。

 深夜、人間が夢の中にいるとき、家の周りをタヌキが徘徊し、屋根をハクビシンが歩いている、そんな日常になりつつあるのだとしたら、アルカイック・リバイバルの人獣同衾の世界を彷彿とさせ好ましいことです。いえ、全く個人的な想いですが。(下の絵はシャガール

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  身の回りに野生の動物、さらにUMA(未確認動物)とか妖怪とか、要は魑魅魍魎のいる世界が自分にとっては理想郷なので、デフォルメされた現実ではあるにしても、気持ち的には救われている。

 踏切の近くに住んでいる人の話では、昭和の頃はタヌキはいなかったそうで、平成になってから姿を見かけるようになった。また、ハクビシンの数が増えているのは、この10~20年のこと。いわば新しく生まれた現実なんですね。

 

 ・・・そういえば、何日か前、「多頭飼育崩壊」のニュースがありました。自宅で24種類58匹の動物を飼い、どうにも面倒みきれなくなってしまった女性の占い師の話しです。都内で起きた事件。事実関係は検索すると出てくるので詳細は省きます。

 これは可哀想なネコを守るため、イヌを守るためにと次々に数が増えていったというような、ときどきニュースになる多頭飼育崩壊の話とは少し趣が違うように思いました。

 24種類という種類の多さに驚く。自宅が動物園で、いろいろな動物たちと一緒に暮らしていたといった感じ。そう、眠りに入っているとき、意識は動物たちの中を漂っている。

 イヌ、ネコは合わせて8匹で、他に22種類50匹、内訳を上げていくと大変なので大まかに、比較的ウサギの数が多いのと鳥類とトカゲ・カメ類が目に付くが、特定の動物にこだわりがあるのではなく動物一般分け隔てなくいるようです。

 一応、動機としてコロナ禍で海外旅行に行けなくなったので動物を飼うようになったと報じられている。こういう話は、だいたい人間関係の孤独とか、よく分からないときは変人ということで片ずけられる。

 でも、時代と場所が現代の日本の東京だったので、こんな動物虐待、近所迷惑のニュースになってしまったが、コロナ禍という社会的状況(プレッシャー)が占い師だったというこの人の霊性を一気に高めてしまったのではないかと解釈してみた。

 これはシャーマニズムの動物霊との結合が今日的な形で起きていたのかも。動物霊というと、おどろおどろしい迷信といった感じで敬遠されてしまうかもしれませんが、本質的には、世界中の新石器時代の人々の心の世界のことで、その名残なのではないかと思っている。

 自然とは切り離された都会生活をしている個人で、シャーマンの資質(精神感応能力)を持った女性が動物霊に突き動かされていることに無自覚なままペットショップから次々と動物を買い込んでたのではないか、そんなふうに感じた。

 

 昔、江戸の街は「伊勢屋 稲荷に犬の糞」と言われたように、稲荷の社が多かった。道ばたに犬の糞が多かった、つまり犬がたくさんいてウロウロしてたことも挙げられている。

 もともとは商家の家の守りカミだったキツネが、主人の夢に現れ、もっとたくさんの人間に拝まれたいと告げ、それで街中にキツネを祀った社が造られていった結果、江戸の街は稲荷の社(後に神社)だらけになってしまった。当時、町内、辻々にお稲荷様を祀るのが流行になっていた。

 横道に逸れますが、よくいく上野の下谷神社も江戸時代は下谷稲荷と呼ばれていた。銀座線の稲荷町駅はその名残。明治の文明開化の時代、外国人に日本人はキツネやタヌキを拝んでいるでは体裁が悪いので政府の命により神社に改められた。

 キツネやタヌキのような動物霊は、神格としては低めで、人間界に近いので現生利益をかなえてくれるということがポイント。

 占い師という職業は、人々の現生利益の想念を受けとめる特殊な仕事だと思うので、資質的に精神感応力が高い人でないと務まらないのではないか。そういえば、江戸時代には、狐使いという人たちがいて、占いもしていた。

 この多頭飼育崩壊の底流には、そんなスピリチュアル(?)な背景があったのではないかと思いました。

 

 3月の末からイタドリを摘んでは食べてを繰り返して、経験的に分かってきたことがある。山菜、野草、雑草・・・要は「そこらへんの草でも食わせておけ」(マンガ「翔んで埼玉」)ってことですが、同じ植物でもどう呼ぶかでイメージがずいぶん違う。イタドリは山菜と呼ぶ人もいれば、そこらへんの雑草と思っている人もいる。

 イタドリを摘んできて、最初は茹ですぎて半ば溶けてしまい捨てるしかなく、翌日、また摘んできて湯通しするぐらいでやってみたら酸っぱさが抜けてなくてと何回か繰り返して要領がつかめてきた。こういうのは実践しないと分からないことなんですが、U-tubeの動画はとても参考になった。

 いくらでも採れるので、ただし新芽のこの時期だけですが、高知県出身の人に持っていったら喜ばれました。向こうではスーパーの店頭に並んでいたり、学校給食の食材にもなっているとか。

 今年は、他にも7~8種類の食べられる野草というか雑草を採った。カラスノエンドウは味噌汁の具にいい、豆苗の味です。茶の木の新芽は天ぷらで食べる。ギシギシはフランス料理のソレルのスープが、ちよっと手間がかかるけど、いい。ヨモギは沖縄料理のフーチーバージューシー、ヨモギご飯ですが、いいです。

