天の声/池波正太郎の映画論とマズローの自己超越

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 12月の快晴の朝、駒沢給水塔の近くを歩いていたときのこと。

 このあたりは高台の閑静な住宅街で夜遅くなると人通りは少ない。深夜、道路の反対方向からやってくるタヌキと鉢合わせすることがある。真正面から見るタヌキの顔は、一見、犬のポメラニアン、たてがみがあるような丸っこい輪郭をしている。

 タヌキって、かなり近ずかないと人に気づかないんですね。こっちは先に気づいて、このままタヌキとすれ違いになるのかな、と思いながらまっすぐ歩いていくと、やっと気づき、一瞬、間を置いてからくるりと向きを変えて、トントントンと去っていく。

 ネコやハクビシンのような敏捷さがない、むしろ鷹揚な動きなのがなんともおかしい。

 

 ・・・そうでした、朝、歩いていたときの話しです。庭にザボンの木を植えている家がある。二階の屋根ぐらいに成長している木でした。鮮やかな緑色で肉厚の葉、大きな黄色い実が枝からいくつも垂れ下がっている。

 それにしても、並外れて大きな実だ。 ハンドボールよりも大きく、バレーボールぐらいあるんじゃないか。真っ青な冬空と黄色い風船のような実のコントラスト・・・シュールな光景だなーと、足をとめて眺めていた。

 ちょうどそのときでした。唐突に、天から「バカー」と声が聞こえてきた。はっきり大きな声で「バカー」と一喝。 えっ、自分のこと? 

 周りを見上げるとヒマラヤ杉の高い枝にカラスがいた。このカラス、うまく鳴けないようで、カーと鳴こうとして、最初にくぐもった「ば」の音が出てしまい「バカー」と鳴いている。まったくふざけたカラスだ。

 う~ん、でも、これが天の声ってことなのか。

 

 池波正太郎の『映画を見ると得をする』にこんな一節がありました。1980年に発行された本で、文庫化されている。氏の映画と料理、とくに江戸時代の食について書いているエッセイは、寝る前、寝床で読むのにいい。すぐに眠ってしまうので数ページも進みませんが。

 以下、引用です。

 

 映画を観るということは「いくつもの人生を見る」ということだ。

 映画は何のために観るかというと、定義は別にないんだよ。山は何のために登るのかということと同じでね。

 なぜ映画を観たり、小説を読んだり、芝居を観たりするかというと、理屈では説明できないけれども、強いていえば、

(人間というのは、一人について人生は一つしかないから・・・)

ということでしょうね。

 だれしも一つの人生しか経験できないわけだ。・・・(略)

 ・・・人間というのは、自分の人生だけしか知らない。一つの人生しか知らないというのでは、やはり、さびしいわけだよ。だから、小説を読み、芝居や映画を観るんだよ。

 すぐれた映画とか、すぐれた文学とか、すぐれた芝居とかいうのを観るのは、つまり自分が知らない人生というものをいくつも見るということだ。もっと違った、もっと多くのさまざまな人生を知りたい・・・そういう本能的な欲求が人間にはある。

 

 この一節、妙な説得力があった。同感、そういう願望、よく分かるという感じ。

 例えば、どこかの会社に勤めていたとしても、運転手、エンジニア、自営業でも地方公務員でもなんでもいいですが、あるいは家庭環境、結婚、暮らしている地域、さらには性別、生まれた国、生まれた時代・・・人それぞれ千差万別ですが、一つの人生を生き死んでいく。

 現在の世界人口は約78億人、すべて別人。全ての人は、それぞれ一人だけ(当たり前)。

 人類が生まれてから現在まで、この世に生を受けた人間の総数は約1080億人だとか(2011年のアメリカのNPOの推計)。この1080億人もすべて別人、同じ人が二人いたなんてことはないはず。二度生まれた人は一人もいないはず。ビックバンで宇宙が始まってから、自分と同じ人間は一人もいないはず。直感的な確信だけど、たぶん正しい。イエスの復活や輪廻転生したという人についてはよく分からないのでとりあえずパス。

 池波正太郎の書いている「本能的な欲求」は、人間が生と死の間の有限の存在であること、全ての人は思春期ぐらいまでにそれを自覚することから生まれた欲求ではないか。どうあがいても有限でしかない生、分かっていても、納得していても、「やはり、さびしいわけだよ」という言葉、よく分かる。

 ・・・こんなこと書いてるからカラスに「バカー」と言われるのかも。

 その「本能的な欲求」を満たす代償行為の一つが映画を観ることなんでしょうね。もちろん、みんながみんなそれを自覚して映画を観ているとは思わないが、意識化していなくても本能的には、無意識的にはそういう作用が働いていると思う。

 

 映画の巧妙なところは、観ている人は物語に引き込まれていくうちに、過去の記憶や無意識を誘引され、自分を投影してしまうことが起きる。20世紀の初めに映画を発明した人たちは、そんな現象が起きるとは考えていなかったのではないか。

 映画監督のキューブリックは、映画を見ているときの人間は夢に近い体験をしていると言っていた。それは映画の中の物語に引き込まれ、感情移入している状態のときのことですが。

 「現実とフィクションの間には大きな開きがある。人間が映画を見ているとき、その体験は何よりも夢に近いものである。」(スタンリー・キューブリック)。 

 夢は、当然ながら覚醒時の現実とは違うけど、かといって空想、妄想ではないし、錯覚や幻覚でもない。自分の内面で起きたことなのだから、現実ではないが事実であることは確かだ。

 言葉では、なにげなく夢を「見た」と言っているが、窓の外の景色や部屋の壁、ドア、テーブルの上の皿やカップのような客観的な対象(物体)を見ているのではなく、夢は全て自分の内側の世界の認知なのですね。だから夢は、いわば鏡で自分を見ているようなもの。 

 鏡に写っている自分は、現実のありのままの自分の姿かというと、そうでもなく二次元像だし、左右が反転している。夢は意識化されていない過去や、もしかしたら「未来」をもごっちゃになって、デフォルメされた自分なのだと思う。

 自分なりに整理すると、映画に引き込まれているときの自分と、夢を見ているときの自分は、同じ何かで、ふだんは気づいていない、感じたり考えたりしている自分の奥に隠れている自分の源なのではないか。「本能的な欲求」はそこから生まれている。

 

 この「本能的な欲求」は、別の言い方をすると、アメリカの心理学者、マズローの説いている自己超越の欲求のことだと思っている。池波正太郎は自己超越なんてこと言ってないですが、結果的に意味しているのは同じだと思うわけです。

 マズローは人間のメンタルな成長パターンを定式化して、「欲求」の変化という視点から6つの階梯に分けている。肉体(体力)の成長、知能の成長とは異なるメンタル面、人間性と言ってもいいのですが、その成長パターンを考えていた。

 大雑把に言って、人間のいちばん底にある欲求は生きるための衣食住のような生理的欲求、それがクリアーできてから次の段階の欲求が生まれる。まあ、普通というかそれが自然の流れで、発想としては、衣食足りて礼節を知ると同じですね。

 衣食住が充足、満たされたとき、次に安全で安定した暮らし、さらに良好な人間関係、人から尊敬され、社会的名誉を得ることなどの欲求が生まれる。それらを4つの階梯に分類している。最後に5つ目の自己実現の欲求に至るとマズローは考えた。自己実現とは自分の資質、個性を十全に生かした人生といったところでしょうか。

 この時点で、マズローは人間のメンタルな成長の完成を自己実現にあると見ていた。

 大まかには現代の日本人も共通していると思うのですが、 20世紀の西欧市民社会をベースにしたユダヤアメリカ人、マズローの考えなので、日本人とは異なるところもあるように思える。

 日本だと否応なく地震や自然災害のことがあって、常になんとなく気にしている人は多いし、各地の原発、稼働していなくても周辺の人たちは気にしている。格差社会といわれて先行きを気にしている人も多い。こういう問題は、マルローの階梯では2つ目ぐらいのところで、なんというか切ないところです。

 

 その後、マズロー自己実現の次に6つ目の欲求として、自己超越があると付け加えた。晩年になって以前は知らなかった人間の欲求があることに気づいたわけです。アメリカ社会で成功者になってみて、そこが山の頂上だった思っていたのが、実はピークはもっと先にあることに気づいたといったところです。

 自己超越は個人の個を超えた人類の普遍的な類の領域に達するような生といった、ちょっと抽象的ですがマズローは、それを見据えていた。5つ目までの欲求は一般社会の価値観に収まっているけど、6つ目になると、心理学を超えた人間の霊性と接したような領域になる。自我(エゴ)の世界を超え、他利の心になっている。

