チベットの「犬葬」/犬の共感性とソラリスの海

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   (芝生に現れた小さな穴。周りに地中の土が微小な球になって積もっている)


 朝、犬のJを連れて歩いている。近くの公園にある芝生の敷地をよく通る。冬の季節、芝生は枯れていて、ところどころ土の地面が表れている。

 3月の初め、敷地内に小さな穴がたくさんあるのに気づいた。地面に斑点模様がついているみたいな奇妙な光景。 昨日まではなかった。 足元に数十個、7~8メートル先までだと百を越える数はある。

 近寄って見ると、虫が地中から出てきた跡で、穴の周りに掘り出された土が積もっている。盛り土の高さは僅か数ミリ、あまりに小さく人も犬も無関心。

 なるほど、これが啓蟄(けいちつ)ってことか。「啓」の字は、開く、開放、先導といった意味、「蟄」は虫が土の中にこもること。暦では、春、温かくなって虫が地面から出てくる時期を啓蟄と言っている。ちょうど、この日が啓蟄でした。

 啓蟄って言葉の意味は、辞書で知っていたけど、それを目で見たのは初めて。文字情報の知識としての「啓蟄」と、地面に現れた斑点模様に、えーっ、何これ?と驚いたときの心持ちは、全く別物。情報とリアルな現実の違い、些細なことですが、変わりばえのしない日常の中でちょっとした発見をした気分です。

 

 毎朝、犬と歩いていると、なんとなく他の犬の飼い主さんと挨拶するようになる。一言二言、話すようになり、飼い主さんの名前は知らなくても、犬の名前は覚えていく。

 犬の名前を覚えるってことは、別の言い方をすると、その犬の顔と体型の特徴を覚えることで、そうなると必然的に犬種も覚えることになる。

 犬の犬種について少し調べると、この分野は特殊な世界なことが分かる。愛玩犬は、動物でありながら工芸品やアクセサリーのように、人の手(主に欧米)で作られた犬なのですから。

 

 シーズー という犬について書きます。ある意味、すごい犬です。

 人気のある洋犬のひとつで、鼻の短い平べったい顔、 まん丸の目、 毛の長いぬいぐるみ人形みたいな小型犬。神社の狛犬や獅子舞の獅子にも似ている。 英語で、Chinese lion dog、中国語で「獅子狗(狗は犬のこと)」と書いているのは、まさにその通り。

 シーズーは、いわゆる洋犬ですが、もともとは中国の犬で、清朝後期にチベットのラサ・アブソと中国のペニキーズ(祖先はチベットチベタン・スパニエル)をかけあわせて生まれた犬種です。

 ・・・出だしから、一般的にはあまり馴染みのない犬種名を羅列し、どうも書いていて抵抗がある。多くの人には関心のない話でしょうから。

 端折って書くと、凋落する清王朝チベット、勢力拡張を進める西洋列強の雄イギリスの国家関係が背景にあって、シーズーという犬種が生まれた。その経緯は興味深いのですが、細かい話しは省きます。また、犬種の話しは、諸説あって複雑になるので大まかにということで。

 シーズーの先祖のラサ・アブソは、チベットの宮殿、寺院の中で門外不出の神聖な犬として飼われていた。中国に渡ったのは、清朝後期のこと。宗教国家チベットの元首であったダライ・ラマ清王朝に贈り物としてラサ・アプソを献上していた。チベットでは魔除け、お守り、そして宝物のような犬だった。

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         (若き日のダライ・ラマ14世とラサ・アブソ)

 シーズー とラサ・アブソは似た容姿で、また、ペキニーズも同じく似ている。どの犬も祖先はチベットに由来しており、共に短吻種(たんふんしゅ)といって、鼻が短く、平べったい顔をしている。

 短吻種の犬は、人間が品種改良して作り出した容貌で、清朝では皇帝をはじめとする高い身分の人々だけの占有物、ステータスシンボルだった。

 シーズーが作られた目的は、伝説上の宗教的なシンボルであった瑞獣そっくりの生きた瑞獣を手に入れるためでした。 神社の狛犬や沖縄のシーサーは、中国の瑞獣から派生した神像なので、シーズーと似ているわけです。

