イランの小さな庭

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 庭園やガーデニングのことはよく知りません。だから独断の思い込みで書いている。小さな庭、そこがどこだったかというのはなかなか難しい。イラクのような、イランのような、どちらでもない場所、そこに住んでいた一家の庭です。

 その庭を目にしたとき、これは別世界だと感じた鮮烈な印象は、今もありありと残っている。正直に書くと、歳月が経っている分、内界でさらに美化されているかもしれない。まあ、そういうイメージの結晶化で人間の世界は出来ているので、仮にそうであっても想いに変わりはない。

 

 イラククルディスタンで泊まった家の小さな庭でした。・・・少しややっこしいですが、イラククルド人の支配地区になっていた砂漠(土漠)に隣国のイランから越境してきたクルド系イラン人の基地(以下、砦としときます。その方が実情に近いので)があった。その砦の中は小さな村になっていて、その村に住んでいる一家の庭です・・・分かるでしょうか?

 一応、そこはイラク国内になるのですが、イラク政府軍は入ってこれないエリアで、さらにそこだけはミニイランでした。でも、イラン政府と戦っているイラン系クルド人たちの造ったミニイラン。イラク領なのでイラン軍も簡単には攻めてこれない(何年か後にイラン軍機が侵入し砦を爆撃したという話を聞いた)。

 

 イラククルディスタンでもいちばん南部、イラン国境にも近い。その頃、ザクロス山脈にあるイラククルド人たちの天然の要塞(切り立った崖や巨大な岩に囲まれ、外部からは近ずけない)にいたのですが、1日だけ山岳地帯から平地の土漠に出てクルド系イラン人の砦を訪れた。 

 地平線の向こうまで褐色の土漠が続いている。強い日差しで暑く乾燥していて、木も草も生えていない。近くに村も人家もない。地図だと200キロぐらい先にバグダッドがある。

 遠くから見た砦は、土漠の中に中世の城跡が忽然と建っているように見えた。 近ずくと砦は、長方形の敷地で石壁で囲われ、四方に銃座が設けられていた。 鉄板のゲートが開いて中に入ると、車の通れる道があって人家が並んでいる。電線が通っていて各家は電気が使えた。商店みたいな建物はなく、ところどころに倉庫があって人気はない。

 人気はないといっても、イラクやイランの地方にある民家の多くは石壁で囲まれていて、外からは平家の建物の様子が分からず、住人はみんな家の中にいるので殺風景に見えるのは普通のことですが。

 

 その晩、幼子のいる一家の家に泊まった。心尽くしの夕食をいただき、一緒にお茶を飲みテレビを見てくつろぐ。クルデイスタンではどこでも食事中はあまり喋らず床に座って黙々と食べるだけ。それが習慣になっていて、その後にゆっくりお茶を飲みお喋りする。小さなガラスコップに紅茶を注ぎ何杯も飲む。

 観ているのはイランのテレビ放送。国境が近いのでよく観える。 その少し前、イランで日本のテレビドラマ「おしん」が大人気だったのでみんなよく知っていた。 

 民族的にはクルド人でもイランで生まれ育った人たちなので、文化的にはイラン国民とそれほど変わらない。 

 イラククルド人たちは素朴、情に厚くぶっちゃけタイプな人たち、また、世俗的で隠れて酒を飲んでたりする人たちとよく出会った。一方、イランのクルド人たちは純朴、真面目でひたむきな人たちが多かった。思い浮かぶのは沈思黙考タイプというか、同じ民族でも国民性の違いなのだろうか。

 

 翌朝、眼が覚めると家のご主人と娘さんが庭にいた。草むらに座って小さな植物を観察(?)している。朝陽が斜めから庭の草木に差し込んでキラキラ光っている。

 砂漠の朝はこの上なく美しい。東の地平線の縁に水星が昇ってくるころから陽が差してくるまでの短い時間、日中は灼熱の地でも、この時間帯は穏やかな静寂に包まれている。

 水星はアクアマリンの色をしている。光度がそれほど強くはないし、見える時間も僅かですが、地平線が平坦で、湿度のない澄んだ空気、人工物がなにもない砂漠ではとても印象的な星だった。あれは夭折した人の星、そんな気がした。そういえば、水星には紫式部清少納言という名前のクレーターもあるんですね。

 庭の半分はいろいろな花が植えられたお花畑で、半分が草むらになっている。奥にオリーブの木が植わっていて、ヒマワリも見える。

 目の前に柔らかな若草色の草原(くさはら)とお花畑があるなんて。家の周りは壁に囲まれているので庭は見えなかった。こんな場所に別世界のような空間があるとは・・・。

 戦地の中に、荒涼とした無人の土漠があって、土漠の中に砦の囲いがあってと次々、入れ子の中に入っていくと、いちばん奥にはお花畑があるなんて信じられるでしょうか。

(上の写真、お花畑の方から草むらを写しているので、ここで書いているお花畑の情景とは異なります)