 マズローは自分自身の内的な心の変化をそう解釈し、定式化したわけです。1960年代後半のことで、そのころのアメリカの時代状況も影響していたといわれている。

 これを人間一般のモデルにしたってことは、けっこう高望みしてるな、という印象。この考え方は、さらに後、トランスパーソナル心理学に引き継がれていく。

 池波正太郎の書いていたこと、人が一つの人生しか経験できない限界を超えたい、もっと多くの様々な人生を知りたい(=生きたい)という「本能的な欲求」はマズローの自己超越の欲求と同じことなんだなと思う。

 

 思うに、マズローの説いている6つ目の欲求は、豊かな社会に生まれた人間であることが前提条件になっている。日常生活の心配事のなくなった、満たされた境遇の人なんて、そんなにいないのではないか。ある意味、贅沢な欲求ともいえる。

 日本でトランスパーソナル心理学に惹かれる人たちが目についたのは、翻訳事情もあるのですが、ちょうど1980年代後半のバブル期のことだった。そういえば、チベット密教とバクテイ・ヨガをベースにして、その後、惨事を引き起こし解体していった教団が急成長したのも同じ時期だった。あの教義はまさに自己超越をウリにしていた。

 ・・・あのころは、私鉄沿線のどこの駅を降りてもフランス料理店が何軒もあったなーと思い出す。GDPアメリカを追い越し、21世紀は日本の世紀になると言ってる人たちもいた。日本のベルエポックの時代とでも言うんでしょうか。

 あの時代、マズローの6つ目の欲求が射程に入ってきた人が日本でもそれなりの規模で生まれていたのだと思う。その後、日本は失われた30年という時代になっていく。

 マズローは人間の6つ目の欲求を定式化した後、ほどなくして亡くなり、その母国アメリカにしても国内の経済格差が広がりトランプのような人が大統領になり、いまも社会の分裂(分解)過程が進行しているように見える。

 

 まあ、こういう話は社会状況にあてはめてあれこれ言っても、あんまり意味がないような気もする。それが人間にとって普遍的な願望(欲求)だとするなら、経済や社会の発展度とは別に、途上国であろうと先進国であろうと関係なく、気づく人、惹かれる人はいるだろうから。

 ということでは、マズローの階梯を上っていくのとはまた違う道、例えば華厳経の一即多多即一もありなのではないか。アリとキリギリスじゃなくてオセロやバックギャモン、双六みたいなノリ、苦しまぎれに捻り出して言ってるわけではないんです。

 あるいはシュタイナーが言っていたように、その方向にどれほど遠くまで歩いていけるかは、能力の問題が大きいかもしれないけれど、しかし、真摯にこれだと思ったことを貫き、他のことは成り行きにまかさればいいんじゃないか(シュタイナーは本気でそう言っていた)と、つまり能力よりは一途さだという、そういう道もあるだろうし。

 ふりだしに戻って、池波正太郎の映画を観るということは「いくつもの人生を見る」ということだという一節をそんなふうに受けとめている。

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イ-16戦闘機と坂口安吾と機能美

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 前回のブログ、椎の実の話しのなかで、大きくて丸っこい形の実を1930年代のソ連(ロシア)の戦闘機イ-16のようなイメージと書いた。

 上の写真は、1998年、ニュージーランドのワナカで開催された航空ショーのイ-16。なんだかオモチャの飛行機みたい。

 そういえば、坂口安吾もイ-16について、こんなことを書いてました。太平洋戦争中の文章です。

 

「 いつか、羽田飛行場へでかけて、分捕品のイ―十六型戦闘機を見たが、飛行場の左端に姿を現したかと思ううちに右端へ飛去り、呆れ果てた速力であった。

 日本の戦闘機は格闘性に重点を置き、速力を二の次にするから、速さの点では比較にならない。イ―十六は胴体が短く、ずんぐり太っていて、ドッシリした重量感があり、近代式の百米選手の体格の条件に全く良く当てはまっているのである。

 スマートな所は微塵もなく、あくまで不恰好に出来上っているが、その重量の加速度によって風を切る速力的な美しさは、スマートな旅客機などの比較にならぬものがあった。」(『日本文化私観』1942/昭和17年青空文庫に収録されています)

 

 そのとき安吾が見たのはノモンハン事件(1939年)のときに捕獲されたイ-16だと思われる。イ-16が開発されたのは、まだ複葉機の全盛期だった。そのころは世界最高速度を記録し、また、世界初の引き込み式の主脚を採用と画期的な戦闘機だった。

 しかし、当時、列強間では新戦闘機の開発競争が激しく、あっという間にプロベラ機の限界まで達してしまい、ジェット機の時代に入っていく。イ-16も安吾が見たころには、すでに時代遅れの戦闘機であった。

 ・・・ふと、こんな勘ぐりが生まれた。同じ年、三木清は『戦時認識の基調』で敵(アメリカ)の飛行機の機能を考えると日本が空襲されることもありうると書き、軍部から憎まれ文筆活動が出来なくなっている。まだミッドウェー海戦の前で、緒戦の優位にイケイケだった頃のこと。

 言論の自由がない中で、安吾のイ-16を持ち上げた説明はいわば当て馬で、本当はアメリカの新鋭戦闘機のことを示唆していたのかも。

 

 とはいえ、目の前を重量感のある金属の塊が凄いスピードで飛び去っていく迫力に安吾が圧倒されたのは伝わってくる。

 ・・・海外からの観光客が駅のホームから全速力で通りすぎる新幹線を見てAmazing!と歓声をあげている動画、Youtubeにあリますが、あんな感じでしょうか。

 安吾はそれを美しいと言っている。機械(=飛行機)の性能の進歩に美を見る、別の言い方をすると機能美、それを賛美する言葉が続く。

 同じ本の中で、機能美の実例として自分の目にした小菅刑務所(1929年竣工)とドライアイス工場と軍艦(停泊中の駆逐艦)の三つをあげている。

 

 「この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。」(同書)

 

 安吾の言っていることは、モダニズム建築と同じ考え方だなと思う。

 モダニズム建築の場合は、過去のゴシック建築アールヌーボーの美に対して、安吾の場合は、当時、法隆寺平等院を賛美する国粋主義的な美に対して、共に新しい美を提唱した。それは既成の美、旧来の伝統や権威に対するアバンギャルドであった。

 つけ加えると、モダニズム建築とは無関係、むしろ対極にあるようにみえる柳宗悦らの民藝も根源的には、同じ根っ子から生まれている。柳の場合は、庶民の生活で使われていた日用の陶磁器、漆器、染織り、木工品などの再発見、つまりそれまで誰も気づかなかった美を見つけるという形をとっているが、発想の根っ子は通底している。

 

 機能美の視点が斬新で画期的だったこと、それはそれでいいのですが、というか、新旧の構図としてはそうなんでしょうが、なんかハテナ? と引っかかるところがある。

 と言うのは、機能美という発想の根っ子には、20世紀の考え方、唯物論の匂いがするからです。要は、人間の精神が物質に引き寄せられている。シュタイナーだったらアーリマンの力が人間界に働いている表れと見たのではないか。

 

 ところで、現在、なんとなく美しい、とか美と言っているけど、かなり曖昧な言葉で困っている。大和言葉と漢語と明治以降の外来語の三つの意味が入り混じっていて茫洋としてるんですね。

 『枕草子』は、平安時代中期、だいたい1000年前に書かれたのですが、うつくしいという言葉は、小さくてかわいいもののことだった。小さいの意味には、サイズが小さいと年齢が幼いの両方が含まれている。

 現代でも日本のアイドルはこの線にそっていることは興味深い。

 漢字の「美」は、端折って言うと、姿形がよいもの、おいしいもののことで、そこから誰もが好んで、褒め称えるものといった広い意味を持っている。美食、美味、美酒と飲食に関わる言葉によく「美」が用いられているのは中国人のメンタリティに由来している。

 英語のBeautyから来ている「美」が現代の一般通念に近い。しかし、遡ると古代ギリシャラテン語からの意味を持っている言葉ですが、どうしたって翻訳語なので表層的な浅い意味にとどまっている。

 

 なんでそんなことに拘っているかというと、安吾がイ-16を美しいと言っているニュアンスは、美とはずれているように感じたからです。

 安吾は、勘違いしているのではないか? 機能美の形状、姿形とスピード+重量感のもたらすインパクトは別物なのではないか。安吾が感動したインパクトは、本能的なスリル感に近いものだと思えるので。

 安吾が「その重量の加速度によって風を切る速力的な美しさ」と書いているイ-16の美は、古の日本人が懐いていたカミに近い。日本のカミの属性のひとつに「カミは超人的な威力を持つ恐ろしい存在である」(『日本人の神』大野普)という特徴がある。荒振神といわれるのがそう。地震や雷はカミの顕現と見なされていた。台風の暴風雨を神風と呼んだのもそう。

 イ-16に魅せられた安吾は古の日本の感性でありながら、当時の日本を席巻していた形骸化した国粋主義の欺瞞性にうんざりする余り、自分の感動を機能美の文脈に閉じ込めてしまったのではないか。

 

「見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。」(同書)

 

 しごく健全な正論のようでありながらも、でも、こんなふうに言い切っちゃていいんだろうか? 