 

 ところで、玉器や青銅器によくある古の瑞獣のイメージは、純粋に人間の想像から生まれたのかというと、実は、現実のモデルがあったのではないかと思っている。

 それは、かっては西南アジア全域に生息していたインドライオン。イランの国旗にライオンが描かれているのはペルシャの時代からの国のシンボル、イランにも生息していた。いまインドライオンはほとんどの地で絶滅し、インドの一部だけに生息している。

 そこまで遡ると、犬をネコ科の容姿に似せて品種改良したってことになる。なんか妙な話しです。・・・それなら猫を品種改良した方が手っとり早いと思うのですが、猫は犬のように躾けるのが難しく、宗教儀礼の一役を担うのは難しい。犬は寺院でマニ車を回す勤行をしたり、皇帝の葬儀で棺の先導役を務めるとかしていた。猫では無理。

 骨董で、インダス文明の彩色陶器や中央アジアの青銅器を集めていて感じたことですが、古代の中華文明の焼き物や青銅器は、西域の文明が伝わったものではないかと思っている(四大文明説は眉唾ってこと)。中華文明は、結局、西域のオリエントの文明から派生したんじゃないの?

 個人でアトランダムに集めてるので、体型的に網羅して言ってるのではないですが、発掘品を見比べていると、そんな印象を懐くようになった。

 横道に逸れますが、朝鮮の新羅の丸瓦、文様のデザインに惹かれて、いくつか骨董屋さんから購入したとき、日本の平安時代の丸瓦はこれの写し(コピー)ですよ、と言っていた。確かに博物館に同じものがある。

 さらに、その朝鮮の丸瓦を調べていくと、唐(中国)の写しなんですね。じゃあ、その唐の文様の由来は、と追っていくと、結局、オリジナルはシルクロードの向こうの西域の文様、その写しでした。インドで生まれた仏教(北伝)の伝来と同じような流れなことに気づく。神社の狛犬もそうなんだなと思う。

 

 シーズーやぺニキーズのような品種改良された愛玩犬の他にも、樹木の姿を人工的に変えて鑑賞する盆栽、宦官(かんがん)や纏足(てんそく)、盲舞は人間の身体改造だし、 中国の文化の底流には、 反自然というかアブノーマルな変形(トランスフォーメーション)に魅了される情動があるように感じる。

 漢心(からごころ)ってこういうこと、本居宣長が嫌ったのはこれだと思う。

 西域のインドライオンが中国で瑞獣になり、そういえばインドクジャクなんかも鳳凰になった。瑞獣をイメージした犬が作られ、その犬がイギリスに渡り、さらにお人形っぽく微改造されて現在のシーズーが生まれた。そして、その子孫が、日本でも朝夕、住宅街や公園を散歩している。

 

 先にシーズーがすごい犬だと書いたのは「犬葬」のことです。犬の葬儀のことではありません。チベットの鳥葬に因んで、とりあえず犬葬と書いた自分の造語。 

 鳥葬は、亡くなった人の遺体をハゲタカやハゲワシなど肉食鳥に食べさせる葬法。チベットでは昔から行われてきた。 犬葬は、犬に遺体を食べさせる葬法です。

 ラサ・アブソは、宗教的に格式の高い魔除けの犬だったので、高僧の葬儀のときにその役目を果たしていた。

 晴れた日の朝、公園の芝生で見かけるシーズー、ペットサロンできれいに身づくろいされ、トントン歩いている。 ぬいぐるみ人形みたいで、絵に描いたよう愛らしく、のどかな小市民的光景。

 キミ(シーズーくん)のご先祖は、人を食べてたんでしょ。もちろん全て人間の都合でそうなっていたので、人間界ってなんでもありなんだなと、つまり、人間界は善と悪、真と偽とか、どちらかに純化した世界ではないという意味に於いて、A級でもD級でもなく、中間のB級か、C級か、そういったところなのではないかと思う。

