快楽について考える

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 梅雨の長雨、窓際に置いて眺める観賞用カボチャ。坊ちゃんカボチャとかブッチーニとかいろんな品種がある。左の卵と見比べ、小さいなーと感じるがこれで成果、食べれます。カボチャのプリンはお勧め。

 

 人間の知っている快楽の種類って「パンとサーカス」の古代ローマの時代にだいたい出揃っていて、現代もたいして変わってない。産業革命から電気、自動車、飛行機、宇宙ロケット、コンピュータと文明は大変化したのに、快楽に関しては2000年前から足踏み状態・・・人類は無意識のうちに快楽を自己抑制してるのかも。

 「快楽」という言葉にはどうも背徳的なイメージがつきまとっている。そのイメージは自己抑制の仮象なのではないか。

 一方、人間社会が快楽を自己抑制してきたのにもそれなりの理由があるように思える。 キリスト教イスラム教、仏教、儒教、どの教えも快楽を遠ざけている。 なぜなら、それを解いてしまうと人間の内にあるドロドロした、自分でも訳の分からないものが出てきてしまい当人も社会も収拾がつかなくなるパンドラの箱だから。 

 ということでは、いまのところ人間にはこれぐらい(現状)が身の丈に合っているのかもと、なんかはっきりしない曖昧なスタンスになる。

 快楽の大きさ、深さ、高さというか、なんと言えばいいのか、その極み、頂点みたいなことについて見聞きしたこと、書いてみた。実話ではあるのですが、常軌を逸しちゃってることなので奇妙な思考実験というか、想像の世界のお話しと思ってください。極みとか頂点って求めていくと、けっきょく廃人になっていく。やっぱり、そういうのってよくないですよ。

 

メンヘルとギャンブルと全能感

 夕方、Aさんから電話がかかってきた。この日、パチンコで大勝したという戦果報告でしたが、やたらテンションが高い。「やった、やった」、「最高、最高」と繰り返し、途中から堰を切ったようにハ、ハハ、ハハハハと笑い出した。そのまま哄笑が止まらない。

 前からこんな電話、たまにあったので、ああ、よかったですねと軽く相槌を打つのですが、歓喜状態のAさんの耳には伝わらないようで電話からは哄笑の声しか聞こえてこない。

 街中で歩きながらかけているようで、近くを歩いている女性たちに、「最高!」とか「よろしく!」とか一方的に声をかけているのが聞こえてくる。身なりは普通で暴力的な雰囲気はない人なので特にトラブルにはなっていない。

 でも、ここまでくると、かなり異様な感じ。夕暮れの都会の雑踏の中、ひとり高らかに哄笑しているAさんの毒気にあてられてしまった。

 

 Aさんは競馬、パチンコ、それからゲームを中心に生きている人。平日も地方競馬、必ずどこかでやってるんですね。こちらは、どれも全く縁がないので、いつも話しを聞いているだけですが、Aさんによれば、ギャンブルは賭けではなくゲーム理論に基づいた科学だそうで、自分の分析・予想能力に絶対的な自信を持っていた。聞いていて、自信過剰なぐらい、まあ自分を天才だと思っている人なので当然なんですが。

 Aさんは誇大妄想の人だと思っている。自分は人々に推挙されて日本の指導者になるしかないという・・・最初、聞いたときは冗談だと思ってましたが、その後も一貫して同じで、本気で言ってるんだと。国民がAさんに対して「大政奉還」をすることで超法規的措置により指導者になるらしい。

 でも難しいですね、ついこちらの本音を口にしてしまい否定すると深く傷つけてしまう。本人にとっては、正直に「本当」のことを言ってるのですから否定されると辛いわけです。だからAさんは、通っている病院でも「本当」のことは言わない。もし「本当」のことを言ったら誇大妄想と診断されるのが分かっているので、病院では、うつに当てはまる症状を話すようにして、うつの薬を処方してもらっている。

 ちょっと、付け足しですが、超法規的措置により指導者になるといっても、国民から国家権力を差し上げますので指導者になってくださいとお願いされ、しょうがないから指導者になってあげるという受け身的、平和的(?)な考えです。

 Aさんは、政治家も裁判官も学者も、誰であろうと歯牙にもかけない。こちらは、なんとも驕慢なとへきへきしつつも、同じ誇大妄想でも、例えばヒトラーや麻原、あるいは近年、凶悪事件を引き起こした人物たちのような攻撃性は全くないので聞き流している。

 そもそも誇大妄想って言葉、良くないですね。最初からその人を否定的に見ているのですから。普段の生活で他人に迷惑をかけているのではないし、今の人間世界では理解できないインスピレーションぐらいでもいいのかもしれない。