 例えば、芥川龍之介が命と取り換えてもつかまえたかったと書いた紫色の火花。雨の日、街頭の電線がショートしていた情景なのですが、最晩年の芥川の目にはこの上なく美しく見えた。

 その美は空虚かもしれないが、だからといって、人を打つことは決してないとは言えないのではないか。あってもなくてもどっちでもいいようなものなんて言えないのではないか。

 安吾の論旨は、明快な割り切り方はあの時代のソ連の御用哲学者のよう。禁教の教えを言い換えて伝えている韜晦のような感じ。戦時下の日本で自由を渇望していたはずなのが、その理想をスターリニズムに見出すとは・・・後から言うのは簡単ってこともあるでしょうが、前門の虎、後門の狼の間で難しい時代だったんだなと思う。

 

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椎の実を食べる

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(塔の話しで・・・昨日の夕方、京葉道路小松川橋から見た船堀タワー(115メートル)。

 西日を受け、眩く光る塔。荒川の川面に黄金色の反射像が映っている。車から見た一瞬の光景でしたが、凡百の現代アートより1000倍はいい。美麗です。

 このあたりの荒川は河口が近く、海の湾のように広く空も広い。なかなかの景観、江戸川区を水辺都市と呼んでいるのも分かります。この塔は、1999年に開業、区の公共施設(タワーホール船堀)だそうで、展望台(103メートル)は無料。今度いってみたい。)

 

 世田谷区役所の近くの公園、今朝、ツミ(雀鷹)の羽を見つけた。特徴ある鷹の羽紋、久しぶりに目にした。ツミは小型の鷹、以前、鋭い爪でキジバトを捕獲していた。あの爪、いかにも猛禽類といった感じでした。

 一昨年、春の嵐で巣がなくなってから姿が消え、気にしていた。ツミの姿、声は聞いていないが、またこの林に戻ってきたようです。

 

 いまの季節、公園に椎(シイ)の実がたくさん落ちている。ざっと数えると、林には樹齢100年を越えるシイの木が80本ほどある。毎年、この林の椎の実を食べている。誰も拾わないので無尽蔵にあるような感じ(大げさか)。

 シイは寿命の長い木で、見た目、樹齢200年ぐらいの古木も一本ある・・・谷中の玉林寺にある樹齢600年以上といわれるシイと比べて、これぐらいじゃないかという推定ですが。

 ふと、思ったのですが、この公園は江戸時代には長州藩の敷地だった。吉田松蔭の墓はここ(隣接している神社内)にあるし、シイの古木から数メートルの場所に長州閥の政治家、桂太郎の墓がある。

 樹齢からすると、松陰や高杉晋作伊藤博文といった人たちは、若木だった頃のこのシイの木を目にしていたのではないか。そんなことを夢想していると、それらの人々が生きていた時と繋がっているように感じられる。

  古木は幹の周りが3メートル、公園の他のシイよりも格段に太い。幹に大きな穴が開いている。幹の内部は朽ちて空洞化、周囲に支えの木枠が設置されている。

 人が入れるほどの空洞の中を覗くと、根元から新しい蘖(ひこばえ)が何本も生えてきて、空洞の穴から外に伸び出てている。まるでロシアのマトリョーシカ人形のような入れ子構造の木(想像しずらい)、・・・これってシュールな光景で、植物の奇観です。誰も気にしていないことですが。

 

 ついでに、木洩れ陽のランキングを考えると、シイの林の木漏れ陽がいちばんいい。季節は9月から10月がいい。

 シイは肉厚で小さな葉が密に茂っているので、光を遮るカーテンとして格段にドラマチックだからです。例えば、クロマツの林の木漏れ日は、簾(すだれ)のようで初夏にふさわしい。でも、光と影の織りなすドラマ性ではシイの林が優っている。シイの林は、晩秋になると陰の気が増してくるので足が遠のく。

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 大雑把にドングリと呼んでいる木の実の中で、アク抜きなしに食べれるのはシイとマテバシイの二つだけ。写真の小さいのがシイ、大きいのがマテバシイ。上のシイは、椎の実の中では大きな種類のものです(後述)。

 クヌギは丸い大粒だがアク抜きしないとだめだし、コナラ、ミズナラもそう。一見、美味しそうなカシの実は苦くて食べられたもんじゃない(昔はアク抜きして食べていたとか)。

 ところで、ドングリはクリ、クルミ、トチノミも含めて縄文人の主食だったといわれている。人の食もそこまで遡ると、熊やサル、鹿、イノシシ、リスたちと同じになってくる。修験道の五穀断ちは、木の実や草根を食べること、要は弥生時代以前の縄文食に戻った食生活ということだった。

 自分は、この季節、戯れに食べているだけなので経験的に言えるわけではないですが、修験道は食によって行者の体質を変えていき、それによりというか、波及効果、副作用としてメンタル面、意識を変えることを目指していたのだと思う。験力といって、一種の超能力みたいなものも身につく。

 マテバシイの実は、長くてでっかい。実の容積はクヌギに劣らない。シイという名前がついているが、椎の木とは幹も葉も、実の姿形も全然違う別物です。硬い殻を割ってそのまま食べると、柔らかい木片を食べてるような味、ちょっと味気ない。しかし、フライパンで炒ると、甘みがあってけっこういい。

 結局、身近にあって、そのまま食べれ、そしていくらでも採れるドングリということでは椎の実になる。 味もドングリの中でいちばんいい。落ちている実の殻を割って、実を食べても軟らかく、味の基本はデンプン質ながらもナッツのような味でもあり、けっこういい。僅かに油脂性の味で仄かに甘い。そういえば、福岡の太宰府天満宮のお祭りには炒った椎の実を売る露店が出てるとか。

 

 毎年、椎の実をまわりの人たちに分けてきたが、どうもはっきりした反響がない。写真、(右下)の最上等の椎の実を選んで袋に詰めていたのですが。

 たぶん、どうやって食べるのか、よく分からず、手つかずもまま終わっていたのではないかと思う。もちろん、フライパンで炒ると説明した紙片もつけていましたが、見知らぬ木の実をそこまでして食べようと思う人はそんなにいないのかも。

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 椎の実には、何種類かある。実の形、大きさから4、5種類はあるようです。ふつうによく見るのはスダジイ、(右上)の写真です。

 (左上)はツブラジイ、これは小さくて、殻の色の黒みが濃い。木の下に足の踏み場もないほど落ちている。殻の表面はつややかなので朝陽が当たり黒光りしている情景はとても美しい。他の椎の実よりずっと小さく、殻を割るのが面倒だし、食の対象からは外れる。

 (左下)の細長いのはツブラジイの変種か? この公園の椎の林は、戦前、いろいろな椎を計画的に植えて作られているようで、実の姿形に違いがある。

 

 (右下)の丸っこく大きなのが食べるのには一番いい。スダジイの変種か? 食べる上でサイズの違いは大きい。この実の重さを測ると、だいたい1,5グラムぐらい。ツブジイの方は、0.5グラムぐらいなので三倍違う。

 この丸っこく大きな椎の実は、自己イメージが膨らんで栗と同格になっている。そんなことからプレゼントとして配っていたのですが、上記のように反応はほとんどない。

 そうでした、自己イメージでは、この丸っこい形は1930年代のソ連の戦闘機イ-16、つややかな色は中津川市野峠の茶水晶といった感じです。

 最初のころは炒って食べていたが、そのまま食べた方が美味しいと思うようになってきた。それに炒って少し時間が経つと実が硬くなって按配が悪い。拾ってきた実をそのまま置いておくと、すぐに乾燥して硬くなる。粉にして、チャパティみたいにして食べる手もあるが、石のように硬いので大変。トンカチで割ってから粉にしていく。

 結局、落ちているのを拾って、そのまま殻を割って食べるのがいちばんということになった。新鮮な実、つまり落ちてから半日以内ぐらいのもの。

 新鮮かどうかは、殻の色で分かる。落ちたばかりの実は、コーヒーのロースト豆のような深い茶色。一日経つと、殻の色はキツネ色に変わってくる。先ほど書いたように淡白なナッツといった感じ。