 

 犬の飼い主さんたちと話していて、犬と猫の両方を飼っている人もけっこういるのに気づいた。家の中で、人、犬、猫一緒に暮らしている。

 昨日、両方を飼っている年配の女性が、猫の方が頭が良くて、犬の行動の先を読んで、とおせんぼしたり、いじわるしてるのと言っていた。別の人からも同じような話を聞いた。猫より犬の方がおバカだと言ってました。

 犬の知能は人間の2歳児ぐらいだといわれる。人間を基準にした「知能」の物差しでは、犬よりも例えば、チンパンジーやイルカ、カラスとか、あるいは猫の方が高いのかもしれない。一方、精神活動の能力を比較する物差しは、もっと幅広いはずで、別の基準から見ると、犬の方が高いこともあるのではないか。

 というのは、常々、犬は共感性の高い動物だと感じていたからです。他人の体験する感情を自分のもののように感じとることを心理学の用語で共感と言っている、そういう性向のこと。

 心理療法のセラピー犬は、犬の共感性によって、辛い人の心を癒している。人よりも共感性の能力が高いともいえる。つまり犬と心が通じると、人間の側が感じられるからです。

 コロナ禍による巣ごもり生活で、この一年、犬を飼う人が増えている。可愛いからというだけではなく、人間の孤独感を犬の共感性が癒している。ご主人を亡くした年配の一人暮らしの女性が犬を飼っているのをよく見かけるのも同じ気持ちからだと思う。

 

 人間の中で共感性の高い人のことをエンパス体質と言っている。 どんな人が当てはまるかというと、基本的に敏感な質(たち)で、他人の思っていること、他人の体の痛み、辛さが分かる。他の人の気分の影響を受けやすい。映画や演劇を観ているとき普通の人以上に感情移入するといった人たちのことです。

 たぶん、程度の差はありつつも身のまわりに、そういうタイプの人はいるのではないかと思う。

 共感性は、持って生まれた体質とされているが、能力という言い方もできる。共感能力者(empathy)と呼ばれる。 他人の思っていることが分かるというのが昂じると、テレパシーのように見えるはず。言語を生みだす前の古代人は、互いのコミュニケーショを共感性に頼っていたので、現代人よりこの能力が高かった。言葉を使うようになって人間の共感性は衰えていった。

 3万年ぐらい前までいたネアンデルタール人は、言語を使っていたかはっきりしていない。確か、顎の骨格から言葉を喋ってはいなかった説の方が有力だという話になっていた。いまの人間の系統では、言語が生まれたのは10万年以内と考えられている。

 能力と言っても、共感性は、競争社会の中ではあまり生かしようのない能力ではないでしょうか。競争とは逆の方向に向かう能力ですから。

 

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ソラリスの海。茫洋とした「地球外生命体」らしきもの。抽象画っぽい。映画の特撮ですが)

 共感性について書いていて、東欧の作家スタニスワフ・レムのSF『ソラリス』を思い出しました。原著が出たのは1961年で、二度、ソ連(ロシア)とアメリカで映画にもなっている。

 ソラリスは、二つの太陽を持った架空の惑星で、表面を粘性のある海に覆われている。そして、その「海」が高度の思考力を持った生物のような活動をしていた。人間と地球外生命体とのファーストコンタクトの物語です。

 「海」は、人間の知識や論理では理解できない存在として描かれている。人間の想定してきた知性の枠外にある精神活動らしい。

 体、ボディがゲル状の「海」というのは、想定できなくもない。粘菌とかクラゲなどを思い浮かべれば、想像可能。脳、脊髄、筋肉のない腸だけの生き物が海の中に浮いているのがクラゲ。また、クラゲには前後や左右はないんですね。『ソラリス』以前にも天文学者フレッド・ホイルのSFには星雲状の知的存在が描かれていた。

 問題は、「海」の思考力の方で、こちらはボディよりも難しい。レムは、読者に人間の思考では理解できない思考の存在を示したかったと思うので、この場合、いくら考えても分からなくて当然。

