天の声/池波正太郎の映画論とマズローの自己超越

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 12月の快晴の朝、駒沢給水塔の近くを歩いていたときのこと。

 このあたりは高台の閑静な住宅街で夜遅くなると人通りは少ない。深夜、道路の反対方向からやってくるタヌキと鉢合わせすることがある。真正面から見るタヌキの顔は、一見、犬のポメラニアン、たてがみがあるような丸っこい輪郭をしている。

 タヌキって、かなり近ずかないと人に気づかないんですね。こっちは先に気づいて、このままタヌキとすれ違いになるのかな、と思いながらまっすぐ歩いていくと、やっと気づき、一瞬、間を置いてからくるりと向きを変えて、トントントンと去っていく。

 ネコやハクビシンのような敏捷さがない、むしろ鷹揚な動きなのがなんともおかしい。

 

 ・・・そうでした、朝、歩いていたときの話しです。庭にザボンの木を植えている家がある。二階の屋根ぐらいに成長している木でした。鮮やかな緑色で肉厚の葉、大きな黄色い実が枝からいくつも垂れ下がっている。

 それにしても、並外れて大きな実だ。 ハンドボールよりも大きく、バレーボールぐらいあるんじゃないか。真っ青な冬空と黄色い風船のような実のコントラスト・・・シュールな光景だなーと、足をとめて眺めていた。

 ちょうどそのときでした。唐突に、天から「バカー」と声が聞こえてきた。はっきり大きな声で「バカー」と一喝。 えっ、自分のこと? 

 周りを見上げるとヒマラヤ杉の高い枝にカラスがいた。このカラス、うまく鳴けないようで、カーと鳴こうとして、最初にくぐもった「ば」の音が出てしまい「バカー」と鳴いている。まったくふざけたカラスだ。

 う~ん、でも、これが天の声ってことなのか。

 

 池波正太郎の『映画を見ると得をする』にこんな一節がありました。1980年に発行された本で、文庫化されている。氏の映画と料理、とくに江戸時代の食について書いているエッセイは、寝る前、寝床で読むのにいい。すぐに眠ってしまうので数ページも進みませんが。

 以下、引用です。

 

 映画を観るということは「いくつもの人生を見る」ということだ。

 映画は何のために観るかというと、定義は別にないんだよ。山は何のために登るのかということと同じでね。

 なぜ映画を観たり、小説を読んだり、芝居を観たりするかというと、理屈では説明できないけれども、強いていえば、

(人間というのは、一人について人生は一つしかないから・・・)

ということでしょうね。

 だれしも一つの人生しか経験できないわけだ。・・・(略)

 ・・・人間というのは、自分の人生だけしか知らない。一つの人生しか知らないというのでは、やはり、さびしいわけだよ。だから、小説を読み、芝居や映画を観るんだよ。

 すぐれた映画とか、すぐれた文学とか、すぐれた芝居とかいうのを観るのは、つまり自分が知らない人生というものをいくつも見るということだ。もっと違った、もっと多くのさまざまな人生を知りたい・・・そういう本能的な欲求が人間にはある。

 

 この一節、妙な説得力があった。同感、そういう願望、よく分かるという感じ。

 例えば、どこかの会社に勤めていたとしても、運転手、エンジニア、自営業でも地方公務員でもなんでもいいですが、あるいは家庭環境、結婚、暮らしている地域、さらには性別、生まれた国、生まれた時代・・・人それぞれ千差万別ですが、一つの人生を生き死んでいく。

 現在の世界人口は約78億人、すべて別人。全ての人は、それぞれ一人だけ(当たり前)。

 人類が生まれてから現在まで、この世に生を受けた人間の総数は約1080億人だとか(2011年のアメリカのNPOの推計)。この1080億人もすべて別人、同じ人が二人いたなんてことはないはず。二度生まれた人は一人もいないはず。ビックバンで宇宙が始まってから、自分と同じ人間は一人もいないはず。直感的な確信だけど、たぶん正しい。イエスの復活や輪廻転生したという人についてはよく分からないのでとりあえずパス。