 

 地面に落ちているものを拾い、そのまま口にしているって、文字で書いていると犬みたいで変ですが、慣れってのは、なんでもありなんですね。自分にとっては、ごく普通のことになっている。

 箸やフォークを使わず手で食べるのも、その国の文化によってはごく普通のことだし、あるいは、日本人が普通に食べている生卵が外国の人には抵抗あるってのもそう。

 犬といえば、朝食のとき、よく犬にパンを横取りされ、奪い返して食べたりしている。脚の長い犬なので後脚で立ち上がってテーブルの皿に載っているパンを舐めたり、咥えて持っていく。

 二足歩行もしている。・・・深夜、人が寝静まったころ、台所のテーブルや棚にある食べ物を探し、立ち上がり徘徊している。暗い部屋の中を二本足で歩いている犬、奇妙な光景です。

 要は、犬の躾がなってないんですが、それはさておき、犬が食べてたものを自分が食べることも、慣れになってしまっている。人間が犬に躾けられているみたいですが。

 なんでそんなに椎の実にこだわっているかというと、毎年、この季節になると、食べているうち、だんだん分かってきたからです。椎の実の味が。妙なもんです、はじめのころは意識していなかった、とるに足らないと思っていた淡白な味が、繰り返し口にしているうちに一つの味覚イメージとして形になってくるのですから。

 

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ふたつの謎の塔と戦後モダニズム建築

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(上の写真、昨日、撮ってきました。今日は冷たい雨、このところ天気がコロコロ変わっている。築57年ですか、きれいに塗装されているので秋の陽に映え、真新しく見える。)

 

謎の塔・その1

 塔の話しの続きです。「塔は、駒沢オリンピック記念塔、駒沢給水塔、浅草十二階、通天閣」と書いた。

 駒沢オリンピック記念塔は、世田谷区の駒沢公園内にある高さ50メートル、だいたい12階のビルぐらいの高さのモニュメント。現在、周辺にもっと高いタワーマンションもあってそれほどは目立たない。公園の外に出ると見えなくなる。

 まだ高いビルもなかった子供のころ遠くから見た塔は、 電気部品のポリマー絶縁体みたいな形、 まあ、焼き鳥屋の串焼きネギを垂直に立てたような謎の建築物だった。

 そうでした、昭和40年代、東京の南西部で塔のようなものといったら銭湯の煙突か消防署の火の見櫓、それに高圧送電線の鉄塔ぐらいだった。下町のお化け煙突は有名だったけど見えなかったし、東京タワーが小さく見えるポイントはあったが、あまりに遠くで関心外だった。

 

 ある日、「ねずやま」の上から町を眺めていたとき細長い変な形の物体があるのに気づいた。遠くの方で小さく、それまで気づかなかった。

 小田急線の梅ヶ丘駅の近くにある羽根木公園をそのころは「ねずやま」と呼んでいた。戦前は、東武鉄道の創業者(根津嘉一郎)の所有地だったので根津山。直裁、無粋なネーミング感覚、南青山の根津美術館もそう。

 大人たちは、戦争中「ねずやま」には高射砲の陣地があったと言っていた。まだ防空壕も残っていた・・・と友達は言ってたが見ていない。松陰神社の裏や城山城址公園にあった防空壕(赤土の崖に掘られたトンネル)ならよく知っている遊び場だった。洞窟探検のノリです。

 

 「ねずやま」はすでに公園でしたが、現在のように整備されておらず、赤土の禿山と原っぱが残っていた。大きなトノサマバッタ、細長いショウリョウバッタ、虹色のトカゲがたくさん、それにモグラもいた。

 いま図書館や梅林のある斜面は、風の強い日は砂埃が舞い上がって髪の毛や服の中がざらざらになった。雪の日は、塩ビの波形のスレートを見つけてきてはソリにして滑った。

 あの日以来、変な形の物体が気になって、一体なんなのか、場所を探して正体を自分の目で確かめることが最大の関心事になった。

 だいたいの方向から見当をつけて探すうちにたどり着く・・・・1964年のオリンピックのとき建てられた駒沢公園の塔だった。「ねずやま」から遠いといっても3キロぐらいか。

 

 近くで見る塔は、思っていたよりも影の薄い、とり付く島もない感じだった。ちょっと期待外れ。青空の似合う颯爽とした姿。いわば優等生的存在なわけです。拒否されている感じはしないけど、かと言って親近感が生まれるわけでもない。「ねずやま」から見ていたときの方がワクワク感があった。

 塔の建っている広場からして日本じゃないような、なんとなくヨーロッパっぽく、でもどこだか分からない無国籍ふうのだだっ広く整然とした空間。広場は、凹凸のないのっぺらぼうみたいな空間なので空が広く見えた。広場の真ん中に立っていると、微妙な空気の流れ、繊細な風を感じる。

 それまで東京といえば、ごちゃごちゃ、ちまちました姿しか知らなかった自分には、なんか場違いな雰囲気。そんな広場の臍(へそ)・・・じゃないですね、人体に見立てると頭頂にあたる位置にある人工池の真ん中にすくっと塔が立っていた。

 建築のことは素人なので、専門家のように塔の部分、部分を分析的に書くのではなく全体像について書きます。いわば全体を統合した直観の眼、それなら書ける。

 

 白いコンクリート打ちっぱなしの塔で、井桁を積み重ねたような単調で直線だけの構造。無機質で健康的で明朗な存在、それが第一印象。何度も見ているうちに、意識の中に織り込まれ、ただそこにあるだけの存在になり、気にならなくなった。

 塔からは威圧感や荘厳さ、豪華さ、スケール感に驚くとか、歴史や伝統みたいなものは感じなかった。感想を書こうとしても、「~である」、「~だ」と断定する言葉が出てこない。ただ「~ではなかった」、「~でもなかった」と、違うという言葉でしか言い表せない。思うに、これが本当に新しいものと出逢ったということなのかも。

 もし人類が知的な地球外生命体と遭遇したとしたら、たぶん同じようなことになるのではないか。文字を使うようになってから3000年ぐらい蓄積してきた全ての知識を動員して考察しても、それとは違うというしかないのだから。

 よく五重塔を模したようにも見えるところに日本らしさがこめられているといわれている。そこに関してはどうかな~という感じ。素材が木ではなくてコンクリートなので、しいて言えば百済の石塔っぽいか(五重塔百済の石塔も、元をたどるとインドのストウパー(仏教の塚)から派生している)。横浜、川崎の地元言葉に「ホントかさー?」ってのがあるのですが、こんなときに使っている。

 今年のオリンピックの新国立競技場は、木を使っているから日本らしさを取り入れているって言ってるのを聞いたときも「ホントかさー?」と思った。なんか安直というか。でも、頭ごなしに否定するのも躊躇われるし、目に見える形にしなきゃいけない建築家の仕事としては、頑張ったってことでしょうか。

 意識的に装飾的な要素を排していることもあり面白味はあまりない。でも、真面目で実直なのは伝わってくる。そして権威的ではないフラットな感じ。庶民的ではないにしても市民的なんですね。

 

 こういうのを戦後モダニズム建築って呼ぶらしい。モダニズム建築については、戦前、ヨーロッパで生まれた過去の伝統建築とは断絶した、合理性、機能性を追求した建築といわれている。頭に「戦後」がついているのはアメリカナイズされたといった意味が加わっているってことか、詳しいことは知らない。

 塔を作ったのは戦後、アメリカに留学して学んできた芦原義信という建築家。正統的なモダニズム建築の作風らしい。

 なるほどね、この塔は、戦後民主主義を目に見える形で具現化したものなんだ。オリンピック、高速道路、新幹線などと同時に現れたその時代のシンボルなんですね。

 調べると塔も近くに建っている体育館も、周りの広場も、つまり空間全体が芦原氏の「作品」なんですね。かなり気張って構想されたのが感じられる。ご本人にとって一世一代の自己表現といった意気込みだったのではないか。

 あの時代、気張った人がいて、もちろん有能ではあるのですが、自分の好きにやっていた。それが許される、誰もがそういうもんだと思っていた時代だった。

 オリンピックの公式記録映画の監督だった市川崑という人、出来あがった映画は、客観的な記録性よりは自分の世界(個性)を押し出した妙な作品になっていた。市川崑氏と波長の合っている人には名作、そうじゃない人にとってはよく解らない映画だった。

 建築家と映画監督は似ているなと思う。多くの人たち、スタッフ、関係者の共同事業(総合芸術)でありながらも、権限がその人に集中しているので、当人の個性がもろに出てくる。