 地動説を唱えたガリレオが当時の世の中では認めらず屈折した思いでいたのと同じ心境・・・本人はそんな現実の中で生きている。

 

 知り合いの中には、双極性障害の人、ADHD(注意欠如・多動性障害)の人もいる。つきあってきて感じていることですが、誇大妄想、双極性障害ADHDは、部分的に似ている。全体像としては、それぞれ違っているけど、ある局面では同じような言動をしてるなと感じる。・・・抽象的な話になってくのでこれぐらいにします。

 最初は、彼らに振り回されずいぶん疲れましたが、だいたいのパターンが分かってくると、こちらの対応もそれなりに要領がつかめてきて、なんとかふつうに付き合えるようになった。う~ん、距離のとりかたが難しいですね。相手を理解しようと努力すればするほど、どうしても平行線になってしまうところに接してしまう。そのあたりは、どうしたらいいか、まだはっきりしていない。できるだけのことをして、後はなりゆき任せ、正直、そんなところです。

 平成になってから、いや1990年代に入ってぐらいからか、日本社会のあらゆる場で人間関係の許容範囲が狭まってきて、そういう人たちの言動は、心の障害に分類されるようになってきた。 考えてみれば、 一昔前までは、どこにでも普通にいる変わり者ぐらいだったのではないか。

 そういえば、鬱(うつ)と診断される人が急増したのも、プロザックのようなSSRI(選択的セロトニン再取込み阻害薬、要はニュータイプ抗うつ薬)が流行したのもその時期でした。

 

 歓喜状態のAさんの毒気にあてられてしまったと書きましたが、だからといって怒ってるのではないです。ドアを開けたら、ツァラトゥストラが高らかに哄笑している場に出くわし、圧倒されちゃったという感じ。

 それで気づいたのですが、誇大妄想とギャンブルの相性は絶妙で、この組み合わせにより常人には手の届かない快楽を得ているのではないかと思いました。

 毎日、Aさん頭の中はギャンブルのことだけのようですが、注ぎ込む賭け金を調整しており、大穴狙いでもないので、経済的に破綻とかはしていない。それなりに合理的に考えている。

 ギャンブルっていうと、よく聞くのは、人が破滅に向かっていくアブノーマルな話しばかり。そんな小説や映画が多い。でも、そういうのって150年も前にドストエフスキーが書いてた小説の焼き直しでしょ。しょせんは二番煎じ、面白くない。でも、元々の地がアブノーマルな人は、そんな月並みな物語を超えたスーパーノーマルなんですね。

 話しを聞いていて、Aさんがギャンブルに夢中になっている核心は、お金よりは、勝利感を味わい、それに酔うところにあるように感じた。毎回、勝利の美酒に酔ってるわけです(ノンアルコールで)。儲けは二次的なので、ギャンブル依存症のように破綻することもないと、よく出来ている。

 つまり、勝利感が誇大妄想をさらに盛り上げる、ギャンブルは自分を全肯定してくれるこの世で唯一のキーになっている。そんな訳で頭の中はギャンブルのことだけ。それにしても誇大妄想がさらに誇大化された世界って、いったいどんな境地なのか。それって大洋感覚? ニーチェの言っている幼子のような超人になっているんでしょうか。

 

 Aさんは、自分が日本で最高の存在だという実感を懐いている。どこの国の独裁者でも、大富豪でも有限の生の中で、比較の世界での優位というレベルだと思うのですが、Aさんはそういうレベルを超えた全能感を得ているのではないか。それは自分たちにはうかがい知れない快楽なのかも。

 

失神するほどの美味

 Bさんと出会ったのはオランダ滞在中のときでした。1990年代、オランダでは大麻の個人使用が合法化されていて、アムステルダムの街には大麻を楽しみにやってきたアメリカ人の観光客が多かった。飛行機をチャーターして訪れるグループもいた。

 ところで、かってオランダはヨーロッパのみならず世界の経済、金融、製造業、文化の中心だった。17世紀のころで、日本では徳川時代のはじまり、鎖国の間もオランダとは交易が続き、蘭学が生まれた。

 歴史上、アラブ、ペルシャ、インド、中国もそれなりの存在感はあったけど、要は地域の一番店みたいな位置に留まっている。一度、頂点に立つと違うと思うわけです。何がって、かって自分たちの価値観で新しい人類世界、つまり近代という仕組みを創ったのですから。別の言い方をすると、現在の世界中の国々の内に過去のオランダ人の意思、想いが継承され生き続けているってことになる。

 いま、分かりやすいからか、GDPの経済規模を国家を比べる指標にしているけど、そういうのはフローの数字にすぎないし、領土の面積とか人口も長い目で見ると一時的な数字だと思う。