 池波正太郎の書いている「本能的な欲求」は、人間が生と死の間の有限の存在であること、全ての人は思春期ぐらいまでにそれを自覚することから生まれた欲求ではないか。どうあがいても有限でしかない生、分かっていても、納得していても、「やはり、さびしいわけだよ」という言葉、よく分かる。

 ・・・こんなこと書いてるからカラスに「バカー」と言われるのかも。

 その「本能的な欲求」を満たす代償行為の一つが映画を観ることなんでしょうね。もちろん、みんながみんなそれを自覚して映画を観ているとは思わないが、意識化していなくても本能的には、無意識的にはそういう作用が働いていると思う。

 

 映画の巧妙なところは、観ている人は物語に引き込まれていくうちに、過去の記憶や無意識を誘引され、自分を投影してしまうことが起きる。20世紀の初めに映画を発明した人たちは、そんな現象が起きるとは考えていなかったのではないか。

 映画監督のキューブリックは、映画を見ているときの人間は夢に近い体験をしていると言っていた。それは映画の中の物語に引き込まれ、感情移入している状態のときのことですが。

 「現実とフィクションの間には大きな開きがある。人間が映画を見ているとき、その体験は何よりも夢に近いものである。」(スタンリー・キューブリック)。 

 夢は、当然ながら覚醒時の現実とは違うけど、かといって空想、妄想ではないし、錯覚や幻覚でもない。自分の内面で起きたことなのだから、現実ではないが事実であることは確かだ。

 言葉では、なにげなく夢を「見た」と言っているが、窓の外の景色や部屋の壁、ドア、テーブルの上の皿やカップのような客観的な対象(物体)を見ているのではなく、夢は全て自分の内側の世界の認知なのですね。だから夢は、いわば鏡で自分を見ているようなもの。 

 鏡に写っている自分は、現実のありのままの自分の姿かというと、そうでもなく二次元像だし、左右が反転している。夢は意識化されていない過去や、もしかしたら「未来」をもごっちゃになって、デフォルメされた自分なのだと思う。

 自分なりに整理すると、映画に引き込まれているときの自分と、夢を見ているときの自分は、同じ何かで、ふだんは気づいていない、感じたり考えたりしている自分の奥に隠れている自分の源なのではないか。「本能的な欲求」はそこから生まれている。

 

 この「本能的な欲求」は、別の言い方をすると、アメリカの心理学者、マズローの説いている自己超越の欲求のことだと思っている。池波正太郎は自己超越なんてこと言ってないですが、結果的に意味しているのは同じだと思うわけです。

 マズローは人間のメンタルな成長パターンを定式化して、「欲求」の変化という視点から6つの階梯に分けている。肉体(体力)の成長、知能の成長とは異なるメンタル面、人間性と言ってもいいのですが、その成長パターンを考えていた。

 大雑把に言って、人間のいちばん底にある欲求は生きるための衣食住のような生理的欲求、それがクリアーできてから次の段階の欲求が生まれる。まあ、普通というかそれが自然の流れで、発想としては、衣食足りて礼節を知ると同じですね。

 衣食住が充足、満たされたとき、次に安全で安定した暮らし、さらに良好な人間関係、人から尊敬され、社会的名誉を得ることなどの欲求が生まれる。それらを4つの階梯に分類している。最後に5つ目の自己実現の欲求に至るとマズローは考えた。自己実現とは自分の資質、個性を十全に生かした人生といったところでしょうか。

 この時点で、マズローは人間のメンタルな成長の完成を自己実現にあると見ていた。

 大まかには現代の日本人も共通していると思うのですが、 20世紀の西欧市民社会をベースにしたユダヤアメリカ人、マズローの考えなので、日本人とは異なるところもあるように思える。