 小学生の自分がなんか場違いな雰囲気だと感じたのは・・・「まるで御殿場の兔(うさぎ)が日本橋の真中へ抛(ほう)り出されたような心持ちであった。」(夏目漱石『倫敦塔』)、そんな感じ。

 

 唐突ですが、例えばサイケデリックスを摂取すると人間の内面、意識が変わることで外界が変わる。世界が変わったように認識される。その逆に外界を変えることによって人間の意識をそれに同調させる、内面が変わるってこともあるのではないか。マインドコントロールとまでは言えないにしても、マイルドに影響を与えるといった感じでしょうか。

 場違いな雰囲気と感じたのは、それに対して直感的に反応していたのではないか、今にしてそう思う。「それ」ってのは、要は新しい時代のことであり、芦原氏の自己表現というかマインドに泥臭い日本で育ってきた子供が戸惑っていたのだと思う。

 ・・・子供の直感を卑下してるわけでもない。というのは、塔も広場も、見方によっては戦後版の鹿鳴館建築(西洋崇拝)という言い方もできるだろうし、一方、ごちゃごちゃ、ちまちました東京も、生活の必要から生まれた姿なのだから、そこから見た視線は素直で正直なものだと思っているので。

 機能美に対し、場末美ってのもあって、どっちがいいかなんて簡単には言い切れないんじゃないか。

 

 ところで、身の回りを振り返ると、近所の世田谷区民会館、区役所(設計は前川國男。現在、解体工事中)も戦後モダニズム建築だし、公園のイベントでいつもその脇を通る代々木競技場( 設計は丹下健三)もそうだった。別に意識するでもなく、長い間、それが見慣れた日常だった。

 ああ、上にあげた建築家の方々は、欧米のモダニズム建築の丸写しではなく「日本」の建築物の特徴も融合させているんですね。苦心していたわけです。最近、日本の戦後モダニズム建築は世界的にも注目されているとか。そういう異文化を柔軟に吸収し融合させる知恵こそ日本文化の真髄ではないかと思っている。

f:id:alteredim:20211023222758p:plain 謎の塔・その2

 世田谷区役所の端っこについている謎の塔。四角い箱のような直線だけの建物にここだけ曲線の円柱。もっさりとしていて不釣り合いな感じがしていた・・・何十年も前からずっと違和感があった。蛇足って感じ。

 設計者の前川氏は、当初、展望塔を考えていたとか。それは現実化できず、一応、煙突といわれてた。実際は、用途のないままで終わった。もうすぐ建物全体が解体される。

 ということでは、この「塔」は赤瀬川源平なんかの言っていた無用で変な建築物、超芸術トマソンだったんだ・・・いまにしてそう想う。

 建設当時の区民館の端っこには築山があったが、ほどなくして撤去されたし、区民館と区役所の二階部分の広いテラスも同様、立ち入り禁止になったり(そのまま50年ぐらい立ち入り禁止で廃墟化していた)と、前川氏の理想主義を生かしきれなかった。

 区民館の築山は高いコンクリートの壁に囲まれていて外部からは見えなかったので、その存在を知っていた人は少ない。こっちは忍者みたいに壁を登って侵入、自分のフリースペースだった。他の子供は壁が高くて入ってこれない。建物の構造上、内からは見えないので大人は誰も知らない。

 そう、築山を所有してたわけではないですが、占有していたと言ったところです。

 狛江の方にいくと、住宅地の合間に小さな古墳がありますが、芝生に覆われた築山は、ちょうどその古墳ぐらいの大きさ、この「山」を独り占めにしていたのは贅沢なことでした。

 実は、前川氏の建築を身体感覚で知っている。いまの言葉でいうと、パールクール+ボルダリングを勝手にやっていたので。コンクリートの屋根、庇、外階段、出窓を飛び移ったり、這い上がったり、綱渡りみたいにして、各部分の距離感、高低差、勾配、角度、みんな身体感覚でつかんでいた。あそこまで飛び移れるか、距離の目測と自分のジャンプ力を考えて、一回勝負、失敗したら下まで転落してしまうので真剣です。

 率直に言って、出っ張りや足場になる装飾がないコンクリートのつるんとした建築なので、けっこう難易度が高い。それでも工夫してやっているうち踏破できた。その意味では、そんな遊び場を作ってくれた前川氏に感謝している。

 

 ・・・区役所の庁舎の話に戻ります。まあ、区の人口が急増しすぎて前川氏の理想主義は、絵に描いた餅みたいになってしまったんだと思う。山陰地方や四国の県よりも人口が多いのだからキャパシティとして無理があったってことか。築60年ほどであっけなく解体されるとは前川氏、思ってもみなかったのではないか。

 モダニズム建築は「過去の伝統建築とは断絶した、合理性、機能性を追求した建築」ということですが、ここであげた建築物は、20世紀中頃までの技術、鉄、コンクリート、ガラスで作られているので、いろんな新素材、AIが出てきたいま、すでにレトロ化している。現在は、近過去のレトロとしてのモダニズム建築を見ているんですね。

 You Tube京都会館(ロムシアター京都)の動画を観ていて、世田谷区民会館を見ているかのような既視感にとらわれた。行ったことがないのに、よく知っているところみたいな奇妙な感じ。

 両者は、前川國男氏が同時期に手がけた建築物なので、水平に広い庇、レンガタイル、コンクリート打ち放しから内部の間合い、部屋、柱、階段の配置、バランスなど空間の感覚が同じなんですね。

 新宿の紀伊國屋書店のビルも前川氏の設計、こちらは商業施設のコンセプトなので類似性は薄められている。物販スペースが優先するので空間設計の自由度は限定されるってことが大きい。

 

 そういえば、モダニズム建築と日本の伝統の融合に苦心した建築家の人たち、きっと夢にまでそれが出てきたんじゃないか。建築設計の夢ってどんなもんなのか?

 知り合いの半導体の技術者は、新しい回路の設計に苦心していたとき、夢に出てきたと言っていた。朝、目が覚めたとき、なんで家にいるのか一瞬、戸惑ったという。職場で研究していたはずなのに・・・実はそれが夢だったのですが。その後、彼は新技術の開発に成功した。

 ということでは、人間の思考と夢は、案外近いのではないかと思う。

 何日か前、茨城県の池で大きなワニガメが見つかり、4日かけて捕獲したというニュースがあった。そのとき作戦指揮をしていた爬虫類専門家、少し前、逃げ出した大蛇の捕獲で名をあげた人でした。

 苦心の末、ワニガメを捕まえたのですが、この人は、捕獲成功後のインタビューで、毎晩、寝ていてもワニガメが夢に出てきたと言っていた。精神的にかなりまいっていた様子。聖徳太子親鸞の見た夢の逸話を思い出す。やっぱり夢に出てくるぐらいじゃないと、ほんとうに苦心しているとは言えないんですね。

 AIの知が人間を追い越すんじゃないかとシンギュラリティの話を耳にする。一方、三人寄れば文殊の知恵ってことで、これからはSNSウィキペディアもそう、集合知の時代だっていう話もある。AIと集合知は相性がいい。

 でも人間自体、それぞれの人の能力を十分に出し切れていないのではないか。教育システムや社会システムの問題が入ってきて、現状、どうにもならない閉塞状況に陥っている。夢の話をしていて、人間の能力にはまだ伸びしろがあるのではないかと思うのですが。

 ・・・ワニガメの夢ってどんなもんだったんでしょうか? 捕獲のニュース動画を観ていて思ったんですが、ガメラによく似ている。ってことは、ガメラワニガメをモデルに創作されたってこと?