 

 お花畑の植物で、細く丸まった蔓が伸びているエンドウ豆の小さくて可憐な花、透き通った薄紫のクロッカスの花、この二種類は覚えている。それ以外にも色とりどりの草花が咲いていた。 

 原色の目立つ派手な、大きな花はない。もちろん地味な花でもない。植えられている花には、一定の基調があるようで、比較的背の低い小さな草で、可憐な優しい色をした花々が選ばれているように感じた。

 日本だと伝統的に秋の七草のような鄙びた花が好まれてきた。志野の古陶に描かれている緋色の草花文が目に浮かぶ。晴朗で慎ましく、ちょっと侘(わび)しくもある風情、李朝の清貧の美から来ているんでしょうか、現在、こういうのをいいなと思える感性を持っているのは日本人だけなのではないか?

 一方、この庭は、もっと煌(きら)びやかな色感の、一つ一つは小さい花が至るところにちりばめられている。

 バイカラーやウオーターメロンのトルマリンとかタンザナイト、モルガナイト、ペリドット、クンツアイトといった石を連想する。全体として明るく繊細でフェミニンな感じの花の世界になっている。まるで庭自体が宝石箱のよう。

 

 なるほど、こういう色感、配色がイラン人の好みなんだな。ペルシャ絨毯やタペストリーの絵柄、ミニアチュール(細密画)、モザイクタイル、貴石・宝石を使った装飾品、家具や楽器に施された寄木の象嵌細工、分厚い古書の装丁、多彩花文皿、モスクの壁の装飾やステンドグラス・・・それらにこめられた、イランの人々の原イメージは、これなんだな、みんな繋がっているんだな、と解りました。

 こういう感性って遡るとイスラム以前のペルシャに由来していると思うのですが、素直に人間の本性を表しているのではないか。

 ペルシャは最盛期、ほぼオリエント全域を支配した世界帝国だった。人類の歴史上、最初の世界帝国です。

 ところで、アメリカもドイツもロシアも鷲が国章なのは、ローマ帝国の国章が鷲だったからでしょ。現代のEUアメリカ、ロシアは要するにローマ帝国の分家筋で、国連常任理事会の5カ国のうち4カ国がそこに含まれている。

 今年が2020年だと言っているのもローマ帝国の皇帝が決めた西暦によって決まってるわけでしょ。世界史が西暦で配列されているのも既成事実になっている。もしペルシャがその後、ギリシャ、ローマの文明に覇を奪われなかったら、世界は、今とは別種の異なる文明になっていたはず。

 

 中国の庭は、なんか奇を衒う方向に進んでいった。特に清朝になってますます、満漢全席の様相を呈してきた。清の磁器もそうでした。反自然の人工楽園に向かっていく精神の衝動みたいなものが底流にあるのでしょうか。

 満漢全席は、当時の中華世界では異民族の皇帝、つまり満州人が漢人(中国人)の上に位置していることを象徴している料理ですよね。・・・あの地の異民族支配は元もそうだったし、ヨーロッパの黄禍論で最悪のパターンは日本の皇帝(天皇)の下に中国が統一されることだった。日中連邦というか、その実現は西洋の没落を意味していた。

 そういえばバブルの頃、満漢全席を食べにいくツアーとか雑誌の特集があったが、あのころが日本のベルエポックだったんだなと今にして思う。

 21世紀になって、ワシントン条約で動植物の規制が強化され、感染症のことも大きくなって、もう満漢全席のような欲望全開の時代は終わっているのかも、ということでは20世紀の徒花だったのか。・・・話を戻します。

 また、日本の庭は結局、中国の宋代の禅から派生した枠組みから自由になれていないように感じる。すでにそれが伝統になっているので今更どうこう言う筋合いではないのですが。

 利休の侘び寂びもそうなんじゃないかと思うのですが、創始者が偏屈で意固地になっていたのを門下が真に受けて、あるいは門閥の権威づけのために祭り上げられカリスマ化し、それを何百年も踏襲し続けて今に至ってるのではないか。

 嘘から出たまことで、何百年もそれを続けてると、最初は虚妄でもいつしか実体化してくるんですね。別の言い方をするとプラシーボ、ただ歴史・文化に裏打ちされているプラシーボなので気づけない。

 その意味では、かなり特異な感性だとしても、それが日本なのかも。三島由紀夫は亡くなる3ヶ月前、日本にはオリジナルなものは何もないんだ、何もない、無のるつぼの変性力こそが日本なんだと言っていた。その変性力のことですね。

 

 ペルシャの感性は、幼子みたいに素直なように感じました。和辻哲郎は、それを風土に結びつけて解釈してるけど、そういうのって一見、説得力があるようでいて、でも結果から恣意的に、自分の認識できる範囲内の要素を探索して原因を言挙げしているだけなんじゃないか。認識できない要素、そしてそこに核心があるということ、ないでしょうか?

