ジョウビタキと壺中天

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 立春がすぎ雨水、少し前まで夕方5時になると暗かったのが、いまは近所の家の屋根にオレンジ色の夕日が差している。このところ花桃の蕾の膨らみが目立ってきた。とはいえ霜柱の立つ朝もあるし、北風はまだ冷たい。

 天気のいい朝、土の地面が銀色に輝いていた。泥土から浸み出た水が陽光を受けて反射している。はて? 昨夜、雨は降ってなかったが・・・近づくと、霜柱が溶け小さな水たまりになっていた。

 そうか、二十四節気の雨水って雪や氷が溶けて雨となる時期のこと、つまりこれなんだなと納得。辞書で言葉の意味を知るのと、現実に体験する、目で見ることの違いを感じている。

 都会の一角、まわりは人家、マンション、ビル、道路など全てが人工物の中で暮らしている。自然から隔離された日常ですが、その日、その日の天気、それに季節の移り変わりは自然に違いなく、ちよっとしたことの中に自然の姿を見つけている。

 

 この何日か、夕方になると庭に冬鳥のジョウビタキがくる。

 ジョウビタキは野鳥にしては人間への警戒心が薄く、近くに人がいても木の枝、地面をいったりきたりしている。単独行動の習性があり、一羽で動きまわっている。

 姿を見るのは一年ぶり、冬のいちばん寒いころ、もうすぐ春といった時期に現れる。

 スズメよりも小振りな鳥で、同じぐらいのサイズの鳥でシジュウガラ、メジロはわりとよく見かける。しかし、ジョウビタキを見るのは、今の時期だけ。その分、なにか貴重なものと出逢ったような、トクをしたような気分になっている。自然の生物なのでタダで見られる(あたり前)。

 郊外の田畑、河原、雑木林にいけば、特に珍しい鳥ではなく、見たからといってなんということもないのですが、自然が過疎なところに住んでいるので、自分にとってはプレミアム感があるわけです。

 

 これは雌鳥で胴体が灰色っぽく、雄より地味ながらも、体の真ん中の白い斑点、そして柿色にもオレンジ色にも見える尾っぽに華があり、野鳥の中ではけっこう綺麗な鳥です。

 そうでした、枯れ草、落ち葉と土、木の芽もまだの寒々とした情景だからこそ、ジョウビタキのオレンジ色がひきたっていることもある。

 藤色の法被(はっぴ)を纏った鯔背(いなせ)なシジュウガラに、鶯色の着物姿の芸妓がメジロ。とくに白梅とメジロの組合せは、けっこう極まってる。寒い朝のふくよかで艶のある香りもいい。

 ジョウビタキは、・・・紋付羽織袴の歌舞伎役者、黒と萌黄と柿色の定式幕からの連想、ちょっと苦しいか。どうも江戸情緒に流れてますが、原色で派手な熱帯・亜熱帯の鳥とは異なり、武蔵野のどちらかといえば地味っぽい中間色の鳥たちなので、自然とそっち(和の色)の方に傾いてしまう。

 

 「枕草子」には、著者の清少納言がいろんな鳥の中で、いいな、好きだなと思っている鳥の名前が列挙されている。ヒタキ(ジョウビタキの古名)の名も挙げられていた。

 小さくて可愛いもの好きの彼女の感性からして、ジョウビタキのサイズ感、小刻みに尾を振る仕草、それになにより白い斑点と尾っぽのオレンジ、蜜柑色・・・この鳥は外せなかったんだなと思う。

 清少納言の感性の綾、1000年の時を隔てていても、実物を見ていると、つながる瞬間があるように感じられる。「何も何も、小さきものは、みなうつくし」と書いた彼女の感性をもう一歩、リアルにつかめたような気がしている。

 

 それにしても、ジョウビタキは、こんな小さな、華奢な体で、中国東北部、シベリア、遠くはバイカル湖のあたりから、海を渡って北海道に、さらに本州を南下し東京の、それも自分の目の前までくるなんて、大変なことだ。

 何千キロの距離を、途中、激しい雨や強風に見舞われたであろうし、よく耐えたものだ。そして、人口1200万人の東京で、どうやってここを探しあてたのだろうか。

 狭い庭に遊ぶ小さな鳥・・・ユーラシア大陸から北の海、東北の山々を越えてきた物語を重ね合わせると、ふと、壺中天の故事を想い出す。小さな壺の中に入れる仙人がいて、壺の内部にはこの世界と別の天地があったというあの話しです。

 街中のこんな場所で自然の姿を見つけるなんて言葉倒れだろうか。でも、人間の目に映る世界は自己相似形のフラクタル構造をしていると捉えると、そういえば華厳経の一即多、多即一の世界観もそうでしたが、どんな場所にいても見方次第なのではないか。要は、好奇心の持ち方によって見えるものも違うと思っているわけです。

 

 冬鳥でもツグミなら、と言ってもひとまわり大きいぐらいで実質的には同じようなものかもしれないが、見た目、ジョウビタキはヒヨコより小さい。体の筋肉は、ほんの僅かしかないのに、ここまで飛んできて、また帰っていくなんて、奇跡的と言ってもいい。

 どうしてそんなことが出来るの? って感慨がある。ああ、これが自然ってことか。

 目の前のジョウビタキは、そんなこと自覚しているふうもなく(これも、あたり前)、柿と花桃の枝を飛び移っている。

 

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日本の山奥にライオンがいる!

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 旧約聖書のユダの獅子(ライオン)に由来する紋章。エチオピアの発掘品で土がこびり付いている。時代としては、近代に入ってから造られたもの。以前のエチオピア国旗は、中心にこのライオンが描かれていた。また、音楽のレゲエ、ラスタのシンボルでもある。

   

 常識的には荒唐無稽としか言えないような話しですが、実際に山の中でライオンを見た人がいるようなのです。それも各々遠く離れた地域で、何人もの人たちが見ている。  

 目撃談は、1970年代から90年代前半のことで、現代の出来事といってもいい。マスメデイアやネットには、ライオンの存在に関する情報は見当たらないので、これは大スクープなんじゃないか?

 

 たまたま読んでいた本、それから雑誌の中に別々のライオン目撃談があるのを見つけた。本と雑誌の内容は、互いに年代も場所も異なり、まったく関係なく同じようなものを見たというところに興味を惹かれた。

 目撃談の記事は、小さなトピックス程度の扱いだった。実害があったのではないし、写真に撮られてはいないので、そんな扱いなんでしょうね。

 

 最初は『山怪』(田中康弘、2015)という本、奇妙な体験談が載っていた。秋田の雪山でライオンを見たというのですが、 作り話にしては、あまりに非現実的なところが、逆にリアリティを感じた。そう、「不合理ゆえにわれ信ず」です。

 この本は、山の中で猟師の人たちが体験した不思議な話を集めた現代版「遠野物語」として、けっこう話題になっていた。

 秋田県北部の雪山で、マタギの猟師がウサギ狩りをしていたとき、こんな体験をしたという。 1990年代前半のことです。 本文の一部を引用します。

 

「雪も止んで結構穏やかな天気だったんだ。ウサギ狩りには最適だな。まだ勢子が動き始めるまで時間があったから、辺りを何気なく見てな、こう下の斜面の方に顔向けたら、驚いたよ。」

 Iさん(本文では苗字)が立つ位置から少し下がった雪の斜面に大きな何かが見えた。

「ちょうどなあ、ライオンみたいな感じだった。それが何かって言われると、はっきりとは分からねえどもな、感じはライオンだったな、それがこう這いつくばってこっちを見てるんだ」