 アムスの街や人々の精神性に触れると、世界の中心だったという歴史的な蓄積は大きいなと感じる。

 

 大麻の作用のひとつに食べ物がなんでも美味しく感じられるようになることがある。味覚の感度というか、味の豊かさが信じられないぐらいアップする。

 食べ物がなんでも美味しくなる。考えてみれば奇妙な作用です。白米のご飯、食パンなんかでも、そのままの味がとんでもなく美味しく感じられる。特に、肉料理やスウイーツのような甘いものはすごい。Bさんはそれにハマった人だった。

 Bさんは、アムスの街の商店やスーパーでいろんな食品を買い込んできてはホテルの部屋で食べていた。この場合、レストランに行くよりも自由に飲み食いできる場所の方が適している。

 ソーセージ、ハム、クロケット(クリームコロッケ)、ピザ、ハンバーグ、フライドポテト、サンドイッチ、チーズ、クッキー、ワッフル、チョコレートとなんでもあり、いろんな形のパン、缶詰、フルーツもあった。

 オランダ名物といえばニシンの塩漬けをパンに挟んだのがありますが、どうも魚や野菜はインパクトが薄く、この場合はそれほどはといった感じ。

  アンネの日記に出てくる隠れ家みたいな造りの屋根裏部屋で大きなソファーにゴロゴロしながら次々、食べていく。揚げたメンチボールを口にするや、旨い~~と呟きながら絨毯の敷かれた床に崩れ落ち、あまりの美味しさにのたうち廻っている。

 コロッケ料理の中に詰まっているクリームの食感に、う~~~と恍惚とした表情、体がとろけていくようなエクスタシー状態になっている。えーっ? 何、この痴態、尋常じゃない。

 のたうち廻っているように見えたのは、味覚に合わせて自然に体が動いていたのでした。音に合わせて体を動かす舞踊かダンスのよう、床に転がってオーケストラの指揮者のような動作をやっている。見た目、異様な光景ですが、別に精神が変になってるのではなく、純粋に味覚の世界を漂っているんですね。

 

 ここまで美味しさに感動している人間、見たことがない。ふつうに美味しいと言ってるのとは次元が違う。あまりの旨さに気を失うってこと、本当にあるんですね。もともと Bさんは先天的に味覚の感受性に秀でた人だと思うのですが、それを差し引いても凄いなと、見ていたこちらが感動しました。

 アイスクリーム、チョコレートが口の中でトロける味、甘さの感度が倍加する。超激辛トウガラシの辛さが痛覚に感じられるのに対し、甘さの方向に振れた超激甘を想像できるでしょうか。甘さの場合は、意識が朦朧としてくる。

 味覚の微細な変化をハーモニーやリズムのように感じとり音楽を楽しむように味わっている。味の幅や厚み、味覚の変化を立体的に感じている。味の波動がカーブしたり、渦を巻くように感じている。味の変化を色の変化のように感じている・・・まさに共感覚が起きている! これって凄いことです。

 口にしているのは街で売っている普通の食品です。客観的には同じもの、例えば何もつけていないただのパンでも主観の側の感覚(味覚)が変化すると、ここまで変わるんですね。

 

 味覚が極まると快感のエクスタシーに転化する・・・自分の知る範囲では誰もそういうこと語っていない。ちょっと大げさかもしれませんが、多くの人は、人間の舌にはこんな快感があることをまだ知らないのではないか。ということでは、すごい発見をしたような、あるいは、くだらない馬鹿話しをしてるような、どっちなんでしょうか?

 

ロシアンルーレットと神的な至福感

 Cさんの実体験を聞いた話です。この人、ロシアンルーレットをしたことがある。19世紀のロシアの小説、レールモントフの『現代の英雄』に出てくるあのロシアンルーレット。 

 回転式の拳銃に弾を一発装填して、弾倉を適当に回転させてから運まかせで自分を撃つゲーム?、儀式? 自殺願望のような動機ではないんですね。小説の中では、運命というものがあるのか、ないのかを実証する神学的な実験として考案されたという話でした。これって人間が神を試すことで、そんなこと考えるってどうかしている。

 

 運がよければ無事、何も起こらない。見返りはなし、あるのはハイリスクだけ。ふつう誰もこんなことしない。でも、Cさんはしたんですね。なぜ、どうやって、どこで、いつしたのかとか、詳細は省きます。

 やった直後の心境だけ、聞いた話を書きます。その前と後では、全然、世界が変わっていたそうです。目にする周りの風景は同じなのですが、全く違う世界に感じられる。

 昨日と、いえ、数分前の自分と何も変わっていないのに、それまで人生で感じたことのない至福感に包まれていた。 その前後、時間にして1秒もたっていないのに、世界が全く変わっている、こんなことあり得ないという実感がすごく不思議だったと言っていました。