 もし、向こうが人間と同じような思考をしていて、人類よりもっと進んでいるとすれば、遅れているこちらがいくら考えても解らないだろうし、晩年のホーキングは、近代の西欧文明と出逢った先住民のケースを引き合いにして危惧していた。つまり、人間は向こうに支配されてしまうか、滅ぼされてしまう。

 でも、人間の頭、思考で解るのは、自分たちと同等か、それ以下の存在だけなので、いくらホーキングが頭が良くても、ドングリの背比べで秀でてるぐらい(?)とすれば、やはりどうなるかは解らない。

 とりあえず、「海」は、自我のない、共感性のとんでもなく高い、そういった思考力(精神)を持った存在と解釈しました。人間でいえば、内臓系の心ということになるのではないか。中枢神経系(脳)の心ではなく、自律神経系の心が発達した存在。

 原作者のレムが共感性のことを意識して書いていたのかはよく分からない。そのイメージの断片、インスピレーションみたいなものは、あったと思う。

 人間が「海」にコンタクトを試みると、鏡の反射のように、自分自身の内面が戻ってくる存在、それが「海」の共感性=精神活動。・・・ここで自分自身の内面が戻ってくると書いているのは、小説や映画では、本人と過去につながりのあった人の姿(実は自分の化身)として現れるという話になっている。

 人間には、相手(「海」)の意思、意図が分からないのは、探ろうとしている相手は究極的には自分自身だからです。そういえば、ニコラス・ハンフリーという動物行動学者がゴリラの生態観察をしているうちに、自分自身の心を観ていることに気づく『内なる目』という本がありました。

 あるいは、古代ギリシャアポロン神殿の入り口には、つまりそこから先の神界に足を踏み入れる人間に対し、警告文として「汝自身を知れ」と刻まれていた。それと同じですね。

 「海」を探査するということは、いわば合わせ鏡の中に入り込んでいくのと同じ。自分自身の化身との共依存関係に陥っていく・・・悪夢っぽい。

 実は、人間はすでに地球上でソラリスの海(のようなもの)と出逢っていて、ラルフ・メッツナーという心理学者は、それをエンパソゲン( empathogen/共感をもたらす薬物)と呼んでいた。後にエンタクトゲン( entactogen/内面とのつながりをもたらす薬物)と呼ぶようになる。

 

 ところで、植物や鉱物にも意識はある、というか、言い方を変えて、植物の意識、鉱物の意識がある。人間の意識とは異なるタイプの意識。ソラリスの海もそうでした。

 地球内部の核・マントルは、単一の意識体のように思える。人間の寿命が長くても百年前後なのに対し、向こうは万年単位の時間で活動しているので、時間感覚が違いすぎて意思疎通はできない。 こちらが何か意思表示して、返事を受け取るのは400世代後では、ほとんど意味がない。

 意識は無機物にも生じるというところがポイントで、そうなると無機物のAIにも生じるのは時間の問題ではないか。

 地球の表面で生きている人間は、自我があるので一人一人別人ということになっている。でも、全体としての人類意識が醸成しつつあるように見える。人種や民族が違っていても人間は平等になってく反面、精神的には均一化したフラットな同じような人間になっていく。頭の中は集合知に統合されていく。この趨勢は、人類が群体生命化していく流れのように思える。どうもアリとかハチを連想してしまう。ネットはそれを加速させている。

 動物も植物も事実上、人類の支配下(保護下)にあるので、地球は、この先、核・マントル界と人間界という二つの意識体で成り立ってくようになる。

 とはいえ、人間界の方は、チンパンジーの祖先と枝分かれしたのが僅か600万年ほど前、核・マントル界と比べると春の夜の夢みたいな、今の繁栄は「瞬間的」な椿事。比べるのも野暮ですが、3,5億年の間、栄えたアンモナイトほどは長続きはしないと思う。

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           (ロシアの犬。頑張ってるって感じ) 

 

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