 静かな雪山、明るい広葉樹の森の中でとてつもない怪物と対峙したマタギは銃を構えた。

 「いやこれは何とかせねばなんね。そう思って銃を構えたけどなあ、とても敵う相手じゃねえって」

 ライフルやスラッグ弾なら大物でも倒せるが、今銃に装填されているのはウサギ狩り用の散弾だ。とてもこれでは歯がたたない。

「もう生きた心地がしねえもんなあ。こりゃあとても駄目だと思ってゆっくり後ずさってよ、仲間の所さ走ったさ」

 この後、猟師仲間にライオンのことを話すが、全然相手にされなかった。付け加えると、Iさんは、他にも狐に惑わされた体験もあったりしてサイキックな資質の人だったと書かれている。

 

 その本を読んだ、ちょうど同じころ、古雑誌を整理していて、パラパラ、ページをめくっていたら、またライオンの記事が目に入ってきた。

 『別冊 宝石』(1973年1月号)、「日本列島を騒がせた怪獣たち」(斎藤守弘)という記事でした。そのころ日本各地でヒバゴンツチノコ、クッシーなどUMA(未確認動物)の目撃談が相次いでいた。

 1973年は、高度成長の晩期、田中角栄氏が首相で、第四次中東戦争によりオイルショックが起きている。そういえば先日、亡くなられた作家・政治家の石原慎太郎氏がネッシー探検隊の総隊長になりスコットランドネス湖に行ってたのもこの年だった。

 そんな時代風潮の中で、関西の和歌山、京都、舞鶴でライオンが次々と目撃されていた。

 1971年1月、和歌山県新和歌浦で駐在所の警察官が見たライオンはこんな感じだった。以下、引用です。

 

「あれは昼飯をとった後でしたな。腹ごなしに近くの雑木林にはいって行くと、奥のほうから耳なれない唸り声がする。いままで見たことのない大きな動物なんですわ。

 見ると、岩の上にごろり横になっていて、前足でしきりに口のまわりをこするところなどまったく猫そっくり。けれど、それにしては図体が大きい。約2メートルくらい。尻尾は長く、耳は小さかった」

 

 記事によれば、警察官が見たということから、その後、大がかりな捜査を行ったが、ライオンは見つからなかったという。

 また、 1972年5月、丹波山中で亀岡市の中学生が見たライオンはこんな感じだった。

 

「まるで巨大な猫のようだった。体に模様はなく、全身、うす茶色。とてもしなやかな身のこなしで、雌のライオンか、ピューマに似ていた」

 わずかに開けた草っ原の上を、跳ねたり転がったり、しきりにたわむれる様子。

「それは記録映画なんかで見るライオンの遊び方そっくりだった。野良犬や山猫なんかの見間違いじゃ絶対ない」

 

 引用文のライオンは、地域、年代が離れていて、互いに無関係の存在だと思われる。みんな虚言? あるいは、なにか他の動物、岩や倒木の類いを錯覚したのか? 客観的な視点で、それが何かと詮索してもどうも先に進まない。思考停止になってしまう。

 異なる視点から、これは人間の主観性の世界に棲息している幻獣ライオンなのではないかと思った。 伝説や神話に登場する、民間伝承で伝えられてきた、あるいは妖怪の一種、そんな動物をひっくるめて「幻獣」と呼ばれている。

 「いる」という言葉の解釈になるのですが、物質的な存在ではないが、「いる」ということもありえるのではないか。また、客観的に誰にも見える「いる」とは異なる人により見える人と、見えない人がいる、そんなパターンの「いる」もあるのではないか。

 じゃあ、幻獣ライオンって何なの? すぐに思い付くのは、ユングの説いている「元型」・・・人類の集合的無意識の象徴ではないか。元型と言っておけば、UFOでもなんでも、よく分からないことはみんな当てはまってしまうので、なんか安直な考えのような気がしないでもないが。

 そんな心理学的な解釈では面白くないという人には、幻獣ライオンは、この世界(三次元空間+時間)に属していない何か、異次元獣だといってもいい。同じ出来事でも、山奥で幻覚を見たというより、異次元獣と遭遇したといった方がドラマチック。

 意識の本源はこの世界に属していないんじゃないかと疑っている・・・DMTやケタミンサルビノリンAから得た直観で、科学ではまだ未解明の領域。思うに、客観世界を主観世界の観察対象として分離し捉えている現在の科学のパラダイムでは解明できないのではないか。

 ということでは、結論だけ直観的に分かっていて(と、思い込んでいて)、そこから察するに、元型も異次元獣も同じことになる。

 

 人類の始まりを仮にチンパンジーの祖先と分岐した約600万年前とすると、現在までの大部分の間、ライオンと人類は、捕食者と被食者という関係だった。人間は、一方的に食べられちゃうだけ。ライオンは、SF映画プレデターみたいな存在。

 人類が集団でなんとか対抗(反撃)できるようになったのは3~4万年前ぐらいからではないか。

 忘れてならないのは、ホラアナライオンやスミロドンのような既に絶滅した、ライオンよりも大きくパワフルなネコ科の肉食猛獣が1万年前ぐらいまでヨーロッパやアメリカにいたということだ。それらより少し小型になるがヨーロッパ南部には西暦1世紀ぐらいまでライオンがいたし、イランには19世紀までいた。

 1万年前といえば、日本では縄文時代に入っていて、そんなに大昔(?)でもない。 文字はなかったけど、すでに言葉を使っていたから文化的な伝承、つまり人から人、ある世代から次の世代への情報のコピーがなされていたはず。

 こんな猛獣たちが跋扈していたころの人類にとって、ライオン・・・ネコ科の大型猛獣は現代人には想像できない恐怖というか畏怖というか、そういう絶対的な存在だったはず。

 人類は、何千世代もの間、そんな一生を繰り返していたのだから、人類の潜在意識に情報のファイル、つまり元型として刷り込まれていないわけがない(変な論証かも。まあ、瞑想的な推測として)。

 ライオンが王権の象徴であり、スフインクスの胴体がライオンなのも、神社の狛犬も、その名残りだと思っているわけです。

 

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翡翠(ヒスイ)をなでる・・・触覚の快感

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 渋谷のハチ公前、妙にすっきりしている。海外の観光客の長い行列ができていたのが嘘のよう。ハチ公と一緒に記念写真を撮る順番待ちの列だけでなく、周りはいつも人でいっぱいだった。  

 視界が開けるとハチ公の前足が目につく・・・表面がツルツル、銅光りしている。人が手で触り、なでていったので銅の地肌がすり減り、足指の造型が分からない。一体、どれほどの人が触るとこんな状態になるのだろうか? 

 前足に手の平を当てると、大寒の冷えびえとした金属の感触、体温が奪われキューンと冷えていく。しばらく手を当てていると、体の芯まで冷えてきて、肝臓、腎臓あたりに寒気を感じる。

 

 昨年の晩秋、風の快感について書いた。「風」の「快感」? 風ならいつでも、どこでも当たり前のことだし、それを快感と言ってしまうのは大げさか。

 でも、これこそ薫風というレアーな風のことを想い出していたとき、頭の中で「風」と「快感」が結びついた。ということでは、自分にとっては発見だった。

 

 今回は、ツルツルの物体に触ったとき、その滑らかな感触の心地ちよさ。

 翡翠(ヒスイ)の原石を磨いていたときのこと。ミャンマーのヒスイは、川の礫(れき)で丸っこく、クリーミーな緑色をしていた。

 原石の白い部分(こっちの方がヒスイとしては純度の高い部分ですが)を削って、緑色の部分が広がるようにサンドペーパーで延々擦っているうちに、地肌にヌルッとした感触が生まれてきたのに気づいた。

