新石器時代の矢尻と死海文書

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 上の写真は、北アフリカサハラ砂漠に落ちていた石器。砂が風に飛ばされ、地形が変わると埋まっていた石器が地表に出てくる。フランスの業者(トレジャーハンター)が拾い集めてきたものを譲ってもらった。

 サハラ砂漠は、アフリカ大陸の北部11カ国にまたがる広大な面積(アメリカの国土面積と同じぐらい)で、この石器はエジプトの中西部、リビア国境に近いグレート・サンド・シーから出土した。砂の上にふつうに落ちていると聞きました。

 他にも砂漠の薔薇(重晶石)、古代サメ(オドダス・オブリークス)の歯の化石、隕石の副産物リビアングラス、落雷の副産物フルグライトなど、砂漠から掘り出したものが市場に出回っている。

 サハラ砂漠の11カ国は、かってフランスの植民地だった国が多いことからフランスの業者が目に着く。

 

 2020年10月、フランスの関税当局が密輸された遺物をモロッコに返還したというニュースがあった。北アフリカのモロッコから車で運んでいる途中、フランス国内で摘発された。遺物の数は2万5500点、重量3トンというからすごい量。

  押収品の写真を見ると、石器の矢尻(上の写真とほぼ同じもの)、 古代サメの歯の化石がザクザク(たくさん)写っている。一目でサハラ砂漠に埋まっていたものだと分かる。

 このサメの歯の化石は、日本でもよく売られていて、ニュースは氷山の一角というか、たまたま摘発された例外的なケースで、ごく普通に流通している。

 

 写真は新石器時代の石器で、4000~6000年前のものと推定されている。年代を確定できる地層や遺跡から出たのではなく砂漠に落ちていたものなので、形状や作りの特徴から考古学の通説を当てはめた数字。

 石器に関心のある人ならだいたい見当がつくことですが、4000~6000年前というのは妥当な数字だと思う。大まかにメソポタミア、エジプトで都市が生まれ、家畜や農業が始まるころ。北アフリカが砂漠化していく時期にあたる。

 5000年前ぐらいまでのサハラ砂漠は、いまとは環境が異なり、草原で森もある緑豊かな土地だったといわれている。いま砂漠に落ちている石器は、そこで暮らしていた人々の遺物だと思われる。

 素材は、通称チヤートと呼ばれる鉱物、石英が玉髄(カルセドニー)化した石。別名、火打石と呼ばれたりもしている。

 チャートは、硬いだけでなく、潜晶質と言ってきめが細かく粘りがあり、細かな加工をするのに適している。石英は、地球を構成する最も基本的な物質(二酸化ケイ素 、SiO₂) で出来ている。チャートの産出地は、どこにでもあるとまでは言えないにしても、自然の中で暮らしてていた古代人ならば、見つけ出せたはず。石器に加工するチヤート原石を採掘していた鉱山の遺跡も各地で見つかっている。

 

 「石器」といっても、単純に石を割ったら出来ましたといった素朴な作りではない。けっこう精緻に作られている。長さが3~4センチと小さく、また薄く作られているうえ、磨製石器といって表面を滑らかに磨いている。また、端を細かく砕いて刃状に加工している。

 矢尻の形状を見ていると、注意深く丁寧に作業しているのが分かる。先の尖りも、肢の部分も、薄い石なので粗雑に扱えば簡単に折れてしまう。ずいぶん細かな仕事をしてたんだなと思う。

  これと比較すると、今から約1万数千年以前の旧石器時代の石器までは、個人個人で作っていたような単純な作りだった。それでも後期旧石器時代の石器になると、造形が進歩したのが分かる。細かな話になるのでとりあえずこれぐらいで。

 ということでは、これらはチャートの原石を採掘した後、石を同じようなサイズに揃え、いくつかの工程を経て仕上げていく工房のような場所で、それも大量に作られていたのではないか。文字やお金の生まれる以前の世界にも「製品」といえるようなものがあったことになる。

 

 当然、石器作りの職人のような人たちがいたはず。 石器作りも、このように精緻な段階になると、人により手先の器用さ、上手下手があるわけで、 集団の中で職業といえるような役割分担、つまり分業があったと思われる。察するに、同じ時間でたくさん作れる工程の工夫、たくさん作れる人を揃えるといった生産性みたいな考え方も出てくる。職業の起源は、このあたりから始まったのでしょうか。

 石器、つまり石を素材にした加工品としては、最高の技術水準に達したものではないか。指でつまんで眺めていて、つくずく感じる。石を素材にしている限り、これ以上、凝ったもの、精緻なものを作るのは難しい。    

 でも、この地から出てきた石器が世界で一番高度だというのではない。他の地域からも同水準のものが出ているので、 例えばアジアの東端にいた縄文人の石器にもこれと瓜二つのものがある。金属を生み出す以前の世界の技術的限界がこれ、ということです。  

 

 2017年、アラビア半島ヨルダン川西岸にあるクムラン周辺で12番目の死海文書が見つかった。1947年に最初の死海文書が見つかり、その後、1956年まで計11の文書が見つかっている。欧米では、20世紀最大の考古学的発見といわれるニュースになった。今回、新たな文書が見つかったのは60年ぶりのこと。 