 「楽園」を意味する「 paradise 」という言葉は、いにしえのペルシャ式庭園のことをそう呼んでいたことに由来しているとか。

 この一家の庭は、特別な庭ではなく、どこにでもある庶民の家の庭でした。立派な庭園とは比べようもない。でも、究竟、そんなことは末梢的なことで、その土地で育まれた感性の核は同じで、この人たちの魂に焼きついているパラダイスの原イメージはこれなんだなと発見した気持ちになっていた。

 いまこんなふうに書いていて、もしかして大きな勘違いをしている可能性がないとはいえない、その可能性は認めるにしても、あの朝、受けた鮮烈な印象は今もありありと生きている。

 

 季節がずれていたのか、庭で薔薇(ばら)の花は見なかった。またイランの国花といえばチューリップですが、それも見ていない。そう、一家の庭の話しではないですが、薔薇といえばこんなことがありました。

 国境近くの町で出会ったクルド系イラン人の若いペシュメルガ義勇兵)は、一日中、庭の薔薇の枝の手入れや水遣りをしていた。本来の仕事というか任務はしないで、70~80センチほどの茎の根元の余計な土を掃いたり、支え棒を立てたり、細いことまで熱心にやっている。

 元は地方役場のちょっとした広さの庭、古いが立派な建物の造りはイギリス統治時代のもののようでした。横浜の山手にある古い洋館といった感じ。イランから険しい山を越えてやってきたペシュメルガたちが建物を接収して宿泊所になっていた。

 ここに寝泊まりしていた40人ほどのペシュメルガは全員、中学生ぐらいで雰囲気は林間学校のよう。子供だけで編成された軍隊って奇異な感じですが、その場にいると別に普通な感じで違和感もないんですね。

 部隊長は大人のペシュメルガですが、生徒たちの引率者のオジサンといった感じだった。とにかくワイワイ、ガヤガヤ賑やかで、支給されたAK47と手榴弾を持ったまま鬼ごっこみたいな遊びをしている。規律は全くないのですが、十分戦力になっている。大人よりも恐怖心が少ないこと、体が敏捷なこと、これが優位点になっているからです。

 イラクペシュメルガでしたが、対戦車ロケット弾を抱えて一人で政府軍の戦車2両を撃破した少年がいた。彼らの中ではオリンピックの金メダル以上の名誉で、周りの仲間、大人たちからヒーローになっていた。

 ・・・ふと、思うのですが、この少年、ごく普通のひょろっと痩せた中学生か高校に入ったぐらいの年齢、彼には特異な才能があったのではないか。身ひとつで戦車をやっつける才能(?)。でも、この才能、平時には分からないし、生かしようのない才能なんですね。

 庭先のテーブルに手榴弾を置きっぱなしにして、ぶっかった拍子にテーブルが傾いて手榴弾が転がり落ちてきた。あっ、危ない、みんな慌てる。瞬間的に運動神経のいい奴が飛びついてキヤッチした。すると、みんなよくやったと大喝采、一堂さらに盛り上がる。終始そんな感じでした。

 

 その庭は、完全に薔薇園になっていた。いったい彼は、ここで何をしてるんだろうか? 薔薇を愛でる目つき、表情からして、彼にとって薔薇は特別な存在なことが分かる。

 彼は変わり者と見られていたようで仲間たちの輪には入らず、あまり喋らないが、薔薇の枝葉とは恋人みたいに接している。部外者の目には薔薇フェチのようにも見えてしまう。

 酒を飲まない文化で生まれ育っても、人は薔薇に酔うってことがあるのかも。シラフの酔いって想像できないかもしれませんが、言葉の比喩ではなくてそういうリアリティも確かにあって酔いというか、陶酔というか、そんな意識になっているのではないか。

 そういえば、インドの13〜16世紀のバクテイ運動は、要するに神に酔うという現象だったのではないか。ハーレクリシュナの一団が太鼓を叩き踊りながら歩いてるのを見ると(最近、見ないですね)、バクテイ運動を思い出したものです。また、流れは違いますが、ラーマクリシュナも神に酔っていた人だった。

 薔薇の香りといえばローズダマスク、近隣のシリアの薔薇に由来している。ペルシャの時代は同じ文化圏でした。ローズダマスクの香りは人を陶酔境に導く魔法ともいえる。また、ペルシャの文化には詩に酔うというのもあって、嗅覚と詩が共感覚のように繋がっているようにも思う。

 彼の場合は、かなり極端でしたが、イラン人にとっての薔薇の花とその香りは、こういうものなんだなと、垣間見た思いです。

 

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