 この手触り、アイスクリームが口の中で溶けていく感じに似ている。蕩(とろ)けるような感触。皮膚に塗ったエタノールが気化するときの感覚なんかもそうだけど、融解にしろ蒸発にしろ消滅していく皮膚感覚は快感なのではないか。 

 究極的には、肉体自体がこの世から消えていくときの感覚がそうだと思うが、話が逸れていくので戻します。

 

 ヒスイは結晶構造がチエーン状に連なっており、硬いだけでなく粘り強く、簡単には割れない。こんな特性が粘りのある密な手触りを生み出している。

 ネットリとしたキメの細かさ、 指で撫でると細やかで、つややかな感触、絹の布地を彷彿とさせる・・・何度も手にしているうちに、感触の味わいに開眼したわけです。

 なるほど、漢の時代から続く中国の玉の文化は、これなんだなとひとり納得。ああ、古来、玉はネフライト(軟玉)が主ですが、それはそれとして、石の彫物を「見る」「愛でる」だけでなく、指や肌で肉感的に感触を味わう文化ということです。

 現代中国でも和田玉を羊脂玉と讃えているように、文字通り羊の脂の質感にある。

 

 ヒスイ(ヒスイ輝石)は石英(水晶、瑪瑙)よりも比重が高い鉱物で、つまりどっしりした重量感と硬質な質感はこの石の個性でもある。また、握っているうちに掌の中で温もってくる温感も味わいのひとつだろう。

 ヒスイは小石でも比重が高いのでどっしり感があり、掌に載せた石の重みからカミの感応(つまり神意)を知ろうとした、古の石占いに想いを馳せる。

 

 これに惹かれ、身の回りに転がっているもの中からツルツルした物をテーブルに並べてみた。鉱物は当てはまる石がいろいろあるが、まずヒスイがあるので他はパス。硬いものという流れなので、例えば犬や猫の肉球とか、レザーとかビニールの類いもパス。

 シカの角(削ってツルツルにした)、ムクロジの実(羽子板の黒光りしている玉。今の季節、林に落ちている黄色い果実を割って取り出す)、カルボン球(一件、黒真珠。炭素原子が金属結合した工業用の球。ダイヤモンドより硬い)を選んだ。

 光沢の出るまで磨いたシカの角の感触は優美(ホントにそう!)、グーッと湾曲した撓(しな)りの手触りがいい。ムクロジの実は、漆器にも似た植物ならではの温和で純朴な質感。超硬度の人間を拒絶し、取りつく島もない異質感のカルボン球、これはこれで個性だなと思う。それぞれ異なるツルツル感を味わう。

 

 深夜、目を瞑って、いろんなツルツル感に耽る。ツルツル感の違い、組み合わせの変化を味わうのは面白い。でも、感触は目で見えるもの、音で聞こえるものではないから触覚の変化を共通の言葉で表すのは難しい。形や色なら言葉・文字で伝えられるのですが。なにか意味や価値があるわけでもない。ダイレクトに感覚だけの世界。

 一方、目で見る、つまり光。耳で聞く、つまり音、よりも体の一部(指)で物に触っているのだから、ずっとリアルな体験だ。

 また、硬度や比重の違いも、統合された、ひとつになった味わいどころです。とはいえ、そんなこと言っていても、現実は、見た目、テーブルの前でただボーッとしてるだけ。

 ・・・横道に逸れますが、外は冬枯れ、木々の葉が落ち空気の流れぐらいの風では物音もしない。ツルツル感に浸っていたらサラサラ小さな音が聴こえてくる。何の音? かたまって生えている葉蘭の葉が微風に揺られ擦りあっている音でした。関係ないことですが、葉蘭の大きくて、一年中青々とした葉は、刺身を盛るのにいい。

 スルーッッッッッッ→サラサラサラ→ググッ→ツルールーン(シカの角→ムクロジ→カルボン球→ヒスイの感触)と触り心地の変化を楽しむ。

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天の声/池波正太郎の映画論とマズローの自己超越

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 12月の快晴の朝、駒沢給水塔の近くを歩いていたときのこと。

 このあたりは高台の閑静な住宅街で夜遅くなると人通りは少ない。深夜、道路の反対方向からやってくるタヌキと鉢合わせすることがある。真正面から見るタヌキの顔は、一見、犬のポメラニアン、たてがみがあるような丸っこい輪郭をしている。

 タヌキって、かなり近ずかないと人に気づかないんですね。こっちは先に気づいて、このままタヌキとすれ違いになるのかな、と思いながらまっすぐ歩いていくと、やっと気づき、一瞬、間を置いてからくるりと向きを変えて、トントントンと去っていく。

 ネコやハクビシンのような敏捷さがない、むしろ鷹揚な動きなのがなんともおかしい。

 

 ・・・そうでした、朝、歩いていたときの話しです。庭にザボンの木を植えている家がある。二階の屋根ぐらいに成長している木でした。鮮やかな緑色で肉厚の葉、大きな黄色い実が枝からいくつも垂れ下がっている。

 それにしても、並外れて大きな実だ。 ハンドボールよりも大きく、バレーボールぐらいあるんじゃないか。真っ青な冬空と黄色い風船のような実のコントラスト・・・シュールな光景だなーと、足をとめて眺めていた。

 ちょうどそのときでした。唐突に、天から「バカー」と声が聞こえてきた。はっきり大きな声で「バカー」と一喝。 えっ、自分のこと? 

 周りを見上げるとヒマラヤ杉の高い枝にカラスがいた。このカラス、うまく鳴けないようで、カーと鳴こうとして、最初にくぐもった「ば」の音が出てしまい「バカー」と鳴いている。まったくふざけたカラスだ。

 う~ん、でも、これが天の声ってことなのか。

 

 池波正太郎の『映画を見ると得をする』にこんな一節がありました。1980年に発行された本で、文庫化されている。氏の映画と料理、とくに江戸時代の食について書いているエッセイは、寝る前、寝床で読むのにいい。すぐに眠ってしまうので数ページも進みませんが。

 以下、引用です。

 

 映画を観るということは「いくつもの人生を見る」ということだ。

 映画は何のために観るかというと、定義は別にないんだよ。山は何のために登るのかということと同じでね。

 なぜ映画を観たり、小説を読んだり、芝居を観たりするかというと、理屈では説明できないけれども、強いていえば、

(人間というのは、一人について人生は一つしかないから・・・)

ということでしょうね。

 だれしも一つの人生しか経験できないわけだ。・・・(略)

 ・・・人間というのは、自分の人生だけしか知らない。一つの人生しか知らないというのでは、やはり、さびしいわけだよ。だから、小説を読み、芝居や映画を観るんだよ。

 すぐれた映画とか、すぐれた文学とか、すぐれた芝居とかいうのを観るのは、つまり自分が知らない人生というものをいくつも見るということだ。もっと違った、もっと多くのさまざまな人生を知りたい・・・そういう本能的な欲求が人間にはある。

 

 この一節、妙な説得力があった。同感、そういう願望、よく分かるという感じ。

 例えば、どこかの会社に勤めていたとしても、運転手、エンジニア、自営業でも地方公務員でもなんでもいいですが、あるいは家庭環境、結婚、暮らしている地域、さらには性別、生まれた国、生まれた時代・・・人それぞれ千差万別ですが、一つの人生を生き死んでいく。

 現在の世界人口は約78億人、すべて別人。全ての人は、それぞれ一人だけ(当たり前)。

 人類が生まれてから現在まで、この世に生を受けた人間の総数は約1080億人だとか(2011年のアメリカのNPOの推計)。この1080億人もすべて別人、同じ人が二人いたなんてことはないはず。二度生まれた人は一人もいないはず。ビックバンで宇宙が始まってから、自分と同じ人間は一人もいないはず。直感的な確信だけど、たぶん正しい。イエスの復活や輪廻転生したという人についてはよく分からないのでとりあえずパス。