 日本だと否応なく地震や自然災害のことがあって、常になんとなく気にしている人は多いし、各地の原発、稼働していなくても周辺の人たちは気にしている。格差社会といわれて先行きを気にしている人も多い。こういう問題は、マルローの階梯では2つ目ぐらいのところで、なんというか切ないところです。

 

 その後、マズロー自己実現の次に6つ目の欲求として、自己超越があると付け加えた。晩年になって以前は知らなかった人間の欲求があることに気づいたわけです。アメリカ社会で成功者になってみて、そこが山の頂上だった思っていたのが、実はピークはもっと先にあることに気づいたといったところです。

 自己超越は個人の個を超えた人類の普遍的な類の領域に達するような生といった、ちょっと抽象的ですがマズローは、それを見据えていた。5つ目までの欲求は一般社会の価値観に収まっているけど、6つ目になると、心理学を超えた人間の霊性と接したような領域になる。自我(エゴ)の世界を超え、他利の心になっている。

 マズローは自分自身の内的な心の変化をそう解釈し、定式化したわけです。1960年代後半のことで、そのころのアメリカの時代状況も影響していたといわれている。

 これを人間一般のモデルにしたってことは、けっこう高望みしてるな、という印象。この考え方は、さらに後、トランスパーソナル心理学に引き継がれていく。

 池波正太郎の書いていたこと、人が一つの人生しか経験できない限界を超えたい、もっと多くの様々な人生を知りたい(=生きたい)という「本能的な欲求」はマズローの自己超越の欲求と同じことなんだなと思う。

 

 思うに、マズローの説いている6つ目の欲求は、豊かな社会に生まれた人間であることが前提条件になっている。日常生活の心配事のなくなった、満たされた境遇の人なんて、そんなにいないのではないか。ある意味、贅沢な欲求ともいえる。

 日本でトランスパーソナル心理学に惹かれる人たちが目についたのは、翻訳事情もあるのですが、ちょうど1980年代後半のバブル期のことだった。そういえば、チベット密教とバクテイ・ヨガをベースにして、その後、惨事を引き起こし解体していった教団が急成長したのも同じ時期だった。あの教義はまさに自己超越をウリにしていた。

 ・・・あのころは、私鉄沿線のどこの駅を降りてもフランス料理店が何軒もあったなーと思い出す。GDPアメリカを追い越し、21世紀は日本の世紀になると言ってる人たちもいた。日本のベルエポックの時代とでも言うんでしょうか。

 あの時代、マズローの6つ目の欲求が射程に入ってきた人が日本でもそれなりの規模で生まれていたのだと思う。その後、日本は失われた30年という時代になっていく。

 マズローは人間の6つ目の欲求を定式化した後、ほどなくして亡くなり、その母国アメリカにしても国内の経済格差が広がりトランプのような人が大統領になり、いまも社会の分裂(分解)過程が進行しているように見える。

 

 まあ、こういう話は社会状況にあてはめてあれこれ言っても、あんまり意味がないような気もする。それが人間にとって普遍的な願望(欲求)だとするなら、経済や社会の発展度とは別に、途上国であろうと先進国であろうと関係なく、気づく人、惹かれる人はいるだろうから。

 ということでは、マズローの階梯を上っていくのとはまた違う道、例えば華厳経の一即多多即一もありなのではないか。アリとキリギリスじゃなくてオセロやバックギャモン、双六みたいなノリ、苦しまぎれに捻り出して言ってるわけではないんです。

 あるいはシュタイナーが言っていたように、その方向にどれほど遠くまで歩いていけるかは、能力の問題が大きいかもしれないけれど、しかし、真摯にこれだと思ったことを貫き、他のことは成り行きにまかさればいいんじゃないか(シュタイナーは本気でそう言っていた)と、つまり能力よりは一途さだという、そういう道もあるだろうし。

 ふりだしに戻って、池波正太郎の映画を観るということは「いくつもの人生を見る」ということだという一節をそんなふうに受けとめている。

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