 どんどん横道に逸れていくので今回は終わりにします。

 

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風の快感

 

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(前回、塔の話しでまだ途中でした。上の写真は、かつて上野の不忍池の近くに建っていた通称「五重塔ビル」。高さ112メートル、26階建の高層ホテルで1994年から2007年までの13年間存在した。当時は変な形のビルと言われてましたが、時代を超えた独創的な建築物だったのではないかと思っている。

 設計者は一本の樹木をイメージしていたとか。クリスマスツリーの形に似てなくもない。よく池のほとりからロボット怪獣ビルガモに見たてて眺めていた。ビルガモは建設中のビルにカモフラージュされた変な巨大ロボット。手前のビルを踏み潰し、こっちに向かってくるんじゃないかと思わず身を隠す。)

 

 深夜の帰り道、住宅街の脇道に金木犀(きんもくせい)の香りが流れてきた。朝、つくつく法師の声が聞こえていたのが、夜の風はもう肌寒い。

 風は空気の流れだから潮の匂い、草いきれや水の匂い、パンを焼く匂いといろんな匂いを運んでくる。風向きにより、遠くの線路の電車の音、寺の鐘の音、飛行機、山の中で祭囃子が聴こえたり(これはタヌキの仕業か?)と、いろんな音を運んでくる。

 蒸し暑い夏の夕暮れ、急に冷んやり水気のある北風が吹いてくることがある。100キロぐらい北か、坂東太郎の夕立で吹いてきた雨風(あまかぜ)だ。

 今年、横須賀で何回か正体不明の異臭がしたと騒ぎになった。風向きにより、かなり広範囲に及んでいた。報道番組を見ていたら今まで嗅いだことのない匂いだと語る人もいる。・・・当然ながら嗅いでみたい。

 

 風と快感が結びついたのは、Aさんから聞いた話がきっかけだった。Aさんは子供のころ港の船の上で育ったとか。

 真夏は船に日除けの幌(ほろ)を張り、その中で昼寝をした。幌には水をかけ、濡らしておくそうです。ゆるい浜風が吹いていて、水をかけた幌の中は気化熱で涼しくなる。あの昼寝の気持ちよさといったら・・・聞いていて、浜風の心地よさ、ゆりかごのように波に揺られ、まどろんでいるイメージが浮かんできた。

 風はどこにでも吹いてくる。でも、そんな浜風と出逢えたこと、なんと贅沢な体験だったろうか。

 

 風が通り抜けるときの感触や温感を皮膚で感じ、息(呼吸)で感じる。風の匂い、風の音を感じる。意識していると、少しずつ感覚の扉が開いていく。もちろん、全ての風がいいなどとは思っていない。

 古来、風は季節やその地の風土と結びついたいろいろな名称で呼ばれてきた。ということで、枕草子ふうに「 風は薫風、松風、川風。どれも通り風がいい」。

 薫風、松風、川風・・・共通しているのは爽やかな快感。そしてナチュラル(あたり前か)で、ゆるやか、穏やかな心地よさ。いまさらこんなこと言うのも野暮な話ですが、こういう快感っていいなと思うようになった。

 風の快感の特徴は、基本的に受け身の快感であること。それ故、空気に意識を向け(なんか変な感じですが)ていないと、意識的に注意していないと気づかない快感だということがある。空気だから見えないし、聞こえなし、触れない。

 何度かふれているが、火球はこの上なく美しい天体現象(地表の近く)だけども、いつ現れるか分からない。観察者にとっては、受け身の現象なので見れたとしたら偶然の賜物。これまで二度しか見ていない。風の快感は、火球を見るよりはまだ機会が多いにしても、いつ、どこでと言えないところは共通している。

 

 薫風は初夏、若葉の香りを運ぶ風のこと・・・辞書の説明文にはそんなふうに書かれている。もともとは漢語で、よい香りを運んでくる風といった意味だったのが、日本でより繊細な情感(季節感)がこめられた言葉に変わっていった。若葉の香りってのは季語で、初夏の爽やかな風となる。

 薫風には自分だけのこだわりがある。東京・関東では5月、八十八夜から梅雨入り前の月末にかけて、空は雲一つない真っ青な空、湿度の低い日で、 さーっと吹き抜けていく通り風であること。 

 快晴でも気温の上がった暑い日はだめ。風が強くなると青嵐になるのでだめ。ずっと吹いている風もだめ・・・だめばかりですが、まあ、こだわりがあるわけです。

 そんな日の昼下がり、さーっと通り抜けていく爽やかな風。空気の流れが体にあたったときの初々しさ、ああこれは薫風だなと気づく。

 目に見えない、耳に聞こえない爽やかな感覚に洗われる・・・これが薫風か、そうでないかのポイント。気持ちいい風の筆頭にあげた所以です。

 ここで言ってるような薫風は、年に一、二度ほどしか出逢えない。自分にとってはまさに天恵。今年は、自分の定義の薫風は一度もなかった。

 

 毎年、5月に入ると浅草は三社祭が近づき、町の人たちはソワソワしている。地元の住人ではない自分にもお祭り気分が伝わってくる。

 五月晴れの日、菖蒲湯の湯上りだった。六区の隣道を歩いていると初音通りの藤棚から藤の花びらが風に舞ってきた。菖蒲湯に薫風、なんか出来すぎ、偶然のまぐれのような薫風だった。

 その場所は、ちょうど場外馬券売り場のビルの裏手、花やしきのBeeタワーがよく見える路上だった。Beeタワーは、吊り下げ式の観覧車(?)の鉄塔。見た目、昭和のひなびた雰囲気(1960年代中盤からの高度成長期以前の日本)を体現していて、そう、小林旭の渡り鳥シリーズとか銀座旋風児シリーズの世界、いい感じだった。

 コロナで三社祭はこの二年、取りやめになった。その前にBeeタワーは解体されていて、観音温泉も蛇骨湯も閉店、初音通りの藤棚は区画整理で縮小している。

 

 松風は、松の林を抜ける風のこと。松の爽やかな香気を含んだ風、ほんとに? 子供のころの記憶で半ばうろ覚えで書いている。都会に暮らしていると、はっきりしたことが言えない。

 近くの公園にクロマツの林がある。でも、正直、そこで松風を感じたことはない。常に手入れをしていて、枝が張り出さないように伐採し、葉が剪定されている。

 子供のころ、毎年、夏になると伊豆の海辺の家に泊まりにいっていた。と言っても、避暑とか旅行とか、そんな優雅な話しではないですが。  

 当時、隣に住んでいた一家が夜逃げして、その落ち着き先が伊豆の温泉町だったので、夏になると遊びにいっていた。呑気なもんです。片瀬白田の海の見えるミカン山の農家の離れ家。ブタも何頭か飼っていて、磯から採ってきたヒトデやウニ、カニトコブシなんでも食べるのが面白かった。

 その時代は、いまより庶民の生活は不安定だったけど、大方は深刻に考えることもなく、それがふつうだと思って生きていた。・・・社会保障は脆弱ながらも、人と人の相互扶助でなんとか支えあっていたという言い方もできる。だから一夏泊まるなんてこともあった。

 子供にとっては、夜逃げなんて大人の事情は関係ないし、東京では見たことのないクマゼミミヤマクワガタがうじゃうじゃいて、南の国に来たような気分、楽しかった。 

 

 片瀬の漁船の船着場から白田川まで海岸沿いにクロマツの林がずっと続いていた。船着場の空き地には街頭テレビが設置されていて、力道山の試合のあった夜、集落中の大人も子供も観に集まった。 裸電球がぽつんと灯されただけの暗がりに大勢の人たちが立っている。漆黒の夜空にかかった天の河と海鳴りの音を覚えている。

 そうでした、あの辺り、山の裾野はミカン畑で狭い平地は田圃だった。田圃の真ん中に掘っ建て小屋の共同温泉があって、もちろん無料で男女混浴。土用波の来るころになると、田圃を通る風は稲穂の匂いがした。

 片瀬の船着場あたりには海女のおばさんたちがいた。たしかタブノキだったか、根元に漁船の安全を願う祠があった。後年、バリ島でガジュマルの根元にある祠を見たとき、あのときの伊豆と同じだなと思ったものです。

 Googleの航空写真を見ると、現在は松林も船着場もなくなっている。

 

 あのクロマツは、江戸時代中期、海防のために植えられた松並み木だった。 けっこう太い樹齢150年以上(記憶している松の幹の太さから)のクロマツで広がった枝の日蔭が涼しかった。白田川の河口までいく一本道の地面はサラサラの砂、松の細い落ち葉に覆われていて、歩いているとクッションのよう。

 その一本道は、松林を抜けてきた涼しい海風がいつも吹いていた。風に松の葉の香りがした。広い海と広い空と松風だけの天地、茫洋とした記憶ながらも、たしかに憶えている。

 松(pine)の樹脂を香として焚くことがある。精油もある。実は、幹から流れ出て固まった樹脂の匂いも甘く芳醇でなかなかいい。蠱惑的な香りだと思う。それらの香り、いいなと思いつつも、松風ならではの生の植物の葉の香りの爽やか感は異質なよさがある。香の香りというよりは、空気の香りに近い。

 清々しいグリーンの香り、松の生葉の青臭いクセがあって、あの香りを言葉にしようと、あれこれ記憶を反芻するが、どうにもうまくいかない。

 

 ・・・ちょっと横道に逸れます。レバノン南部の丘陵地帯でレモン畑の中を歩いていたときのこと。その一角、空間全体がすっぽりレモンの花の香りに包まれていた。何百本ものレモンの木が開花すると、な、な、なんだろうびっくりするような香気。