 池波正太郎の書いている「本能的な欲求」は、人間が生と死の間の有限の存在であること、全ての人は思春期ぐらいまでにそれを自覚することから生まれた欲求ではないか。どうあがいても有限でしかない生、分かっていても、納得していても、「やはり、さびしいわけだよ」という言葉、よく分かる。

 ・・・こんなこと書いてるからカラスに「バカー」と言われるのかも。

 その「本能的な欲求」を満たす代償行為の一つが映画を観ることなんでしょうね。もちろん、みんながみんなそれを自覚して映画を観ているとは思わないが、意識化していなくても本能的には、無意識的にはそういう作用が働いていると思う。

 

 映画の巧妙なところは、観ている人は物語に引き込まれていくうちに、過去の記憶や無意識を誘引され、自分を投影してしまうことが起きる。20世紀の初めに映画を発明した人たちは、そんな現象が起きるとは考えていなかったのではないか。

 映画監督のキューブリックは、映画を見ているときの人間は夢に近い体験をしていると言っていた。それは映画の中の物語に引き込まれ、感情移入している状態のときのことですが。

 「現実とフィクションの間には大きな開きがある。人間が映画を見ているとき、その体験は何よりも夢に近いものである。」(スタンリー・キューブリック)。 

 夢は、当然ながら覚醒時の現実とは違うけど、かといって空想、妄想ではないし、錯覚や幻覚でもない。自分の内面で起きたことなのだから、現実ではないが事実であることは確かだ。

 言葉では、なにげなく夢を「見た」と言っているが、窓の外の景色や部屋の壁、ドア、テーブルの上の皿やカップのような客観的な対象(物体)を見ているのではなく、夢は全て自分の内側の世界の認知なのですね。だから夢は、いわば鏡で自分を見ているようなもの。 

 鏡に写っている自分は、現実のありのままの自分の姿かというと、そうでもなく二次元像だし、左右が反転している。夢は意識化されていない過去や、もしかしたら「未来」をもごっちゃになって、デフォルメされた自分なのだと思う。

 自分なりに整理すると、映画に引き込まれているときの自分と、夢を見ているときの自分は、同じ何かで、ふだんは気づいていない、感じたり考えたりしている自分の奥に隠れている自分の源なのではないか。「本能的な欲求」はそこから生まれている。

 

 この「本能的な欲求」は、別の言い方をすると、アメリカの心理学者、マズローの説いている自己超越の欲求のことだと思っている。池波正太郎は自己超越なんてこと言ってないですが、結果的に意味しているのは同じだと思うわけです。

 マズローは人間のメンタルな成長パターンを定式化して、「欲求」の変化という視点から6つの階梯に分けている。肉体(体力)の成長、知能の成長とは異なるメンタル面、人間性と言ってもいいのですが、その成長パターンを考えていた。

 大雑把に言って、人間のいちばん底にある欲求は生きるための衣食住のような生理的欲求、それがクリアーできてから次の段階の欲求が生まれる。まあ、普通というかそれが自然の流れで、発想としては、衣食足りて礼節を知ると同じですね。

 衣食住が充足、満たされたとき、次に安全で安定した暮らし、さらに良好な人間関係、人から尊敬され、社会的名誉を得ることなどの欲求が生まれる。それらを4つの階梯に分類している。最後に5つ目の自己実現の欲求に至るとマズローは考えた。自己実現とは自分の資質、個性を十全に生かした人生といったところでしょうか。

 この時点で、マズローは人間のメンタルな成長の完成を自己実現にあると見ていた。

 大まかには現代の日本人も共通していると思うのですが、 20世紀の西欧市民社会をベースにしたユダヤアメリカ人、マズローの考えなので、日本人とは異なるところもあるように思える。

 日本だと否応なく地震や自然災害のことがあって、常になんとなく気にしている人は多いし、各地の原発、稼働していなくても周辺の人たちは気にしている。格差社会といわれて先行きを気にしている人も多い。こういう問題は、マルローの階梯では2つ目ぐらいのところで、なんというか切ないところです。

 

 その後、マズロー自己実現の次に6つ目の欲求として、自己超越があると付け加えた。晩年になって以前は知らなかった人間の欲求があることに気づいたわけです。アメリカ社会で成功者になってみて、そこが山の頂上だった思っていたのが、実はピークはもっと先にあることに気づいたといったところです。

 自己超越は個人の個を超えた人類の普遍的な類の領域に達するような生といった、ちょっと抽象的ですがマズローは、それを見据えていた。5つ目までの欲求は一般社会の価値観に収まっているけど、6つ目になると、心理学を超えた人間の霊性と接したような領域になる。自我(エゴ)の世界を超え、他利の心になっている。

 マズローは自分自身の内的な心の変化をそう解釈し、定式化したわけです。1960年代後半のことで、そのころのアメリカの時代状況も影響していたといわれている。

 これを人間一般のモデルにしたってことは、けっこう高望みしてるな、という印象。この考え方は、さらに後、トランスパーソナル心理学に引き継がれていく。

 池波正太郎の書いていたこと、人が一つの人生しか経験できない限界を超えたい、もっと多くの様々な人生を知りたい(=生きたい)という「本能的な欲求」はマズローの自己超越の欲求と同じことなんだなと思う。

 

 思うに、マズローの説いている6つ目の欲求は、豊かな社会に生まれた人間であることが前提条件になっている。日常生活の心配事のなくなった、満たされた境遇の人なんて、そんなにいないのではないか。ある意味、贅沢な欲求ともいえる。

 日本でトランスパーソナル心理学に惹かれる人たちが目についたのは、翻訳事情もあるのですが、ちょうど1980年代後半のバブル期のことだった。そういえば、チベット密教とバクテイ・ヨガをベースにして、その後、惨事を引き起こし解体していった教団が急成長したのも同じ時期だった。あの教義はまさに自己超越をウリにしていた。

 ・・・あのころは、私鉄沿線のどこの駅を降りてもフランス料理店が何軒もあったなーと思い出す。GDPアメリカを追い越し、21世紀は日本の世紀になると言ってる人たちもいた。日本のベルエポックの時代とでも言うんでしょうか。

 あの時代、マズローの6つ目の欲求が射程に入ってきた人が日本でもそれなりの規模で生まれていたのだと思う。その後、日本は失われた30年という時代になっていく。

 マズローは人間の6つ目の欲求を定式化した後、ほどなくして亡くなり、その母国アメリカにしても国内の経済格差が広がりトランプのような人が大統領になり、いまも社会の分裂(分解)過程が進行しているように見える。

 

 まあ、こういう話は社会状況にあてはめてあれこれ言っても、あんまり意味がないような気もする。それが人間にとって普遍的な願望(欲求)だとするなら、経済や社会の発展度とは別に、途上国であろうと先進国であろうと関係なく、気づく人、惹かれる人はいるだろうから。

 ということでは、マズローの階梯を上っていくのとはまた違う道、例えば華厳経の一即多多即一もありなのではないか。アリとキリギリスじゃなくてオセロやバックギャモン、双六みたいなノリ、苦しまぎれに捻り出して言ってるわけではないんです。

 あるいはシュタイナーが言っていたように、その方向にどれほど遠くまで歩いていけるかは、能力の問題が大きいかもしれないけれど、しかし、真摯にこれだと思ったことを貫き、他のことは成り行きにまかさればいいんじゃないか(シュタイナーは本気でそう言っていた)と、つまり能力よりは一途さだという、そういう道もあるだろうし。