 それは、思ってもみなかった心理状態だったとか。事故に巻き込まれて九死に一生を得たというのとは、また違うパターン、類例がないので、どんな文脈で語ったらいいのか本人も分からないようでした。

 理知では計れないこと、体験した人だけのリアリティってこんな感じなんでしょうか。可能性としては誰でも分かるはずのことだけど、その条件は、体験してみるという踏み絵。簡単だけどすごく難しい。

 ところで、いま地球の外にいく、月にいく旅行が実現しようとしている。これまでとは違って民間旅行、つまり個人的にいくってことは大きい。地球を観察対象として見るんだからインパクトある体験だと思う。

 1983年、もう40年近く前に出版された『宇宙からの帰還』(立花隆)、宇宙飛行士たちに起きた精神的な変化をインタビューした本を思い出す。こういうテーマは、インタビュアーの質問の仕方、つつ込み方により、引き出せる答えが変わってくるのですが、立花氏は宇宙飛行士たちから興味深い話を聞き出している。・・・そういえば、Cさんの体験と、つながっているような話をしている宇宙飛行士もいました。

 この本の後、『臨死体験』、対談集『生、死、神秘体験』など同じ問題意識で書かれていることからも立花氏にとって生涯のメインテーマ(のひとつ)だったのではないかと思う。う〜ん、ちょっと言いたいんですが、この方のスタンス--知識、情報をたくさん集め、それを理解し整理することで何かが分かると信じていたのだと思うのですが、人間の意識の世界は、そういう手法では分かり得ない、突き詰められないんじゃないか。

 

 直後、恐怖心に襲われるとか、どっと疲弊したとか、そういうネガティブなものは皆無で、雲ひとつない真っ青な青空のような完璧に美しい澄んだ至福感だけの純化された世界。月並みな言い方しかできないけど、人間は生きているだけで幸せなんだと、心の底から100パーセント分かったという。

 要は、人間の全肯定ってことだと思うわけです。そんなことって本当にあるの?人間の知性は、全肯定ってことに疑いを持っのが当然、でも、その疑い自体もまた疑わしいんじゃないのかとも思う。

  一度、そんな心境になっても時間が経つと、その感情も薄れていくのでしょうか、トラウマみたいなものが残ったのでしょうか、聞いてみたら、細部の記憶は薄れてたりするけど、ありありとした実感はそのまま、歳月を経ても変わらないという。

 

 Aさん、Bさん、Cさんと、どの話しも一般的な意味での「快楽」に含めていいのか、たぶん失格でしょうね、書いてる自分で分かっている。でも・・・と、ぎりぎりのところで、何か引っかかっている。

 「この世は楽しんだ者が勝ち」と言ってた人がいた。人生の優先順位として幸福、健康、成功、金などよりも快楽の方が上だと言っていた。思うに、いまの日本人だと平穏で不自由ない生活がいちばんといったところではないか。だからこんな極論に賛同する人、少ないと思いますが、話した人のことを知っている自分には、末期の目からこの世を見ている人なので、その人なりに正直な、素直な言葉だと思った。欲界の忉利天、夜摩天の囁きのようにも聞こえ、耳に残っている。

 そうそう、この世は愛と美だけで十分と言ってた人もいた。これも負けず劣らずの極論、でも日常、ふつうに生きてると、頭の中がステレオタイプ化してしまうので、それを揺さぶり、硬直化、劣化を防ぐために、極論にもそれなりの意味があるのかも。

 

 最後にちょっと趣きを変えて・・・古代ローマの時代から現代(19世紀末から20世紀初頭)に蘇った女性が主人公の『新しい逸楽』(ピエール・ルイス)という短編小説がありました。澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』の最終章で紹介されていた本です。

 彼女は、せっかく未来に蘇ったのだから、この世界で何か新しい快楽を体験したいと探すのですが、見つからない。自分の生きていた古代の時代から新しい快楽がなにも生まれていないことに憤慨する。彼女は快楽主義者ですがエピクロス派ではないんですね。

 でも、黄泉の国に戻る前、最後にそれを見つけた。2000年の間に唯一、発見された新しい快楽はタバコだったことを知る、そんな話しでした。大航海の時代、新大陸からもたらされたので確かにそうです。世界の四大嗜好品のうち、コーヒーはアラビア、茶は中国からもたらされたので、同じストーリーの物語ができそう。

 他愛ない話ですが、フランスのエスプリの中庸精神、いいなと思う。快楽もこれぐらいが人間の身の丈にあっているんでしょうか。

 

 

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