 果実のレモンの香気と基本は同じといえば同じですが、果実とは違い生花なのでフローラルな優しさのある純で高貴な香り、よりファンタジック、うまく言葉にできない。

 そういえば、レモンの果実を3万個を展示室に敷き詰めた現代アートがあったけど、どうも不粋な感じ・・・まあ、それしか手がないのでしょうがないのか。花の香りの優美さを書いていたのでつい横槍を入れてしまった。

 う~ん、松葉にしても、レモンの花にしても、香りを言葉にできないのがもどかしい。

 松の木はアジアでもヨーロッパでもどこでも生えているけど、松風は日本だけの風ではないか、薫風もそう。

 唐突に、大上段に構えた話しになりますが、日本とは何かと突き詰めていくと、けっきょく日本とは松風のこと、薫風のことではないかと思っている。・・・別に風だけでなく、五感で感じられることといった意味です。

 歴史や文化に日本を求めていく考え方があるけども、それらは知識、情報の世界の話しで、リアリティとしては空虚。ラッキョウやタマネギの皮を剥いてくのと同じで、皮の一枚、一枚に意味を見つけようとするにしても、最後まで剥くとけっきょく何もない。

 思考や観念ではなく、なにか自分の実感とつながるものがなければ、直接体験で感じられる物事の中に感じられる日本こそほんとうの日本ではないか・・・横道に逸れました。

 

 川風は、川の上を吹き渡る風。川から吹いてくる風。子供のころの多摩川の川風は、川藻や水苔の匂いがした。二子玉川の土手沿いには釣り具屋さんが何軒もあった。夏、川で泳いでいる人もたくさんいた(いまは信じられない光景)。秋になると河原はススキの原野で、川風に揺れていた。・・・ふと思いましたが、さっきから日本、日本と書いてるけど、実は、あんまり日本のこと知らないんですね。全国どこにもその土地の川風があるはずですが、ほとんど何も知らない。

 ということで、思いつくのは、隅田川の川風。これは 平成の後半、そんなに昔のことではない。

 

 真夏の浅草、夜も蒸し暑く一晩中、気温が下がらない。風がなく、空気が淀んでいる。不快というか、不健康というか、なんとかそれに順応して息をしている。二千年代のはじめ、夜の浅草は寂れ果て死んだ街と言われていた。花やしき通りは、ガランとした廃墟感が漂っていて、昔のオールドデリーを彷彿とさせた。・・・そういうところが自分好みなので、抵抗はなかった。

 しかし東の空が明るくなってから、日が射してくるまでのごく短い間だけ、涼しい朝があった。隅田川を通り道にしてやってきた川風が淀んでいた空気を一掃した。

 空気がリフレッシュされたのが呼吸で分かる。不快が快に変わる瞬間ってあるんですね。空気が変わる、一息つくって、この感じの比喩だったのか、思いつきで書いている。

 日が昇れば、また昨日と同じようにじりじり暑くなるので、朝のほんの僅かの時間の出来事だった。風の通りがいいのか、対岸の向島の川沿いの方が爽やかに感じた。

 

 墨堤といってもコンクリートの護岸、頭上に首都高の高架がかかっている人工空間。全体的にはどうしょうもないのですが、このひと時、川面にぎりぎり近づき、水平に近い角度で水の流れだけを見ることにしていた。

 草茶色の混濁した水でとてもきれいとはいえない。近づいている分、水面下を流れるゴミなんかも見えてしまう。それでも以前よりはよくなってきたんだと思う。テムズ川もこんなこんなもんなので。

 向島側の墨堤は浅草側よりも水面に近いところまで接近できた。無理な姿勢なんですが、殺風景な護岸やビルが視界から消えて川面と空だけになる。滔々とした水の流れ、ときにより上流に遡上していくこともある。ボラがピチャリと跳ねる。

 水の流れていく様子だけは、浅草川や大川と呼んでいた時代と変わっていないんだろうな、とりとめもなく眺めていると、涼しい風がさーっと通っていった。

 

 いつの日か、この辺りは江戸時代に文人墨客が遊んだ風光明美な景観を取り戻すらしい。さすがに豊葦原瑞穂の国は無理なので、洋風にデフォルメされているでしょうが。墨田区の「隅田川水辺空間等再整備構想」にはそんな夢が描かれていて、地元の想いが込められているのを感じ、きっと実現するに違いない。

 とはいえ、それはかなり先の未来のことで、自分にとっては、これが隅田川の川風であり、清濁併せ吞んだ趣きもまた一興あって満足している。

 

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枕草子に「塔は」がないので・・・

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(駒沢給水塔。 高さ33.6メートル、ずん胴の円筒形、屋上は王冠みたい、真ん中に球の飾りが特徴。江戸川乱歩はこの塔を見て怪人二十面相のアジトをイメージしたとか。大正時代に建設され、現在は閉鎖されているので事実上、よく補修・整備されている廃墟といった感じ。敷地にタヌキが棲んでいる。)

 

 『枕草子』は「ものずくし」本でもある。「類聚章段」(るいじゅうてきしょうだん)といわれる部分がそう。難しそうな言葉ですが、同じ種類の事柄を集めて列挙しているところです。

 清少納言が見聞きした森羅万象の中からひとつずつ項目を選んで、それぞれいいな、面白いなと感じたものを挙げている。具体的には、

 「木の花は」、「池は」、「鳥は」、「虫は」、「馬は」、「猫は」、「滝は」、「橋は」、「森は」、「島は」、「寺は」、「月は」、「雲は」、「織物は」、「硯の箱は」、「筆は」、「貝は」・・・これらは一部。こんな感じで次々、いろんなものを取りあげ、木の花ならこれがいい、池ならここがいいとリストアップしている。

 読んでいると1000年前の人の感性が伝わってきて、現代の人間とあまり変わってないなと思う。

 

 一例を紹介すると「貝は うつせ貝。 蛤 いみじうちひさき梅の花貝。」といった文章。うつせ貝は貝殻のこと。ハマグリ、そしてとても小さな梅の花に似た貝(カラマツガイの類か?)がかわいくていいといった意味になる。

 現代のことですが、北欧や東欧の文具が好きな女性たちがいる。消しゴムとか鉛筆、付箋、クリップ、ものさし、ペンケース・・・デザイン、色ずかいが、よく見るエスニックとかアメリカナイズされた雑貨とは異なるユニークさが斬新。小さくてかわいいものに惹かれるのは、清少納言と同じ心根を感じる。清少納言がいまの時代にいたとしたら、ああいう文具に夢中になるはず。

 『枕草子』は、辞書やウイキペディアのように客観的に、あるいはそれにまつわる話を網羅しているのではく、個人的な好み、主観で思いつくまま綴られている。彼女の心に残った森羅万象の印象の断片を集めたエッセイ。感性的で繊細な文章は、唐詩宋詞の漢心(からごころ)とは違う世界で、これが大和心なんだなと思う。

 清少納言の趣味趣向を見ていると、平安時代にもマニアックで、オタクっぽい人がいたんだなとも思う。江戸時代の東西番付表にも同じ感性が生きているのを感じる。江戸時代、大相撲の番付から歌舞伎役者、温泉、食べ物、お祭り、植物とありとあらゆるものに番付表が出まわっていた。こうしたこだわりの心根、日本文化の伝統と言ってもいいのではないか。

 

 8月末、雨の日の夕方、車で青山通り神宮外苑を通りがかったとき、いちょう並木の入り口に張りぼての塔らしきものが立っている。よく見ると天守閣のある城でした。

 夕闇迫るなか、低い雨雲を背景にしたこの城、大映映画「大魔神」の特撮セットを連想する。後で調べたらオリンピック関連でそこに設置されていた「東京城」というアート作品らしい。

 予算とスペースが限られた中で製作されたようでサイズは小さい。なので何を作っても、あまり人目につかない・・・ということからでしょうか、妙に背高ノッポでシュールな造形。城というよりは塔に見える。

 なるほどね、目立つ、遠くからも見えるという条件を満たすためには、高い建造物になるので、必然的に塔になる。

 東洋の塔の始まりは、インドの仏骨を納めた塚(ストゥーパ)、つまり崇拝の対象で、それが仏教とともに中国、日本に伝わり、進化して建築物の塔になっていく。人々の崇拝の的であるためには目立たないと按配が悪い。だから東洋の塔は、目立つことを目的として作られた建築物だったわけです。「東京城」が塔みたいになっちゃったのも分かるような気がする。

 

 そんなこと書いてるうちに、これまで見た塔のことを思い出した。枕草子には「塔は」という項目はない。そのころ既に法隆寺醍醐寺五重塔はあったのですが。当時のハイテク高層建造物、ランドマークタワーだったはずで、彼女が知らないわけがない。取り上げることに差し障りがあったのでしょうか。