 ふりだしに戻って、池波正太郎の映画を観るということは「いくつもの人生を見る」ということだという一節をそんなふうに受けとめている。

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イ-16戦闘機と坂口安吾と機能美

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 前回のブログ、椎の実の話しのなかで、大きくて丸っこい形の実を1930年代のソ連(ロシア)の戦闘機イ-16のようなイメージと書いた。

 上の写真は、1998年、ニュージーランドのワナカで開催された航空ショーのイ-16。なんだかオモチャの飛行機みたい。

 そういえば、坂口安吾もイ-16について、こんなことを書いてました。太平洋戦争中の文章です。

 

「 いつか、羽田飛行場へでかけて、分捕品のイ―十六型戦闘機を見たが、飛行場の左端に姿を現したかと思ううちに右端へ飛去り、呆れ果てた速力であった。

 日本の戦闘機は格闘性に重点を置き、速力を二の次にするから、速さの点では比較にならない。イ―十六は胴体が短く、ずんぐり太っていて、ドッシリした重量感があり、近代式の百米選手の体格の条件に全く良く当てはまっているのである。

 スマートな所は微塵もなく、あくまで不恰好に出来上っているが、その重量の加速度によって風を切る速力的な美しさは、スマートな旅客機などの比較にならぬものがあった。」(『日本文化私観』1942/昭和17年青空文庫に収録されています)

 

 そのとき安吾が見たのはノモンハン事件(1939年)のときに捕獲されたイ-16だと思われる。イ-16が開発されたのは、まだ複葉機の全盛期だった。そのころは世界最高速度を記録し、また、世界初の引き込み式の主脚を採用と画期的な戦闘機だった。

 しかし、当時、列強間では新戦闘機の開発競争が激しく、あっという間にプロベラ機の限界まで達してしまい、ジェット機の時代に入っていく。イ-16も安吾が見たころには、すでに時代遅れの戦闘機であった。

 ・・・ふと、こんな勘ぐりが生まれた。同じ年、三木清は『戦時認識の基調』で敵(アメリカ)の飛行機の機能を考えると日本が空襲されることもありうると書き、軍部から憎まれ文筆活動が出来なくなっている。まだミッドウェー海戦の前で、緒戦の優位にイケイケだった頃のこと。

 言論の自由がない中で、安吾のイ-16を持ち上げた説明はいわば当て馬で、本当はアメリカの新鋭戦闘機のことを示唆していたのかも。

 

 とはいえ、目の前を重量感のある金属の塊が凄いスピードで飛び去っていく迫力に安吾が圧倒されたのは伝わってくる。

 ・・・海外からの観光客が駅のホームから全速力で通りすぎる新幹線を見てAmazing!と歓声をあげている動画、Youtubeにあリますが、あんな感じでしょうか。

 安吾はそれを美しいと言っている。機械(=飛行機)の性能の進歩に美を見る、別の言い方をすると機能美、それを賛美する言葉が続く。

 同じ本の中で、機能美の実例として自分の目にした小菅刑務所(1929年竣工)とドライアイス工場と軍艦(停泊中の駆逐艦)の三つをあげている。

 

 「この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。」(同書)

 

 安吾の言っていることは、モダニズム建築と同じ考え方だなと思う。

 モダニズム建築の場合は、過去のゴシック建築アールヌーボーの美に対して、安吾の場合は、当時、法隆寺平等院を賛美する国粋主義的な美に対して、共に新しい美を提唱した。それは既成の美、旧来の伝統や権威に対するアバンギャルドであった。

 つけ加えると、モダニズム建築とは無関係、むしろ対極にあるようにみえる柳宗悦らの民藝も根源的には、同じ根っ子から生まれている。柳の場合は、庶民の生活で使われていた日用の陶磁器、漆器、染織り、木工品などの再発見、つまりそれまで誰も気づかなかった美を見つけるという形をとっているが、発想の根っ子は通底している。

 

 機能美の視点が斬新で画期的だったこと、それはそれでいいのですが、というか、新旧の構図としてはそうなんでしょうが、なんかハテナ? と引っかかるところがある。

 と言うのは、機能美という発想の根っ子には、20世紀の考え方、唯物論の匂いがするからです。要は、人間の精神が物質に引き寄せられている。シュタイナーだったらアーリマンの力が人間界に働いている表れと見たのではないか。

 

 ところで、現在、なんとなく美しい、とか美と言っているけど、かなり曖昧な言葉で困っている。大和言葉と漢語と明治以降の外来語の三つの意味が入り混じっていて茫洋としてるんですね。

 『枕草子』は、平安時代中期、だいたい1000年前に書かれたのですが、うつくしいという言葉は、小さくてかわいいもののことだった。小さいの意味には、サイズが小さいと年齢が幼いの両方が含まれている。

 現代でも日本のアイドルはこの線にそっていることは興味深い。

 漢字の「美」は、端折って言うと、姿形がよいもの、おいしいもののことで、そこから誰もが好んで、褒め称えるものといった広い意味を持っている。美食、美味、美酒と飲食に関わる言葉によく「美」が用いられているのは中国人のメンタリティに由来している。

 英語のBeautyから来ている「美」が現代の一般通念に近い。しかし、遡ると古代ギリシャラテン語からの意味を持っている言葉ですが、どうしたって翻訳語なので表層的な浅い意味にとどまっている。

 

 なんでそんなことに拘っているかというと、安吾がイ-16を美しいと言っているニュアンスは、美とはずれているように感じたからです。

 安吾は、勘違いしているのではないか? 機能美の形状、姿形とスピード+重量感のもたらすインパクトは別物なのではないか。安吾が感動したインパクトは、本能的なスリル感に近いものだと思えるので。

 安吾が「その重量の加速度によって風を切る速力的な美しさ」と書いているイ-16の美は、古の日本人が懐いていたカミに近い。日本のカミの属性のひとつに「カミは超人的な威力を持つ恐ろしい存在である」(『日本人の神』大野普)という特徴がある。荒振神といわれるのがそう。地震や雷はカミの顕現と見なされていた。台風の暴風雨を神風と呼んだのもそう。

 イ-16に魅せられた安吾は古の日本の感性でありながら、当時の日本を席巻していた形骸化した国粋主義の欺瞞性にうんざりする余り、自分の感動を機能美の文脈に閉じ込めてしまったのではないか。

 

「見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。」(同書)

 

 しごく健全な正論のようでありながらも、でも、こんなふうに言い切っちゃていいんだろうか? 

 例えば、芥川龍之介が命と取り換えてもつかまえたかったと書いた紫色の火花。雨の日、街頭の電線がショートしていた情景なのですが、最晩年の芥川の目にはこの上なく美しく見えた。

 その美は空虚かもしれないが、だからといって、人を打つことは決してないとは言えないのではないか。あってもなくてもどっちでもいいようなものなんて言えないのではないか。

 安吾の論旨は、明快な割り切り方はあの時代のソ連の御用哲学者のよう。禁教の教えを言い換えて伝えている韜晦のような感じ。戦時下の日本で自由を渇望していたはずなのが、その理想をスターリニズムに見出すとは・・・後から言うのは簡単ってこともあるでしょうが、前門の虎、後門の狼の間で難しい時代だったんだなと思う。

 

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椎の実を食べる

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(塔の話しで・・・昨日の夕方、京葉道路小松川橋から見た船堀タワー(115メートル)。

 西日を受け、眩く光る塔。荒川の川面に黄金色の反射像が映っている。車から見た一瞬の光景でしたが、凡百の現代アートより1000倍はいい。美麗です。

 このあたりの荒川は河口が近く、海の湾のように広く空も広い。なかなかの景観、江戸川区を水辺都市と呼んでいるのも分かります。この塔は、1999年に開業、区の公共施設(タワーホール船堀)だそうで、展望台(103メートル)は無料。今度いってみたい。)