 死海文書とは、大まかに紀元前2世紀から紀元1世紀に作られたユダヤ教関係の写本のこと。イスラエル死海近くの洞窟の中にあったので死海文書と呼ばれている。 11カ所から900点以上の写本が見つかっている。通説ではユダヤ教エッセネ派という、いまふうに言うとユダヤ教の教えを厳格に守る原理主義者といった人々によって書かれたといわれている。

 乾燥地帯の崖にある洞窟の奥に古い土器の壺があるのを羊飼の少年が見つけ、壺の中に羊皮紙やパピルスの巻物(写本)が入っていた。二千年の間に劣化して断片になっているものもある。古代から届いたタイムカプセルでもある。

 

 ユダヤ教の写本が見つかったことが、欧米でどうしてそんなに注目されたかというと、写本が作られたのがイエスの活動していた時代と重なっていたことが大きい。キリスト教ユダヤ教の分派として生まれたわけだから、何か書かれていないか、そこに関心が集まった。

 新約聖書に記されているイエスの活動の足跡を辿ると、イスラエル北部のガリラヤ湖の周辺に収まっている。イエスは日本の一つの県よりも狭いエリア内で布教していたローカルな人(?)だった。・・・ところで、今年が2021年なのも、あるいは、自分が生まれたのはいつか、過去の歴史も、みんなこの人の生まれた年を起点にしてるって、なんか変だなーと思っている。

 クムランは、そのガリラヤ湖から南に直線距離で100キロちょっとで、もしかしたらイエスに関する新情報も書かれているかも、という期待があった。イエス自身がエッセネ派だったのではないかという説もあった(いまは、その説に否定的な意見が多数ですが)。

 いまの世界の枠組みを作っているヨーロッパ文明の根っこにはキリスト教的な価値観がある。自分たちの価値観や人生観を揺るがすようなことが書かれていたらと想像する心理、そう、地球外の知的存在との遭遇を彷彿とさせる。人間の歴史で、これまでになかった面白いこと、本気でワクワクするようなことといったら、こんなことぐらいなんじゃないか?

 いまのところ、11の文書の中にイエスに関する記述は見つかっていないようですが。

 死海文書が最初に見つかったとき、クムランはイギリスの委任統治下で、その後、ヨルダン領になり、現在は、パレスチナ政府のエルサレム県になるが、実勢としてはイスラエル支配下にある。そんな土地で盗掘も多い。欧米に持っていけば高く売れるわけですから。

 すでに流失している文書もあるし、巧妙に偽造された文書が市場に出回っていたりもしている。今回の文書は、イスラエルの発掘チームが発見した。

 

 ・・・途中から、別の話しになっていました。なんで、そんな話をしてたのかといいますと、今回、死海文書の見つかった洞窟からは、新石器時代の石の矢尻も見つかっていたからです。

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(左・12番目の死海文書の見つかった洞窟にあった石器。右・死海文書の巻物の一部。CNNのニュースより)

 写真の矢尻は、上のサハラ砂漠のものと同じ作りでした。形に違いがあっても、基本的な構造が同じ。それを見て、最初、ちょっと奇異な感じがした。石器の時代はとっくの昔に終わっているはずなのに、なんでそこにあるの?

 

 新石器時代は、青銅器や鉄器を作り出すことで終わるのですが、クムランのあるパレスチナは、肥沃な三日月地帯と呼ばれる古代文明の中心地域の一角にあり、4000~3500年前に新石器時代は終わっている。  

 でも、死海文書の書かれた約2000年前も石の矢尻は使われていたようです。金属を使うようになっても、石器はずっと使われていた・・・考えてみれば、新しい技術が使われ始めたのがいつかは分かるけど、古い技術が使われなくなったのはいつか、その区切りにはいろんな考え方がある。

 

 アマゾンの奥地やインド洋の北センチネル島の先住民は、外からの接触を拒み、今も弓で狩猟し、石器時代を生きているという。他の地域にもそういう人たち、いるのかもしれない。

 少数ながらも、世界にそんな人たちがいるのだから、石器時代が完全に終わったとは言い切れない・・・詭弁でしょうか? また、現在、国により馬車、帆船、水車を使っている場所もある。複葉機だって農業に使われている。

 先日、知り合いがこんな話をしていたのを思い出しました。1960年代のはじめ、高度成長期に入るころ、東京の深川ではまだ馬車が使われていたそうです。もちろん大通りは車と都電が走っていましたが、廃品などを運ぶ馬車も見かけた。都心に近いところで馬車ってイメージしずらい。

 同じころ世田谷の住宅地ではふつうに共同井戸が使われていた。手押しのポンプで水を組み上げる井戸、飲み水、炊事、洗濯など井戸水で暮らしていた。水道の家もあったけど、井戸の家もあった、そんな感じ。少し前まで馬車や井戸が併用されていたのですが、そういう記憶、まるでなかったように消え去っている。

 現代の都会生活をしていると、そういう現実感とは全く断絶してるので、想像力も及ばない。クムランの洞窟に石器があったのを奇異に感じたのも、頭の中だけで年数の数字を比べて、辻褄が合わないなんて考えてたからでした。

 

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