 それじゃあということで、戯れに塔について選んでみた。東京三大タワー(?)といわれるスカイツリー、東京タワー、船堀タワー(スカイタワー西東京?)は漏れている。一方、浅草十二階と大阪の通天閣は入っている。

 当然といえば当然、客観的に書いてるのではなく主観だけで書いているのだから。浅草の十二階は見たことがある(地下の基底部だけど)。その一部のレンガをもらってきた。また、選んだ塔の中で、上ったことのあるのは、通天閣だけです。

 

 ああ、そういえば1980年代後半、バブルのころに全国各地に作られた巨大大仏、あれも塔といえば塔なんですね。茨城県牛久市の大仏は高さ120メートルで展望台は85メートル。仙台の仙台大観音が100メートル、淡路の世界平和大観音像も100メートル、バブルで儲けた人たちが作った。宗教法人化すると税金がかからない。

 頭が硬くて先入観から塔だとは思ってなかったので漏れてました。牛久大仏は入れてもいいかも。今度、行ってみたい。

 ついでに・・・江戸六塔で現存している池上本門寺五重塔と千葉県市川市法華経寺五重塔はなかなかいい。江戸時代は武家が支配していた社会なので塔の造りは質素。奈良、京都にある古刹の五重塔に比べると、言い方次第で清貧とも貧相ともどちらにでもいえるのですが。

 ともに建築物として見るだけにとどまらず立地、つまり小山の頂き、そして里山の盆地にひっそりと建っているところ、名所旧跡や観光地にはない佇まいがいいんです。もし、この二つの塔を見にいくのなら、季節はいつでもいいですが、時間帯は、明け方か夕方がいい。昼間の塔とは別の異貌が見えてきます。

 

 塔を選ぼうとするとき、知名度、高さ、美しさ、古さ、珍しさとか、いろんな選択基準があるでしょうが、全く個人的な、記憶に残っている印象のインパクトから選ぶとこうなった。

 

「塔は、駒沢オリンピック記念塔、駒沢給水塔、浅草十二階、通天閣

 

 頭に「駒沢」がつく塔が二つ入っているのは、単に近くにあるからというだけのこと。ほんとうのことを言ってしまうと、近くにあるから否応なく目に入る。だから選んだという、なんともいいかげんというか、個人的、主観的なノリで決めました。

 

それぞれの塔についての説明は次回に続くということで。

 

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乳香、グリーンホジャリの若木

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 乳香(フランキンセンス)の若木。新しい葉が次々と出てきた。

 先月のはじめ、梅雨の長雨で枝葉がみんな落ちてしまった。細長い棒みたいな茎のまま一ヶ月がすぎ、日本の気候では無理だったのかなと諦めかけていた。 

 8月になり盛夏が戻ってくると、茎の先に小さな芽が表れ、一週間ほどで葉のついた枝が四本広がった。 見た目、山椒の枝葉に似ている。以前よりも葉のサイズが大きく、緑も濃くなっている。元気が戻ってきた。

 

 乳香の中でもグリンーホジャリの産地として知られるオマーンの山岳地帯で拾ってきた種から育てた木です。 土漠に生えている乳香木の周りに小さな種がたくさん落ちている。 

 気候の異なる日本では発芽しても成長しないことが多く、約100粒の種から若木になったのは3本でした。発芽してから今年で7年目になる。

 ・・・と、書いていますが、この経緯はAさんから聞いた話しです。昨年、Aさんに木の面倒を頼まれ、ゆきがかり上、枯らすわけにもいかず、手入れの仕方、育て方を知らないまま世話をしている。

 

 生育状態を気にしながら世話をしているうちに、いつしか情が生まれ、大切な存在になっていった。 砂漠の国の木なので、日本の四季に馴染めず戸惑ってるんだろうなと思うと、植物に情が生まれるってこともあるんですね。

 毎年、晩秋になると日差し、日照時間がめっきり弱く、少なくなり、枝葉は萎んで落ちてしまう。冬は室内の日当たりのいい場所に置き、水やりしすぎないように気をつかう。

 春、葉の芽が出てきて、夏になると目に見えて葉の勢いが増す。この木にとっては、猛暑がいちばん心地いいんだろうな。ずっとこんな日々が続けば嬉しい(と思っているはず)。

 でも、今朝、棗(なつめ)の実が赤く色づきはじめ、榎(えのき)の丸くて小さな実が地面に落ちているのに気づいた。榎の実は、仄かに甘いアンコのような味。秋が近ずいている。

 木は動かないし何も言わないので、こちらが常に木の体調(?)を観察し、健康状態を察している。葉の表情から猛暑の日差しを喜んでいるんだなと、木の気持ち(?)が分かるような気がする。

 秋が近いのを知ったら、この木はがっかりするだろうな、ちょっと不憫な思い。

 人間や動物のようにすぐに反応しないが、こちら行動(鉢の位置を変えたり、水遣りをしたり)にゆっくり反応しているのは確かのようで、植物はボディランゲージで応えている。

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左はドファール地方の山の中、土漠に生えている乳香(グリーンホジャリ)の木。右はグリーンホジャリの樹脂。写真ではグリーンの発色が分かりづらいですが、肉眼だと分かります。


 乳香(フランキンセンス)の木は、カンラン科のボスウェリア・サクラという学名の灌木で、樹液を乾燥させた乳香は古来、中東、地中海周辺、北アフリカで尊ばれてきた。カトリックロシア正教の教会でも焚かれる。フランキンセンスは欧米で用いられている名称で、オマーンではアラビア語の名称、ルーバンと呼ばれている。

 本場の中東で乳香といえばオマーンと言われている。そしてオマーンで、最もグレードの高い乳香をグリーンホジャリと呼んでいる。南東部のドファール地方の山間部がその産地。

 新鮮なグリーンホジャリは、きれいなグリーン色をしている(黄色味、クリーム色がかったものある)。樹脂の塊なので、見た目は鉱物のよう。特にマスカットグリーン色のプレナイト(ぶどう石)は丸っこい形状も色もよく似ている。

 新鮮な樹脂の塊は、仄かにレモンのような爽やかな香りがする。色でいえばミントグリーンの香り。 通常、乳香は焚いて香りを引き出すもので、樹脂のままではあまり香気が分からない。

 グリーンホジャリの樹脂はそのままで、自然界の中で最も美しい香りではないかと思っている。・・・香りをどう表現するか、一瞬、言葉に詰まった。焚いた香りではないのでバルサムノート(樹脂系の香り)の重さ、粘っこさがない。

 また、例えば沈香の香りならば、言葉で表現しようとするとき、その深さ、玄妙な香りにあまたの言葉が費やされるが、グリーンホジャリの香りはライトでシンプル。そう、シンプルに美しい香りです。

 ・・・香の話しをしているのに、焚く前の素材自体の香りを賛美してるのって妙な話しですが。

 

 オマーンの国土の大部分、8割は砂漠地帯、僅かに低い山地がある。海沿いの平地は高温多湿のモンスーン気候。 

 グリーンホジャリは、海沿いから離れた乾燥した山間部に生育する木から採られる。砂漠地帯のように一年中雨の降らない土地では木は育たない。

 高温多湿の海岸部でもよい乳香が採れるのですが、グリーンホジャリはグレードがいちばん高い。 植物としての品種は同じですが、自然環境の違いで香としてのグレードの違いが生まれる。

 山間部の乾燥した自然環境が乳香木にストレスを与えることでグリーンホジャリができるわけです。ふと、木がストレスを受けて、防衛反応を起こすことで香気成分が生まれる沈香(伽羅)を思い出す。

 広い意味では自然なのだけど、その中で局所的に不自然な環境下に置かれたとき、動けない=受身の生物である植物は、ふつうに育っている同類に勝る特性を生み出す。

 

 植物は化学物質を放出して互いに匂いでコミュニケーションしているという。ひところ森林浴の効果は、木が放出しているフィトンチッドという自己防護物質によるものだといわれてました。植物は匂いで昆虫を引き寄せたり、遠ざけたりもしている。

 植物は自他の区別のない茫洋とした意識の世界に生きていると思われるので、意思表示と他者とのコミュニケーションが同じなんですね(たぶん)。タコが自分の皮膚の色を変えるのと似ている。

 人間の嗅覚では認識できない化学物質も含め匂い=香りを植物の意思表示と見なせば、グリーンホジャリや沈香の香りの特性は、植物の声ともいえる。

 日本では古来、香を聞くという言い方をしてきた。その言葉、奇しくも植物の声を聞くと解釈してみたい。グリーンホジャリは過酷な生を享受しながらもいじらしく、なんと爽やかな、美しい声ではないか。

 

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