 

 世田谷区役所の近くの公園、今朝、ツミ(雀鷹)の羽を見つけた。特徴ある鷹の羽紋、久しぶりに目にした。ツミは小型の鷹、以前、鋭い爪でキジバトを捕獲していた。あの爪、いかにも猛禽類といった感じでした。

 一昨年、春の嵐で巣がなくなってから姿が消え、気にしていた。ツミの姿、声は聞いていないが、またこの林に戻ってきたようです。

 

 いまの季節、公園に椎(シイ)の実がたくさん落ちている。ざっと数えると、林には樹齢100年を越えるシイの木が80本ほどある。毎年、この林の椎の実を食べている。誰も拾わないので無尽蔵にあるような感じ(大げさか)。

 シイは寿命の長い木で、見た目、樹齢200年ぐらいの古木も一本ある・・・谷中の玉林寺にある樹齢600年以上といわれるシイと比べて、これぐらいじゃないかという推定ですが。

 ふと、思ったのですが、この公園は江戸時代には長州藩の敷地だった。吉田松蔭の墓はここ(隣接している神社内)にあるし、シイの古木から数メートルの場所に長州閥の政治家、桂太郎の墓がある。

 樹齢からすると、松陰や高杉晋作伊藤博文といった人たちは、若木だった頃のこのシイの木を目にしていたのではないか。そんなことを夢想していると、それらの人々が生きていた時と繋がっているように感じられる。

  古木は幹の周りが3メートル、公園の他のシイよりも格段に太い。幹に大きな穴が開いている。幹の内部は朽ちて空洞化、周囲に支えの木枠が設置されている。

 人が入れるほどの空洞の中を覗くと、根元から新しい蘖(ひこばえ)が何本も生えてきて、空洞の穴から外に伸び出てている。まるでロシアのマトリョーシカ人形のような入れ子構造の木(想像しずらい)、・・・これってシュールな光景で、植物の奇観です。誰も気にしていないことですが。

 

 ついでに、木洩れ陽のランキングを考えると、シイの林の木漏れ陽がいちばんいい。季節は9月から10月がいい。

 シイは肉厚で小さな葉が密に茂っているので、光を遮るカーテンとして格段にドラマチックだからです。例えば、クロマツの林の木漏れ日は、簾(すだれ)のようで初夏にふさわしい。でも、光と影の織りなすドラマ性ではシイの林が優っている。シイの林は、晩秋になると陰の気が増してくるので足が遠のく。

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 大雑把にドングリと呼んでいる木の実の中で、アク抜きなしに食べれるのはシイとマテバシイの二つだけ。写真の小さいのがシイ、大きいのがマテバシイ。上のシイは、椎の実の中では大きな種類のものです(後述)。

 クヌギは丸い大粒だがアク抜きしないとだめだし、コナラ、ミズナラもそう。一見、美味しそうなカシの実は苦くて食べられたもんじゃない(昔はアク抜きして食べていたとか)。

 ところで、ドングリはクリ、クルミ、トチノミも含めて縄文人の主食だったといわれている。人の食もそこまで遡ると、熊やサル、鹿、イノシシ、リスたちと同じになってくる。修験道の五穀断ちは、木の実や草根を食べること、要は弥生時代以前の縄文食に戻った食生活ということだった。

 自分は、この季節、戯れに食べているだけなので経験的に言えるわけではないですが、修験道は食によって行者の体質を変えていき、それによりというか、波及効果、副作用としてメンタル面、意識を変えることを目指していたのだと思う。験力といって、一種の超能力みたいなものも身につく。

 マテバシイの実は、長くてでっかい。実の容積はクヌギに劣らない。シイという名前がついているが、椎の木とは幹も葉も、実の姿形も全然違う別物です。硬い殻を割ってそのまま食べると、柔らかい木片を食べてるような味、ちょっと味気ない。しかし、フライパンで炒ると、甘みがあってけっこういい。

 結局、身近にあって、そのまま食べれ、そしていくらでも採れるドングリということでは椎の実になる。 味もドングリの中でいちばんいい。落ちている実の殻を割って、実を食べても軟らかく、味の基本はデンプン質ながらもナッツのような味でもあり、けっこういい。僅かに油脂性の味で仄かに甘い。そういえば、福岡の太宰府天満宮のお祭りには炒った椎の実を売る露店が出てるとか。

 

 毎年、椎の実をまわりの人たちに分けてきたが、どうもはっきりした反響がない。写真、(右下)の最上等の椎の実を選んで袋に詰めていたのですが。

 たぶん、どうやって食べるのか、よく分からず、手つかずもまま終わっていたのではないかと思う。もちろん、フライパンで炒ると説明した紙片もつけていましたが、見知らぬ木の実をそこまでして食べようと思う人はそんなにいないのかも。

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 椎の実には、何種類かある。実の形、大きさから4、5種類はあるようです。ふつうによく見るのはスダジイ、(右上)の写真です。

 (左上)はツブラジイ、これは小さくて、殻の色の黒みが濃い。木の下に足の踏み場もないほど落ちている。殻の表面はつややかなので朝陽が当たり黒光りしている情景はとても美しい。他の椎の実よりずっと小さく、殻を割るのが面倒だし、食の対象からは外れる。

 (左下)の細長いのはツブラジイの変種か? この公園の椎の林は、戦前、いろいろな椎を計画的に植えて作られているようで、実の姿形に違いがある。

 

 (右下)の丸っこく大きなのが食べるのには一番いい。スダジイの変種か? 食べる上でサイズの違いは大きい。この実の重さを測ると、だいたい1,5グラムぐらい。ツブジイの方は、0.5グラムぐらいなので三倍違う。

 この丸っこく大きな椎の実は、自己イメージが膨らんで栗と同格になっている。そんなことからプレゼントとして配っていたのですが、上記のように反応はほとんどない。

 そうでした、自己イメージでは、この丸っこい形は1930年代のソ連の戦闘機イ-16、つややかな色は中津川市野峠の茶水晶といった感じです。

 最初のころは炒って食べていたが、そのまま食べた方が美味しいと思うようになってきた。それに炒って少し時間が経つと実が硬くなって按配が悪い。拾ってきた実をそのまま置いておくと、すぐに乾燥して硬くなる。粉にして、チャパティみたいにして食べる手もあるが、石のように硬いので大変。トンカチで割ってから粉にしていく。

 結局、落ちているのを拾って、そのまま殻を割って食べるのがいちばんということになった。新鮮な実、つまり落ちてから半日以内ぐらいのもの。

 新鮮かどうかは、殻の色で分かる。落ちたばかりの実は、コーヒーのロースト豆のような深い茶色。一日経つと、殻の色はキツネ色に変わってくる。先ほど書いたように淡白なナッツといった感じ。

 

 地面に落ちているものを拾い、そのまま口にしているって、文字で書いていると犬みたいで変ですが、慣れってのは、なんでもありなんですね。自分にとっては、ごく普通のことになっている。

 箸やフォークを使わず手で食べるのも、その国の文化によってはごく普通のことだし、あるいは、日本人が普通に食べている生卵が外国の人には抵抗あるってのもそう。

 犬といえば、朝食のとき、よく犬にパンを横取りされ、奪い返して食べたりしている。脚の長い犬なので後脚で立ち上がってテーブルの皿に載っているパンを舐めたり、咥えて持っていく。

 二足歩行もしている。・・・深夜、人が寝静まったころ、台所のテーブルや棚にある食べ物を探し、立ち上がり徘徊している。暗い部屋の中を二本足で歩いている犬、奇妙な光景です。