 どの野草もペペロンチーノの具材にしている。野菜代わりに用い、けっこう重宝している。

 

 野草はみんな新芽の時分に、柔らかい部分だけを採ることがポイント、書くと月並みな話しですが、じゃあ目の前にある草のどれを、そしてどこを、どこまで摘めばいいのか、実践して初めて分かることです。

 ・・・こんなこと書くのも野暮な話ですが、毛沢東の『矛盾論・実践論』の実践論の方で言っていたのは、こういうことなんだなと思い当たった。実戦論ってのは、いまふうに言うと、バーチャルとリアルな世界の曖昧さを峻別して、政治工作でも仕事でもリアルにやること、そのための思考法ってことになる。

 言ってることは、イデオロギーやドグマではなく合理的でリアルに物事を考えるための弁証法唯物論の哲学。哲学といっても、19世紀の自然科学に基づいた理論なので、専門家からはタダモノロン(唯物論のこと)と揶揄され、スルーされていた。でも、日常生活のレベルでは役立つのも事実。

 その当時の中国は、文盲の人々も多かったのでそれを分かりやすく説いている。高尚な難しいことではなく、平明かつ徹底的に現実的なところが毛沢東らしい。 

 一方、穿った見方をすると、『矛盾論・実践論』は個人の思考回路を一つの型に嵌める人間改造の教本でもあり、これを人民公社の集団農場で老若男女に学習させていた。画一化した思考をする新しい人間を作ろうとしたわけです。人為を全肯定して憚らない漢心(からごころ)の社会主義版って感じがする。

 これに比べると、昨今のカルトや宗教、セミナーなどの洗脳とかマインドコントロールってのは全然、甘いと思う。ああいうのは人を変性意識状態にもっていってやるんだけど、こちらはシラフで人間の思考パターン自体を変えてしまうのだから解きようがない。これまでの人間とは違う新しい人間の社会になるとしたら、究極的には人々を管理したり監視する必要もなくなる。

 ここまでやったら、後、人間に残っている自由は眠っているとき、夢の中ぐらいなんじゃないか。

 この本は、毛沢東思想の基本文献の筆頭にあげられていた。その意味では、中国共産党は侮り難い超リアルな思考法をしている集合知性体(?)で、なんと言えばいいのか、言葉に詰まる。

 

 イタドリはそのまま口にするとかなり酸っぱい。シュウ酸、アクの味で、これを下処理で抜いてから食べている。

 とはいえ適度の酸っぱさは、山菜の魅力である野趣であって、日本人は苦味やエグ味、フキやヨモギの独特のクセ、風味など野趣の味わいを堪能してきた。これは、いわば縄文の味でもあると思っている。大仰な言い方をすると、新石器時代の味覚ってことですね。

 また、舌で感じる味ではなく喉から鼻で匂いとして感じる風味のような味。食感、喉越しで感じる感触の味。こういう感覚を洗練させたところに日本を感じる。

 こういう味わい方は、蕎麦好きの友人のかねてからの持論で、いい蕎麦や薯蕷(とろろ)食べるときは、噛まないで飲み込み、喉越しの味を堪能していた。聞いたときは半信半疑でしたが、真似してみると、言ってることが分かるようになった。

 書いていて、こんな一節を思い出した。「原始食とは、Q感覚、つまりニオイ感覚、触覚器官などの退化器官を主として、全感覚器をフルに連帯させて原始人が食べていたタベモノのことである。」(『蘇った原始食』寺ノ門栄、1975)

 昔の本ですっかり忘れてたのですが、野草、雑草を食べていると、なるほどなと納得することが書かれている。先に山菜を新石器時代の味覚と書いたのとも合致している。どういうことかというと、嗅覚、触覚のよな退化器官で味わう味覚ってことです。

  先人が書いていたことも、それがマイナーな話の場合、膨大な過去の情報の中に埋れ、消えてしまっている、そういうことたくさんあるんだろうなと思う。

 昭和に入ってからの日本料理は、魯山人インパクトが大きかったこともあり、器に凝り、盛りつけに凝る、つまり視覚の方に進化していったように思う。

 また、魯山人から半世紀ぐらい後になると、伊万里の皿を骨董商の人がもてはやしブームになった。こちらは、それまで雑器扱いされ、地方の蔵にたくさん眠っていた伊万里の皿を安く仕入れて、いい値で売りぬける商売で、生活骨董というコンセプトが出来あがる。

 でも、伊万里みたいなコテコテの絵付けでは、視覚にもっていかれてしまい、肝心の料理の方が霞んでしまうのではないか。それに気づいていた料理人もいたかもしれないが、店の経営者やお客さんの意向を忖度して黙ってたのではないか。

 伊万里のブームは去りましたが、当時、誰もそういうことを口にしなかったって、なんかいいかげんな話だなと思っている。自分の想っている日本と現実の日本は、どんどん乖離していってるってことなのですが。

 ところで、日本食の中で、ラーメンやカレーなんかは世界の異文化の人たちの口にも通じるけど、例えば、ざる蕎麦は難しいのではないかと思う。通じない感覚があるということです。山菜の野趣もそう。そこに日本を感じています。

 

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