 要は、犬の躾がなってないんですが、それはさておき、犬が食べてたものを自分が食べることも、慣れになってしまっている。人間が犬に躾けられているみたいですが。

 なんでそんなに椎の実にこだわっているかというと、毎年、この季節になると、食べているうち、だんだん分かってきたからです。椎の実の味が。妙なもんです、はじめのころは意識していなかった、とるに足らないと思っていた淡白な味が、繰り返し口にしているうちに一つの味覚イメージとして形になってくるのですから。

 

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ふたつの謎の塔と戦後モダニズム建築

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(上の写真、昨日、撮ってきました。今日は冷たい雨、このところ天気がコロコロ変わっている。築57年ですか、きれいに塗装されているので秋の陽に映え、真新しく見える。)

 

謎の塔・その1

 塔の話しの続きです。「塔は、駒沢オリンピック記念塔、駒沢給水塔、浅草十二階、通天閣」と書いた。

 駒沢オリンピック記念塔は、世田谷区の駒沢公園内にある高さ50メートル、だいたい12階のビルぐらいの高さのモニュメント。現在、周辺にもっと高いタワーマンションもあってそれほどは目立たない。公園の外に出ると見えなくなる。

 まだ高いビルもなかった子供のころ遠くから見た塔は、 電気部品のポリマー絶縁体みたいな形、 まあ、焼き鳥屋の串焼きネギを垂直に立てたような謎の建築物だった。

 そうでした、昭和40年代、東京の南西部で塔のようなものといったら銭湯の煙突か消防署の火の見櫓、それに高圧送電線の鉄塔ぐらいだった。下町のお化け煙突は有名だったけど見えなかったし、東京タワーが小さく見えるポイントはあったが、あまりに遠くで関心外だった。

 

 ある日、「ねずやま」の上から町を眺めていたとき細長い変な形の物体があるのに気づいた。遠くの方で小さく、それまで気づかなかった。

 小田急線の梅ヶ丘駅の近くにある羽根木公園をそのころは「ねずやま」と呼んでいた。戦前は、東武鉄道の創業者(根津嘉一郎)の所有地だったので根津山。直裁、無粋なネーミング感覚、南青山の根津美術館もそう。

 大人たちは、戦争中「ねずやま」には高射砲の陣地があったと言っていた。まだ防空壕も残っていた・・・と友達は言ってたが見ていない。松陰神社の裏や城山城址公園にあった防空壕(赤土の崖に掘られたトンネル)ならよく知っている遊び場だった。洞窟探検のノリです。

 

 「ねずやま」はすでに公園でしたが、現在のように整備されておらず、赤土の禿山と原っぱが残っていた。大きなトノサマバッタ、細長いショウリョウバッタ、虹色のトカゲがたくさん、それにモグラもいた。

 いま図書館や梅林のある斜面は、風の強い日は砂埃が舞い上がって髪の毛や服の中がざらざらになった。雪の日は、塩ビの波形のスレートを見つけてきてはソリにして滑った。

 あの日以来、変な形の物体が気になって、一体なんなのか、場所を探して正体を自分の目で確かめることが最大の関心事になった。

 だいたいの方向から見当をつけて探すうちにたどり着く・・・・1964年のオリンピックのとき建てられた駒沢公園の塔だった。「ねずやま」から遠いといっても3キロぐらいか。

 

 近くで見る塔は、思っていたよりも影の薄い、とり付く島もない感じだった。ちょっと期待外れ。青空の似合う颯爽とした姿。いわば優等生的存在なわけです。拒否されている感じはしないけど、かと言って親近感が生まれるわけでもない。「ねずやま」から見ていたときの方がワクワク感があった。

 塔の建っている広場からして日本じゃないような、なんとなくヨーロッパっぽく、でもどこだか分からない無国籍ふうのだだっ広く整然とした空間。広場は、凹凸のないのっぺらぼうみたいな空間なので空が広く見えた。広場の真ん中に立っていると、微妙な空気の流れ、繊細な風を感じる。

 それまで東京といえば、ごちゃごちゃ、ちまちました姿しか知らなかった自分には、なんか場違いな雰囲気。そんな広場の臍(へそ)・・・じゃないですね、人体に見立てると頭頂にあたる位置にある人工池の真ん中にすくっと塔が立っていた。

 建築のことは素人なので、専門家のように塔の部分、部分を分析的に書くのではなく全体像について書きます。いわば全体を統合した直観の眼、それなら書ける。

 

 白いコンクリート打ちっぱなしの塔で、井桁を積み重ねたような単調で直線だけの構造。無機質で健康的で明朗な存在、それが第一印象。何度も見ているうちに、意識の中に織り込まれ、ただそこにあるだけの存在になり、気にならなくなった。

 塔からは威圧感や荘厳さ、豪華さ、スケール感に驚くとか、歴史や伝統みたいなものは感じなかった。感想を書こうとしても、「~である」、「~だ」と断定する言葉が出てこない。ただ「~ではなかった」、「~でもなかった」と、違うという言葉でしか言い表せない。思うに、これが本当に新しいものと出逢ったということなのかも。

 もし人類が知的な地球外生命体と遭遇したとしたら、たぶん同じようなことになるのではないか。文字を使うようになってから3000年ぐらい蓄積してきた全ての知識を動員して考察しても、それとは違うというしかないのだから。

 よく五重塔を模したようにも見えるところに日本らしさがこめられているといわれている。そこに関してはどうかな~という感じ。素材が木ではなくてコンクリートなので、しいて言えば百済の石塔っぽいか(五重塔百済の石塔も、元をたどるとインドのストウパー(仏教の塚)から派生している)。横浜、川崎の地元言葉に「ホントかさー?」ってのがあるのですが、こんなときに使っている。

 今年のオリンピックの新国立競技場は、木を使っているから日本らしさを取り入れているって言ってるのを聞いたときも「ホントかさー?」と思った。なんか安直というか。でも、頭ごなしに否定するのも躊躇われるし、目に見える形にしなきゃいけない建築家の仕事としては、頑張ったってことでしょうか。

 意識的に装飾的な要素を排していることもあり面白味はあまりない。でも、真面目で実直なのは伝わってくる。そして権威的ではないフラットな感じ。庶民的ではないにしても市民的なんですね。

 

 こういうのを戦後モダニズム建築って呼ぶらしい。モダニズム建築については、戦前、ヨーロッパで生まれた過去の伝統建築とは断絶した、合理性、機能性を追求した建築といわれている。頭に「戦後」がついているのはアメリカナイズされたといった意味が加わっているってことか、詳しいことは知らない。

 塔を作ったのは戦後、アメリカに留学して学んできた芦原義信という建築家。正統的なモダニズム建築の作風らしい。

 なるほどね、この塔は、戦後民主主義を目に見える形で具現化したものなんだ。オリンピック、高速道路、新幹線などと同時に現れたその時代のシンボルなんですね。

 調べると塔も近くに建っている体育館も、周りの広場も、つまり空間全体が芦原氏の「作品」なんですね。かなり気張って構想されたのが感じられる。ご本人にとって一世一代の自己表現といった意気込みだったのではないか。

 あの時代、気張った人がいて、もちろん有能ではあるのですが、自分の好きにやっていた。それが許される、誰もがそういうもんだと思っていた時代だった。

 オリンピックの公式記録映画の監督だった市川崑という人、出来あがった映画は、客観的な記録性よりは自分の世界(個性)を押し出した妙な作品になっていた。市川崑氏と波長の合っている人には名作、そうじゃない人にとってはよく解らない映画だった。

 建築家と映画監督は似ているなと思う。多くの人たち、スタッフ、関係者の共同事業(総合芸術)でありながらも、権限がその人に集中しているので、当人の個性がもろに出てくる。

 小学生の自分がなんか場違いな雰囲気だと感じたのは・・・「まるで御殿場の兔(うさぎ)が日本橋の真中へ抛(ほう)り出されたような心持ちであった。」(夏目漱石『倫敦塔』)、そんな感じ。

 

 唐突ですが、例えばサイケデリックスを摂取すると人間の内面、意識が変わることで外界が変わる。世界が変わったように認識される。その逆に外界を変えることによって人間の意識をそれに同調させる、内面が変わるってこともあるのではないか。マインドコントロールとまでは言えないにしても、マイルドに影響を与えるといった感じでしょうか。

 場違いな雰囲気と感じたのは、それに対して直感的に反応していたのではないか、今にしてそう思う。「それ」ってのは、要は新しい時代のことであり、芦原氏の自己表現というかマインドに泥臭い日本で育ってきた子供が戸惑っていたのだと思う。

 ・・・子供の直感を卑下してるわけでもない。というのは、塔も広場も、見方によっては戦後版の鹿鳴館建築(西洋崇拝)という言い方もできるだろうし、一方、ごちゃごちゃ、ちまちました東京も、生活の必要から生まれた姿なのだから、そこから見た視線は素直で正直なものだと思っているので。

 機能美に対し、場末美ってのもあって、どっちがいいかなんて簡単には言い切れないんじゃないか。

 

 ところで、身の回りを振り返ると、近所の世田谷区民会館、区役所(設計は前川國男。現在、解体工事中)も戦後モダニズム建築だし、公園のイベントでいつもその脇を通る代々木競技場( 設計は丹下健三)もそうだった。別に意識するでもなく、長い間、それが見慣れた日常だった。

 ああ、上にあげた建築家の方々は、欧米のモダニズム建築の丸写しではなく「日本」の建築物の特徴も融合させているんですね。苦心していたわけです。最近、日本の戦後モダニズム建築は世界的にも注目されているとか。そういう異文化を柔軟に吸収し融合させる知恵こそ日本文化の真髄ではないかと思っている。

f:id:alteredim:20211023222758p:plain 謎の塔・その2

 世田谷区役所の端っこについている謎の塔。四角い箱のような直線だけの建物にここだけ曲線の円柱。もっさりとしていて不釣り合いな感じがしていた・・・何十年も前からずっと違和感があった。蛇足って感じ。

 設計者の前川氏は、当初、展望塔を考えていたとか。それは現実化できず、一応、煙突といわれてた。実際は、用途のないままで終わった。もうすぐ建物全体が解体される。

 ということでは、この「塔」は赤瀬川源平なんかの言っていた無用で変な建築物、超芸術トマソンだったんだ・・・いまにしてそう想う。

 建設当時の区民館の端っこには築山があったが、ほどなくして撤去されたし、区民館と区役所の二階部分の広いテラスも同様、立ち入り禁止になったり(そのまま50年ぐらい立ち入り禁止で廃墟化していた)と、前川氏の理想主義を生かしきれなかった。

 区民館の築山は高いコンクリートの壁に囲まれていて外部からは見えなかったので、その存在を知っていた人は少ない。こっちは忍者みたいに壁を登って侵入、自分のフリースペースだった。他の子供は壁が高くて入ってこれない。建物の構造上、内からは見えないので大人は誰も知らない。

 そう、築山を所有してたわけではないですが、占有していたと言ったところです。

 狛江の方にいくと、住宅地の合間に小さな古墳がありますが、芝生に覆われた築山は、ちょうどその古墳ぐらいの大きさ、この「山」を独り占めにしていたのは贅沢なことでした。

 実は、前川氏の建築を身体感覚で知っている。いまの言葉でいうと、パールクール+ボルダリングを勝手にやっていたので。コンクリートの屋根、庇、外階段、出窓を飛び移ったり、這い上がったり、綱渡りみたいにして、各部分の距離感、高低差、勾配、角度、みんな身体感覚でつかんでいた。あそこまで飛び移れるか、距離の目測と自分のジャンプ力を考えて、一回勝負、失敗したら下まで転落してしまうので真剣です。

 率直に言って、出っ張りや足場になる装飾がないコンクリートのつるんとした建築なので、けっこう難易度が高い。それでも工夫してやっているうち踏破できた。その意味では、そんな遊び場を作ってくれた前川氏に感謝している。

 

 ・・・区役所の庁舎の話に戻ります。まあ、区の人口が急増しすぎて前川氏の理想主義は、絵に描いた餅みたいになってしまったんだと思う。山陰地方や四国の県よりも人口が多いのだからキャパシティとして無理があったってことか。築60年ほどであっけなく解体されるとは前川氏、思ってもみなかったのではないか。

 モダニズム建築は「過去の伝統建築とは断絶した、合理性、機能性を追求した建築」ということですが、ここであげた建築物は、20世紀中頃までの技術、鉄、コンクリート、ガラスで作られているので、いろんな新素材、AIが出てきたいま、すでにレトロ化している。現在は、近過去のレトロとしてのモダニズム建築を見ているんですね。

 You Tube京都会館(ロムシアター京都)の動画を観ていて、世田谷区民会館を見ているかのような既視感にとらわれた。行ったことがないのに、よく知っているところみたいな奇妙な感じ。

 両者は、前川國男氏が同時期に手がけた建築物なので、水平に広い庇、レンガタイル、コンクリート打ち放しから内部の間合い、部屋、柱、階段の配置、バランスなど空間の感覚が同じなんですね。

 新宿の紀伊國屋書店のビルも前川氏の設計、こちらは商業施設のコンセプトなので類似性は薄められている。物販スペースが優先するので空間設計の自由度は限定されるってことが大きい。

 

 そういえば、モダニズム建築と日本の伝統の融合に苦心した建築家の人たち、きっと夢にまでそれが出てきたんじゃないか。建築設計の夢ってどんなもんなのか?

 知り合いの半導体の技術者は、新しい回路の設計に苦心していたとき、夢に出てきたと言っていた。朝、目が覚めたとき、なんで家にいるのか一瞬、戸惑ったという。職場で研究していたはずなのに・・・実はそれが夢だったのですが。その後、彼は新技術の開発に成功した。

 ということでは、人間の思考と夢は、案外近いのではないかと思う。

 何日か前、茨城県の池で大きなワニガメが見つかり、4日かけて捕獲したというニュースがあった。そのとき作戦指揮をしていた爬虫類専門家、少し前、逃げ出した大蛇の捕獲で名をあげた人でした。

 苦心の末、ワニガメを捕まえたのですが、この人は、捕獲成功後のインタビューで、毎晩、寝ていてもワニガメが夢に出てきたと言っていた。精神的にかなりまいっていた様子。聖徳太子親鸞の見た夢の逸話を思い出す。やっぱり夢に出てくるぐらいじゃないと、ほんとうに苦心しているとは言えないんですね。

 AIの知が人間を追い越すんじゃないかとシンギュラリティの話を耳にする。一方、三人寄れば文殊の知恵ってことで、これからはSNSウィキペディアもそう、集合知の時代だっていう話もある。AIと集合知は相性がいい。

 でも人間自体、それぞれの人の能力を十分に出し切れていないのではないか。教育システムや社会システムの問題が入ってきて、現状、どうにもならない閉塞状況に陥っている。夢の話をしていて、人間の能力にはまだ伸びしろがあるのではないかと思うのですが。

 ・・・ワニガメの夢ってどんなもんだったんでしょうか? 捕獲のニュース動画を観ていて思ったんですが、ガメラによく似ている。ってことは、ガメラワニガメをモデルに創作されたってこと?

 どんどん横道に逸れていくので今回は終わりにします。

 

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